16年11月日記
ウィキペディアより 森田 愛子(もりた あいこ、1917年11月18日 - 1947年4月1日)は、福井県坂井市三国町出身の俳人。高浜虚子の名作「虹」のヒロインとしても著名である。 1917年(大正6年)に、三国港の豪商森田三郎右衛門と名妓田中よしの娘として生まれる。福井県立三国高等女学校(現・福井県立三国高等学校)を経て、東京の女子大学へ進学。
師走と言えば、どうしても忠臣蔵である。様々な作家が忠臣蔵を書いているが、今年は森村誠一のそれを読むことにした。久しぶりの江戸ものなので、読み進めるうちに気分が凛としてくる。思うに、それは自分の先祖が武士であったことの証だ。アレックス・ヘイリーの「ルーツ」のような先祖探しを人生の最後の課題としたい。 生類憐みの令で有名な五代将軍綱吉の頃には商人が力を持ち始め、必然的に武断政治が文治政治へと切り替わる。戦いのないが故に下級武士は存在価値を失ない巷には傾奇者があふれ、男性の半分しかいない江戸の町の女性たちは傾奇者の好奇の目線にさらされる。 元禄時代のある日の昼下がり、永代橋の袂で、涼しげな容貌の町娘が酔っぱらった傾奇者数人に囲まれ、下卑た言葉を浴びせられていた。そこへ通りかかったひとりの武士が、傾奇者たちの狼藉をとめようとする。傾奇者たちの矛先はその武士へと方向転換し、唾を吐き掛け殴る蹴る。武士は一切抵抗せず土下座して町娘に手出しをしないよう訴えていた。取り巻きの見物人は武士の弱腰にあきれ返った。しかし、見物人のなかにいた一人の浪人だけは、その武士の並々ならぬ膂力、眼力、太刀使いの非凡さを見抜いていた。代わりに傾奇者たちをけちらした浪人は、武士を一膳飯屋へ連れていき、お互い胸襟を開く。武士は無念流の達人だった。 「怖かったのです。自分が怖かったのです。屈辱に耐えきれず一旦刀を抜いたらあのゲス野郎たちの肉を刻み骨を砕き内臓をえぐりだしていたことでしょう。となると、主家に迷惑のかかること必至です。幕府は外様大名の改易を次から次へと実践している。 生類憐みの令の治下、人間もまた獣です。主家はおとりつぶしとなるでしょう」・・武士は浪人に胸中をそう吐露した。 この話を伝え聞いた、綱吉の側近・柳沢吉保は「その男こそ武士の鏡」と、褒めたたえた。その発言が後年の浅野内匠頭刃傷沙汰の伏線となるのも知らずにだ。 さて 橋の袂の町娘と武士が愛し合ったのかどうかはわからないが、要するにこの武士の子孫が私ではないかと、思うのです。
昨日の午後は、とんぼさんに誘われて、東十郷公民館へ行った。 そこでは、円居愛一郎弁護士による講演会「憲法改正で幸せになれる?」が開かれていた。 氏の現憲法と自民党「日本国憲法草案」の比較説明を聞くなかで、「なるほど」と「そうかな?」の交錯する部分があったので、数日かけてじっくり考えてみようと思う。 会場で二人の人物に会った。一人は元あわら市議の田島さん。昨年、彼女は私と同じく脳梗塞で倒れ、退院後は自宅で床に伏していると聞いていたが、杖をつきながらもはっきりした口調に戻っていた。 ひとりは今年春の参院選に出て惜しくも負けた横山さん。相変わらず元気いっぱいでネバーギブアップ調だった。 石田衣良著「明日のマーチ」読了 。 「俺たちは過去の何かを隠している。そして旅を続ける。それが人生というものさ」という修吾の言葉が鼓膜に残った。
佐野洋子著「神も仏もありませぬ」読了。 著者についての予備知識は皆無だが、図書館での背表紙の題名に惹かれて借りた。谷川俊太郎の前妻とは全然知らなかった。 一晩で読み終えた。ゲラゲラ笑い続けた。それほどに面白いというか悲しいというかそういう本だった。
一昨日の夕刻に坂井市議の辻さんが来て、「お酒の好きな牧田さん、是非、酒の講演会に来てください」と言うので、「いや、酒の好きな牧田ではなくて、酒と女性の好きな牧田です」と、答えた。 そして、昨晩、とんぼさんを誘って「いねす」へ行った。 「いねす」は、久保田酒造社長・「地域と共にある酒造り」の講演会場。 社長の講演は、造り方飲み方保存の仕方など奥深く、 帰りの車のなかで、助手席のとんぼさんに純米吟醸酒など酒の値段の根拠を尋ねた。 「確かに高い酒は酒米の芯近くまで削って不純物を取り除くのだから、質も値段も高くなる。しかし、不純物がないということはいかにも優等生的で、要するに面白みがない。私は、1000円位の一升瓶が一番好きだ」との答えが返ってきた。 悲しい酒
雨交じりで寒さ厳しい模様にも関わらず、「かりんて祭」の人手は盛況だった。 お知らせ
↓ 出久根達郎著「ぐらり!大江戸烈震録」のオビ どーん、ときた。 人生も、一変した。 幕末の江戸を襲った 安政大地震 未曽有の災害と 復興のさなか、 商家の箱入り娘、 竹問屋手代、 鰯売り、飛脚人、 船頭、コソ泥など 江戸町人たちが おりなす人間模様 下谷広小路の仏具商 「甲子屋」の一人娘、おようは 安政大地震で 家族の消息を失った。 父母や祖母、座敷牢に入っていた 叔父に至るまでである。 負傷したおようは 救護所の寺で竹問屋の手代、 千三郎に松葉杖を作ってもらう。 お茶すら自分で淹れたことのない お嬢様のおように、 震災後はさらなる 運命の転機をもたらす・・・。
土日を怠惰に過ごしたせいか、昨日はひどく忙しかった。 午前7時半から8時半まで金津高校正門前でビラまき。いまどきの高校生は礼儀正しく、ビラを受け取りながら笑顔できちっと挨拶する。8時半になったので、朝飯も食べずに、三国土木事務所へ直行。某住宅の記載事項訂正届けについての説明をこなしたあと、三国の虹屋(森田愛子出生の建物)改修現場へ。 ファサードが立ち上がっている。もう一ヵ月もすると全貌が現われるだろう。 引っ返して、北潟天王区の消防詰所現場へ。基礎、柱脚、地中梁の配筋検査だ。 消防署員から「別の詰所工事現場で、打設杭が地下のパイプラインを壊してしまった」との話を聞く。 大状況としては、トランプ当選、南スーダン問題、尖閣あるいは沖縄問題、TPPといろいろあるが、身辺に近い小状況もいろいろあり、切実さとしては同等あるいはそれ以上だ。 事務所へ戻り、ブリ大根ぶっかけ飯を腹に押し込み一服したあとは、「ひなた工房伊井事業所」の原図をチェックし、原図を持って工房へ。 社長・達川氏の障害者問題に関する熱弁をじっくりと拝聴したあと、外へ出るとすでに風景は夕闇に包まれていた。
土日は一切仕事をせずに読書に専念。 但し、気晴らしのために数十分間、日暮れの古道を歩いたのだが、肩に落ち葉が舞い散ってくる。 同行者が男性なのが、少しだけ残念。
昨日の午前中 打ち合わせのためにやって来たクライアントが、「この部屋に惹かれる」と、言う。 「どこが?」と問う僕に、「設計ゾーンと応接ゾーンを区画するために立てられた古めかしい紙貼り障子戸です」と、彼は答える。 「ああ・・これは、旧住宅に眠っていた何十年ものです。なんせ、あんまり新しいものは好きじゃないので。調度品だけじゃなくて、音楽も小説も人間もです」と、説明しながら、パソコンデイスクに「♪港町ブルース」を差し込んだ。 吉田修一著「森は知っている」読了。
昨晩の夢のなかで、僕は「明治村」にいた。某建築設計事務所勤務時代に二度当地を訪れたことがあるが、夢のなかで訪れたのは初めてだ。ライト設計の帝国ホテルの前にずっと佇んでいた。 不思議だったのは、突然場面が切り替わったことだ。 僕は水浸しになった早朝の大都会の車道を裸足で歩いている。水深は30cm程度で足元にはたくさんのシジミ貝が転がっている。「朝飯の味噌汁の具に使おう」と思いながら水中に手を入れたところで目が覚めた。何故そういう夢をみたのかとんと見当がつかない。 学生時代の友人が頑張っている。 宮本昌孝著「藩校早春賦」読了。
午前中に改修予定現場の敷地を計測し、午後は医大病院へ。入院した友人の見舞いの為である。 脳出血で倒れた僕がこの病院に長期入院していたのは、10年近く前だ。病室は確か11階だったと記憶する。ベッドから起き上がれるようになってからは、車椅子に座って朝な夕なに眼下に臨む九頭竜川を飽きもせず眺めていた。奥山の 同じフロアー同じ病室にいた患者の何人かは既に逝った。みな自分より若く、自分が今生きていることに対して不思議な気がする。 看護婦たちはみな美しく優しかった。 あまり言いたくはないが 次から次へと僕を見舞いに来る女性たちを見遣る看護婦たちの目線に鋭い棘があったということは、いわゆる嫉妬だったのかもしれない。 九頭竜の流れは絶へずして また元の水にあらず 牛
・・と書いたけれども、仕事の合間の休憩時間には、熱々珈琲を飲みながらついつい駄文ブログを書いてしまう。別に、誰かが読んでくれることを期待しているわけではないのだが、十数年間続けていると、書かなくてはその日一日が落ち着かない。悲しい ということで、昨日は実に久しぶりにラーメン屋へ行った。瓶ビールを飲みながら(私は助手席なのでノープロブレム)塩ラーメンを口に含みつつ、共通の知人たちの人物を評定していた。「雨夜の品定め」ではなく「曇天昼下がりの品定め」だったのだが、たまに外へ出るのも必要だと思う。 帰宅すると5時を過ぎていたので、きょうの仕事は終了と、ウイスキーボトル片手にテレビのスイッチを点けたのに、壊れたためか大相撲の画面がでてこない。 いよいよ、ラジオだけを友とする中学時代の生活に戻っていく。
家に来ていた妹が午前中に帰るというので、「久しぶりに喫茶店へ行こう。おごるぜ」ということで、愛車ケトラの助手席に乗せた。ところが午前9時だというのにどこも開いていない。そこで温泉区の喫茶店へ行ったのだが、なかなかの繁盛ぶりで、モーニング珈琲も美味かった。 話題は10年近く前に逝った親父の知られざる過去。かなり好きなように人生を送った彼だが、私が知らなかった裏面を妹から教えてもらった。 「高校生で若かった私には、あの頃のお父さんの行動の不可思議な一面の意味がわからなかったけれど、40年の歳月を経た今はわかるわ」と、言う。 いつも思うのだけれど、男女の違いのひとつに、「女は敏感、男は鈍感」がある。
福本武久著「小説 新島八重」を読み終えた。 少女期の戊辰戦争で死を覚悟して会津城に籠城し、政府軍から打ち込まれる大筒の弾を拾い集めた彼ら彼女らは、当然のことながら、逆賊としての視線を浴びながら、明治、大正を生きなければならなかった。 その彼女を支えたのが、キリスト教徒で同志社を創立した良人・新島襄であった。 新島襄はキリスト教伝道に人生を捧げ早世した明治期の言わば有名人だが、妻・八重はそれほど知られてはいない。しかし妻のその後の人生の心の奥底には常に良人・襄がいて、沈んでいる八重、悩んでいる八重に適切な指針を与えてくれるのだった。 この本のなかでの八重はいつもよどみなく明朗闊達だ。これは戊辰戦争での籠城で一度死に、「その後の人生はおまけ」と自己を規程した故のものだったろう。
「こんだけながいこと生きてきたけど、一日たりとも飛ばした日はなかった。」 世の中には、有名人の最後の言葉がいろいろ流布しているが、上の言葉は僕の友人のおばあさんが死の床で残した言葉であり、まさに真実をついたものなので強く覚えている。 とは言うものの、僕の場合、大病による意識不明の日が数日あり、その日々は飛ばしたことにならないのだろうかとの疑問がのこる。 前世紀の西洋有名人が「人間は生から死を前借りしている 眠りはその前借りの利子である 」と、書いているくらいだから、意識不明の日々は飛ばした日々の範疇に入るのではないかと、ひとまずは思う。 しかし世の中には、病床で意識不明の人生を終えた人が無数におり、その人たちの人生が飛ばし続けの人生だったということになってしまう。早い話、今年の夏に亡くなった従兄の場合、最晩年の6年間は植物人間だった。 頭がうまく整理できない僕は、一ヵ月ほど前にある男と議論したのだが、医者でもない僕ら二人の結論は「傍目に意識があるかないかではなく、本人にそれがあるかどうかだろう」に落ち着いた。 どうでもいいことだが 僕が死ぬ直前の病床の傍らには妻がいて、半分意識のない状態のなかで僕はあえぎながらこう言うのだった。「胸をはだけてほしい」・・そして、「僕はいろんな女の裸を見てきたが、やっぱり貴女が最高だ」と言って眼を閉じるのだった。 ところで N氏(推定年齢70数歳)が、清酒寿とゆずを持ってきた。 時刻はちょっとはやいけれども、「ええわい」と、飲みながらの歓談の場となった。
12月が近くなってくると、やっぱり吉良邸討ち入りだ。 ということで、今朝は午前2時の起床と同時にユーチューブで「忠臣蔵(大石=田村正和 吉良=西田敏行)」を見ていた。 一昨年だったか、吉良側から見た忠臣蔵(著書名と著者名は忘れた)を読んだ時、上杉家から用心棒として吉良家に派遣された清水一学の生涯に涙したのを覚えている。 一学は貧しい百姓の生れなれども、武士になりたい一心で文武両道に励む。ある時、郷入りした吉良と偶然出会い、御付衆となるのだが、既に彼には愛しい 赤穂浪士たちと戦い、降雪のなかで息絶えた清水一学・・さぞ悔しかっただろう。彼が愛した女・・さぞ悲しかっただろう。 そのせいか、松の廊下で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭の思慮浅さにも違和感を覚えたし、赤穂浪士たちによって炭焼き小屋から引き出された吉良の斬首直前のシーン(西田が好演)にも深いため息をついた。 これほど深いため息をつく私の先祖は、もしかしたら武士だったのではないだろうか。
「私は78歳。人前で固い話はもうできません」と、固辞する。 「先生、何をおっしゃいます。78歳は充分若いですよ。先生の本で、僕は開拓の過酷さを知りました。次の世代にそれを伝える媒体として、文字(インクの染み)と並行してしゃべり(空気の振動)が不可欠です」と、相手が女性でないのにも関わらず懸命に口説いた。 先生の顔が和らいだ時、嬉しかった。
怖い夢で、僕は熟年男性を後部シートに乗せて 怖い以上に不思議な夢だった。平和主義者の僕に、いくら考えても殺したい男など居ない。夢が何かの暗示であるとするならば何を暗示しているのだろうか、と考えたが、稚拙な頭では思い浮かべることができない。 インターネットで 「フロイトによれば夢の素材は記憶から引き出されており、その選択方法は意識的なものではなく、無意識的である。したがって一見すると乱雑な夢の内容においても無意識に基づいた統合性が備わっており、さまざまな出来事を一つの物語として連結させるものである。それにはさまざまな狙いがあるが、一般的には夢とは潜在的な願望を充足させるものである。つまり夢は無意識による自己表現であると考えることができる。」を読んだが、この方面に興味のある人に判断を仰ごうと思う。 自分なりに思うのは 僕の最近の起床時刻は、午前3時前後で、起きたら先ずは内田某の浅見光彦シリーズや松本清張シリーズなどの推理サスペンスをユーチューブで見ることを一日の始まりとしているので、その影響があるのかもしれない。 さあ、今晩は「あわら9条の会例会」だ。
確認申請が決済された某住宅の建設予定地に施工関係者が集まり今後の行程に関する打合せを行っていた。 「建築設計は住宅設計に始まり住宅設計に終わる」という言い古された言葉があるが、市街地を眼下に臨む予定地に立ちながら、「今回の設計が何度目になるのだろうか」と回想したものの、勿論、思い出せない。 いずれにしろ、建物を造る過程には様々な職種が入り込んでくる。完成までの数カ月が異業種交流の日々となるので楽しみだ。 本日は、午前8時から坂ノ下区民館敷地の草むしり清掃作業に従事していたのだが、頬に当る木枯らしが冷たく、 9時過ぎに帰宅し、電気ストーブのスイッチをオンにして、IHヒーターとレンジで卵焼きサンドをつくり、熱々珈琲を飲みながら大学駅伝をテレビ観戦している。束の間のシアワセなひとときだ。 若者たちの軽快な走りを見ているうち、20年前を思い出した。 京都の実業団陸上チームに所属する聾唖者男性が、敦賀から武生までを走ることになって、手話通訳的立場での併走(勿論車での)を頼まれた。マラソンの持ちタイムが2時間37分と言っていたからはやいのだろう。 力走する彼の後ろ姿に無駄はなく芸術品みたいだったが、敦賀と武生の中間地点で、突然立ち止まってしまった。「町へ戻って、薬局で軟膏を買ってきてほしい」と、言う。要するに股ずれになったわけだが、無駄のない走りと股ずれは表裏一体なのだろうと、思った。
奥山に 紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき 猿丸大夫 奥山に紅葉を見に行ったこともないうちに秋は深まってきて、深夜の寒さが身に染みてくると、聞いたこともない鹿の鳴き声を聞いたような気分になって、まことに秋は悲しい。 若い頃は夏が自分の季節だったが、中年を過ぎてからは秋が一番好きな季節となった。団体旅行だったが、十数年前に京都嵐山で見た紅葉・・見渡す限りの紅葉世界が忘れられない。 今年も、奥山までは無理としても、せめて大野辺りの里山へ出かけて紅葉を愛でたい。そういえば大野市には、かって私が福井県PTA連合会副会長時代に濃密な付き合いをした男がいる。再会を果たしたい。 ところで、昨日の話を続けたい。 20年ほど前、三国手話サークルにかよってくる米外人がいた。某証券会社のテレビコマーシャルに出ていたから、このブログをご覧の皆さんのなかにも顔を覚えている人がいるかもしれない。 名前はセッド・チャップマン。身長193cmの雲つくような大男で、米ではジュニアオリンピック出場を目指していたという。その割に軟派で、米で知り合った日本人女性を追いかけて日本へ来たとのこと。しかり、和美人の原産地は福井県なのである。 ある晩、三国のサンセットビーチでサントリーオールドを飲み交わしていた時、彼が言った。 「私の故郷・カリフォルニア州バークレーでは、ハンデイキャップトパーソンという言葉は禁句であり死語。だって、障害者たらしめているのは健常者社会ですよ」と、言った。 今の日本では「障害者」という言葉が「障がい者」という言葉にとって代わられつつあるが、言葉の保守主義者である私には是認しえない。行政というか国というかは、害は害ではないんだと言いたいのだけれども、現実として健常者は障害者に対して、害を与え続けているのである。そのことに一人でも多く気づいてほしい
昨日の午後は、福井県生活学習館多目的ホールに居た。福井県ろうあ協会主催「手話の普及促進・啓発を考えるフォーラムinふくい」が開かれたためである。 あわら市議会事務局から、「議員あてに招待状がきているのだけど、手話のことがわからないので代わりに行ってほしい」という電話があり、既に議員を辞め手話とは無縁の悠々自適的生活に入っている私が行くのも変な話やなあとは思ったのだけど、当日は他に予定もなくたまにはいいかなと、思って出かけた。 基調講演者やパネリストは多彩な顔ぶれ。なかでも泉房穂明石市長の話が面白かった。障害者と健常者との関係を強者と弱者との構図で捉えるのではなく、「逆転の発想を!」と叫ぶのを聞いて、40数年前に深夜ラジオに投書した(読み上げられた)私の思いと重なる部分があることを強く感じたからだ。 屋根谷敦子・明石市議(聾唖者)も会場に来ていた。 福井県主催昭和46年度手話講習会に参加したのが、私の場合の聾唖者とのつきあいのきっかけとなった。講習会受講者のなかに可愛い娘がいて、「よし、 読み取り通訳にしろ聞き取り通訳にしろ、若い世代が育ってきていることを会場で実感。 掲示板 福井市内の某建築設計事務所が、大型商業ビルを設計するに当って設計技術者を募集しています。年齢は問いませんが、3年間程度の勤務となります。ご希望の方は、私の携帯電話(090-1635-5710)にどうぞ。
博多旅行故に週末の二日間、福井を離れていたので、二件の建築設計を抱えている僕は、打合せ依頼満載の昨日だった。ようよう疲れたが、逆にこれを喜ぶべきかもしれない。70歳近くにもなって時間に追われるということは 、自分の存在を社会が認知しているということだからだ。 人間は幻想的に存在している。個的存在として、類的存在としての重層性を持って存在している。その存在の在り様をベクトル表示を駆使して指示したのが、吉本隆明著「言語にとって美とは何か」であり、かつその延長線に「共同幻想論」を著した。 ベクトル表示が僕に希望を与えてくれたような気がする。 |