15/09/19 (土) 今晩は試食会 「非知」の序 宗教へのわたしの関心のいちばん中核にあるのは、<信>と<不信>とを架け橋する過程の構造だった。<信>の構造というとき、ほんとうは<信>自体の構造よりこのことに重点があったといっていい。この<信>と<不信>のあいだの弁証は、底ふかくまで届いたら宗教だけではなく、宗教的なもののすべて、また信念の論理としてのイデオロギーにも拡張できるとおもえた。ただ精神内面にとじこもって、その部分をなすものだけは、文学の作品にゆだねられるほかない。 たとえば「西方の人」の芥川にとって「クリスト」は古代のジャアナリストだった。比喩をつくるために使われている葡萄園、ロバ、工人など、素材をいつも眼のまえに見えるものに択んで生き生きと弁じたからだ。このジャアナリストに芥川はふたつの属性をあたえた。ひとつは聖母マリアの私生児だということ、もうひとつはボヘミアン的な精神の持主で、流浪しながら布教したこと。そして聖母マリアに日本のふるい母親の像をあたえているとおもう。また「クリスト」の内心に幼な子の無垢さをあたえ、ボヘミアンとしては、佐世保や横須賀に死を常駐の覚悟としながら転任してゆく海軍将校(つまり芥川の同僚)の家庭の幼児を類推してみせた。芥川は「クリスト」をどんなモチーフでどう描こうとして「西方の人」や「続西方の人」を書いたのだろうか。私は十代の後半のころから現在まで何度も読みかえし、読みかえしているが、ほんとは一度も芥川のモチーフをよくわかったことがない。そこでいちばん最初にまだ「聖書」の知識もなにもないときに読んだときの印象にかえるほかないとおもえた。つまりは「自分に似た」ように書きたかったのだが畏れを感じて、そこまでは書ききれないままに収めてしまった芥川の暗い自画像のようなものだ、という印象に、ほんらいは神への<信>と<不信>、あるいは人間の<聖性>と<卑性>の弁証として描くべきモチーフを<人間クリスト>というモチーフにおき代えてしまったものとして読める。かくべつ西方的でもない「クリスト」を、西欧近代文学への関心の象徴としてみようとしたので、芥川の「クリスト」は西欧的な「人間」という概念の宣明になっている。 太宰治の「駆込み訴え」になるとはるかにモチーフは明瞭とおもえる。芥川とおなじように「新約書」の主人公をとりあげて描くのに、ユダの眼をとおして、無垢な世間知らずの幼な児のようなイエスを、世間智にたけ、汚れ役に徹してイエスの言動の後始末を陰でやって支えてきたユダという眼の設定を介して描いている。<信>に対して<不信>の眼がいだく尊崇と侮辱のアンビバレンツな愛憎が、あざやかに浮き彫りにされている。このイエスの描かれ方は卓越したもので、世界的に類型をもとめることができないほどだ。 このイエスの<信>とユダの<不信>との葛藤は、作者太宰の内なる<聖性>と<卑性>との葛藤の象徴ともなりえている。ひとは、自分を愛するように他人を愛することができるか、とか、献身は悪なりやとか、太宰の心の奥ふかくにいつもくすぶっていた問いを表現するために、ユダの眼に自身の自嘲をこめることで、照れや恥しさをうち消そうとしている。これ以上<信>と<不信>の繊細なドラマはかんがえられない。 わたしたちは宗教の<信>と<不信>とを疎通させるために、たぶんもうひとつ宗教以前にある習俗への<信>と<不信>の考察がいるような気がする。べつの言い方をすれば、習俗はどの水準で切断し、どの水準で再生されるべきものか、あるいは習俗を反復することで転生の契機を見つけ出すという未開の宗教性は何を意味するのかということだ。いつかそこまで<信>と<不信>の弁証を拓くことができたらと、しきりにかんがえる。 吉本隆明 声の広場↓をどうぞ。 15年9月18日 金曜日 もう週末か 昨日の早朝は「9条の会」に誘われて、ユニー前に立っていた。 余談だが、議員時代の辻立ちを思い出し、マイクを持ちたくなってしまう。 その後はCADに専念し、昼一番で確認申請書を三国土木事務所に提出。ひと仕事終えるとほっこりした気分になる。 きのうから、吉本隆明対談集「非知へ」を読み始めたが、このひとのしゃべりは相変わらず難解で、読んだページをあともどりすることが頻回だ。でも、そうやって格闘するうちに珠玉の言葉と出会う時、心が洗われた気分になる。心の浄化槽だ。 吉本語録 自己幻想・対幻想・共同幻想 ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ 「廃人の歌」 ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる もたれあうことをきらった反抗がたおれる 「ちいさな群への挨拶」 ぼくたちは肉体をなくして意志だけで生きている ぼくたちは亡霊として十一月の墓地からでてくる 「絶望から苛酷へ」
15年9月8日 火曜日 無題 数日前の深夜、ユーチューブで石牟礼道子を見ていた。水俣病患者に対する連帯の言葉は、今はアルツハイマー患者の彼女であるけれども、およそ政治家風情には語れない質の高さを示し、(心のなかで)涙を禁じ得なかった。再読したくなって、翌日に図書館へ行き「苦界浄土」を注文したのだが、答えは「ない」だった。 思うに 「苦界浄土」のような不朽の作品が抹消されていく現代社会は、日本が工業化する過程のなかで生じた言わば「負の遺産」を単なる歴史的的事実に押しとどめようとする戦略が働いている。歴史には光と影があるにも関らずだ。 中日新聞(9/7)社説より転載 核燃料サイクル なぜこだわり続けるの 核燃料サイクルは、経済的にも技術的にも、とうに破綻しているのではないか。なのに、今さら国が関与を強め、電力会社に維持させたいのはなぜか。再処理にこだわり続けるのは、なぜなのか。 使用済みの核燃料、つまり核のごみに再処理を施して、原爆の材料にもなり得るプルトニウムとウランを取り出し、もう一度燃料として利用する-。それが核燃料サイクルだ。 このリサイクルの輪が閉じてこそ、核の平和利用という国策は完成される。ところがその国策は、入り口でもうつまずいた。肝心の再処理工場(青森県六ケ所村)完成のめどが立たない。 当初は一九九七年の完成予定が、今は来年の三月と、二十二回も先送りされている。七千六百億円と見込まれた建設費用は、二兆二千億円にも膨らんだ。 再処理工場を運営する日本原燃は、原発を持つ電力十社が共同で設立した株式会社で、事業費は電力会社が積み立てている。 今は「総括原価方式」で、その費用を電気料金に上乗せできる。しかし来年四月に電力の小売りが完全に自由化されると、地域独占の壁が崩れて、お互いが競争相手になり、料金値下げの圧力がかかってくる。再処理は、ますます経営の重荷になり、原燃自体を維持できなくなる恐れがある。 日本は核兵器保有国以外で唯一、米国から再処理を許されている。政府はその権利を手放したくないために、てこ入れをしようというのだろうか。 核燃料サイクルの新たな担い手として、政府が直接所管する「認可法人」を電力会社につくらせて、そこから日本原燃へ再処理事業を委託するかたちをとる。 日本銀行や日本赤十字社と同じ認可法人は、国の許可なくつぶせない。膨大な費用がかかっても、核燃料サイクル事業を維持したいという、政府としての明確な意思表示と言えるだろう。 だが、再処理工場だけではない。再処理してつくった燃料を燃やすべき高速増殖原型炉の「もんじゅ」(福井県敦賀市)もトラブル続きで止まったままだ。それでも電気代など一日五千五百万円の維持費がかかる。 寸断され、閉じる見込みのない再処理の輪の夢からは、もう目覚めるべきである。 既に大量にたまってしまったプルトニウムや核のごみをどうするかにこそ、知恵と費用を傾けるべき時ではないか。
台所コーナーの棚を買い替え、来訪客に出すコーヒーカップなどを消毒し、設計読書コーナーの書類をPDF化したのちに処分し、応接コーナーのテーブルに花瓶を置きソファーを再配置して、MAX8人までだったらゆったりと座談できる空間構成とした。 これで、過去と決別できた。私は、新しい人間となった。 15年9月6日 日曜日 ゆったり気分の朝 「一乗谷朝倉氏・庭園の魅力と再発見」の案内チラシが、建築事務所協会から送られてきた。 庭園を見たのはもう10年以上前。是非、参加したい。 福井新聞社丸岡支局で「縁者4人展」が開かれ見に行った。 15年9月5日 土曜日 無題 来週月曜日は、あわら市議会定例会一般質問の日です。 通告者 1 森 之嗣 議員 ①芦原温泉駅周辺のまちづくりと新幹線駅について ・芦原温泉駅周辺におけるにぎわいづくり事業の継続について。 ・新幹線芦原温泉駅と周辺のグランドデザインについて。 2 山本 篤 議員 ①東京圏高齢化回避戦略について ・日本創生会議首都圏問題検討分科会の提言についてどう思うか。 ・これからの高齢者の増加によって、市にもたらす影響は、どう予想されているのか。 ・移住政策が行われた場合、移住先の医療・介護などの給付が増大すると予想されるが、移住を促進するために、国にどのような対策を講じてもらいたいのか。 ・高齢者の移住のみならず、人口増加のために若年層の移住も期待できるような政策が必要なのではないか。 ②プレミアム商品券について ・プレミアムの商品券はどれだけ発行したのか。 ・プレミアム商品券が使いづらいという、前回の反省は生かされたのか。 ・担当所管である「あわら市商工会」は、商工会員の増加や使用できる商店の増加に努力をしているのか。 ③中学校のクラブ活動と総合型地域スポーツクラブについて ・総合型地域スポーツクラブである「あわらトリムクラブ」の現在の活動は。 ・総合型地域スポーツクラブの本質は何だと思うか。 ・中学校生徒の減少による部活の減少についてどう思うか。 ・総合型地域スポーツクラブとして、中学校の部活に対して支えていける事がないか。 3 吉田 太一議員 ①移住者対策について ・今年空き店舗、空き倉庫、空き家などの調査をしたが結果はどうだったのか。 ・定住人口を増やすために移住者の受け入れをしていく必要があると思うが、移住者に対しての特典はどのようなものがあるか。 ②観光事業について ・aキューブの利用状況と活用状況は。 ・修景整備された市道田中々舟津線(通称・湯~わくDouri)で市場を7月4日から開催しているが出店数と来場者状況は。 ・開湯130周年事業について、単発事業ではなく継続性を持たせることが大事なのでは。 ③あわら市の起債について ・橋本市長就任8年間における起債状況は。 ・都市計画マスタープランと起債の計画は。 ・起債を減らしていくための考え方と手法は。 4 八木 秀雄 議員 ①指定管理者の外部評価について ・指定管理者が協定項目を順守しているかどうかについて、外部評価を行い、結果を公表する考えはないのか。 ・外部評価を行う場合、どのような方法を取るべきと考えるか。 5 笹原 幸信 議員 ①生活実態のない不在市民の対応について ・あわら市に住民登録があるが、生活実態がない市民は何人程度いるのか。 ・区長等から生活実態がない市民の報告があった場合、どのように対応しているのか。 ・各課において生活実態のない市民を把握していると思うが、庁内で連絡調整を行っているのか。 ・生活実態のない市民に対して、住民税や固定資産税等をどのように課税し徴収しているのか。 ・職権で住民登録を抹消できないのか。 ・国がマイナンバーカードを郵送して交付すると聞くが、宛先不明で市に返送されたものは、どのようにするのか。 6 三上 馨 議員 ①空き家の維持管理について ・空き家の解体・撤去費用について助成を行ってはどうか。 ・補助制度の創設に加え、金融機関と連携した支援を行ってはどうか。 ・空き家の解体・撤去に当たって、固定資産税を一定期間減免するような措置を行ってはどうか。 ・シルバー人材センターなどを活用し、利用できる空き家の管理を促す取り組みを行ってはどうか。 7 卯目 ひろみ 議員 ①公園を活用したウオーキングコース整備(健康増進対策)についてr ・市民の健康対策や認知症対策を目的に、竹田川河川公園及び北潟花菖蒲園を活用し、ウオーキングコースを整備する考えはないか。 8 仁佐 一三 議員 ・北潟湖畔公園のグレードアップと活用について ・湖畔公園はオープンしてから12年以上経過しており、美観を損なう箇所が多くなってきているが、今後の整備や活用をどのように考えているのか。 ・あまり活用されていない芝生広場にグラウンドゴルフの常設コースを整備してはどうか。 ・湖畔公園のPR不足を感じるが、まず、桜並木や公園の設備等をアピールするパンフレットを整備すべきではないか。 9 平野 時夫 議員 ①ごみ減量化対策について ・市内全地区のごみ減量等推進委員から実態の聞き取りをする考えはないか。 ・「ごみ分別アプリ」を制作し、公開する考えはないか。 ・「食べ残しゼロ推進店舗」認定制度の導入の考えはないか。 ・家庭用電動生ごみ処理機の補助制度を導入する考えはないか。 10 山川知一郎 議員 ①獣害対策について ・被害防止柵の維持管理、捕獲への女性拡大を。 ・対策の重点を捕獲に。 ・石川県境への柵設置阻止を。 ②芦原温泉駅周辺整備について ・三つのロータリー必要性・機能は。 ・住民の意見は反映されているのか。 ・埋蔵文化財の調査は時間的に可能なのか。 15年9月4日 金曜日 無題 ぼくが十数年前にこのブログを書き始めた時のタイトルは「敬天愛人」で、勿論、西郷隆盛の言葉だ。 天を敬い人を愛す」の意味だが、愛人の意味が誤解されじきに止めてしまった。 それはともかく昨日の来訪者のうちのひとりがもってきたのが 白鹿で、美味かった。 15年9月3日 木曜日 無題 ぼくの欝もやっと峠を越して、今はもう秋。 さあ、きょうも頑張ろう。とは言っても何を頑張るのかよくわからないのだが、何でもいいから頑張ろう。 昔は「頑張る」という言葉が嫌いだったが、年長けて妙に愛着がでてきた。思うに、頑張って何かに誰かにすがりつきたい気持ちが強くなってきたのだろう。 15年9月2日 水曜日 きょうは日本の降伏文書調印の日 ぼくのテレビ観賞時間は、AM5.50~AM6.20だけ。もちろん、あさちゃんミンスポだ。今朝も国際大会の結果をじっくりと見ていたが、とにかく日本チームは他国の強豪チームと比べて、背が低い。10cmほどの差がある。これでは高さを競うスポーツ例えば陸上の走り高跳び、棒高跳び、バレーボール、バスケットボールなどの部門で決定的に不利だ。 ぼくは海外渡航の経験が二度あって、異国人がレストランで大皿に乗せられた肉やポテトをバカスカ食うのを目の当たりにした時、和食の細さと洋食の太さが体格の差を生むことを実感した。そして、その意味において日本人が世界の手本となる日が近づいていると思った。体格の差によるスポーツイベントなどは所詮遊びの世界であり、真に考えなければならないのは迫りくる食糧危機なのである。危機への対応の選択肢のひとつは、人類が食を細くすることである。
なんでこんなことを書いたかというと 昨日の午後の電話で45分間にわたって出雲の女性から説教を受け、その時に「歴史とは現在と過去の対話なのよ」と言われたからで、腐乱脳味噌ではうまく言えないが、とにかくこの言葉が腹にストーンと落ちたような気がする。 9月に入ったので 奥山に 紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき 猿丸大夫 本日は、とっても忙しいのに長電話があってそれは「印牧先生の講演会の時の牧田さんの沈んだ暗い表情がとても気になったので・・」というものだった。「私は色恋の道を全部捨てた。残されたものはCADと歴史の探究だけです」と応じたのだが、「牧田さんから色恋の話をとったらなんにも残らんでしょう」との即答。やっぱりこれまで通りか。 |