2006年12月


06/12/19 (火)
 洗顔・歯磨きを終えて

昨日は、午前9時半から教育厚生常任委員会が開かれた。
夕刻に終了したあと、芦原庁舎の教育委員会へ聞き忘れたことの確認に出向き、やや釈然としないままに帰宅。事務所には何人かの議員が集まっていた。
反省及び談義のさなか、「福井坂井地区広域市町村圏事務組合」の担当職員が来訪。新聞やTVで報道された「塩化第二鉄流出事故における検査結果について」の報告書の持参である。
放流水を採取してのダイオキシン類濃度検査結果は、予想どおり低いものであり、許容基準値をはるかに下回っていた。結果としては大変よかったのだけれども、事故に至る経過を聞くと、やはりおかしさを感じる。
産廃という特殊な施設に働く職員達は、扱う品目に関するそれ相応の科学的知識を持っていなければならないし、出入りの業者にもそのことが求められる。
双方における知識の欠如が招いた事故であることを十分に認識し反省し今後を見据えていかなければならない。

汚染物質といえば、ソ連邦解体後のロシアで、はるかに恐ろしい物質使用による人倫にもとる犯罪が発生している。
http://blog.yoshiko-sakurai.jp/

○「貴方は確かに二中維持派議員だった。今でもそうだろう。しかし、「6月議会は中学校統合を多数決で承認した。にもかかわらず何故貴方は、<ストップ・ザ「統合中」HP>のリンクを貼っているのか。議員としておかしいのではないか」と言われることがたまにある。
私の意識ではゼンゼンおかしくないのである。
間接民主主義の結果に異を唱えた「2校を守る会」が対行政直接民主主義の在野軸運動を展開することは自治法で保障されており、なんら違法ではない。
「市民の声」が二中維持に向かうものであれ統合に向かうものであれリンクの依頼があれば、それに応じることが(自分自身の信条を別にして)HPを持つ市議の責務だと、思っている。

 06/12/18 (月)
 日本海にて 往時を偲ぶ

昨日の日曜日。
東京から里帰りした妹と三国の海岸線をしばらくの間、ドライブした。若ゑびす近くの松林のなかに車を停めた。折からの強風で眼の前の海は白波がたっている。ぼくの一番好きな光景だ。

今は日本列島の裏側となったこの日本海も、古代においては大陸とを繋ぐ架け橋であったし、近世江戸期においても北前船の航路として栄えた。歴史本によれば、坂本竜馬が生まれたその日に間宮林蔵が船路で三国湊に立ち寄っている。
玉手箱まで与え浦島太郎を酒池肉林で接待した竜宮城は、太平洋ではなく日本海に在った・・・と思う。
海彦・山彦の釣り針をめぐる事件簿の舞台は太平洋ではなく日本海だった・・と思う。
海はひろいな 大きいな である。

06/12/17 (日)
 次は新年会です

年の瀬ということで、昨晩は、男10人が集まっての金津中学校時代の忘年会が事務所で開かれた。
(世間を欺く職は医者・電器屋である)究極の必殺料理人ふたりががつくった土鍋の牛肉・野菜・はるさめがぶつぶつと煮えたぎるなか、「北陸政界・スキャンダル記事にちょこっとだけ名前が出てしまった牧田です」の10秒挨拶で会は始まった。

先ずは既に亡くなっている同級生たちに対する思い出話、及び黙祷。
話題は親のことへと進んだ。
60歳を目前にした同年輩の我々だ。既に親を亡くしているひともいれば健在のひともいる。健在ではなく施設の世話になっているひともいる。

正月は 冥土の旅の 一里塚
     めでたくもあり めでたくもなし
  一休宗純
なのである。

供養を兼ね、毎朝仏壇に手を合わせ経を唱えるひとも複数いた。
真宗の教義を研究しその翻訳に挑んでいる某君による親鸞の解説が始まった。彼の説得力ある流麗な解説に、焼酎コップ片手の我々一同は瞑目した。

我々は何故生きているのか。生かされているのか。
げに、死は既に生のなかにある。
だからこそ色恋などは所詮虚仮であり、我々は命そのものと向き合わなければならない。

得度し、せめて半歩でも俗世から離れたい、とぼくは思った。
笹岡県議のHP

○日曜日なので、ほのぼの捜し。
インターネットをランダムに検索していて、「さるさる日記」というのにぶつかった。
↓その日記のある日の抄
「・・・筆者はハゲネタが大好きである。
以前、ある女子社員が髪を茶色に染めた。
それに気づいた筆者は、彼女に「髪を染めたんやね」
彼女は「はい」とニッコリ。
そして、筆者は彼女に向かって頭を下げ、「俺も染めた。肌色にね」
その瞬間、ニッコリほほえんでいた彼女の表情が固まり、「私、何て言ったらいいんですか」と言いながら涙ぐんでしまった。(((゜д゜;)))
笑うところなのに。(´・ω・`)ショボーン・・・」

↓これを読みながら思い出した丸谷才一のエッセイがある。
「小説の神様と呼ばれる夏目漱石がトーダイで英文学の講義をしていた時のこと。
(明治期だから羽織を着ている)ひとりの受講学生が、片腕を羽織の袖の中に入れたままでいる。
漱石に「講義中だ。ちゃんと両手を出したまへ」といさめられた彼は黙ってうつむいてしまった。
その時、隣席の学生が、「先生、彼は片腕がないのです」と弁護気味に代わって答えた。
漱石は、「私はないアタマをしぼって講義をしてるんだ。あなたもない手をだせないか」と言った。途端に凍りついていた場の雰囲気がやわらいだそうです。」

06/12/16 (土)
 昨日の昼

昨日は、親類の福井市内での葬儀に夫婦で出席した。葬儀を終えたあとは親族による昼食。
食事会が始まるまでの間、会場ロビーのソファーでぽつねんと煙草を吸っているぼくの横にひとりの老人が座った。
「貴方は唄が好きですか?」と唐突に言う。
「ええまあ・・」と適当に答え、「何故ですか?」と聞くと、「シルバー合唱センターに入りませんか?」と言う。
「それはなんですか?」と再質問するぼくへの彼の答えは、「60歳以上のメンバーで、合唱を楽しむ会です」だった。
昭和24年1月30日生まれでまだ50歳半ばちょっと過ぎのばりばり壮年を自覚しているぼくにはちょっとショックだった。
うん、ひとはひとを見かけで判断してはならない、こどもたちはこどもたちに体型や顔の色などでの異和を持ってはならない。現象としてのはやしたてやいじめは沈静しても当事者のトラウマはながく残るのである。

食事会が始まった。ウーロン茶を飲みフライや刺身を黙々と食べていると何人かのひとがビールを注ぎにくる。「いや、あとで車を使いますので」と断わり続けた。
「しからば」とノンアルコールビール瓶を持った差し手がぼくのコップに近づいてきたとき、隣席の妻の右手がそれをさえぎった。瓶のラベルを読みながら、「アルコールが少し入ってると書いてあるが・・。飲んだら駄目や」と言う。福井県警に知り合いがいるわけではないが、「飲んだら乗るな。乗るなら飲むな」やなあと思いつつそそくさと食事を終え喫煙コーナーへ行った。

コーナーにひとり座っていたひとと四方山話になった。某自治体の元教育長ということがわかり、話の軸は「あわら市中学校問題」にシフトした。6月あわら市議会22日の採決を多くの教育関係者が注視していたことが、よくわかった。

夜、妻が姪を連れて帰ってきたので、三人での晩酌となった。
「おじさん(ぼくのこと)は、おばさん(妻のこと)を好きなのですか?」と聞くので、「おじさんにはね、おばさんの他は異性にみえないのだよ。真実の愛とはそういうものなんだよ」とかなんとか答えた。
東京で女子大に通うはつらつ美人姪と焼酎飲みながら話をしているうち、うーん、ぼくはホント・・おじさんの目線と気分に変身してしまったなあ。
「眼中妓あり 心中妓なし」です。
○昨晩のTVニュースに、「第三世代で生まれたシャム双生児」の映像が流れた。現在もこの言葉が生きているのかどうかぼくは知らないが、60年代終わりから70年代初めのベトナム戦争のさなか、米軍がベトコン追い詰めの為大量に使用した枯葉剤の影響によるものと言われている。
当時、「地獄の黙示録」や「デイアハンター」を映画館で観て、戦時の狂気に反吐の出るような辟易を感じたが、戦争の終結が悲劇の終結を意味するものでないことは、広島・長崎の原爆投下その後を見ても明らかだ。
若い母親の、生んだ我が子を愛しているが故に腕をさすりながらいつくしむ笑顔と、突如涙する顔との場面転換に、生きることの希望と絶望の交錯を感じたひとは多かったはずだ。


 06/12/15 (金)
 薄曇の朝

昨晩は、親戚の通夜に行き、そのあと介護保険運営協議会に出席した。
提出資料を見ていると、今回の改正での予防給付へのシフトの率が、国の指導程にいっていないのがわかる。現役の医師が、「国が何故このような指針をだしたのかよくわからない」と、言っていた。
聴きながら、数週間前に来訪した某介護施設の職員がケアプラン作成の大変さに言及していたことを思い出していた。

9時半に事務所に戻りパソコンのメールチェックをしたら、驚く内容のものが入っている。思案しているところに友人来訪。傍らに残っている瓶ビールを飲みながらの話で、驚くようなことを聞かされた。

友人と別れ、憂鬱な気分で布団に入る。40年程前に亡くなったじいさんの夢をみた。薄暗がりの階段の下から、黙ったままじっとぼくを見つめている。
ぼくが何かを言おうとした時、すうっと消えてしまった。

06/12/14 (木)
 深夜にブルーマウンテインを飲みながら

ずっと前の話だけど、いじめ問題を親御さんから相談された時、かなり困惑したぼくは、某新聞社に相談したことがある。「記事」にできないか、と相談したことがある。

その時の相手方の答えは
①客観的にみて事実であるかどうかを判断するのはとてもむつかしい側面がある。
①勿論、加害者側被害者側の当事者双方と何度も会って、真意を確かめなければならない。その作業を軽んじたならば、名誉を毀損することになりかねない。
①匿名掲示板とは違うのだから、文責を明記しなければならない。
①公人であれ私人であれ保障しなければならないのは人権である。
①以上のことを守るのはジャーナリストとして当然の責務である。
だった。

今、目の前にある雑誌「○○政界」のおどろおどろしい見出し記事を眺めているうち、昔のことを思い出してしまった。

06/12/13 (水)
 無題

昨日は12月議会定例会初日。配布された議事日程をUPしました。
一般質問者は12人。
質問しようか、と思っていた事項(入札制度のこと)について既に先約があったので今回は通告せずにずっと聴いていた。
通告をすると、自分の番が来るまでどうしてもそわそわするけれども、今回はじっくりと聴くことができたし、市長答弁のスタイルにもアンテナが十分に働く。
本日の福井新聞にやりとりの抄が書かれているので個々の質問について書くのは省きます。

本会議が終了したあと、「広報編集委員会」が開かれた。「議会だより」の掲載写真レイアウトや文章の担当割りを決める作業が続いたのだが、この号が校正を完了し各家庭に配布されるのは、来年1月中旬となる。うん、今年も終わりかけているのである。
振り返ると中学校問題に明け暮れた一年だった。勿論、今も考え続けている。
(追・今回から「議会だより」を市HPでも読むことできるようになりました)
7時頃に終了し事務所に戻ったら5人が集まっての反省会。
○本日の昼前にO議員が来訪。
「午後1時半からNHK・FMでしゃべる」と言う。ぼくは10年ほど前にFM福井の生放送・二時間番組で、「金津町の新住居表示施行には反対」を一生懸命しゃべったことがある。
その時のことを思い出しつつ、ラジオをオンにした。そこで初めてわかったのだが、ぼくのラジオはAMオンリーでFM放送が入らないのである。TVを見る癖のない寂しいぼくにとって、ラジオが唯一の友達。
思い切ってFMの入るラジオを買おうかな、と思った。

↓左=雲雀ケ丘寮で見かけた菊     右=同じく山茶花


06/12/12 (火)
 本日から12月議会定例会

調べてほしいという依頼がいろいろあったので、昨日は金津庁舎と芦原庁舎を何度か往復していた。結果を事務所に持ち帰りPCに入力したのだけれどもプリンターが動かなくなっている。
既にXP対応機種から外れていることが原因なのかと思い、確かめる為に大型家電店に走った。「OSが対応機種から
外れていてもなんとかなります」という、力強いお言葉を頂いた。
かなり前に6,800エンで買った中古品であり、機械そのものが故障しているのかもしれんなあと思いつつ、帰り際にプリンター展示コーナーをウインドウショッピングした。
A4対応ならば廉価のものがいろいろあるけれども、CADをプリントアウトする為にはA3対応機種でなければならず、高い。
使える可能性のあるものは使いつくすのがモノに対する愛情というものだ、と思いつつ事務所に戻った。事務所では、ふたりの男女が中学校問題についての話をしていた。

本日から12月議会定例会です。061212

06/12/11(月)
 ドーハしったかが大切だと思う

昨日は、家の事情で自宅でCADをこなしていた。家だとどうしても気がゆるみがちだ。ながら族になり傍らのTVスイッチをONにすると、ドーハ・アジア大会男子マラソン終盤の中継が入った(録画だったかもしれない)。
断トツ一位のシャミ(カタール)は既に前方の視界から消えていたが、大崎(日本)とヤシン(バーレーンだったか)の2人が熾烈な銀メダル争いを展開している。
40kmを過ぎてやや離されそうになった大崎だが、しかし粘る、粘る。
最後の直線100mを必死の形相で追い込み、結局同タイムでゴールインした。
例えば東京オリンピックで颯爽とした走りを見せたアベベ・ビキラ、あるいは同オリンピックの代々木国立競技場最後の400mでヒートリーに抜かれながらも悲壮に走りぬいた円谷幸吉など、マラソンのスポットライトはどうしてもゴール間際に当てられる。
ヤシンvs大崎のゴールインも記憶に残るものとなった。
長丁場で体内エネルギーの全てを出し尽くしたはずの大崎が最後の最後で同タイムにまで持っていけた理由を「根性」と呼ぶのはアナクロだし「神様のひと押し」と呼ぶのは彼に失礼だ。まさに「何か」である。
大崎は結果的に写真判定で胴メダリストとなってしまったが、順位はどうでもよろしい。マラソンに写真判定を持ち込むのは無粋というものだ

06/12/10 (日)
 日曜日の朝に思うこと

一年中で一番夜の長い日・冬至が近づいており、夜明けはとても遅くなった。
ただ今現在午前6時半だ。東の空には黒雲が広がりその合間がやっと白み始めた。窓外に見える巨木の樹影はモノトーンの世界だ。
遠い昔において、我々の先祖は日の出に生命の息吹きを感じ、白山連邦に向かっての日々の遥拝を欠かさなかったはずだ。

四季折々における自然の営みはいわば王道の歩みだ。年輪を経た巨木は、人間達の愚かな行為を眼下に黙って見続けてきた。享楽と自己保身と利便追求に走る我々人間達を無言で警鐘し続けてきた。

どれだけ科学が発達しようが、大自然の営みはびくともしない。人智を超えたものの存在に対して敬虔な思いでひれ伏すことが
うーん・・・明るい社会をつくることになるのではなかろうか

06/12/09 (土)
 俗界にて思うこと

新聞の社会面は、汚職・強盗・詐欺・事故・自殺エトセトラで、いつもの事ながら字面を眺めているだけで気分が重くなる。だけど重くなるのは、対岸の火事と言い切れぬからでもある。社会面はぼくたちひとりひとりの内面を写し出す鏡であり、記事程に突出してはいなくても、現に苦しんでいるひとたちが周囲に沢山いる。勿論、ぼくもそのうちのひとりだ。

「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし 」と書いている歎異抄が鎌倉時代から700年間を経た今日でも広く人口に膾炙しているのは、人間なんて昔からなんにも変わっていないことの証だろう。

「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」の悪人には「自らを悪と自覚している人」ほどの意味が包まれていると、友人僧侶がぼくに語ったことがある。
檀家が真宗だから言うのではないが、他力本願・悪人正機を説いた親鸞上人は稀代の人間ウオッチャーだったと思う。
○昨日の昼、「障害児を持つ親の会」のひとが来訪。一時間半程話し込んだ。

「親たちが今までに積み重ねてきた実績あるいはその情報を集積し、誰にでも公開伝達できるようなセンターができないだろうか。行政・親の会・NPOなどが一緒になって汗を流し何年かかってもいいからそういうセンターをつくりたい」と言って帰っていった。
ぼくは大人の障害者との付き合いはあるけれども、障害児との付き合いはない。
代替として親御さんたちとの話を聴くことになるのだが、基本的には子より先に親が死んでいく。子の将来を見据える時、障害者をめぐっての社会意識の変遷・制度的な保証あるいはその情報の公平な取得が最大の関心事となることは極めて自然だと思う。

06/12/08 (金)
 もう終末・・じゃなかった 週末か

昭和45年のきょう、ジョン・レノンがニューヨークの自宅アパート入口でファンに撃たれて(刺されてだったか)亡くなった。

ビートルズが日本に上陸したのは東京オリンピックが開かれた昭和39年だった、と記憶している。全国津々浦々大変な熱狂だったけれども、当時高一のぼくはリバプール・サウンドにはそんなに興味をそそられなかった。
数年してつまり成人した頃から徐々に好きになっていき、「イエスタデイ」をジュークボックス(若い人にはこの言葉の意味がわからないかもしれない)での持ち歌とするようになった。

どの唄だったか、レノンが作詞したもののなかに
ひとりの夢は  ただの夢
みんなの夢は  実現の夢
    がある
○ところが、夜になって間違い指摘電話が入ってきた。
ビートルズの日本上陸は昭和41年。ジョン・レノンが亡くなったのは昭和55年だそうです。
それが事実ならば、日本上陸についてはぼくの記憶違い。死亡年については今朝のラジオアナウンサー(NHK)の言い間違いということになります。

06/12/07 (木)
 無題

昨晩の9時半頃、そろそろしまおうかと思っていた矢先、某介護施設の職員が来訪。
ぼくは介護保険広域連合議会議員になっているので、視察研修というかたちで介護施設を訪れることはよくある。建物とかシステムの抱える問題とかは、その場で担当職員に聞けばおおよそわかるけれども、生の雰囲気はよくわからない。
その意味で、彼女がしゃべる現場内部のことはとても臨場感があった。
介護施設というのは、ケアする側とケアされる側に人格的な触れ合いが求められる場なのだろう。摩擦も含めて喜怒哀楽が十分に存在する。
考えてみれば、一般社会の機構にからめとられている我々にとっての日常は黙々と働くことにあるのだが、施設に入っているひとたちは、ある意味でそういう感情を素朴に出せるのかもしれない。
いろんな話を聞いているうち、午前様になってしまった。
○本日の夕刻に某元教育経験者来訪。
「安倍首相が教育面での具体的な指示を出した。あのトップダウンは駄目だ。現場をますます窮屈にさせる、第一あんなことみんな思ってることですよ」と一生懸命おっしゃる。
ぼくも「現場が大切だ、ということは現場の雰囲気は現場の者にしかわからないし、その主体性が最大限尊重されなければならない」という意味で同感だ。
ただし、現場に上へのへつらいが無い、ということが前提だが・・・。
確かにトップダウン指示が強化されれば、教育委員会が自治体ごとに存在することの基盤が崩れていく。
戦後日本社会支配戦略上でのGHQの肝いりであったかも知れないが、行政市長と対峙する位置に教育委員会が在ることの意味が薄れていく。

06/12/06 (水)
 昨日の全協

昨日は午後1時半から全協(全員協議会)が開かれ、午後6時に終了した。
12月議会定例会の日程が決まったので、ご覧ください。
例えば建設検討委員会での候補地のしぼりに関することや「2校を守る会」から市長宛に提出された公開質問状などを含めていろいろな資料・報告を頂き、思うこともいろいろあったのだけれども、全協は正式な決定機関ではないので、議会を経てからつまり議会終了日に詳しく書き込みたい、と思っています。

ところで、「?」と意外だったのだけれど、統合派議員のうちの何人かがこの日記あるいは掲示板を読んでいるみたいだ。
昨日・一昨日の二日間にこのHPに関しての批評というか批判というかそういうものを統合派議員の何人かから頂き、そう思った。ま、どしどし読んでください。

そのうちのひとりの議員から、「市民会議室に、<2校派は、教育でなく場所が問題だった。それぞれの候補地を地盤とする議員は誰かを考えればわかる>なんて書き込みがあるよ」と、言われて驚いた。
勿論事実と違うのだけれど、そういう書き込みをしていて自分が空しくならないのか。ひとごとながら心配だ。

06/12/05 (火)
 無題

昨晩は芦原温泉で「ゑびす講」が開かれた。
早寝早起きを生活スタイルとしているぼくにとって、いつも寝ている時刻に起きているのは、少々しんどかった。だけど、普段は顔をあまり合わさない県議さんたちとも話ができたのは収穫かもしれない。
そういえば、副知事は何の縁も無かった福井に来てもう三年になるそうだ。
大阪ミナミの都心地で生まれ育ったこのひとは、熱燗飲みつつ、「自然のある福井はそれ故に食育に恵まれているしそれを大切にしないけん。子供達の未来について一番心配なのは、ファーストフードやねえ」と、言っていた。
最近は食文化という言葉が市民権を得ていが、ぼくは文化にはマナーがついてまわると思う。死んだ祖母は、生前いつも「腹八分目やざ」と言っていたが、胃腸に過度の負担を与えない為の警句であることは勿論、「人間何事につけ多少の我慢が必要や」という意味も含まれているのだろう。

06/12/04 (月)
 寒かった昨晩

昨日の日曜日は、中央公民館へ。午後1時過ぎに、「あわら男女共同参画のつどい」が開かれた。
主催者挨拶が始まった時、ぼくの肩をとんとんと叩くひとがいる。振り返ると手話サークルのメンバーだった。横に座った彼女は、「舞台での通訳をやったことがない」と言う。
ぼくは、「経験や。立ったつもりで一緒に練習してみようや」と言って、目立たぬよう、腰の近くに手を下ろして動かし続けていた。
男女共同参画社会情宣の意図については、我々団塊の世代にとって戸惑うところがある。男女双方が社会的な活動を保障されることは正論だろう。けれども家庭内にいることで社会的な営みに触れていないという思いがあるとしたらそれは偏見だ。社会に出て出世しあるいはリーダーシップを持っていくから成長しているとは必ずしも言えまい。むしろ疲弊しあるいは退化しているのかもしれないことは周囲やあるいは昨今の新聞をみてもわかる。家庭にこそ濃縮された普遍社会が在るとぼくは思っている。

男女の問題というと、若かった頃「国産みの神話」について友人と議論した時、「これはつまり女性が先導したら駄目だという男女差別思想が古来からあることの証しだ」と相手は言った。
しかし、(確か水蛭子を流してしまったという記述も出版社によってはあったのではないか)ここで出てくる
水蛭子の注釈に「…島生みの最初に生んだ子であるが、ぐにゃぐにゃとした蛭のようで、とても島とは呼べない失敗作。二神の子の数には入れない。」とあるのを読んだぼくは、「古来からあった優性思想の反映ではないか」と言ったのを覚えている。

06/12/03 (日)
 模様替えできれいになった事務所で

昨晩の事務所には、10数人という沢山のひとが集まった。
話は、昨今の教育事情にまつわること。
途中、「・・教育基本法改正、今の時代こそじっくり審議してほしい。・・現小中のいじめはもちろんのこと子供を取り巻く学校・家庭・そして地域環境にいたるまでこの問題について把握しているのでしょうか? アンケート収集も大事ですがPTAなどの現場の先生や保護者の意見を聞いたり話し合う事が必要ではないでしょうか・・議員さんや教育委員会に生の声を・・保護者・先生が今こそ真剣に子供の為に・・悲しい事故が起こらないように」という携帯が入った。

問題は、生の声でお互いの思いを述べ合うことのできる関係が前提として成立していなければ言葉は空転するだけだと思うのです。
卑怯であったり猥雑であったりするのも又人間だしそのことが関係の潤滑油になることも確かにある。しかしながら、自分自身と真剣に対峙しなければならない瞬間があることも確かだ。
我々は社会的立場・上下関係のなかで、自分の腹からの思いを述べるよりも、相手に気に入られる(と思われる)言葉を意識的あるいは無意識的に選択してしまってはいないだろうか。つまり、相手に権力を意識しそれにおもねてしまってはいないだろうか。
我々は、批判されることや村八分になることを恐れ、みんなからいいひとと思われる(所詮幻影にすぎない)自画像をつくり上げる空しい行為にせいだしてはいないだろうか。

「いのち」についての新聞切り抜き
を持ってきたひとがいたのでPDFでUPしました。御一読ください。
○雨の日曜日の朝、真剣に蕎麦うちに励む男たち。

 06/12/02 (土)
 もう土曜日か

「一日午後七時半ごろ、あわら市大溝二丁目の会社員宅に刃物を持った男が押し入り、現金九千円を奪い逃走した。あわら署は強盗事件とみて男の行方を追っている。・・・」

という新聞記事を読んだ。
大溝二丁目といえば竹田川を隔てた向かい側であり、比較的近い。被害者の方は
包丁で手を切り付けられ人差し指と中指に軽症を負ったと、続けて書いてあったが、恐怖は大変なものであったはずで、心中をご察し申し上げます。しかし、軽症であったことを不幸中の幸いとしなければならないだろう、とも思う。
年の瀬が嫌なのは、この種の犯罪が定番として増えることである。

ぼくは、強盗をしたことはないけれども、強盗と間違われたことがある。
20代のはじめごろだった。ナップサックを肩に担いでのヒッチハイクで深夜の岡山市内の橋の上をひとり歩いていた時、後方からサイレンが鳴り響き、突然四台のパトカーに前後左右をはさまれた。兎の心臓のぼくはびっくりしたよ。
パトカーを降りてきた8人の警察官に取り囲まれ、「ナップサックの中身を見せろ」と命令された。「捜査令状はあんのんか。正当な理由がない限り見せる訳にはいかへん」と関西弁で言うと、「マンションで刃物を持った強盗事件が発生した。近くの住民から、<今、ナップサックを持った不審な容貌の男が橋の上を歩いていると>いう通報があったからだ」とボスらしいいかつい警察官が答えた。
ぼくのジーンズやTシャツに血糊はついていず、ナップサックの中身は文庫本と下着だけであり、勿論疑いは晴れた。
恐怖感はなかったけれども腹立たしさが残ったので、去ろうとする警官隊を、「ちょっと待ってや」と呼び止めた。
・・・・このあとの警官隊とのやりとり及び行動でぼくは実に稀有な体験をしたのだけれども、恥ずかしいのでここでは書かない。

06/12/01 (金)
 きょうから12月

昭和33年のきょう、一万円札が発行されたそうだ。昭和33年を西暦に直すと1958年で、おおよそ半世紀前のこととなる。貨幣価値の変遷を考えた場合、まばゆいばかりの高額紙幣であったはずだ。

先日の深夜ラジオで某識者が「人間が万物の霊長である所以は交換価値としての貨幣を発明したことにあります」と語っていた。
確かに流通や消費を貨幣
抜きに語ることはできないだろう。カンボジアをポルポト政権が席捲しつつあった時、この政権が「物々交換の時代へ」を新聞紙上で語っていたような記憶があるのだが、何千年と続いてきた貨幣経済社会を覆すことなど不可能だし現実離れした発想だった。

しかし、金に泣き金を呪い不本意のうちにこの世を去った無数のひとたちが居ることも確かである。
○本日は妻が帰ってこないので、ひとり晩酌でTVニュースを観ていた。
TVは、北朝鮮・金正日総書記の(既に亡くなったと思われている)妻の、総書記との赤裸々な出会いを含んだ自叙伝が出版された、と伝えている。
「・・・1973年の冬、私がホテルで眠っていると、将軍様が降る雪の中で私を待っている、という連絡がありました・・」というくだりを見て、私は、「うーん、彼と私は同じ穴のムジナだったのか」と思わずうなってしまった。
1年間ずれるのだが、1972年の冬、私は新潟県赤倉スキー場・ファミリーコースでせっせと練習に励んでいた。
雪のしんしんと降る誰も居ない夜のゲレンデで、私はY子と逢引を重ねていた。
権力者であろうが庶民であろうが、男のすることに大した違いはない、ということか。