溝江氏は室町時代溝江庄出身で越前国主朝倉氏に仕え1万700石を領した。館の規模は100m四方、周囲は堀をもってかためた。天正2年(1574)金沢御坊坊官・杉浦壱岐が一揆勢を指揮し越前に攻め込み、北金津総持寺に本陣を置き、2万余りの勢 をもって攻めたて館を包囲した。2月19日、遂に溝江長逸は子長澄を脱出させて城に火をかけ溝江一族30余人、加賀国より亡命していた元加賀国守護冨樫政親の孫泰俊親子5人共に自刃した。
平成6年5月2日、溝江伸康氏から第三代城主大炊助長公が着用した鎧具足(朝倉義景公より拝領)壱領・溝江家織族ならびに伝来の古文書の複本十数通等が金津町へ献納された。
児玉常聖氏記
関ケ原で領地を没収された溝江氏四代目、長晴(ながはる)の浪人生活は28年にも及びました。しかし、寛永5(1628)年、彦根藩主二代目、井伊直孝の時代に仕官が許され、禄(ろく)五百石で藩士となります。46歳(推定)になってようやく、安住の地を得たのです。
井伊家は、「安政の大獄」で有名な井伊直弼(なおすけ)をはじめ、幕末まで大老職を5人も出すなど「常溜(つねどまり)」と呼ばれた特別な大名で、参勤交代を免除されるなど幕閣の中でも名門中の名門です。初代藩主、井伊直政と溝江三代、長氏(ながうじ)が縁があったことから、長晴は生活に窮しながらも「井伊家こそが頼みの綱」と己の立ち位置を敏感にかぎ取っていたのかも知れません。
溝江氏の子孫たちでつくる「全国溝江氏々族会」が10年前に刊行した戦国溝江四代を主とした資料集
正保3(1646)年、長晴は彦根で亡くなりました。しかし、晩年、彦根藩士として生き延びたことは、溝江一族にとっては大変意義深いことでした。 なぜなら…長晴の子や孫らは、現代にまで末裔(まつえい)を多く残すことになったからです。その系統は、彦根藩の本家をはじめ津軽弘前藩、仙台伊達藩、福井藩本多家中、播州龍野藩、出雲松江藩、四国宇和島藩、久留米藩と全国に広がり、一族の血は嫡流、分家と絶えることなく幕末、明治、そして現代と受け継がれたのです。 平成6年5月、東京に住む彦根溝江の子孫の溝江伸康さん(89)の呼び掛けで結成された溝江一族の会「全国溝江氏々族会」の会員30人余りが、溝江発祥の地、金津を訪れました。一行は溝江館跡などを見学し、芦原温泉で親交を温めたのです。さらに、先祖の歴史を埋もれさせてはいけない-と一族の史料集を刊行しました。 思えば、私は昭和47(1972)年11月に、溝江初代景逸(かげやす)と二代長逸(ながやす)の墓前祭にかかわったことから、妙隆寺の住職を継いだわけですが、当時は、長氏や長晴に関する史料が全く無く、私は自分の祈り事に迷いを感じていました。 それが、子孫の方々とかかわりを持つことで、数多くの史料や品々が彦根に残されていたことを知りました。それらの存在によって、戦国の溝江四代が、いかに乱世をくぐり抜けてきたか、浮沈(まるでジェットコースターのような)を繰り返してきたか-を知ることになりました。つまり、菩提(ぼだい)寺住職として、鎮魂の対象をしっかりとつかむことができたわけです。 金津の町の礎を築いた溝江氏の歴史は、私の寺院にとってだけでなく、越前福井の歴史にとっても貴重なものです。さらに溝江一族が、水路開削、導水の優れた職能集団であったことが証明されれば、継体天皇の“越前王権”の研究にも大きく貢献するやも知れません。
私は歴史の専門家ではありませんが、地元金津町の郷土研究、歴史家の諸先輩の思いに導かれ、こうして溝江氏の歴史の一端を記すことができたことは、望外の喜びであります。(溝江家菩提寺、妙隆寺住職)
供養堂の裏に影逸父子の墓と五輪の供養塔が建立されている。
墓は、丈1m・巾50cm・笏谷石造り、正面に「高岳院殿照月大居士」、「常心院殿高雲宗岳大居士」と刻されている。刻文はあるが風化して読めない。尚、溝江氏の菩提寺は、日蓮宗妙隆寺である。
朝倉始末記に記されている辞世の歌
○世の中の 楽をも苦をも 春の夜の
短かき夢と 今日もはてぬる 溝江景逸入道宗天
○思いきや 果つるまじき 身の梓弓
矢もさし付けず 朽ちはてんとは 溝江大炊介長逸
○先たちぬ くひの八十度 悲しきは
流るる水の 廻りこぬなり 冨樫之介泰
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