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 称念寺

 

月さびよ 明智が妻の 話せん 芭蕉



美濃国の明智城に生まれた光秀は26歳の時に煕子と結婚。
天正10年6月2日の本能寺の変で織田信長を殺したあと、山崎合戦で羽柴秀吉軍と戦い、55年間の生涯を終える。
その光秀の越前国での活動期間10年が話の骨子だった。


29歳の時に斉藤義龍に攻められ明智城が落城。光秀は身重の煕子を背中に担いで急峻の油坂峠を越えて越前国に入った。知己の長崎称念寺を頼ったが、与えられた住居は作小屋で、ここでの三年間の生活は貧窮切迫したものであった(そのころ三女の細川ガラシャが生まれる)。


朝倉家への仕官を目指していた光秀はある時、朝倉家有力インテリ家臣数名を招いて「連歌の会」を称念寺で開いた。会が終わると隣の部屋の襖が開き豪華なお膳と豪華な酒が運ばれてきて光秀はびっくり仰天。そこには丸坊主となった煕子が居た。煕子は光秀のために女の命である長い黒髪を売って、「連歌の会」開催のための支出を裏で支えたのである。


この行為がそれから100年後の、「奥の細道」徒歩旅行で長崎に寄った松尾芭蕉の耳に入り、月さびよ 明智が妻の 話せん の句となったのである。


仕官叶った光秀は一乗谷に近い東大味に居を構え、朝倉文化の繁栄に尽力するものの、数年して織田信長の有力家臣となる。
そして43歳の時、信長の野望であった朝倉討伐に従軍するのだから、歴史とは皮肉なものだ。


しかし光秀は東大味の人たちのことを忘れてはいなかった、本来だったら火の海になったはずの東大味を、柴田勝家から拝領した安堵状によって守ったのである。


当然、光秀は救世主として当地区の人たちから尊敬された。けれどもその思いを声高に叫ぶことはできない。何故なら、光秀は主殺しの逆臣であり、武士道に真っ向から背くからである。


しかしながら、東大見の3家族が周囲からの白眼視にめげず、私財で小さな明智神社をつくった。爾来300年、手弁当で神社を守り続けている。
昨年、ぼくも当地区を訪れ、光秀住居跡を歩き、明智神社に参拝した。なお、光秀の墓は滋賀県坂本町の西教寺にある。


称念寺は長崎道場と呼ばれ、一遍上人という鎌倉時代のお坊さんが開いた時宗の寺。しかし、称念寺に伝わる縁起によれば、古くから長崎の地にあったことがうかがわれる。縁起によれば当地長崎が湖のほとりにあったころ白山権現がこの地に渡来した際、着岸した旧跡であったといいます。また泰澄大師がこの地を訪れ、養老5(721)元正天皇の勅願を受け阿弥陀堂を創建したと記録してある。つまり、称念寺が白山信仰ととても関係が深かったことがうかがえる。古い時代より、人々は高い山や大きな川などに神が宿っていると信じていた。越前地方では白山が代表的で、鎌倉時代に念仏信仰が広がる大きな下地になった。長崎、舟寄の地名はこの湖の伝説と関係する。
また、漁に使うおもりが近くの畑から出土し、大きな川や湖が存在したことが想像できる。また縄文時代の遺跡が見つかり、そこで漁をしたことが伺える。江戸時代の記録を見ると、福井のお殿様が「泰澄大師舟つなぎの松」と言うのを見にこられたことが記載されている。残念ながら、今は残っていない。


諸国を広く遊行して時宗の布教に努めた開祖一遍智真は、弘安二年(一二七九)越前にも廻国したとされるが、越前の時宗寺院のほとんどが二祖真教(他阿弥陀仏)に帰依して開創したと伝えるように、越前における本格的な布教は、この他阿真教に始まる(一章七節三参照)。他阿真教は正応三年(一二九〇)夏に南条郡府中(武生市)の惣社に参篭し、十二月にも惣社よりの請に応じて社頭に歳末別時念仏を行ない近郷を化導した。翌四年十二月さらに翌五年秋にも惣社に参篭したため、ついに平泉寺衆徒の干渉を招き、その乱行によって加賀に移らざるをえなくなった。そののち正安三年(一三〇一)には敦賀に進出し、真言宗より改宗した西方寺に入って、ここより気比社に参篭したが、当時の気比社と西方寺との間には参詣の妨げとなっていた沼沢があったため、真教は気比神人・衆徒とともに、土砂を運んで参道を造成した(「一遍・他阿上人絵伝」)。これが歴代の遊行上人廻国時の「お砂持の神事」となって今日まで続いている。
 歴代の遊行上人の布教は、諸国を廻国しながら念仏を勧進して賦算(念仏の札を配ること)を行なうことによって進められた。これによって確実に増加した時衆の分布とその動向を知る有力な史料として、南北朝期から室町前期にかけて順次記載されてきた『時衆過去帳』(神奈川県藤沢市清浄光寺所蔵、正保二年に敦賀西方寺から移管)がある。各法名の多くに国名や在所名・俗名などが裏書きされており、越前の門徒関係の法名も検証できる。それによれば、越前における時衆分布は坂井郡長崎称念寺を中心とする長崎衆の法名が最も多く、そのほか坂井郡から吉田郡にかけて河川沿岸の「三国湊」「金津(六日市)」「浪寄(波寄)」「勝蓮花」「河合庄」などに分布し、「越前堀江」「越前引田入道」などの国人名や「長崎念珠屋」の商人名もみえる。また今立・南条郡では「越前国府」を中心に「越前池田」、足羽郡では「越前中野」「越前木田」「江守」や「越前吉野」(吉田郡か)などの在地名もみえる。
 このように、『時衆過去帳』によって知られる時衆信徒の越前における分布と合わせて検証すべきことは、時宗道場寺院の成立状況であろう。時宗末寺帳としては、寛永十年(一六三三)の「時宗藤沢遊行末寺帳」(内閣文庫蔵)などがあるが、特に注目したいのは京都七条道場旧蔵本の「遊行派末寺帳」である。この末寺帳は享保六年(一七二一)の筆写であるが、他の末寺帳とは異なり、すでに中世末から近世初頭に廃寺となった八か寺の末寺名も記載されており(表68)、寺名に付記されている在地名が『時衆過去帳』の法名裏書の在地名とほぼ一致することにより、中世の時宗寺院を改めて確認することができる。これら寺院が漸次に衰退し廃寺となっていった背景に、文明三年の蓮如に始まった本願寺による越前布教のあることはいうまでもない。

長崎城跡 
中世坂井郡の要所に在った称念寺と一体となった城・寺院、陣所で、南北朝期には南朝方の拠点の城の一つで あった。その後の中世越前での戦闘でも度々登場する城である。
坂井平野(足羽郡と坂井郡)の中心に位置し、中・近世の北陸道の東側400mほどに在り、僅かに高台になっているとされるが、現地では実感できるほどではない。

「太平記」には「細屋右馬助ヲ大将トシテ其勢三千余騎、越前国へ打コへ長崎・河合・川口三箇所二城ヲ構テ漸々ニ府ヘゾ責寄ケル」(巻19・新田義貞落越前府城事)とある。 新田義貞と足利(斯波)高経との南北朝抗争「足羽七城・藤島の戦い」は周知のことなので、ここでは省略し、義貞の最後と長崎城(称念寺)の関係にだけ簡単に触れるにとどめたい。
建武5年閏72日、新田義貞は北軍で越前守護の斯波高経と対陣のさなか、高経の居城黒丸城の向城として築いた燈明寺城から、僅か50騎を率いて藤島城の偵察に出かけたが、途中 、藤島城防衛の応援に黒丸城より出撃した斯波高経配下の部隊300余騎と遭遇戦となり、眉間に矢を受けあっけない最期を遂げる。
このため高経は時宗の僧8名を派遣し、遺体を収容させ、 長崎城称念寺に送り、葬儀を行っている(首は京に送られ、当時の習いで獄門に付された)。これ以降も、称念寺は越前での時宗普及の拠点道場として、足利氏によって保護が与えられていたと考えられる。 
現在も称念寺北側には義貞の墓が置かれている。現存する墓は、江戸時代福井藩松平宗矩によって改修されたもので、合わせて石碑も建立されている(徳川氏は新田氏の子孫 を潜称していたため、特別に保護)。室町期も、守護斯波氏と朝倉氏との抗争でも記録にでてくる。文明11年閏94日守護斯波義良は反朝倉の意思を固め甲斐氏、二宮氏を引き連れ越前下国のため京をで、11月長崎城に拠り、金津の攻防戦を展開した。また、その後の朝倉氏時代にも、一向一揆との抗争で重要な位置を占めた。


城の規模は東西110m、南北140mで、現在も周囲に土塁や濠跡らしい跡を残している。ただ、その後の寺院整備との関係で、どこまでが中世の遺構か判然としないが、裏手(東側)の土塁は長崎城の遺構と思われる。周辺には字名として西門、北門、陣田などが残っている。