16年08月日記
西暦 16年8月31日 水曜日 無題 もしかしたら、人生のエポックになったかもしれない8月が、やっと終わった。 西暦 16年8月30日 火曜日 無題 昨日、長谷川さんの病室へ寄って来たのですが、思いのほか元気で、9月11日(ブアイオリンコンサートの日)までには、退院できるだろうとのことです。 毎日、ウオーキングなどのリハビリに余念がないとのことです。 読書に時間をさき、中国の古典や日本の古典を読んでいて、日本人の無常観に対する対蹠的な立場に立つのが中国人だと説いていました。 「酒を愛した李白は当然酒に対する含蓄が深くよって文章も見事で、酒仙と呼ばれていた」と、語っていました。 西暦 16年8月28日 日曜日 無題 暑い時には この鹿児島産芋焼酎が美味い。 7年前の脳出血による後遺症なのだろうが、僕の脳は確実に狂い始めている。随所にそれを感じる。 でも、平家物語の壇ノ浦の段じゃないけど、平資盛の入水時の言葉・「見つべきことは見つ。ワッハッハー」なのである。 西暦 16年8月26日 金曜日 続き 上下合わせて1300頁にも及ぶ「影武者 徳川家光」も、150頁を残すのみとなった。 著者「あとがき」を紹介 家康に魅かれるのは悪女に惚れるのに似ている。随分昔の話だが、つくづくそう思ったことがある。共に正体が捕えきれない。人生の振幅が(悪女の場合は情感の振幅が)あまりにも大きすぎる。善かと見れば悪であり、悪かと見れば善である。徹底した現実家と思えば、途方もない夢を見る夢追人である。あれほど生涯執念を燃やした天下取りも、現実にその手に握るや否や僅か二年で放り出し、駿府に小さな独立共和国の如きものを造ろうとする。 始末に悪いのは、どの姿をとっても妙に妖しく、人の心をそそってやまないことだ。だからこそ尚更どこに本物の姿があるのか、どれが本音なのか掴みたくもなろうと云うものではないか。 やがてこの怪物の最後で最大の変貌が、関ケ原合戦を境にして行われていることが判って来た。 これまで例外なく子供に冷たかったこの男が、この時期以降に生まれた子供に対して、溺愛ともいうべき愛情を示すようになる。 これまでは性技に熟し切った年増女を好んでいたくせに、これ以降、娘より若い女を好むようになる。 齢を取ると人間の嗜好は変るというが、この場合、それが極端すぎるように思う。ことわっておくが、関ケ原当時、家康が五十九歳である。 それだけではない。同じく関ケ原を境にして、家康の行動にはむやみに謎の部分が増えて来るのである。 何故、関ケ原の年、乃至翌年に征夷大将軍の職に就任しなかったのか。あれほど渇望していた天下さまの地位につくのをどうして三年も引き延ばしたのか。関ケ原から二年目の慶長七年二月、朝廷は源氏の長者に補する(これは征夷大将軍にする前提である)という内意を伝えているが、家康はこれをきっぱり断っている。その理由がない。朝廷が自ら進んで征夷大将軍の位を贈るわけはないのだから、これは明らかに家康或はその配下の朝廷工作の結果である。それを何故拒否したか。恐らく朝廷は狐につままれたような気持だっただろう。 その翌年にはこの位に就くが、たった二年で秀忠に譲っている。自分の眼の黒いうちに子供に譲って、徳川家の天下を確実にするためと史家は云うが、何故たった二年なのかは不明のままだ。しかもそこから先の家康行動は、秀忠と対立するような形ばかりが目につく。 西暦 16年8月23日 火曜日 無題 私にとってのお盆が始まった。
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