18年07月日記
一昨日は長谷川さんの講演も無事終了。来てくださった多くの(特に女性の)方々、ありがとうございました。 明日から八月なので、心を新たに、日記を毎日書き込むつもりです。 さて 電子煙草に切替えて今日が四日目。軌道に乗ってきました。つまり私は煙草とおさらばしたのです。これで私の事務所から、煙草の匂いが消えていくでしょう。
とりあえず、生きていてよかったと思う。
最近では一番面白かった本で、特に最終章の石見銀山の採掘権を巡る日本VSポルトガルの戦いの部分では心が溶けそうになるくらい興奮した。 以下オビを紹介 石見銀山を死守せよ! ザビエルが、日本にもたらしたものは!? 迫りくるポルトガル大艦隊 迎え撃つは薩摩の安次郎と 倭寇の大海賊・王直船団・・・ 戦国史を根底から覆す 驚天動地の時代活劇巨編!! 「封は男たちを繋ぎ、家族を包む。強くて大きな結びつきだ。(中略)わしはわしの封を誇りに思っている。なによりの宝だ。金銀、富貴などはその余禄だ」 時は戦国・・・宣教師ザビエルと同時に日本に潜入した男がいた。ポルトガル国王の密命「石見銀山占領計画」を帯びた特任司令官バラッタは石見銀山を訪れ、占領作戦を展開させる。ザビエルの教えに疑念を抱き、破門された安次郎らは、バラッタの野望を砕くため倭寇の大海賊・王直に命がけの談判に及ぶが・・・。
この数カ月の懸命な努力を結実させなければならない。
その時に気づいたのは飾りのレベルが落ちているということ。技術を持っていた年寄り連中が亡くなっているからだろう。
なき人の 宿にかよはば ほととぎす かけて音にのみ なくと告げなむ 古今和歌集
しかしながら、その分だけ習い始めたころから受けた様々な思いが濃く蘇ってくる昨今だ。僕にとって第一外国語は明らかに手話なのだが、明治期に入り古川某によって手話が法制化されるまでは手まねであって、ということは肉体言語である。 手まねは健聴者にとってアクセサリーでしかないが、手話は明らかにそのひとつひとつの動きに意味が込められている。 考えてみれば日本人が音声言語を持つようになった縄文期までは手まね交信だったのだから、日本手話は日本語だと言えるのかもしれない。 あわら市議会は何年か前に「手話は日本語」だと議会決議したが、ただそれだけのことで、個々の議員は何の努力もしてないように見える。多分、もう忘れているのだろう。
道官さんの子孫から、長瀬正枝著「お町さん」を借りて熟読しあるいは加賀市の現場を訪ね歩いての撮影写真と共に抜き書きしてつくった「お町さん」は15年ほど前のもので、僕の記憶に間違いがなければ、その時に訪ねていった人が篠原氏。 先日行われた同窓会写真。・・・貫禄がある。 金津町時代は金津のキムタクとよばれ、あわら市になってからはあわら市のアランドロンとよばれてきたが、これからはジャンギャバンとよばれるだろう。 それにしても、私の周囲には何故美形が集まるのだろうか。よくわからない。
中南米あたりから来て巨人育成選手となり、そこから支配下登録された苦労人。巨人は嫌いだけどこの選手はよかった。 伏し目がちにたどたどしい日本語で謝意を伝えるのだが、考えるに、たどたどしさは必ず間を伴う。 活字にすると行間があるということで、間のなかに思いをより正確に伝えようとする姿勢がみえる。頭のてっぺんからの饒舌言葉ではなくて、胸底からの絞り出しである。これこそが謙虚さだ。 そして、謙虚さこそ男の色気だと僕は思う。
昭和16年12月のパールハーバー攻撃以来、山本五十六率いる日本海軍は南太平洋の島々を次々に制圧し、遂に米軍の要塞基地であるミッドウェー島制圧にパールハーバーの再現だとばかりに照準を定めた。しかしながら米の国力の深さを熟知し、日米開戦に反対だった山本には不安がつきまとって離れなかった。事実、昭和17年のミッドウェー海戦で日本海軍は大打撃を被り、それが南太平洋の島々の地獄絵図へとつながっていく。 という史実に加えて臨場感を出すために森村は「降旗圭」「ロバートウッド」「中川寛子」の架空の敢えて云えばヒーローヒロインを登場させている。昭和17年と云えばわずか70数年前だ。天空の星々のきらめきが、海の藻屑と化した数千の若い命の涙の滂沱のように思えてならない。
新田塚郷土歴史研究会編「ふるさと越前の歴史発掘」を読み終えた。なかに、円道昭一氏の「畑時能と応蓮寺」も収録されている。 以下紹介 畑時能は、武蔵国の生れ(一説に加賀福田村の生れともいう)で、南北朝時代には、新田義貞四天王の一人として、義貞の弟、脇屋義助等と活躍した、南北朝時代の勇将であった。 新田義貞の戦没後は、三国の湊城を根拠地として足利方の斯波高経と戦う。最後の拠点として鷹巣城(福井市高須町を死守して南朝のために孤軍奮戦を続けたが、勢力挽回の望みを遂げ得ず鷹巣城を逃げ出し、平泉寺豊原寺の中間地点に当たる鷲ケ岳(勝山市北郷町)に立てこもり戦うも興国二年(一三四一)十月二十五日南朝方最後の武将として壮烈な戦死を遂げた。享年四十一。畑時能は楠木正成、新田義貞、脇屋義助等と共に南朝忠臣としての生涯を終えた。 畑時能の一子、惟能は父の菩提を弔うため豊原華蔵寺にて出家し、玉泉坊道教と号した。 戦乱が収まった後、鷹巣城址に赴き、一小庵を建て応蓮庵道教と称え、父時能及び藤原藤房公の菩提を弔っていた。 興国五年(一三四四)に、選ばれて伊井村の神明宮別当職に就くことになったので同年冬、高須の庵を閉じて伊井村に移住した。 時が経ち、正平十年(一三五五)に伊井村宇堂の森と云うところに一閣を建立し高須山応蓮庵と号し、同時に畑家の墳墓とした。 天正元年(一五七三)織田信長が朝倉攻めのため越前に侵攻した際、応蓮寺も神明宮も共に破却せられた。 慶長元年(一五九六)に応蓮寺は宇堂の森より現在の字中舎に移った。 寛文二年(一六六二)にいたって、東本願寺の末寺に加わり、高須山応蓮寺として申請し認可せられた。 寛保四年(一七四三)には、将軍代参並びに藩侯の参内寺院となった。 明和四年(一七六七)芝原村勘解由次官藤原朝臣渡辺藤兵衛は、畑時能菩提のため梵鐘を寄進した。 安政元年(一八五四)に寺社奉行安藤長門守より海防のため寺院の梵鐘を幕府に召し上げられるとの沙汰が出された。 この時、当寺の梵鐘は畑時能菩提供養のため寄進せられたものであるとの由来を具申して、取り上げを免ぜられた。 玉泉坊道教の開基、高須山応蓮寺は畑時能の菩提寺として今日に至っていると共に畑時能の守り本尊と鉄笛を戦火や福井震災など幾多の災害に遭いながらも応蓮寺歴代の住職は寺宝として大事に守り、後世に伝えてきた。 畑時能に叙位 大正天皇ご即位の大典に際して叙位のご沙汰が出され、大正四年(一九一五)大正天皇から畑時能の勤王をおぼしめされ正四位を贈られた。 時能の忠魂を慰めるため、波多野宮内大臣より、山号大額を応蓮寺に寄贈された。号名は「高須山」であり、その額面中に「南朝忠臣畑時能菩提寺応蓮寺の為」と付記。本額は現に本堂正面に掲額してある。また久我公爵は畑時能神号副を、万里小路伯爵は忠魂堂額を、藤枝男爵は短冊を、荒木寛畝氏は伏紗画を寄贈されて、その忠魂を慰められた。 応蓮寺が秘蔵する白布の巻物の中に次のような誌と漢詩がある。 時能卿に御贈位のありければ ひさかたの雲いに なおもとどめけり たかすの城の たかきいさをは 男爵・藤原惟之 精忠涙痕印鉄笛 吹奏一回驚妖魔 世上多見 |
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