北潟湖

カキ貝養殖跡

室町時代後期より、海水入江の北潟湖全域にわたってカキ貝の養殖が行われた。寛永五年(1628)の上様上覧のカキ貝絵図(見谷屋蔵)を見ると、蓮ケ浦北方から浜坂・鹿島の森に至るまでのカキ塚が描かれている。
寛永十二年のカキ塚改帳 (見谷屋蔵)によると、福井藩は法度を出してカキ塚は吉崎浦の専業とし諸規約を定めている。カキ塚数二百二十八塚、他に新塚七十八塚、カキ塚持五十八人、川舟八十艘を使い操業していることが記されている。
この文書で、吉崎浦湖岸にカキ塚専用船八十艘、他渡船、人物を越前加賀へと運ぶ船を入れると約百艘の川船がつながれていたことがわかる。
江戸中期に入ると、加賀大聖寺藩が江沼を埋め、新田開発工事を始め、土砂が川下にたまり加賀吉崎と鹿島を結ぶ新道ができ、海水の流入が悪くなりカキ貝がくさりカキ貝養殖は消滅した。

開田橋

 明治維新で関所も宿場も廃止になった上に、昔の北陸街道も熊坂新道に変更になって、細呂木集落はさびれるばかり、その生業を農業主体に切りかえなければならなくなった。けれども一戸当たり五反分の田では糊口を凌ぐことすら容易でない。そこで集落民の間には松平春嶽公ののこした開田事業をつづけたらという考えが起こった。北潟湖は300町歩の干拓可能の水面があったので、明治31年(1898)飯塚五作は森藤右エ門 や蓮ケ浦の杉田重吉にはかって埋め立て開田を申請することとなった。しかし当時集落民は渡船営業の方に熱心で、開田に賛成する者が少なかったので中止した。その後東宮殿下(大正天皇)の北陸行啓のあるのを好機として明治41年12月に、細呂木・蓮ケ浦両区の共同で水田15町1反5畝の埋立開田を県知事に出願した。これについて北潟漁業組合の反対もあったが、坂井郡長並木立弥等の調停で解決し、同45年1月15日付で許可になった。
埋め立て事業の組合員は、両部落のほとんど全員で、毎年農閑期を利用して工事をすすめることとした。しかし工事は遅々として進まず、十ヵ年の期限も残り少ないなったのに、田はわずか2町7反しかできなかった。そこで県の指導によって、耕地組合を組織し、飯塚五右エ門(五作改め)を組合長として埋立期間を六ヵ年延してもらって、工事を再開した。資金の調達には最も苦心した。総工費7万2千600円の中、農林省助成金2万1千300余円、低利借入金3万2千円の見通しがついて、担当の近藤技師(元県技師)の献身的な努力もあって、昭和7年8月遂にこの両集落の共同事業は完成した。先覚の青年飯塚・森・杉田等の夢は30余年の辛酸を経てようやく実現し、黒髪が霜と変わる齡になって、かっての北潟湖に稲穂の金波が立つようになった。役員は3人の他に細呂木の上坂伊右エ門、久田浅郎、坂本伊右エ門と蓮ケ浦の坂野弥之助、久保田太三郎、森常吉があった。
総面積15町4反7畝(内耕地は13町1反8畝余、道路敷6反3畝余、溝梁敷7反4畝、観音川および運河敷9反余)特典としては、開田全域にわたり、六十ヵ年免租となった。今細呂木区の入口に開田を見下ろして立派な埋立記念碑が立っている。

この開田は集落の生業を大きく支えていたが、昭和23年の福井地震で沈下し、被害を受けたので、昭和33年3月、北潟湖辺土地改良区、地盤変動対策事業を起し、運河を廃し、道路を広げるなど、22町8反(細呂木・蓮ケ浦区15町8反、北潟区7町)の改良工事を実施して、翌34年10月に竣工した。工事費は1299万円(細呂木・蓮ケ浦1081万円、北潟218万円)、請負人は奥建設株式会社であった(委員長飯塚五右エ門、副委員長杉田)