2015年11月日記
15年11月30日 新しい週の始まり
 
 半藤一利と加藤陽子の対談集・「昭和史裁判」の第二章・近衛文麿を読んでいて、しきりに思い出されたのが、西木正明著「夢顔さんによろしく」だ。夢顔さんとは近衛文麿の長男・文隆のことである。

 この本は、終戦時にA級戦犯に指定され服毒自殺した近衛文麿首相の長男・近衛文隆〔細川護熙の叔父にあたる〕を追ったドキュメンタリーだ。
 満州で終戦を陸軍士官として迎え捕虜となり、シベリア抑留。各地の収容所を転々としたあと、ハバロフスク裁判で国際ブルジョアジー幇助という罪で26年の禁固刑を受ける。昭和30年の日ソ国交正常化交渉に際し、鳩山一郎首相の帰国要求や国内からの数十万人もの署名入りの嘆願書があったが、帰国が叶うことはなく、死去。彼の死は病死にしては不審な点が多く、西木は毒殺の可能性を強く示唆している。
 平成3年、「政治弾圧犠牲者の名誉回復に関する」ソ連法で無罪、名誉回復。平成4年、ロシア連邦軍最高検察は、近衞文隆の名誉回復を採択、平成9年、ロシア軍最高検察から名誉回復証明書を出した。

15年11月29日 (うたげ)のあと
 
 昨晩は某大手新聞女性記者(現在松江支局勤務)を迎えての歓迎パーテイで、参加者は7人。
 「友あり遠方よりきたる」なので、僕は事務所応接ゾーンの床をきれいに磨き、3人の女性参加者のことを(おもんぱか)って、特にトイレの清潔に気を付けた。
 入ってきた彼女が、開口一番、「まあ!居酒屋みたいね」と、僕を誉めたので嬉しかった。
 とんぼさん手作りの絶品刺身がテーブルの中央に配置され、各自が持ち寄った何本ものビール・焼酎が並んだ。
 いつものことだが、僕の両サイドは女性だったので煙草はひかえたが、かわりにアルコール類の痛飲がどんどんすすみ、時は流れた。
 本日は、午前6時に起床。

15年11月28日 寒い朝
 
 半藤一利と加藤陽子の対談集・「昭和史裁判」の第一章は・広田弘毅について。
 極東国際軍事裁判で絞首刑の判決を受けた唯一の文官だが、名前を知っているだけで人物像など何一つ頭になかった。 読み終えても頭がグシャグシャになっただけで、対談でさかんに引用されている城山三郎著「落日燃ゆ」を読まねばなるまい、と思う。
 それはさておき
 外が白みはじめてきた。防寒具に身を包んで、吉崎へでかけよう。
舘高重第一詩集・感情原形質から

とぎ鎌か 電光を ふり上げたように
僕は非常に興奮を覚えてきた
たましいの いつわらざる 触感
僕は柔らかい処女の肉体を尊びます

いつも世の中が
今夜のように暗やみなら
僕のすべての意識をぶち砕いてもいい

しかしね 神様
僕は処女の発光を信じます

15年11月27日 昨晩
 昨日は寒かった。
 そこで、夕刻にはやばやと仕事を切り上げ、ウイスキー「凛」を片手に寝床にもぐり込み、テレビ映画「刑事コロンボ」が始まるのを待っていたら、泣く子も黙る共産党あわら市議・山川氏がやってきたので、12月議会のことをいろいろ聞いていた。氏が帰ったあと、すれちがいざまにやってきたのが小説家・とんぼさんで、彼が今一番興味を持っている舘高重の詩についてのいろいろをうかがっていた。
 ホットウイスキーによる酩酊状態かつ眠気の進行で夢現(ゆめうつつ)になっていたところへ、(おそらくあわら市民のみなさん全部が知っている)VIPが入ってきて、某大手新聞記者の歓迎パーテイについての打合せの場となった。
 思うに、かっての私の事務所への来訪者は若く美しい女性ばかりだった。今では男性ばかりで、それも殆んどが僕より年上だ。時は過ぎていく。
 
 降る雪や 昭和は遠くなりにけり 中村草田男もどき

15年11月26日 雨を眺めながら

 昨日の朝は、今年一番の寒さだったそうだ。
 
 ということで、きょうの未明に、僕は天爵大神開鑿の吉崎古道切通しにひとりたたずんでいた。
 この場所を金津三大風景の一つと僕は秘かに名づけているのだが、特に真冬の風景が素晴らしい。
 20数年前のしんしんと雪が降る真冬にここを訪れた時、切り立った崖肌に真紅に咲く一輪の寒椿が目に入った。
 俗界と冥界のはざまに居るような思いにかられた僕は、思わず隣の人妻の左手を強く握りしめてしまった(注 誤解されるとこまるのだが、女嫌いの僕が妻以外の女性の手を握ったのはこの時だけ)。
 
 
 それはともかく 舘高重第一詩集・感情原形質(昭和2年出版)から
 午後
 麦花におう田舎道から
 畑を越えて 畑を越えて
 歩調を揃えた兵隊がとおる
 垣根の田んぽぽのような
 あのうしろの人が大隊長だ

 明るい空気がすき通って
 気持ちいい青空だ
 子供等は葉笛を高く吹き鳴らす

 「兵隊さん 菜種の花が散っているので寂しかろう」

15年11月25日 早朝の吉崎は寒くて、僕はぶるぶる震えていた

 高橋源一郎の「一〇一年目の孤独」を読んでいると、彼が「身体の障害」のことを最も深く考えている小説家の一人であることが、よくわかる。
 
 僕は、この30年のあいだ手話を勉強してきて、個人的ながらも聾者との付き合いはながく、障害者といえば彼等ばかりで、どうしても失聴を「身体の障害」と考えてきたが、8年前に脳内出血で倒れ、今日(こんにち)までその後遺症とたたかってきて、「身体の障害」の多様性を考えるようになった。考えるようになったのだけれども、それを言語化する能力が僕にはない。
 
 そういう時、数日前に出会ったのが、この「一〇一年目の孤独」だ。
 

15年11月24日 昨日の一日

 昨日の朝は、「かりんて祭」会場へ。何年ぶりかの会場だったが、沢山の知人たちと挨拶を交わすことができた。
 

 午後は、数人で印牧先生宅(性海寺)。先ずは墓所へ。
 三国湊の繁栄の象徴でもあった森田家の広大な墓地のなかに末裔の二男の御母堂の名前を見た時、数十年前に彼の家の住宅設計にいそしんだことを思い出した。
 清水健次郎氏直筆の詩碑の前に佇んだあと、先生宅の応接間へ。

 昨日のブログで触れたことについて先生にお聞きしたら、「司馬さんから電話がかかってきたのは、30年ほど前。でもお互い時間の都合がつかず、会うことはできませんでした」との答えが返ってきた。


 声の広場から転載
613.「仲仕創立紀念総会之碑」講演会、御礼申し上げます。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/11/23(月) 22:4
 去る21日の「仲仕組創立総会紀念之碑」講演会は牧田さんがブログで紹介されたように盛況でした。会場のスペースから参加者30名と制限されたのですが、来場者は記帳された方が50名いらっしゃいました。他に資料を申し込まれた方もおられ、念のためにと用意した60部のほとんどが捌けました。

 ご来場された方々(資料を求められた方々)、ありがとうございます。会場が手狭になり机が用意出来ずご不便をおかけした事、お詫び申し上げます。

 正直なところ、これほど多くの方々が御来場されるとは思いませんでした。郷土資料館のスタッフの方々も大変御苦労されたことと思います。ありがとうござました。

 講演は意気込みだけが空回りし、反省すべきことが多々あり、皆様のご期待に添えなかったことと申訳なく思っております。それにもかかわらず、アンケートには温情あるお言葉があり、未熟さを反省すると同時に、今後の糧といたします。

 もとより、これほどの多くの方が御来場されたのは私の力ではありません。スタッフの方々は広報活動に汗を流されました。牧田さんは多くの人々に資料を配られて宣伝されました。早朝にポステイングもされたのです。本当に頭が下がります。

 反省すべき点は多いのですが、それ以上に収穫がありました。どのような企画が市民を惹きつけるのか、どうすれば多くの人々に知らせることができるのか、どうすれば多くの方々に御来場いただけるのか、それを掌握できたということです。中学の同窓生も駆けつけてくれました。新しい人とも知り合いました。坂井市からも福井市からも御来場された方がいらっしゃいました。

 この事を励みとして、今後も故郷の史跡、文学、逸材を発掘して市民に紹介していきたいと思います。

「声の広場」をおかりしましてお礼を申し上げます。ありがとうございました。


15年11月23日 無題
 
 昨晩、読んでいた、司馬遼太郎著「街道をゆく・十八」の284ページ
 「この湊の沖合の大型船からおろされた玉鋼(たまはがね)は、小さな川船に積みこまれ、九頭竜川をのぼり、さらに日野川をさかのぼる。武生の北の鯖江付近まで船行(ふなゆき)ができたという。
 武生の鍛冶屋はそれを買って、お得意の鎌を打つのである。
 私どもは、かって漆問屋だったという「うるしや」でそばを食べている。つい連想が漆にちなむが、江戸期に越前でさかえた漆器生産も、鎌に関係があったらしい。印牧邦雄氏の「福井県の歴史」(山川出版社刊)によると、塗師屋(ぬしや)自身が、売子をかかえて、村々や国々に売ってまわったという・・・」のくだりにさしかかった時、本日、印牧先生宅を訪問する予定なので、その偶然が面白かった。

15年11月22日 日曜日の朝に
 
 昨日の長谷川氏・講演会には、30人定員のところに50人が来場し、とても盛況だった。
 

 

 
 
 上の写真右側が講師の長谷川氏、左側が私(かって、金津町議会のアラン・ドロンと呼ばれた男)。

 この講演によって、地元の歴史に新しい光が与えられたと、私は思う。

15年11月21日 もう週末か
 
 本日の福井新聞26面に「旧北陸線トンネル群、国文化財に 難所越え輝く鉄道遺産」の見出し記事がある。

 急勾配の「難所越え」で知られる敦賀市と南越前町の旧北陸線トンネル群が20日、国登録有形文化財(建造物)に登録される運びになった。地元関係者は、「待ちに待った知らせ」と喜びに沸き、「これからも鉄道遺産として大事に保存しなければ」と決意を新たにした。来年は旧北陸線の敦賀ー福井開業から120年。文化財と合わせ、観光面の効果にも期待している。・・ということで、ながながと続くのだが、この記事は本日の講演会とも関係あるし、又、僕は敦賀・気比の松原生まれでもあるので、興味深く読んだ。

15年11月20日 無題
 
 早朝に建築工事現場へ行く途中、道路上でタヌキの死体に出くわした。車にはねられて間もないのだろう、近寄ると暖かみがある。マルマルと太っていて、狸汁にしたら美味そうだ。でもぼくに料理はできない。

 帰途、料理のプロ・長谷川宅に寄ってその話をしたら、「私にも料理ができない。我が家では太目の猫を飼っているから」と、言われた。
 
 きょうの福井新聞24面に、長谷川さんの講演案内記事が載っています。

15年11月19日 ひと山越えて
 昨晩読んでいた沢木耕太郎著「男と女」は、檀一雄(昭和51年死去)の妻・檀ヨソ子さんからの聞きがたり記録。
 とりあえず本人の序文を・・
 「もし「テロルの決算」が山口二矢という十七歳の少年に対する「義侠心」が書かせたものだとすれば、やはりこの本は、ヨソ子という女性への「義侠心」から生まれたものだと言える。私には、ヨソ子さんが壇一雄の妻であったことによって、ことさらつらい書き方をされてしまったのではないかという思いがあった。彼女は「火宅の人」という獄に心ならずも幽閉されてしまった人なのではないか? おそらく、私がしたいと望んだのは、そこからの「脱獄」の手助けだったのだろう。
 もちろん、それだけが私に「檀」を書かせた理由ではない。ひとりの人から話を聞く。それも、徹底的に聞く、ということがなかなかできないでいた。私は「いつの日にか」と思っていたが、壇ヨソ子さんと初めてお会いしたとき、ついにその「いつの日にか」がやって来たのを知ったのだ。
 いっさい発表の媒体や期日を考えないで始めた仕事だったが、最終的には鈴木力氏に頼んで「新潮」の一九九五年七月号に一挙掲載してもらった。単行本化してくれたのは新潮社の初見国興氏であり、装丁を担当してくれたのが、のちにフリーランスとなる緒方修一氏だった。」
下は声の広場からの転送です。
608.「石碑が語る明治鉄道史」 再度の紹介 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/11/18(水) 13:7
 11月21日(土)市民文化研修センター研修室(金津本陣IKOSSA3階)にて午後1時30分より(問い合せ あわら市郷土資料館(73-5158) 

「仲仕組創立紀念之碑が語る明治鉄道史」の講演がおこなわれます。ぜひご来場ください。

講演内容

序文 碑文解読
明治34年(1901)7月に建立された「仲仕組創立紀念之碑」は風化が激しく、欠落文字、判読不能の文字も多数ありますが、碑文の解読に挑みました。

1 明治初期の鉄道事情
明治という時代は封建国家日本が近代化に向けて必死に走り抜けた時代でした。西欧列強に肩を並べるため殖産興業、富国強兵をスローガンに掲げていたのですが、それを成し遂げるためには国内に幹線鉄道網を完成させることが必須条件でした。

明治2年の御前会議で鉄道敷設は国家事業として位置づけられ、出発したのですが、明治10年の西南の役で財政が極度に悪化し、民間による鉄道敷設に転換します。北陸三県の鉄道敷設も民間会社から始まりました。

2  東北鉄道会社設立
福井、石川、富山の三県は、旧大名が発起人となり、新潟~富山~石川~三国~福井~四日市(三重県)を貫通し東海道線に接続させるという壮大な鉄道敷設を目的とした「東北鉄道会社」の創立願いを政府に提出したのです。

しかし政府工部省は実現性を危ぶみ、敷設区間を富山~石川~三国~福井とするよう通達を出しました。これに反発したのが福井県でした。福井~武生~敦賀、さらに東海道線への接続は福井県の悲願だったのです。福井発起人はすべて脱退し、「東北鉄道会社設立構想」は瓦解したのです。

3  北陸鉄道会社設立
各地で鉄道敷設運動が活発する中、北陸三県も再び鉄道敷設に向けて動き始めました。それが「北陸鉄道会社」設立運動です。紆余曲折がありましたが認可され、いざ動こうとする矢先、またしても三県の足並みが乱れました。お決まりの人事抗争です。加えて莫大な敷設費用を調達することができず、またしても瓦解したのです。

4 北陸線、国家事業となる
明治25年、主要幹線鉄道を官設とする「鉄道敷設法」が成立し、北陸線は国家事業となりました。シベリア鉄道がウラジオストクに向けて着々と延伸され、極東支配を目論むロシアへの警戒がありました。北陸線を東海道線に接続させ、日本海側に兵員、物資の搬送を容易にさせるためでした。

5 北陸線のルートが三国から金津に変更される。
従来のルートは福井~森田~三国~大聖寺でした。しかしこのルートよりも森田~金津~大聖寺が敷設区間が短く、工費を節約できると鉄道官僚が主張しました。これに対して経済界の重鎮、渋沢栄一は鉄道は(既存の物流拠点である)港湾と繋ぐことが、より利益に適うとして三国迂回を主張したのです。そこに割って入ったのが軍部でした。

海上から攻撃されやすい海岸線に近い鉄道敷設に反対したのです。激論が交わされ、水面下で運動がおこなわれ、一時は三国迂回が決定されたのですが、日清戦争(明治27年7月25日)直前の6月、軍部の圧力により金津経由が決定しました。

6 鉄道開通後の物流事情
鉄道開通後、海運水運は急速に衰退しました。物流の拠点は鉄道の主要駅に移り、駅での荷役作業、運送業務を担う労働力が求められました。金津ではその労働力を水運の衰退で職を失った仲仕たちに求めたのです。

殖産興業推進のために陸上交通網の整備を目指していた政府も主要駅での運送会社設立は緊急の課題でした。それに呼応して設立されたのが、金津の場合「仲仕組」だったのです。

以上が簡単なあらましです。(当日はより詳細に、資料を駆使して説明します)
明治という、極めてまれな時代、国内事情、国際事情を説明しながら、金津駅開業、仲仕組創立の経緯を説明します。話すことは不得手ですが、その分は資料で補強します。金津の交通史を知りたい方は無論のこと、明治交通史、明治史そのものを知りたい方、参加をお願い申し上げます。(とんぼ)

尚、現在NHK朝のドラマで「あさがきた」、大河ドラマ「花燃ゆ」放映されていますが、この講演ではドラマの背景(激動の明治時代)も説明しますので、ドラマをご覧になっている方、より理解を深めるためにもぜひご聴講ください。

 


15年11月18日 最期の言葉

 重松清 渡辺考編「最後の言葉(戦場に残された二四万字の手紙」を明け方に読み終えた。
 この本は、太平洋戦争から60年を経て遺族のもとに届いた幾つかの手紙の追跡の記録である。ミッドウエイ海戦のあと戦局が不利になり、ガダルカナルやサイパンの島々で玉砕を覚悟した日本軍の兵士たちが家族あてに書いた遺書である。家族にとどくはずのないことをわかっていながら書いた遺書である。
 
 島々を制圧した米軍は、累々と横たわる日本軍の死骸の装備品から取りだした手紙類をワシントンDCに送り、英訳し保存していた。
 
 重松清は作家、渡辺考はNHKのデイレクター。この本は2004年発行とあるから、その数年後には、運よく手紙をうけとることのできた兵士の配偶者や子ども、甥、姪つまり遺族の肉声が放映されたものと思われる。しかしその時の私は脳内出血で倒れ、某大病院に入院中。勿論、テレビを見ることなど出来るはずがなかった。

 手紙の基底にあるものは大本営が発表する「大きな言葉」ではさらさらなくて、家に帰りたい玄関先で「ただいま」とあいさつしたいという「小さな言葉」の集積であり、そのことこそが胸をうつ。

 ビデオなどで見れるかどうかNHKに行ってこようと思う。

15年11月17日 敦賀気比決勝へ そして敗退

 夜道はあぶないです。
 昨晩は、某居酒屋で二人の建設業者と共にアジフライ食べながらの焼酎会談を楽しんだ。
 夜もふけ散会となり、私は徒歩で家まで帰ったのだが、事故はその時に起こった。
 看板に顔をぶつけてしまったのである。気絶しそうになるほどの痛みをこらえながら事務所にもどったら、妻が「大変や、右目の下数センチが切れて赤い血が流れてる、ベッドに寝なさい、わたし今からコンビニ行ってキズパット買ってくる」と言って出て行った。
 
 ふたつわかったことがある。
 ①夜道は周囲の障害物に注意しながら歩かなくてはならない。視力の衰えた者にとって特にそれが大切だ。
 ②妻があれだけ一生懸命看病してくれたのは、私を愛してくれているからだろう。

 反省点として、「出かけての夜の飲み会には出席しない」ことが挙げられる。

15年11月16日 昨日の日曜日
 
 パリでの同時多発テロが世界を震撼させているなか、知り合いの工務店が多額の負債を抱えて倒産したという電話連絡が入って、大状況である前者の方が余程人類にとっての危機であるにも関わらず、仕事がらみの観点から自分にとっては後者をより切実に感じてしまうのだから、人間というのは不思議だ。言いかえれば、その想像力のなさが、生きる持続力となっているのかも知れない。
 ということでとりあえずテレビの前に座り、さいたま国際マラソンや大相撲九州場所をながめて、束の間、平和な気分を味わっていた。
 そのさなか、80歳代の老女・Kさんが来訪。要請されて、彼女を仲仕組合碑の建立場所へ案内した。明治30年代の国鉄金津駅と彼女の先祖とに間には浅からぬ縁があったらしく、深い感慨の表情を浮かべながら、往時の状況を静かに語り続けた。

15年11月15日 無題
 今朝(けさ)は6時半に起床。頭がボーッとしている。
 うん、昨晩は飲み会だったのだ。集まったのは5人。
 料理のプロ・とんぼさん手作りの鍋料理に舌鼓をうった。酒類も、ニッカウイスキー、清酒山田錦・丸、焼酎芋と盤石の態勢。例によってい酔っぱらったぼくは途中で睡眠。目が覚めた時、既にみなは帰ってしまって、一人某あわら市議だけが残っていた。氏は代行運転会社に電話し、代行車が来るまで、議会報告会のあり方を滔々とぼくに語っていた。 日付が変わった午前零時半に就寝。

15年11月14日 今晩は飲み会
 
 重松清 渡辺考編「最後の言葉(戦場に残された二四万字の手紙」
 千葉三夫陸軍中尉の日記
 節子のこと思ひ出したらたまらなし。今頃何をなしあるや。・・・只軍人社会にうとき為、時折話が食違ふことあり。然れども、軍人のことを何もかにも知り盡すのも、又興薄し。節子は余にとりて最大の宝なり。定めしクシャミしありなん。
 節子の肌、恋し。  (昭和十七年一月十日)」

 富士屋に行き晝食を喫す。節子との思ひ出の場所にて、御殿場にて最后の晝飯を食ふ。節子もさびしからん。果して、愛の結晶芽ばえしや。節子とのこと、躰を思ふ存分抱きしめたし。  (一月十二日)

15年11月13日 明け方は冷える
 
 昨日は、あわら市庁舎までを自転車で往復した。安全運転に自信がついたので、本日は芦原図書館までの自転車往復に挑戦する予定。それにしても、両足の筋力が非常に衰えていることがよくわかった。普通の人並みとまではいかなくても、せめてスローライフが続けられる程度には筋肉を回復させたい。
 北朝鮮による拉致被害者の救出にとりくむ法律家の会編「拉致と強制収容所」を読了。
 現在、福井県内に住む地村帰還夫妻の講演を何度か聞いたことはあるが、拉致されているとされている人たちの名簿を眺めると、ぼくと同世代が多いことに改めて驚く。
 そういえば
 ぼくが20代後半のころ、波松の浜で深夜バーベキューパーテイを女子高校生たちと楽しんでいたある晩、一人の男が現われた。
 「あやしげにうろついている男たちをみなかったか?」と、我々に聴く。
 「日本人拉致のために、北朝鮮から小舟で密入国してくる男らが、最近多いんや」と、その自警団員は語った。

15年11月12日 無題
 
 白い航跡・下巻の帯はこう書いている
 「脚気の原因を巡り、高木兼寛は陸軍医部を代表する森林太郎(鴎外)と宿命的な対決をする。それは学理を重視するドイツ医学を信奉する東京帝国大学及び陸軍首脳と、患者の治療を重んじ実証主義に徹するイギリス医学に則る海軍首脳との抜き差しならぬ対決でもあった。この対決は日清・日露を経て、両者の死後初めて決着した。」

 まだ読み終えていないが、興奮しながら読んでいる。
 西洋医学を志した高木兼寛は、上司の推薦を得てイギリスの大学へ留学する。最優秀の成績で卒業するのだが、そのあいだに、故郷日本では実父が亡くなり義父が亡くなり息子も亡くなっていた。
 失意のどん底に落とされた彼は、しかしそこから這い上がり、海軍医となる。軍人に脚気で死亡する者が余りにも多いのに愕然とした彼は、脚気撲滅へ向けて執念の鬼となるのだが、その彼の前に大きく立ちふさがったのが、東大陸軍首脳の偏見であった。それは、綿密に資料を解析し「米食一途の偏った食生活にある」との結論を出した兼寛の態度と相反するものであり、当然さまざまな横やりが入り、兼寛は嫌われる。
 しかし、信念は嫌われ排斥されるとこらから始まるという真理を、この小説は描いていくのだった。
 

15年11月11日 缶コーヒーを飲みながら
 
 「ロシア陸上選手のドーピング違反が国家ぐるみ!?」という昨夜のテレビニュースはまさに衝撃的。
 1964年に開かれた東京オリンピックにもそういう影があったのかの懸念が一瞬走ったが、勿論そう思いたくはない。
 
 高杉良著「東京に オリンピックを呼んだ男」
 主人公は、ロサンゼルス在住日系二世フレッド・和田勇である。
 昭和24年8月、日本水泳選手団が全米水泳選手権に出場するために渡米した。そして和田が日本選手団に、9日間の宿泊先としてサウス・バンネスの邸宅を無償で提供した。
 選手権で日本チームは自由形六種目中五種目に優勝、九つの世界新記録を樹立した。特に古橋廣之進の活躍はめざましく、全米マスコミは彼のことを「フジヤマのトビウオ」と呼んで賞賛した。
 まだ米軍統治下だった日本本土からマッカーサー元帥による祝電も打電された。日本中が戦後の混乱期のなかで疲弊していた時に勇気と希望を与える出来事となったわけである。
 さて
 和田が単に戦後の米社会で順風漫歩に成功しただけの男だったとしたら、この物語の魅力は半減するのだが事実はそうではない。彼の一家は生地和歌山県で食いつめ、戦前に米本土に移住した。そこでいろんな仕事に手をだし失敗し要するに七転び八起きの人生を繰り返しているうちに両親はなくなった。そしてその時に米国と祖国日本との間で太平洋戦争が勃発したのである。
 彼は強制収用所入りを拒否し、仲間と共にユタ州キートリーに移り住む。日系人は軍需などの工業製品づくりに従事することができないので、荒地を腕一本で開墾し農産物を出荷して生計をつないだ。周囲からは「中国人をいじめるジャップ、帰れ!」と嘲られた。
 米国籍をとってはいたものの、祖国が日本であるとの思いでアイデンテイテイのギャップに苦しんだことが、戦後になってから東京オリンピック招致に米国籍でありながら陰で活躍する伏線となったのは間違いない。
 当時高校一年生だったぼくには、東京オリンピックがまさしく「平和の祭典」に映ったものだが、平成の世になった今のスポーツ界は、陸上ではWADAのドーピング疑惑、サッカーではFIFAの贈収賄疑惑、野球ではジャイアンツ選手の賭博容疑と、不祥事満載だ。
  例えば野球賭博の場合、罪の軽重は別として、やった本人が世間から叱責を受けるのは仕方ないとしても本人の子供たちがかわいそうだ。学校でいじめを受けないだろうかと心配で仕方ない。

 

15年11月10日 本日は超音波試験
 
 吉村昭著「白い航跡」上巻を読み終えた。
 時は戊辰戦争。主人公・高木兼寛は、20歳という若さであったが、薩摩藩小銃九番隊付の医者として、小銃一番隊、番兵一番、三番砲隊の兵たちとともに江戸の姫路藩邸とその周辺の民家に分宿した。一番から十二番までの番隊は、藩士によって編成された薩摩藩の正規軍で、最強の小銃隊であり、衣服も一応ととのっている。が、番兵隊は郷士を集めて編成されていて、筒袖を着たり、中には汚れきった浴衣に脚絆をつけたりしている者もいる。
 故郷の鹿児島を出発した九番隊は、鳥羽伏見の戦いに参加、慶応四年五月六日朝に淀方面で有力な幕府軍と遭遇した。激しい銃撃でたちまち一名が即死、四名が深傷を負わされた。兼寛は、これらの負傷者の応急手当をしながらも、指揮者の官軍相良吉之助と野崎平左衛門が少しもめげることなく兵を励まして突撃するのを眼にした。隊員は銃砲火の中を番兵が追って進撃し、強力な砲台を占領することに成功した。
 とまあ、この小説は戊辰戦争の記述から始まるのであるが、主軸は、維新後に西洋医学を日本に導入する際、対象を、基礎に優れたドイツ医学にするか臨床に優れたイギリス医学にするかの明治新政府の混乱へとうつっていく。・・
 きょうは出ずっぱりで少々疲れ気味。早く眠りたいのだが、夜も出なくてはならない。でも、お呼びがかかることを嬉しく思わなくてはならない。楽しくて苦しいつまり楽苦(たのくる)しいのが人生だ。
 

15年11月09日 新しい週の始まり
 
 昨日は廃品回収の日だった。「これを出してくれ」とお袋が指さす自転車は、タイヤがパンクしているだけで、他は悪いところがない。
 しばらく考えて、今週から自転車に乗ることにした。ガソリンの節約及びハビリテーションの一石二鳥なのだ。年金生活者にふさわしいだろう。
 それはともかく
 今回、議会報告会に参加して思ったことは、参加者からの猪への行政対策に関する不満が過半を占めていたことだ。いろんな意見が出ていたが、執行権のない議員に明確な答弁は期待できないし、事実その通りだった。
 ぼくは思うのだが、猪を生け捕りし調理して販売することが不可欠だろう。猪肉加工工場の建設は あわら市単独では無理なので隣りの坂井市と提携してやるべきだ。そして猪料理店を開業すべきだ。 

15年11月08日 きょうから大相撲
 
 昨日の午後は、福井県文書館にとんぼさんと一緒にいた。奈良女子大教授、舘野和己さんの講演・「古代の荘園史料を読むー東大寺桑原荘券からみた荘園経営ー」が開かれたためである。
 実は一昨日の夕刻に金津町北野在住の女性(老女性)郷土史家・Kさんが持って来た案内パンフのなかの桑原荘という字面に魅かれてのものだったが、講演での資料説明はむつかしく、私のようなドシロウトには場違いであったような気がする。
 
 ただし、講師はハンサムで、ばりっとした濃紺のスーツに身をつつんでいて、彼を慕っている女子学生たちも沢山いるのだろうと それが羨ましかったのだが、羨ましがっていても仕方ない。
 
 今、BS・6チャンネルで、毎日、「刑事コロンボ」が放映されているが、20数年前、ぼくは周りの人たちからコロンボさんとよばれていた。いつも灰色でよれよれのトレンチコート姿でちじれ髪で、加えてあの頃はパナマ産の葉巻煙草をくわえていたためである。言わば反ファッションとしてのファッションを貫いていたのだが、これはこれで男の美学だ。あの頃のスタイルに戻る時期が近づいている。
 ええっと
 きょうの昼過ぎ、日曜日だということでウイスキー「凛」をしこたま飲んで夢をみていたら、とんぼさんがやってきた。今回の議会報告会に参加しての感想を書いたと言う.。
 声の広場NO611をご参照ください。

15年11月07日 きょうは文書館
 
 今来むと いひしばかりに長月の 
       有明の月を 待ち出でつるかな    素性法師

 それはともかく、今朝は高校時代のクラスメート二人との電話の時間となった。一人は金沢、一人は埼玉に住んでいる。50年前ぶりの会話ということで、懐かしさのあまり涙がでそうになった。近いうちに会おうということで携帯を切ったのだが、楽しみだ。
 15年ほど前に地球の歴史45億年を一年に圧縮して、歴史の節目を換算したことがあったが、例えば恐竜絶滅が大晦日の除夜の鐘の7分ほど前、人間の寿命を100年としても、0.5秒前とでた。鼻をかむ時間よりも短い。まさに宮本輝がいうように「人生は永遠の中の一瞬」でしかないのだが、そのなかにも濃密な思い出がこめられている。
 

15年11月06日 無題
 
 昨日の報告会では、質疑応答を聞いていて考えさせられることが沢山あった。
 後日、整理してこのブログに書きこもうと思います。

15年11月05日 ♪ 知りたくないの
 
 黒沢年男の「時には娼婦のように」や、菅原洋一の「知りたくないの」などの作詞で一世を風靡したなかにし礼。今、癌を宣言した彼の時代は40年ほど前だった。
 著書「兄弟」(’97発行)には、実兄との50年にわたる確執で数奇な人生を余儀なくされたことが克明に描かれている。平成の世も既に27年目。降る雪や昭和は遠くなりにけりだが、昭和の世にしか書けなかったノンフィクションだ。
 とまあそんなことを思っていた今朝、とんぼさんが来て「湯のまち公民館の議会報告会へ行ったのだが、集まったのはたったの6人」と言う。私も報告会がきのうから報告会が始まったのは知っていたが、なんせ6時には晩酌を始めるので、運転不可能故行けなかった。でも今晩は、鉄の意志で酒に目を伏せ行こうと思う。

15年11月04日 ブレーキランプが壊れてしまった 

 どうせ生きているのなら体も脳も元気なほうがいいに決まっているし、やらなければならないことを持っているほうがはりもでる。ということでリハビリに気が向くようになって、腰に万歩計をつけた。そして、きのうは近くのスーパーマーケットまで、徒歩で二往復した。計器には674歩と出ている。この間一度も休まなかったのは、明らかに進歩である。もっとも、これくらいの歩数確認ならば万歩計など不要だとも思うのだが・・。
 それはともかく、なかにし礼著「兄弟」も第三章に入った。
 冒頭がソーラン節だ。

 鰊場のあねちゃあに白粉(おしろい)いらぬ
 銀の鱗で肌ひーかるチョイ
 ヤサエンヤレヤーサ ドッコイショ
 アラ ドッコイショ ドッコイショ
 そうさこの世であるようでないのは
 地獄極楽 蛸の骨
 ただ今午後四時。月命日ということで今までお経を聞いていた。いや、聞かされていた。ぼくの家は浄土真宗なので仏説阿弥陀経などを聞かされていたのだが、不思議に思うのは、例えばキリスト教世界には聖書というその気になれば読める聖典があるのに対して、仏教の場合には漢語で書かれているので、意味を読みとることができないということだ。漢語からして梵語からの翻訳語であるのだから、島国日本では和語に翻訳されたお経を広めることが必要だと思う。今まで何百もの葬式や通夜に出たが、意味不明なので、そのあいだよからぬことばかり考え続けていた。こういう姿勢では自分が仏教信者だとは言えないような気がする。ただし霊魂の存在だけはかたく信じている。

15年11月03日 無題

 昨日朝の事務所来訪者・某氏は、ぶ厚いA4印刷物を持ってきた。
 「儂は、まきさんが毎日書くブログのなかで、心に残ったものをこのようにプリントアウトして眺めているんや」と、言う。
 このようなことを言われたのは初めてだ。
 ぼくはせまりくる認知症対策として、自分が体験したことを忘れないために書いているだけなのだけど、面と向かってこう言われるとさすがに嬉しいし、「一人でもこういう人がいる限り、駄文を恥じずに書き続けよう」という気分になります。
 

15年11月02日 無題

 夜明けにジョン・ラーベ著「南京の真実」を読み終えた。
 日本人でも中国人でもないドイツ人の、いわば第三者が克明に見た事実を書き綴った日記であるが、数か月のあいだに日本軍が犯した生き地獄がまるできのうのできごとのように感じられ、詩心のある読者であれば、即座に長編詩にするに違いない。
 南京虐殺関係の本は、史実肯定否定含めて数冊は読んできたが、リアリテイという面では、この本が出色だと思った。

 15年11月01日 ちょっと思ったこと
 
 ここ十年間、私の基本的睡眠時間帯は、午後六時半から翌日の午前三時で、世間様とは違う。そのあいだに二回目覚め、その都度数十分読書。例えば昨晩は枕草子を、「俺も平安時代の殿上人として生まれたかったなあ」と思いながら読んでいた。

 それはともかく、二回寝覚めるということは、睡眠が三分割されることだ。そしてちょっと異常だと思うのだけど、必ず夢を見る。見る夢は悲しい夢が殆んどで、いつも損した気分になるのだが、「これも前世での悪い行い故のものだろう。仕方ない」と、自らを慰めている。
 この週末、昨日も今日も事務所から一歩も出ず誰とも会わず、ひたすら本漬けアルコール漬けの生活だった。
 数十分前、某あわら市議が来訪して言うことにゃ、「今日はあわら市文化祭だった」とのこと。しゃばのことが全くわからなくなっている自分だと思う。