15年12月日記

2015年12月31日 白玉の
 年末も押し迫った昨日、福井市の片町商店街で商売を営む知人Tくん(同い年)から電話。
 「鉄骨事務所を建てたいんや。急いでる」と言うので、さっそく、メジャーテープ・デジタルカメラを持って現場に直行した。
 敷地計測及び打合せを終えたのち、事務所に戻り整理整頓にいそしんでいるさなか、知人Nさん(推定年齢70代半ば)が、清酒「神露」を持って現れた。
 
 白玉の 歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり の若山牧水が好んだ酒だとのこと。Nさんは、一時間ほどの談笑を経て玄関から消えていった。そこまではよかったのだが・・。

 玄関ドアが開き、再びNさんが現れて、「大変や。わしの車が動かない」と言う。
 車メカ音痴の私に対処できるはずはなく、結局、プロにきてもらって、バッテリー交換で一件落着した。

 さあ明日はもう正月だ。 
 正月は 冥土の旅の一里塚
          めでたくもあり めでたくもなし  一休

2015年12月30日 
 昨日の夕刻に、とんぼさんが須江の恋 第一話「国姫の自殺」のデーターを持ってきたので、アップロードしました。
 今朝は、未明からジーンズパンツ、ジーンズシャツその他を手洗いし、充分に絞ったあと、1200Wに高めたデンキストーブで乾かしている。正月は清潔な衣類で身を包んでいたいと思う。

2015年12月29日 無題 
 ・ただいま午前5時だから、ことしもあと24x3-5=67時間だ。
 ・新しく応接ゾーンに設置された、ドライフラワー大作を目で楽しみながら、新年を迎えることになるのだろう。
 
・年の瀬ぐらいは建築設計に邁進しようと、ひとりCAD画面に向かっています。
・一番書きたかったことですが、「舘高重詩集朗読会・フルート&ハープの夕べ」は、来年5月21日pm1:30から(場所・生涯学習館三階大ホ-ル)に内定しました。

2015年12月28日 無題
 今年の三月に発刊された「朝日新聞 日本型組織の崩壊(文春新書)」は著者が「朝日新聞記者有志」となっている。
 帯裏側によると、有志とは
 現役の朝日新聞社員複数名を中心とする取材グループ。社内での経歴所属部署、¨カースト¨、政治的スタンスなどのバックグラウンドは全く異なるが、「朝日新聞社の病巣はイデオロギーではなく、官僚的な企業構造にこそ隠されている」という点では、一致した意見をもつ。
 帯表側には
 「慰安婦」誤報、「吉田調書」誤報、そして池上コラム掲載拒否事件・・・・。なぜ朝日は前代未聞のスキャンダルに見舞われたのか? 絶望的かつ末期的な社内状況を現役記者たちがつぶさに描く!

 ということでほとんど読み終えた。
 最近の福井県は由利公正の話で喧しい。
 二年ほど前に読んだ大島昌宏緒「 炎の如く・由利公正」を思い出す。

幾百もの蹄が新雪を蹴散らした。地鳴りにも似た轟きが、石垣にこだまして響きあう。大太鼓の音を合図に鉄門をとび出した百騎あまりの武士は、重臣の屋敷が連なるく曲輪を抜けて大手門を目指し疾駆した。ことのほか尚武を好んだ藩祖秀康以来、毎年、左義長に合せて行われる福井藩の名物・馬威しである。前夜来の雪もやんだ弘化四年〔1847年〕正月十四日、白銀の照り返しも眩い未の上刻〔午後一時〕のことであった。・・・ という調子でこの物語は始まる。

・・次の衝撃が福井を襲った。井伊の弾圧はとどまるところを知らず、一橋派に加担した志士や公卿たちが身分、性別、開国派、攘夷派であることを問わず、次々と捕縛されたのだ。世にいう安政の大獄が始まったのである。もと 小浜藩士梅田雲浜、長州藩士吉田松陰、頼山陽の子息頼三樹三郎などその数は百名にも達し、七月には佐内も投獄された。
彼らの捕縛を指揮したのが井伊に引立てられた老中・鯖江藩士間部詮勝、京都所司代・小浜藩主酒井忠義であることも伝えられ、両藩との溝も深まった。
これは異なことを。責任を問われるのは幕府の方でございましょう。なぜなら、勅許を得た上で条約を結べと主張したのは春嶽であり、それを無視して調印を強行したのは幕府である。それが攘夷論を沸騰させた原因だから、責められるべきは幕府ではないか。政治総裁職就任の条件とした改革案も、幕府はごく一部を行なっただけにすぎず、慶喜ともども春嶽を追い出したがっているのが本心であろう。そうした幕府になんの義理があろうか・・八郎〔由利〕の論旨は明快だった。

「作者あとがき」
 福井新聞社からの連載依頼は「幕末の福井を」というもので、主人公の選定は自由だった。誰にしようかと考え、橋本佐内や橘曙覧がすでに先輩諸氏によって書かれていたり、松平春嶽にもさほど興味が持てなかったので、知名度こそ低いが由利公正と決めた。ちょうど大野藩を舞台に内山七郎右衛門の活躍を描く『そろばん武士道』 を執筆中だったからである。  両名とも武士からぬ経済通であり、莫大な債務に苦しむ藩財政を再建した点で共通していたし、両者を描くことで幕末期の越前がより立体的に見えてくるのではと思えたからだ。
 執筆に先立ち、茂昭の末、松平宗紀氏をわずらわせて品川・海宏寺にある松平家の墓所を案内して頂いた。小高い丘陵の上を占める広い松平家専用区域の一郭に鳥居を配して葬られていた。土葬だという。そして、主を 守るように至近距離で中根靭負の墓が建ち、かなり離れて伸び放題の木立ちの奥に由利の墓はあった。生前に於ける三者の関係を死後も示しているようで、とても興味を引かれた。また、別の区画では岩倉具視の巨大な墓碑を見つけて驚かされた。春嶽とは公武合体策と倒幕論で激しく争い、後に徳川慶喜の処遇をめぐっても対立 した両者だけに、同じ寺に眠っているのが不思議に思えたのである。
 資料集めについては、生活文化情報部長内田和郎氏、泉志穂さんのお世話になった。ことに泉さんには、膨大なコピーをとって頂くなどお手数をかけた。史家の舟澤茂樹氏、三上一夫氏には直接お話をうかがうことができ、貴重な資料も提供して頂き得るところが多かった。舟澤氏に「春嶽は本当に名君だったのか」と尋ねたところ、「家臣の意見をよく聞いたという意味で名君といえる」と答えられたのが印象的だった。郷土歴史博物館の足立尚計氏からも有益なご教示を頂いた。各氏に厚く感謝申し上げる次第である。ただ、タカに関する資料は殆どなかったので、失礼ながら泉さんのイメージを借用して造形することにした。
 激動の世を石五郎から八郎、公正と名を変え、明治になって姓も三岡から由利と改めた彼だが、みるべき功績はすべて三岡の時代に為している。今様にいえば、ずば抜けて危機対応能力にすぐれた男であったといえ、それだけに、明治新政府が安定度を増すにつれて次第に輝きを失い、やがて失脚する運命を辿った。だがそれは、なんら彼の名を傷つけるものではない。非常の時に非常の策を果敢に行い、難局を切り抜けるのが彼の真骨頂であったからだ。 また、彼の行なった策は、みな師や友の受売りにすぎなかったともいわれるが、それとて彼の名を損ねるものではあるまい。策とは、実行する者があってこそ策となるからである。西郷吉之助の、「あの人がいなければ、維新はあと数年かかっていただろう」という言葉が、なによりの証しといえる。
 由利は明治四十二年まで、八十才の長寿を保った。知人と碁を打っていて手の石をとり落とし、「なんでもないよ」といったのが最後だという。タカはその四年後に逝った。
 彼が繁栄の基礎を築いた銀座通りの一丁目には、「経綸」と刻まれた顕彰碑が建ち、毎年十月半ばになると大銀座祭」が催される。十万を越す観衆が歩道を埋め尽くし、その中を華やかなパレードが続くのである。由利を生んだ福井県としてもぜひ参加し、東京でのPR活動の場としたらと思うが、如何だろうか。
 最後に、一年間大きなスペースを与えて頂いた福井新聞社、連載中素晴らしい押絵を添えて下さった志田弥広画伯、そして熱心な読者の方々に、あらためてお礼を申し上げる。
        平成八年初秋
                      大島昌宏

2015年12月27日 忘年会
  いやあ、昨晩はよく飲み、よく食った。
 昨日の忘年会は六時に始まった。
 私は、四時半に、必殺料理人(「美味しいおでん」の製作者)のとんぼさんを迎えに行き、そのあと大溝に住む二人の美貌女性を迎えに行った。私の愛車・ケトラ(軽トラック)は二人乗りで、一人の女性の膝の上に、別の女性が座っているという構図がとても面白い。

 事務所に戻ると、「泣く子も黙る共産党」・Y議員が缶ビールを持って来ていたので、とりあえず六人が缶ビールを持っての「今年一年間どうもありがとうございました。乾杯!」となった。
 私自身は「ウイスキー余市」や「沖縄古酒」を飲み進め、徐々に酔いがまわり始めた。
 その時ドアが開いて、S歯科医が入ってきた。手にはスープの鍋だ。隣席の女性が「美味しい美味しい」と言いながら啜っている。
 それから、伊井工業団地のT社長がやってきて、次に某VIPがやってきて、そのころ私は白河夜船となっていた。
 

2015年12月26日 無題
  昨日の日記に、「パソコンに保存した図面データーが紛失しているのに気が付いた。もう二時間以上検索しているのだけど見つからない。おそらく一からの出直しとなるだろう。パソコンは便利であるぶんだけ、リスクもあるのです。」と書いたが、引き続いての検索でやっとデーターが見つかった。これで、徹夜作業をする必要もなくなり、一件落着だ。最後まであきらめないことが大切だと思った。
  
2015年12月25日 無題 
 良寛を良寛さんじゃなくて良寛として読んでいくと、どうしても道元を考えてしまう。
 
 昔(30数年前)、私は曹洞宗系某女子大の国語課棟改修建築設計及び設計監理にいそしんでいたことがある。その関係で、付属女子高校ワンダーフォーゲル部の臨時部長を拝命した。私は燃えた。若いお嬢さんがたを育てるべく粉骨砕身せねばと燃えた。
 奥山の急峻な登りで彼女たちの(柔らかい)お尻を押し、平場に出ると石を集めさせインスタント(へっつい)をしつらえて飯盒炊飯をつくる喜びを教えた。

 今考えると、あれは禅で言うところの不立文字の実践だったのである。
 というようなことはともかく、パソコンに保存した図面データーが紛失しているのに気が付いた。もう二時間以上検索しているのだけど見つからない。おそらく一から出直しとなるだろう。パソコンは便利であるぶんだけ、リスクもあるのです。 
2015年12月24日 きょうは打合せ会議 
 
 昨日の午後二時から、坂ノ下区民館において、班長会議が開かれた。閉会後は一年間御苦労さん的飲み会。
 
 昼の日中(ひなか)から飲むことなど一年を通じてめったになく、そのせいかすぐに酔ってしまい、すこしあばさけた飲み方になってしまったような気がする。

 班長および会計監査員としての報酬6000エンが支払われた。望外の喜びとも言うべきで、冬ものの上着を買ってこようと思う。

 きょうもいろんな電話がかかってきたが、「まきちゃん、大晦日に俺の村の神社の境内を北潟湖畔の夕べのような淡いイルミネーションで飾りたいんやが、誰に相談したらいいんや?」が最後の電話。これの元締めは某女性あわら市議なので、彼女の連絡先を紹介した。
 私自身はどちらかというと、イルミネーションなどない漆黒の闇に現れてくる月明りに魅かれるのだが、ま、個人の好みはさまざまだ。
  午後八時、なかなか寝付けないので、「良寛」を開く。
 月よみの 光りをまちて かへりませ
         山路はくりの いがのおつれば

 愛人が庵を去ろうとするのを、押しとどめる歌だ。書き連ねた難解な漢詩・随筆・歌のあとに出てきた平明で()のままの自分をあらわしている歌だ。これで私は眠れそう。

2015年12月23日 きょうは区民館にて班長会議兼飲み会 
 
 すてし身は 心もひろし大空の
        雨と風とに まかせはてては
 良寛

 昨日は仕事上で嫌なことがあり鬱気分になったので、口直しに水上勉著「良寛」を開き、この歌に出会った。母の死を知った良寛24歳の時の歌である。母・秀子の死や父・以南の入水自殺が良寛の精神形成に大きな影響を与えているのは疑いないが、それにしても24歳にしてのこの達観は、良寛が実直な禅僧であるよりも破滅志向の文人であったことを示す一例だと思う。

 今までに、良寛伝記は数冊読んだが、この著者の本は一番実証的で重い気分を受け取らせる。
 余談だが、水上は若狭出身でつまり福井県人であり、瀬戸内寂聴によると、文壇では一番女性にもてたそうだ。「福井県の男性の放つフェロモンの強さ」という巷の噂の信憑性がここにもある。
 

2015年12月22日 音楽こそわが命
 12月定例議会が昨日終了した。
 昨晩、議員たちは、芦原温泉のどこかの旅館で忘年会を催し、カラオケで歌を競い合っていたはずだ。その意味で、私も15年間年末の騒音を楽しんでいたことになる。そして今は隔世の感がある。

 ということで、午前2時の深夜に内田樹を読みながら、日本の崩壊のことを考えている。
 この人の論旨は明快で面白いのだが、インテリの宿命として、聞きなれない日本語を駆使していることで読み手の私を辟易させることしきりで、本をベッドの傍らに閉じ捨てさせてしまう。そして目を閉じ漆黒の闇を見つめているうちに、又、本を開いてしまう。敢えて言えば、この背反に魅力があるのだろう。

 やっぱり私は港町ブルース的浪花節大好きの昭和世代で、回顧の向かう先はいつも昭和の時代だ。音楽だけが我々に平穏の心を担保する。
 
来年度に予定している「舘高重詩集朗読会」に音楽を導入することが第一回打ち合わせ会議で決まった。若い頃、オーストリア・ウイーンのハイデルベルグ音楽院でモーツアルトの絶対音感世界を追及していた私としては、嬉しい限りである。
 
 

 2015年12月21日 新しい週の始まり
 
 昨日の夕刻に4本の大根を持ってきた方がいて「誰それ誰それにおすそ分けしてくれ」と、言う。
 それは実に大きな大根で、この世に生を受けて66年、初めて目にするしろものだった。
 「この世には、練馬大根、風呂吹き大根などさまざまな名称があるが、これは巨大根科に属するものなのだろう」との妄想が走り、案の定、深夜に見た夢のなかに大根怪獣が登場した。
 大根の白い清冽な色がそうさせるのか、彼(もしくは彼女)は、現代の醜悪な(やから)に対して敢然と立ち向かう正義の使者として登場するのである。残念ながら、夢はまことに短く、戦いの結末に至らずして覚めてしまった。

 それはともかく
 「宝剣の写真をブログに出してほしい」という巷の声をうけて四苦八苦。やっと出せました。
 天国宝剣の実写映像(声の広場参照)


2015年12月20日 今年もあと十日間
 昨日の朝、我々8人は、坂井市丸岡町に在る国神神社に行き、宝物殿で宝剣を見せていただいた。写真を撮ろうと思ったが、生憎、デジタルカメラが電池切れ。仕方なく携帯電話内臓カメラで撮ったのだが、これを転送できない。私は全くのハイテク音痴だ。
詳しくは、とんぼさんの文章をご覧ください。
 
 宝物殿を出てから我々は牧田事務所に戻った。私はみんなに美味しいココアをごちそうした。みんなが「美味しい、美味しい」と言ってくれるのが嬉しかった。

 それはともかく
 きょうの午後、友人が沖縄古酒を持ってやってきた。今から40年前、沖永良部島で、島の漁師たちと、夜な夜な飲み狂ったしろものだ。
 
 次回の牧田事務所飲み会で、脚光をあびることになるだろう。


 15年12月19日 土曜日 風発4号機の羽根落下
 土曜日がやってきた。
 きょうは、丸岡の国神神社へ行ってきます。
 今朝の福井新聞に「あわら風力羽根6.8トン落下」の見出し記事。
 あきれた話だ。問題は記事四段目で
 「・・同発電所では2013年12月にも6号機で羽根の先端部品が落下する事故があった。その後も4基で羽根の角度調整を滑らかにする部品に亀裂が見つかり、全基の部品を今月上旬までに交換した。4号機は10月に部品交換を終えている・・」
 わずか2カ月前に部品を交換しているということは、機材の劣化が関係していず、維持管理技術者の怠惰あるいは無神経さに拠る。

 15年12月18日 金曜日 もう週末か
 
 こう寒い日が続くと、南国沖永良部島で暮らした数カ月を思い出す。特に、偶然目にした一色次郎原作「青幻記」の映画ロケを思い出す。
 誰だったかの印象評には、こう書かれていた。
 青幻記は、沖永良部島を舞台に、幼い時に死別した母親の記憶を辿りながら、今は50歳代であろう主人公が、40年ぶりに、一人故郷の島を訪れる話である。 追憶の旅を行く主人。公の思いと、記憶の底から蘇る幼少期の記憶とが、交錯しながら物語が展開されていく。 主人公も、その母親も、貧しい悲惨な生活をおくっていた。 悲惨な生活の情景が綴られているのだが、決して暗いだけの陰鬱なトーンではない。 作者の筆が淡々としていることと、舞台が南国の海に囲まれた珊瑚礁の島であるせいか、透き通った青色の情景と灰色のトーンの対比が、鮮やかに目に浮かんでくる。既に肺病を病み死期を感じている母親と、その息子が島で過ごしたのは僅か半年であるが、この時期が母親の人生の中で最も幸福な時期であったことが判明する。 感傷に陥りがちなストーリーであるが、作者は感情を抑えた淡々とした筆で物語を展開しており、亡き母親への静かな鎮魂歌になっている。
 良い作品だと思うのだが、商業ベースで考えると部数が出ないので廃刊になったものと思われる。流行を先取りするように次々と新刊本が書店に並べられていく中で、(この本に限らず)良書が無くなっていくのは残念なことである。


 15年12月17日 木曜日 知らないうちに赤穂浪士討ち入りの日は過ぎていた
 最近、妄想が肥大化してきたので、ついでにこのブログの題字も大きくしました。
 大きいことはいいことで、昨日は度数の大きい老眼鏡を購入し、これで本の文字がはっきり見えます。私が使っているノートパソコンはモニター画面が小さく、CAD対応が不十分なので、大モニター(中古)を手に入れるつもりです。

 15年12月16日 水曜日 昨日は千客万来の日だった
 午前二時半、吉村昭著「大黒屋光太夫」を読み終えた。 
 このタグイマレとも言うべき立派な日本人・光太夫のオロシヤ漂流に心の底から感動し、僕の両眼は幾筋かの涙でぬれている。

 白子浦を回船に乗って出発した時(天明2年)光太夫一行は総勢17人だったが、過酷な10年間の旅を経て蝦夷地に戻った時には3人。上陸後数ケ月して水主の小市も衰弱死。結局、江戸の地を踏めたのは、光太夫と磯吉の二人だけだった。その(かん)、帰国を断念した庄蔵と新蔵は異国での永住を決意しロシヤ正教に入信する。

 僕はこの場面で20数年前を思い出した。
 ウラジオストックから10代の娘が、僕の家へホームステイにやってきた。僕は、娘をまずは仏壇の前に座わらせ、ナンマイダを促した。それを終えた彼女は、ふりむき、傍らのバッグからコインのようなものをさし出し、「ワタシハロシヤ正教徒デス コレハ イコンデス ドウゾ」と、言うのだった。
 期間中、僕たち夫婦はホストファミリーとして彼女をもてなした。夕食には冷やしソーメンを食べさせ、食後は浴衣に着替えさせて、竹田川河畔での線香花火を楽しんだ。北潟湖畔祭りにも、彼女を連れていった。
 周囲からの「牧田は、とうとう異国の女にも手を出したのか」という羨望と嫉妬を感じて、はやばやとその場から逃げたのだが・・。
 というようなどうでもいいことはともかく
 今日の午前中にひとしごとを終えた私は、次のしごとにとりかかる前に、事務所応接コーナーのテーブル天板をペンキで黒く塗っていた。私は、闇の世界が日増しに好きになってきている。
 次の飲み会(9人来訪予定)が楽しみだ。小遣いに余裕があったら、明治初期の幻燈をテーブルの中心に置きたい。

 15年12月15日 火曜日 無題 
 昨日は下を抜歯、今朝は上を抜歯。

 15年12月14日 月曜日 江戸後期の物語 
 井上靖の著書に大黒屋光大夫一行の漂流を記した「おろしや国酔夢譚」があって、これを20年ほど前に読んだ僕は、昨日の日曜日に、同じ歴史的事実を吉村昭の「大黒屋光大夫」で追っていた。
 歴史的資料が同じでも、資料の使い方は語り部である作家の世界観・人間観によって異なる。その意味で新しい視点がぼくの脳髄を刺激したような気がした。

 天明2年(1782)に江戸を目指して白子浦を出発した回船「神昌丸」は洋上で大嵐に会った。数か月の漂流ののち、船頭・大黒屋光大夫以下水主たち十数名は、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着する。極北の地での飢えと想像を絶する寒さと戦い同僚を次々と亡くしながら、残された数名の望郷の思いますます強く、ロシア皇帝カテリーナ二世に帰国願い書を持っての拝謁のため、極東から数千キロ離れた首都ペテルスブルクを目指すのである。

 ぼくは愛国主義者ではないけれども、オリンピックで日本人がメダルをとった時や、こういうタグイの本を読んだ時には、「日本人に生まれてよかった」と、思う。

 15年12月13日 日曜日 昨日の土曜日 
 朝一番で吉崎の工事現場から「来てほしい」との電話が入り、愛車ケトラを駆ってかけつけた。
 北潟湖の(ほとり)にあるその現場から見える湖面は朝陽を浴びてキラキラ輝いている。
 「久しぶりの好天なのだから、ドライブを楽しみたい」と思い、帰宅したのちGFに電話し、了承を得て三国へ向かった。某喫茶店に入り、僕はカプチーノを注文した。自宅でつくるインスタントとは一味ちがう気品のある上質コーヒーを楽しみつつの歓談のあと、僕たちは「えち鉄湯のまち駅前広場」へ向かった。
 そこは「芦原温泉開湯130周年記念イベント」のファイナルとしての、竹でつくった沢山の燈籠に火入れしての「灯りの世界」の演出の場だった。
 但し、始まりが午後四時で闇はまだ降りてきていず、最後までいないことには幻想を味わうことは不可能だった。
 しつらえたテントのなかで売られている良い匂いというよりも売り手の女性たちの微笑みに引き寄せられて食べた豚汁で体が温まり、僕たちは充分満足した。

 15年12月12日 土曜日 もう週末か
 あっという間に過ぎ去った一週間だった。
 なんというか・・いろんなことがあったような気がするし、なんにもなかったような気もする。要するに、「俺には過去がない」を信条とし実践している私にとって、過去の全てはうすぼんやりとした闇のなかにあるし、付け加えれば、私の体も脳もその半分以上が既に闇の中なのである。そして、闇が一切の綱領を持たないことによって、生きていることを感じることができる。
 それはともかく
 この土日は寝ていよう。

15年12月11日 あの戦争 
 保阪正康著「あの戦争は何だったのか」を読み終えた。

 著者あとがき
 「私の“太平洋戦争批判“の主要な点は二点に絞られる。第一点が、なぜあのような目的も曖昧な戦争を三年八ヶ月も続けたのかとの説明責任が果たされていないこと。第二点が、戦争指導にあたって政治、軍事指導者には同時代からは権力を賦与されたろうが、祖先、児孫を含めてこの国の歴史上において権限は与えられていなかったこと。この二点である。
 わかりやすく言おう。あの戦争の目的は何か。なぜ戦争という手段を選んだのか、どのように推移してあのような結果になったか、あの時代の指導者は結局はなにひとつ説明していない。戦後の内閣も、たとえあの戦争に批判的であっても、当時の資料を用いながら最低限戦争の内実を国民に説明する義務があるように、私には思える。これが第一点だ。
 第二点は、あの戦争では「一億総特攻」とか「国民の血の最後の一滴まで戦う」などといったスローガンが指導者によって叫ばれた。馬鹿なことを言いなさんな。この国の人びとをそんな無責任な言辞を弄して駆り立てる権利は、「歴史上」はあなたたちに与えられていないと、私は言いたいのだ。いやあれは士気を鼓舞するため、と言うのなら、そんなことでしか士気を鼓舞できないなら、それは自身の貧困さを語っているだけではないか。
 太平洋戦争を正邪で見るのではなく、この戦争のプロセスにひそんでいるこの国の体質を問い、私たちの社会観、人生観の不透明な部分に切りこんでみようというのが本書を著した理由である。あの戦争のなかに、私たちの国に欠けているものの何かがそのまま凝縮されている。そのことを見つめてみたいと私は思っているのだ。その何かは戦争というプロジェクトだけではなく、戦後社会にあっても見られるだけでなく、今なお現実の姿として指摘できるのではないか。
 戦略、つまり思想や理念といった土台はあまり考えずに、戦術のみにひたすら走っていく。対処療法にこだわり、ほころびにつぎをあてるだけの対応策に入りこんでいく。
 現実を冷静にみないで、願望や期待をすぐに事実に置きかえてしまう。太平洋戦争は今なお私たちにとって“良き反面教師“なのである。
 本書は、太平洋戦争の歴史を克明に追ったわけではないし、これまでの書のように政治的に、あるいは思想的に語ったのではない。日常の次元に視点をおろして、私たちの問題として考えてみたいと思って編んだ。その意図を汲みとって読んでいただければ望外の喜びである。
 戦後六十年の今、太平洋戦争のなかに見落としていた事実や視点をもとに考えてみることで、私たちはこの戦争が歴史のなかではどう語られるかを改めて考えていくべきときのように思う。
 刊行までに新潮社常務取締役の石井昴氏にお世話になった。いつかこのような書を編みたいと話しあってきたが、今回それが実って私も嬉しく思う。石井氏には改めて感謝したい。新潮社書編集部部長の三重博一氏、編集部員の今泉眞一氏にもお礼を言いたい。今泉氏に資料を集めていただいたが、そのほかにも多くの点でご尽力をいただいた。ときに三氏からは貴重な意見を聞くこともできた。私には参考になることばかりだったことを付記しておきたい。
       二〇〇五年六月            保阪正康

15年12月10日 ちょっと思ったこと
 
 パリ市内でのイスラム国による無差別テロののち、ヨーロッパ各国は急速に右傾化し、フランス政府は戦争状態に入ったことを宣言したが、そのなかで、妻をテロによって失ったフランスの青年が、「わたしはテロリスト達を憎まない。憎しみは憎しみの連鎖を生み出すだけだから・・」という手記を発表した。無私の精神というべきか、まことに美しい言葉である。

 問題は、万一、自分がその立場に立たされたとしたら、同じ思いを持つことができるかどうかだ。
 野坂昭如が亡くなった。「エロ事師たち」を読んで笑い転げたのが、つい昨日のことのようだ。
                                            合掌

 声の広場からの転送です。
615.剱岳伝説の宝刀 「天国宝剣(あまのくにほうけん)」 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/12/9(水) 17:6
 剱岳村は男大迹王(おほどのおおきみ。継体大王)と縁(ゆかり)が深い。この村からほど近い坪江村坪江の地は男大迹王が越前平野治水の際に住まわれた御遺跡として伝えられて居り、同区内の式内郷社(しきないごうしゃ)横山神社は王を祭神とする古社である。

 横山神社の社記によれば、そのかみ(昔)、此の地は坪ヶ瀬と呼ばれ、王は湖頭の小丘に宮居(みやい)されて自ら治水を督励なされたという。今同区の西方の山麓地に「門の前」「雀ヶ岡」(鎮めが岡の転訛したものか)「菰谷(まこもだに)」(椀子王の谷の転訛か」「神奈備山(かんなびやま)」「丸山」等の地名があり、付近一帯は古来土器のの包含地(ほうがんち。出土地)として知られ、またワンカシ山古墳を始め数個の古墳が散在している。ワンカシ山は陪塚(ばいちょう。小型の古墳)を有する前方古墳として有名であり、昔から椀子王(まろこおう)の古墳だと伝えられている。

※男大迹王・・・生年、没年は450~531年と伝えられている。
※椀子王・・・男大迹王と三尾の堅穢(けんわい?)の娘・倭媛(わひめ)の間に生まれた第二皇子。

(中略)越前中央部では福井の足羽山、東北部では本村の剱ヶ岳に登られて遙かに地勢を相せられ、遂に三国の水門口を開鑿(かいさく。運河にて開く)することを決意されたと伝えられている。

 たまたま治水の大業中(たいぎょうちゅう)に武烈天皇(ぶれつてんのう)がおなくなくなり(507年)、継嗣(けいし)がなかったので、大伴金村(おおとものかなむら)等の議により迎えられ都に上がり皇位につかれた。

 時に王は五十有八才にて治水の業未だ半ばであったので、後事一切を椀子王に託して長年労苦を共にせられた郷民に別れを告げ、越の山河に名残を惜しまれつつ都に上がられた。

 この時、御出立に当り常に斉持(さいじ。所持)して居られた宝剣と霊蓋(れいがい。冠)とを東の天嶺に納めさせて、永く国土の安泰と国民の幸福を祈念せられた。それ以来この天嶺を剣蓋の二字をとって剣蓋岳(けんがいだけ)と呼ぶようになったという。

 後世、正保年間に丸岡の本多飛騨守藩中の者が之を聞き、秘かにかの宝剱を掘り出して「天国の宝剱」と号して飛騨守に進めたところ、飛騨守はかかる霊宝は私すべきではないとて国神神社に奉納した。剱は今も同社の宝物として伝えられているが、その後この山を剱ヶ岳と呼ぶようになったという。又王が嘗て(かって)本村後山の二色滝の景を探勝されたとの伝説もある。(剱岳村史より)

※本多飛騨守・・・本多丸岡藩三代藩主本多重昭(ほんだしげあき。1634~1676)
※天国宝剣・・・天国(あまのくに)は奈良時代、または平安時代に活動したとされる伝説の刀工。またはその作品。天国は日本刀剣の祖とされるが、実在の人物かどうかは不明とされている。

 天国宝剣はおそらく継体天皇、椀子皇子を祀るために、剱岳の神社に奉納された「宝剣」か、もしくは椀子王の墳墓(古墳)に副葬された「宝剣」であろう。いずれにしても時代は下り、刀工天国が刀作をおこなった奈良もしくは平安時代であろう。

 その宝剣を江戸時代の初期、本多重昭の家臣が秘かに発掘し、藩主から国神神社に奉納された。

 重要文化財であり国神神社の社宝である「宝剣」は公開されていない。年に一度、10月16日のみ公開される。

 剱岳のみならずあわら市の古代史を探るためにも是非とも伝説の「天国宝剣」を拝見したい。ということで国神神社に拝観申請したところ、許可された。現在10名ほどが拝観することになっている。せっかくの機会であり、真剣に興味をお持ちの方の参加も募りたい。(物見遊山的な拝観は御遠慮ください)

 詳細は牧田氏に問い合わせください。
   追 牧田携帯(090-1635-5710)

15年12月09日 昨日の一日
 午後は、池田町にいた。廃屋となっている古民家の調査計測のためである。
 古民家は、池田町と言っても市街地を抜けさらに奥山に入ったところにあり、美濃国がすぐそこだ。
 「能面の里・池田町」と書かれた看板が目に入ったのでその所以を同行者に聞いたところ、「ここでは能面がつくられているのです」との答えが返ってきた。

 古民家の中へ入ると、欅の太い柱、梁が惜しげもなく使われている。
 
 樹霊が佇んでいるような気がした。
 昨晩は、生涯学習館に有志10人が集まって、戦争のことを話し合っていたのだが、その時に飛び交った言葉つまりキーワードが復讐心だった。
 家に帰ってからもぼんやりとそのことを考えつつ保阪正康の本を開くと、そこに「第二次世界大戦におけるヒトラーの暴風の底には、第一次世界大戦の敗北をうけての復讐心がある云々・・」と書いてある。
 確かに
 日中戦争の導火線となった満蒙国境での軋轢は、関東軍の「ソ連は、日露戦争の結果をうけての復讐心の存在」に対する強い恐怖心のあったことがしばしば指摘されているし、戦争の実態は「やったらやりかえせ」であれ「やられる前にやってしまえ」であれ、個人の喧嘩の拡大版だと言えるだろう。


15年12月08日 血染めの日章旗 
 昨日の昼前、「もしもし、京都新聞ですけど・・」の電話が入ってきた。
 「??」の僕に対して、電話は続けて「太平洋戦争時に牧田一男さんが所属していた連隊の関係者から、血染めの日章旗発見という報告がありました。つきましては、一男さんから思いをいろいろ聞きたいのですけど・・」という。
 僕は「親父は10年ほど前に亡くなりました」と答え、三国町でご存命の方の名前と電話番号を紹介して、電話を切った。

 太平洋戦争時の従軍兵士での存命者の減少は、加速されている。もう10年もすると皆無に近くなるだろう。戦争の悲惨を知っておくこと・伝えていくことは、我々子孫の義務だと思う。
 

15年12月07日 昨日の一日
 昨日の午前中は、明社による歳末共同募金活動。
 荒れた日が続いて天候が心配されたが、運よく快晴に恵まれほっとした。これも、明社あわら支部会長の日頃の心がけの良さの賜物故と言える。

 午後は、福井県立文書館に「高見順没後50年記念講演」を聞きに行った。
 講師の荒川洋治さんには、20数年前の三国町での成人式・記念講演のために帰福した折、手話通訳を担当したという思い出がある。ちょうどその頃、高見順の「敗戦日記」を読んでいたのも、今回の講演を聞きに行った理由である。

 荒川さんの毎日新聞寄稿(2015年8月18日)を紹介しよう。
 「八月一七日は「最後の文士」高見順(一九〇七~一九六五)の命日だ。
 没後五十年にちなみ、東京駒場の日本近代文学館では「高見順という時代展(九月二六日~一一月二八日)を開催。九月二六日には自伝風の長編「我が胸の底のここには」(講談社文芸文庫)が刊行される。
 高見順は出発当初から「日本における最初の現代文学」の作家とみられていたと川端康成は記す。「如何なる星の下に」(1940、現在、講談社文芸文庫)は戦争期の心象風景を鋭敏な神経でとらえ、同時代とじかに接する「現代文学」の扉をあけた。それが「高見順の時代」(中島健蔵のことば)である。 
 戦後の大作「いやな感じ」(一九六三、角川文庫・一九七四、文春文庫・一九八四)は大正末年から二・二六事件にいたる激動の時代、アナーキストからテロリストに変貌する青年の心理と行動をいきいきと描いた。
 「見事な文学作品(三島由紀夫「いやな感じ」評)だ。現代詩にかかわるもので、これ以上規模のおおきい、魅力的な作品はそのあと現れていない。
 日本文学が漱石や鴎外で終わるものではないことを示した傑作である。
  ■   ■
 高見順の文学はそこらへんにあるものを書くとき輝いた。とくに、弱いもの、なさけないものを書いた。「故旧忘れ得べき」では「胸のモダモダ」を吐き出す。短編「湯たんぽ雀」は、銭湯で男が歯をみがいていたら、のどの奥を刺激したらしく「ゲー」。すると、見ていたどこかの子どもも「ゲー」。こういうところに入ると、どこがどうしたというわけでもないのに、とてもいいもの、新しいものになっていくのだ。人間への見方が深いためだろう。
 文章は、文学的ではない。「人間がそのなかで生きてきた歴史、人間がそのなかで生きている地理」。シンプルだがみごとな対象だ。「死んだ過去に、俺の現実が生きている。と言うことは、生きた現実が思い出のなかにだけあって、今の現実は俺にとって、生きた現実ではないのである。
 高見順の文は、同じことばをつかい、その位置を変えるなど、文のしくみを生かすことが多い。他の作家が文章なら、高見順は文法で書く人だといえるかもしれない。文章は特別な能力がいるが、文法はどんな人でもつかえる、とても庶民的なものだ。どこかの街のおにいさんが「おれの人生だよ。おれが人生だよ。あれっ?」とかなんとかいうのと同じだと思う。文法は、本人もおどろくところへ運ぶ。「ゲー」も「文法」もこれまで文学の外に置かれていた。高見順はそれらをまじえて、これまでにない世界をつくった。
  ■   ■
 高見順はまた、いまもロングセラーをつづける「死の淵より」や「重量喪失」を書いた詩人だ。
 いちはやく吉岡実論を全国紙に発表するなど、現代詩の鋭い読み手でもあった。「高見順日記」全八巻(勁草書房)は、昭和史第一級の資料として多くの人の書架に置かれている。詩や演劇を含めた現代文学史の名著「昭和文学盛衰記」など後世のための基本図書も数多く残した。
 詩、詩論、小説、小説論、日記、文学史と、実にひろいところで活動。
 著作の風景は多彩だった。書くだけではなく読むこともだいじにしたのだ。ほんとうの現代文学とは、こうした総合性に向かうところにあるのではないかと思う。今日の読者の多くは、文学とは小説だという観念に完全に支配させれているので、こうしたひろがりのある文学活動の意味を十分によみとることができなくなった。これからの文学のためにも、高見順は大切な人だと思う。」 
 
 荒川さんは、文士であるにも関わらず、知識披露型ではなく軽妙洒脱的漫才型のしゃべりを展開したので、決して退屈しない一時間半を過ごすことができた。

 帰路、民主党県連事務局長のYくんから携帯電話が入った。
 「今、県連幹事長のYさんと一緒に、牧田さんの家の前にいる」というので、お互いの間の距離の中間地点にあたる丸岡町の喫茶店で落ち合った。民主党時代、ぼくが懇意にしていた方の一人がYさんで、近況報告のあとに、「金津の夜明け・北陸線金津駅開業(長谷川勲著)」のプリントを進呈して別れた。

15年12月06日 昨日の一日

 昨日の午前中は、松龍寺で開かれた蕎麦会に参加。
 
 途中で三味線伴奏・ひえつき節を聞かされた。

15年12月05日 もう週末か

 小林巌著「一揆と飢饉と漂流と(越前若狭の歴史物語)」を読んでいて一番興味深かったのが岡田首相脱出・P239-
 二・二六事件で反乱部隊が暗殺をねらった中心人物が、福井県の生んだ唯一の総理・岡田啓介であることくらいは知っていたが、そのスリリングな脱出劇の詳細は全く知らなかった。

 昭和十一年二月二十六日早朝に永田町の首相官邸は銃声の轟く修羅場となった。青年将校をリーダーとした1400人の反乱部隊によるクーデターで、斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍大将らが殺された。
 二十七日付の新聞は「帝都に青年将校の襲撃事件」として「岡田首相ら即死す」と報じた。ところが死んだはずの岡田首相は生きていた。 
 岡田啓介は本県出身のただ一人の首相。またこのクーデターをめぐる人たちの多くも本県出身者または岡田首相の縁者であった。岡田首相の身代わりとなった松尾伝三大佐は福井市出身で首相の妹の夫。秘書官であった福田耕は本県出身の代議士。もう一人の秘書官・迫常の叔母・郁子は首相の後妻。迫水の妹は死んだ松尾大佐の長男の妻。
 さらに首相官邸で防戦、反乱軍に殺された土井清松巡査は本県出身。また脱出後、落ち着いた先が本県出身で佐々木木久二(尾崎行雄の娘婿)宅だった。もう一つ加えれば、反乱軍のうち陸軍大臣官邸を襲った百七十人の指揮官は迫水の母の妹の子である丹生誠忠中尉(のち死刑)。

一部青年将校の下になぜ軍隊は決起して襲撃を企てたか。立場によって解明のしかたは異なるが、一番はっきりしているのは事件のリーダーの書いた「趣意書」である。
「このごろ凶悪のやからが出てきて我欲をほしいままにし、万民は苦しい。元老、重臣、軍閥、官僚、政党がその元凶である。ロシア、中国、英国、米国との関係は一触即発の危機にある重大な時にあたり、国体を破壊する奸賊を一掃しようとするものである。われわれは征途に上ろうとしているが、ここに同志は決起して大義を正そうとするものである」

15年12月04日 無題
 夜明けが随分遅くなってきている。明るくならないとCAD画面には向き合わないので、必然的に読書時間だけが増えている。・・と書いているうちに東の空があかるくなってきた。
 さあ、リハビリを目的とした煙草買的自転車移動を始めよう。
 
 まあ、そういうことでコンビニまで往復してきたのだが、すごい風だった。風圧で自転車が倒れそうになる。まるで台風が来ているみたいだ。
 本日は遠方よりOさんが来訪。
お土産に、シングル モルトウイスキー・余市(45%)を頂いた。
 
 今年一番の寒さなので、ぼくは至極ご満悦。

15年12月03日 クラス会
 
 本日の夜、金沢市内で高校時代三年五組のクラス会が開かれる。何十年も会っていない同級生も参加するので、金沢へ行こうかと思ったが、四肢にマヒの残るぼくにとって「かなざわへ行きたしと思へども かなざわはあまりに遠く」、よって断念した。
 
 そのクラス会参加者のうちのひとり・Oさんから、
「まきさん(牧田さん、ギュウさん)
妄想日記、よく拝見しています。
少し飲み過ぎのようですが、お元気そうで何よりです。
124()1000am(おおよそです)お邪魔するつもりです。
久しぶりにお会いできるので楽しみです。」
のメールがあり 、ぼくも大変楽しみです。
 昨晩読んだ吉村昭著「海の祭礼」は、読み応えがあった。そこで、あとがきを紹介。

 江戸中期以降幕末までの史実にふれている間に、ペリー来航による日本の開国事情について書いてみたいと思うようになっていた。
 長崎へ行くと、史家の永島正一氏と酒を酌み交わす機会が多いが、インデイアン系のアメリカ人ラナルド・マクドナルドについて話し合うことも多く、いつの間にか興味を持つと同時に、この人物を介してペリー来航を書くのが最も好ましいと考えるようになった。
 私は、執筆することをきめ、調査に手をつけた。マクドナルドは不法入国者として長崎に護送、抑留されたが、日本を去る一年足らずの期間に、オランダ通詞森山栄之助に英会話を教え、森山はその後に来航したペリー一行に応接した日本側外交団の首席通訳をつとめている。マクドナルドには日本での回想を編述したものがあって、その原文のコピーは入手し概要を知ることができたが、マクドナルドとともに小説の主人公となるはずの森山についての研究は全くなされていず、労多い調査になることが予想された。
 マクドナルドはアメリカの捕鯨船員で、ペリー来航の五年前にあたる嘉永元年に、北海道の利尻島へ赴くことにし、途中札幌、稚内で史料調べをして島に渡った。東利尻町教育委員会の古川恭司氏に会い、氏の案内で島内をまわり、マクドナルドが上陸した野塚に行った。その間、氏の口から、アメリカ史専門の立教大学教授である富田寅男氏が利尻島に来て野塚を訪れたことを耳にし、私はマクドナルドを熱意をもって研究している方がいることを知った。
 帰京後、富田氏がマクドナルドの回顧録を「マクドナルド・日本回想記」として翻訳し、日本側の史料も渉猟して精密な解説を付していることを知った。私は、強力な先達を得た思いで氏と連絡をとり、その後、何度も会って、御教示をいただいた。氏は、私の願いを入れて、ジョージ・ワシントン大学で主としてインデイアン史を研究している鈴木広司氏に依頼し、ワシントンの国会図書館に所蔵されている当時のアメリカ上院の公式記録のコピーを取り寄せてもくれた。
 マクドナルドを長崎に護送する任にあたった松前藩の動きについては、北方史研究家の谷澤尚一氏に御協力を願った。氏は、私の求めに快く応じて長崎へも同行して下さり、長崎以外の地にも赴いて興味深い史料を探し出し、提供してくれた。
 森山栄之助については、幕末外交に終始関与した主要な人物であるにもかかわらず、私生活についての記録はない。父の名、没年はあきらかにされているものの、母、そして妻子の有無など全く不明であった。執筆に入ってからもそれを探ることにつとめたが、ようやく末裔の納富信吉氏を知り、家族構成その他が判明し、上梓にあたって加筆、訂正をした。
 東京大学教授の金井圓氏から安政四年の「森山多吉郎(栄之助)日記」をみせていただく機会を得、森山の私生活を描く上では参考にできなかったが、あらためて森山のはたした通訳兼外交官としての役目の大きさをうかがい知ることができた。その他、多くの方々の御好意で埋れた史料を眼にすることができ、感謝している。
 私としては、非力ながらペリー来航の背景、開国にいたる経過を、ラナルド・マクドナルド、森山栄之助を通して書くことができたことに感謝している。
 資料調査については、長崎の史家石田保氏、県立図書館の立川初義氏、国立国会図書館泉昌一、多田俊五氏、稚内市立図書館石田秀昭、加賀保氏、悟真寺住職木津義彰氏、日本海軍史学会石井謙治氏にお世話になった。また、上梓にあたっては文藝春秋の半藤一利、和田宏、浅見雅男、今村淳の各氏の御協力を得たことを記し、併せて御礼申し上げる。
                            昭和六十一年秋       吉村昭

15年12月02日 無題
 
 昨日の午後は、芦原温泉某旅館に郷土史愛好有志9人が集まっての忘年会。
 
 写真右側が印牧氏、左側が高戸氏で共に94歳という高齢にも関らず矍鑠(かくしゃく)としておられる。
 僕は、パキスタンで農業技術指導をしておられた高戸氏からイスラム教についてのいろいろを教わっていた。
 
15年12月01日 きょうから12月
 きょうから12月。そして、12月初日のきょうは忘年会が予定されている。
 それはともかく
 舘高重第一詩集・感情原形質から
 敦賀港にて
 とりのこされた石炭が砕けて全く歩道になった海岸通りである
 真赤な花が道ばたに咲いているのも何だか旅らしい気持がする
 湖のように重みあるこの湾の内には午後の陽が素敵にまぶしい
 ぽっかり浮いた第一艦隊の軍艦四隻
 その周囲は蟻のような見物人の艀のむれ
 波はへなへなと石灰岩の岬の方から玩具の船のように寄せてくる
 それでも蛇のような波止場の腹へぶつかると笑ったようにしぶきを上げる
 この下の渚で泳いでいる黒金魚のような漁師の子供がいる
 おだやかな箱庭の眺望 敦賀の海は僕にとって二度目のフィルムだ