17年02月日記

西暦 17年2月28日 火曜日
 
 井沢元彦著「卑弥呼伝説」を読み終えた。30年ぶりの再読だ。当時、「日本史は怨霊の歴史である」との著者歴史観に惹かれて、何冊もの井沢本を読んだが、「印象に残った本は再読すべきである」という自分の信念に支えられての再読だった。

 30年前のインパクトはなく、字面を追うだけの場面も多かった。思うに30年前の私は純粋だったからなのだろう(言葉を変えて言うならば単純だったからなのだろう)。
 

西暦 17年2月27日 月曜日 花より団子
 
 来訪した本人からの誘いがあったので、「辻人志(坂井市議・民進党)早春の集い・活動報告会」に出かけた。
 行って驚いたのだが、来賓席に知己のVIPがずらりと並んでいる。

 司会の紹介を受けてVIPが挨拶に立つ。各々(おのおの)がしゃべり上手なので、ついつい長口上となり、テーブルの上に置いてあるサンドイッチに手を伸ばすことができなくて困った。私の座右の銘は「花より団子」なのである。
 
 最後は本人の演説で、これは長くても大いにけっこう。
 



西暦 17年2月26日 日曜日 講演会のこと
 
 昨日の「市村敬二氏講演会」には、目標を越えて54名という数が
集まった。


 女性が多かったのは、司会者である私の男性的魅力のせいかもしれない。



 試食した「とみつ金時」の柔らか甘さは格別だった。しかし、酒のつまみにはならないだろう。

 自宅に戻ってからインターネットを検索すると、あわら市・市長コラム「とみつ金時」が出てきた。以下紹介。


市長コラム 第41話 「とみつ金時」
 平成17年6月、ある老女が富津区を訪れました。
村内を見回るうちに、その老女は思い出に涙しはじめたそうです。
彼女は敗戦の昭和20年、最初の入植者のひとりで、当時は21歳。
あまりに過酷な生活から、その3年ほどのちに富津を離れた方でした。

 このたび、富津区の入植65年を記念して、地元の市村敬二先生が『開拓と区のあゆみ』と題する300ページにおよぶ著書を上梓(じょうし)されました。
長らく温められていた構想だったそうですが、実は、この老女の姿を見てから本気で執筆を始められたということです。
 私も拝読しましたが、戦後開拓の厳しさを垣間見て鳥肌がたつほどでした。
そして、入植以来栽培してきたサツマイモを「とみつ金時」の全国ブランドにまで完成させた区民の努力に、ただただ頭の下がる思いでした。
 偶然にも今年、富津区には風力発電が完成します。観光客への「とみつ金時」を始めとした農産物の販売など、地元振興の起爆剤となるよう切に願わずにはいられません。
今年の富津のイモはことのほか甘く感じられました。
気まま?よもやま!?ありのまま!!(広報あわら第81号 2010年11月)より  


西暦 17年2月25日 土曜日 もう週末か
 
 本日は市村氏による講演会が開かれます。
 演題 富津 開拓と区のあゆみ
 場所 あわら市中央公民館
 時間 午後二時~
 参加費 300円

 富津キントキがふるまわれます。是非、ご参加ください。
 市村敬二氏編「富津 開拓と区のあゆみ」

1 富津区の地形・地質
2 富津区創立以前
3 富津区の創立
4 三角小屋の生活
・燃料と風呂 ・食べ物 ・塩造り ・初収穫 ・厳しい国有林監視の目
5 富津区・開拓団名の誕生
6 住宅建設
7 電灯架設
8 福井震災
9 当初の国・県の施策と富津
10 富津開拓農業協同組合の設立
11 富津冬季分教場
12 大山神社
・大山神社の創建 ・大山神社の神殿新築 ・鳥居建設
・神社境内の拡張工事 ・神拝殿改築
・祭りのことなど(秋祭り 神社当番みこし 社務所 倉庫 その他)
13 新しい仕事への挑戦
・小女子漁加工 ・沢庵漬加工 ・共同作業場建設
・富津農水産加工農業協同組合の解散 ・幻となったもう一つの共同施設事業
14 台風被害
・ジェーン台風の被害 ・台風15号(洞爺丸台風)の被害 
15 富津開拓の営農
・家畜の導入 ・土壌改良と土壌調査 ・開墾と畑作
・栗栽培 ・葉煙草栽培 ・茶樹栽培
16 道路建設
17 開拓10周年記念と体育祭
18 成功検査
19 水道敷設
1 第1期工事(水源井 揚水ポンプ 配水櫓の設置)
2 第2期工事(配水管敷設工事)
3 大改造工事
4 水源池取水口改良工事
5 貯水櫨の移動と水道の町移管
20 旧坂井郡開拓地の動向と富津
1 開拓地営農促進協議会 開拓地営農振興協議会
2 開拓組合総合問題
21 国の振興対策と富津
・後進地区経営診断事業と振興計画
・第1次進行対策 ・第2次振興計画
22 薪炭採草地の配分
23 電話
24 婦人ホーム建設
25 ビニールハウスの導入

26 土地開発事業と富津
27 開拓組合の解散
28 入植35周年記念
29 富津霊園「敬祖園」の創設

30 秋の味覚 富津特産「富津甘藷」
・富津甘藷生産組合の設立
・富津甘藷キュアリング貯蔵組合の設立
・主な受賞 ・主なテレビ、ラジオ放送
31 集落センター建設
32 富津区開村50周年記念
33 富津子供会

34 区民が一丸となった国政選挙
第18回参議院議員通常選挙に出馬
第42回衆議院議員選挙に出馬
35 産廃最終処分場騒動
36 その他の出来事
1 県道「富津~北潟」の街灯設置
2 食肉流通センター誘致運動騒動
3 地縁による団体「富津」の設立
4 「富津の環境を守る会」の設立
5 県道「富津~小学校」の歩道設置
6 風力発電施設の建設
7 福島政男氏 藍綬褒章受章
8 市村艶子氏 週刊誌で紹介
37 新聞で見る 富津のエピソード
1 不法廃棄物の撤去
2 クマ騒動
3 北潟国有林で植樹体験会
4 富津の農道で殺人事件
5 遊休地で牛の放牧
6 富津の畑を彩るクロタラリア

 


西暦 17年2月24日 金曜日 もう週末か
 
 きょうの朝はやく、ゴロ新聞屋がやってきて、6月の市議選のことをくどくど聞く。
 針小棒大に書くのが彼らの仕事だし、どうせビラもまくのだろうから、私は事実以外のことに関しては、固く口を閉ざしていた。

 はやいもので、「舘高重 詩集 朗読と音楽の夕べ」を催してから既に一年近くが経つ。
 今朝は詩集を再読していた。
  
 萩の花

妻の名前は
萩子といった
だから
今年の萩よ
白萩の花よ
たいへんお前が
なつかしく見えてならない

冬の指

火鉢にかざし
並べかえては眺めている
病に痩せた私の指 指
黒く堅く 働き疲れた母上の指 指を
思い合わせば
あゝもったいなし
勿体なし

女の写真へ寄するの詩

女よ 夜の證明も暗く 数限りない幻想に酔いながら
いまごろは裏藪にひびく海鳴りの音を聞いているだろうね
昨日も今日も 透明な野山の景色にあきた僕は
お前の瞳をみつめていると しみじみ秋の深きを感ずる

 山百合

病を背負い
寝たきりの妻
痩せゆく頬は
ひかりもうすれ
ただかすかに息づくのみ

こんなに疲れない前に
もう少し看護したかった
病神は容赦なく
妻を縛ってしまった
こころもとないが
せめて妻の好きな山百合で
山の素朴な風情と清楚な匂で
病室を飾ってやろう

カンナの花

お前が最後に寂しく微笑んでくれたのは
あの真っ赤なカンナの花を見たとき

「カンナはこんなに赤いの・・・・・」
地上の美しき花の見納めに
お前が残したその驚きは
いたくも私の耳に保たれている

カンナは今年初めて植えた花だが
こんなにまで嬉しい記憶の花だから

いつまでも私の胸に植え込んでいて
お前の微笑みを忘れないでいよう

 似顔を描く

泣くに泣かれぬ追憶
みどり木しげれる静かさのなか
今日もお前の似顔を描く
春よりの病み疲れに
顔紅の色あせて
あゝ 頬骨のかくもさびしき
いくどか涙に濡れしこの画ペン
ふたたび口にふくみて
たんねんにお前の似顔を描く

 病んでいると

病んでねていると
雨の降る日は雨が悲しい
晴れた青空の見える日には
歩きたくなって
涙で心がいっぱいになる

 エンドウの花

さやエンドウが食べたいと思い
遅ればせながら播きつけたら
母が丹念に培い
この頃 花をつけるようになった

全体がやわらかいきみどり
支柱にまきつくひげの可愛さ
花は白く小さいけれど
ぽつぽつと咲き出した嬉しさ

病める身なればこそ
梅雨晴れの真昼に
こんな花でも眺めていると
気持のいいものである

 雪晴

外はすっきりと明るい
雪晴である
風があるのか
杉の葉がゆれている

三年このかた 私は
冬の真中を寝てしまう
あちこちの窓をながめ
雪景色を眺め
ひねもす寝生活

 つれなき

死んださきのことを
誰だってわかるもんか

病んでいると
死ぬことを考えない
明日に苦しみが
わかるばかりだ

 冬夜

灯はうすれ
吹雪窓に
つのり
父母なく
青春を病みつくす
あわれ

花かれ
鳥なく

雪きたれど
死ぬをいよいよ
おそれ

 無題

病の苦しみもうすらぎ
晴れた日 心も軽くなると
しきりに父母を思い出します

その面影を少しも知らず
暖かい乳房の覚えもなく
ただ生みすてられた不幸な私は
暖かい父母の胸に
かえりたいと思います

苦しい病も治らなければ
極楽浄土の蓮のうてなの

母の住家に参りたいと思います
そこには父も一緒でしょうから
 
 かれくさに

 ほとけひとりの
 ひなたかな

絶筆

小さいときから自分ひとりでほほえんでいた大きな理想も、今は何処えやらあとかたもなく、言い古された言葉ながら相変わらず生きています。熱さ寒さにつまづき一年の大半を寝込んでいる生活を続けて闘病四年も残り少なくなりました。
病んでいればことさら肉親のないのは悲惨なものです。私も時には常識的反逆を感ずることもあります。
無事に昭和六年を迎えることが出来ましたら、その日から自伝風な感想を書きたいと思っていますが、只今は安静を強いられている境遇で死線を越えたばかりです。
近くの山々まで雪が迫ってきました。この頃はただ雨の音、風の音にわびしい明け暮れを送っています

 運命

金を積んで
病が治るならば
苦面して積み上げてみると
昨日も母が泣いた

病んでいると
金より命がほしい
いつまでも死にたくないと
今日も母が泣いた

  春の花
声をそろえて
風に翻っている子供らは
まるで 花のように見える

雲に隠れた蝶々よ
子供は深紅の花だなあ

 夕暮れ
朝から  木蓮が香っている
暖かいひざしが

静かに暮れてゆくのに 木蓮は まだ香っている

母上よ
私は蝶になりたい この夕暮れをとびまわりたい

 郊外にて
アンテナの柱が
すくすくと立ち並んで
街は寂しい郊外を作っています

今日も郊外の陽だまりに座って
おだやかな気持でいれば
街のことが案じられます

 
何を書いても飯が食えない と
一昨年 親父に叱られた
なるほど うなづかれる
しかし おれだって人間だ
おれは
すてきな 針をもっている
今に見ろ
でかい 魚を釣ってみせるから

 菜種の花

砂煙をあげて
野道を歩いていると

とぼとぼ
とぼとぼ霞んだ山の下あたりまで
菜種の花々は
狐に化かされている

 夏のゆめ

白き手よ
女よ
傷つける夢よ

かってはわが心に
開きし花よ
小指かさねし
朝々の祈りも
はかなく消えて

夏の木蓮の夢よ

あゝひとり身のさびしさ

 

西暦 17年2月22日 水曜日 無題
 昨晩、ユーチューブで「秀吉vs利休」の動画を見ていた時、三年ほど前に読んだ本を思い出した(著者は既にこの世にはいない)。
 
山本兼一 著「利休にたずねよ」
 この本は24の章で成り立っている。
・死を賜る 利休
・おごりをきわめ 秀吉
・知るも知らぬも 細川忠興
・大徳寺破却 古渓宋陳
・ひょうげもの也 古田織部
・木守 徳川家康
・狂言の袴 石田光成
・鳥籠の水入れ ヴァリニャーノ
・うたかた 利休
・ことしかぎりの 宗恩
・こうらいの関白 利休
・野菊 秀吉
・西ヲ東ト 山上宗二
・三毒の焔 古渓宋陳
・北野大茶会 利休
・ふすべ茶の湯 秀吉
・黄金の茶室 利休
・白い手 あめや長次郎
・待つ 千宗易
・名物狩り 織田信長
・もう一人の女 たえ
・紹鴎の招き 武野紹鴎
・恋 千与四郎
・夢のあとさき 宗恩

 たとえば
 ・野菊 秀吉
 利休切腹の前年
 天正十八年(1590)九月二十三日 朝
 京 聚楽第 四畳半

 「・・利休が膝をにじって、床の前にすすんだ。
 ・・さてあやつめ、どうするか
 秀吉が障子窓のすきまに顔をつけた。
 利休の背中にも、肩にも、手のうごきにも、逡巡はない。
 ・・なにも迷わぬのか。
 なんのためらいもなく両手をのばした利休は、左手を天目台にそえて、右手で野菊をすうっとひきだし、床の畳に置いた。
 天目茶碗を手に点前座にもどると、水指の前に茶碗と茶人、茶碗をならべ、一礼ののち、よどみなく点前に取りかかった。
 茶を点てている利休は、見栄も衒いも欲得もなく、ただ一服の茶を点てることに、心底ひたりきっているようである。
 といって、どこかに気張ったようすが見られるわけではない。あくまで自然体でいるのが、よけい小憎らしい。
 床畳に残された野菊の花は、遠浦帰帆の図を背にして、洞庭湖の岸辺でゆれているように見える。
 秀吉は、途端に機嫌が悪くなった。
 むかむかと腹が立つ。
 それでも、最後のしまつはどうするのかと、そのまま見ていた。
 三人の客が茶を飲み終え、官兵衛が鴨肩衝の拝見を所望した。
 客が茶人を見ているあいだに、利休は水指から天目茶碗まで洞庫にかたづけた。
 拝見の終わった鴨肩衝を、仕覆に入れ、利休は膝をにじって床前に進んだ。
 置いてあった野菊の花を取り、床の勝手のほうの隅に寄せかけた。
 鴨肩衝を床に置くと、利休はまた点前座にもどった。
 床の隅に置かれた野菊の花は、すこし涸れて見える。
 ・・負けた。
 秀吉は、利休を笑ってやろうとした自分のたくらみが、野菊の花と同じように涸れてしまったのを感じた。
 なんのことはない。むしろ、笑われているのは自分であった。・・」

 たとえば
 ・西ヲ東ト 山上宗二
 利休切腹の前年
 天正十八年(1590)四月十一日 朝
 箱根 湯本 平雲寺

 ・・山上宗二に秀吉が問う。
 「おまえが茶の湯者というなら、身ひとつでここにまいっても、なにか道具を持って来たであろうな」
 「むろんにございます」
 宗二は懐から、仕覆を取り出してひろげた。なかは、端の反った井戸茶碗である。すこし赤みがかかった黄土色が、侘びていながら艶やかな印象をかもしている。
 秀吉が、その茶碗を手に取って眺めた。黙って見つめている。
 やがて、薄いくちびるを開いた。
 「つまらぬ茶碗じゃな」

 乱暴に置いたので、茶碗が畳を転がった。
 「なにをなさいます」
 宗二はあわてて手をのばし、茶碗をつかんだ。
 「さような下卑た茶碗、わしは好かぬ。そうだ。割ってから金で接がせよう。おもしろい茶碗になるぞ」
 「くだらん」
 宗二が吐きすてるようにいった。
 「こらッ」
 利休は大声で宗二を叱った。
 「こともあろうに、関白殿下に向かって、なんというご無礼。さがれ、とっととさがれ」
 立ち上がった利休が、宗二の襟首をつかんだ。そのまま茶道口に引きずった。
 「待て」
 冷やかにひびいたのは、秀吉の声だ。
 「下がることは相成らん。庭に引きずり出せ。おい、こいつを庭に連れ出して、耳と鼻を削げ」
 秀吉の大声が響きわたると、たちまち武者たちがあらわれて、宗二を庭に引きずり降ろした。
 「お許しください。お許しください。どうか、お許しください」
 平伏したのは、利休であった。
 「お師匠さま。いかに天下人といえど、わが茶の好みを愚弄されて、謝る必要はありますまい。この宗二、そこまで人に阿らぬ。やるならやれ。みごとに散って見せよう」
 立ち上がると、すぐに取り押さえられた。秀吉の命令そのままに、耳を削がれ、鼻を削がれた。血にまみれた宗二は、呻きもせず、秀吉をにらみつけていた。痛みなど感じなかった。怒りと口惜しさがないまぜになって滾っている。
 「お許しください。憐れな命ひとつ、お慈悲にてお許しください」
 利休が、地に頭をすりつけて秀吉に懇願した。
 宗二は意地でも謝るつもりはない。秀吉としばらくにらみ合った。
 「首を刎ねよ」
 秀吉がつぶやくと、宗二の頭上で白刃がひるがえった。・・ 

 たとえば
 ・白い手 あめや長次郎
  利休切腹の六年前
 天正十三年(1585)十一月某日
 京 堀川一条

 京の堀川は、細い流れである。
 一条通に、ちいさな橋がかかっている。
 王朝のころ、文章博士の葬列が、この橋をわたったとき、雷鳴とともに博士が生き返った・・。
 そんな伝説から、橋は戻り橋とよばれている。冥界からこの世にもどってくる橋である。
 その橋の東に、あめや長次郎は瓦を焼く釜場をひらいた。
 「関白殿下が、新しく御殿を築かれる。ここで瓦を焼くがよい」
 京奉行の前田玄以に命じられて、土地をもらったのである。
 聚楽第と名付けられた御殿は、広大なうえ、とてつもなく豪華絢爛で、まわりには家来たちの屋敷が建ちならぶらしい。
 すでに大勢の瓦師が集められているが、長次郎が焼くのは、屋根に飾る魔よけの飾り瓦である。
 長次郎が鏝とヘラをにぎるとただの土くれが、たちまち命をもらった獅子となり、天に咆哮する。
 虎のからだに龍の腹をした鬼龍子が、背をそびやかして悪鬼邪神をにらみつける。
 「上様は玉の虎と、金の龍をご所望だ。お気に召せば、大枚のご褒美がいただけるぞ」
 僧形の前田玄以が請けあった。
 「かしこまった」
 すぐに準備にかかった。
 まずは、住む家を新しく建てさせ、弟子たちと移った。
 そこに大きな窯を築いて、よい土を集めた。
 池を掘り、足で土をこねる。
 乾かし、釉薬をかけて焼く。
 今日は、焼き上がった瓦の窯出しである。
 「こんなもんや。ええできやないか」
 弟子が窯から取りだしたばかりの赤い獅子のできばえに、長次郎は大いに満足した。
 獅子は、太い尻尾を高々とかかげ、鬣を逆立てて牙を剥き、大きな目で、前方をにらみつけている。
 長次郎が、あめやの屋号をつかって、夕焼けのごとき赤でも、玉のごとき碧でも、自在に色をつけられるからである。
明国からわたってきた父が、その調合法を知っていた。
 しかし、父は、長次郎に製法を教えなかった。
 なんども失敗を繰り返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。
 長次郎の子も、窯場ではたらいているが、釉薬の調合法を教えるつもりはない。
 ・・一子相伝にあぐらをかいたら、人間甘えたになる。家はそこでおしまいや。
 父祖伝来の秘伝に安住していては、人間は成長しない。代々の一人ひとりが、創業のきびしさを知るべきである・・。それが父の教えだった。
 まだぬくもりの残る窯のなかから、弟子たちがつぎつぎと飾り瓦を運び出してくる。
 いずれも高さ一尺ばかり。
 できばえは文句なしにみごとである。
 龍のつかむところに雲があり、虎のにらむところに魔物がいるようだ。
 得意な獅子も焼いた。
 造形もうまくいったが、赤い釉薬がことのほかいい。
 冬ながら、空は晴れて明るい陽射しが満ちている。
 その光を浴びて、獅子にかかった釉薬が銀色に反射した。
 「いい色だ」
 長次郎の背中で、太い声がひびいた。
 ふり返ると、大柄な老人がのぞき込んでいた。
 宗匠頭巾をかぶり、ゆったりした道服を着ている。真面目そうな顔の供をつれているところを見れば、怪しい者ではないらしい。
「なんや、あんた」
釜場には、まだ塀も柵もない。こんな見知らぬ人間が、かってに入ってくるようなら、すぐに塀で囲ったほうがいいと、長次郎はおもった。
 「ああご挨拶があとになってしまいました。わたしは千宗易という茶の湯の数寄者。長次郎殿の飾り瓦を見ましてな。頼みがあってやってまいりました」
 ていねいな物腰で、頭をさげている。
 長次郎は、宗易の名を聞いたことがある。関白秀吉につかえる茶頭で、このあいだ内裏に上がって、利休という勅号を賜ったと評判の男だ。
 「飾り瓦のことやったら、まずは、関白殿下がさきや。あんたも聚楽第に屋敷を建てるんやろうが、ほかにも大勢注文がある。順番を待ってもらわんとあかん」
 権勢を笠に着てごり押しするような男なら追い返そうと思ったが、老人は腰が低い。
 「いや、瓦のことではない。茶碗を焼いてもらおうと思ってたずねてきたのです」
 長次郎はすぐに首をふった。
 「いや、あなたに頼みたいと思ってやってきた。話を聞いてもらえませんか」
 話は穏やかだが、宗易という老人は、粘りのつよい話し方をした。
 ・・人間そのものは粘っこいのや。
 長次郎はそう感じながらも、宗易のたたずまいに惹かれた。
 ・・この爺さん、なんや得体が知れん。
 ただそこに立っているだけなのに、釜場の空気がひき締まるような、不思議な重みがある。
 ・・よほどの数寄者にちがいない。
 長次郎の直観が、そうささやいている。
 「窯出しが終わったら、お話をうかがいましょ。それで、よろしいか」
 「けっこうです。おや、あの虎は、とくにできがいい。天にむかって吠えている」
 いま弟子が窯から出してきたばかりの虎は、ずらっとならんでいるなかでも、いちばんよいできである。
 長次郎は、宗易の目利きのするどさに驚いた。 

西暦 17年2月21日 火曜日 昨日の一日
 午前中は、雨の降りしきる中、某建物基礎の配筋検査。鉄筋の上を歩くので足場がおぼつかなくフラフラして怖かったが、仕事だからと頑張った。
 事務所に戻ってから笹岡焼却場へ持って行くための大型ベッドを軽トラに乗せたのだが、なかなかむつかしく、筋力の低下を痛感。
 午後は、某電気屋さんと一緒に小型冷蔵庫を持って消防署へ。日夜、防災のために働いている消防さんを励ますための寄贈である。金は自分の為に使うよりも他人の為に使う方が使い勝手があるというのが、ワタシの経済哲学です(カッコいいでしょ?)。
 
 

西暦 17年2月20日 月曜日 新しい週の始まり
 
 このところマスコミは東京五輪の話題で騒がしいが、私にとっての東京五輪は50数年前のそれである。
 そして
 数年前に読んだ高杉良著「東京に オリンピックを呼んだ男」が印象深い。

  主人公は、ロサンゼルス在住日系二世フレッド和田勇。
 昭和24年8月つまり私が生後七ヶ月でまだヨチヨチ歩きもできない可愛い赤ちゃんだった頃に、日本水泳選手団が全米水泳選手権に出場するために渡米した。そして和田が日本選手団に、9日間の宿泊先としてサウス・バンネスの邸宅を無償で提供した。

 選手権で日本チームは自由形六種目中五種目に優勝、九つの世界新記録を樹立した。特に古橋廣之進の活躍はめざましく、全米マスコミは彼のことを「フジヤマのトビウオ」と呼んで賞賛した。
まだ米軍統治下だった日本本土からマッカーサー元帥による祝電も打電された。日本中が戦後の混乱期のなかで疲弊していた時に勇気と希望を与える出来事となったわけである。

 さて
 和田が単に戦後の米社会で順風漫歩に成功しただけの男だったとしたら、この物語の魅力は半減するのだが事実はそうではない。彼の一家は生地和歌山県で食い詰め戦前に米本土に移住した。そこでいろんな仕事に手をだし失敗し要するに七転び八起きの人生を繰り返しているうちに両親はなくなった。そしてその時に米国と祖国日本との間で太平洋戦争が勃発したのである。

  彼は強制収用所入りを拒否し、仲間と共にユタ州キートリーに移り住む。日系人は軍需などの工業製品づくりに従事することができないので、荒地を腕一本で開墾し農産物を出荷して生計をつないだ。
 周囲からは「中国人をいじめるジャップ、帰れ!」と嘲られた。

 米国籍をとってはいたものの、祖国が日本であるとの思いでアイデンテイテイのギャップに苦しんだことが、戦後になってから東京オリンピック招致に米国籍でありながら陰で活躍する伏線となったのは間違いない。

 



西暦 17年2月19日 日曜日 無題
 
 昨日の朝、福井市問屋団地での仕事を終えての帰り道、某女性宅に寄った。女性と言っても八十数歳であり、元女性と言った方が正確かもしれない。
 しかし、文章を書いている人なので戦後の混乱期からの記憶はしっかりしていて、昨日に会った時のテーマである「開拓村落史」についての思い出を語る言質は、臨場感にあふれていた。
 再会を約束しての帰り際、彼女からたくさんの「酒のカス」を頂いた。
 今から、焼いた「酒のカス」を酒のつまみにして酒を飲もうと思う。
 私のソファー兼ベッドのバネが破損して、とうとう使い物にならなくなってしまった。昨晩は、廃棄処分にすべく戸外へ運び出すのに苦労した。
 私の事務所に集まる人数はマックスで八人ぐらい。今のままでは対応が不可能なので、三人掛けソファーを近いうちに入れるつもりだ。


西暦 17年2月18日 土曜日 無題
 
 昨晩は某氏宅で会議が開かれ、帰宅し晩飯を食いうつらうつらし始めた時、柱時計の針は既に11時をまわっていた。いつもより5時間も遅い睡眠時刻である。そのせいか、目が覚めたのは午前4時。少々睡眠不足だが頭はすっきりしている。すっきりしていなければならないのだ。

 土曜日ではあるのだが、午前中は福井市内の鉄骨工場調査に出かけなければならない。もしかしたら、屋根にのぼることになるかもしれない。すっきりした気分で行くことで、危険回避が可能となる。

西暦 17年2月17日 金曜日 無題
 
 司馬遼太郎著「箱根の坂」を読み終えた。上・中・下巻で1050頁の長編。

 作者あとがき
 早雲には、ふつう北条姓を冠せられる。ただ、彼自身、北条を称した形跡がないばかりか、どうも自分の姓名に無頓着だったにおいがある。
 この奇妙人について重要なことは戦国の幕を切っておとしたことである。さらには室町体制という網の目のあらい統治制度のなかにあって、はじめて「領国制」という異質の行政区をつくったこともあげねばならない。日本の社会史にとって重要な画期であり、革命とよんでもいい。
 この制度は、同時代の西洋における絶対君主制(十六、七、八の三世紀)の成立と重要な点で似ている。西洋のその場合、農奴状況から脱した自営農民層(早雲の時代でいえば国人・地侍層)と都市の商工業者(小田原でいえば城下の町人)の上にじかに君主が乗り、行政専門職をつくって領国を運営した。さらには常備軍を置いた。北条氏もまた小田原城下に兵を常駐させた。
 西洋の絶対君主制時代は、絶対という用語のまがまがしさによって毛嫌いされかねないが、しかしいい点もある。この体制によってひとびとは自主的に、あるいは組織的に働くことを知り、また商品の流通を知り、説く人によっては、日常の規範(朝何時に起き、何時に食事をし、何時に寝るといったような)ものまでひとびとは身につけたとされる。いまとなれば何でもない能力だが、そんなものがひとびとに準備されていなければ、その後にくる近代市民国家などは成立しえない。第一、市民はビジネスという絶対性以前にはなかったものを身につけることができなかったろう。ビジネスという空気のような、しかし結局は社会をうごかすものが無ければ、近代は成立しえないのである。
 早雲の小田原体制では、それまでの無為徒食の地頭的存在をゆるさぬもので、自営農民出身の武士も、行政職も、町民も耕作者も、みなこまごまと働いていたし、その働きが、領内の規模のなかで有機的に関連しあっていた。早雲自身、教師のようであった。
 士農に対し日常の規範を訓育しつづけていた。このことは、それまでの地頭体制下の農民にほとんど日常の規範らしいものがなかったことを私どもに想像させる。早雲的な領国体制は、十九世紀に江戸幕府体制が崩壊するまでつづくが、江戸期に善政をしいたといわれる大名でも、小田原における北条氏にはおよばないという評価がある。
 「箱根の坂」は、そういう気分をまじえつつ書いた。
 ただ、早雲の前半生がわからない。
 かれが、室町幕府の官僚であった伊勢家の傍流に属していたらしいことは、ほぼまちがいない。
 伊勢氏の本家では「つくりの鞍」というブランド商品的な鞍を手作りする技術が相続されていて、早雲自身、その技術をもっていたこともたしかである。かれ自身その子氏綱に製鞍の技術を伝えていることで想像できるし、また鞍をキーにすると、早雲の前半生が、伊勢氏の本家に密着した存在だったこともうかがえる。ついでながら、中国・朝鮮という儒教文明国では伊勢氏のような君子(高級役人)は身を労さないという伝統があるが、その点伊勢家における製鞍は日本がいかに儒教文明から遠い存在であったかをおもわせる。
 「箱根の坂」における早雲の前身については、実際の早雲のさまざまな小さな破片をあつめ、おそらくこうであったろうという気分が高まるまで待ち、造形した。この作業ほど、ひめやかな悦びはない。
 政治史的には応仁ノ乱が早雲を生んだといえなくはない。同時に、かれは室町期という日本文化のもっとも華やいだ時代の産物でもあった。伊勢家はその頂点にあり、早雲はその室町的教養を持って東国にくだった。かれが土地のひとびとの敬意をかちえた大きな要素はそこにあったにちがいなく、その意味において早雲は世阿弥や足利義政、あるいは宗祇、骨皮道賢たちと同様、室町人としての一つの典型だったともいえる。
 「箱根の坂」という題は、さまざまな象徴性をこめてつけたつもりだった。連載の最後のくだり、早雲がようやく箱根の坂を越えてあずまに入ったときには、書いている作者自身まで足腰の痛みをおぼえた。早雲は越えがたき坂を越えたのだと思った。
                          司馬遼太郎
西暦 17年2月16日 木曜日 ♪早春賦
 
 二月も中旬となり、確定申告の季節がやってきた。午前二時に起きた私は、一切の仕事を閉じ、申告書作成に専念している。
司馬遼太郎著「箱根の坂」を読み終えた。上・中・下巻で1050頁の長編。

 作者あとがき
 早雲には、ふつう北条姓を冠せられる。ただ、彼自身、北条を称した形跡がないばかりか、どうも自分の姓名に無頓着だったにおいがある。
 この奇妙人について重要なことは戦国の幕を切っておとしたことである。さらには室町体制という網の目のあらい統治制度のなかにあって、はじめて「領国制」という異質の行政区をつくったこともあげねばならない。日本の社会史にとって重要な画期であり、革命とよんでもいい。

西暦 17年2月15日 水曜日 昨日の一日
 
 下の写真はバレンタインチョコレート。
 
 この齢にも関わらず若く美しい女性(某女性とだけ言っておく)からバレンタインチョコレートをもらった私は、幸せな存在というほかない。

 午後7時になり、集まった五人で定例会議が開始となった。
 冒頭、私は「みなさんのような年寄りはチョコなどもらうはずがないだろうからおすそわけします」との口上でお渡しした。おいしいおいしいと涙して食する彼等がほほえましかった。 
 きょうの午後一番で図書館へ行った。玄関入口に車椅子が置いてあるのに気付き、乗った。
 開架図書(H1.8Mくらい)が三段になっていて、目と足の悪い私には、いずかることができなくて、今までは最下段に並ぶ書物と対面することができなかった。
 車椅子使用でそれが可能となった。
 だけど、つい10年前まで顔の秀麗さと肉体の頑健さを誇っていた私には、いささか寂しいことでもある。しかし、愚痴は言うまい申すまい。今置かれている状況を素直に受け入れることが大切なのだ。

西暦 17年2月14日 火曜日 本日は最終検査 
 
 昨日の午後は、雪の降りしきるなか、富津地区を一軒一軒歩き廻っていた。いわゆるポステイングである。議員を4期(つまり議員年金受領可となるまで)やったので、ポステイングは得意だ。
 終えて事務所に戻った私は、身体を温めるために、梅干しを乗せての湯漬けを食した。今、これに凝っている。
 シンプルな食事は、自分が江戸期に生きているような錯覚を起こさせる。あたかもドラマ「新・半七捕物帳」のおかっぴき・真田広之になったような錯覚である。
西暦 17年2月13日 月曜日 ちょっと思ったこと 

 「女優の清水何某が芸能界を引退し、信仰する宗教団体「幸福の科学」の活動に専念する意向を持っていることがわかった。関係者によると、本人が弁護士とともに所属事務所に対し、出家することを伝えたという。・・云々」との記事を朝日新聞デジタル版で読んで、数十年前を思い出した。

 清水何某のことは全く知らないが、数十年前にある夫婦の自宅を設計したことがある。そして、その夫婦のうちの奥さんの方が熱心な「幸福の科学」信者だった。当時は、浅原正晃と大川 隆法が盛んにマスコミに採り上げられている頃だった。テレビで見る限りでは、大川はえせくさく思え浅原が本当の宗教家のように思えた。
 
 奥さんからは、大川の超能力ぶりを礼賛され彼の言質のコピーDVDを沢山手渡された。
 後日、その夫婦は離婚してしまうのだが、それはともかく、僕はふたつの新興宗教に対して、結構考えたものだ。

 既成、新興を問わず宗教は悩みの救済のために存在する。例えば「幸福の科学」は幸福と言うくらいだから、自分を不幸な存在と認識するひとたちに対して開かれた宗教なのだろう。翻って、人間存在を彼此岸を越えた者と思っている自分には、どうしても違和感がある。

 笠原一男を通して親鸞を崇拝していた時期もあったし、永平寺での参禅を通して曹洞禅にあこがれたこともあったし、イエスキリストの処刑の場面でキリスト教に接近したこともあったけれども、大きくいえばみんな派閥で、みんなそれぞれに同程度の宗教者なのである。


  ところで、最近の私はチャイニーズマフィア・陳と呼ばれている
 撮影・おけら牧場(山崎一之) 
西暦 17年2月12日 日曜日 無題
 
 昨日の朝、僕はとんぼさんと一緒に医大病院へ行った。某氏見舞いの為である。
 あいにく、医大周辺は猛吹雪。
 新築された病院はまだ工事中で、廊下は地下鉄の通路のようにわかりにくい。土曜日だからか正面玄関は閉鎖されていて、夜間出入り口からしか入れず、足の萎えた私に迷路を歩くのはとてもつらかった。

 見舞いを終えて出入り口に戻った。
 私の足の悪さを配慮してか、「ここで待っていてほしい。駐車場へ車をとりに行ってくる」と、彼は言って吹雪のなかへ消えた。

 10分が経過しても彼は戻ってこない。30分が過ぎた頃には心配になってきた。一時間ほど経った頃、「公衆電話からや。周りは吹雪でよく見えん」との電話が入ってひと安心。
 結局、二時間近く待っていたのだが、その(かん)、天上から舞い散ってくる雪を見続けているのは、貴重な体験だった。雪が阿弥陀如来のように見えて、天上界へ行くのも悪くはないと、思った。
声の広場 から
660.徘徊 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2017/2/12(日) 11:6
 牧田さんのブログにあるように医大病院で迷った。駐車した車の位置さえ分からない。何ヵ所もある広大な敷地の駐車場、同じような車が並び吹雪いた雪に覆われている。待ち合わせた病院の出入口さえ分からない、同様な出入口が何ヵ所もある。その何処にも彼はいなかった。駐車場を捜しまわりようやく見つけ雪道を車を走らせ出入口を捜す。しばらくして車から降りて捜す。

 携帯に電話しょうとしたが財布は車に置き忘れてきた。車に戻ろうとしたが、今度は車を駐車した場所が分からない、自分が方向音痴であることを忘れていたのである。車を、待ち合わせ場所を捜し歩いていた。雪の中どれほど歩いたであろうか時間さえ判然としない状態に陥った。ようやく車を発見し、彼との連絡が取れた。2時間は経過していた。その間冷静な判断力を失い徘徊していたのである。不思議なことに疲労感はない。

 よく徘徊老人のことが話題になる。その経験をしたのである。
私の場合、一面の雪、降りしきる雪が原因で方向感覚を失い、焦りが判断力を鈍らせ彷徨った。方向音痴も原因しているのであろう。

 認知症老人の場合、脳内の認知不足が原因で彷徨うのである。空間を認識できない、時間すら認識できない。狭い空間を彷徨うこともあれば、見知らぬ場所を歩くこともある。体力の限界まで徘徊する。その間は疲労感さえ喪失する。体力の限界に達した時、倒れ、発見されなければ死に至る。用水路に転落し溺死することもある。苦痛はおそらく感じないであろう。

 牧田さんには心配と迷惑を掛けたが、私は「徘徊する」という貴重な体験を得た。徘徊老人の心理状態も少しは理解できた。いずれ記述しょう。
 
 西暦 17年2月11日 土曜日 外は銀世界
 
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。   三好達治

 若い頃から太郎、二郎を眠らせているのは深々と降る雪だと僕は思っていた。
 だけど十数年前に和歌つくりの老女(今は認知症)がやってきて「太郎、次郎を膝の上で眠らせているのは(三好の)母親や」と、言う。

 確かに、三好は強烈なマザコンだったらしい。
 
西暦 17年2月10日 金曜日 ホームページ作成ソフト
 

 
一昨日。ホームページをつくりたいという人に頼まれて、専門店まで同行した。自分の使用しているソフトも購入して10年近く経つ。いろいろほころびが目立つ。あと数年は書いているだろうから、自分も新しいのを買おうかと、思った。

 昨日の朝は、北潟地区に建てられた某物件の土木事務所建築課による完了検査。この検査をクリアーしないことには建物を使用することができないのだから、僕たち設計事務所にとっては、建築課が「へへえ・・お代官様」的存在で言うなれば建築基準法そのものである。
 災害列島化しているこの日本において、建築基準法と消防法はその適用の厳格化が叫ばれている。
 訂正指摘事項ひとつもなく完了検査が終了し、検査終了書に押印された時は、半年間の苦労が報われたことに安堵し、設計監理費が入ることに希望の芽がふくらみ、「老境に入って俺も歩く建築基準法と呼ばれるようになってきたか」と、勝手に思い込んでいる。

 考えてみると、姉歯構造計算書偽造事件が発覚し日本中を席巻する大きな社会問題となり、計算書の取り扱いが非常に厳格化されたその時に、僕は脳内出血で倒れ生死の境をさまよい、意識が回復してからも医大病院のベッドに横たわりながら、眼下の九頭竜川の流れを見続け「九頭竜の流れは絶えずして又もとの水にあらず・・」と、鴨長明の気分を日々味わっていた。つまり建築基準法改正どころではないぐちゃぐちゃ頭のなかで一筋の光明となっていたのが鴨長明で、その結果、「生きるとは何か 死ぬとは何か?」を問い続ける哲学的熟年へと脱皮したのである。
 結果として、女性にたいする肉欲的興味は減少し、愛人の数も少なくなった。
 午後一番で金津町時代の助役・E氏から電話があったので、雪が深々と降るなか、E氏宅へ車を走らせた
 
 約一時間の歓談。
 ①「そおか、市村さんの講演会があるのか。彼は私の弟と同級でもの静かな人格者や。金津でいうと、貴方と一緒や」と、言われた。
 ②「そおか、今年の市議選に貴方のはとこが出るんか。そりゃあマイク持っての応援演説しなあかん」と、言われた。
 
西暦 17年2月9日 木曜日 昨晩のできごと
  
昨晩はえらいめにあった
ベッドで横になって司馬遼太郎を読書中、こむら返り発作に襲われたのである。
 左足ふくらはぎから足指先までが硬直して激痛がはしる。気力で治るかと、丹田に力を入れ腹式呼吸を繰り返したのだが硬直したままだ。
 バケツに水を入れて足を冷やしたが、改善しない。
 水が駄目なら湯があるさと、湯で温めたのだが、やっぱり硬直、痛みは消えない。
 道具箱から金槌を取出し足の裏をたたいたが、びくともしない。

 その時、部屋の隅に足部バイブレータが置いてあるのを思い出し、三十分間作動させた。
 筋肉のこわばりはなくなり、痛みは嘘のように消えた。
 教訓 困難に直面した時にはなんにでも挑戦することが肝心

 こむら返り発作が起きた理由はわからないこともない。
 このところ半障害者の私にとっての重労働(但し健常者にとっては軽労働)に追われていたからだ。加えて私自身が繊細な神経の持ち主であることも、理由に加えられる。
 


西暦 17年2月8日 水曜日 昨日の一日
 

 午前7時に家を出て、嶺北消防署へ。私の場合、日々の起床時刻は2時半であるのに対して、消防署職員はオールナイト勤務である。考えてみれば当たり前の話だ。 竣工間際の消防分団詰所についての打ち合わせをこなしたあと、完成検査申請書を持って三国土木へ。ついでに三国町の数件の知人宅へ「市村氏講演チラシ」を持って行った。
 帰宅し、熱々カレーうどんを食べているところへ、はとこの女性(推定年齢60歳代はじめ)がやってきた。
 今年六月のあわら市議選に立候補するので経験者への相談という理由でやってきたのだが、正直言ってちゃらんぽらんが持ち味だった私に聞いてもなんの参考にもならないだろうと思いつつ、真摯に意見を述べた。
 
 午後一番で喫茶店「ことのは」へ。またしても市議選の話となった。
 店主は「議員定数を3名にすればいいんや」と言うが、私は「そりゃあ極端で5名乃至6名だ」と答えた。
 喫茶を出てから一路北潟の分団詰所工事現場へ。途中、赤尾地区で「市村氏講演チラシ」をポステイング。下半身半マヒ男のよれよれポステイングだったが、やっているうちに議員時代を思い出し、次第に元気になっていった。

  西暦 17年2月6日 月曜日 無題
 
 一週間ほど前に、電話で某女性から「お誕生日おめでとう」と言われたので、「なんで誕生日知ってるんや?」と聞いたところ、「フェースブックにでている」との答え。
 
 数年前に誰だったかにフェースブック機能をオンにしてもらった。だけど、メッセージの最後に「いいね を押して」と書いてあったが、いいのかわるいのかわからなかった僕は、それ以来覗いたことがない。誕生日云々(うんぬん)の理由がそこにあったのだ。どうでもいいけど、云々(うんぬん)をでんでんと読んだ日本国の首相にユーモアがあるとはとても思えない。
 いずれにしろ、
 誕生日をめでたいと思うかどうかは人によって違うと思う。

 正月や 冥途の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
                          一休宗純
 それはともかく
 仕事が一段落した。今週は、本を読む時間を増やすことができそうで、楽しみだ。
 白波が屏風になって押し寄せてくる冬の日本海。
 
 工事現場からの帰り、言葉を忘れ眺め続けていた。
 数十億年の昔、生命体がこの海の底から這いあがり、陸上の生物つまり人間の先祖となったのだ。
 地球の七分の六を覆う海の底に懐の深さを感じる。

 奥底の知れぬ寒さや海の音   遊女哥川.

 西暦 17年2月5日 日曜日 よう飲んだ
 
 昨晩は、坂ノ下八幡会(前期高齢者の会)新年総会ということで、芦原温泉某旅館でしこたま飲んだ。
 
両隣席のおっさんらとは自然に談笑できるのだが、コンパニオンガールズが来ると、途端にカラダがこわばる。何を話していいのかわからなくて怖いのだ。僕はサングラスをかけて黙秘を通した。
 
 明け方に手製珈琲が飲みたくていったん帰宅。朝飯を食べるために、7時前に、再度旅館へ。
 朝飯だというのに、すごい数のおかずだ。脳内出血で17Kg痩せてしまった僕にはとても食べきれない。余った諸々は生ごみとなるのだろう。処理に金がかかるし勿体無い話だ。旅館の食事もバイキング方式に変える方がよい。

 西暦 17年2月4日 土曜日 本日は坂ノ下区八幡会新春のつどい
 
 昔からそうだったけど、自由業というのは土日が忙しく、今週も予定満載だ。
 こういう時は体調を落としてはならない。そのためには、十分な睡眠が不可欠である。最近は、きっかり8時間の熟睡を維持していて、夢を見ることも全くなくなった。
 僕が見る夢は圧倒的に悪夢が多く良夢乃至淫夢は極めて少なかった。よって、夢を見ないことが心の安定につながっている。
 テレビはトランプ批判大キャンペーンのオンパレードでいささか食傷気味。トランプがダメなのかスターとなるのか、政治音痴のぼくには全くわからないが、移民排除を訴えていることだけは明らかに筋違いで、そもそもアメリカ合衆国は17世紀にメイフラワー号に乗ってイギリスからやってきた移民の国であって、移民排除を言う権利は、征服されたインデイアン(今はイヌイットというのかな?)にしかないはずである。言うなれば、自己否定を声高に叫んでいることになる。

 西暦 17年2月3日 金曜日 もう週末か

 仕事を終え濁り交じり最低価格焼酎を飲みながら、「海賊と呼ばれた男」を読んでいた昨夕、I氏(男・推定年齢68歳)が入ってきて、「お!出光佐三やなあ」と、言う。オタクは何処にでもいるもんだ。
 この本の著者は「永遠の0」で名を成し、同時に極右として物議を醸しだした百田尚樹。そして主人公の出光佐三は、ものの本によれば、「かつて社会党の浅沼稲次郎委員長を刺殺した右翼の少年、山口二矢を大絶賛しています」とある。
 ま、思想性に関係なく、ストーリーの展開力が小説を魅力的にも陳腐にもするのだろう。

 それはそれとして
 話は「富津 開拓と区のあゆみ(入植65年を記念して)」に移った。
 

 ついで、今年6月のあわら市議選に立候補する某女性のことに移った。なんとはなしの予感だが、今年はあわただしくなりそうだ。
 ぼくはCAD作業の最中、必ずラジオをつけている。その意味では、今の時期、国会中継がいい退屈しのぎになっている。
 昨日も共産党・笠井政策委員長のオスプレイ不時着事故に関する稲田防衛相のトンチンカン答弁には思わず筆をとめてしまった。「福井のおっかさん」として自己宣伝している稲田だがヒラの議員でいるあいだはそれでいいとしても、防衛相の立場では綿密で合理的な答弁能力が要求されるのに、ピントはずれの答弁をしかもながながとしゃべっている。
 言うなれば、政治漫談じゃなかろうか。

  西暦 17年2月2日 木曜日

 僕は偏執なほどに餅が好きだ。昨日も昼飯用として醤油味の切餅をトースターで焼いていたところへ、三国町の辻議員がやってきた。
 「やあ、(こう)ばしい匂いがしますね!」が、事務所扉を開けての第一声。
 (こう)ばしいは僕の好きな日本語で、この言葉を聞くと、気持ちがさわやかになる。
 
 それはともかく
 彼は 落語のチラシを持ってきた。みなさん、是非ご参加ください。
 仕事のことでミスをしてしまって鬱。鬱にもいい鬱とわるい鬱があるが、今回のは明らかに後者だ。自己責任なのだから、身体をはってミスをとりもどさなくてはならない。ネバーギブアップだ。
      鑑賞
 芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。云はば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名声を失はない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具へてゐる。しかし種々の鑑賞を可能にすると云ふ意味はアナトオル・フランスの云ふやうに、何処か曖昧に出来てゐる為、どう云ふ解釈を加へるもたやすいと云ふ意味ではあるまい。寧ろ廬山《ろざん》の峰々のやうに、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具へてゐるのであらう。
                 芥川「侏儒の言葉」より

 西暦 17年2月1日 水曜日  昨日の一日

 朝一番で粉雪舞い散る北潟地区へ。某建物建設現場の竣工が近づいているので忙しい。
 
 午後一番で入札資格審査書を提出。市の物件を入札で取れたことはないけれども、それでいい。提出することが大事なのだ。

 事務所に戻ってCADに邁進していた夕刻、某女性(推定年齢73歳)がドーナッツを持って来訪。他愛もないことをしゃべり合って帰っていった。

 午後7時。「市村氏講演について」のテーマで5人が集まる。当日の司会を私がするので、私目当てに来る女性の多いことが予想される。
 きょうの朝7時半に、某あわら市議から「今、小松空港にいる。委員会で沖縄へ行くんや」との電話が入った。改選期なので遠くへ行くのだろう。  
 どこへ行こうがどうでもいいが、沖縄行きだけは羨ましい。島尾 敏雄が発表した琉球弧文化圏に触れることができるからだ。
 私も沖縄本島へ三回、離島の沖永良部島へ三回行ったが、なかんずく沖永良部島は第二の故郷だ。二十一歳の数カ月をこの島最北端の牛小屋二階で暮らした時のカルチャーショックを忘れることができない。
過去日記