2015年10月日記
 15年10月31日 最上級芋焼酎を飲みながら
 石垣りん「今日もひとりの」
 ビルが建つ
 事務所が足りない、という
 卑近な目的にかりたてられて
 東京中にたくさんのビルが建つ

 そのかしましい響の中で
 今日
 「また一人工事場で死んだよ」
 と、さりげない人々の物語り。

 あの危険な生活の足場から
 木の葉よりも軽く
 撃たれた小鳥よりも重く
 どさり、と落ちて死んでしまった。

 「それはね、一つのビルが建つには
 たいていあることなんだ」
 誰もが日常生活茶飯の中でそう言い続ける
 この近世の非情に対して
 私たちは無力に相づちをうつのであろうか。

 その眼の中に太陽を宿し
 その胸に海をいだき
 こころのぬくみで
 花や樹を育てることのできる
 この不思議な生命、
 どんな目的のためにも
 むざむざと失ってはならないものが
 たやすく否定されたりする。
 
 たとえばひとつの建設
 あるいは大きな事業のためには
 “やむを得ない“などと、
 だから
 平和のためのいくさ
 などともいえるのだろうか。

 道に横たえられた鉄筋が
 生きているもののように立ち上がり組み立てられる
 その建築の
 その目的の
 それが造る人ひとりひとりにきざまれた
 希望であり
 目的であるような
 そのようにいのちも心も生かされる
 人間の仕事はないものだろうか、
 もしそうであったら
 建物と共に残る私たちの歴史は
 どんなに輝かしいだろう。

 今日また一人のひとが足場から落ちて
 死んだ、
 あの危険な場所へ登って行ったのは
 ビルを建てる願いのためではなく
 食べるために
 あるいは食べさせるために

 今日もひとりの人が死んだ。   「石垣りん詩集」より
 
 建築設計稼業の私は、上から鳶職が落ちてきて地面にたたきつけられ落命するという瞬間に二度直面した。それとは別に、バブル全盛の頃だったと思うが、県内大手ゼネコンの監督が東京でのビル建設を終えて帰郷し私の事務所で語った内容が忘れられない。
 「牧田さん、11階建て鉄骨ビル現場で仕事をしていた時、目の前2メートルのところに作業員が落ちてきたんや。すぐに救急車を呼んだが、車が来るまでのあいだ、彼は血走った目で「苦しい 苦しい 体をさすってくれ」と、言うんや。私はあとで病院に行ったのだが、彼は既に落命。担当医師から「落ちた瞬間、衝撃で肋骨はばらばら。死因は体をさすったことで肋骨の破片が内臓につきささったことによる大量出血です」との説明を受けた。してみると私は過失致死を犯したことになるんだろうか」と、言う。要請に応じての行為だから法的に犯罪とはならないだろうが、あの頃の建築現場安全施策は今と比べて段違いに不十分だった。

 きょうは10月最終日。本格的な冬が近づいているのか、足元が冷えて仕方ない。  
 冬と言えば忠臣蔵で、明け方に清水義範著「上野介の忠臣蔵」を読み終えた。
 15年前に読んでおり、2度目の今回は、「清水一学の恋物語」として読んだ。
 吉良の庄の百姓のせがれ・16歳の藤作は、武士になりたくて町道場に通い、一刀流の達人となっていた。その藤作がふとした縁で国帰り中の高家筆頭・吉良上野介と出会い、近習にひきたてられ、清水一学という名をたまわり、江戸の吉良屋敷住まいとなる。そこには新貝弥七郎がいた。・・ということが機縁で、一学と弥七郎の妹・お咲の間に恋が芽生えるのであるが、浅野内匠頭松の廊下事件で、二人の恋は悲恋として終わらざるを得なかった。
 
 それはさておき
 著者・清水の見立てでは、時の五代将軍・犬公方と呼ばれた綱吉が、老中たちの意見を遠ざけ、独善的な裁定を下したことが、討ち入りにつながったとあり、ドラマ化されているテレビ画面とは異質の実相があぶりだされている。
 ところで、声の広場からのコピー貼り付けです。
 
610.昨日(一昨日)の飲み会 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/10/31(土) 9:13
 昨日(一昨日)は牧田氏事務所で痛飲した。いつの間にか一升瓶が、さらに焼酎の瓶が何本か空になっている。事務所を出るときにはさすがに足もとが多少ふらついていたと、迎えの者が云った。

 各々が酒を、肴を持ちこみ議論を交わすのである。論は文学、芸術、歴史、食物から地域振興に及ぶ。いつもそうである。良い大人が青っぽい書生論を交わすのである。時々牧田氏の女性談義が入り込み、笑いを誘い、それが息抜きにもなるのだが、直ぐに青臭い書生論に戻る。

 酒席を楽しくするには浮世離れした話が良い。そのうち牧田氏が酔い潰れて眠り、それで散会となるのがいつものパターンで、昨日もそうだった。

 途中、K女史より電話が入った。彼女は某全国紙の記者で、7年前まで福井支社に配属され、その後高松支社に転勤、現在は松江支社で活躍されている。経緯は込み入っており省くが、彼女に触発されて私は文章を書くようになった、云わば恩人である。私より遥かに若いが優れたジャーナリストである。

 その彼女が来芦する。7年ぶりの再会、旧知の人達を交えて懇談、飲み会となる。

「朋あり遠方より来たる また楽しからずや」  何にも増しての楽しみである。

 15年10月30日 昨日の一日
  午前八時半、井上光晴の「明日 一九四五年八月八日・長崎」というすごい小説を読み終えて頭がくらくらしている中、冷静さをとりもどすために煙草に火を点け大きく吸い込んだ時、昨日の一日がよみがえってきた。

 昨日は外仕事に専念、午後三時に事務所へ戻った。早速CAD画面に向かったとき、玄関ドアが開かれのそっと顔を出した男がいる。乞食のような風袋の男は、「牧田 牧田 また頼む!」と言う。その一言で私は全てを理解した。
 男は毛利先生・・あわら市では有名な絵描きだ。私の事務所をさかのぼったところにアトリエを持つ先生は、時々画用紙や絵の具を買いに歩いて降りてくる。降りてはこれるのだが、さかのぼることが大変困難だ。九十四歳の身にとって、まさに「行きはよいよい 帰りはこわい」なのである。
 先生を助手席に乗せ、私のケトラは発進した。
 先生からアトリエ入るよう促された。作品が所せましと置かれている。
 「牧田、好きな絵一枚持っていけ」と言われたので思案した。一番先に目に飛び込んできたのは、絶妙なタッチの美人画だったが、全身ヌードではないのでためらっていると、「わしの推薦は風神雷神の図や」と言われた。
 
 今、私の事務所の壁にはこの絵が貼られている。

 それはともかく
 とんぼさんから「昨日のブログで見たんやけど、清酒白鶴が入ったんやってなあ」という電話があって急遽一緒に飲むことになった(なんせ私の台所は焼・清酒満載なのだ)。
 加えて某VIPも二本か三本持ってきた。加えて後山の某あわら市議もやってきて、実に久しぶりの男だけの宴席となった。わかったのだが、これはこれで楽しい。

15年10月29日 雨の朝

石垣りん「花のことば」
 (昭和二十一年六月)
昔々 立身出世という言葉がありました

 それはどういうことですか

 意味はさっぱりわかりません
 咲いている花が 尚その上にお化粧することを考えた
 そんな時代の言葉です

 しあわせなことに私たち
 唯 咲くことに一生懸命
 いのちかたむけて ひらくばかりの私たち。  「夜の太鼓」より
 それはともかく
 
 昨日は、清酒を手土産に持ってきてくれた人がいました。一昨日は「知り合いの居酒屋が閉店となったので」と言いつつ数本の焼酎を持ってきてくれた人がいました。ありがたいことです。
 これからは熱燗の酒類と手づくりの前菜で肩の凝らない友人を招待し、秋の夜長を楽しみたい、と思います。

15年10月28日 雨の朝

 石垣りん「夜話」

 ビキニの灰で
 漁夫久保山さんが亡くなれば
 弔意金は五百五十万円だ、と
 新聞が大見出しをする、
  
 貧乏な国の記者が
 貧乏な大衆に向かって書き立てた
 あわれな風情が見えるようだ

 そういう私も
 五百五十万円家族に残せたら
 死んだほうが喜ばれやしないか、と
 フラチにあわれなことを考える。

 小人の国のガリバーのように
 紙幣が
 人間とは不釣合に大きな顔をして
 葬式にまで出てくるのか     「夜の太鼓」より
 

15年10月27日 無題 

 欝気が又でてきたらしく、こういう時は新聞を読まずテレビも見ず、昨晩もひたすら山本一力の「献残屋佐吉御用帖 まいない節」を読んでいた。幕末の浦賀奉行・宅間伊織の抜け荷をはじめとした悪事の数々を暴き出す献残屋佐吉の物語なのだが、裏街道を歩く渡世人も出てきて、どうも、善悪・敵味方を超えて江戸期の日本人には矜持があったことをうかがわせる。
 仕置き拷問の描写など、軟弱人間の私はついつい読みとばしたくなったが、それでも悪寒をこらえて読み切った。
 それはともかく
 真夜中におにぎり一個、朝食におにぎり一個、昼飯におにぎり二個という食生活にそろそろあいてきた。戦国時代、雑兵は何十日もおにぎりだけを食べて、過酷な戦いに臨んできたのだから、「シンプル イズ ザベスト」「安上がり」「塩加減が俺の指先できまる」のキャッチフレーズの元に信念を貫いてきたのだが、現代人の軟弱さ故か、たまには見た目の豪勢な料理をつくってみたくなる。
 一念発起の末、近くのスーパーでIHヒーターを買うことにした。一台四千数百エンと高価ではあるけれども、この機械の購入によって私の料理の幅が格段に拡がること必至となった。否、自分が食べたいというよりも、友人たちに食べさせてあげたいのだ。

15年10月26日 無題

 目が覚めたらもう八時だ。すぐに出かけなくてはならない。
 ということで
 僕は工事現場へ向かう某工務店社長が運転すろ大型トラックの助手席に座ったのだが、彼はハンドルをにぎりながら、「アタシは牧田さんの性格をまだよく知らんのだけど、こんな町のなかじゃなくて人っ子一人いない奥山の庵でろうそくを灯しながら孤独な生活を営みたいんじゃないですか」と、言う。

 「よくわかかるなあ。まさのそのとおりや。あなたのような普通人にはわからんだろうが、あわら市議会のアランドロンとうわさされ、沢山の若い女性たちが僕の肉体を目当てに群がってきたそういう自分の過去と決別したいんや」が、ぼくの答えだった。それを聞く工務店社長の瞳には深い納得の心が宿っていた。
 

15年10月25日 昨日の一日

 昨日の午後、僕は、三国コミュニテイセンター三階に居た。
 三国史学研究会・竹島義一氏による川端での暮らし・・・河戸について」の講演が開かれたためである。
 いつだったか、金津の河戸について新聞のインタビューに答えたこと(水運がもたらした富と繁栄もある僕は、大きな興味をもって氏の話をきくことができた。
 それはともかく
 保阪正康著「特攻と日本」を読み終えた。
 保阪の文章には、「特攻を、指示した大西中将一人の責任としてはならない。戦後を安逸にくらしてきた元高級軍人たちの精神構造を検証しなければならない。、特攻死した人を美化してはならない。犬死だと切り捨ててはならない。遺書の字面だけではなく字面の背後にあるものを見詰めなければならない」との一貫したトーンがある。
 数ページ読むごとに天井を見上げ、、4年前に知覧特攻基地を訪れおびただしい遺書を読んだ時の暗い気分がまざまざと甦ってきた。

 

15年10月24日 もう週末か
 
 夭折の詩人 舘高重 は月刊フェニックスで数十年前に特集されたもの。今は廃刊となっているが、発行責任者の庄山氏は当時金津町水口に住んでいて、十数年前に行われた金津中学校50周年事業の事務局の場となっていたプレファブの二階(私の事務所)へ御夫妻で来られたこともある。今はどこで何をしているのだろう。

15年10月23日 朝は忙しかったが午後はのんびり気分
 
 昨日のプロ野球ドラフト会議で敦賀気比高校出身三人それぞれが、オリックス、日本ハム、広島から指名されたのは予想通りだが、正直なところそんなことはどうでもよくて、我が愛する阪神ターガースの一位指名が誰になるかが、私にとっての興味の焦点だった。

 今朝の新聞を読むと、阪神一位指名・高山の祖父さん(川崎さん)があわら市堀江十楽にに住んでいて、高山が少年の頃は夏休みや正月に来福した折、必ずキャッチボールをしていたと書いてある。この青年の名前を憶えておこう。
 それはともかく
 夭折の詩人 舘高重
 あわら市のみなさん、特に旧金津町のみなさん・・是非お読みください。
 本日、とんぼさんが持ってきました。

15年10月22日 舘高重
 福井新聞2008年2月26日 リレーエッセー「岡崎純」より

 金津町(現あわら市)出身の詩人舘高重(明治三十七年-昭和六年)は、二十七歳という若さで夭折した。私がその詩業の全貌に触れるのは、異母弟舘那富四が平成三年、死後六十年ぶりに発行した「舘高重詩集」によってであった。
 「舘高重詩集」には、<第一集「感情原形質」>「昭和二年刊」、<第二詩集「爪を眺める」>「昭和三年刊」、<詩誌などに発表された作品から>、<昭和二年ー四年の詩稿より>、<遺稿より>の百四十三編と絶筆、略年譜、広部英一の跋文が収録されている。
 舘那富四は「あとがき」で、昭和初期、地方にあって青春の全てを賭けた義兄の詩業を一冊にして、霊に手向けたいと記している。
 略年譜によれば、高重(本名孝重)は、明治三十七年十月に出生、翌年六月には生母死亡。九歳のとき継母を迎えた。大正十二年一月、福井農林学校卒業の年に父が死亡。昭和三年四月に結婚したが、七月に愛妻が病死した。このように舘高重は、肉親との縁が薄かった。
 その上、岐阜高等農林学校を卒業した昭和二年七月に肋膜炎を患い、一度は回復したが再発した。
 その療養の中での詩作であった。舘高重の詩には、こうした人生の薄倖が孤独感となり、さびしさやかなしさ、いとしさ、わびしさとして色濃く陰影している。そして、ナイーブで純化された祈りの詩情がある。

 ひもすがら吹雪を聞き
 炬燵でみかんを食べている
  
 妻よ
 極楽浄土にも蜜柑があるか
 おいしそうにぱくついている
 お前を思い出している

 またも涙にぬれた
 冷たいみかんよ
 さみしいこころよ。

 この詩は「愛妻詩編」のなかの「一月」と題された一篇である。病死した愛妻を想ってのさびしさやかなしみををせつなく抒情している。
 ところで、昨年十二月の福井詩祭「福井の詩人の詩業から」では、舘高重、刀禰勇治両詩人を対象とした。その事前に誌友たちと金津町の舘家を訪ね、遺族が大切に保存している同人誌など貴重な資料を見ることができた。
 残念ながら、「舘高重詩集」発行の折の資料は見つかっていないとのことであったが、詩集「感情原形質」発行までの熱心な詩活動の凡そを知ることができた。
 大正十二年一月に父が死亡、その十二月に「愚像を抱いて」の小詩集をまとめている。高橋新吉のダダの影響を受けた短詩である。その扉に「この貧しき詩集をなき父に捧ぐ」とあり、序に「決して父は詩を書くことを許さなかった」と記している。第一詩集「感情原形質」も亡父の霊に捧げており、関東に「詩を書いても飯が食えないと 一昨年親父に叱られた」しかし「でっかい魚を釣ってみせるから」と詩への思いを「魚」と題して載せている。そして、第二詩集「爪を眺める」も亡妻に捧げるものであった。未刊に終わったが翌年、愛妻詩編などを集めて第三詩集を出す予定であった。この詩集もおそらく、亡妻、亡父母に捧げたものであっただろう。
 舘高重は、このように一途に、人生を詩に燃焼させて夭折した早熟の詩人であった。
      (筆者・岡崎純 日本現代詩人会員)
 ところで
 舘家は、市内大溝(市姫荘の近く)にあります。
 
 それはともかく
 アメリカ大リーグでは、ワールドシリーズに向かっての闘いが熾烈だが。阪神ファンのぼくは、大リーグではトロント・ブルージェイズのファン。
 20数年前に、ぼくたち夫妻はトロント郊外のヘイズ宅で10日間のホームステイをした。ある日、ヘイズ夫妻はぼくたちをトロント球場のスプリングキャンプに誘ってくれた。190cm以上、100kg以上の大男たちが目の前数メートルのところをのっしのっしと歩いている。巨漢ではあるけれども三遊間の守備の敏捷性、一塁への玉のスピードなど信じられなかった。
 ミスター・ヘイズが製紙会社の副社長だったことによるコネだろうが、ぼくたちはスカイドームの機械室や舞台裏をものぞかせてもらった。
 冥土へのいい土産話となっている。

15年10月21日 無題

 昨日の来訪客は3人。それぞれから考えさせられる話を聞いたような気がする。
 ところで
 昨日、とんぼさんが持ってきたのが
 舘高重 愛妻詩編「一月」
 
 ひもすがら吹雪を聞き
 炬燵でみかんを食べている
  
 妻よ
 極楽浄土にも蜜柑があるか
 おいしそうにぱくついている
 お前を思い出している

 またも涙にぬれた
 冷たいみかんよ
 さみしいこころよ

15年10月20日 ラッキョウその他もろもろ 
 昨日の朝、遠方の友が三国へラッキョウを買いにきたので、知り合いの店まで連れて行った。
 三国のラッキョウ生産量は全国シェアNO1で、加工場もさすがに熱気がある。

 遠方の友であり会ったのは三年ぶりなので話しは尽きず、ドライブがてら日本海側をまわった。   陽光に映える水面(みなも)が青く美しい。葬式などせずに波のまにまに散骨してほしいとひとまずは思うのだけど、それも死者の自己本位的考えで、生き残ったものが周りに迷惑をあたえないよう処理してくれればいいとやっぱり思ってしまう。

 途中、30年ほど前に自殺した共通の友人の墓に参った。
 いろんなことが、夢のように過ぎてゆく。
 '90年代の終わりに「マスイメージ論」や「反核異論」を世に問うてから信者が激減した吉本隆明だけど、「言語にとって美とは何か」などを読み返してみると、学者や教師にならず在野で自立の思想を発信し続けた知の巨人であることを改めて思う。
 自己表出と指示表出から成る言語の分析から、自己幻想・対幻想・共同幻想の三つの観念世界をひもとき、彼の言う「自立思想」は展開されたのだが、我々のような昭和20年代生まれのいわゆる団塊の世代に彼を好きな人つまり信者が多い。
 とにかく文章がむつかしく、ぼくなど、何度読んでもよくわからないのだが、読み終えるたびに、何故かすかっとした気持ちになる。

15年10月19日 無題 
 七転八倒
 四十年中
 無他無自
 四大本空
 

 五代にわたって越前国を支配し、戦国期の有力大名であった朝倉義景の辞世の詩である。
 景鏡の謀反で死を決意した義景は切腹の前に母・光徳院、妻・少少将、幼子・愛王丸を逃がす。しかし三人は丹羽長秀によって今庄宿で捕えられ、信長の命により斬殺される。

 二十年ほど前、郷土史家の山口先生に連れられて今庄宿へ行った折、自分の家の敷地内に祠を建て、先祖代々400年にわたって三人を供養し続けている老人から話を聞いたことがあるが、斬殺の修羅場をまるできのうのことのように生々しく語っていた。
 

15年10月18日 昨日のこと

 とんぼさんと山川(知)さん以外には会う人もなく、酒浸り本浸りの日々を送っている僕に、武生の女性から、「Mさん、亡くなったのよ」という電話が入ってきて、「うーん、この世は無明長夜やなあ」と思い酒屋で買ってきたウイスキーをちびりちびりと飲みながら生前のMくんを回顧していた昨日の午後、唯一のガールフレンド・Kさんが現われた(・・相変わらず美しい)。

 ふところが多少あたたかかった僕のせりふは「喫茶店へ行こう。おごるぜ」で、金津創作の森にある「喫茶・言の葉」へ行った。
 当然のことながら、彼女と一緒にいた時間帯は僕に至福をもたらしたのである。
 それはともかく
 ・高校野球北信越大会決勝は敦賀気比vs工大福井の福井県勢どおしとなった。どちらにも勝たせてあげたい。
 ・阪神の次期監督は金本になるとのことだが、誰が監督になるにせよプレイをするのは選手である。
 ・予想通り、ヤクルトスワローズがセリーグの覇者となった。別次元の強さを持つソフトバンクホークスを是非とも打ち負かしてほしい。
 声の広場から・・
608.「石碑が語る明治鉄道史」の紹介
名前:とんぼ    日付:2015/10/17(土) 21:27
 11月21日(土)市民文化研修センター研修室(金津本陣IKOSSA3階)にて午後1時30分より(問い合せ あわら市郷土資料館(73-5158) 

「仲仕組創立紀念之碑が語る明治鉄道史」の講演がおこなわれます。ぜひご来場ください。

講演内容

序文 碑文解読
明治34年(1901)7月に建立された「仲仕組創立紀念之碑」は風化が激しく、欠落文字、判読不能の文字も多数ありますが、碑文の解読に挑みました。

1 明治初期の鉄道事情
明治という時代は封建国家日本が近代化に向けて必死に走り抜けた時代でした。西欧列強に肩を並べるため殖産興業、富国強兵をスローガンに掲げていたのですが、それを成し遂げるためには国内に幹線鉄道網を完成させることが必須条件でした。

明治2年の御前会議で鉄道敷設は国家事業として位置づけられ、出発したのですが、明治10年の西南の役で財政が極度に悪化し、民間による鉄道敷設に転換します。北陸三県の鉄道敷設も民間会社から始まりました。

2  東北鉄道会社設立
福井、石川、富山の三県は、旧大名が発起人となり、新潟~富山~石川~三国~福井~四日市(三重県)を貫通し東海道線に接続させるという壮大な鉄道敷設を目的とした「東北鉄道会社」の創立願いを政府に提出したのです。

しかし政府工部省は実現性を危ぶみ、敷設区間を富山~石川~三国~福井とするよう通達を出しました。これに反発したのが福井県でした。福井~武生~敦賀、さらに東海道線への接続は福井県の悲願だったのです。福井発起人はすべて脱退し、「東北鉄道会社設立構想」は瓦解したのです。

3  北陸鉄道会社設立
各地で鉄道敷設運動が活発する中、北陸三県も再び鉄道敷設に向けて動き始めました。それが「北陸鉄道会社」設立運動です。紆余曲折がありましたが認可され、いざ動こうとする矢先、またしても三県の足並みが乱れました。お決まりの人事抗争です。加えて莫大な敷設費用を調達することができず、またしても瓦解したのです。

4 北陸線、国家事業となる
明治25年、主要幹線鉄道を官設とする「鉄道敷設法」が成立し、北陸線は国家事業となりました。背景に極東に進出するロシアへの警戒がありました。北陸線を東海道線に接続させ、日本海側に兵員、物資の搬送を容易にさせるためでした。

5 北陸線のルートが三国から金津に変更される。
従来のルートは福井~森田~三国~大聖寺でした。しかしこのルートよりも森田~金津~大聖寺が敷設区間が短く、工費を節約できると鉄道官僚が主張しました。これに対して経済界の重鎮、渋沢栄一は鉄道は(既存の物流拠点である)港湾と繋ぐことが、より利益に適うとして三国迂回を主張したのです。そこに割って入ったのが軍部でした。

海上から攻撃されやすい海岸線に近い鉄道敷設に反対したのです。激論が交わされ、水面下で運動がおこなわれ、一時は三国迂回が決定されたのですが、軍部の圧力により金津経由が決定しました。

6 鉄道開通後の物流事情
鉄道開通後、海運水運は急速に衰退しました。物流の拠点は鉄道の主要駅に移り、駅での荷役作業、運送業務を担う労働力が求められました。金津ではその労働力を水運の衰退で職を失った仲仕たちに求めたのです。

殖産興業推進のために陸上交通網の整備を目指していた政府も主要駅での運送会社設立は緊急の課題でした。それに呼応して設立されたのが、金津の場合「仲仕組」だったのです。

以上が簡単なあらましです。(当日はより詳細に、資料を駆使して説明します)
明治という、極めてまれな時代、国内事情、国際事情を説明しながら、金津駅開業、仲仕組創立の経緯を説明します。話すことは不得手ですが、その分は資料で補強します。金津の交通史を知りたい方は無論のこと、明治交通史、明治史そのものを知りたい方、参加をお願い申し上げます。(とんぼ)



15年10月17日

 祇園石段下の血闘
 薩摩藩士・指宿藤次郎が薩摩の間者として新撰組に入っていたのは、慶応二年三月から四月までの一ヶ月余であった。幼いころから薩摩示現流を学び既に達人となっていた藤次郎はその出自を隠すため、江戸・北辰一刀流千葉道場に入門し腕を磨く。
 実技試験で新撰組に入った藤次郎は薩長藩士との路上斬り合いにおいて頭角を現し、土方歳三にことのほか可愛がられるのだが・・

 明治撃剣会

 明治兜割り

15年10月16日 ちょっと思ったこと
 昨晩のプロ野球クライマックスシリーズ・セリーグ巨人vsヤクルトを見ていてスカッとした。もう、セリーグ覇者は決まったも同然だ。阪神にとって来年度の本当の敵はもはや巨人ではなくてヤクルートスワローズだろう。
 阪神は一日もはやく和田の後継監督を決定発表してほしい。後継者選びにゴタゴタがあるのなら、いっそのこと川藤幸三にやらせたらいい。幕末の毛利候と同じ「そうせい そうせい」の連発は、もしかしたら現代においては最強のリーダーシップかもしれない。
 監督が決まったらすぐに秋季練習に入るべきだ。曜日に関係なく練習休日日は設けない。夜は外出禁止でコップ一杯の酒だけを許可し、道場での座禅を義務づける。大晦日も元旦も関係なく、そもそもシーズンオフという字句を阪神タイガース辞典には載せないのだ。
 それはともかく 
 津本陽が直木賞受賞のあとに発表した短編のいくつかを読み終えて面白かったのが、「祇園石段下の血闘」「明治撃剣会」及び「明治兜割り」。

 祇園石段下の血闘
 薩摩藩士・指宿藤次郎が薩摩の間者として新撰組に入っていたのは、慶応二年三月から四月までの一ヶ月余であった。幼いころから薩摩示現流を学び既に達人となっていた藤次郎はその出自を隠すため、江戸・北辰一刀流千葉道場に入門し腕を磨く。
 実技試験で新撰組に入った藤次郎は薩長藩士との路上斬り合いにおいて頭角を現し、土方歳三にことのほか可愛がられるのだが・・

15年10月15日 昨日の一日
 朝一番で三国土木事務所へ行き、帰りに芦原図書館へ寄る。あわら図書館と金津図書館では、置いてある本その他でいろいろ違うところがある。
 僕は、借りたい本を決めて図書館へ行くのではなくて、漫然と背表紙を眺めて歩き背表紙がラブコールを送ってくると感じられるものを借りることにしている。

 図書館を出て、吉崎の工事現場へ。
 

 帰りに天爵大臣切通しを歩く。
 
 僕が、金津三大風景のひとつと頑なに思っている場所だ。

 帰宅してCADに励んだあと、疲れて寝転的読書。
 手に取った本は、内田康夫著「逃げろ光彦」で、浅見光彦シリーズで有名な内田がエロ満載のこんな本を書いているとは知らなかった。というよりも、全ての人間は、健康性と魔性性の二面を併せ持つというところか。
 

15年10月14日 舘高重

 午前6時、本日の仕事のための準備完了。さあ・・いまから8時までが自由時間だ。

 舘高重「敦賀港にて」という詩がある。
とりのこされた石炭が砕けて全く歩道になった海岸通りである
真っ赤な花が道ばたに咲いているのも何だか旅らしい気持がする
湖のように重みのあるこの湾の内には午後の陽がすでにまぶしい
ぽっかり浮いた第一艦隊の軍艦四隻
その周囲は蟻のような見物人の艀のむれ
旅はへなへなと石灰岩の岬の方から玩具の船のように寄せてくる
それでも蛇のような波止場の腹へぶつかると笑ったようにしぶきをあげる
この下の渚で泳いでいる黒金魚のような漁師の子供がいる
おだやかな箱庭の眺望 敦賀の海は僕にとって二度目のフィルムだ

 敦賀湾に面する川崎町で色白金髪の男子(おのこ)として産まれ、蝶よ花よと育てられた僕にとってノスタルデイを誘う詩だ。

15年10月13日 無題

 昨日に山川さんが治安維持法で弾圧されたリストを持ってきた理由は、「このなかの何人かの子孫をしらないか?」ということでありましたが、僕は数人を知っているのみで、困ってしまいました。なんでも、「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」という組織があって、現在、活動中とのこと。

 さて連休も終わりました。シャバではいろんな行事があったらしいのですが、もとより人ごみのなかへでかけていくのが嫌いで、加えて人嫌いに拍車がかかり、この三日間は晴読雨読の日々。しかし、きょうからは普通の生活に戻ります。
 辺見じゅん編著「昭和の遺書 南の戦場から」を読んでいて、しきりと思い出されたのが城山三郎著「指揮官たちの特攻」
    真珠湾攻撃が「経済力では桁外れに大きなアメリカが、情報戦も含め、準備万端待ち受けているところへ、日本側はほとんど素手も同然で飛び込んで行った行為」と見ることもできる。ハワイ攻撃直前の昭和16年11月15日、海軍兵学校を卒業した432名の中に、関行男と中都留達雄という若者が居た。このノンフィクションの主人公だ。
 関と中都留は同年輩。同じような環境で育ち同じく指揮官となるのだが、性格は好対照。関が豪放磊落ややもすると尊大であるのに対して、中都留は沈着冷静。部下にやさしく、大西中将が発案したとされる特攻計画に批判的だった。しかし軍人にとって上司の命令は絶対で、二人とも特攻機で海の藻屑となる。ともに両親は教職への道を勧めたのだが、それを断固拒否し、兵学校への道を選んだ。

  昭和19年に入ってふたりとも結婚し子をもうける。死を宿命づけられていながら結婚したのでは、遺族の悲しみを増やすのではないかと、私などは思うのだが、当時の社会は家中心で、家系存続が一番大切だったのである。 霞が関で教官生活を続ける関は、教官であること自体に不満で、はやく前線に出て、航空兵として手柄をあげたいと思っていた。そして、台南航空隊で予科練出身の下士官・兵を対象に、後に「桜花(おうか)と呼ばれる開発中の人間ロケット弾の乗員募集が行われるに当たって、「ぜひ私にやらせてください」と応募したのである
 昭和19年10月20日朝、出撃待ちの特攻隊員たちへの大西中将の訓示は、心をこめたものであった。「日本はまさに危機である。しかも、この危機を救いうるものは、大臣でも、大将でも、軍司令総長でもない。もちろん自分のような長官でもない。それは諸子のごとき純真にして気力に満ちた若い人々のみである。したがって、自分は一億国民に代わって、みなにお願いする。どうか成功を祈る」

命令するというより、頼む、お願いするという形で話しはじめ、「みなはすでに神である。神であるから欲望はないであろう。もしあるとすれば、それは自分の体当たりが無駄ではなかったかどうか、それを知りたいことであろう。しかしみなはながい眠りにつくのであるから、残念ながら知ることもできないし、知らせることもできない。だが、自分はこれを見とどけて、かならず上聞に達するようにするから、安心して行ってくれ」と結び、も一度、「しっかり頼む」と「天地がひっくり返る」という言葉がある。

愛媛県西条で一人暮らしをする関行男大尉の母、46歳のサカエを見舞った運命がまさにそれであった。もっとも、それから1年余りで、サカエはもう一度、天地のひっくり返る手痛い思いをさせられることになるのだが。

 当時、サカエの唯一つの楽しみは、映画を見に行くことであった。そして、唯一の生甲斐であった息子行男の死を報されたのが、その映画館の中であった。親類の小野勇太郎が駆けつけてきて、「いま、ラジオの臨時ニュースで、神風特攻隊が・・」その神風特攻隊が何なのか、どんなに晴れがましい死なのかなど関係なくサカエの耳に残ったのは、かけがえのない息子が戦死してしまった、という一事であった。

サカエはよろめくように映画館を出た。そして、どこをどう歩いて来たか、全くおぼえのないまま、家にたどり着き、へたへたと畳に座りこんだ。やがて、次から次へと人が訪ねてきた。隣り近所の人、知り合い、親戚、そして、見も知らぬ人たち。町の内外から、いや全国各地から、次々と弔問客や団体が訪ねてくる。手紙や弔電はもちろん、供花や線香や香典などが、小さな家に溢れ返り、客はもちろん、サカエ自身の身の置き場さえない。 当時はまだテレビもなく、ラジオも日本放送協会というので、まだしもよかったが、さもなければ、三日 と経たぬうちに、サカエは寝こんでしまうところであった。          そして、慰められても、サカエの反応はただ一つ、放心したまま頭を下げ、さらに放心していく。 
「よくまあ倒れずに座っている、という印象でした」と、サカエの親戚筋にあたる大西伝一朗はいまなお思い出す。ラジオや新聞が戦果をくり返し、二階級特進した関中佐を「軍神」と賛えたおかげで、我が子の死でなくなってしまった。サカエは一人っ子の死の悲しみに沈むよりも、「軍神の母」として振舞わねばならなくなった。それは女性の嗜みとして、僅かに着物の襟に爪楊枝をはさんでおくといった暮らしをしてきたサカエにとっては気の遠くなりそうな日々であった。
各紙はまた、サカエ自身の言葉を含めて関大佐の生前のエピソードを伝えていた。
 <模型飛行機が大好きな子で、その頃から兵隊になるんだと口ぐせ」にいってゐました。一人息子ながら  食物の好き嫌いをいったことは一度もありません>エトセトラのと思われる関からの手紙も紹介されていた。<〇〇空に着任したが、また転勤で戦地へ行く、あまり慌しいので、面喰ってゐる、    服類も靴なにもいらぬ。永い間待望の戦地だ、思ふ存分頑張る覚悟だ、時局はいよいよ最終段階に入り、戦局はますます逼迫して来た、お前も自重自愛して働くやう、国の母にもよろしく>特攻の話が出る前と思われるのに、まるで遺書同然の手紙であった。 サカエはそれらの新聞に幾度か目を通しはしたものの、感想など漏らすことはなかった。



15年10月12日 昨日の一日
 昨日の午前中は、明社の赤い羽根共同募金活動で動いた。
 終了間際にスコールのような瞬間的豪雨に見舞われ、下着もろともずぶぬれになってしまったが、裏を返せば、終了時まで雨が降らなかったのは、明社あわら支部会長(僕のこと)の日頃の心がけの良さによるものとも言える。
 

 午後はプロ野球クライマックスシリーズ阪神vs巨人戦をテレビ観戦。剣ヶ峰にたった阪神タイガースはやはり強かった。きょうの第三戦も勿論見るつもりです。
 ついでに言うと、賭博容疑が浮上した巨人選手の家族なかんずく子供がかわいそうだ。

 阪神快勝の余韻に浸っている時、共産党山川知一郎あわら市議が現われた。手には、昭和初期に治安維持法で弾圧されたあわら市内の名簿リストがある。

 夜は辺見じゅん編著「昭和の遺書 南の戦場から」を読んでいた。太平洋戦争の末期、沖縄戦に向かう途中に迎撃され海の藻屑となった3000人の乗組員のなかの82人の家族にあてた手紙が収録されている。
 手紙のなかに秘められた慟哭を追っているうち、自分が今生きていることに辟易してくる。
 
 そこでこの本を中断し、傍らに置いてあった佐高信著「小泉純一郎と竹中平蔵の罪」を開いた。佐高のしゃべりはユーチューブでよく聴いているが、字面も同じだ。およそ権力に追従する政治家、評論家、電波芸者をひとまとめに足蹴りしているのだけれども、字面の基底にあるものは笑いである。決して湿ってはいない乾いた笑いである。

 例えば
 ・・赤旗葬で送られた寒村は、八〇歳の時に、いま一番望むことはと瀬戸内に問われてこう答えている。
 「もう一日も早く死にたいですよ。ソ連はチェコに侵攻する。中国はあんなふうだし、日本の社会党ときたらあのざまだし、一体自分が生涯かけてやってきたことは何になったのかと、絶望的です。人間というものはどうも、しょうのないもんですね。この世はもうたくさんだ」
 一方三島とは若き日のファンレター以来のつきあいで、太宰治と森鴎外の墓のある禅林寺の近くに下宿していると書いたら、三島からこんな返事が来た。
 「私は鴎外先生を非常に尊敬しています。太宰はきらいです。お詣りする時は、太宰のお墓にお尻を向け、鴎外先生にはお花を奉って下さい」・・

15年10月11日 歴史講座 

 昨日は印牧先生の講演会で長谷川宅に十数人が集まり、一番若い僕は冒頭の挨拶を受け持った。

 講演のテーマは
・古代の歴史 貝塚
・坂北郡荘園と春日神社(本荘総社 金津総社)と市場(いちば)
 一週間ほど前に、印牧先生、長谷川さんと僕の三人で大鳥神社境内の貝塚跡を歩き、江戸期に市が開かれたことで有名な八日町界隈を歩き生涯学習館へも行ってきたのだけど
 

 印牧先生の博覧強記ぶりは傑出していて、とても93歳とは思えない。まさに語り部だ。
 夜更けてから10時過ぎに男女ペアが来訪。応接コーナーは早速焼酎パーテイーの場と化した。何をしゃべり何を聞き何を笑ったのか全く覚えていないが、おかげで今朝の起床は5時半と遅かった。
 けだるい日曜日の朝となったが、赤い羽根共同募金に行かなくてはならない。やれることをやるだけだ。

15年10月10日 静寂のなかで
 
 深夜に開高健の達者な文体に触れていると眠気がやってこない。文章からさまざまの妄想がひろがり目は爛々とする。
 そうこうするうち時計の針は五時半をさした。タイムアップだ。CADにたち向かわなくてはならない。
 その前に熱々美味珈琲をすする。

 よいコーヒーとは
 悪魔のように黒く
 地獄のように熱く
 天使のように純粋で
 愛のように甘い (タレーラン)
    のである。

15年10月9日 無題
 広島カープ・東出輝裕内野手が引退するという。
 東出は鯖江ボーイズから敦賀気比高校へ行った。気比高の当時の監督・渡辺氏の従妹が金津町議時代のぼくを支えてくれたひとであって、そういう縁からも、最近試合にでてこない東出のことが気になっていたのだが・・。

 甲子園には三度出場して、通算打率が四割六分。とにかく足が無茶苦茶にはやくて、一塁にでるといつも盗塁していたような気がする。一度、先発予定の投手が怪我をして代わりに東出がマウンドに立った。そして9回を(確か)二点に抑えたのだが、三塁手が急遽先発し二点に抑えるというところがすごい。ましてや、相手チームはあのPL学園だったのだから驚きだ。運動神経のかたまりだったんだろうなあ。

15年10月8日 長岡藩には「米百俵」の逸話もあるが
 岳真也著「蒼龍 河井継之助」を読み終えてから、ずっと継之助のことを考えていた。
 徳川幕府最後の将軍慶喜が既に大政を奉還。新政府軍は会津城を攻撃すべく北越を東上し次々と各藩を恭順させていくのであるが、長岡藩の忠実な幕臣=家老・河井継之助は徹底抗戦を考えるものの圧倒的な差故に長岡の町を灰燼に帰してはならないと思い悩み逡巡する。
 結局、相手の攻撃陣にひとり乗り込み、指揮者・岩村精一郎に対して「我が長岡藩は、西軍にも東軍にも組みしない。思いはただ長岡藩の維持繁栄だけであり、藩としては中立の立場をとりたい」との弁舌を披露するのだけれども、岩村は傲岸な態度で継之助を一蹴し席をたってしまう。

 戦争を決意せざるを得なかった長岡藩はどの藩にも先駆けて購入していた最新鋭兵器・ガトリング砲をもって政府軍を迎撃するのであるが、そのさなか、左足を鉄砲でやられてしまう。指揮のできなくなった継之助は忠臣の部下数人に担架ではこばれながら、山中(日和山だったかな?)へ逃げる。

 傷はますます悪化し、最後の時がきた。傍らの薪の火を眺めながら詠んだ辞世の句は
 八十里 こしぬけ武士の 越す峠 というやや自嘲気味のものだった。
 しかし、かれの胸に去来していた言葉(ことのは)は「人間は生きるために死ぬ」であった。この言葉の深さを私はかみしめたい。
 僕は今、開高健著「オールウエイズ」を読んでいる。僕にとって戦後日本文学のなかで好きな作家ベストスリーのなかのひとりだ。好きになった理由のひとつとして、高二高三の時の担任教師・児玉センセの口ぐせがある。

 「おまえらは三島由紀夫を読め、小林秀雄を読め、開高健を読め」だった。勿論、開高の爺さんが隣町・丸岡町の出身であることも親近感を持った理由のひとつであるが、やはり児玉センセの口ぐせがなつかしい。

15年10月7日 無題
 香佑を焚くようになってから、体の調子がいい。
 三日三晩続いた耳鳴りが影をひそめ偏頭痛が和らぎ食欲が戻ってきた。煙草がそんなに美味しくなくなってきたこと・焼酎から距離を置けるようになったことも香佑の効用だ。
 香佑の匂いは身体を純化させるのだろう。

15年10月6日 無題
 昨晩は、石井紘基議員のドキュメンタリー番組を追っていた。
 闇の金の流れを明るみに出そうとした石井議員は国会質問の三日前の白昼、自宅前で右翼に暗殺されてしまう。番組は、暗殺を指示した人物が国家権力の中枢にいることを暗示していたが、番組を見ていた僕は電気を消し、机の引き出しからとりだした線香「花ふぜい」に火をつけ、知り合いとの話を思い出していた。

 知りあいがテレビである産廃不法投棄現場を告発したところ、その日の晩に匿名ヤーサンから電話がかかってきて「あんさんにも可愛いこどもがいるんやろ。月夜の晩だけではあらへんで」と言われて、心臓がちじみあがったそうである。
 それはともかく
 今朝は、吉崎の工事現場にいる。小春日和でほんわかした気分。
 
 ということで
 世の中は 地獄の上の 花見かな  小林一茶

15年10月5日 新しい週に入った
 煙草を買う以外どこへも出かけずひたすら本ばかり読んでいた土日が終り、読書からさよならして仕事に励まなければならない月曜日がやってきた。
 
今回も感じたことだが、深夜に本ばかり読んでいて、疲れを癒すために目を白い壁面や天井面に天井面に転じると、そこに活字群が踊っている。視力の減退によるものかどうかわからないが恐ろしいことだ。
 それはともかく
 阪神の尻に火がついた。全ての試合スケヂュールを消化した現在、あとは広島の負けを祈るだけだ。神仏を信じてはいないけれども、苦しいときには神頼みするしかないのである。

15/10/04 (日) 無題
 
 昨日は早朝から大工仕事に没頭。
 9時過ぎに印牧先生と長谷川さんが来訪。大鳥神社、八日町界隈散策に随行した。その後、三人は生涯学習館経由で喫茶「ラコンテ」へ。
 午後に入ってから古川薫著「漂泊者のアリア・上下」の読書を開始。夜明け前に読み終えた。
名前だけしか知らなかったが、藤原義江という歌手は、実にケタハズレの生涯を送ったのだ。

 戦国非情・第三部のデーター
とんぼさん(長谷川さん)が持ってきたので、UPしました。是非ご覧下さい。
 どうでもいいことだが
 昨晩、広島カープがヤクルトスワローズに負けて、阪神タイガースのCS進出が確定的となった。いいことである。僕がこの世で一番目に幸せを感じるのはタイガースの勝利であり二番目はジャイアンツの敗北であり、ついでに言うと三番目はロッテの勝利である。

15/10/03 (土) もう週末か
★八日町の地理的区分
〇北金津
横嶺・鎖下・大久保・長畑・中山・東野・大野・小野・狐塚・丸亀山・指口・千束腰・千束宿瀬続・新左エ門・奥左エ門・千束谷・向坂・猪ケ谷・一里山・弐里塚・鳥ケ嶋・百枚田・百本鳥・馬見塚・穴旅山・穴葉崎・茅山崎・友平山・西阪・金ケ丸・東阪ノ上・西中道・操場・東中道・吹上ケ・保久黒谷・石切場・中尾山・犬墓・行蟹山・外門前・東佐戸ノ下・西佐戸ノ下・雁田・下茅ケ谷・稲葉・江ケ谷・馬渡・滝ケ端・二口中江・西中江・拾俵田・堅田・下中江・鳥田・横手・樋之詰・花田・五千歩・兼定・荒西江・北地蔵・北根堪・中嶋・馬之骨・新堀・重義境・鴨住・大河原・西貝之宮・東開ノ宮・尼ケ渕・地藏河原・松河原・馬河原・堂ノ腰・南坂ノ下・北坂ノ下・丙子年・下八日町・上八日町・藤桜・十日町・字立町・春日山下・春日前・水口・天野・坪之内・清水ケ尻・桑野・山之下・平田・中割・山ノ根・平田二口・南二口・獅子ケ鼻・字働場・昼喰場・東藍場・西藍場・前河原・三蔵渕・窪所・東河原・奥河原

〇南金津
東中道・六本松・中道・西中道・東側・東橋詰・西橋詰・御殿畑・真狐畑・堂ノ奥・相ノ神・東兵庫殿・兵庫殿・東光り・光り・東尼ケ渕・西尼ケ渕・古戦場・春日腰・西御幸道・多部・麻田・住吉・鷹ノ場・御納戸・早稲田・西早稲田・御幸道・北柳町・柳町・古地蔵・西地蔵・東折戸・西折戸・国市・川瀬・西龍郷・龍郷・蛇塚・一本松・京田・南龍郷・向谷畠・西向谷畠・南川瀬・影山・弐反田・西長丁・長丁・樋詰・馬乗田・南弐反田・西平田・平田・穴ケ市・直繩手・西来村・来村・春日田・西蓮松・東蓮松・五反田

〇町村制の実施
 ・明治六年に上八日、下八日、宮川、三丈、坂ノ下、千束に分れた(権区長 石田五右エ門)。
 ・町の北端稲荷の地(上八日)は遊女町で、二十有余の妓楼が軒をつらね、数多の遊女が厚化粧をして客の袂をひいていた。
 ・宿駅として問屋、旅宿、茶店、本陣、脇本陣があり、南金津には駅馬三十疋が常備されていた。
 ・毎年七月中には市が立ち、三日と十二日は坂ノ下、六日は六日町、八日は八日町、十日は十日町が市日で、近郷から沢山の人々が集まって賑わった。

 

15/10/02 (金) 昨日の一日
 昨日は10月1日=赤い羽根共同募金スタートということで、早朝に、えち鉄・湯のまち駅前に立っていた。
 

 そのあと、長谷川さんと一緒に三国・性海寺(印牧先生の御自宅)を訪ねた。
 境内には「清水健次郎文学碑」が見える。
 

 退去し、電話連絡があった吉崎の工事現場に向かったが、この頃から雨が本降りとなる。風も強く台風なみだ。
 

 夕刻に一日の日程を終えて帰宅。体がひどく冷たいので風呂を沸かして、全裸になった。風呂場に熱燗を持ちこもうかと一瞬思ったが、止めた。
 風呂上りにホット焼酎を飲みながら、辻川達雄著「蓮如実伝」を読む。
 そのうち、うとうと うとうと うととうと。
 それはともかく、金津・大鳥神社
 
 ・ふるさとの 社の裏の貝塚は 今も昔のままなるらんか
                              永井鱗太郎

 ・毘沙門信仰=四天王のひとつ 多聞天→北方をつかさどる
 ・ムカデは霊異の強い虫で敵を毒液で刺し殺す。それ故、武将が旗
等に用いた。のち、商人などが客足の多い縁起に用いた。
 ・鶯神社(東京浅草)=もとは農耕神でのちに武神となる。その祭りである御酉祭りは防火についての信仰にもなった。そこで売られる熊手が金銀をかきまぜるという招福信仰に変わった。

15/10/01 (木) 読み終えて
 佐高信著「人生のうた」は14編から成っているが、13編は最終編「人賢くて神を求めず」への(いざな)いのようなものだ。

 伝道者の 寂しさ極み(つま)に見ぬ 
              人賢くて 神を求めず  斉藤たまい

 佐高は「朝日歌壇」でこの歌を見て、20年後に斉藤宅を訪ね、四時間にわたって彼女から話を聞く。
 ・・斉藤はとくに戦中のことを熱っぽく語ってくれた。その言葉の端々に七十歳を過ぎたとはとても思えない若々しさがあふれていた。
 「戦時中の防空訓練では、いつも協会に爆弾が投下されて、どこか炎上したことにされて、それが悔しくって」
 斉藤は笑みを浮かべながらも、いまでもゆるせないというように口をとがらせる。
 「奥さんの場合は鬼畜米英よね」
 「敵国アメリカから何かもらっているんでしょう」
 などと口さがなく言うくせに、伝令の訓練となると、命令の口述ができない隣組の婦人たちにかわって、斉藤は一歩前へ進み出て、協会の塔に五百キロの爆弾が投下されたといったことを口述し、訓練が終わってから、悔し涙にくれたという。
 そのころ、牧師の夫は、召集され、赤ん坊の長女を背負って、斉藤は、露骨になってきた村八分的な扱いに堪えていたのだった。
 強くならなければ、一日も生きていけない日々だった。・・・
 <鬼畜米英>を母協会に持つ聖公会の主教や聖職が次々に拘留され、同じ高崎市のホーリネス協会の牧師夫人は留置されたといった話も聞こえてきた。
 「この次は奥さん、あんたよ」などと、近所の人に心ないことも言われ、非国民という強迫めいた葉書や、早く合同せよといったパンフレットは数えきれないくらい送りつけられた。
 月に一度は必ず、高崎署から私服の刑事がやってきて、特高の名刺を差し出し、生活費はどうなっているか、信徒名簿を出せと<尋問>していった。・・