昨日の朝、友人ケンくんが来訪。動画編集の操作方法を教えてもらった。 私のデジカメのピクチャカードは256メガなので、約7分間の動画撮影が可能だ。それを単にパソコンに保存しておくだけならば何の問題もないのだけれども、HPにUPしようとすると、「無料動画配信ツール」を利用する必要がある。ツールには動画容量の制限があるので、刻んだり圧縮したりの編集が時には不可欠となる。 ということで、彼のレッスンで編集ソフトをなんとか使えこなせるようになり、動画ショートに「かりんて祭り」を入れ込みました。お暇な方はご覧下さい。
しかし、こんなパソコン時代が来るとは予想もできなかったなあ。 ほんの10数年前までは、製図はT定規による手書き、構造計算は電卓叩きつつの手計算、日記は大学ノートへの書き込みだったが、今は全てパソコンの箱のなかでの処理である。便利だけれども、便利の裏には危険が潜む。 橋田壽賀子が何かのエッセイで、「アナログで吸収、デジタルで発信」と書いていたのが記憶に残っている。
○教育再生会議の途中経過をネットでみることが偶にある。 よくわからないのは、「問題を起こす子どもに、懲戒の意味を込めて社会奉仕などの対応をとる」の文言が見えることだ。 何故ペナルテイの選択肢として社会奉仕つまりボランテイアがでてくるのだろう。奉仕とは無私の精神の発露だろう。無私の精神は己の胸中に確固としたモチベーションがあってこそ内実化されるのであって、何かの代償としてのボランテイアが拡まれば、実体が空洞化していくように思えて仕方ない。 私は右翼ではないし、右翼理論を書くほどのアタマも勿論ないけれども、米文化に席捲される以前の日本には結・講などを通じての共同体意識が根付いていたはずだ、とは思っている。制度ではなくて慣習としての互助が働いていたはずだと思っている。 その根は江戸期にまでさかのぼることができるのかもしれないが、それはともかくとして、この国が持っていたはずの品位が、生活の急激な変化のなかでそこなわれつつあるのは、間違いない。 つつましさ・・・日々これを実践することが私の生きる目標である。
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