15年12月日記
2015年12月31日 白玉の |
年末も押し迫った昨日、福井市の片町商店街で商売を営む知人Tくん(同い年)から電話。 「鉄骨事務所を建てたいんや。急いでる」と言うので、さっそく、メジャーテープ・デジタルカメラを持って現場に直行した。 敷地計測及び打合せを終えたのち、事務所に戻り整理整頓にいそしんでいるさなか、知人Nさん(推定年齢70代半ば)が、清酒「神露」を持って現れた。 白玉の 歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり の若山牧水が好んだ酒だとのこと。Nさんは、一時間ほどの談笑を経て玄関から消えていった。そこまではよかったのだが・・。 玄関ドアが開き、再びNさんが現れて、「大変や。わしの車が動かない」と言う。 車メカ音痴の私に対処できるはずはなく、結局、プロにきてもらって、バッテリー交換で一件落着した。 さあ明日はもう正月だ。 正月は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし 一休 |
2015年12月30日 |
昨日の夕刻に、とんぼさんが須江の恋 第一話「国姫の自殺」のデーターを持ってきたので、アップロードしました。
今朝は、未明からジーンズパンツ、ジーンズシャツその他を手洗いし、充分に絞ったあと、1200Wに高めたデンキストーブで乾かしている。正月は清潔な衣類で身を包んでいたいと思う。 |
2015年12月29日 無題 |
・ただいま午前5時だから、ことしもあと24x3-5=67時間だ。 ・新しく応接ゾーンに設置された、ドライフラワー大作を目で楽しみながら、新年を迎えることになるのだろう。 ・年の瀬ぐらいは建築設計に邁進しようと、ひとりCAD画面に向かっています。 ・一番書きたかったことですが、「舘高重詩集朗読会・フルート&ハープの夕べ」は、来年5月21日pm1:30から(場所・生涯学習館三階大ホ-ル)に内定しました。 |
2015年12月28日 無題 |
今年の三月に発刊された「朝日新聞 日本型組織の崩壊(文春新書)」は著者が「朝日新聞記者有志」となっている。 帯裏側によると、有志とは 現役の朝日新聞社員複数名を中心とする取材グループ。社内での経歴所属部署、¨カースト¨、政治的スタンスなどのバックグラウンドは全く異なるが、「朝日新聞社の病巣はイデオロギーではなく、官僚的な企業構造にこそ隠されている」という点では、一致した意見をもつ。 帯表側には 「慰安婦」誤報、「吉田調書」誤報、そして池上コラム掲載拒否事件・・・・。なぜ朝日は前代未聞のスキャンダルに見舞われたのか? 絶望的かつ末期的な社内状況を現役記者たちがつぶさに描く! ということでほとんど読み終えた。 最近の福井県は由利公正の話で喧しい。 二年ほど前に読んだ大島昌宏緒「 炎の如く・由利公正」を思い出す。 幾百もの蹄が新雪を蹴散らした。地鳴りにも似た轟きが、石垣にこだまして響きあう。大太鼓の音を合図に鉄門をとび出した百騎あまりの武士は、重臣の屋敷が連なるく曲輪を抜けて大手門を目指し疾駆した。ことのほか尚武を好んだ藩祖秀康以来、毎年、左義長に合せて行われる福井藩の名物・馬威しである。前夜来の雪もやんだ弘化四年〔1847年〕正月十四日、白銀の照り返しも眩い未の上刻〔午後一時〕のことであった。・・・ という調子でこの物語は始まる。 ・・次の衝撃が福井を襲った。井伊の弾圧はとどまるところを知らず、一橋派に加担した志士や公卿たちが身分、性別、開国派、攘夷派であることを問わず、次々と捕縛されたのだ。世にいう安政の大獄が始まったのである。もと 小浜藩士梅田雲浜、長州藩士吉田松陰、頼山陽の子息頼三樹三郎などその数は百名にも達し、七月には佐内も投獄された。 彼らの捕縛を指揮したのが井伊に引立てられた老中・鯖江藩士間部詮勝、京都所司代・小浜藩主酒井忠義であることも伝えられ、両藩との溝も深まった。 これは異なことを。責任を問われるのは幕府の方でございましょう。なぜなら、勅許を得た上で条約を結べと主張したのは春嶽であり、それを無視して調印を強行したのは幕府である。それが攘夷論を沸騰させた原因だから、責められるべきは幕府ではないか。政治総裁職就任の条件とした改革案も、幕府はごく一部を行なっただけにすぎず、慶喜ともども春嶽を追い出したがっているのが本心であろう。そうした幕府になんの義理があろうか・・八郎〔由利〕の論旨は明快だった。 「作者あとがき」 福井新聞社からの連載依頼は「幕末の福井を」というもので、主人公の選定は自由だった。誰にしようかと考え、橋本佐内や橘曙覧がすでに先輩諸氏によって書かれていたり、松平春嶽にもさほど興味が持てなかったので、知名度こそ低いが由利公正と決めた。ちょうど大野藩を舞台に内山七郎右衛門の活躍を描く『そろばん武士道』 を執筆中だったからである。 両名とも武士からぬ経済通であり、莫大な債務に苦しむ藩財政を再建した点で共通していたし、両者を描くことで幕末期の越前がより立体的に見えてくるのではと思えたからだ。 執筆に先立ち、茂昭の末、松平宗紀氏をわずらわせて品川・海宏寺にある松平家の墓所を案内して頂いた。小高い丘陵の上を占める広い松平家専用区域の一郭に鳥居を配して葬られていた。土葬だという。そして、主を 守るように至近距離で中根靭負の墓が建ち、かなり離れて伸び放題の木立ちの奥に由利の墓はあった。生前に於ける三者の関係を死後も示しているようで、とても興味を引かれた。また、別の区画では岩倉具視の巨大な墓碑を見つけて驚かされた。春嶽とは公武合体策と倒幕論で激しく争い、後に徳川慶喜の処遇をめぐっても対立 した両者だけに、同じ寺に眠っているのが不思議に思えたのである。 資料集めについては、生活文化情報部長内田和郎氏、泉志穂さんのお世話になった。ことに泉さんには、膨大なコピーをとって頂くなどお手数をかけた。史家の舟澤茂樹氏、三上一夫氏には直接お話をうかがうことができ、貴重な資料も提供して頂き得るところが多かった。舟澤氏に「春嶽は本当に名君だったのか」と尋ねたところ、「家臣の意見をよく聞いたという意味で名君といえる」と答えられたのが印象的だった。郷土歴史博物館の足立尚計氏からも有益なご教示を頂いた。各氏に厚く感謝申し上げる次第である。ただ、タカに関する資料は殆どなかったので、失礼ながら泉さんのイメージを借用して造形することにした。 激動の世を石五郎から八郎、公正と名を変え、明治になって姓も三岡から由利と改めた彼だが、みるべき功績はすべて三岡の時代に為している。今様にいえば、ずば抜けて危機対応能力にすぐれた男であったといえ、それだけに、明治新政府が安定度を増すにつれて次第に輝きを失い、やがて失脚する運命を辿った。だがそれは、なんら彼の名を傷つけるものではない。非常の時に非常の策を果敢に行い、難局を切り抜けるのが彼の真骨頂であったからだ。 また、彼の行なった策は、みな師や友の受売りにすぎなかったともいわれるが、それとて彼の名を損ねるものではあるまい。策とは、実行する者があってこそ策となるからである。西郷吉之助の、「あの人がいなければ、維新はあと数年かかっていただろう」という言葉が、なによりの証しといえる。 由利は明治四十二年まで、八十才の長寿を保った。知人と碁を打っていて手の石をとり落とし、「なんでもないよ」といったのが最後だという。タカはその四年後に逝った。 彼が繁栄の基礎を築いた銀座通りの一丁目には、「経綸」と刻まれた顕彰碑が建ち、毎年十月半ばになると大銀座祭」が催される。十万を越す観衆が歩道を埋め尽くし、その中を華やかなパレードが続くのである。由利を生んだ福井県としてもぜひ参加し、東京でのPR活動の場としたらと思うが、如何だろうか。 最後に、一年間大きなスペースを与えて頂いた福井新聞社、連載中素晴らしい押絵を添えて下さった志田弥広画伯、そして熱心な読者の方々に、あらためてお礼を申し上げる。 平成八年初秋 大島昌宏 |
2015年12月27日 忘年会 |
いやあ、昨晩はよく飲み、よく食った。 昨日の忘年会は六時に始まった。 私は、四時半に、必殺料理人(「美味しいおでん」の製作者)のとんぼさんを迎えに行き、そのあと大溝に住む二人の美貌女性を迎えに行った。私の愛車・ケトラ(軽トラック)は二人乗りで、一人の女性の膝の上に、別の女性が座っているという構図がとても面白い。 事務所に戻ると、「泣く子も黙る共産党」・Y議員が缶ビールを持って来ていたので、とりあえず六人が缶ビールを持っての「今年一年間どうもありがとうございました。乾杯!」となった。 私自身は「ウイスキー余市」や「沖縄古酒」を飲み進め、徐々に酔いがまわり始めた。 その時ドアが開いて、S歯科医が入ってきた。手にはスープの鍋だ。隣席の女性が「美味しい美味しい」と言いながら啜っている。 それから、伊井工業団地のT社長がやってきて、次に某VIPがやってきて、そのころ私は白河夜船となっていた。 |
2015年12月26日 無題 |
昨日の日記に、「パソコンに保存した図面データーが紛失しているのに気が付いた。もう二時間以上検索しているのだけど見つからない。おそらく一からの出直しとなるだろう。パソコンは便利であるぶんだけ、リスクもあるのです。」と書いたが、引き続いての検索でやっとデーターが見つかった。これで、徹夜作業をする必要もなくなり、一件落着だ。最後まであきらめないことが大切だと思った。
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2015年12月25日 無題 |
良寛を良寛さんじゃなくて良寛として読んでいくと、どうしても道元を考えてしまう。 昔(30数年前)、私は曹洞宗系某女子大の国語課棟改修建築設計及び設計監理にいそしんでいたことがある。その関係で、付属女子高校ワンダーフォーゲル部の臨時部長を拝命した。私は燃えた。若いお嬢さんがたを育てるべく粉骨砕身せねばと燃えた。 奥山の急峻な登りで彼女たちの(柔らかい)お尻を押し、平場に出ると石を集めさせインスタント 今考えると、あれは禅で言うところの不立文字の実践だったのである。 というようなことはともかく、パソコンに保存した図面データーが紛失しているのに気が付いた。もう二時間以上検索しているのだけど見つからない。おそらく一から出直しとなるだろう。パソコンは便利であるぶんだけ、リスクもあるのです。 |
2015年12月24日 きょうは打合せ会議 |
昨日の午後二時から、坂ノ下区民館において、班長会議が開かれた。閉会後は一年間御苦労さん的飲み会。 昼の 班長および会計監査員としての報酬6000エンが支払われた。望外の喜びとも言うべきで、冬ものの上着を買ってこようと思う。 きょうもいろんな電話がかかってきたが、「まきちゃん、大晦日に俺の村の神社の境内を北潟湖畔の夕べのような淡いイルミネーションで飾りたいんやが、誰に相談したらいいんや?」が最後の電話。これの元締めは某女性あわら市議なので、彼女の連絡先を紹介した。 私自身はどちらかというと、イルミネーションなどない漆黒の闇に現れてくる月明りに魅かれるのだが、ま、個人の好みはさまざまだ。 午後八時、なかなか寝付けないので、「良寛」を開く。 月よみの 光りをまちて かへりませ 山路はくりの いがのおつれば 愛人が庵を去ろうとするのを、押しとどめる歌だ。書き連ねた難解な漢詩・随筆・歌のあとに出てきた平明で |
2015年12月23日 きょうは区民館にて班長会議兼飲み会 |
すてし身は 心もひろし大空の 雨と風とに まかせはてては 良寛 昨日は仕事上で嫌なことがあり鬱気分になったので、口直しに水上勉著「良寛」を開き、この歌に出会った。母の死を知った良寛24歳の時の歌である。母・秀子の死や父・以南の入水自殺が良寛の精神形成に大きな影響を与えているのは疑いないが、それにしても24歳にしてのこの達観は、良寛が実直な禅僧であるよりも破滅志向の文人であったことを示す一例だと思う。 今までに、良寛伝記は数冊読んだが、この著者の本は一番実証的で重い気分を受け取らせる。 余談だが、水上は若狭出身でつまり福井県人であり、瀬戸内寂聴によると、文壇では一番女性にもてたそうだ。「福井県の男性の放つフェロモンの強さ」という巷の噂の信憑性がここにもある。 |
2015年12月22日 音楽こそわが命 |
12月定例議会が昨日終了した。 昨晩、議員たちは、芦原温泉のどこかの旅館で忘年会を催し、カラオケで歌を競い合っていたはずだ。その意味で、私も15年間年末の騒音を楽しんでいたことになる。そして今は隔世の感がある。 ということで、午前2時の深夜に内田樹を読みながら、日本の崩壊のことを考えている。 この人の論旨は明快で面白いのだが、インテリの宿命として、聞きなれない日本語を駆使していることで読み手の私を辟易させることしきりで、本をベッドの傍らに閉じ捨てさせてしまう。そして目を閉じ漆黒の闇を見つめているうちに、又、本を開いてしまう。敢えて言えば、この背反に魅力があるのだろう。 やっぱり私は港町ブルース的浪花節大好きの昭和世代で、回顧の向かう先はいつも昭和の時代だ。音楽だけが我々に平穏の心を担保する。 来年度に予定している「舘高重詩集朗読会」に音楽を導入することが第一回打ち合わせ会議で決まった。若い頃、オーストリア・ウイーンのハイデルベルグ音楽院でモーツアルトの絶対音感世界を追及していた私としては、嬉しい限りである。 |
2015年12月21日 新しい週の始まり |
昨日の夕刻に4本の大根を持ってきた方がいて「誰それ誰それにおすそ分けしてくれ」と、言う。 それは実に大きな大根で、この世に生を受けて66年、初めて目にするしろものだった。 「この世には、練馬大根、風呂吹き大根などさまざまな名称があるが、これは巨大根科に属するものなのだろう」との妄想が走り、案の定、深夜に見た夢のなかに大根怪獣が登場した。 大根の白い清冽な色がそうさせるのか、彼(もしくは彼女)は、現代の醜悪な それはともかく 「宝剣の写真をブログに出してほしい」という巷の声をうけて四苦八苦。やっと出せました。 天国宝剣の実写映像(声の広場参照) |
2015年12月20日 今年もあと十日間 |
昨日の朝、我々8人は、坂井市丸岡町に在る国神神社に行き、宝物殿で宝剣を見せていただいた。写真を撮ろうと思ったが、生憎、デジタルカメラが電池切れ。仕方なく携帯電話内臓カメラで撮ったのだが、これを転送できない。私は全くのハイテク音痴だ。 詳しくは、とんぼさんの文章をご覧ください。 宝物殿を出てから我々は牧田事務所に戻った。私はみんなに美味しいココアをごちそうした。みんなが「美味しい、美味しい」と言ってくれるのが嬉しかった。 それはともかく きょうの午後、友人が沖縄古酒を持ってやってきた。今から40年前、沖永良部島で、島の漁師たちと、夜な夜な飲み狂ったしろものだ。 次回の牧田事務所飲み会で、脚光をあびることになるだろう。 |
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