二月二八日 水曜日 二月最終日 |
仏教を学ぶ
その発生と伝播 高戸甚右衛門
ゾロアスター教(拝火教)
古代に興った宗教であるが現在もインドを中心に少数信者がいる。
イラン北東部からアフガニスタンにかけて古代におこり寺院には日常生活や祭儀に欠かせない聖なる火が燃えており、それが崇拝されるので拝火教とも呼ばれる。
創始者はゾロアスターで彼の生涯は紀元前600年前後といわれ彼は30才の頃、アフラ、マズダーから啓示をうけてこの新しい宗教を広めた。古代ペルシャでは、王家をはじめ多くの人が信仰した。3世紀に興ったササン朝ペルシャでは国教となった。経典は「アヴェスタ」で善霊と悪霊の二元論でこの対立は「生命、光」と「死、闇」との戦いでそのどちらに属するかは人間の自由で、各自の行為は死後その魂が報いを受けることになる。最後の審判、終末における救世主の登場との観念はユダヤ教、キリスト教、イスラム教などにも影響を与えたとされる。シンボルマークは二頭の鷲でこれはロシア正教のシンボルマークでもある。
聖徳太子(574-622)
用明天皇の子で、叔母である推古天皇の摂政として政治の実務に携った。
儒教の思想をとりいれて、冠位十二階の制度や十七条憲法を制定した。
高句麗の僧慧慈について仏教を学び、仏教の保護に力を入れたといわれる。成果は斑鳩寺(法隆寺)、橘寺、中宮寺などの寺院造営や「三経義疏」の執筆であった。
「三経義疏」とは法華経、勝鬘経、維摩経の三経の注釈で太子の死後、太子信仰が生まれ広まった。
鎌倉時代の親鸞は仏教の日本における開祖として「和国の教主」とよんだといわれる。
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仏教を学ぶ
その発生と伝播
世界の宗教
1、キリスト教文化圏
ヨーロッパ、南北アメリカ
2、イスラム文化圏
中東を中心に東西に広がる
3、ヒンドゥー教、仏教文化圏
南アジア、東南アジア
4、中国、宗教文化圏
儒教、道教、大乗仏教が深くからみ合った。(日本はここに入る)
宗教的特徴
一神教=ユダヤ教、キリスト教、イスラム教(現世と耒世しか無い)
多神教=東南アジアでの主流
重層信仰=神も仏も混じりあって信仰される(霊魂不滅で生れ代る)
仏教
古代インドにおいて、ブッダにより創始され、現在もアジアと東南アジアを中心に3億人余りの信者をもつ。
釈迦(ブッダ)の出生と生涯
ブッダとは悟った人(覚者)の意味で、釈尊とは釈迦族の聖者という意味である。
ブッダの伝記が文字に記されるのは没後数百年経ってからで多くの説があり、内容もかなり神格化されている。出生も南方仏教徒の統一見解では紀元前624年説であり、日本では紀元前463年説がもっとも支持されている。
北インド(現ネパール)のカピラヴァスツ城で釈迦族の王子として生れ、結婚して一子をもうけたが、29才のとき出家を決意した。(生老病死の苦を知り)苦業後ひとり静かに座って瞑想を行い35才の頃悟りを得て如来(修業を完成した意)と称された。悟りを得たブッダガヤの聖地にはインドボダイ樹(現在4代目)と座禅石が今もそのまま保存されている。
最初の説法(初転法論)はガンジス川の聖地ベナレス近郊のサルナートで行われた。そこに苦業をともにした五人の比丘(出家修業者)がいたからという。かれらは釈迦が苦業を中止したことで袂を分っていたが、最初の説法の相手に選ばれたのはかれらであった。説法を「法論を転じる」ということから初転法論と呼ぶ。
釈迦はこの最初の弟子となったっ五人の比丘にそれぞれ独りで伝道の旅に行くように命じ自分も旅をつづけた。悟りは自分のものであり独りでゆくことが大切とした。
各地を説法してクシナガラに於て80年の生涯をとじるが最初の説法は霊鷲山(ビハールソ州のラジギール)で法華経を説いたとされている。
クシナガラでの入滅の姿は寝釈迦様と呼ばれ頭北面西右脇(ヅボクメンサイウキヨウガ)で死の直前までブッダにつき従った弟子は500人居たとされ五百羅漢と呼ばれる。
ブッダは弟子たちに「遊行せよ、法を説け、同じ道を行くな」と説いていたので、弟子たちは各地をめぐって教を広めた。
ブッダの悟りの内容
四諦八正道(シタイハッショウドウ)を悟ったというもので、これは4つの真理とそれを得るための8つの正しい道である。
四諦の諦はあきらめるような印象を与えるが、諦は「サテイヤ」または「サッチヤ」すなわち真理という意味の漢訳である。根本的な4つの真理ということである。具体的には、苦諦、集諦、滅諦、道諦である。人生の現実は自分の思う通りにはならず、苦である(苦諦)。その苦は煩悩やもろもろの欲望から生ずる(集諦)。そのためには正しい実践を行わなければならない(道諦)。
そしてその正しい実践が八正道である。それは正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
人生は苦であることを悟りその苦から脱する方法。
人生が苦に満ちている(一切皆苦)というのは仏教の基本的な教である。それは四苦八苦として示される。四苦とは愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の4つを合わせて八苦となる。愛別離苦は愛する者と別れる苦しみ、怨憎会苦は憎む者と会う苦しみ、求不得苦は求めても得ることのできない苦しみ、五陰盛苦は感覚や想念などにとらわれることによる苦しみ(失恋など)。
三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)。
佛典の編等
ブッダが入滅してから数百年は文字化された教典はなかった。弟子たちは教えを暗誦して覚えた。そして正しい教えと戒律がずっと守られるようにと魔訶迦葉が王舎城外にあった。精舎で集会を開き、阿難、優婆離の二人がそれぞれ教えと律を唱え、これに合わせて参加者一同が唱えるとした。これが仏典の第一回結果で近代までくり返された。
アレキサンダー大王の印度支配と仏教への影響
大乗仏教の成立
アフガニスタンとパキスタン(かってインド)の境をなすカイバル峠は、インド大陸が中央アジアに通ずる陸の門戸で五千年来インド征服の野望を抱く人達が攻防を繰り返し、勝った者が土着した処である。インダス文明を築いたシュメール人を滅ぼしたアーリア人も紀元前1,300年にここから侵入した。
アレキサンダー大王も長躯マケドニヤから馳せ苦戦の末インドを平定した(紀元前3274~325年)。
慕われた民衆に懇願されたが、カイバル峠の戦いで多数の部下を失ったことを思い断った。
その後、チャンドラ ブクタによるインド最初の大帝国マウリヤ王朝が成立。その時代アショーカ王(阿育王 愛宕王)(紀元前268~232年在位)は都をタキシラ(タクシャシラ)に置き仏教を国教として保護(佛護王と呼ばれた)した。
教派の分裂と大乗仏教の成立
戒律を守る戒律至上主義の上座仏教と竜樹の唱える大乗仏教に分かれ厳しい戒律を守ったり修行をしなくとも阿弥陀仏の名を唱えれば極楽浄土に往生出来るとの浄土思想ととすべての衆生は等しく成仏出来るとの大乗思想を竜樹に広く学びすべてのものが他の相互依存の関係で成り立つ「空の思想」を説いて「中論」をあらわした。之を大乗仏教といい、上座部仏教を小乗仏教という。
大乗仏教は在家仏教ともいわれ誰でも仏になれ仏性を持っている。とくに密教では真言、陀羅尼を唱えるだけで災厄を払う神秘的法力が得られるとの考えが強まった。
マウリア王朝のあとメナンドロス(ミリンダ王)が表臨(紀元前163才)サカ族の移動と大月氏国の分裂後の紀元45年クシヤナ朝が興り都をカイバル峠の近くタキレラがシダーラ地方の中心ペシャワール(プルシヤブラ)に置き、第4代カニレカ王は仏教を厚く保護しインド仏教と異文化の接触のなかではじめて仏像は誕生した。これまで仏像を造ったこともなく仏足石(ブッダの足の裏)を拝むだけであったが仏典の解釈と共に釈迦の幼少の頃から説法入滅までギリシャの芸術とパンジャブ古来の文化が融合して芸術が開花し衆生が仏像を拝むようになった。
大乗仏教の基礎が確立
ペシャワールの町は革新的大乗仏教の基礎が完成された処で幾多の先覚者を輩出している。この町に生れ後世ナーランダ大学の大教主として活躍したといわれる「アサンガー」(無着)は般若波羅密多の教理解釈に苦心してアユタに行きマイトレーヤ(弥勒菩薩)の指導を受けて摂大乗論を著したとか、その弟の「パスバンス」=天親(世親)菩薩であって1000巻の教典を論述したといわれ彼の晩年の無量寿教憂波提舎は有名である。また中国の雲蔦大師にこの浄土論を指導したと伝えられるボデルシイ ペシャワールの出身で彼の導きで雲蔦は天親の浄土論を中国で訳しこれが後世日本において法然、親鸞に引き継がれることとなった。
仏教の伝播
クシヤン王朝カニシカ王(即位西暦128年又は144年)は都をペシャワールに置き東はビハールからトルキスタン、アフガニスタン、東インド、デカン高原と広大な領地をもち仏教を保護し各地にストウパー等を残しカニシカの金貨に仏像を刻印したものも多いが幾多の戦いで部下を亡くした王は仏教だけでなくゾロアスターやヒンズー教の神殿も創建している。
南インドのスリランカ(セイロン)へ仏教を伝えたのはアショーカの子マヒンダであるが、上座部仏教は一部の宗教エリートしか救わない小乗仏教で南方に伝わったので南伝仏教とも呼ばれ今日スリランカ、タイ、ラオス、カンボジアなどに存在する。
一方中国を経由し東アジアに広まった流れは大乗仏教とか北伝仏教と呼ばれ中国、韓国、チベット、日本、台湾などで文化的にも大きな影響を与えた。
インドでは、バラモン-ヒンズー教の影響で密教化されて行った。チベットでは古来のボン教と合体した密教タントラ化したラマ教となった。
シルクロードと仏教の伝来
西域の求法僧としては紀元前139年頃、前漢の武帝が張○を西域に派遣後73年後漢の和帝斑超を西域へ。
399年法顕インドへ出発。412年セイロン、インドネシアを経て帰朝。401年斑摩羅付長安で訳経をはじめる。627年頃玄奘インドへ出発。645年帰朝790年吐藩が西域に進出唐の支配終了。
密教とマンダラ
密教はインドで次々と興った大乗仏教末期の流れである。とくにヒンズー教の影響を強く受けて成立した。
650~700年頃、「大日経」と「金剛頂経」という密教経典が成立しそこでは密教を実践して即身成仏することが強調された。その後独自の流れの中でヒンズー教のシャークタ派(性力派)などの影響をうけいわゆるタントラ仏教となった。セックスも悟りの手段になり得るとされたこともあって堕落した仏教とされることも多い。
密教は8世紀になって本格的に伝えられた。
唐の時代善無畏 金剛智が来唐しそれぞれ「大日経」と「金剛頂経」を漢訳し体系的な密教経典が伝わった。
マンダラとは本質を図示したものという意味であるが諸仏が描かれたものが多い。
中国における仏教の展開
紀元前後から西域の僧などによってインドの仏教経典が漢訳され中国独特の宗派が出来た。
三論宗、天台宗、華厳宗、法相宗、律宗、浄土宗、禅宗、真言宗(密教)の八宗である。
中でも天台宗は種々の教典を整理し理解しようとした。
天台宗を大成したのは隋の時代の智顗(538~597年)である。彼ははじめ禅を修めさらに法華経を学んで浙江省の天台山にこもり独自の天台教義を大成した。
日本への伝播
仏教の伝来については551年欽明天皇13年説と538年宣化天皇三年の二説あるが、最近の研究では後者が評価されているが、渡来人の間ではそれよりも早くから信仰されていて、推古天皇の時代になると聖徳太子が登場。
物部氏ら古くからの豪族勢力を排して、蘇我氏とともに国家的に推進するようになった。国家鎮護、除災招福即ち農民たちの五穀豊穣と病魔調伏と国家の安全を願ったのであるが、聖徳太子の功績は大きい。
密教の展開
最澄(766年)は東大寺で具足戒を受けた国家公認の僧であったが唐で仏法を学ぶことを願って許され804年に唐に渡った。このとき遣唐船には空海も乗船して居たが両者はまみえることが無かったという。当時中国では密教が流行して居り、最澄は天台教義と禅法とを学び、密教を授かり多くの典籍をもち帰った。806年には天皇の許しを得て天台宗が開宗された。しかし新しい宗派は南都六宗から批判を受ける。とくに天台宗が重視する法華経の一乗思想が攻撃された。
最澄の没後比叡山に延暦寺の寺号下され、最澄に伝教大師という号が与えられた。
空海(774年)は四国の石鎚山や奈良の金剛山などで修業に励んだ後、出家。
日本の仏教
日本の仏教は神道と互いに影響を及ぼしあいながら文化的伝統になってきた。
百済第26代の聖明王が欽明天皇に経典を贈った538年が最初とされるが、それ以前からうけいれられた。仏教受容を進める蘇我氏と、それに反対するそれに反対する物部氏、中臣氏(神祇祭〇担当の氏族)との争いもあったが鎮護国家を目的として奈良仏教が推進され6世紀末には仏教興隆の詔が出された。
聖徳太子の働きで寺院の建築や経典の注釈がなされた。奈良時代(中国では唐)に体系化された仏教が中国から伝えられ南都六宗が成立した。
① 唐で学んだ高麗の〇漢が来日して広めた三論宗
② 唐に渡った道昭たちが伝えた法相宗
③ 唐に留学した智蔵が伝えた成実宗
④ 法相宗の付属の宗として学ばれた倶舎宗
⑤ 唐から来日した鑑真が伝えた律宗
⑥ 唐で学んだ新羅の審〇が来日して伝えた華厳宗
以上を南都六宗というが現在の宗とは異なり各派の研究会派で六宗又は六衆といわれた。
神仏習合と本地垂迹説
古来のカミ信仰と仏教が影響しあい、神仏習合(神道と仏教が融合していくこと)が奈良時代に始まった。これは神もまた苦しき存在であり、それが仏によって救われる「神身離脱」の考えに基づいている。
本地垂迹説とは仏や菩薩がこの世の人々を救うために仮の姿をあらわすという考えで、仏や菩薩が本地(本体)、神を垂迹(仮の姿)とする。これによって、それまで図像化されることのなかった神が神像として描かれたり神像体として祀られるようになった。
明治政府の神道重視政策
王政復古をスローガンとした維新政府は太政官と並べて神祇官を置き宗教問題を国が直接扱おうとした。特に国家の宗〇を行う神社を決めその地域の神社の氏子で神社への崇敬は国民当然の義務であるとの考えが強まった。また神社神道を中心的な宗教とするため明治政府は神仏分離を行い、神社と寺院、神職と僧侶を区別、一部の地域では仏教を排斥する廃仏毀釈の運動を展開し、地方によっては貴重な仏像や仏具が破壊された。
維新政府は仏教よりも神社神道との結びつきを強め、それまでの天皇家と仏教の深い結びつきを弱める方針を出し13宗56派が公認された。即ち法相宗、華厳宗、律宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、臨済宗、真宗、曹洞宗、時宗、黄檗宗である(成立順)。
主な宗派の成立
「天台宗」 最澄が唐より帰国し桓武天皇の厚い保護をうけ比叡山に延暦寺を建立。法華経にすべての宗教が統一されることを説いた(中国天台宗を説いた智顗の教え)。小乗式の法相宗と対立した。朝に題目夕べに念仏といわれる。朝は般若心経を唱え夕の勧業は阿弥陀経を唱える。天皇家は天台宗である。
「真言宗」
空海によって唐、長安の清竜寺の恵果から直伝された真言密教は大日経、金剛頂経という密教の正統的経典にのっとった由緒正しいものであった。
空海は大日如来を第一の祖とする真言宗の相承で恵果の次に位置づけられている。真言宗は京都の東寺、高野山などを中心に貴族社会に広まり一般庶民にまで浸透していった。覚鑁(興教大師(1095~1143年))は密教と浄土信仰とを習合させ大日如来と阿弥陀如来同一と説き紀州の根来寺に隠遁したが焼かれて京都東山に移り新義真言宗の祖と呼ばれている。806年に膨大な密教の典籍、仏像、マンダラなどをもたらし、帰国後は朝廷が与えられた。東寺や高野山などを根拠地として精力的に活躍し「十住心論」「即身成仏義」などを表して独自の密教を開いた。嵯峨天皇から許され819年から寺院建築に着手した。空海は医学や科学など多様な分野で活躍し、貴族社会から一般人まで広く尊崇をうけ、奇跡的内容の伝説が多く伝えられている。没後921年、弘法大師と諡号された。
分派 覚鑁(1095~1143年)
覚鑁は鳥羽院の保護を受けて1132年に高野山に開創したが、周囲の反発を買って退任し紀州の根来寺に隠遁した。浄土門の庶民への浸透と人気を察し密教と浄土信仰を習合させなければ大衆から疎外されるとの危機を感じ大日如来と阿弥陀如来は同一との考えを主唱した。根来寺が焼かれたので、京都東山に移り、知院(智山派)を建て布教し新義真言宗の祖と呼ばれている。
1690年興教大師と諡号をうけた。真言宗は高野山(古義)を含め18派がある。
「臨済宗」
栄西(1200~1215)は備中吉備津神社の神職賀陽氏の出であるが比叡山で密教を学んだ1168年と1187年の二回宋に渡り臨済宗黄龍派の禅を学び日本に伝えた。
京都に建仁寺を建て臨済宗を開いた。現在妙心寺派など14派の教団が主流。
京都五山 天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺
鎌倉五山 建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺
各五山が置かれたが南禅寺はこの十寺の上位に置かれた。
「曹洞宗」
道元(1200~1253年)
内大臣久我通親の子として生れたが幼くして両親をうしない、13才のときから比叡山で学んだ。1223年宋に渡り天童山で如浄の弟子となり、帰国後しばらく建仁寺などに滞在したが1243年越前に向かい永平寺を建てた。「正法眼蔵」を撰述し弟子を養成した。ひたすら座禅する「只管打坐」という言葉に表現されている。禅を釈迦直伝の唯一の正法と位置づけ出家を重視した。禅は武士層に各地に禅寺が建立された。
「浄土宗」
法然によって1175年に開かれた。唐の雲蔦、道〇、善導、そして日本の源信へとつづく教えであるが、なかでも善導の思想から決定的な影響をうけている。
浄土はもともと仏の住む場所をさすが阿弥陀仏の住む西のかなたの極楽浄土が有名である。阿弥陀とは無量の寿(年齢)無量の光を意味する。極楽浄土の思想はクシャ王朝時代のインドで100年頃に成立したといわれる。
主要経典は「無量寿経」「阿弥陀経」「観無量寿経」の浄土三部経である。
唐ではサンスクリット(梵語)やインドの学問を学び、密教の伝授を受けて真言密教の第8視を継承した。806年に帰国し膨大な密教の典籍、仏像、マンダラなどをもたらした。高野山を道場とすることが嵯峨天皇から許され819年から寺院の建立に着手した。空海は医学や科学など多様な分野で活躍し、貴族社会から一般家庭
「浄土真宗」(一向宗)
親鸞(1173~1262年)は9才にして比叡山で学び念仏を行したが、得心がいかず1201年に京都の六角堂にこもり百か日の祈願をかけた。その95日法然に問えとの示しがありただちに法然を訪ねた。やがて親鸞は法然に絶対の信頼を置くようになる。
1207年法然が四国へ流罪、親鸞は越後に流された。その地で恵信尼と結婚した。僧の肉食妻帯を認める在家宗教としての特質がこのとき生まれた。
親鸞の曽孫覚如(1270~1351年)が親鸞の墓所を寺院化して本願寺と号した。
親鸞は1211年流罪を許されるが晩年まで京都に帰らず東国で伝道をはじめ常陸国に移り住んだ。
8代目蓮如は越前吉崎にて布教。大乗の門徒集団を育て、教義拡大と財政確保で斜陽の本願寺を再興した。
本願寺は山科、石山(大阪城の地)などに移転を繰り返したが、十一世の顕如が豊臣秀吉から現在の西本願寺が寄進された。ところが、顕如の長子教如が徳川家康から土地の寄進を受けて1602年に分立し、末寺も二分された。それを東本願寺といい、西本願寺にたいする。西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山、東本願寺は真宗大谷派の本山である。
「日蓮宗」
日蓮によって1253年に開かれた宗派。日蓮(1222~1282年)は安房国に生まれ清澄寺と比叡山で学び奈良や高野山などをめぐったが1253年清澄寺に帰り「南無妙法蓮華経」と唱えて法華経の伝道を宣言した。法華経に帰依しなければ内乱や他国からの侵略が起こるとして「立正安国論」をあらわした。
はじめ法華宗と称したが、天台宗から異議が出たので、天台法華宗と区別し日蓮宗とした。法華宗の解釈のちがいから多くの分派が生じた。日蓮は他宗批判や過激発言で有名。
伊豆の流罪を経て各地で布教、池上で没す(のちの本門寺)
「黄檗宗」(臨済宗楊岐派)
中国では1644年に明が滅亡し清朝に代った。そのため長崎には福建省を中心に多くの亡命者が渡航し、寺院を建立して先祖のまつりを行った。かれらが福建省の黄檗宗万福寺から招いたのが隠元(1592~1673年)である。隠元は多くの弟子や工人を連れて1654年に来日。江戸幕府にも歓迎されて宇治に寺地を与えられ、万福寺を開いて黄檗宗の祖となった。持ち込んだ作法、建築、料理など日本文化に大きな影響を興えた。
「時宗」
時宗は一遍が開いた。一遍智真(1239~1289年)は伊予松山の出身。長じて太宰府の聖達に入門して浄土信仰に入った。その間にも各地の霊場や山岳寺院などで修業を重ねている。文永十一年(1274年)熊野権現から、六十万人極楽往生というお札り(賦算)と念仏をとなえながら踊るいわゆる踊り念仏であった。時宗教団の主流は相模藤沢の清浄光寺(遊行寺)を根拠地とする遊行上人のグループで構成されたが、お札を配りながら廻った室町時代には教勢は延びたが、真宗の拡大の影響などにより衰退し、現在は四百ケ寺を数えるほどである。
二月二六日 月曜日 きょうから心機一転 |
夕刻に所用がやっと終わったので、寝床に入りトリスウイスキーをグラスいっぱい口に流し込み、おもむろに藤沢周平著「漆の実のみのる国」を開く。どんなに疲れていても眠くても活字に目を通さずにいられないのは宿痾である。
6時にやっと入眠し、目が覚めたら今日の午前7時だった。実に13時間眠っていたことになる。普段の睡眠では、脳内に北の荒波がおしよせるような陰鬱夢をみたり南の島の陽光のもと、沖合へ艀が向かうほのぼの夢をみたりするのだが昨晩に限ってはそういうことは一切なかった。
二月二四日 土曜日 無題 |
校長及び教頭と約一時間、「永井麟太郎の作品を愉しむ会」についての打合わせをこなしていた。
二月二二日 木曜日 寺めぐり |
↓午前6時半にフルーツラインに立った。昇る朝陽に照らされる大雪原・・この時だけは、雪国生活者で良かったと思うのです。 |
あわら市内在家寺院宗派別一覧(高戸甚右衛門氏)
真言宗 高野山真言宗 安楽寺 北潟
高野山真言宗 清光寺 重義
智山派 総持寺 花乃杜1丁目
教授院 角屋
曹洞宗 竜雲寺 中番
竜沢寺 御簾尾
正端寺 十日
法華宗 本門流 日源寺 瓜生
日蓮宗 妙隆寺 市姫2丁目
妙晃寺 二面
浄土宗 松龍寺 前谷
納心庵 笹岡
真宗 仏光寺派 称運寺 笹岡
智徳寺 田中々
三門徒派 専教寺 柿原
山元派 願成寺 堀江十楽
その他は、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、真宗高田派。
芦原 金津 計
本願寺派 12 12 24
大谷派 9 12 21
高田派 6 1 7
計 27 25 52
単立 1 1 2
旧芦原町 温泉地区 浄泉寺 浄土真宗本願寺派 二面
善久寺 真宗大谷派 温泉3丁目
安養院 真宗高田派 二面
妙見寺 単立 二面 4寺
山方里方地区 善勝寺 浄土真宗本願寺派 番田
長法寺 浄土真宗本願寺派 布目
養善寺 浄土真宗本願寺派 二面
円光寺 真宗大谷派 舟津
教善寺 真宗大谷派 田中々
佛言寺 真宗大谷派 田中々
法音寺 真宗高田派 井江葭
智徳寺 真宗仏光寺派 田中々
願成寺 真宗山元派 堀江十楽
清光院 高野山真言宗 重義 10寺
本荘地区 阿弥陀寺 浄土真宗本願寺派 上番
興源寺 浄土真宗本願寺派 下番
浄光寺 浄土真宗本願寺派 轟木
貫心寺 真宗大谷派 下番
福円寺 真宗大谷派 下番
龍雲寺 曹洞宗 中番 6寺
新郷地区 善徳寺 浄土真宗本願寺派 中浜
寂静寺 真宗大谷派 北本堂
専福寺 真宗大谷派 河間
教授院 真言宗智山派 角屋 4寺
北潟地区 照順寺 浄土真宗本願寺派 浜坂
白蓮寺 浄土真宗本願寺派 北潟
浄満寺 真宗大谷派 北潟
願教寺 真宗高田派 北潟
顕正寺 真宗高田派 北潟
勝願寺 真宗高田派 北潟
要願寺 真宗高田派 北潟
安楽寺 高野山真言宗 北潟 8寺
波松地区 慶照寺 浄土真宗本願寺派 波松
正賢寺 浄土真宗本願寺派 波松 2寺
旧金津町 金津地区 教順寺 浄土真宗本願寺派 市姫2丁目
西徳寺 浄土真宗本願寺派 大溝2丁目
善蓮寺 浄土真宗本願寺派 市姫2丁目
妙安寺 浄土真宗本願寺派 市姫2丁目
明善寺 浄土真宗本願寺派 花乃杜1丁目
永宮寺 真宗大谷派 市姫2丁目
永臨時 真宗大谷派 春宮3丁目
願泉寺 真宗大谷派 花乃杜1丁目
正端寺 曹洞宗 十日
妙隆寺 日蓮宗 市姫2丁目
聖徳寺 単立 稲荷山 12寺
伊井地区 専念寺 浄土真宗本願寺派 桑原
応蓮寺 真宗大谷派 伊井
法敬坊 真宗大谷派 矢地 3寺
坪江地区 乗泉寺 浄土真宗本願寺派 中川
蓮成寺 清王 前谷
西光寺 真宗高田派 中川
称運寺 真宗仏光寺派 笹岡
龍澤寺 曹洞宗 御簾尾
日源寺 法華宗本門流 瓜生
松龍寺 浄土宗 前谷
妙心庵 笹岡 8寺
細呂木地区 園超寺 浄土真宗本願寺派 蓮ヶ浦
善照寺 浄土真宗本願寺派 細呂木
浄林寺 真宗大谷派 山十楽
西善寺 真宗大谷派 清王
照厳寺 真宗大谷派 清王
法専寺 真宗大谷派 清王
専教寺 真宗三門徒派 柿原 7寺
吉崎地区 吉崎寺 浄土真宗本願寺派 吉崎
吉崎別院 浄土真宗本願寺派 吉崎
浄覚寺 真宗大谷派 吉崎
願慶寺 真宗大谷派 吉崎
吉崎別院 真宗大谷派 吉崎 5寺
旧芦原町 34寺
旧金津町 35寺
計 69寺
二月二一日 水曜日 春近し |
二月二十日 火曜日 無題 |
二月十九日 月曜日 無題 |
そうだ。僕も遺書を書こう。
おいおいこのブログにアップするのでご覧あれ。
永井麟太郎作品集
作品
プロフィール
麟太郎は明治四十年旧金津町に生まれた。生家には今もゆかりの方が住んでいて永井家の方は他にも健在。
母を三才の時に亡くした彼は祖母に育てられた。福井師範学校卒業後金津東小学校と高椋小学校に数年勤務した後上京したくさんの作品を残した。それらの中から私達のふるさとを詠んだものを選んでみた。
詩の部
最初の詩は麟太郎が元旦に賀状として使った作品三編。昭和五十九年と六十年の年賀状に印刷された。「雪」「たで」「失意」。次は彼が金津小学校三・四年生の頃の作品で幼少の頃からすでに文才があったように思われる。次は児童劇「にわとりのとさかはなぜ赤い」の中の作品。
A 短歌の部 短歌集「かりやす」」より
1「刈安峠」
駿河べの 稲田はいまだ 穂に出でず 越前はやも 稲干してあり
水さらさら 刈安川の みなもとは 神代ながらに 水澄みに澄む
母のみ顔 知らで育ちし われなれど 天澄む時は 天に座す見ゆ
あの声は みみずが鳴くぞと 教へたる 祖母のみ年を病みつつ 越えぬ
かまど焚く 薪折るたび 傷つきて 血はにじみたり 祖母のみ手はも
たらの芽の 食べられることを 教へたる 弟死せり 南の島に
いつ帰るとも 定まらぬ夫待ち いまは子を待ち 妻疲れたり
姉は子を 妹に託して アメリカへ しばしの留学に 発ちてゆきけり
山寺の 尼僧が時を 告げし鐘も たすきをかけて 戦さに征きぬ
3「ふる里の風景」
椎の実を 拾はむとして いにしえの 歴史の貝殻 ふめばもろしも
弟と たらの芽つみし ことありぬ 千束へゆく ここの林に
撫で仏 膝病む人の 多くして 膝のうるしの 剥げてまします
4「ふるさとの味」
北潟の 湖よりとれし 公魚を 食べ飽きるまで 食べるたのしさ
醤油のかび 白く浮きしを とりのぞき ご飯にかけし 頃のなつかし
B 詩の部
雪
野仏を埋ずめて
雪つもる
熟柿を落として
雪つもる
九頭竜川を残して
雪つもる
坂井平野に
雪つもる
蓼の花は
ぼくらの花 どこにでもいる
めだちがらない
月の夜も夢をみない
みぞそばが枯れても
涙をこぼさない
みそぎするいわれはないが
素直に雨にぬれている
空にむかっていななく
赤まんま 地に満てよ
来意
「舌切雀の爺さんおいでかい おめでとう。」
「これは、これは桃太郎の爺さん おめでとう」
「おめでとう。おめでとう」
(子供の頃の詩)
死んだ母ちゃん思い出す
白い雲の間から
一度でいいから
僕の名を呼んで欲しい
お母ちゃん!
音楽劇
この音楽劇は氏の多くの作品の中の代表作といわれているもの。
「火の神の歌」「にわとりの歌」「木の歌」。最後は「花売り」。これは永井麟太郎作詞、今川節作曲の独唱曲として昭和六年四月十日に作られた。二人が初めて出会ったのは丸岡町高椋小学校の音楽室。生まれたばかりの作品を自ら歌った節。それを聞いた麟太郎。詩人は二十四才、作曲家二十二才。郷土の若い二人の出会いを物語る作品「花売り」。
火の神の歌
みきとみきとをぶっつけろ
まさつだひをはけ もえあがれ
わしはひのかみ ひのつかさ
えだとえだとにひをかけよ
みきとみきとにひはもえろ
ひのきだひをふけ もえあがれ
わしはひのかみ ひのつかさ
花賣り
花を召せ
声あり あさぼっけ
猫柳
黄水仙
涙の化れる花を召せ
今日も通るか 教へ子は家近く
師を憚りて 声をおとせり
花を召せ
花を召せ
雪ふるに声あり遥かなり
雪に咲く
胸に咲く
月より青き花を召せ
二月十六日 金曜日 もう週末か |
「既に70歳目前の俺になぜ?」と不思議だった。
若い頃の私は確かにもてた。金津町議会議員時代は「議会のアランドロン」と皆から呼ばれ、あわら市議会議員時代は「議会のキムタク」と皆から呼ばれるほどだったが、それも昔の話だ。
しかし鏡を見るとそのころの名残があって、年に負けない気品とセクシャリテイが顔を彩っている。
ケッサクなのはチョコレートにレッドの小瓶がついていたこと。
二月十一日 日曜日 きょうは旗日 |
疲れ果てた未明にユーチューブで映画・「大岡昇平原作・野火」を見る。見ていて思い出したのが、俺の親父の遺書「思い出の記」で、その遺書に出てくる三国の大森さんが「わしやあんたの父ちゃんと大岡は軍事行動を共にしたことがある」と言っていた。
二月十日 土曜日 無題 |
それはさておき、石牟礼道子が亡くなった。
「知の巨人」の一人として注目を浴びた人で、70年代の初め、全共闘運動が収束し三島由紀夫自決事件などが勃発したあとで公害問題が世間にクローズアップされたが、水俣病を経済近代化故の矛盾として告発したのが彼女の著書「苦界浄土」で、この本を読んだ時の衝撃は今も忘れられない。
その影響からか、少しでも水俣病患者の救済に役立つことは出来ないかと、大晦日に京都・清水寺参道で水俣蜜柑を売ったり三国の寺院本堂で役者による「水俣一人芝居」上演を手伝ったりした。詳述すると長くなるのではしょるが、20代後半から手話を30年以上やり続けてきた一因ともなっている。
二月四日 日曜日 きょうは投開票日 |
初日の晩に開かれた公開討論会で、候補者三人の立ち位置というか言葉の使い方、個々の政策に関する具体的な勉強度、気概のレベル、ユーモア等がアバウト分かった。やはり、選挙は「お願いします選挙・連呼選挙」ではなく、公開討論会に尽きるだろう。連日やることが出来ればよかった。
2月3日 土曜日 もう週末か |
帰宅してから、山本兼一著「夢をまことに」を読み進める。この本の帯にはこう書かれている。
「ものづくりに命を懸けた日本のダ・ヴィンチ、情熱の生涯 江戸時代末期・・・鉄砲鍛冶でありながら、飛行船や潜水艇までつくろうとした国友一貫斎。さまざまな役に立つ道具を究明・考案した男の「夢をまことに」するための奮闘記。」
2月2日 金曜日 間違い |
してみると僕は一歳間違えて生活してきたわけで、これも脳内出血による脳神経のマヒ或いは加齢による認知力の衰退に原因を求めることが出来ようが、だからといってジタバタはしない。「人生は永遠のなかの一瞬」という宮本輝の金言を素直に受け入れるだけである。素直に受け入れることで、心の平安を保つことが出来るのである。
平安と言えば平安時代で、平安時代と言えば藤原道長おじさんで、全盛期の彼は絶対的権力のもとに多くの富と女性を手に入れ、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることの 無しとぞ思へば」という和歌をつくって我が世の春を謳歌したのである。
誰も道長にはなれない。現実的には、矛盾に満ち満ちた世界のなかで、ささやかな幸せか悲しみを心に投影していくかないのであろうが、そこに物語をつくることが出来れば、つまり凝縮された言葉で詩をつくるか大海を漂う拡散された言葉で小説をつくることが出来れば張りのある人生と言えるが、その才のない自分を悔しく思う。発信者になれないのだから受信者に徹底するしかないのだけれどもこれはこれで意外と楽しいのである。