応蓮寺 伊冶地の鷲ヶ岳で戦死(興国二年・一三四一年)。 時能の子惟能は勤皇の志深く藤原藤房に随行して大義名分を唱えた。父の菩提を弔うため豊原華蔵寺に入って僧となり玉泉坊道教と号した。その後、平泉寺に行き父の遺形である守本尊と楠木正成から新田義貞、脇谷儀助を経て伝えられた鉄笛を受け取った。戦乱が収まった後、高須城址に赴き、一小庵を建て応蓮庵道教と称え、父時能及び藤原藤房公の菩提を弔っていた。 康永三年(一三四四年)伊井村の神明神社の別当職に選ばれ、高須の応蓮庵を閉じ、父の遺形を持って伊井村に移住した。 分和四年(一三五五年)伊井村字堂の森という所に一閣を建立し、高須山応蓮寺と号し、同時に畑家の墳墓とした。 その後、時が経って慶長元年(一五九六年)字堂の森より現在の字中舎に移り、寛文ニ年(一六六ニ年)東本願寺の末寺に加わり高須山応蓮寺と申請し認可を得ると共に玉泉坊道教の開基、高須山応蓮寺は、畑時能の菩提寺として今日にいたっている。 南北朝時代 皇統が、持明院統と大覚寺統にニ系に分かれて、皇位を争い、鎌倉幕府の仲介で両統が、交互に立つ定めとなっていた。 持明院統の花園天皇から皇位を継承せれた後醍醐天皇は、剛毅な性格を具えられていた天皇で院制を廃止して天皇親政の理想を貫こうと決意され、皇位の決定や朝政などに干渉する鎌倉幕府を倒す計画を再度にわたって企てたが失敗に終わり、天皇は、元弘ニ年8月、皇居を抜け出して笠置寺に入り兵を募ったが、幕府の軍勢のため、捕らえられて隠岐に流された。 畑時能は、武蔵野国に生まれ南北朝時代に南朝方の新田義貞、脇屋義助の側近として活躍した武将であった。新田義貞の死後、鷹巣城(福井市高須町)で足利の北朝方と奮戦したが敵わず鷹巣城を抜け出し平泉寺と豊原寺の中間地点にあたる北郷町伊知地(勝山市)の鷲が岳に立てこもり戦うも興国二年(1341年)一〇月二五日南朝方最後の武将として壮烈な戦死を遂げた。享年四一歳にして終始楠木正成、新田義貞、脇屋義助等と共に南朝忠臣としての生涯を終えた。 畑時能の一子惟能は、勤皇の志深く藤原藤房に随行して大義名分を唱えた。遺子の惟能は、父の菩提を弔うため豊原華蔵寺に入って僧となり玉泉坊道教と号した。その後、平泉寺に行き父の遺形である守本尊と楠木正成公から新田義貞、脇屋義助を経て授かった鉄笛を受け取った。戦乱が治まった後、鷹巣城址に赴き、一小庵を建て応蓮庵道教と称え、父時能及び藤原藤房公の菩提を弔っていた。 興国五年(1344年)伊伎村(伊井村)の神明神社の別当職に選ばれ、高須の応蓮庵を閉じ、父の遺形を持って伊伎村(伊井村)に移った。 正平十年(1355年)伊井村字堂の森という所に一閣を建立し、高須山応蓮庵と号し、同時に畑家の墳墓とした。 その後、時が経って慶長元年(1596年)東本願寺の末寺に加わり、「高須山応蓮寺」と申請し許可を得ると共に玉泉坊道教の開基、高須山応蓮寺は、畑時能の菩提寺として今日にいたっている。 畑時能と応蓮寺 畑時能は、武蔵野国に生まれ南北朝時代に南朝方の新田義貞、脇屋義助の側近として活躍した武将であった。新田義貞の死後、鷹巣城(福井市高須町)で足利の北朝方と奮戦したが敵わず鷹巣城を抜け出し平泉寺と豊原寺の中間地点にあたる北郷町伊知地(勝山市)の鷲が岳に立てこもり戦うも興国二年(1341年)一〇月二五日南朝方最後の武将として壮烈な戦死を遂げた。享年四一歳にして終始楠木正成、新田義貞、脇屋義助等と共に南朝忠臣としての生涯を終えた。畑時能の一子惟能は、勤皇の志深く藤原藤房に随行して大義名分を唱えた。遺子の惟能は、父の菩提を弔うため豊原華蔵寺に入って僧となり玉泉坊道教と号した。その後、平泉寺に行き父の遺形である守本尊と楠木正成公から新田義貞、脇屋義助を経て授かった鉄笛を受け取った。戦乱が治まった後、鷹巣城址に赴き、一小庵を建て応蓮庵道教と称え、父時能及び藤原藤房公の菩提を弔っていた。 興国五年(1344年)伊伎村(伊井村)の神明神社の別当職に選ばれ、高須の応蓮庵を閉じ、父の遺形を持って伊伎村(伊井村)に移った。 正平十年(1355年)伊井村字堂の森という所に一閣を建立し、高須山応蓮庵と号し、同時に畑家の墳墓とした。 その後、時が経って慶長元年(1596年)東本願寺の末寺に加わり、「高須山応蓮寺」と申請し許可を得ると共に玉泉坊道教の開基、高須山応蓮寺は、畑時能の菩提寺として今日にいたっている。 ここで南北朝時代の複雑な時代背景についての説明があって・・ 延元二年(1337年)一月足利軍は、敦賀・金ケ崎城をとりまき攻めかかる。 三月六日足利軍の総攻撃により金ケ崎城は落城し、尊良親王と新田義顕は自害し、恒良親王は小舟で河野村の海岸に着くが捕らえられ京に送られて毒殺される。 |