17年02月日記
昨晩は某氏宅で会議が開かれ、帰宅し晩飯を食いうつらうつらし始めた時、柱時計の針は既に11時をまわっていた。いつもより5時間も遅い睡眠時刻である。そのせいか、目が覚めたのは午前4時。少々睡眠不足だが頭はすっきりしている。すっきりしていなければならないのだ。 土曜日ではあるのだが、午前中は福井市内の鉄骨工場調査に出かけなければならない。もしかしたら、屋根にのぼることになるかもしれない。すっきりした気分で行くことで、危険回避が可能となる。
司馬遼太郎著「箱根の坂」を読み終えた。上・中・下巻で1050頁の長編。 作者あとがき 早雲には、ふつう北条姓を冠せられる。ただ、彼自身、北条を称した形跡がないばかりか、どうも自分の姓名に無頓着だったにおいがある。 この奇妙人について重要なことは戦国の幕を切っておとしたことである。さらには室町体制という網の目のあらい統治制度のなかにあって、はじめて「領国制」という異質の行政区をつくったこともあげねばならない。日本の社会史にとって重要な画期であり、革命とよんでもいい。 この制度は、同時代の西洋における絶対君主制(十六、七、八の三世紀)の成立と重要な点で似ている。西洋のその場合、農奴状況から脱した自営農民層(早雲の時代でいえば国人・地侍層)と都市の商工業者(小田原でいえば城下の町人)の上にじかに君主が乗り、行政専門職をつくって領国を運営した。さらには常備軍を置いた。北条氏もまた小田原城下に兵を常駐させた。 西洋の絶対君主制時代は、絶対という用語のまがまがしさによって毛嫌いされかねないが、しかしいい点もある。この体制によってひとびとは自主的に、あるいは組織的に働くことを知り、また商品の流通を知り、説く人によっては、日常の規範(朝何時に起き、何時に食事をし、何時に寝るといったような)ものまでひとびとは身につけたとされる。いまとなれば何でもない能力だが、そんなものがひとびとに準備されていなければ、その後にくる近代市民国家などは成立しえない。第一、市民はビジネスという絶対性以前にはなかったものを身につけることができなかったろう。ビジネスという空気のような、しかし結局は社会をうごかすものが無ければ、近代は成立しえないのである。 早雲の小田原体制では、それまでの無為徒食の地頭的存在をゆるさぬもので、自営農民出身の武士も、行政職も、町民も耕作者も、みなこまごまと働いていたし、その働きが、領内の規模のなかで有機的に関連しあっていた。早雲自身、教師のようであった。 士農に対し日常の規範を訓育しつづけていた。このことは、それまでの地頭体制下の農民にほとんど日常の規範らしいものがなかったことを私どもに想像させる。早雲的な領国体制は、十九世紀に江戸幕府体制が崩壊するまでつづくが、江戸期に善政をしいたといわれる大名でも、小田原における北条氏にはおよばないという評価がある。 「箱根の坂」は、そういう気分をまじえつつ書いた。 ただ、早雲の前半生がわからない。 かれが、室町幕府の官僚であった伊勢家の傍流に属していたらしいことは、ほぼまちがいない。 伊勢氏の本家では「つくりの鞍」というブランド商品的な鞍を手作りする技術が相続されていて、早雲自身、その技術をもっていたこともたしかである。かれ自身その子氏綱に製鞍の技術を伝えていることで想像できるし、また鞍をキーにすると、早雲の前半生が、伊勢氏の本家に密着した存在だったこともうかがえる。ついでながら、中国・朝鮮という儒教文明国では伊勢氏のような君子(高級役人)は身を労さないという伝統があるが、その点伊勢家における製鞍は日本がいかに儒教文明から遠い存在であったかをおもわせる。 「箱根の坂」における早雲の前身については、実際の早雲のさまざまな小さな破片をあつめ、おそらくこうであったろうという気分が高まるまで待ち、造形した。この作業ほど、ひめやかな悦びはない。 政治史的には応仁ノ乱が早雲を生んだといえなくはない。同時に、かれは室町期という日本文化のもっとも華やいだ時代の産物でもあった。伊勢家はその頂点にあり、早雲はその室町的教養を持って東国にくだった。かれが土地のひとびとの敬意をかちえた大きな要素はそこにあったにちがいなく、その意味において早雲は世阿弥や足利義政、あるいは宗祇、骨皮道賢たちと同様、室町人としての一つの典型だったともいえる。 「箱根の坂」という題は、さまざまな象徴性をこめてつけたつもりだった。連載の最後のくだり、早雲がようやく箱根の坂を越えてあずまに入ったときには、書いている作者自身まで足腰の痛みをおぼえた。早雲は越えがたき坂を越えたのだと思った。 司馬遼太郎
二月も中旬となり、確定申告の季節がやってきた。午前二時に起きた私は、一切の仕事を閉じ、申告書作成に専念している。 司馬遼太郎著「箱根の坂」を読み終えた。上・中・下巻で1050頁の長編。 作者あとがき 早雲には、ふつう北条姓を冠せられる。ただ、彼自身、北条を称した形跡がないばかりか、どうも自分の姓名に無頓着だったにおいがある。 この奇妙人について重要なことは戦国の幕を切っておとしたことである。さらには室町体制という網の目のあらい統治制度のなかにあって、はじめて「領国制」という異質の行政区をつくったこともあげねばならない。日本の社会史にとって重要な画期であり、革命とよんでもいい。
下の写真はバレンタインチョコレート。 この齢にも関わらず若く美しい女性(某女性とだけ言っておく)からバレンタインチョコレートをもらった私は、幸せな存在というほかない。
午後7時になり、集まった五人で定例会議が開始となった。 冒頭、私は「みなさんのような年寄りはチョコなどもらうはずがないだろうからおすそわけします」との口上でお渡しした。おいしいおいしいと涙して食する彼等がほほえましかった。 きょうの午後一番で図書館へ行った。玄関入口に車椅子が置いてあるのに気付き、乗った。 開架図書(H1.8Mくらい)が三段になっていて、目と足の悪い私には、いずかることができなくて、今までは最下段に並ぶ書物と対面することができなかった。 車椅子使用でそれが可能となった。 だけど、つい10年前まで顔の秀麗さと肉体の頑健さを誇っていた私には、いささか寂しいことでもある。しかし、愚痴は言うまい申すまい。今置かれている状況を素直に受け入れることが大切なのだ。
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