三国港 

 
三国湊は九頭竜川が日本海に注ぐ河口の右岸に発達した港町。土地に伝わる民謡「三国節」の一節に帯の幅ほどある街をとあるように、九頭竜川沿いに細長く約1、5kmほど町家が軒を連ねている。
九頭竜川は越美山中の油坂峠(福井県大野郡和泉村)付近に源を発し、大野市内で真名川を、勝山市内で滝波川を合流して日本海に注ぐ。和泉村東市布から河口まで流路延長は116kmの大河。増水時にしばしば氾濫する暴れ川だったことから、中世の絵図に崩川と書かれている。江戸時代の地誌では黒龍川と書かれている。
ちなみに、日野川は越美山地の三国岳付近に源を発し、今庄町・南条町・武生市・鯖江市・清水町を通り、福井市の大瀬町付近で足羽川と合流して九頭竜川に入る。
九頭竜川・日野川・足羽川の三川を福井県嶺北地方の市町村すべてに関わるところから、福井の三大河川という。この三大河川が最終的に一本の川となり日本海と接点を持つところが三国湊であり、扇の要のようなもので、地理的に見て十分に地の利を得たところといえる。そして、これらの川は、船で物資を運び、また、人間自ら移動する手段として、古代より人びとの生活と大きく関わってきた。加えて、三国湊は海路を利用できるので、経済交易の中心地となり商いの港として発達していった。

中世において三国湊は荘園の年貢米積み出し港とされ、津料(港湾税)を徴収していた。「朝倉始末記」の中に、朝倉義景が三国湊を訪れたときに問丸七人が出迎えたとある。中世後期には商人たちが組織をつくり、港の運営を図っていたことがわかる。江戸時代になると三国湊は福井藩の支配をうける。福井藩は越前国唯一の外港として保護に努め、津料の取立てなど様々な特権を三国湊に与えた。港の商人たちは藩の保護のもとで商業に励み、三国湊は日本海沿岸有数の港町へと発展をとげた。「町内治定改方記録」(三国町上西区有文書)は江戸時代の三国湊を知るうえで大変貴重な資料である。この中に一部の町内の成立のいきさつが書かれている。
「元新町は正保二年(1645)に人家が建った。この元新町に次々と家が建ったので二町に分け、元新町と下新町とした。木場町は慶安元年(1648)に人家が建った。川口御番所は正保元年に三国湊の町端から滝谷村との境へ引越した」などの記述がみえ、人口増加に対応するために新しい町建てを実施していったのだろう。
江戸時代初期にははぼ現在の町並みの原形が整った。それは日本海側の海運ルートとして西廻り航路が整備される寛文年間(1661-73)以前だった。そして、日本海を行き交う廻船が大阪と北海道の間で盛んに交易を行うようになると近年はこの交易船を北前船とよんでいる三国湊の商人たちは活発に海運業に乗り出し、三国湊は単なる越前国の玄関口ではなくなり、日本海交易の中継基地としての役割が大きくなった。
三国湊を代表する豪商に森田家と内田家がある。
森田家は織田信長の朱印状(朱印を押した許可証)や徳川家康の書状が伝わる三国湊では最も由緒のある家系だ。江戸時代には港の要職にあり廻船業で富を成し、明治時代にはいち早く廻船業に見切りをつけ銀行業・倉庫業に転換し、戦前まで福井県の財界の要職にあった。
内田家は元禄十六年(1703)福井城下から三国湊に移り住み、酒と麹の製造を商売に成功し、廻船業を営むとともに三国湊随一の商人にのし上がった。その内田家の繁栄ぶりを示すものに御用金の調達がある。
宝暦十年(1760)の約600両を皮切りに金高の大きいものをひろえば、明和五年(1768)600両、天明八年(1788)1500両、寛政六年(1794)1300両とある。福井藩の財政が逼迫するとともに用立てる金高はかさみ、江戸時代後期にはほぼ毎年のこととなり、三國湊の御用金調達のお達しが下ると内田家は最も大きい割合を負担した。明治時代中期に内田家は衰退する。その原因は貸付金の焦げ付きだった。


三国湊周辺の浦々では江戸時代の中頃まで搬送能力に劣る船が用いられていた。しかし、瀬戸内海で生まれた弁財船という型の船が登場すると、たちまち全国に普及するとともに、商品流通の時間を短縮し、また、遠方へ多くの物資を運べるようになり、江戸時代の商品経済の発達をうながした。
さて、船乗りたちは春先に大阪に旅たつ。預けてあった北前船の点検を終えると商品物資を買い込む。日本海側の浦々で必要とする砂糖・素麺・酒などの食糧・木綿・古着・足袋などの衣料、畳表・蝋燭・和紙・茶碗などの日用品である。そして出航してからは、瀬戸内海では塩を、小浜や敦賀などでは藁や筵を、三国湊では笏谷石などを積み込む。これらを中継の港や北海道で売り払い利益をあげると、帰りには北海道で買い入れた鰊・鰊〆粕・魚油・昆布・鮭・鱈などの海産物を積み込み、中継の港や大阪周辺で売り捌き、下り荷以上に利益を上げる。江戸時代後期では一回往復の航海で約一千両もの利益を上げた。
こうした北前船交易の最盛期は物資流通の規制が緩くなり、また北海道の鰊が建網の使用で大量捕獲されるようになった幕末から明治にかけての時期だった。
江戸時代の三国湊の海運活動の全貌は統計資料がないために知ることはできないが、明治四年(1871)三国湊と滝谷村が合併して坂井港となって以後の「共武政表」(明治十一年分)では、日本形船舶は188艘となっている。

北前船によって越前国の玄関である三国湊に運ばれた物資は、陸送される一部のものを除いてほとんど川船に積み替えられ、九頭竜川とその支流のうち交通の便の良い地点に設けられた荷下ろしも船着場(河戸とか土場とよばれた)へ輸送された。そこから別の川船に積み替えられたり、人馬によって陸送され、流域の村々へ届けられた。また、越前の各地で生産された米や商品物資はその逆のコースで三国湊から海路輸送された。各河川において物資集散の中心となったところを三国湊を起点としてたどってみる。
九頭竜川から最も早く分かれる竹田川には、布目の渡し・仏徳時の渡しが途中にあって、金津宿の市姫橋の下が終点だ。
貞享三年(1686)金沢から上方(京・大阪)へ行く荷物を、金津宿で川船に積み、三国湊を回って福井大橋で上げ、馬で送ろうとした。これを長崎宿の者が見つけ、違法だとして金津奉行所へ訴えた。川船による物資の輸送が便利とはいえ、物資輸送の基本は陸送による駅伝制度だ。幕府は交通及び交易の管理統制を行うために要所を宿駅と定め、馬を置き馬借がいた。そのルールが破られると宿駅の者は飯の食い上げである。そこで、先のような事件が起きないように川舟輸送と人馬輸送が競合しない諸規定が作られた。その内容を集約すれば、川舟の運行範囲の限定輸送方法の変更に対する制限川舟で輸送する品物の限定。あくまで陸送業者の利益が損なわれないように配慮された。
次に、九頭竜川が日野川と合流する地点までには、川下より順に、山岸の渡し・布施田の渡し・高屋の渡しがあり、主に福井平野各村の穀物類が集まった。九頭竜川の西側の地方からは木材・薪・木炭などが運ばれた。
日野川との合流地点から勝山市方面までの間には中角の渡し・舟橋・合月の渡し・鳴鹿の渡し・栃原の渡し・小舟渡の渡し・新保の渡し・中島の渡し・箱の渡しなどがある。このうち三国湊からの運航の終点は舟橋だった。舟橋より上流には急流があり、鳴鹿の十郷堰堤や下荒井の勝山城下用水が三国湊からの直通運航を妨げた。したがって、舟橋より上流の集散基地は村から村へ物資を運ぶための船着場だった。たとえば、勝山市や上志比村から産出する石灰は川舟に20表も積んで川下の永平寺町鳴鹿まで運ばれ、丸岡町竹田から出す木炭は川向こうの松岡町の鋳物屋へ送られた。また、勝山市特産の煙草のように上流各地から三国湊を通じて海路輸送したい物資は、舟橋まで人馬で運び舟橋から川舟に積み替えて川を下った。川舟を操る場合、川を下ることは比較的簡単だが、川を上ることは大変な苦労だった。
約15メートルの貨物輸送用の川舟は船頭一人・水主二人・引き手(チャシあるいはチョウモチなどという)二人ほどで操る。上がりの時、引き手は六十尋(約90メートル)もある麻縄を艫(船尾)につないで川岸を歩いて引っ張り、船頭は舵をとって、水主は櫂を漕いだ。風があるときには帆を上げて風力を利用した。

宮野力哉著「小さな湊町なのに」の著者は三国の船大工・石松を先祖に持つ。その著者が取り上げた対象は「画家エッシャーの父」「岡倉天心の父と母」「 彫刻家山田鬼斎」「北前船と船大工石松」「湊町明治の盛衰-三国と横浜」「三国あれこれ」である。
・・・寛文十二年(1672)日本海を下関まわりで大阪へ達するいわゆる「西廻り航路」が開発され、そのころになると関西でつくられた弁財船が出現してくる。帆走性能が悪く漕帆兼用の羽賀瀬船、北国船は性能のいい弁財船に徐々に取り替えられていったのである。西廻り航路ができるまでは米をはじめ船荷は敦賀か小浜に着き、馬で琵琶湖北岸の塩津浜にでる。塩津から琵琶湖特有の「丸子船」に積み替え、大津方面に向かった。・・・

という文章を読み進むにつれ、三国湊の往時の繁栄ぶりがわかった。そしてそのことで三国文化が熟成し何人かの才人を生んだこともわかった。その三国湊は明治後期から衰退に向かうのだが、原因は鉄道(国鉄)が三国湊経由とならずに内陸部直進つまり金津駅経由となったことにある(参考・福井世間遺産)。