17年03月日記

西暦 17年3月30日 木曜日 新しい年度まであと二日
 
 今の自分は22歳の時の自分と対座しているような気がする。
 私の目の前には、親父の遺品である戦陣訓があって、そこには「生きて虜囚の辱を受けず・・・」と書いてある。
 してみると、フィリピン戦線で連合国側の捕虜となり、捕虜収容所でスペイン人女性看守兵士と恋に落ちた親父は典型的な非国民であったということになる。
 その男を親父に持つ私も、血故か、「国家」と言う言葉が嫌いで「女」という言葉が大好きな無思想的半生を送ってきたのだが、悔いはない。
 6月のあわら市議選を前に、もしかしたら、私の家の近所がホットスポットとなるやもしれぬ。そうなったら面白いぞ。

西暦 17年3月29日 水曜日 
 
 高橋克彦著「 だましゑ歌麿」
 寛政年間に起こった押し込み強盗事件を探索する南町奉行所役人・仙波一之進は、探索の過程で、時の老中・松平定信の、前老中・田沼意次の贅沢奨励政治に対する徹底した反キャンペーン即ち贅沢弾圧的緊縮奨励政治を憤る江戸庶民の感情が背後にあることをつきとめる。
 仙波は他の役人とは別人ともいうべき変わり者で、賄賂や色事遊興への誘いに対しては唾をはきかけるのみ ・・ひたすら緊縮政策を推し進める松平政治の理念に沿って働いてきたのであるが、吉原界隈を調べ歩くうち、ささやかな贅沢を奪い取られた江戸庶民の反政府的感情を代弁して動いているのが当時人気絶頂の浮世絵師・喜多川歌麿であり、彼のサポーターだった版元・蔦谷重三郎でありあるいは歌麿よりも10歳若く当時はまだ無名だった葛飾北斎であることを知り、彼らの思いに共感していく。
 押し込み事件の真実に近づきつつある仙波の動きは、上司たちにとって目の上のたんこぶで、彼は南町奉行所配属を解任され、盗賊など荒くれ者を捕縛する役目の火付盗賊改職に配置換えされるのだが、にもかかわらず押し込み事件の真実に切り込むため、非番の日をそのさらなる探索に充てる。
彼にとって運が良かったのは北町奉行・初鹿野が仙波と同種の石頭人間だったことで、二人は共闘してついには件の全貌を顕わにし、最後には松平定信にお目通りして全貌を報告する。白河藩主・松平定信は「そうか・・そうだったのか。わしは田沼の贅沢奨励政治が人心をまどわすと思い、倹約しつつの地味奨励政治でまことの人心をとりもどすことができると思ったのだが、早計だったのかもしれぬ・・。」
 仙波一之進は「殿、庶民はささやかな贅沢で明日への鋭気を養うことができるのでございます。お上の政治は人心に敏感であることが必須要件でございますぞ」と言う。
定信は「そちは希少動物のような男だ。上には歯に絹を着せず、下には傲慢のかけらもなく、そして無類の剣客だ。そちよ、白河藩の藩士となってわしの傍らについてくれぬか」と言う。
 一之進は「ごめんこうむります。わたくしの上司はおてんとさまだけでございます」と言って、定信のドラフトを断るのである。

 思うに、仙波はこんな顔をしていたのであろう。

西暦 17年3月28日 火曜日 無題 
 6時20分、すごい朝陽だ。日輪だ。
 
 きょう生きていてよかった。

 午後は、工大福井の試合をゆっくり楽しもう。

西暦 17年3月26日 日曜日 幻視行 
 
 森本哲郎の「おくのほそ道行」を深夜に読み返していると、もはや忘却の彼方となった芭蕉の句がたくさんあることに気付き、そこへ自分が行ったのか行かなかったのか判然としない地名がたくさん出てきたことに、おのれの認知度の低さを認めざるを得ない。
 
 とはいうものの、考え込んだ句のいくつかはいまだに覚えていて、下の句もそのひとつだ。
 閑さや 岩にしみ入 蝉の声 

 岩は堅い。表面はがんがらがんだ。それが岩なのだから蝉の声を跳ね返しこそすれしみ入らせることなどできるはずがないじゃないかという長年の疑問がとけたのは、25年ほど前に山竹田の清流に二人で立った時だった。目の前の岩は苔むしている。表面が苔むしていれば、蝉の声はしみ込んでいく。芭蕉が見た岩も苔むしていたに違いない。

西暦 17年3月25日 土曜日 無題 
 
 長谷川さんの協力でやっと箪笥を運び出すことができ(情けない話だが足がマヒし手に膂力のない私に独力では到底無理)、一件落着。3月の予定としては、某病院定期調査報告書作成のみとなった。

 山本一力著「いすゞ鳴る」読了。山本にしては失敗作だとは思ったが、明治維新前夜のクジラ獲りの話なので、ハーマン・メルビル著「白鯨」を思い出しながら、飛ばしつつ楽しく読んだ。そして、再び土佐へ行って鯨肉を食べたくなった。
 本日は某邸の建前の日。最高の日柄となった。
 
 これも、設計者の日頃の精進のせいだろう。
 

西暦 17年3月23日 木曜日 けだるい木曜日 
 
 この一週間、深夜の僕は日中・太平洋戦争をNHKアーカイブズで見続けていた。
 盧溝橋.・東京裁判・小野田寛郎の帰還・ガダルカナル島戦の玉砕・捕虜となった日本兵・・などであるが、わからないところが多々ある。

 小説家の中島道子さんが「私の尊敬する男は岩佐又兵衛と小野田寛郎」と言っていたのを思い出す。日航だったか全日空だったかの機内配布小冊子原稿文づくりで何度か彼と対談した時の印象からくるものだとのことだが、アーカイブでの小野田さんを見ていて聞いていて、確かに魅力的な男だと思った。
 人妻(美貌)からの電話が「息子が大学の卒業式なのよ」と言う。
 
 40数年前を思い出した。僕は卒業式に出ていない。当時のガールフレンドに郵送してもらった。第一、二年も留年した僕に既に同級生など居ないのだから・・。


西暦 17年3月22日 水曜日 無題 
 
 昨日の午後に現われた御老人(推定年齢70歳代後半)の左手には、「吟醸・白鹿生」があった。
  
 半藤一利 日本の一番長い夏
 昭和38年の夏、文芸春秋社主催で、昭和20年8月に政府の要職に就いていた者、戦争の最前線で命を賭して戦っていた者、特攻を志願した者、銃後の兵士だった者エトセトラ総計38人が集まった。そして、彼ら彼女らの肉声は私の耳を撃った。

 当時の書記官長・迫水久常によれば昭和20年7月26日に英・米・中の首脳がポツダムに集まり、いわゆるポツダム宣言(日本の無条件降伏勧告)が発せられた。それまで、佐藤尚武ソ連駐在大使を通してソ連を仲介とする和解工作を模索していた日本首脳にとってこれは寝耳に水。そしてこの情報は国民の誰一人にも知らされることがなかった。

 時の戦争指導者会議のメンバーは6人。
米内、東郷、鈴木の三人が宣言受諾を主張したが、阿南、梅津、豊田つまり軍人側の3人が天皇制護持を目指し本土決戦を主張。会議は混乱に混乱を重ねた。

 8月14日の御前会議による昭和天皇の御聖断まで受諾はずるずるっと延びてしまい、その間に広島、長崎へ原爆が投下されたのである。

 8月7日(だったかな?)、佐藤ソ連駐在大使は外相モロトフに呼び出され、宣戦布告書を手渡される。そして8月9日にソ連軍が満州へ侵攻してきたのである。ぼくはソ連国民をナターシャ以外誰も知らないが、国家としてのソ連はどうしようもないと思う。

いろんな発言のなかで印象に残ったもののひとつが、沖縄戦で白梅部隊にいた楠さんの証言。

 米軍の砲火攻勢が強まった昭和20年6月。彼女が所属していた部隊の長から「もうあかん。わしら帝国陸軍兵士は既に玉砕を心に決めたが、おまえら看護兵は家へ帰れ。生き残って結婚して立派な日本人を産んでくれ」と言われ、彼女は親友とふたりで部隊をあとにする。沖縄南部の地で米軍砲火をかいくぐりながら逃げ惑うふたりの前に陸軍兵士5人が突然現われる。

 「兵隊さん、私たちを連れて行ってください」と懇願し、計7人は行動を共にするのだが、行く手に米軍部隊が現われた。5人は四散し、亜熱帯のジャングルに逃げ込む。しかし彼女らふたりは女の身なので、逃げ足が遅い。しかたなく手榴弾を手にして自決を図るのだが、起爆操作がうまくいかないちに米軍に捕まってしまう(正確には、捕虜となった)。

 彼女たちが米軍トラックに乗せられようとしたその刹那、陸軍兵士5人が日本刀を抜いて切り込んできた。そして彼ら5人は彼女達の数メートル目の前で米軍火器により、頭を飛ばされ、胴体を分かたれ、全身血だるまとなって息絶える。

 要するに5人の兵士は、拉致されようとする彼女らを救おうとして、身を粉にしたのだ


西暦 17年3月21日 火曜日 障害のこと
 
 例の稲田さんから、「一昨日の牧田さんのブログに関して話したいことがある」との電話があり、彼は10時に私の事務所へ来た。左手には「能登の銘酒」があり、僕は勿論大歓迎。

 彼の意見を無言で虚心坦懐に聞いていたのだが、「能登の銘酒」を口にするたびに僕の心は軽くなり、結果として言葉が伸びてくる。

 僕が障害者となって数年、過去に付き合った障害者たちが胸底から言おうとした思いの片鱗を自分の経験知からしゃべることができたのではないかと思っている。

西暦 17年3月20日 月曜日
 
  きょうの一日は家庭ゴミ廃棄、笹岡清掃センターへの軽トラ往復で終わりそうだ。
 だけどセンターに問い合わせしたところ、きょうは休みだとのこと。

西暦 17年3月19日 日曜日 無題
 
  昨日の午後、福井県庁・結城秀康像の前へ行った。福井市語り部の会会員の稲田さんから、「岩佐又兵衛ツアー」への参加を促されたからだ。
 又兵衛墓所のある宝永小学校へマイクロバスで行くと思っていたのだが、「40分ほどの徒歩で行く」とのこと。足の悪いぼくにこれは無理だ。周囲を気にせずの一人歩きならともかく、共同徒歩だとみんなに迷惑をかけてしまう。
 仕方がないので、ぼくは愛車ケトラに乗って宝永小へ向かった。
 30分ほど待機してから墓所前での説明を聞いた。
 そののち、某寺院へ赴き住職の話を聞くと、云う。
 ここでぼくは参加をあきらめた。健常者にとっては普通のスケヂュールとして参加できることが、ぼくには不可能だ。ぼくはあんまり外へ出ない方がいいなあと思った。
 世界は、健常者中心に動いている。

 岩佐又兵衛

西暦 17年3月18日 土曜日 本日は岩佐又兵衛ツアー
 
 昨晩は飲んだ。飲んだ飲んだ飲んだ。飲み疲れた。
 今、脳がぐちゃぐちゃになっている。
 

西暦 17年3月17日 金曜日 心に残る言葉
 
 このところ、事務所の整理整頓にいそしんでいて、近くのDIY店へ用具を買いに行くことがよくある。
 今朝も両面テープを買いに行ったら70歳代年配者の男性に呼び止められて、「ふるさと語ろう会をやってた頃は楽しかったなあ。またやってや」と、言われた。
 朝のラジオが「今、全国的に卒業式のシーズン」と、報じている。
 妻が看護婦だったので、子供の父兄参観に妻の代わりによく行ったものだが、一番印象に残っているのが次の言葉・・確か小三くらいの時だったかなあ。

 「ぼくはこの一年間に背が随分のびました。この調子だと、うちのお母さんは今に天井を突き破ってしまうのではないかと、それが心配です」。

西暦 17年3月13日 月曜日 昨日の一日
 
 午前中は、坂ノ下八幡神社の清掃で始まったが、途中で抜け出し、新築の始まっている某住宅のクライアント及び施工業者と共に福井市内のショールームへ行って打合せ。
 午後は確定申告作業に向かったり浅田次郎を読んだりののらりくらりで時間を過ごした。

 午後七時からはTVでvsオランダを観戦。延長戦となってしまい、眠りについた時は日が変わっていた。
 疲れからかなかなか寝付けず眠っても浅いねむりで、次から次へと夢を見た。夢に出てくる人たちが全て逝った人たちであることが不思議でその人たちと会話している自分がもっと不思議だった。

西暦 17年3月12日 日曜日 311メモリアルデイに
 
 森村誠一著「人間の証明」を読み終えた。
 森村の本で特に印象に残っているのは、旧日本軍331部隊の人体実験をあばいた「悪魔の飽食」であり、太平洋戦争下、日本軍連合艦隊の作戦失敗によって日本軍とアメリカ軍の戦力逆転の節目となったミッドウエイ海戦を描いた「ミッドウエイ」であった。いずれも戦争下での殺戮の徹底的な非人間性・・換言するならば人間が精神性を喪失して機械そのものとなっていく過程を描いている。

 戦後数十年を経て書かれた「人間の証明」の場合は、自分の出生の秘密を知った主人公・福永幸一が日本を脱出し中近東の内戦地帯に傭兵として入り込み地獄をみたあと日本に戻り、生ける屍として暮らしているうち、ある事件にまきこまれ、それを契機として徐々に人間性を取り戻していくのだが、遂に愛する親子を守るために死んでいくという物語。
 政治に裏表があるように、経済に裏表があるように、、人間一人ひとりの心にも裏表があるのだろう。

西暦 17年3月11日 土曜日
 
 数日前、面谷鉱毒事件の話になった時に思い出したのが、立松和平著「白い河」
 
 立松の絶筆となった作品で、かつ明らかに未完結である。よって、作者あとがきはなく、変って「編集部から」がある。
 以下紹介 

本作品は立松和平が死の直前まで書き続け、文字通り絶筆として、立松和平が遺した鞄の中で見つかった原稿も含まれているものです。
 内容としては前作「毒ー風聞田中正造(一九九七年、小社刊)とほぼ同じ時期の田中正造と渡良瀬川流域の農民を描いていますが、フォークロア的な要素のあった前作にくらべ、洪水や川俣事件、川辺・利島の事件など、続編ではありますがより歴史的な事実という側面に向き合って物語が進んでおります。生前立松和平が何度も表明していたように、足尾鉱毒問題は、自分の家族も足尾銅山に関与していたということもあり、ライフワークとして、なんとしても書き続けてゆきたいと考えていたテーマでした。本作品が完結していたかどうかを今は確かめる術(すべ)はありませんが、著者の意思を尊重し、また充分に刊行に値する作品と判断し、出版いたしました。
 なお前作と同様全編にわたり群馬県館林在住の布川了氏の校閲をいただき、山岸一平氏、庭田和子様には著作の参考・引用の許諾をはじめ格段の御協力をいただきました。著者にかわり、心より御礼申しあげます。その他、このたびもたくさんのかたの御協力をいただきました。なお、巻末に掲載させていただきました参考文献は、本作が歴史に基づいたフィクションであることからも、当然ではございますが、本作と歴史的な見解が異なる場合もございますことを付記させていただきます。
           二〇一〇年五月    東京書籍出版事業部

西暦 17年3月10日 金曜日
 
 本日の深夜ラジオは東北大震災の津波で子供を亡くした母親たちの悲しみの声を紹介している。(津波でではないけれども)同じような体験をした私は、しかし父親なので、口を閉ざすだけだ。
 

西暦 17年3月9日 木曜日 昨日の一日
 
 昨日の午前中は、四人で三国町の性海寺へ。
 印牧先生から大野和泉あるいは穴馬の歴史を一時間にわたって拝聴した。
 その後、印牧先生は我々を三国神社近くの蕎麦屋に連れて行ってくださったが、めっぽう美味いおろし蕎麦だ。五人の中でダントツの若輩者である私にも美味しさがよくわかった。しかし美味さを活字で表現することが素人にはほぼ不可能で、それが悔しい。

 帰宅してCADに専念していたが、夕刻に来訪した知人K氏(推定年齢69歳)によって中座。「農地開墾のために運転していた重機が横転しそうになり、その時に腰の丁番を痛めたので、ここへ休みに来た」と、言う。私は「別の行為で腰を痛めたんじゃないですか?」と、ひやかした。

 K氏が帰ると、入れ替わるようにして某VIPが来訪。
 ↓「この本がとても面白かった」と、言う。
 
 「このあわら市でも、偉い人たちが居たんやなあ」と、言う。
 
 そうなのである。私自身はこの世を冗談で生きているのだが、先人の謹厳実直な生き方を見習わなければと、たまには思う。

西暦 17年3月8日 水曜日 もく星号撃墜事件(2)
 
 下坂は毎日新聞社会部記者丸山仁の記述に目をつける。
 「惨死した乗客の中にいた烏丸小路万理子さんの持っていたダイヤなどの宝石類が足りないと後で問題になった。・・中略・・烏丸小路万理子さんが持って乗ったときのダイヤの数を証明できない限り、なんとも云えない問題で、永久にナゾとして残されるほかはなくなったわけである」
 下坂はこの雑誌の記載と「サン」の写真と見くらべた。ふくれ上がった手提げカバンと四角な形の手提げカバンとがうつっている。施錠がしっかりとかけられていて墜落時のショックに壊れもせず、中の品を閉じこめたままである。あの二個の手提げカバンが烏丸小路のものだとすれば、その中にはダイヤが詰まっていたのではなかろうか。
 烏丸小路さんについてはこんな話が残っている。
 彼女は月二回ほど板付飛行場に姿をみせていた。近くに米軍の宿舎があって、そこを上得意としていたといわれる。彼女にインタビューしたさる新聞記者は、「これからは日本人も大いに身をかざるようになるだろう。わたしはその宝石をうまくその人にマッチすることを考えるのが商売です、と彼女はいっていましたがね。一説によると麻薬の商売にも関係があるような噂が板付一帯に立っていましたよ」といっている。

西暦 17年3月7日 火曜日 もく星号撃墜事件
 
 松本清張著「一九五二年日航機 「撃墜」事件」を一気に読み終えた。

 昭和27年に乗客33名、乗務員4名を載せた双発「もく星号」は、浜名湖付近の海上に、墜落した。乗客、乗務員全員死亡。この飛行機には漫談家・大辻司朗が乗っておりマスコミは連日大々的にこの事故を報道した。当時三歳の私に当時の記憶のあるはずはないが、下山事件、三鷹事件、松川事件など米軍占領下の日本で起きた殺伐とした事故(事件?)がたくさんあったことを後に知る。

 日米講和条約締結以前の日本の空路は米軍支配下にあり、墜落の真相は謎が謎を呼ぶものとなっていた。
 昭和のエンタテーナー松本清張は、「昭和産業」の宣伝雑誌「ことぶき」の編集長下坂孝一が、乗客中唯一の女性であった烏丸小路万理子に焦点を当て、真相究明を追ったその道筋を克明に描いた。
 
 烏丸小路万理子はダイヤのブローカーとして既に有名な存在でかつ日本駐留将校のオンリーさんでもあった。

西暦 17年3月6日 月曜日 無題
 
 昨日、一昨日の土日は愛車ケトラ(軽トラ)にダンボールやテーブルを載せて走り回っていた。加えて先週のウイークデイに、家庭廃棄物を載せて都合7回笹岡清掃センターを往復した。付け加えて言うならば、CAD作業用チェアーも新しいものに交換し、オフィスの雰囲気は大変に良いものとなった。
 

西暦 17年3月3日 金曜日 もう週末か
 
 橋川浚著「待暁虜」・・・。著者は、現在、嫁おどしにお住いの橋川洋さんのお父さん(故人)。
 一昨日、洋さんが「待暁虜」20冊を私の事務所(しゃべりの館)に持って来た。

 「はじめに」を紹介しよう。
 「僕は、北京、大連、青島と、北方中国に三十年の半生を埋めた。その間邦人経営の漢字紙ー中国人はこれを漢字外国報と皮肉って呼んでいたーの編集に終始した。中国に永く住みついて漢字外国報の編集という特殊なしごとにひとすじ道に精出して来た僕は、他の中国客居邦人には経験しないであろういろんな事を経験して来た。終戦後二十年余を過ぎて記憶も薄らいでゆくばかりなので、今のうちにそれらを書き留めておき中国研究を志す人々の何かの用足しでもなればと思って筆を執ったわけである」
 

西暦 17年3月2日 木曜日 
 
 嫁おどし(開拓集落)の歴史を書いた素敵な本です↓。
 
 読みたい人は御連絡ください(0776-73-0863)。
 老若男女美人不美人に関わらず御進呈致します(勿論無料)。
 

西暦 17年3月1日 水曜日 ちょっと思ったこと
 きょうから三月。自分の半生で最も大きな衝撃を受けた月だがそれはともかく

 三月に見るアルプス山脈の(いただき)はまだ白いのだろうか。
 10代の終わりに、モーツアルト音楽の学理を見極めるべくウイーンのハイデルベルク音楽院に留学した私は、そこで知り合ったハイジ(つまりアルプスの少女ハイジ)に対してたちまち恋のとりことなってしまった。
 凱旋門近くのシャンゼリゼ通りオープンカフェでロマネコンテーワインに舌鼓をうったあと、私とハイジは腕を組み接吻を交わしながらセーヌ河畔を歩くのが定番となった。その時に口ずさんだ歌は、アダモの「雪は降る」でありジャック・プレベール詞の「枯葉」だった。

 わけがあって、ハイジとの国際結婚は実現不可能となったが、今、彼女が生きているならば50代後半だ。彼女の肌は今でも雪のように白いだろう。
 
過去日記