印牧邦雄著「初めて万里の長城を記録に残した日本人」
三国新保の船乗りが韃靼国へ漂流した物語
あらすじ
時は今を去る三七〇年前、三国の対岸新保村の船が嵐にあって日本海を隔てた対岸に漂着し、生き残った人達が数奇な運命をたどり、帰国した物語りについてお話し致しましょう。徳川三代将軍家光の晩年、寛永二十一年(一六四四年 この年十二月十六日、正保と改元)四月一日、新保村の商人竹内藤右衛門と息子藤蔵計船二艘、並びに同村の国田兵衛門は船一艘以上三艘に五十八 人が乗り込んで、松前(現北海道)に向けて出奔したところ、佐渡沖で嵐に遇い、日本海を漂流し、韃靼国すなわちマンチュリアの清国領内、今のロシア領ポシェット湾岸に漂着しました。ウラジオストックの西方に当る海岸です。現地住民が持参人参を見て、何処で商をするのも同じと、人参のある場所を教えさせて、取りに行ったところ、住民の詭計(だましの計略)にはまり、藤右衛門以下四十三人が殺害される一大惨事になりました。同年六月十七日のことでした。
日本人を襲ったマッカツ人(女真人)で、女真語を使用し、狩猟・漁撈を生業とする傍ら農業を営んでいました。そして射(弓矢)・槍の技を得意とする連中でした。ちなみに、漂着地と想定されているポセット湾のクラスキノという町には※渤海国時代の遺跡クラスキノ土城が海岸近くにあり、当時日本国への出発港と推定されています。周辺には、その後、女真人が多く住み、その遺跡・遺物も発見されています。
※渤海国 七世紀末から十世紀初にかけて、満州東部・沿海州・朝鮮半島北部を支配したマッカツ人の国。初め日本に朝貢、後には貿易の利を得るため、前後三十四回来朝、日本も使節を派遣、渤海国は毛皮など輸出、絹などを輸入した。三国湊が史上に初めて現れるのは、宝亀九年(七七八)で、渤海使張仙寿、送渤海使高麗殿嗣の乗船が三国港に来着したことを告げる「続日本紀」の記事である。
国田以下十五人の生存者は俘虜になったが、やがてこの事件を聞きつけた清国の駐在官によって保護され、七月フンチュン海岸から韃靼国首都盛京(のちの瀋陽)へ護送されました。盛京までの三十五日間は、騎馬旅行で、野宿したり食べ物を求めたり、途中、長白山脈を越えるなど苦難の旅行でした。
盛京での裁判の結果、無罪の判決がくだり、以来衣服や食べ物が支給され優遇されました。盛京に滞在すること一カ月、北京へ再送されることになり、途中、※万里の長城を越えました。「漂流記」は次のように記しています。
一、韃靼と大明との国境に、石垣を築申候。萬里在候よし申候。高さは拾二三間ほどに見へ申候。但石にては築不申候。瓦の様成物、厚さ三寸四寸にして重ね、しっくひ詰に仕候。堅く滑に候事焼物にくすりを懸け置候ごとくにて候。事の外古く見へ候得ども、すこしもそこね不申候。道通の所は、此石垣を丸くくりぬき、其上に門矢倉立申候。此丸く候処も薬を懸け候ごとくに爪もかゝり不申候。
※萬里の長城 戦国時代に異民族侵入を防ぐため北辺に築いたのが起源。今日の長城よりはるかに北方にあった。その後南北朝時代に現在の位置に築き、明代になって蒙古防衛のため今日に見る堅固なものになった。
国田らが盛京から北京へ、さらに北京から京城への旅行の途中、萬里の長城を越えております。長城の東北方の最終端、山海関でした。しかし山海関の地名も、仰ぎ見たであろう「天下第一関」の額も、「漂流記」には記されていません。
古来、日本人で入国した者は少なくなかったでしょうし、萬里の長城を見た者もあったと思われますが、初めて記録に残したのは三国新保の人であったことが注意されます。
国田らの北京滞在は一年にも及び、その間に北京城の偉容を見て驚いたり、清軍の騎射訓練を見て感心するなど、様々な体験をしたりしましたが、衣食住に不自由なく優遇されました。
日本人の漂流人が特に困ったのは外国語ー韃靼語(満州語)・清国語・朝鮮語ーでした。
盛京で裁判を受けた時、取り調べに対し、「種々にまねしてお見せしたところ、おおかた納得してもらえた」とあるように、その都度相手にいろいろな手を使って理解してもらうよう努めたわけです。しかし北京に滞在した頃には、大分解るようになっていました。
生存者の中に「藤蔵の草履取りであった少年」がおり、韃靼語や清国語を早く覚えこみ、自由自在に使い、漂流人たちの通訳をして調法がられたと言われます。
帰国後、その才能が認められ、侍に取り立てられ、丸岡藩主本多重能に仕え、二百石取りの侍に抜擢されたと言われます。生存者中、出世頭であったわけで、帰国後、消息の分からない人達の中で珍しい例と言えましょう。とにかく、韃靼語を我国に初めてもたらしたのは上記の漂流人であったわけです。
国田等漂流人が北京滞在した当時の清国皇帝は世祖順治帝で、年齢は八歳と伝えられています。それで摂政がおかれ、皇帝の叔父に当る人物が任ぜられていました。
漂流記によると、「名をキウワンスと言い、年頃は三十四・五歳に見え、痩身の人であった」といわれます。睿親王のことで、彼の風貌を伝えている貴重な記事です。この人物に対しすべての人々が畏怖心を抱いており、直接言葉をかけることすら出来なかったと伝えています。彼が町を通る時は、上下とも頭を地につけ上げようとしなかったほど、恐れられていましたが、漂流人たちに対しては、同情したのであろう御前近く度々招いて親切に言葉をかけてもらえたといわれます。
漂流人たちの滞在が長引くにつれて、日本人たちの望郷の念が次第に強くなり、帰国を請願することになりました。半歳ぶりにそれが受け入れられ、正保二年(一六四五)十一月一日の条に朝鮮国王李倧(仁祖)に対し、日本漂流人を本国へ送還するよう勅諭を下したとあります。
勅諭の大意を園田氏著より引用しますと、
「今中外を統一し、四海を以て家と為す。各国人民は皆朕が赤子である。前に日本国人民十三名、海中に舟を泛べ漂到す。已に所司に勅し衣服・食料を給せるも、其の父母妻子を念ひ、遠く天涯を隔てることを憫惻し、玆に使臣に隋はしめ朝鮮に往かしむ。到着の上は船隻を備へて日本に送還し、該国君臣に朕が意を知らしめよ」 清国においては、上記の勅諭が出される前、朝鮮国王仁祖は第二子を世子と定め、清国国王に冊封を乞うていました。皇帝はこれを許し祁充格を冊封使に任じ派遣することになったのです。
十二月十一日、冊封使祁充格らは北京を出発しました。祁充格は冊封の任務とともに日本漂流人を朝鮮に引き渡し無事帰国させる任務を兼ねていました。漂流人たちは祁充格一行に同伴し京城に向い、十二月二十八日到着すると朝鮮政府の盛大な歓迎を受けました。
その後、正保三年(一六四六)一月釜山にあった、対馬藩の倭館に入り接待を受けました。以後、朝鮮政府の計らいにより対馬を経て同年六月十六日に大坂に安着、三国新保を出奔してより三年ぶりに越前に帰還したわけです。
帰郷すると、幕府の命で生還者を代表して国田、宇野両名が江戸へ召喚され取り調べを受けることになりました。その時、取調に当ったのは、将軍家御側役中根○岐守であったことからみても、幕府側が韃靼漂流一件を如何に重視していたかが窺われます。
竹内藤右衛門らの墓碑
韃靼漂流の一件は史実でありますが郷里の人たちからは長い間忘れ去られていました。木藤の墓と伝えられてきた藤右衛門等の墓碑のある性海寺墓地に入り、最初に学術調査を行ったのは、京都帝大の内藤虎次郎(湖南)教授でした。案内者の福井師範学校教諭の上田三平氏は、後に「史跡を訪ねて三十余年」の中で次のように書いています。
「頗る荒廃していたが、幸いに昔ながらの規模は少しも変更せずに保っていたので先生(内藤教授)は大いに喜ばれ、倒れた石灯篭を起こし、埋まった石碑を掘り出し終始ニコニコ顔で、写真の撮影、実測等を行なわれ、寺内に入って古記録、位牌類を調査された。」
竹内家の墓地は、性海寺墓地の北部、藤右衛門の故郷、新保を望む最高部の好地に位置しています。同家歴代の墓(五輪塔)が矩形をなして並び北辺中央に竹内家中興の主藤右衛門夫妻を葬った五輪塔が建っています。その左方に二代藤蔵夫妻の墓(五輪塔)があります。
藤右衛門の墓には寶林慶授居士 正保元年 申甲年六月十七日の刻字があります。
上は戒名、下は没年月日すなわち遭難日です。向って右側に海雲妙法大姉とあるのは、妻の戒名であります。
また同家墓所の右端に韃靼漂流者の供養碑が建っています。十三回忌に当る明暦二年(一六五六)に建てられたもので表面に「上建法身下及六道四十八霊」等とあり、その左に六月十七日の刻字があります。四十八霊は、帰郷後死亡した人物の数もふくまれていると思われます。両墓碑ともに坂井市文化財に指定されています。
藤右衛門船の航跡を追って
島根県江津市黒松地区文書によりますと、寛永十九年(一六四二)八月三日、竹内藤右衛門所有の廻船が、越前和布港(現 福井市和布か)を出帆し、木材(秋田杉)を積んで大坂へ向かう途中、難風にあって同月十日夜、岩見国(現 島根県)黒松沖(江津市)で遭難しました。船頭は国田兵右衛門でした。
また越前松平家の「家諶」寛永二十年(一六四三)六月十五日条に「泥原新保浦藤右衛門が出羽国秋田に商いのため出船したところ難風にあい乾亥の法(西北方)の島へ漂着した。そのときの証拠物件として女の着物のほか瓔珞(装身具)・鹿角等を持ち帰った。福井藩は飯川彦兵衛が藤右衛門を連れて幕府に出頭し、届書と持ち帰った品物を老中に提出した」とあります。
そこで幕府側の資料を調べてみますと、「通航一覧」と前掲史料の記事と符合する記事が記載されていました。引用しますと「寛永20年6月、越前国より秋田に渡海の商船、逆風の災によって、十五、六日乾方(西北方)へ漂流し、無人島に漂着した。そこに異国の流人と思われる美麗の婦人一人が草葺小屋に住んでおり、美しい衣服を着、冠をかぶっていた。三日程してその女が死んだので、その衣冠を持ち帰り、藩主(第三代)忠昌に報告した。」とあります。「通航一覧」には越前の商船とあり船頭の名は書かれていませんが、年月の一致と「家諶」に泥原新保浦藤右衛門とありますので、この人物こそ「韃靼漂流記」の筆頭船頭竹内藤右衛門その人でありましょう。「徳川実記」の寛永二十年六月条にも、「通航一覧」と大体同様の記事が見え、越前より秋田へ赴く商船が海中で大風に遇い漂流したとあり、また正保三年八月条には越前商人が海上で颱風に遇い韃靼の地に帰国した記事が載っています。
美しい衣服を着、頭に冠をかぶり、装身具で身を飾った美麗な女性は一体何者でありましょうか。私はシベリアに住んでいたシャーマンではないかと推測しています。住民から崇められていたであろう人物が、僅か三日程で死亡するなど死因を含めて疑わざるを得ません。年を経て起こった惨事の一因がー想像の域を脱しませんがーこの一件にあったのかも知れません。漂流記は事件当日、住民が千人も集まったと伝えていますから、事の重大性が窺われます。そして、藤右衛門が持ち帰った鹿角はシベリヤ産の鹿の角ではないかと、思われますが、惨事の原因となった人参とは何れも強精剤で高貴薬であるということです。
ところで、寛永二十一年の漂流事件について、かって関田駒吉氏は「港湾」誌上で「私は本件(韃靼漂流)を海難に起因する漂流ではなく、予定の渡航であったとして、同じ嵐に巻き込まれた三艘の船が、同一時間に同一地点に漂着するという不自然さ」などいくつかの疑問点を指摘し、計画的渡航の見方を提示しています。一般的に漂流物語として疑問を持ちえなかった時代に、注目すべき見解を示したものであり、「実に北陸の健児が鎖国令を蹴破った冒険商業と見るのである」としています。
とにかく佐渡沖、秋田沖から西北方へ帆走する場合、春から夏にかけて日本海を吹く南寄りの季節風を利用したと思われます。かって渤海使が帰航の際、上記の時季と季節風を利用しているということです。漂流記の記事から目的地から離れた地域に漂着した前例もあってか、佐渡沖へ舵を切り換えたとも考えられます。
大陸派兵の問題
杉山清彦氏が「満族史研究」第三号の中で紹介されている小宮木代良氏の研究論文中に引用されている史料、土佐山内家御手許文書「山内忠豊被露状」(八月十四日付)に「越前新保売買舟、申ノ年佐土へ相渡候トシテ大風に逢、韃靼国へ被流、北京ヨリ送、当六月ニ御当地へ到着様子、御老中迄申上候書付、別紙に進上仕候、御覧可被為成候」とあり、また「山内一唯書状」に、「髄而三年以前ニ越前クニモノ松前ヘ商売ニ渡中候刻、風吹被落、韃靼ヘ渡着仕候、命助申候者、此比帰朝仕候付而、前後之様子・以書付達上覧ニ申写拝見仕候間、珍布奉存、則書付進上仕候」とあります。国田・宇野両名に対する事情聴取が行われた翌日には、早くもその事実と、レポートの存在が知られていたのです。
当時、明国を救うためには大陸派兵の問題が検討されていたといわれます。ただし小宮氏は家光政権は当初から派兵の意思をもっていなかったとの見解をとっています。鄒芝龍の請援使来到の知らせが届いたのは、漂流人に対する事情聴取が行われてから、わずか一カ月後の九月二十日のことです。それは拒否されましたが、結局幕府は、福州(明朝最後の首都)陥落の報を受けて大陸不出兵を諸大名に公表することになります。
園田一亀氏が「韃靼漂流記の研究」の中で指摘されたように、幕府が国田・宇野両名から事情聴取を行ったのは、将軍家光のお側役中根壱岐守正盛(五千石の旗本)であり、しかも中根の自邸で聴取が行われたのです。それをまとめたのが漂流記で、成書は正保三年(一六四六)八月十三日でした。そうした緊迫した状況下での将軍家光側近者による事情聴取が、不出兵に何等かの影響を与えたものと思われます。 終わり
(日中友好協会福井県支部主催講演会)
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