吉崎古道・天爵大神切り割り道 
  
天爵大神とは旧尾張藩士水谷忠厚で、明治の世となり失職したが、人々のために尽くす意思が強く、愛知県で数々の悪道を改修し、人々の難儀を救ったので、愛知県令国定康平が「天爵大神」の称号を与えた。
明治20年、吉崎参りにきた天爵大神、山越えの道を通り人々の苦労を身をもって味わった。山を切り割り新道を造ることを決意した天爵大神は、福井県知事石黒務の許可をとり、吉崎東別院に細呂木村の長老森藤右エ門、菅谷七右エ門、坂本伊右エ門を出頭させ、山を切り割りし新道を造り、吉崎参詣者の難儀を救いたいと説明し、その工事のために近村の農民の方々を作業奉仕の世話役をして欲しいと依頼した。
明治20年12月に工事が始まった。上坂伊右エ門が工事監督、飯塚藤エ門は現場指導役、吉崎願慶寺霊燐は教導使として天爵大神をささえた。
工事が始まると天爵大神は、毎日県庁の居室より馬にのり現場に出向き、人足の組分け、自らも鋤鍬を持って土をおこし、土を入れた。「もっこ」をかついだと伝えられている。掘った土は深い谷を埋め現在の新道が明治21年4月の吉崎蓮如忌前に完成した。参詣する旅人はこの新道を通りこの話を聞き、「ありがたいのう」と感動したという。



今、この垂直に切り割られた道を通り両側を見上げると見事で、こんな切り割道はちょっと見当たらない。何の機械力もないその当時は全て人力で、よくも4ケ月余りで切り割り谷を埋める工事がなしとげられたと思う。天爵大神の指導力とこの工事に進んで参加された我らが祖先の人々のために尽くすという旺盛なボランテイア精神に頭を下げざるをえない。