18年06月日記
昨晩は5人が来訪。藤田良二郎氏講演についての打合せが議論のテーマとなった。 最近僕は思うのだが、講演会などの案内チラシを知人宅に持って行くと、「行きたいけど用事があっていけないわ」の返事が半数近くあって、ならばビデオ撮りが必要なんじゃないか。新聞のコマーシャル欄には一万円くらいで動画撮影機が売られている。それくらいならなんとか購入したい。酒煙草をしばらくだけがまんすれば可能なのである。
質問者側にも、答える側にも「???」を感じた。議員時代に戻ったような錯覚を起こし、思わず手をあげそうになった。 さて 鳥屋の酒 酔うてはさめて 面白し 柏翠 「伊藤柏翠自伝」読了。第四章で森田愛子のことが詳しく出てくる。私は数年前に森田愛子の生家の改修設計をしているので、とてもなつかしかった。三国「永正寺」のすぐ近くです。
将軍綱吉の死と共に新将軍が登場。 犬並びに生類の憐みを廃止。政府重役の更迭も断行され、柳沢一党は屏息、新井白石、間部詮房の時代に移る。ついで白石が大赦の建白をし、第一回の特音が下った。 その中に、赤穂義士関係の遺族が入っていたことは、云うまでもない。遠島申渡しを受けながら、幼年の故を以て、執行猶予中の遺子も、この際、、全員無罪となった。・・・大石はじめ一党は、このときまさに蘇った。やがて人気は沸騰し、忠魂大勇の典型となる。江戸の市民が、日本橋の高札を引っこ抜いて、河中へ擲ったのに端を発したとは云え、その当時とは朝も野を、まったく一変したのである。 左京の局が帰ってから、瑶泉院は長矩の位牌をまつる仏間に座って、一夜を明かした。 遠い昔の、城と海と岬のある朝ぼらけが彼女の目に浮かんできた。 「阿久利・・阿久利」 と呼ぶ長矩の声がきこえるようだった。 年は七つ違い。が、まだ幕府から縁組許可の下りない筒井筒の頃で・・・・。 仰ぐと、朝焼けの空に、萌黄に煙る鷹取峠が聳えている。 若い日のことを思うと、余りの美しさに、自分がまるで、その頃の阿久利になったような気がするものだ。 彼女はひとり、香煙の中で、それからそれと、あの恋しかった頃の思い出の絵巻を、ひろげていった。 (完)
そして 来場者のうち、杖を必要とするのは森川先生と私の二人だけだった。 更に飲み会が盛り上がってくると、私は、杖に頼っても立っていることが出来ず、車椅子姿となった。 はやいはなし、私は肉体劣化の先頭を走っているのである。 悲しいことだと思われるかもしれないが、さにあらず。皆が率先して車椅子を押してくれる。と云ってもほとんどが女性だったが、昔の美形は今も美形であることがよくわかった。 それはともかく、私は王様になったような気分。王様と私ユル・ブリンナーだ。
ドアをノックする音で目が覚めた。時計を見ると5時半だ。「こんなに朝早くから誰が来たんや?」と思いながらドアをあけたら、30代の女性・Aさんが立っている。 私:「こんなに朝早く?」 Aさん:「今、夕方の5時半よ」 ・・・そうなのだ。夕方を早朝と間違ったのである。上半身裸の私は、とても恥ずかしかった。
ということで きょうもシンプルに生きていこう。節酒、節煙を維持しよう。
昨晩は我が事務所に5人が集まっての会議。 藤田良二郎氏講演会御案内 さて
日曜日に開かれた明社定期総会の模様です。 ↓染色画家・加藤さんは若々しくて、81歳とは思えない。美術への情熱が人を若くさせるのだろう。 ↓ひるがえって、聴いている皆さんのほうが年寄りに見える。 ↓ 余談だが、挨拶をする私の車椅子姿も貫禄があって悪くない。 またまた余談だが、この日の私は7時間禁煙を実行できた。人間死ぬ気になりゃできるのだ。私は私自身を褒めてあげたい。帰宅してから吸ったメンソール煙草(別名インポ煙草)のうまかったこと。
ここ数日車椅子のお世話になっている。杖では、倒れるのではないかという不安感をどうしても払拭できないのに対して、車椅子だとその心配は全然ない。 きのうの「平成30年度あわら市明社定期総会」がその総決算で、車椅子に座ってのマイク挨拶は人生で初めてだし、もう人前に顔を出すことなどないだろう。 さようなら皆さん、こんにちは車椅子さん。 ウイキペデイアより抜粋 目次[非表示]歴史椅子と車輪という発明が存在した地域から、自然発生的に生まれたと考えられており、その歴史はかなり古い。有名なところでは、障害者ではないが諸葛亮が三国志演義の中で、車輪のついた椅子に乗っている描写がある。三国志演義は明の時代に書かれており、この時代の中国には、車椅子という発想が存在していたことを示している。 自走式タイプが初めて考案されたのは、1650年、ステファン・ファルファという人物によって(ファーフラーとも。自身が下肢に障害があった模様で、自走といっても今のような後輪を直接回すのではなく、前輪をギヤ駆動のクランクで回す形式であった)。これらは、障害者も利用したが、障害者でない者も利用しており、当時は「車椅子は障害者の乗り物」という現代人の常識とは異なっていたようである。ヨーロッパでは、18世紀のはじめ頃から車椅子が商業的に製造されていたと考えられている]。 日本では、中世・近世には疾病などで歩行が困難な者が使用する「土車」「いざり車」と呼ばれる車椅子の原型と呼べるものが存在していた。箱もしくは板に四つの車輪(両方とも木製)の付いたもので、使用者はあぐらなどで座り、手に持った棒で地面を突いて、もしくは取り付けた縄や手押し部分で介助者が動かした。これに乗って寺院巡礼などの長期旅行をする者もいて、記録(浄瑠璃作品や浮世絵など)が散見され、また実物が各地の寺院に残っている。明治以降では大正初期からアメリカやイギリスから輸入された記録がある。また、1920年頃につくられた「廻転自動車」と呼ばれた物が日本国内で最初に開発された西洋式の原型とされている。ただし、これは文献には残っているものの、正確な製造者や製造年は分かっていない。日本で製造したとはっきり認められるのは、同じく1920年頃、北島藤次郎(北島商会(現、株式会社ケイアイ)創設者)により作られたもので、籐製であった。これらは戦傷で障害を負った軍人や入院患者のために、一部の病院で用いられたようである。 第二次世界大戦では、多くの軍人や民間人が負傷した。戦後は義肢などとともにその需要が急激に高まっていたが、当時はあらゆる物資が不足しており、これらの障害者になかなか行き渡らなかった。1951年に制定された身体障害者福祉法により、徐々に普及が進んだ。 1964年に行われた東京パラリンピックで欧米製の優秀さを目の当たりにし、これをきっかけに日本でも性能が急激に上がることとなる。 1990年以降、「高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律」(通称「ハートビル法」)などの制定により社会のバリアフリーが推進され、ノーマライゼーションの観点から車いすを用いての利用、移動を考慮して床面のフラット化(段差解消)、ゆるやかなスロープ、車いすの幅を考慮した開口部の広いドアなどを設備した施設が増えている。
行く春や 知らざるひまに 頬の髯 漱石 ということで、是非お越しください↓(無料)。 講演会日程
Aが帰ったら、入れ替わりのように年増女性Bが来訪。 「創作の森の珈琲ただ券があるのよ」と言う。早速連れていってもらった。美味い珈琲だった。
土日の間に読んでしまいたい。 |
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