16年12月日記

西暦 16年12月28日 水曜日 無題

 来年の生活が今年の延長であることは勿論だが、とは言うもののいろんなことが変わろうとしている。金本阪神監督の「超変革」というやつだ。

 一昨日の電話で、某歯科医が「一月一日に美味しいワインを持ってくる」と言われたので、来年は酔っぱらうことから始まりそうだ。


西暦 16年12月25日 日曜日 無題

 昨日は、友人某氏が野外で初めてピザをつくり私は試食を依頼された。私の胃が丈夫そうだから」とのこと。
 コンクリートブロックを積み上げた炉に鉄板を伏せ薪で加熱したものだから、ピザの底面は焦げてしまったが、概して美味かった。

 本日は、午前三時からCADに没頭している。今、自分が関わっている建物立面のカラー化に邁進している。それをやったからといって、一文にもならないのだが、やりたいと思ったらやり続けずにはいられない。損な性格だ。

 おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな  芭蕉 


西暦 16年12月23日 金曜日 もう週末か
 
 山本一力が書いた「つばき」も100ページを残すのみとなった。著者は、借金を返済するために小説家になったという異色な人物である。

 寛政元年五月、一膳飯屋の「だいこん」は浅草から深川に移ってきた。店主つばきの才覚と客あしらい、メシ炊きの技は評判だが、ここには職人の町ならではのわきまえがあり、独自の商売が息づいていた。深川を仕切る渡世人弐蔵をはじめ、アクは強いが義理人情に厚い輩たちに助けられながら、ひたむきに商いする、女あるじの深川繁盛記・・(オビ)

 自分をぎりぎりまで追い詰める女あるじの生き方は著者の投影だ。
 こういう本を読んでいると、自分がいかに生半可な生き方をしているか、鬱屈した気分になるし、人生が二度あればいいと思うのだが、勿論それは無理というもので、ならば人知れずに消えていくしかないのだろう。


西暦 16年12月22日 木曜日
 
 先日の来訪客から、「牧田はんの表情には笑顔が少ない」と言われたことがこのところ気になっていたが、やっと落ち着いた。
 年末だというのに生暖かい風が吹き荒れているので、朝一番に、二つの工事現場へ行ってきた。幸い、保護シートも飛んでいないのでひと安心。

 

 

西暦 16年12月21日 水曜日 松本清張を愛する日々が続く

 昨日の午後、嶺北消防署へ出向き、あわら消防署第二分団詰所についての打合せをやっている最中(さなか)、課長が、「今、隣で、消防議会の真っ最中です」と、言う。
 傍聴しようかと一瞬思ったが、既に仕事の鬼と化している自分にそういう時間はなく、仕方なしに工事現場へ向かった。
 しかし、議会終了後に消防議員・某氏から、議会の内容を伝える伝える電話があり、その内容を聞いた時、「傍聴に行きゃよかった」と、思った。
 瞬時の決断の迷いが、後悔をもたらすことがわかった。


西暦 16年12月19日 月曜日 無題

 昨晩は、春江町の中華料理店で久しぶりの外食。
 ビールを飲みながら味噌ラーメンを食べながら同行者と何かを話し合っていたのだが、一夜が明けると寝覚めにその何かを思い出すことができない。

 コーヒーメーカーで沸かした熱々キリマンジャロを飲んでいるうち、徐々にその何かがやっと思い出されてくる。年を取るということはつまりそういうことで、ま、過不足なく俺は生きているのだろう。

 ということで、朝一番に工事現場へ行かなくてはならない。
 ということで現場へ行く途中にしばしの休息。

 白波のたつ日本海を眺めながら、うとうとしていた。


西暦 16年12月18日 日曜日  昨日の一日

 いやはや忙しい一日だった。
 午前中は某邸の地鎮祭。
 祝詞上奏は、出雲大社の神主で、例えばこの辺りの地鎮祭では、普通、神棚に向かって二礼二拍手から始まるのだが、今回は四拍手から始まった。祝詞の内容は和語なのでわかるはずだが、古語なのでわかるようなわからないような・・。とにかく聞いているうちに井沢元彦を思いだした。
 
 彼は、大国主命の国譲り神話を大和朝廷による出雲併合と見て、()拍手を()拍手としたと解説している。つまり、建速須佐之男命が大国主命を殺したのだが、大和朝廷は、その行為による祟りを恐れ、贖罪の意味で()拍手としたのだと・・。

 地鎮祭終了後、生死の境に居る私は、無謀にも神主つまり神の使いに向かって、井沢説の是非を問うた。
 「まったくちがいますなあ。明治維新までは、伊勢神宮にしろ出雲大社にしろ、八拍手だったのどすえ。明治の世つまり明治天皇は、和魂洋才を錦の御旗として、八泊をを四拍に変えてしまったのどす」と、言う。

 地鎮祭終了後は、来訪していた妹と一緒に喫茶「言の葉」へ。店内には薪ストーブが燃え盛っていた。店から出た私は、100万ボルトへ直行し、コーヒーメーカーを購入。
 これで、来訪客を最上級のコーヒーでもてなすことができる。

 夕刻に事務所へ戻ると同時に、「ひなた工房」社長・達川氏より電話。
 長谷川料理教室で、料理ができあがってきたので迎えに行く」と言う内容だ。僕は両ポケットに缶ビールを入れて同行した。

 


西暦 16年12月17日 土曜日 
 
 朝一番で坂ノ下区民館へ。
 区長と工務店社長と私の三人で、区民館耐震改修診断の打合せに没頭していた。
 打合せの最中にN氏(推定年齢78歳・男性)から電話が入り、「毎日、牧田はんのブログを見ている。加賀千代女ゆかりの地へ連れて行ってほしい」と、言われた。


西暦 16年12月16日 金曜日  千代女のこと 
 
 筆内幸子著「加賀の千代」エンデイング
 
 素園尼(千代女が脱俗してからの号)は目をつぶった。すると、ぼたんの花のように美しかった哥川の姿が浮かんできた。
 美しう昔を咲くや冬ぼたん
 震える手でやっと書いて差し出すと、
 茶の花やくもらぬ里の心あて
 と、哥川はすぐに返句した。

 安政四年(1775)九月に入ると、素園尼の病は人人の眼にもはっきりと後の命短いことを思わせた。「七つ(午後五時少し過ぎ)時分より眼かすみ、どなたのふみも見え不申候ゆへ御めん可被下候」と書き残すほどの病の中で、素園尼はついに蕪村に玉藻集の序文を書きあげた。・・・

 ラストシーンに越前三国の遊女・哥川が出てきたので、僕は嬉しかった。
 奥底のしれぬ寒さや海の音 哥川


西暦 16年12月15日 木曜日 きのうから人生が変わった
 
 筆内幸子著「加賀の千代」を読み終えた。
 「朝顔や釣瓶とられて貰ひ水、起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな の句で有名な加賀の千代の名を知らない人はほとんどいないであろう。しかし彼女の生涯を知っている人もほとんどいないのではなかろうか。あまりにも有名なため、美化され、偶像化され、羽子板の押し絵のように美しく平面化された千代に、一人の女としての血肉を与え、恋にまどい、肉親の情にまどい、句にまどい、結局は俳句一筋の道を歩いた千代の一生を私は書きたいと思った」→著者まえがき

 僕自身は、この本に出てくる千代女の俳句が秀句なのかどうか、数句を除いて全くわからない。ただ、5・7・5が次から次へと彼女の頭のなかに浮かんでくることには驚いた。要するに俳句を味わうセンスが僕に全くないことはよくわかったのだが、著者まえがきにあるように、まどいの千代だけは実感できた。
 部屋のテレビが壊れて二ヵ月が経過した。初めの内は、大相撲が見たい・阪神タイガースの試合が見たい・刑事コロンボが見たいとのストレスがたまったが、今は全くなくなった。50数年前つまり僕が中学生の頃までは我が家にテレビはなかったし、むしろそのころの方が楽しかったような気がする。
 生活面での欲望がどんどん薄らいでいく。
 今の自分にあるものは、喫煙欲と飲酒欲と読書欲と恋愛欲だけとなった。それでも生存欲は、確固としてあるのが不思議。

西暦 16年12月14日 水曜日
 
 氷雨のなか、完全武装で鉄骨ボルト締め検査に臨んだのだが、やっぱり怖かった。鉄骨二階建ての屋根面は、足元が地上6mの高さになる。施工する鳶職は高所が通常の居場所なので悠々としているのはわかる。しかし、同行の消防署職員の身軽さには驚いた。
  
 思うに、災害時のレスキューを日々訓練しているからだ。


西暦 16年12月13日 火曜日 雨の朝
 
 「部品を入荷」との電話が自動車修理工場から入った。
 これで、愛車ケトラの右側ドアの故障も直り、ついでにタイヤもスノータイヤに交換。冬場の運転に不安は無くなった。
 自動車工場からの帰りに専門店へ寄って、高価なヘルメットを購入。きょうから予定されている某建物の鉄骨建方工事現場敷地に入ることの恐怖感も解消した。
 

 酒煙草情事等々快楽故の死は仕方ないが、事故による身体破損の死はいかにも痛そうで、極力避けたい。
 筆打幸子著「加賀の千代」の91ページ。
 ・・・暮れやすい秋の日を気にして、六兵衛の足は早くなる。
 「千代、()うなった者はどんなに悲しんでも帰らぬ。亡うなった者はこの世に残したいとおしい者の悲しむ姿を見るのが一番辛いんだ。この世に残したいとおしい者が悲しんでいる間は、浮かばれぬということだ。行く所へ行かれないということだ千代」・・・


西暦 16年12月12日 月曜日 昨日の一日
 
 昨日の朝一番は、坂ノ下八幡神社での清掃奉仕。清浄な気持で新年を迎えるための作業だ。 


 作業を終えてから印牧邦雄先生宅の三国町性海寺へ。
 我々6人のグループは、そこで、著書「彦主人王と男大迹王」を資料にして先生から、一時間半の講義を受ける。
 
 「継体天皇の本籍は金津町だった」との説を展開しているこの小冊子は、金津図書館で借りることが出来ます。
 ・・・その後、町内の蕎麦屋へ行き、美味しい年越しおろし蕎麦をふるまわれたので、僕はこの瞬間から平成29年にタイムスリップした。

 蕎麦屋を出てから、生涯学習館へ。
 「第4回ふるさと講座ーあわらの碑(市村敬二講師)」が開かれたため。講義終了のあと、僕は市村先生に、来年2月の「富津開拓史講演」を依頼し快諾をいただいた。

 生涯学習館を出てからとんぼさん宅へ行き、御夫妻と共にひなた工房伊井事務所へ。達川社長から、老後の生きる夢についての1時間半にわたる熱弁を聞いてから外へ出た時には既に闇がせまっている。

 帰宅しパジャマに着替え辛口芋焼酎を口にした時、快い疲れが体内を駆けめぐった。
 「即身仏の殺人」読了。
 殺人事件に巻き込まれる人物群がそれぞれに謎を持っていて文章の流れをきっちりと咀嚼できなかったのは、一重に老いによる読書能力の低下のせいだとは思うが、即身仏(ミイラ)が見えたり隠れたりの構図についひきこまれて、最後まで読んでしまった。
 時間の浪費だったとは思わない。


西暦 16年12月11日 日曜日 無題

 本日は印牧邦雄先生(御年94)を囲んでの蕎麦会が予定されているので、先だって頂いた著書「彦主人王と男大迹王」を懸命に読んでいる。
 
 三国、金津、丸岡の継体天皇に縁ある神社がふんだんに出てくるが、行ったことのあるものないものがないまぜで、血をひくと密かに噂されている私としては、是非とも紹介されている神社の全てに行ってみたい。
 


西暦 16年12月10日 土曜日  ちょっと思ったこと

 昨日の午後は、12月あわら市議会一般質問を傍聴。質問者は次の通り。
 視力の低下に伴い小説を紙本(ペーパー)で読むのが困難になってきたので、CD「聞いて楽しむ日本の名作」をスイッチオンにして深夜を送るようになってきた。紙本読みつつのCAD作業はできないが、この場合にはCAD作業が可能であることを発見したのが収穫。

 しかし、これだと¥980エンで購入したアンプの貧弱的出力能力では僕の耳が可哀そうで、高額高出力のアンプを手に入れたくなった。小遣いを節約してそれを手に入れ、充実した正月を送りたい。言うまでもないことだが、アダルトは聴かない。
 高橋克彦著「即身仏の殺人」も中半に入った。
 20年程前、「わちらの会」で、女流筑前琵琶奏者を演奏のために金津町へ招いた時、彼女は宮谷石切り場の洞窟のなかで、「私は高橋克彦のガールフレンドなのよ」と言っていたのを思い出す。
 確かにこの小説のなかでも主人公の長山(著者自身の投影だろう)の博識軽薄ぶりは、度を超している。
 小説家というのは、ハチャメチャな空想世界に生きている分だけ実像は石部金吉なのだと思っていたが、妻帯しつつガールフレンドを持つ人もいるのだと俺と変わらないのだと驚いた次第。


西暦 16年12月9日 金曜日

 西木正明著「夢顔さんによろしく」
 この本は、終戦時にA級戦犯に指定され服毒自殺した近衛文麿首相の長男・近衛文隆〔細川護熙の叔父にあたる〕を追ったドキュメンタリーだ。

 満州で終戦を陸軍士官として迎え捕虜となり、シベリア抑留。各地の収容所を転々としたあと、ハバロフスク裁判で国際ブルジョアジー幇助という罪で26年の禁固刑を受ける。昭和30年の日ソ国交正常化交渉に際し、鳩山一郎首相の帰国要求や国内からの数十万人もの署名入りの嘆願書があったが、帰国が叶うことはなく、死去。彼の死は病死にしては不審な点が多く、西木は毒殺の可能性を強く示唆している。

  平成3年、「政治弾圧犠牲者の名誉回復に関する」ソ連法で無罪、名誉回復。平成4年、ロシア連邦軍最高検察は、近衞文隆の名誉回復を採択、平成9年、ロシア軍最高検察から名誉回復証明書を出した。


 一昨日に越前市(旧武生市)の鉄工所へ鉄骨超音波検査に出かけた時、懐かしい建物と再会した。↓

 僕が設計事務所として独立した時(当時32歳)の最初の作品(H小児科クリニック)。
 当時の図面は手書きでしかもクライアントの要求がユニークで大変苦労した。それだけに再会した時は、昔の女に出会ったような気分だった。
 今朝は三国町に行っていた。
 復元改修中の虹屋(森田愛子出生の場所)が貌を現しつつある。
 

 図面を書いた者としては、嬉しい限り。

西暦 16年12月8日 木曜日 いちばんしぼり

 ここ数日鬱気分が続いて生ける屍になっていたのだが、昨晩に回復した。
 
 長谷川氏宅で、清酒「いちばんしぼり」に酔いしれた為である。
 敢えて言うならば今年一番の酒だった。つまみは湯豆腐と白魚おろしあえのみ。 「美味しい酒のつまみは控えめでなくてはならない」との氏の台詞を実感した。氏の「中国、日本の酒造り歴史」の講義も耳に心地よかった。

 白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の
       酒は静かに 飲むべかりけり
  若山牧
 森村誠一著「忠臣蔵」(上下1000ページ)を読了。1988年というから僕が39歳の時に出版された本だが、何冊か読んだなかで彼の「忠臣蔵」が最も膨大な資料と格闘したことが、作品の字面に散見される。
 吉良、上杉側にしろ赤穂側にしろ、武士であることの矜持と悲哀がにじみ出ていて、「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり」を彷彿とさせる。


西暦 16年12月3日 土曜日  (うたげ)の朝

 昨晩は7人集まっての飲み会。名目は敢えて言えば忘年会か。
 性別は女2人、男5人。
 皆がいつ帰ったのか全く知らない。目が覚めたら午前5時半だった。

西暦 16年12月2日 金曜日  たまには映画館へ行きたい
   深夜にメモを整理していたら、こんなのが出てきた。

 浅田次郎著「活動写真の女」読了・・不思議な本だ。時は昭和44年。京大文学部の学生・三谷薫は、医学部学生
・清家忠昭と出会う。二人は共に熱狂的な映画少年として育っていた。

 三谷は清家の紹介によって太秦の撮影所でアルバイトをするようになる。そこには日本映画界草創期からの全ての裏事情を知っている辻老人がいた。ある日、清家と三谷と三谷の恋人・結城早苗は時代劇映画にエキストラとして出演するのだが、その時、紅柄格子の向こうに芸者姿の美しい女優を見た。早苗がその女優と言葉を交わし、そしてここから現実と非現実とがほどきようもなく交錯した世界に、迷いこんでしまうのである。

恐怖感に襲われた三人は、ことの顛末を辻老人に打ち明ける。

 辻老人は日本映画界草創期に活躍したマキノ省三、尾上松之助、坂東妻三郎、嵐寛十郎、片岡知恵蔵、溝口健二、小津安二郎、山中貞雄らについての薀蓄を語るのだが、その過程で、三人と辻老人は、女が「祇園の姉妹」にチョイ役で出ていた女優・伏見夕霞で    あることを知る。そして、ひょんなことから彼女が昭和12年に死んでいたことがわかる。

いつの間にか清家は、三谷、結城と疎遠になるが、三谷、早苗が鴨川べりを歩いていた。ある晩、二人は清家と出会う。清家には夕霞がぴたりと寄り添い、三谷、早苗に対して微笑みを投げかけるのであるが、三谷、早苗以外の誰にも夕霞が見えない。つまり夕霞は死者でありながらある理由で現世にとどまっている存在であり、その彼女と清家は既に恋仲となっている。           

 幻想的なこの物語はこのようにして進んでいくのだが、数年前から霊魂の存在を信じている私には、希望の本だった。

西暦 16年12月1日 木曜日  11月29日日記の続き
 
 「・・五代将軍綱吉の生母桂昌院・・京の八百屋の娘から成り上がった彼女は、我が子綱吉を将軍の座につけることを生涯の夢とし、遂にその夢を達成した。史上最高の「教育ママ」である。
 この母のおかげで将軍職に就けた綱吉は、マザーコンプレックスの典型である。史上最悪の愚法「生類憐みの令」も隆光の勧めを鵜呑みにした彼女が綱吉に吹き込んだものである。もっとも悪い面ばかりではなく、彼女の教育ママぶりが、綱吉を学問好きにした。湯島聖堂を幕府学問所とし、熊沢番山、山鹿素行、山崎闇斎、伊藤仁斎、林信篤、新井白石、室鳩巣、荻生徂徠などの碩学を輩出した。また能役者を登用したり、歌学者や絵師を保護したり、近松、西鶴、芭蕉を生み、江戸時代の学問、文芸の基礎を築いたのである。・・」
 
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