昨日に山川さんが治安維持法で弾圧されたリストを持ってきた理由は、「このなかの何人かの子孫をしらないか?」ということでありましたが、僕は数人を知っているのみで、困ってしまいました。なんでも、「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」という組織があって、現在、活動中とのこと。
さて連休も終わりました。シャバではいろんな行事があったらしいのですが、もとより人ごみのなかへでかけていくのが嫌いで、加えて人嫌いに拍車がかかり、この三日間は晴読雨読の日々。しかし、きょうからは普通の生活に戻ります。
辺見じゅん編著「昭和の遺書 南の戦場から」を読んでいて、しきりと思い出されたのが城山三郎著「指揮官たちの特攻」
真珠湾攻撃が「経済力では桁外れに大きなアメリカが、情報戦も含め、準備万端待ち受けているところへ、日本側はほとんど素手も同然で飛び込んで行った行為」と見ることもできる。ハワイ攻撃直前の昭和16年11月15日、海軍兵学校を卒業した432名の中に、関行男と中都留達雄という若者が居た。このノンフィクションの主人公だ。
関と中都留は同年輩。同じような環境で育ち同じく指揮官となるのだが、性格は好対照。関が豪放磊落ややもすると尊大であるのに対して、中都留は沈着冷静。部下にやさしく、大西中将が発案したとされる特攻計画に批判的だった。しかし軍人にとって上司の命令は絶対で、二人とも特攻機で海の藻屑となる。ともに両親は教職への道を勧めたのだが、それを断固拒否し、兵学校への道を選んだ。
昭和19年に入ってふたりとも結婚し子をもうける。死を宿命づけられていながら結婚したのでは、遺族の悲しみを増やすのではないかと、私などは思うのだが、当時の社会は家中心で、家系存続が一番大切だったのである。
霞が関で教官生活を続ける関は、教官であること自体に不満で、はやく前線に出て、航空兵として手柄をあげたいと思っていた。そして、台南航空隊で予科練出身の下士官・兵を対象に、後に「桜花(おうか)と呼ばれる開発中の人間ロケット弾の乗員募集が行われるに当たって、「ぜひ私にやらせてください」と応募したのである
昭和19年10月20日朝、出撃待ちの特攻隊員たちへの大西中将の訓示は、心をこめたものであった。「日本はまさに危機である。しかも、この危機を救いうるものは、大臣でも、大将でも、軍司令総長でもない。もちろん自分のような長官でもない。それは諸子のごとき純真にして気力に満ちた若い人々のみである。したがって、自分は一億国民に代わって、みなにお願いする。どうか成功を祈る」
命令するというより、頼む、お願いするという形で話しはじめ、「みなはすでに神である。神であるから欲望はないであろう。もしあるとすれば、それは自分の体当たりが無駄ではなかったかどうか、それを知りたいことであろう。しかしみなはながい眠りにつくのであるから、残念ながら知ることもできないし、知らせることもできない。だが、自分はこれを見とどけて、かならず上聞に達するようにするから、安心して行ってくれ」と結び、も一度、「しっかり頼む」と「天地がひっくり返る」という言葉がある。
愛媛県西条で一人暮らしをする関行男大尉の母、46歳のサカエを見舞った運命がまさにそれであった。もっとも、それから1年余りで、サカエはもう一度、天地のひっくり返る手痛い思いをさせられることになるのだが。
当時、サカエの唯一つの楽しみは、映画を見に行くことであった。そして、唯一の生甲斐であった息子行男の死を報されたのが、その映画館の中であった。親類の小野勇太郎が駆けつけてきて、「いま、ラジオの臨時ニュースで、神風特攻隊が・・」その神風特攻隊が何なのか、どんなに晴れがましい死なのかなど関係なくサカエの耳に残ったのは、かけがえのない息子が戦死してしまった、という一事であった。
サカエはよろめくように映画館を出た。そして、どこをどう歩いて来たか、全くおぼえのないまま、家にたどり着き、へたへたと畳に座りこんだ。やがて、次から次へと人が訪ねてきた。隣り近所の人、知り合い、親戚、そして、見も知らぬ人たち。町の内外から、いや全国各地から、次々と弔問客や団体が訪ねてくる。手紙や弔電はもちろん、供花や線香や香典などが、小さな家に溢れ返り、客はもちろん、サカエ自身の身の置き場さえない。
当時はまだテレビもなく、ラジオも日本放送協会というので、まだしもよかったが、さもなければ、三日 と経たぬうちに、サカエは寝こんでしまうところであった。 そして、慰められても、サカエの反応はただ一つ、放心したまま頭を下げ、さらに放心していく。
「よくまあ倒れずに座っている、という印象でした」と、サカエの親戚筋にあたる大西伝一朗はいまなお思い出す。ラジオや新聞が戦果をくり返し、二階級特進した関中佐を「軍神」と賛えたおかげで、我が子の死でなくなってしまった。サカエは一人っ子の死の悲しみに沈むよりも、「軍神の母」として振舞わねばならなくなった。それは女性の嗜みとして、僅かに着物の襟に爪楊枝をはさんでおくといった暮らしをしてきたサカエにとっては気の遠くなりそうな日々であった。各紙はまた、サカエ自身の言葉を含めて関大佐の生前のエピソードを伝えていた。
<模型飛行機が大好きな子で、その頃から兵隊になるんだと口ぐせ」にいってゐました。一人息子ながら 食物の好き嫌いをいったことは一度もありません>エトセトラのと思われる関からの手紙も紹介されていた。<〇〇空に着任したが、また転勤で戦地へ行く、あまり慌しいので、面喰ってゐる、 服類も靴なにもいらぬ。永い間待望の戦地だ、思ふ存分頑張る覚悟だ、時局はいよいよ最終段階に入り、戦局はますます逼迫して来た、お前も自重自愛して働くやう、国の母にもよろしく>特攻の話が出る前と思われるのに、まるで遺書同然の手紙であった。
サカエはそれらの新聞に幾度か目を通しはしたものの、感想など漏らすことはなかった。
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