鳴鹿堰堤 
「千年水路を行く」




布久漏神社(丸岡町北横地)。延喜式神名帳にも記されている歴史の古い神社。継体天皇の娘である円媛命が建てたという由緒を持つ。神社の場所は、神の使いの鹿が憩った場所に建てられた祠の跡。


福井坂井平野を見守るよう丸岡・松岡古墳群がある(4世紀後半)。この時代ごろから鉄製農具が使われはじめ、水路を引く灌漑農業が始まり、農業生産は飛躍的に伸びた。権勢を誇った大首長たちの支配力の源は福井・坂井平野の大地と水がもたらす豊かなめぐみ。(507年継体天皇即位)
743年墾田永年私財の法が発令され、開墾地は荘園となった。坂井郡にあった桑原庄、溝江郷、予見庄などの荘園は開拓に必要な水を求め、溝(水路)を掘り、五百原溝につなげ、水を引いた。この開拓は奈良東大寺によって進められ、新しくできた田畑は東大寺の荘園となった。やがて荘園の支配者は、東大寺から興福寺や春日神社へと移り、1110年、日本で最も古い大規模水路の一つとされる十郷用水がつくられる。水の流れをつくることは時代の流れをも左右する。この十郷用水が坂井平野の生産力を大きく高め、やがて多くの用水がここから分水されていく。その流れは、千年後の現代の生産基盤になっている。


時は平安末期。坂井平野の多くは春日社興福寺の荘園だった十の郷に水を引くためつくられたとされ、900年後の今もなお坂井平野の大動脈を担う。当初の十郷用水はその後、磯部(不詳)、高椋(1453年開削)新江(1625年開削)と分流されていき、江戸時代には約10万石を生み出す生命と恵みの源となっていった。


諸国を旅していた加賀浪士、渡辺泉立は野中山王(丸岡町)を訪れた。鰐淵家(現・高椋家)に身を寄せた泉立は、山村を歩き回り、雑草地をなんとか開拓できないものかと考えた。(注 昨年ぼくはこの高椋家を訪れた。あるじの鰐淵氏は阪大教授をしておられたが既に亡くなられ、寡婦が家を守っている。品のいい奥さんだった)。
九頭竜川から西へ北へ、農民たちの悲願を運ぶ用水路網は次々と延びていった。その一方、用水路の要となる取水口の十郷大堰は、越中三叉という様式の簡単なものだった。三角すいの組みやぐらに木の枝を置いた原始的な堰は、大雨のたびに破壊され、修復は農民に大きな負担を強いた。
もっと頑丈な堰をつくれなかったのか。
そこには、命の水を巡る切実な事情が見え隠れする。
十郷大堰の下流には芝原用水や御陵用水など、十郷大堰の「漏れ水」を導水している用水取水口があり、頑丈な大堰をつくり取水効率を高めることは、これら下流の用水領域の農民にとっては死活問題だったのだ。


昭和22年、農業用水施設として全国で初めてのコンクリート堰の建設事業が採択される。
三角すいの簡素な十郷大堰は鳴鹿堰堤名付けられ、堰堤273m、可動ゲート5門を備えた近代的堰堤へと生まれ変わることとなったのだ。工事期間は実に8年余。昭和30年、完成した。

「千年の悲願
・わずか十の村から始まった用水は江戸時代には118ケ村、十倍にふくれあがったが、水の総量は変わらない。
・十郷用水の末端区域である芦原町内だけでも、江戸時代、約三十回の水利紛争が記録されている。
文化十年には死者が出て、江戸出訴にまで発展した。 
・芝原用水=御上水
結城秀康が越前藩の初代藩主になった頃(1601年)城下町の飲料水と掘用水の確保を主目的に開削した。江戸の神田上水(1590年)と並んで日本で最も古い水道。
・昭和47年から始まる国営坂井北部地区総合農地開発事業では、鳴鹿堰で取水した九頭竜川の水を、四十数メートルも標高の高い丘陵地上までポンプで運ぶというもの。
・新しい堰は、旧堰の下流160M、堤長311M、魚道なども含め六門の可動ゲートを設置した堂々たる大堰であり、平成十二年に完成