2008年07月


 08/07/31 (木) 7月最終日

★今の私の唯一の楽しみは水槽の水中生物に餌をやることである。
魚類は、メダカ・タナゴ及び金魚一匹。甲殻類にエビ。他にタニシがいるが何類かは知らない。いずれも市内の江川で獲ったものだ。
メダカは二十数匹で群れをなして泳いでいるが、数匹だけは群れから遅れて泳いでいる。

餌は店で買った「淡水魚の餌」及び「だしじゃこ」だ。
金魚やタナゴはすぐ餌に飛びつく。しかしメダカとエビはそうではない(タニシについてはわからない)。どちらかというと、まかれた餌を横目に平然と泳ぎながら、時折ぱくつく。
それが奥ゆかしく見える。しかし、そう見えるだけであって、実際どうかはわからない。
★昨晩のボクシング・フライ級世界戦。一人TVの前に居座り、こぶし振り上げて応援していた。
清水は惜しかったなあ。下の息子の高校時代の何級か先輩だ。
ま、それはどうでもいいがいい顔をしている。端正ということだけではなくてキュートだ。
「あしたのジョー」のモデルとなった故大場政夫は貴公子の雰囲気を持っていたが、清水には「福井の素朴男児」という庶民的な味がある。共通項は「顔を打たせない」技術だ。
亀田戦の内藤は善玉だったが、清水戦ではマットに沈んでほしかった。

ま、清水はまだまだ若い。数年後には必ず世界チャンプになる。なった時私が生きているかどうかは五分五分だが、仮にこの世にいなくても草葉の陰から拍手する。

08/07/30 (水)  ちょっと落ち着いた(副題・そろそろ珈琲がなくなってきた)

昨日、「しばらく日記を休みます」と書いたのは、現在の特定行政庁のあまりにもの杓子定規的な窓口対応に腹がたったからである。腹がたった時に書くと筆が情動過剰になるので冷静になるまで待っていたら、一応の見極めができたので落ち着いた。
(注 私は、中年以降、紳士になったと思う。若かった頃は窓口でしゃべりまくっていた)

ということで、
学生時代に同宿でどこへ行くのも一緒だった男の7月28日日記を読んでいたが、
その中で考えさせられたことがふたつある。

@10数年前、金津中学校のPTA会長になった時、校長室に当時のN校長を訪ね、「先生、僕自身の中学生活は暗く陰惨なものだったです。文武両道を言う教師ばかりでそのあわいにあるものを見てくれようとしなかった。だから、尊敬する教師もいなかった。放課後の誰も居ない教室だけが僕の憩いの場所だった。でもね、今、PTA会長になったことを契機として追体験してみようと思う。中学生時代の自分の意識をもう一度体験してみようと思う」・・ざっとそんなことを言った覚えがある。

A日記の中の・・・最近死骸を解剖した海洋研究学者の新説:『座礁したクジラから重金属系の化学物質が検出される例が多い。推測だが、体内に蓄積した有害物質が脳神経を犯し、潮の流れや水深、障害物の有無などを認識する能力を狂わせているのではないか』 確かに巨大哺乳類クジラは食物連鎖最終到達点だろうから時に「産業廃棄物の最終処分場」と呼ばれるらしい。しかし、食物連鎖と言うなら、人間こそその頂点に立つ存在ではないか。 最近の正気の沙汰とは思えない数々の事件の深層にこのような事実が隠れているとしたら???・・・には考えさせられた。

どんな殺人事件にも普通は動機というものがある。被疑者による動機陳述を裁判官が詳細に検討して罪刑が確定する。その前提は、「動機は被疑者個人の心の中にある」である。
「心」とは何かというと「脳」だろう。二日前に養老猛司著「続・涼しい脳味噌」を読んだばかりなのでなおさらそう思う。「脳」とは肉体そのものであり、食物連鎖を諸に受ける臓器と言っていいだろう。
だとするならば、裁判官が裁く対象は眼前にいる被疑者個人の心理風景と共にその背後にある食物・負の連鎖の世界でなければならない、ということになる。

08/07/28 (月) 牛庵にて

年齢を重ねることで変わってくるもののひとつは「トラウマに対する自覚」だろう。
幼児体験として刻み込まれた心の傷が、青壮年期には懐に仕舞われている。仕舞われても行動の基本部分を特徴付けているのだが、青壮年期には先ずそのことから目をそらせている。生きることにせいいっぱいという現実があるからだ。

壮年期も後半になった現在、変に自分が内省的になっているのを感じる。深夜のベッドで寝付かれず不愉快を思う時、潜在しているトラウマが見えてくる。そのことで不愉快が消えるわけではないけれども、不愉快を感じる自分とそれを見つめる自分を併せ持つつまり複眼を持つことでそれなりの安定気分が確かに訪れる。

このような心の動きは、例えば心理カウンセラーにとっては自明のことなのだろうが、我々素人でもどこかで自覚する。
ということで、不愉快気分と仲良く付き合っている本日の私です。
★ところで
昨日の昼に夕立のような雨が降った。今朝の曇天模様を眺めていると本日も雨になるかもしれないし、なるといい。一雨一雨が涼を呼ぶ。
我々もそうだけれども特に年寄りには今年の猛暑がきつい。愚痴をよく聞く。
しかし、米の生育には真夏の炎天が必要だ。冷夏でもなく猛暑でもなく、というところか。

08/07/27 (日) 日曜日の朝

★昨晩は招待状を頂いたので、「第27回吉崎湖畔の夕べ・夏まつり」に参加した。


加越国境に位置する吉崎地区
はあわら市内でも独自の歴史を保つ。
フランクフルトソーセージ片手に会場を歩くうち、何人かのひとから、「この地区の往時の賑わいを少しでも取り戻すために尽力してほしい」というメッセージをいただいた。

★帰路、招待状は頂いていなかったが、隣区なので、「向ケ丘区・納涼祭」にあつかましくも寄った。自宅まで歩いて帰ることの出来る距離なので、生ビール期待で寄ったのだが、既に完売だった。猛暑の影響だろう。
バーベキューコーナーにいたある人から、「私のまわりの人たちは牧田さんのホームページ日記を読んでいます」と言われて恐縮していると、「日記によれば牧田さんは毎日早起きしている。そんなに早起きして何をしているんですか」と聞かれてしまった。


08/07/26 (土) きょうは土曜日

★久し振りの遅起きで午前7時半に目が覚めた。昨晩の深酒のせいである。
7人集まっての焼鳥宴会で、私の好きなジュンケイもあった。某市議手造りのモロヘイヤもあった。アジフライとイカフライもあった。焼酎は「黒の霧島」。
アタマはまだぼんやりしている。しかしやらなければならないことが沢山ある。

ということで徒然草をめくっていると、いいことが書いてある。
家のつくりようは 夏をむねとすべし
冬はいかなるところにも 住まる
   吉田兼好「徒然草」

★昼下がりに思ったこと。
議会で問題になっていることや審議されたことは勿論市民の皆さん方に速くお知らせしなくてはならない。その為の処方として例えば
@「議会だより」の発行
AケーブルTVでの議会中継
B各議員による情報発信 等々がある。

・「議会だより」発行に関しては、市内全戸配布というメリットがあるけれども議会毎のみに限定されてしまう。
・ケーブルTV中継だと、活字にはない臨場感を映すことができるというメリットがあるけれども、全世帯がケーブルTVに加入しているわけではない。さらに、放映の時間帯が限定されてしまう。そこで、インターネットによる動画配信をすべきだと主張する議員もいる。
付け加えると、あわら市議会は「委員会中心主義」を採用しているのであるから、委員会室にTVカメラを入れるべきだと私は思っている(すごいロングランになるだろうけどなあ)。
・各議員による情報発信というと、集会やミニ集会でのマイク報告、手造りペーパー近場配布あるいは、この日記も該当するかもしれない。

さて、次の議会は9月議会だけれども、委員会として継続されるものも勿論ある。
焦点となっていることといえば
@中学校整備に係る今後の流れ
A金津雲雀ケ丘寮の民営化
B入湯税虚偽決算問題

@とAは教育厚生常任委員会付託、Bは総務常任委員会付託であり、「産業建設委員会」のメンバーの私はいずれへの出席もない(私は、所属委員会として「教育厚生委員会」を希望したけれどもかなえられなかった))。

勿論、それぞれの委員会での@ABについての審議の進捗状況を間接的には聞いているし、委員会自体は議事録も録る原則公開のものだ。
ただし、当該委員会に出席していない以上、デイテールを書こうにも書きようがない。
ということで、ひと言思いを述べるならば
@⇒7月24日日記のとおり。
A⇒いろんな意見を聞くにつけ、指定管理者を社協とすべき。
B⇒行政側による二十数人の担当課職員及び過去の町長・市長からの事情聴取を終えたとはいえ言わば身内調査なのだから、これからは、監査委員による調査だろう。

08/07/25 (金)  I Love Medaka

私的なことなどで詳細は書けないが、昨日の私は、あるひとから家族のことで相談を受けていた(PTA会長をしていた頃はこれが多かった)。受けつつ、家族ってなんだろうと考えていた。

20代の若かった頃、友人と家族論をやりあっていた記憶がある。ある友人は「家族は呪縛の構造体」と言い、ある友人は「家族は社会の荒波からの防波堤」と言っていた。

幾星霜で、よもやできるとは思っていなかった結婚をし、子供も三人設けた。
独身の時に気軽な立場で考えていたあり得べき家族像追求は中断、実際に家族を構成することで実務に汲々とすることに終始した。

自由業故に比較的時間がとりやすかったので、三人の子供達幼少の頃はよく一緒に遊んだものだ。否、その言い方は正確ではなく遊んでもらったものだ。
そのことで、ひとが大きくなっていくということがなんとなくわかり、子育てとは自分自身の追体験なのだと思うようになった。

勿論子供は長じるに従って両親の影響、学校の影響、社会の影響を二重三重に受けるようになり同時にそれらに対する批判の目も育っていく。関係の相互的規定性とでも言ったらいいか。

その過程で私自身の両親も老いてきた。きょうは寝たきりとなっている親父の入浴介護の日である。

★早朝、重義地区の江川にざぶざぶと入り込み思いのほか沢山のメダカを獲ることができた。ご満悦での帰路、田圃の緑が窓外に拡がる。豊原水穂の国の先人たちが苦労してこしらえ維持し続けてきた美田である。


08/07/24 (木) 暑さも峠を越したそうな

昨晩は、某所にて会議。「中学校整備に係る今後の流れ」についてがテーマとなった。
昨年4月の市長選で「二中存続、芦原中改築」を掲げた現市長が当選。
その後水面下での動きを含めた紆余曲折を経て、今年2月の臨時議会に市長の提示した「芦原中・改築もしくは改修」案は否決され議員発議の「芦原中・一部改築を含めた大規模改修」案が可決された。市長案への賛成討論をした者としてこの結果は残念であったがしかし議会は多数決だ。その案に従わなくてはならない。

今月に耐震診断正式報告(芦原中校舎D判定、体育館E判定)が出た。
「議会意思はひとつ」と言われるのだから、議会が目指さなければならないグレードは既に明らかだ。これ以上のごたごたを排除し、ベストグレードを目指すべきである。
★今朝の5時半、観音川河口にメダカをすくいに行った。
けどか、漁獲高ゼロだった。「高騰したガソリン代¥170/リッターを考えると漁に出るべきではなかった今こそ海の漁師たちと連帯しなければならなかった」と後悔したのだが

「川が増水しているからかな?」と思っているところに、軽トラ知人が「おおーい」と声をかけてきた。

聞けば近くで農薬空中散布をしているという。
行ってみると、おお!やってるやってる・・・アメリカ・カリフォルニア型農業のミニチュア版ではないか。
メダカ漁失敗の原因がここにもあるのではないか、と思ったが

なんつうか、ラジコン遊びのような雰囲気でもあった。
もっとも、わしら団塊の世代子供の頃にラジコン飛行機など無かったけどね。
竹ひごに紙を貼り付け、ゴムチューブ伸び縮みを利用してのプラペラ回転で飛ばすもので、名機中の名機はなんと言っても「スカイホーク」。確か一セット¥70−也だった。
飛ばすのが好きな少年だったが、一番は飛行機飛ばしだったのを思い出す。

帰路、赤尾地区の道路沿いから「北陸水天宮」を写す。

一度行ってみたいところだ。

08/07/23 (水) 夜明けに熱々珈琲「キリマンジャロ」を飲みながら

昨晩は10時に来訪者とさよならしたあと帰宅し、煮物で遅い晩飯を食べてから布団にもぐりこんだ。扇風機がないので枕元にあった単行本を団扇がわりにして顔を仰いだがうまくいかないので厚紙で仰いだらうまくいった(当たり前やね)。
それでも深い眠りにつくことができない。
勿論暑苦しいからなのだが、それがCO2ばらまきによる地球温暖化のせいかと思うことで暑苦しさに拍車がかかる。しかし一方で宇宙物理学者の間での「地球温暖化の本当の原因は太陽黒点が活動期に入ったからだ」というなかなかマスコミには登場しない学説が頭をよぎる。そうすると「自然現象なら仕方ないなあ」と、気持ちが幾分安らぐ。
けれども、大分県の教育委員会のスキャンダル・「本日のニュー情報」を思い出すと、「まさか大分県だけのことではあるまい。既に取り返しのつかなくなった腐敗のネットワークが日本列島を席捲しているに違いない」とやっぱり暗澹の気分になって寝苦しい。
昨夜来訪の元教師は、「そりゃあ県議の口利きはあったやろね。だから正式発表以前に判定結果を聞いてやね、わしの力で合格したで、と親に知らせるんや」と言った。

私は元々「人間ちょぼちょぼ説」あるいは「人間プラスマイナスゼロ説」を持論としてもっている。例えば社会的に上に立つひとはその立場を獲得する過程において自己をどこかで空しくしてきたひとたちだと思っているし、そのこと自体は軽蔑の対象でも尊敬の対象でもないのだが、
ひとたびその立場に立った以上してはならないことが絶対にある。
・教委で言うならば合否の判定に情実や金品授受を絡ませないこと。
・議員で言うならば口利きや産廃業接待とは無縁であること。
(今朝の新聞の「入湯税」に関する記事見出しに「不正はなかった」と出ていたが)
・公務員が賄賂を受け取らないこと   エトセトラだろう。

情報化社会とは「わしの汚点は表に出てこんやろうなあ。大丈夫やろうなあ」と身に覚えのある者が恐れおののく社会を指すのかもしれないのである(笑)。
★午前中に事務所を訪れた友人との四方山話のなかで、彼が「牧田はんとこみたいにいろんなひとが訪れる議員事務所はあんまりないやろな」と言う。

聞いていた私は千利休宗易を思い出した。
秋のある日、利休は庵に客人を招待する約束をした。客人の訪問時刻が近づいてきた時、庵に通じる露地に落葉が舞い散っているのを見た利休は、「清潔にせねば」と落葉を箒でせっせと掃いた。
掃き清められた露地を見た利休は、「待てよ・・・客人は自分のためにこんなことをしてくださったのか、と恐縮してしまうのではないか。それは駄目だ。自然体でお迎えしなければならない」と結論した利休は掃いて集めた落葉を再び露地にばらまいた。
すなわち、わびさびの心である。
汚な過ぎるのは良くないが、綺麗過ぎるのもひとを畏縮させてしまう。

綺麗過ぎないように心がけている私の事務所は結果として適度に雑然なので、ひとが来やすいのではないかと思った。


08/07/22 (火) さあ 日常が戻った

・さて金津祭りも終わった。
名地区巡航の際にくださった数々のご意見、どうもありがとうございました。当然のことながらこういう場合貴重なのは「苦言」であります。耳障りのいい言葉は一過性ですが、「苦言」は鼓膜から胸に浸潤し胃の渕にどっしりと収まります。

・祭りの伝統を維持することはとても大切です。しかし一方で「ご祝儀制度」に対する疑問などもよく聞きます。松尾芭蕉が言った「不易流行」ですね。本質的に変わらないものであっても、時代時代でその様相は移り変わっていくべしということでしょうか。

・昨日=祭り最終日の午後は、銘酒「剣菱」をひとりちびりちびりと飲んでいました。
途中来訪者がふたりありましたが、気分はひとりのようなものでした。
’75年のATG系映画・黒木和雄監督「祭りの準備」は印象に残っている映画です。
「ひとは退屈な日常を一点の節目つまり祭りのために費やしていく」というのが映画のモチーフであったと、思います。

・私が水槽で飼っているメダカやエビは食べること泳ぐことが存在の全てですが、我々人間が彼らと峻別されるもののひとつに祭りを持っていることが挙げられると思います。
卑弥呼の「祭政一致」の時代にはその気分は現在よりもずっと濃厚だったはずです。
これから先、どれだけ科学が発達したとしても、諸現象の不思議を全て解明することなどできるはずがない。
科学を超えたものに対する「恐れ」を「畏れ」と感じること。そして人間存在の上になにかを祭ることは、人間の無自覚的横暴に対する警句の役割を果たしていく、と私は思っています。

08/07/21 (月) やっぱり疲れた昨日

昨日は金津祭りなかび。朝の9時半から夜の11時まで歩きずくめで疲れました。
先ずは名地区本陣前で披露された「坂ノ下八幡太鼓」です。

さて・・・祭りはやっぱり夜がいい
下はすれ違った前囃子車(新富地区)です。

お暇な方は、下をご覧ください。
@「坂の下地区山車巡航」スタート A神輿はやっぱり若者でなきゃ

B山車綱引き歩きは老若男女

C「新富地区」とニアミス

D本陣飾り三位「稲荷山区」

E本陣飾り二位「上八日区」

F300年余の歴史を持つ本陣飾り一位
「六日区」

G偶然出あった某市議

Hライトアップされた前囃子車

I夕陽を背にうける「源義家」

J前囃子車(古区)
写し手の技量を示す写真

Kすれ違った私のGFのひとり

 08/07/20 (日) 疲れそうな一日

本日は金津祭りなかび。
昨年の私の事務所は飲酒団欒的賑わいをみせていた。
今年は当坂ノ下区が当番区のひとつなので山車巡航を行います。よって事務所あるじの私は巡航につきそって歩きずくめの一日で事務所不在となりますが、誰かは来ていると思います。気軽にお越しください。「幻の銘酒」も置いておきます。
山車巡航時刻表及び本陣飾り物位置図をUPしました。

閑話休題
20年近く前、金津祭りの縁日を歩いていた時に、娘から「まつりってなんや?」と聞かれたことがある。その時には答えることができなかった。
思うに
神輿に乗っている神は大和王権に帰依した天津神で、武者人形が定番の山車は護衛だろう。その練り歩きは、まつろわぬ土着・「土蜘蛛族」に対しての平定行為である。
巡航団は名行政区理事者の出迎えがなければ通過することができない。それは、理事者がその地区の危険地域(テロリストの潜む場所)を熟知した案内役を担っているからだ。
前囃子車の笛・太鼓がなにかと言うと、これはもう戦場慰問団だ。名戸からの御祝儀はさしずめ兵糧米の調達行為だろう。

 08/07/19 (土) 金津祭り前日

昨日は、富山のひとが来訪。
地元大手の鉄工所や建設会社が倒産したことについての話となった。

例の姉歯事件を受けて建築確認業務の規制が段違いに厳しくなった。いろんな書類の添付が義務づけられ、設計図書に一字一句でも記載ミスがあれば、訂正印押印不可で出し直しを命じられる。厳しさが本質的なものであれば納得せざるを得ないが、いってみればアラサガシの部分も随所にある。結果として確認申請書提出から許可証発行まで二ヶ月くらいかかるのもざらという噂である。

鉄工所や建設会社にしてみれば資材の流れが滞り経営がおかしくなる。勿論、確認云々が全てではないが、要因の一部になってはいるのだろうと思う。

特定行政庁・確認受付窓口で「わたしらかって好きでこんなこと指示してるんではない。国の命令だから仕方ない」と、たまにつぶやくのを聞く時、身分安定・出世志向と引換に役人は役人としての苦労があるのだとは思うがなあ。

役人の 子は にぎにぎを よく覚え
と江戸川柳にもあるように、今や高級官僚接待疑惑花盛りだ。社会的地位が常識感覚をマヒさせることはおおいにある。「センセイセンセイ」というあげまつり言葉が実は反面において揶揄言葉であることを感受できない層がそういうところには確実に存在する。

★明日が金津祭りなので、炊いた赤飯を三国町の親類宅に持っていた。
かって三国町で生活していた三好達治が「帯の幅ほどの滝谷出村」と詠んだ場所に親類宅はある。高田屋や魚志楼が目と鼻の先にある。かっての色街の雰囲気が今も残っている。
足元の「見返り橋」が目に入った。

しばらく歩くと「思案橋」が見えてきた。

いずれの名前も遊郭・色街になじみのものだ。

08/07/18 (金) 昨日の一日

昨日の午後は臨時議会。
議会に先立っての全協で「中学校整備に係る今後の流れ(案)」が配布された。
臨時会の日程は次のとおりで、議案第66号「アスベスト分析業務委託料及び中学校整備検討計画書作成委託料予算補正Σ314.6万」は全員賛成で可決された。


ところで昨日は考えさせられることの多い一日だった。
★午前中は福井市内の某設計事務所にて打ち合わせ。
K所長(推定年齢63歳)との四方山話のなかで「まきちゃん、世の中、あげて耐震・耐震や。木造住宅の地業もすべて地盤改良工法となってきた。これ、問題やと思わんか?」と言われ、その後も話は延々と続いた。
地盤改良工法とは基礎下の土中にポルトランドセメントを流し込み、ユンボで土と一緒に攪拌・練付して地盤を固くする工法である。僕自身は構造力学の観点からこの工法一点張りに疑問を持っている者だがそれはともかくとして
大地の上に木造住宅を建てるということはどういうことか。
地鎮祭とは、神主が「この敷地の上に生えている全ての雑草さん、全ての動いている虫さん。大変申し訳ありませんがしばらくの間だけ数十年の間だけ出ていってください。朽ちて不用となったあかつきには又戻ってきてくださいな」とお願いする行為なのだと僕は思っている。
しかし地盤改良を施した部分はコンクリに近い強度を持つ。かちんかちんである。
自然が戻ってくるとは思えない。荒涼とした風景が予見される。

★議会が終わってから、菖蒲が生えていないかと、宇根観音に行った。
菖蒲を見つけることはできなかったが、雄雉を見つけた。

@くさわらに頭と尾っぽだけが見える。


Aそっと近づくと


Bエンジン音に気付き逃げ出した。


★事務所に戻ってから、市議三人で「中学校問題のこれからのこと」及び本議会初めにあった「富津風力発電所建設計画」に対する市長報告を論議。

注:なお、「富津風力発電所建設計画」については、今度、当事者を議会に呼んで詳細を聴くとのことだった。
★午後、自宅に戻ったら、訪問入浴サービスの車が来ていた。

介護職女性4人で親父の入浴介護をしていただいたのだが、
お袋は、感謝しつつ「本当に便利な時代になったもんや」とつぶやいていた。

 08/07/17 (木) 本日はあわら市議会・臨時会

昨日の午後一時半から、「坂井地区介護保険広域連合議会・全員協議会」があわら市庁舎で開かれた。
事務局側からの議案説明に引き続いて各協議会・委員会(地域包括支援センター運営協議会・介護保険運営協議会・第4期介護保険事業計画策定委員会)所属委員からの報告があった。私は介護保険運営協議会委員の立場でしゃべったが、名委員の話を聞いていると、高齢者DV(ドメステイック・バイオレンス)の報告がいろいろあるみたいだ。
地域包括支援センターが相談窓口となるので、構成市が民生関係など幾つかの組織でネットワークを築いて対応しているとのこと。
思うに
DVは昔からあっただろう。ただし、社会がドライになったことでDVの現れ方が昔と違ってきている。社会とは自我を持ったひとりひとりの集まりだ。社会に湿り気が無くなれば潤滑機能が働きにくくなる。

午後3時から、本会議に入った。一般質問者は次のとおり
僕の質問骨子をUPしました。

いずれにしろ、現行の介護保険制度が抱える問題をいろいろ考えさせられた一日だった。おりおり日記に書いていこうと思うが、例えば専門職のしるくさんに「掲示版」コメント書き込みをしていただきたい。
★DVというわけでもないけれど、私の家にも摩擦の出ることはある。
今朝は妻を目の前にしての朝食をとりながら、「父親としての私はどうだったんだろうか。どうなんだろうか」と考え込んでいた。
こどもが親の影響をうけるのは当然だ。けれどもそれならば一応は成人に達している三人のこどもたちの性格がそれぞれに相当違うのは何故か。
親の影響をこどもが一方的に受けるのではない。成長とはこどもとしての自分が親を最初の他者であると意識し相対化していく作業でもあるのだろう。
そういうことを勘案しつつ「じゃ、父親としての私は何点くらいだったのか」と自己採点してみると50点くらい。つまり可もなし不可もなしの普通とでたが、敢えていえば普通であることがとても大事だ。

08/07/16 (水) 本日は坂井地区介護保険広域連合議会

★昨日は、「学校建設調査特別委員会」が開かれた。まず教育委員会から芦原中耐震調査に関する最終報告の説明を受け、その後、芦原中学校の現場視察。午後は、北潟小学校体育館⇒加賀市立庄小学校の現場視察というスケヂュールだった。

手話の特別授業を含めると、今までに何度も芦原中学校を訪れている。常識的に考えると改築だろうとその都度思ってきた僕は、今年2月21日の臨時議会において、少なくともその可能性を残すべきだと思い、その方向での討論をした
けれども採決に於いて圧倒的な差(17対3)で敗れ少数派の悲哀を味わわされることとなる。
いずれにしろ採択された議員発議・「(一部改築を含めた)大改修」の文言には議会内人間として従わなければならない。それならそれで教育委員会は大改修の具体的なイメージをはやくプレゼンテーションすべきだ。

私事だけれども、夜も昼もない僕は、今、某建物の確認申請書作製提出業務に四苦八苦している。例の姉歯事件の余波でその業務が段違いに厳しくなっている。設計がそうであれば施工も当然そうなる。耐震施工も不適格スラブ壁砕り打直し等を含んだ大改修施工も当然そうなる。

★柱時計が午前4時半を指し、東の空が白み始めてきた。
「死ねば死にきり。いつ死んでもかまわない」を座右の銘としている僕だけれども、日の出の時刻を迎えれば、「本日も生かせていただいてありがとうございますお代官様」と白山連邦に向かって遥拝するのが永年の日課となっている。
遥拝を終えてから、熱々珈琲を沸かした。
一昨日晩のジャワカレーもうまかったが、今朝のブルーマウンテインもうまい。
本日は、「坂井地区介護保険広域連合議会」が開かれる。一般質問をする予定です。

08/07/15 (火)  本日は特別委員会

「大分県の教員採用汚職問題」の裏側があらわになるに連れて今後いろんなところに飛び火していくのは間違いないだろう。

ところで僕が小中PTAの会長をやっていた頃、保護者の何人かから「クラスがえで担任が変わる時がくじと一緒で、当たったと喜ぶ親もいればはずれたと嘆く親もいるんですよ」とよく言われた。
つらつら観察してみるに、喜ばれる先生というのは
・こどもが好きでこどもの背丈の目線を持つ
・親のエゴを批判する視点を持つ
・上昇志向を持たない   あたりが共通項だったような気がする。

少なくとも義務教育においてはペーパーテストの秀才であったかどうかは二の次で、ひととなりそのものが問われるということだろう。その意味では、「市政掲示版」に書かれているような微調整があってもおかしくない。問題は調整の動因が「ひととなり感」ではなくて「金銭」であることで、これでは無茶苦茶だ滅茶苦茶だ。
今後は、微調整の理由も含めた一切を情報公開することに尽きると、僕は思うがなあ。

親父の僕に対する口癖は、「何になってもいいが、先生にだけはなるな。世間知らずになってしまうぞ」だった。しかし、大学の5年か6年になった頃、「教育が一番大切だ。教師になりたい」と突然に思い立ち、星雲の志を持って先輩のところへ相談に行った。

「やめとけやめとけ」が先輩の答えだった。
「おまえ、日頃の自分の言動・自分の行動を考えたことあるんか。おまえが先生になったら学校の道徳が乱れるぞ。こどもらがかわいそうや」と強く言われてその道をあきらめた。
あきらめた僕が教育世界に願うものは聖職者像ではなくて、「ひとのこころの素(もと)」を体全体で大切に育てていってくれる教師像だ。なんとなくそう思う。
★今朝の新聞を開くと、国語学者・大野晋の死亡記事が載っている。
随分昔のことだが、丸谷才一・井上ひさしとこのひとの3人対談「日本語について」の週刊誌連載をずっと楽しんでいた。
碩学が亡くなると、一個の生命が消えたというよりも無比の博識が消えたという気がします。

08/07/14 (月) 暑い日が続きます

出不精の僕は、余暇の時間のほとんどを自分のプレファブ事務所で過ごしている。
自然と交わる場所もあわら市内だし、飲食の為の外出も出来るだけ控えている。旅行の趣味もない金も無い。つまり基本的には無趣味で、傍目には面白味のない人間に映るのかもしれないが、本人はドンマイである。
例えば、旅行に行くよりも旅行記を読むほうが(多分)楽しい。活字からその場所を想像するとその在り様が幾重にもイメージされ脳が刺激される。刺激・・・これが一番だ。

20年近く前、妻と一緒にカナダはトロント郊外のオークタウンでホームステイをしたことがある。カナダといえばなんといってもナイヤガラの滝だ。旅行の前日に自宅裏の竹田川河畔に行き、排水溝からの水が川に流れ落ちる様を見詰めながら、「ナイヤガラのスケールはこれの何百倍だろうか何千倍だろうか」と想像しているうちに興奮してしまったのを覚えている。

勿論、トロント滞在は楽しかった。世話になったヘイズ氏が某製紙会社の副社長というVIPの立場のひとで、ある晩、トロント市内随一のゴージャスレストランに連れていってもらった。壁にはレーガン、E・テーラー、ヘプバーン、マックイーンなどの写真が貼ってあり、聞けばその店の常連だったそうだ。
中央にガスランプが置かれた大理石のテーブルでヘイズ夫妻と牧田夫妻がじゃがいも・ステーキをつまみに赤ワインを飲みつつ談笑していた時、ヘイズ氏が支配人に向かって片手を挙げ目でなにかの合図をした。すぐにバイオリンを持ったタキシード三人組が現れた。
プロの彼らが「旦那、おこのみの曲をどうぞ」というので、僕はザルツブルグ音楽院での修行時代を思い出しながら、「モーツアルト・バイオリンソナタ・ロ短調#033」をリクエストした(読者の皆さんにはこんな経験ないでっしゃろ(笑))。

でもかの国の美意識は気に食わなかったなあ。
店のど真ん中に、年代物のロールスロイスがどかああーんと置かれていた。四方の壁には東西の名画が隙間なく貼りめぐらされている。階段脇にはシルクロードで発掘された美術品が踏板ごとに並べられている。つまり、彼らには「余白の美」という概念が無いのである。
壁に掛けられた名画が放つ光彩は、実のところ余白に下支えされている・・というのが日本人の伝統的な美意識であり、これとは対極に位置していた。

なんか、話の方向がそれてしまった。旅行するのも楽しいけれども、しないならしないで楽しい、と言いたかっただけです。

08/07/13 (日) 自然に親しむ

★一昨日の夕方に「鹿島の森」へ行った。森の入り口のくさわらを沢山の蟹たちが走りまわっている。


孫を持つひとが一緒だったので、その孫のために数匹を捕獲。
帰途、屋台村で焼ぎょうざつまみに生ビールを一杯飲んだ。横でビールを我慢する運転者のひとはえらいなあ、といつも思う。

★昨日の夕方に建築設計業の友人が来訪。一緒に「宇根観音」へ車を走らせた。
観音川の水源となるところなので、水質は清浄にして清浄。

見上げると杉の木立だ。木漏れ日が美しい。見ていて飽きない。
「杉」は「真っ直ぐ(まっすぐ)⇒すぐ⇒すぎ」からきている。建築用材に適している。地産地消の観点からも、これらの杉を学校にふんだんに使うべきだと思った。

★帰途、細呂木地区の江川で、海老を二匹捕獲。帰宅してメダキン水槽(メダカと金魚の水槽)に入れた。

メダカが動であるのに対して海老は静である。

・・・蟹は走るし海老はじっとしている。杉は太陽に向かって少しずつ伸びている。作意のない純粋な行為だからこそ見ている僕たちの猥雑な心が洗われるのだろう。
退嬰から手を切らねばならないと思った昨晩の僕は、焼酎を一滴も飲まなかった。

★今朝の6時過ぎ。
芦原温泉舟津地区で、僕は印象的光景を見た。
某旅館玄関の植栽のところに浴衣の人妻がひとりたたずんでいる。人妻かどうか近寄って聞いたわけではないけれどもとにかく人妻だ。車を停め、しばらくの間見ていた。

切れ長の目は涙で赤く黒髪は耳元でほつれ浴衣は下がり気味で肩の白い肌が見え隠れする。しかし口元のむすびには強い意思がみえる。焦点の定まらない目の彼方にあるものが「昨晩」であることは明らかだった。
終わった愛を反芻し、「あのひとにしあわせが戻りますように」と祈っている姿なのか。
「あのひとがあれほど嘘つきだとは知らなかった。地獄に落ちてしまったらいいのよ」とじわじわこみあげてくる憎悪を「いけない、そんなこと思ってしまうからあのひとはわたしから去ったのだわ、いけないのはわたしだったのだわ」と必死に抑えている姿なのか。

勿論僕にそんな経験はない。「年齢にしても僕はまだ50代や。女の表情からそのあたりを読み取ることはできんなあ」と思いつつ車をスタートさせ、現場を離れた。

★「動植物掲示版」。蛙さんの「花」の写真が面白い。どうしたらああいう半動半静写真をつくることができるのだろう

08/07/12 (土) 忙しくなりそうな土日

昨日の僕の日記で舌足らずのところがあったようなので、補足説明する。あれは某市議会を例証したものである。

1年ほど前、僕は某市の某議員と某所で酒を飲み交わしていた。その市では産廃処理あるいは不法投棄が大きな問題となって揺れていて、彼はその問題に対して果敢に発言をしていた(その数日後、朝のTV全国版でしゃべっていたから固有名詞を出せば、気付く読者もおられるかもしれない)。

「牧田さん・・、夜になるとやねえ・・・、連日のようにヤーさんや産廃業者から恫喝の電話が入ってくるんや。当然、妻はおびえる泣く。でも、私にとって妻は人生のパートナーや、一連托生や。仕方ない」と、彼は言った。
続けて
「でもねえ牧田さん・・・、最後にそのヤーさんたちが言うんだぜ。お前にも子供がいるんやなあ、なにも月夜の晩だけじゃないぞ、と言うんだぜ。その時に私の心臓はちじこまってしまった」と、彼は言う。
僕は彼のなかに「男のなかの男」を見た。と同時に「親としての当然の苦悩」を見た。

あわら市議会には、会派・「市政会」がある。最近は勉強会・「芦津会」ができたそうだ。
日頃の言動や立居振舞いやホームページ「市政関係掲示版」の管理者であることが理由(と思われる)で僕はそのどちらにも所属していないお呼びがかからない。
この僕の置かれた状況を「ローンウルフ」と考えれば恰好いいのだが、実情は「あっぺのこ」だろう。

でも「あっぺのこ」議員にも小さいながら意地がある。その意地で、僕は上記の理由により、「道端ゴミ不法投棄について」を考察している。

08/07/11 (金) もう週末か

「大分県の教員採用を巡る汚職事件」の背景が徐々に顕わになってきている
それらが事実であれば私達は唖然としてしまう。
仮にも聖職とよばれている世界だ。例えば議員が本来監視すべき対象の産廃業者から接待や性的サービスを受けたりすることなどと同じく言語道断の行為といえる。

恐ろしいことだ。
何故恐ろしいかというと、こどもたちに与える影響が測り知れないからだ。
教師が尊敬されてしかるべき存在とは思わないけれども、教育現場でのこどもたちと教師の関係が自然体どおしでなければならないとは思う。教師の持つひととなりのそのままのさらけ出しが信頼関係をつくる礎になると思う。しかし汚職で採用された教師達は傍目にみえる性格がどうであろうと心の奥で恥部をあるいトラウマを持っており、そのことがこどもたちに伝播し得る。

もともとが手話をしていた関係で、話し合う相手はどちらかというと特殊教育の教師達が多かった。変な言い方だけれども普通教育は普通であればそれでいいと思っていた。
人生も又しかりで、目立たず普通に生きることが大切だし実はそれが一番むつかしいことなのだ、と私はかたくなに信じている。

ということで
昨晩の事務所は有志議員数人が集まっての論議の場となった。
@中学校問題
@金津雲雀ケ丘寮民営化
@入湯税
@給食方式
@旧芦原庁舎利活用  などなど
はやく解決あるいは進捗させなければならない課題は多い。

注:注目すべきは、全協(全員協議会)など廃止すべき、という意見があったことだ。
ちなみに、越前市議会に全協はないそうである。

★「JPと北陸電力が契約を締結」というメールが入ってきた。
ソフトエネルギーパスということで今後その方向は加速されるだろう。
しかしというべきかだからこそというべきか
ラムサール条約への懸念や低周波への懸念を十分に払拭させる義務が事業者にはある。「命と健康」はかけがえの無いものでその保障が最優先されてしかるべきだからだ。
★花乃杜トンネルをJR方面にぬけてしばらく行った南側平地に生えている植栽は「菖蒲」でしょうか。御存知の方、教えてください。

 08/07/10 (木) あちこち行ったり来たりの本日

今朝の6時。フルーツライン道路沿いに咲き誇るヒマワリを見た。



ヒマワリといえば思い出すのが、故・林家三平師匠の落語の一節

男・「きみはヒマワリみたいだね」
女・「まあ! 私ってそんなに素敵?」
男・「うん、ハナが上を向いている」   だ。

ま、そんなことはさておき
ヒマワリ群のなかにコスモスの赤い花弁が見えたのには驚いた。

昭和歌謡曲史上、不朽の名作と呼ばれている山口百恵の「コスモス」は「秋桜」と書く。
つまり秋の風物詩であるコスモスが今の時期に咲くことは異変である。洞爺湖サミットの記事を読まなくても、生態系の異変を感じさせるエトセトラは身辺にある。

ところで
山口百恵とともに三人娘トリオだった他のふたりに、自然、想いが行く。

♪「せんせい せんせい それはせんせーいー・・」と唄い、「・・うーん、わしも、先生になりたかったなあ・・」と思わせた森晶子は、森進一と別れてからあとも元気なのだろうか。

♪「この花は私です。窓辺に置きます」のせりふで鮮烈デビューを果たした桜田淳子は、永年住んでいた敦賀の地を離れたと聞く。元祖「かわいこちゃん」の彼女の笑顔を再びTVで見たいものだ(森晶子と違って歌は下手だけどね)。

★幾つかの所用を終えて帰宅した昼過ぎ、玄関先に「入浴介護サービス」と書かれた大型ワゴンが停まっている。中へ入ると、数人の介護女性がいて、今、入浴サービスを終えたところだと言う。久し振りのお風呂で、親父は気持ちよさそうだった、とお袋が言う。
介護職の皆様方、本当にご苦労さんです。福祉の行き届いた社会を実現するためにも、介護報酬を適正値にまでアップすることは緊急の課題だと思います。

08/07/09 (水) 梅雨空の朝

「大分県の教員採用汚職」の新聞記事を読む時、「どんな世界にもバカや大バカがいる」というのが読み手の一般的な印象だろう。聖職というレッテルにガードされた狭い枠組みのなかで起こった事件だ。

普通このような事件が起こるたび、TV画面に「申し訳ありませんでした。今後二度とこういうことのないようにすることを誓います」という百万遍以上くりかえされたはずの虚言がセレモニー的にでてくるのだが、思うに
「申し訳なかった」と謝る対象はわたしら視聴者ではなくて、贈収賄による点数水増しで採用されてしまったこどもだろう。
贈賄側はこどもに対して決して金銭であがなうことのできない罪をつくってしまった。
収賄側はそれを是としてしまった。

聖職という美称とは180度対極にある行為が教師職の出発点であったことを自覚するとき、(普通の感覚のこどもならば)アイデンテイテイの維持が極めて困難になるはずだ。人生を通じて大きなトラウマが残る。
贈賄側校長夫婦のこどもに対する盲目的愛の行使が、結果的には子殺しにつながったといえる。

親がこどもを可愛く思うのは当然だ。しかし、と同時にこどもも又他者であり、確立された個人としての権利をもっている。人権を尊重しなければならないことは、日本国憲法にも書かれている。

08/06/09 (月) 昨日の日曜日

昨日の夕方、私は福井市で開かれた「後期高齢者医療制度」緊急集会に行ってきた。私事だけれども、家族のことでいろいろ錯綜する思いがあり、熱心に聴いていた。メモも沢山とった。6月議会で発言するつもりだし、そのための体勢も整えなければならないのである。

帰宅し、ジャガイモとエンドウマメの煮付けをつまみにしての晩酌。
TVをつけると、きょうもタイガースが勝っている。監督の采配が効いているのかどうかはしらないが、「球界の寛美」と呼ばれてきた岡田監督の顔が怜悧な勝負師の顔に見えてくるから不思議である。
「好事魔多し」という。気を緩めることなく今後もジャイアンツを徹底的に叩いていって欲しい。ジャイアンツの原監督は、甘ちゃん顔ではあるけれども、年上の嫁さんをもらったので決して嫌いではない。ま、居場所が悪かったということやね。

酩酊でE気持ちになったあと、 小説本・「乳と卵」を開いた。本年度の芥川賞受賞作だ。
議員になって一番困ったことは小説を読む時間が無くなったことである。
予算書等の数字や散文資料と向き合うのは議員の立場として当然だとは思うけれども、散文はいつも乾いている。たまには詩小説と向き合うことで心に暖かい湿り気を入れたいと思う。
現実はなかなかむつかしいのだが。
★今朝撮った市道・三国ー芦原線歩道のガードレール。局所局所で傾いている。


先日の産業建設常任委員会管内視察で確認したし改修予定になってはいるが、とにかく危ない。
焼付塗装のこういうスチール製ガードレールに損傷を与える要素は、錆と根腐れだ。塗装の裂目から浮き錆が始まり侵食錆が進行する。数年に一度の塗装メンテが唯一耐久性を保証するのである。
★東京秋葉原で無差別殺人というとんでもない事件が発生した。
評論家がいろんなことを言うだろうが、動機の一番深い部分は本人にしかわからない。しかし程度の差はあるとしても今日的な社会背景が部分的に起因しているとだけはいえるのでないか。
「後期高齢者医療制度」緊急集会での訴えを聞いていて思ったことでもあるが、社会的弱者の一方である高齢者に対する物心両面の安定化と一方の弱者であるこどもたちへの教育的配慮が崩れたら、世の中はすさみにすさんでいく。

08/07/08 (火) きょうは梅雨空

★先日の晩、たまたま事務所に集まっていた四人で蛍を見に行った。
自宅から意外に近い場所に沢山の蛍がいた。

飛び交うホタルを撮ったのだが小さく淡い光なので、写真では見えない。

ひとりのひとが指先でホタルたちをつまみ事務所に戻った。

A3版の紙で器用にホタルバッグをつくり、持ち帰っていった。

★今朝の5時、僕は自宅近くのスーパーマーケット「ビッグ・マート」駐車場にて、猟友会のひとからいろんな話を聞いていた。


坂ノ下「農家組合」から市に対して出されていた「農作物被害に関してのカラス駆除」要請を受けた猟友会による「カラス駆除」の立ち合いが、いわば僕の立場だった。

そもそもが、野鳥に害鳥はいない 獣に害獣はいない。それぞれがそれぞれの立場で食うが為の生活をしているだけだ。しかし時には人間の「農」と衝突する。そして敵対する。人の命も動物の命も大切だけれども、そうとばかり言っていることのできない現実のあることも確かである。
★仕事の打ち合わせを終えて事務所に戻った午後8時。
麦焼酎「いいちこ」をコップ片手にTVのスイッテを入れた。
民放はグルメお笑いバカ番組なので「ケッ」と思いつつ「NHK総合」にチャンネルを切り替えたが「歌謡ショウ」だった。僕にとっての音楽はクラシックだけだ。

仕方なく「NHK教育」にチャンネルを切り替えたら、この前会ったひとが出ている。
番組は全国版で、「東尋坊での自殺救済対策にとりくむ茂さん夫妻」を特集していた。
一ヶ月程前に「おろしもち」が看板の小さい店を衆議院議員・糸川正晃さんと一緒に訪れた時、その茂さんの奥さんからいろいろ話を聞かせていただいた。一年間に3万人以上がこの日本列島で自殺している。様々な要因のなかに現在の政治の歪みが起因している度合いの大きいことは言うまでもない。

僕の事務所で初めて糸川さんを迎えてのミニ集会を開いた時、あるひとが、「貴方が国政に参加した動機はなんですか?」と質問した。
「自衛隊で一年間に何十人ものひとが自殺している。そういう社会では駄目だと思った、改革をせねばならないと思ったのが動機です」が彼の答えだった。

自殺者のでない社会こそが未来を志向することのできる社会である。

08/07/07 (月) メダカに餌をやりながら

一昨日の晩は、有志議員数人と「野鳥の会」のひとが事務所に集まった。富津地区に建設が予定されている「風力発電所」の是非がテーマとなった。
ずっと前からソフトエネルギーパスのひとつである「風力発電」は生態系を壊さない正義の味方だと、僕は思っていた。例えば火電のようにはCO2を排出しないし、原発のようには万一の事故の場合の悲劇の蓋然性もない。

しかし、昨年度において、「伊方風力発電」による近隣住民への被害を大手マスコミが取り上げたことを某市議から聞いた。そして、人体に影響を与える「低周波あるいは極低周波」の存在を初めて耳にした。あるいは「野鳥の会」のひとから、ラムサール条約の登録湿地である片野鴨池に生息するマガンの餌場が坂井平野となっていることでの通り道遮断あるいは迂回の可能性を聞かされ、懸念を感じるに至っている。

勿論、建設計画の契約は、事業者であるJパワーと建設予定地である富津地区との間のいわゆる民々契約であり地区の同意が全てではあるけれども、どういうかたちの事業であれ、「健康と命」が最優先されることは当然だ。

行政側から聞く限りでは、Jパワーが国内最大大手であり信頼性も厚く懸念はないとのことだ。けれども、「低周波」に関する論文やブログがあり、何よりも伊方風発に関する住民被害がマスコミに取り上げられたという事実がある。

Jパワーはそれらに対してのアカウンタビリテイを積極的にやらなければならないと思う。
懸念が杞憂であることを実証してこその契約締結だろうし、「公害防止協定」に文言を十分に織り込むことが不可欠だ。

我々有志議員もこのことに関する勉強を重ねていかなければならない、と思っている。


★昨日の朝に一斉草刈を終えた竹田川河川敷を「金津大橋(通称カモノハシ)」からから眺めた。
さっぱりした光景となったが


河川敷に降りて歩くとゴミが目立つ。
背高く繁った夏草群のなかにひっそりと隠れていたのに、突然裸にさらされたというところか。

08/07/06 (日) 竹田川河川敷一斉清掃から戻って

先日終了した6月議会で議案第65号・「あわら市金津雲雀ケ丘寮条例の一部を改正する条例の制定について」が採択されたことにより、金津雲雀ケ丘寮は民営化に向かって動き出した。その動きの軸は、正規非正規の間の労働条件格差是正にある。

昨日土曜日の猛暑は我々に温暖化による地球環境悪化の懸念を目に見えるかたちで投げかけたものといえるのかもしれないが、G8を前にしてここでも先進国vs発展途上国格差是正がキーワードとなっている。

日本が高度経済成長に入る直前の東京下町を舞台とする映画「三丁目の夕陽」を僕はみていないが、原作である西岸良平の同名漫画は読み続けてきた。
下町人情のほのぼのが前面に押し出されている。しかしある本によれば、その頃の隅田川は黒ずみ泡ぶくぶくでヘドロ化していた。下町工場のどの煙突からも黒い煙がもうもうと上がっていた。経済成長の進むなか、’70年代初頭には水俣病問題を筆頭に日本は公害列島と呼ばれていた。
仲の良い友人が水俣病問題に熱心にとりくんでいた為、石牟礼道子の本を読んだり砂田明の1人芝居を見たりユージン・スミスの写真展に行ったりしてこの世の地獄を思った。
そのような道程を過去に含んでの今日的技術文明社会に住む我々は、時代に翻弄されあるいは犠牲となっていったひとびとの屍を思うべきである。

08/07/05 (土) 菖蒲について

★知人から、「菖蒲の球根を持っているひと、知らないですか?」という電話が入った。
北潟湖畔「花菖蒲園」の花菖蒲ではなく、菖蒲湯のための菖蒲である。湯にいれるといい匂いを発する菖蒲である。
こどもの頃、菖蒲湯に入るのが、とても楽しかった。しかし、時代の変遷で菖蒲湯の風習はすたれてしまい、今はなつかしさだけが残っている。
ということで
菖蒲球根に関する情報をお持ちの方、おられましたら、御一報ください。
★ガソリン代の高騰で、朝修行の行動範囲が狭められてきている。仕方のないことで、今朝の5時に僕は自宅から比較的近いクレヨンランドにたたずみ、昇る朝陽を眺めていた。


気づいたことがある。
集落から集落の間の道端に捨てられているものは空缶・ペットボトルが圧倒的に多い。しかし、クレヨンランド周辺に捨てられているものの殆どは、コンビニ弁当の残骸だった。公園で弁当を食べたあとの不法投棄ということだろう。

気になったことがある。
ワンボックスカーのなかで、若い男女がひとつ毛布で体を重ねて眠っていた。それが悪いとは言わない。しかし日の出とともに散歩をするひとたちが行き交う場所だ。加えて、しばらくするとこどもたちの登校も始まるだろう。場所柄をわきまえる必要がある。

08/07/04 (金) 本日は広報編集委員会

昨日の午後は、「平成20年度第一回介護保険連合運営協議会」が開かれた。
7月16日開催の「坂井地区介護保険連合議会」を前にしての運協だ。四月になってから、メンバーが若干変わっていて、そのことにちょっとびっくりした。

介護とは違うけれども、僕は、6月議会最終日に、「請願第3号「後期高齢者医療の廃止乃至は見直し」の紹介議員として山川(知)議員と共に賛成討論をした(多分、ケーブルTV29チャンネルでの放映が始まっている。よかったら御覧ください)。

さて
昨日の運協で、僕は、日頃から気になっている施設介護のことを聞いた。
「ユニットケア理念は小さなコミュニテイ志向という意味でそれなりにわかる。しかし相部屋で十分の被介護者も沢山居るはずだ。第一、入所経費が全然違う。国は何故ユニットケアのみを増床許可としているのか」と聞いた。

「団塊の世代のリタイアにより施設の対応は矛盾をよんでいる。しかし何年か何十年かあとにくる人口減少社会のなかで入所希望者も減っていく。結果として無駄な箱物だけが残り得る。ユニットケア志向はそれを勘案しているものと思われる」が、事務局の答えだった。

確かに管内入所希望者(要介護3以上で)は今現在で二百数十人居る。(していないとは思うが)議員風を吹かしてのバカな圧力などを使用しない限り、じっと待っていなければならない現実がある。

さまざまな矛盾を考えると、やはり我々団塊の世代は次世代に一層の負担を与えるという意味で、存在そのものが邪魔だということになる。

我が身を振り返ってみると
僕は周囲に対して迷惑をかけてきた。いい子でもなかったしいい親でもなかったしいい夫でもなかった。女性に対してエッチなことを言ったことも、二、三回はある。学校問題に関しては、いい地域住民でもなかった。

邪魔な存在であるよりも消滅したほうがいいのか、とも思う。
しかし実のところ、顕在意識がひとを決定づけるのではない。
決定づけているのは潜在意識乃至は本能だ。
その部分でひとは死を恐れる。最低限健康で文化的な生活を営んでいきたいと願う。
だからこそ日本国憲法はその文言を明記しかつ保障している。

であれば、国の政策が変わらねば、と強く思うのである。

閑話休題
★広報編集委員会が終了して控室での雑談のなかで、「限界集落」という言葉が出てきた。
あわら市経済産業部部長・坪田清孝氏が書いた「農業集落再生のみちすじ」(全国農業会議所発行・¥900−)にも頻繁に出てくるこの言葉は、高齢者世帯が過半を占める集落を指すそうだが、国の礎である農業が荒れると集落が荒れ人心が荒れいつかは滅んでしまう。
農業の活気を保障することは公の責任だ。

08/07/03 (木) 熟睡ののちに熱々珈琲を飲みながら

昨晩の来訪者との話のなかでのテーマが「同一労働同一賃金」に移った。これは労働基準法の精神だろうし、だから正規非正規の格差是正があわら市でも焦点になっている。

ところで、議員労働の対価は報酬と呼ばれている。
その報酬が議会出席・委員会出席に限定されるならば現在の額は明らかに高く、福島県矢祭町議会のように出席日数への対価としてその額を決めることで十分だ。だけれども議員の仕事はむしろそれ以外の部分、日々の目に見えないものの積み重ねにある。そして、その仕事内容は個々の議員によってさまざまだろう。

例えば、僕が自分のHP日記を「議員日記」と銘打ったり「市政関係掲示版」を開設していることもその作業のひとつだと自分では思っている。

さて、昨日の「市政関係掲示版」に
「まきさんがぶざまな議員と市民から言われるのは・・・」と書いてあったくだりを苦笑しながら読んでいた時、某議員の言葉を思い出した。

「貴方が他の議員の相当数から冷たい視線でみられているのは、「市政関係掲示版」にえぐいことも含めてのさまざまが書き込まれてくることや。あたっていることがいろいろあるし、その分、無言の風当たりが管理者に来ている」と言われた。

確かに、「日記」書き込みでも「掲示版」運営でも手間のかかるものであり、結果として「ぶざま」と思われたり「冷たい視線」で見られたりするのであれば、ワリが合わないことになる。そういうことをせずに無口を決めこめば楽である。

にも関わらずホームページを続けている理由は
「他者からどうみられるか」よりも「自分がどうすべきかどうしたいか」を座右の銘としているからに他ならない。
★昨日の昼は、芦原中学校にTさんと共に行って、手話の特別授業をしてきた。
対象は一年生の男子生徒ばかりで、一年生というのはまだ小学生の延長みたいな感じだった。

08/07/02 (水) 昨日の一日

昨日の朝は、県住宅センターへ行って打ち合わせ。確認申請業務のハードルが高くなっている。勿論、姉歯事件の影響だ。実質的な部分でのハードル上昇はある意味当然だが、字面の整合性という瑣末な煩雑さも感じる。

打ち合わせを終えてから福井市内某所にて他市市議会議員達との会議。
昼の休憩時は、名も知らぬ公園の木陰で藤沢周平「天保悪党伝」を読んでいた。江戸期の庶民を活写するこのひとの本が昔から好きである。
途中、携帯コールがあり、掲示板一時閉鎖のことを聞かれた。

所用を終えて事務所に戻った。夕刻までの来訪者三人。
ここでも、掲示板一時閉鎖の話となった。「匿名OKのまま再開すべし」と言われた。

夕食を終えてパソコンに向かいメールチェックをすると、「掲示版再開を・・」が入っている。

電話が入って、「意味不明短絡文は、独断で消去すりゃいいが・・」とも言われた。

というようなことで
・「市政掲示版」を読んでいるひとが、どうも多いみたいだ。
・だとすると私製掲示版だからといって恣意的に開閉するのもよくない。
・玉石混交は掲示版の宿命だ。
結論として
・「ハンドルネームはひとつだけ」を制限条項として再開します。
(注:但し、勿論ハンドルネーム持ち主の特定は不可能)

★今朝の4時半、僕は清滝地係にいた。猪害対策のための電気柵を見るためだった。電気柵は6月議会・「産業建設常任委員会」での行政側説明どおり堅固なものではない。これからは固定柵に取り替えられていくという。
数年前、ここ清滝で猪ではなくシカに出会ったことがある。お互い、目を合わせた。シカの目があまりにもかわいらしくて思わずデジカメを取り出した。その瞬間、シカは逃げ始めた。跳躍力がすごくその逃げ足のはやいこと。
「うーん、まるでカモシカや・・」と感動したが、シカは恐らくは日本ジカだった。


山のふもとに足を延ばすと、そこは「清滝の堤」だった。冷気で気持ちが凛とする。


目を転じると、既に休耕田となっている棚田。こども達幼少だった頃、ワンボックス軽自動車で妻子を時折ここへ連れてきた。春の陽射しのなか、おにぎりをほおばりながら蓮華畑をかけめぐるこども達の姿が今も目に焼きついている。


帰途、高塚地係の道端で見たゴミ。
ご丁寧に袋に包み紐でしばったまま捨てられている。誰かが拾いやすいようにとの屈折した親切心なのか。
人間はみな愚かだと思うけれども、愚かさにも段階がある。

08/07/01 (火) 7月突入

さて
「市政関係掲示板」が又々荒れてきています。読んでいてあまり気持ちのいいものではありません。

・この掲示板が出発した頃は現在とは違った雰囲気でした。いろんなひとたちからの市政に関する提言がありました。多分ハンドルネームだから書き込みやすかったのでしょう。

・二年程前に「荒れ第一波」が押し寄せてきました。その時は管理者に過ぎない僕への言及もあって、自身書き込みをしていました。けれども相手に返事を書くことがじきに虚しくなっていったのを覚えています。

・6月議会一般質問で「市民会議室」復活の可能性を問うたところ、「10月に市ホームページをリニューアルする際に復活させたい」という答弁がありました。ですからせめて9月いっぱい迄はこの「市政関係掲示板」を続けたい、と思っていたのですが・・。

・議論が議論でなく中傷になっていく過程も又ハンドルネーム使用だからでしょう。「人間心理の深層は愛と憎悪のアンビバレンツで構成されている」というのが心理学者の言い分ですから仕方ないのですが、マナーの観点から、感情過剰の部分は鍵付手書日記に収めるのが大人というものです(?・・子供も書いているのかな・・)。

・身近なひとたちに聞くと、「閉鎖すべし」「本名使用限定」「まだかわいらしいもんや」など意見はさまざまです。つまり、自分自身で今後を決めなければならない。
ということでいろいろ試案した結果、一応、閉鎖いたします。
復活時には制限条項が加えられるだろうと思います。
★「スナップ掲示板」に、福井震災による被害状況写真が載せられています。
★早朝に高塚の道端で見つけた野いちご。

清楚で可憐で、いうならばこのホームページを読んでくださる全ての女性読者の容姿である。