2009年02月


09/02/28 (土) 昨日思ったこと


★市議会が3月2日から始まる。それに先立って調べたいことが幾つかあったので、あわら市庁舎と、関連で坂井市庁舎を往復した。所管課でいろいろ聴いた。
坂井市庁舎までは自宅から15分。ひとまたぎという感じだ。


金津中学校のPTA会長をしていた10数年前、私は、坂井郡PTA連合会会長及び福井県PTA連合会副会長を兼務していた。その時、県内各地のPTA代表から、「坂井郡の6町はそれぞれ背丈が似ていてかつ独自性もある。坂井郡の中央を竹田川が流れていて、上流に奥山・里山を、中流に広い坂井平野を、下流に海を持つ。つまり豊かな自然に彩られている。それがうらやましい」と言われた。

灯台元暗しで、言われるまでそんなことを考えたこともなかったが、それ以後はアンテナがはるようになった。つまり、郡内さまざまの場所に出かけるようになった。


★春うららかな土曜日の朝なのだけれども、



フルーツラインに接続する道路脇には空缶が散乱していた。とても見苦しい光景である。

09/02/27 (金) 昼下がりの読書のあとで


★あなたに


書物のなかに 海がある
心はいつも 航海をゆるされる


書物のなかに 草原がある
心はいつも 旅情をたしかめる


書物のなかに 町がある
心はいつも 出会いを待っている


人生はしばしば
書物の外で すばらしいひびきをたてて
くずれるだろう


だがもう一度
やり直すために
書物のなかの 家路を帰る


書物は
家なき子の家

     寺山修司・「五月の詩」から


★昨晩は、手話サークルが開かれたこともあって事務所への来訪者が多かった。
考えてみると、手話サークル「かけ橋」ができたのは昭和53年頃ではなかったか。
なんせ坂井郡内では一番初めに出来た手話サークルで、30年間ほど続いていることになる。このかん、実に沢山のひとが入ってきて辞めていったが、そういうひとたちの例えばAさんの笑い顔・Bさんの怒り顔・Cさんの泣き顔などいろんな表情が思い出される。
辞める理由は、県外への転出・結婚・出産・子育てなどさまざまだった。来ていた時期が短期間であったとしても、その後の人生のなかで役立つことができれば大変に嬉しい。役立たなくっても嬉しい。
手話サークルを今後も続けていきたいと思っています。
「継続は力なり」  です。

09/02/26 (木) メダカ・・私が一番愛しているのはメダカ 


★昨晩は、坂井市丸岡町⇒坂井市坂井町と動き、会議に出席していた。
同席の坂井市議によると、あちらも三月議会間近で準備にいろいろと忙しいみたいだ。私も、やらなければならないことが沢山あり、考えただけで疲れ気分になる。帰宅し晩飯を喰っている時、(プライベートなことだけれども)とても気になることを聞かされた。考えてもどうしようもないので、とりあえず布団に入ったが、深夜3時に目が覚めてしまった。
仕方なく事務所に入り、深夜ラジオをつけると、青江三奈の「伊勢崎町ブルース」「長崎ブルース」「池袋の夜」が次々と流れてくる。
森進一とともに「ため息路線」と呼ばれたこの大歌手の「伊勢崎町ブルース」を初めて聴いた時、その声質にびっくり仰天した。聴く度、序々に好きになっていったが、青江三奈は平成12年に膵臓ガンで亡くなった。50代で、早すぎる死だったといえる。


★あわら市庁舎の梅が花開いてきた。



わたくしあなたうめ ももさくら声
  たてていえば 胸あたたまる 日本の言葉  信夫澄子        である。


本日は今年に入って一番嬉しく興奮した日だった。何故かと言うと、江川でメダカの群れと遭遇したのである。春の陽射しを浴びてメダカが群れをなして泳いでいた。私は私の影が水面に映らないようにつまり刺激しないようにしてメダカの群れをじっと観察していた。


よく見ると群れはふたつに分かれている。大きい群れと小さい群れである。さらによく見ると大きい群れはふたつに分かれているようにも見える。
突然、群れは円卓会議を始めた。
私は、個々のメダカをじっと観察した。

でしゃばりのメダカもいれば、遠慮がちのメダカもいる。黒いメダカもいれば、黒くないメダカもいる。大声の乱暴そうなメダカもいれば、ブツブツと独り言を小声でいうメダカもいる。何故そういうことが判るのかというと、背びれの動かし方で私には判るのである。
某市議会と同じではないかと、私は思った。


★私は大変にシャイな人間だ。初対面のひとに対してはとても緊張するし、うまく言葉が出てこない。目線も伏目がちになってしまう。
そのせいだろう、「牧田さんは愛想が悪い」と、時々言われる。自分では決してそうは思わないのだが、結果としてそう思われてしまうのは、そういう立居振舞だということだ。
直せるところはしっかり直していきたい、と思います。

09/02/25 (水) 昨日の全協 

★昨日は全協(全員協議会)。
午後1時半に始まった全協が終わった時、時計は午後6時を過ぎていた。
全協の最後に近いところで、某議員の質問に答えるかたちで、市長は自分の本意を述べた。
合併協の合意事項でもあり、2年前の市長選における公約でもあった「あわら中改築」が、市長と市議会との間のねじれ現象により後退していったことせざるを得なかったことを語り、かつ本意としては公約にあることを語った。その心情がわかりすぎるほどよくわかる。
全協終了後、某議員と話をしていた時、「芦原中を下におろすならば改築でもなんでも賛成する」と言われたが、変な話だ。

事務所に戻ると、ふたりのひとが来訪。学校問題をいろいろ語り合った。
合併してから5年も経過し、芦原中の生徒も金津中の生徒も、例えば私にとっては同様に大切な息子たち・娘たちだ。つまり芦原中も金津中もイーブンにならなければならない大切な箱物だ。芦原vs金津の図式を標榜するのはアナクロだと私は申し上げたい。

★今朝は起きると雨である。しかし氷雨ではなく、暖かい。
昔、小林麻美は「雨音はショパンの調べ」と唄ったが、雨音のリズムにはなにがしか聞かせるものがある。もう、雪が降ることはないだろう。これからは日一日と暖かくなっていくだろう。

そう思いながら朝飯を黙々と食べていたら、「うちのじいちゃんも、納棺の際、<おくりびと>みたいに丁寧に扱ってもらった」とお袋が横で言う。入院治療中だった私はその場に立ち会うことができなかったが、「そうであれば親父も本望だったろう」と、思うのである。

09/02/24 (火)  おくりびと

★映画「おくりびと」が米アカデミー賞外国語映画賞を受賞したことで、宗教学者・中沢新一が昨晩のラジオに出て映画の解説をしていた。
若い時は終末を必ず場末の映画館で過ごすほどに映画好きだった私だけれども、桃井かおり主演の映画(タイトルは忘れた)を最後にここ30年は観ていない。
だけど、昨晩に中沢新一の解説を聞いていて、話題の映画を観てみたい気分になった。

ひとの死が家庭内での出来事ではなくなってから、既に数十年は経つ。そういう現状に対する警鐘の意味がこの映画には含まれているという解説者の言葉にぐぐっときたわけです。
今は完璧に戻ったけれども、昨年は自分自身が生死の岐路にたたされたし、あるいは老々介護だった親父が死んでしまった。
療養の過程でもひとの死をみてきて、「生を考えることと死を考えることは裏表」という日頃の思いがますます強くなったので、上記のような映画に魅かれるのだろうと思います。

★坂井市三国町新保に「三国昭和倉庫館」がある。昭和のガラクタ満載の倉庫で、我々団塊の世代にはとてもなつかしいものばかりだ。日本が高度経済成長に入る前の、物質的に豊かではなかったが心の絆だけは強いものがあったという時代精神の雰囲気を、倉庫のなかで味わうことができる。
オーナーは建築工務店を経営していて、解体建物がある毎に、めづらしいものを集めてきたのだという。皆さん、是非一度どうぞ

09/02/23 (月)  きょうは忙しくなりそうだ

22日午後5時40分頃、福岡市中央区六本松1のNHK福岡放送局の警備員から「放送局の出入り口付近で爆発音がし、煙が充満している」と110番があった。

 福岡県警中央署員らが駆けつけたところ、既に火は消えており、東側の1階玄関に卓上コンロのカセットボンベの破片が散乱し、焦げたバッグやガソリンのような液体が入ったポリ容器が見つかった。けが人はなく、建物への延焼はなかったが、爆発直前にバッグを置いた不審な男が防犯カメラに映っており、同署が現住建造物等放火未遂容疑で行方を追っている。

 同署などによると、身長1メートル70ぐらいの若い男で、サングラス、マスクを着用。東玄関は二重の自動ドアで、男は2枚のドアの間の床に茶色のバッグを置いて立ち去った。その後にバッグから火が出た様子が映っているという。

 現場では、ガスボンベ1個が三つに破裂し、天井の一部が壊れた。ポリ容器は6リットル入りでバッグに入っていたと見られる。容器の注ぎ口には長い布が差し入れられていたという。同放送局によると、爆発当時、1階エントランスホールには受付の女性職員2人と警備員の計3人がいたが、約20メートル離れており、無事だった。

(2009年2月22日21時44分  読売新聞)

★40年近く前、つまり1970年代前半の頃の日本は、政治の季節が終わり公害問題が噴出してきた頃だった。支持を全く失った連合赤軍などの過激派が爆破テロを繰り返していた時期でもある。

上述の事件がNHKという報道機関の報道姿勢に対するテロなのかどうかはわからないのでコメントのしようがないのだが、報道姿勢に対するテロだったとしたら言語道断である。

で、スケールはぐっと小さくなるが、報道や傍聴は全く自由であるべきことを申し上げたい。申し上げる対象は委員長になるかな?。
あわら市議会の特別委員会に於ける傍聴不許可のことが一週間程前の「市政関係掲示版」に出ていた。行政は市税で動き議会メンバーは市民の付託によって動く。つまり委員会がどの委員会であれ、その内容を傍聴させないというのは、ダメなのである。本末転倒なのである。第一、聞かれて困ることなんてなんにもないよ。
カッコつけて言うのでは決してないが、市政の主人公は有権者つまり市民だ。

09/02/22 (日) きょうは日曜日

★今朝、午前8時半の北潟湖畔。


うららかな朝陽を浴びて
遠目には、「春の海 ひねもすのたりのたりかな」・・・である。(写真・左)   
しかし、眼を足元に転じれば、漂着ゴミがのアシの根元にへばりついている。(写真・右)
このクリーニングは個人ボランテイアでは無理だ。なんとかならないだろうか。

★あまりにもくだらないことが新聞紙面を賑わす昨今だが、こんな時読んでいてほっとするのが自由律俳句の「種田山頭火」だ。

うしろすがたのしぐれてゆくか

分け入っても分け入っても青い山

どうしようもないわたしが歩いてゐる

酒がやめられない木の芽草の芽

明治期に大地主の家に生まれ、しかし母の自殺を経験しその後の放蕩生活のなかで家屋敷全てを失った山頭火は、以後57歳で死ぬまで放浪の旅を続け周囲に迷惑をかけ続け反省と自虐を繰り返した。

★放浪の旅とはつまるところ自然への回帰だと思うが
煙草をきっぱりと止め、たしなむ程度にまで酒を控えるようになった私の今の現世的欲望が何かというと、海ですね。海を見に行くことです。
きょうは、日曜日。時間の合間に日本海を見てこよう。


09/02/21(土) もう週末か

★昨日は冷たい晩となってしまった。外へ出ると、上空を舞う風が、「ひゅるるう ひゅるるう」とうなりをあげている。何故か物悲しくなり、八時に自宅へ戻った。
浴室に行き脱衣場で全裸になった。鏡を見た。私の体から贅肉が削げ落ちている。熱い湯を全身にかけ、頭のてっぺんから足のつま先までを丁寧に洗った。

真新しい下着に着替えてから、布団にもぐりこんだ。
煎餅布団の中で、伊集院静著・「岬へ」を読了した。夭折した絶世の美女・夏目雅子を妻とした、酒をこよなく愛する小説家のいわば青春自叙伝である。快男児の正義感ぶりが前面に出ているけれども、その実、「人は生まれて死ぬ。そして死に別れを繰り返す」が通底する基調である。
バカな私はなかなかその境地に至らなかったが、還暦を過ぎてからようやく実感するようになった。

★今朝、ガソリンスタンドで知人に呼び止められた。
私の私生活の今の流れを知っているみたいで、「?」と思ったのだが、「ホームページ日記を毎日読んでいる」というそのあとの言葉で、理由がわかった。公開日記だから多少上品に書いてはいるけれども、基本的には日々生起したことを、飾らずに、もう10年間書いている。付け加えるならば、公開日記の特徴は「誰が読んでいるのか全くわからない」という点にある。
「地区からひとが出るんで表だっての応援はできないが、裏での応援はする。がんばれよな」と言われた。謝謝(シェーシェー)である。

★昨年末から今年にかけて、何人かの知人の葬儀に参列した。会場で焼香の折、じっと遺影を眺めていると、共通する思いが浮かんでくる。
「あの遺影におさまるのは、本来俺だったんだなあ」という思いが浮かんでくる。
三途の川を渡りかけて又戻ってきた人間の感性が独特になったとしてもそれは仕方ない。
とにかく、この世とあの世は背中合わせやなあ、と思わざるを得ない。

 09/02/20 (金) ちょっと暖かい早朝

★昨日の晩、コンビニへ行った時、駐車場である人に呼び止められた。
「学校問題で、市民のみんなが辟易しているぞ。他にも大きな課題があるやろうね」と言われた。みんなが・・という言葉には常に誇張があるだけでリアルではないのだけれども、事情をよく知らない人たちにはそう映っても仕方ない。

私はくどくど言うのが嫌いなので一度だけ簡単に流れをふりかえる。
二年前の市長選挙でわずかの差ではあったけれども橋本氏が当選した。当選した氏の公約は2校存続であり芦原中学校の、体育館を含めた改築であった(私は当時の合併協の代表の家に行き、その人からもそのことを確かめている)。
市長選挙のあとも、議会に於いては統合派議員のほうが数が多く、2校存続議決がどんどん先延ばしされ、承認されたのは市長選挙の年の翌年だった。
そして旧統合派議員は芦原中改築に難色を示した。先の市長が出した統合中学校・55億案に賛同しておきながら、その金額をはるかに下回る両中整備事業案を否定し、議員発議で、「芦原中学校大規模改修・金津中学校改修(含一部改築)を通させた。
このあたりから、私の耳に裏話が伝わるようになってきた。

そして昨年臨時議会での議決となったわけだが、私には体育館を改築させてはいけないという理由が今でも全くわからない。つまりアカウンタビリテイができない。この時期だからこそ合併特例債が使え市の持ち出しの差は微々たるものであるにも関わらずだ。
更に、「仮に25億円以内でできるとしても改築してはならない」というわけがわからない。
私は別に旧芦原町民ではないのだが、旧芦原町民の願いがひとつひとつ消されていくのはしんどいことだろうと思う。

私は議員であるので、数の議決に従わなければならない。それは当然だ。
ただし、アカウンタビリテイもできないのではこれも議員として悲しい。ひとは多数派に入って、無口でいるほうが楽だし心地よいのだろうが、心地わるくてもそうせざるを得ない場合がある。


★私は事務所を二階から一階に移動した。そして最近では夜の9時頃まで事務所で雑用をこなす日々が多くなってきた。そしたら夜の来訪者が増えた。電気がついているので寄りやすいのだろう。
ただ今午後二時。窓外の雨をみながら昨日の夜の訪問者を思い浮かべているうちに、映画「雨の訪問者」を思い出してしまった。私がまだ20代の頃の米映画だ。チャールズ・ブロンソンが主演のいい映画だった。C・ブロンソンといえば髭剃りクリームCM「ウーン、マンダム」で有名になった俳優だ。ステイーブ・マックイーンが主演の米映画「大脱走」にも、閉所恐怖症の役どころで出演していたが、くしゃくしゃ顔でありながらもしぶい俳優だった。
ところで
若い頃私はステイーブ・マックイーンによく似ていると言われた。若い人は知らないだろうが、彼は米国映画界きってのタフガイだった。しかし、早くに死んでしまった。死因については「J・ウエインは何故死んだか」という本に詳しく書かれているが、それはともかくとして、私はマックイーンほど格好よくはないしタフガイでもないです。

09/02/19 (木) 早朝に牛乳を飲みながら

★林田彌三吉さんが亡くなった。連絡があったのは昨日の早朝。
金津町議時代に議長をした人で、私は随分可愛がって頂いた。去年の大晦日に御自宅を訪問し、伏せたベッドでいろいろ話を伺った。もう少し暖かくなってから再度訪問しようと思っていた矢先の訃報だった。午後に熊坂在住の元議員・山下氏と共に林田宅を訪れた。冷たくなった遺骸は随分やせ細っていた。
享年77歳。安らかにお眠りください。

★中川昭一という人は、ホテルで自殺した故・中川一郎国会議員(「北海道のヒグマ」と呼ばれた)の御子息であること以外は何も知らない。その彼のG7での醜態(酒好きなのは一向に構わないがあの席ではまずかったろうな)を巡って麻生太郎総理の任命責任をめぐる自民党内の動きがかますびしいが、私は、この人に実は好意を持っている。つい先日、「実は、私は郵政民営化に反対だった」と発言したことも、そりゃあ時の責任者の一人であったことを考えると封印しなければならない言葉かもしれないが、顔と同様ある意味素朴で無邪気だ。

郵政民営化選挙の時だからもう4年ほど前の話になるが、ここ衆議院二区の自民党候補者に対しての推薦状交付を巡ってここあわら市議会が討論をしたことがある。
自民党支持者ではなく当然民営化に反対だった私は、「推薦状に名を連ねない」と言ったのだが、反対だったのは他に共産党議員だけだったと記憶する。

★10年間も議員をしていてつくづく思うのだが、(国会議員・県会議員・市会議員・町村会議員で差はあろうが)、政治家に一番必要なのはわかりやすさだ。首尾一貫性と言ってもいい。勿論現実の政治的な動きのなかで変わることがあることも事実だが、その場合はアカウンタビリテイの説得力が不可欠だろう。


★脳内出血の発作から4ヶ月半が経過した。
発作当時、妻は、主治医から、「車の運転は勿論できないし、足にマヒは残る。コンピューターや電卓などの事務能力がなくなる」と言われたそうだが、全て回復している。
入院時にリハビリの先生から「奇跡的な回復力やね」とも言われた。
普通、この発作の回復までに要する期間は、短くて半年というそうなので、
私は感謝しなくてはいけない。神か仏か妻か家族か愛する友人たちか、とにかく感謝しなくてはいけない。
ところで
私は変わった。変わった点は幾つかあるがひとつだけ挙げると、私はいとおしさがとても強くなった。
外を歩く時、花々や樹々のひとつひとつがとても鮮明に脳裏に残るようになった。
人と会って話しをする時、その時の相手の服装の色やしぐさや声音が残るようになった。

09/02/18 (水) 構造設計者として一言


★昨日は午後3時から午後9時まで、いろんな人との話に終始した。とても疲れた。夜の10時過ぎにやっと例の新聞折込ちらしを眼にすることができた。




★じっくり読んだ。今までの流れや事情をよく知らないひとが読んだら納得してしまいがちな論である。私は「市政関係掲示版」の管理者なので、そこには書きこまずここで思いを述べる。


先ず最初に、Is値とは何か。
昭和56年以前の旧耐震基準で設計された建物は、設計法が異なるため、現在の基準に基づいた検証では耐震性を正しく把握することが困難だ。このため、耐震診断では柱や壁の強度を計算し、構造耐震指標Is(Seismic Index of Structure)という指標を用いて耐震性を判定する。
さて、昭和56年に導入された新耐震基準の旧耐震基準との大きな違いは偏心率(0.15以下)と剛性率(0.6以上)の導入である。


Is=Es×SD×T

Es:保有性能基本指標(建物が保有している基本的な耐震性能を現す指標)
=C(強度の指標)×F(粘り強さの指標)
SD:形状指標(平面・立面形状の非整形性を考慮する指標)
1.0を基準として、建物形状や耐震壁の配置バランスが悪いほど数値が小さくなる
T:経年指標(経年劣化を考慮する指標)
即ち
@建物強度低く、粘り強さも弱い
A建物形状やバランスが悪い
B建物の劣化が激しい   ⇒耐震性能が低い

平成18年1月25日国交省告示第184号によれば
Is値0.3未満→ 地震の震動及び衝撃に対して倒壊し、又は崩壊する危険性が高い。
Is値0.3以上0.6未満→ 地震の震動及び衝撃に対して倒壊し、又は崩壊する危険性がある。
Is値が0.6以上→ 地震の震動及び衝撃に対して倒壊し、又は崩壊する危険性か低い。
つまりIs値というのは偏心率並びに剛性率が昭和56年以降に定められた数値との距離のなかで浮き彫りにされる数値である
文部科学省では補強後のIs値がおおむね0.7を超えることとしている。


だから耐震補強で使われる手法は、強度指標をあげるあるいは平面耐震バランスに整合性を与えるための壁ブレース(垂直ブレース)の設置乃至は補強、そしてX軸Y軸の耐震性バランス維持のための構造スリット導入などがある。


昭和56年からしばらくあとになるが、屋根ブレース(平面ブレース)の配力基準が大きく変わって、この補強も大きいものとなった。


つまり耐震補強とは現況の建物に整合性を与えてIs値0.7を目指すための作業である。


さて
耐震補強は純粋に構造上の問題でありIs値に応じて(というよりもC、D、Eといったランク度に応じて先述の手当てをしていくものである。
それに対して耐震補強だけでは解決できない機能上の問題がある場合に改築の必要性が出てくる。
先ず芦原中の場合(私は合併協の主要メンバーだった人のところへ再度確かめに行ってきた)合併協で校舎・体育館を改築するという合意は明らかになされている。


「注:こういったことを旧金津町の議員である私などが言ったり書いたりすると「なんで旧芦原町を利する意見をはくんや」と、旧金津町の議員や住民から必ず言われるが、それこそ幼児性の強い意見だ。合併して既に5年が経過した現在、金津中も芦原中もあるいは沢山の小学校も我々が共有する大切な財産だ。金津芦原両中が反対の立場であったとしても、私は同じことを言っているはずである。」


Is値が優先順位に影響を与えるとしても、それは個々の建物が耐震補強のみであることを前提とした場合の話である。
折込ちらしの某氏は「不便な箇所はどの学校にも大なり小なりあるはずで」と書いているが、はずでは訳がわからない。もしあるのならば具体的な不便箇所不便具合をピックアップし細かく検証して初めて、@耐震補強のみで構わない@リニューアルが必要@リノベーションが必要といった種別化が生じてくるのだと思う。そして耐震補強工事のみですませた幾つかのE判定体育館にはそういう意味での不具合がなかったということだ。

09/02/17 (火) 上杉鷹山


★きょうの福井新聞に、江戸が専門の田中優子が上杉鷹山のことを書いている


上杉鷹山がやったこと及び当時の米沢藩の事情・時代背景については、「とんぼ」さんが「市政関係掲示版」にno1241まで何回かに分けて、はるかに精緻に書いているので、是非ご覧下さい。
さて
私がぶらっと東北を旅し上杉家代々の墓にお参りしたのはざっと十年前。
就任演説で鷹山を引用したクリントン米大統領の任期が終わりに近づいていた頃だったと思う。


お参りした際、印象に残ったことがふたつある。
@墓所の荘厳さ
A鷹山の功績を語る語り部ボランテイアおじさんの話のうまさ
@については、実際に行って見てもらうしかないだろう。
Aについて  話のうまさというのは語り口が流れるようであったとかインテリ然としていたとかそういう意味では全然ない。
そのおじさんの語り口が生き生きとしていて、ユーモアが巧みであったということ。
ユーモアの語源はラテン語の「血液」である。つまり体内の臓器や精神を互いに結びつける媒体である。
ユーモアのないしゃべり言葉や書き言葉は、媒体を持たないということか。


★午前中。通りすがりの寺院に貼られていた言葉。



★知人が電話で、某議員の新聞折込ちらしのことを言ってきた。概要は聞いたし反論できると思うが、読んでいない段階で書くのは失礼だろう。
じっくりと読んでからにしたい。

09/02/16 (月) 新しい週の始まり


★今朝は小雪がちらついていたけれども所用があってずっと戸外に居た。あわら市、坂井市三国町、坂井市坂井町の三箇所に行ったのだけれども、横なぐりの小雪で、頬や手がとても冷たかった。1月の10日に坂井市丸岡町で挙行された嶺北消防署の出初式を思い出してしまった。昨日までは暖かい日が続いていて、「このまま春になるのかな」と思ったのだけれども、それは甘かった。
帰宅したのが正午過ぎ。午後になって少しだけ青空が見えるようになった。


★今朝の新聞にG7で記者会見に臨んだ中川財務相の醜態が出ていたので、インターネトで検索してみると、大新聞HPはいずれも酒の影響たることを匂わせている。
本人は薬の作用との弁明をしているが、どうであれ、国際舞台で醜態を見せていたことに変わりはない。


考えてみればこのひとも世襲議員だ。
昔は、自民党の国会議員に世襲議員の多いことに対して疑問を感じながらも、
「うーん、国会議員ともなれば帝王学を受け継いでの世襲議員が必要なのか」と思っていた。しかし、ここ数年は全くそうは思わないようになった。世襲には益よりも害のほうがずっと多いと思うようになった。


★きょうは、他市の市議と話をした。学校問題についての話になった。流れを説明している時、私の脳裏をある確信が駆け巡った。「こだわりが大切だ」という確信が駆け巡った。
私達は優等生になってはいけない。ものわかりのよい人間になってはいけない。

09/02/15 (日) 早朝に朝陽を浴びながら





★さて、きぜわしい週が終わり、明日から新しい週が始まる。
新しい週は幾つかの課題が待っており、不安と期待が交錯する週。
旅の喜びが旅支度つまり旅を想像するところにあるように、人生の喜びは前途に起こり得るものの振幅を想像するところにある。


★昨日の夕刻に知人から電話が入り、「きょう、バレンタインチョコもらったか?」と聞かれた。
「いや、ひとつももらってない」と答えたら、「ははは・・・(以前はもらう量を豪語していた)牧田孝男クンも地に落ちたなあ」と笑われてしまった。


しかし、受話器を置いてからよく考えたら、二日ほど前に焼酎入りバレンタインチョコレートをもらっている。
食べてみるとなかなかおいしいのだ。もらう個数で一喜一憂することは既になくなった。1月30日の誕生日にいただいた大分麦焼酎もおいしかった。



食べ物や飲み物をおいしくいただけるというのは、幸せなことだと思う。


★同志から、「人を紹介する」という電話が入り、同行した。話をしていると、共通の知人の名が賓回に出てくる。聞くのに徹することの多い私にしては珍しく話がはずんだ。
帰宅したら、柱時計が「ぼぼおーんぼぼおーんぼぼおーんぼぼおーんぼぼおーん」と五回鳴った。既に夕刻となったのだ。


本日の午前中は坂ノ下地区八幡会の引継ぎ式、午後はJA花咲き福井の平成21年度事業計画説明会に出席。その間に何人かの人から携帯電話が入った。
総じて、実入りのある日曜日であったと思う。

09/02/14 (土) もう週末か


★昨日は、臨時議会が開かれた。
議案の採決が終わった時、某議員から挙手を踏まえて「議長!」という声があがり、議会は「議長不信任決議案」・討論の場となった。
4人の議員が賛成討論をした(私もした)。3人の議員が反対討論をした。
結果、「議長不信任決議案」は、13対6で否決された。


★はてさて
昨晩、このコンピューターのキーボードの上にお湯をこぼしてしまい、キーボードが全く駄目になってしまった。更に、ここ数日、クリックカウント機能も変である。
そこで今朝は起床してもコンピューターに手を触れず、先ずは喫茶店へ。
喫茶店のオーナーと健康談義をしながらおいしい珈琲を飲んだあと、専門店へ行ってキーボードを買った(900エン・・安い)。

事務所に戻ると、「市政関係掲示版がうまくスクロールできない」という電話が何件か入ってきた。私はそういうことの修復に関しては全く不案内である。だけれども電話をかけてくるひとの数十倍のひとが困っているのだろうと思い、じっくりと時間をかけて修復を試みた。その結果、午後6時に修復完了。


★その間に数名の来訪者あり。
そのうちのひとりから、「いつまでも学校問題じゃないだろう。その他にも市政には課題が多いのに、という声が行政職内部では大きい」と言われた。
そうであるとも言えるし、そうじゃないとも言える。
学校問題がながびいていることで、じゃあ、何の懸案事項が遅れているかと言うとすぐにはそれが出てこない。それぞれが併行して進捗していると言えるのではないだろうか。


優等生になればいいのかもしれない。
優等生になることでいろんなことは落ち着いていく。だけどその先にあるものものは「諦念と自己防衛」である。
思うに、議員の仕事の基本は、個々の懸案事項に対して、賛成の立場であるにしろ反対の立場であるにしろ、「しゃべる」ことだ。それがアカウンタビリテイというものだ。
しゃべれば反対者の反発を招く。つまり敵ができ嫌われる。しかしそんなことは議員である以上、当たり前のことである。
嫌われないということは好かれないということと同意義である

09/02/13 (金) 昨日は広域連合議会

★昨日は、坂井地区介護保険広域連合議会が開かれた。この日の内容については、コンテンツ「議会報告」にアップしていくつもりだが、一般質問者は四人。私は、最後の四番目だった。


介護保険連合議会・私のした一般質問骨子
・第4期介護保険事業計画が策定されたことにその概要を知らされたが、把握できないところが幾つかある。

・数年前から、介護者の報酬が低くて介護職が集まりにくいという問題が発生している。それを受けた介護従事者処遇改善臨時特例金に関わる第1号保険料の交付金算定イメージ(修正案)によると、交付金算定のイメージでは平成21年度は全額国庫負担、平成22年度が半額国庫負担となっていて、23年度以降は明示されていない。であるならば平成23年以降においては又、さがり得るのではないかという懸念が働くのだがそのあたりどうか。
・第4期介護保険事業計画において施設の増築に関する部分でやはり、ユニットケア方式だけが認められ、多床室型は認められないみたい。この件について、私は前回の議会でも一般質問した。私事だが前回の議会の時には生きていて、在宅で介護を受けていた私の親父も、既に死んでしまった。その間、親父の介護状態をみていて、「施設介護となるにしても、やはりユニットケアに入る意味は薄い。多少室で充分だ。」と思った。このあたりをどう思うか。・・・


前回の議会と同じことを聞くのは、みなに、しつこいと思われかねないので、じつのところ逡巡したのだが、でもユニットケアと多床室型は@被介護の状態の面からA金銭的負担の面から、これを選択できるようにすべきだと私は思う。

★夜は、芦原温泉でお酒を交えた意見交換会。
酒はひとり静かに少しだけたしなむべきものと思っている私だが、たまには大勢で飲むのもわるくない。みんなの笑い声を聞きながら静かに飲むのもわるくない。


10時過ぎに旅館をでた。自宅まで夜の風に吹かれながら歩いて帰った。
夜風は暖かで、春の訪れがまじかであることを感じさせるものだった。

09/02/12 (木) 本日も忙しくなりそうだ


★昨日は7時半に布団に入った。疲れからか、直ぐに熟睡した。起きたのが4時半だから9時間眠ったことになる。今年に入ってからの最長睡眠時間ではなかったか。
昔、母親が私に向かってする口癖のひとつが「寝る子は育つ」だった。既に子供ではなくなっている私の場合、「寝る60歳は育つ」だろう。


きょうは朝から晩まで予定が詰まっている。忙しいこと自体は別に苦とはならない。
しんどいのは、何かを考えることだ。自分の頭で考えることだ。 
その為にはエネルギーが要る。元気が要る。


★昨日の午前中、学生時代の友人から電話が入った。
三月、私の友人8人がこの越前にやってくるという知らせだった。
今でこそ私は話しぶり立居振舞に節度をわきまえた常識人紳士となっているが、数十年前はそうではなかった。
私の恥部を知る奴らがやってくるのである。滞在場所・日程はこれを秘密としなければならない。

09/02/11 (水) 〇さん ありがとう。大分むぎ焼酎 おいしいです。


★昨日は千客万来だったが、夜の7時頃に外へ出た時に、月がとても大きくて綺麗なのに気が付いた。月が目の前にあると思ったのである。
古来、私達の先祖は、月で兎が餅つきをしていると思い、月には美しい姫・かぐや姫が居ると思っていた(かぐや姫を超える美しい女性がここあわら市には数人以上居ると、私は思いますが・・)。


夜半にほんの一分間、空を見上げるだけで世界は変わってくる。
眼に入ってくるものが、十五夜お月さんであったりすると気分がおおきく変わってくる。


★本日の午前中、私はJA花咲ふくい金津支店にいた。
平成20年度農政連金津分会通常総会が開催され、私は議長をおおせつかったからである。
農をとりまく環境が厳しいといういわずもがなの現状認識から始まって、減反するかしないかの選択肢の問題に来賓の話が及んだ時、私は数週間まえにあわら市農林水産課へ減反の流れを聞きに行ったことを思い出した。
米に関する限り我々は100パーセント国産米を食べている。減反が始まる前も、減反が始まってからもそうである。
あわら市の減反が始まった昭和45年は大坂万国博覧会の頃だ。
その頃からカロリー摂取の相当な部分が畜産物と油脂類に流れたつまり食生活の形態が変化した。そのことによって米の消費量が落ち込んだということがわかる。


★私は夜明け前に眼をさます。5時頃に事務所に入り、このホームページ日記を書き込んだり、前日の対論を反芻したり、来訪者の横顔を思い浮かべたりして一日が始まる。
ところで、当たり前のことだが、夜明け前というのは一番暗く一番寒い。
一番厳しいところに我が身を置くところから一日を始めるのだから、一日を上昇気分で過ごすごすことができる。

09/02/10 (火) 後の先


★昨日、市役所の職員から、「宗教的になってきましたねえ」と言われた。横顔が引き締まったからだろう。
お題目を唱える宮沢賢治と宗派は違うけれども、「雨ニモマケズ」は大好きだ。

「雨ニモマケズ」   宮澤賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキ小屋ニイテ
東ニ病気ノ子供アレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニ疲レタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ

今の私の体が極端に丈夫というわけではないし、金銭的な欲はなくても本能的な欲はあるし、玄米ではなく白米を食べているけれども、とにかく魅かれる詩だ。


★今朝は、連合福井坂井地協議長・事務局及び二人の坂井市議とともにあわら市役所を訪問(いつも行っているんだけど(・・笑・・))。その足で坂井市役所へも行った。
用事を済ませてから、坂井市の社会福祉課に配属されている手話通訳者といろんな話をした。若い女性である。
わたしも手話をやり始めた30年程前は、とても初々しかった。頑張っていた。だけどその後、PTAの道に入りあるいは議員になり手話に関しては週一回のサークル継続と地元のろうあ者との付き合いだけとなってしまったが、反面、それでいいのだと思っている。
何かをするということはし続けるということではなく、後継者を育てるということだ。


★ひどいですねえ。空缶があちこちにあります。



これは旧芦原庁舎の敷地内。使われなくなっている建物の周辺は往々にしてこうであります。


09/02/09 (月) 新しい週が 始まった


★昨日は、某議員のパーテイに呼ばれて参加した。沢山のひとが参加していた。ある人を紹介されて名刺交換をしたら、差し出した私の名刺を見て「あ、わたし、このホームページ日記、みてます」と言われた。最近このようなことを、よく、言われる。



「お前のホームページなんてどないもこないもならんものや」と言われたり、こういうふうに言われたり意見はさまざまだが、ドンマイドンマイだ。
故開高健は「好意はもちろんウエルカム、反躯もウエルカム、自分にとって一番辛いのは無関心である」と何かの随筆で書いているのである。



★私が苦手なのは優等生。
優等生であるということは、要するに新しいものを次々に受け入れるということだ。新しいものを受け入れるということが優等生の良心的な行動なのだから。つまりそこには抵抗がない。
「抵抗がない」ということは「考えていない」ということと同じだ、と私は思うのである。




★胸にじーんときた歌と句を久し振りにピックアップ


大空の 斬首ののちの 静もりか
   没ちし日輪が のこすむらさき  春日井 健


たちまちに 君の姿を 霧とざし
   或る楽章を われは思いき    近藤 芳美


秋の航 一大紺円 磐の中       中村 草田男


湯豆腐や いのちのはての うすあかり   久保田 万太郎



09/02/08 (日) さあ きょうも用事・用事だ


★知人からの電話で誘われた私は、昨日の昼、ある会合にいた。
初めて行ったその会は、朝鮮半島の歴史・文化を学ぶ会だった。
偶然というものは恐ろしいもので、せいぜい十数名のあつまりの、左側に座っていたひとが私の高校生時代の恩師、右側に座っていた女性が私の高校生時代のクラスメートだった。どちらも数十年ぶりの再開ということでとてもなつかしく、「今度どこかへ飲みにいきましょう」という言葉で別れた。


一目ですぐに誰かわかったのだが
歳月幾星霜は、その間の苦労を顔に刻印している筈だけれども、顔の輪郭はかわらない。顔というのは、まっこと不思議なものである。


★その会を終えての帰路、坂ノ下通りを車で走った夕刻、電線はカラスの行列だ。
ヒッチコックの「鳥」である。



坂ノ下区の初寄りでも報告させていただいたが、カラス問題の解決は八幡神社境内の落葉樹木を伐採できるかどうかにある。


★夜は坂ノ下八幡会初寄り総会。八幡会というのは、成壮年団と老人会の間にある会である。その宴席で私はいろんなおしかりの言葉をいただいた。私はそれらをじっと聞いていた。
整理・検証して我が身の浅はかさを直さねば、と思った。

09/02/07 (土) 深夜に珈琲を飲みながら


★今朝の午前3時。
夜空に星は見えない。川べりを歩くとあたりは漆黒の闇だ。たちどまり、ダーバンのコートの襟をたて水面を眺めた。流れの音がかすかに聞こえてくる。
そうなのだ。
視覚がさえぎられると、その分だけ聴覚が鋭敏になる。逆の場合が聴力障害だ。
障害者問題を肉体機能の減衰という視点のみで捉えても何かが抜け落ちる。
残された機能はブラッシュアップされるのである。


★今朝の午前7時に撮った紺碧の空。



一日が快晴で始まるのが嬉しい。


★私は一日一度は市役所に行く。「これを調べて来てほしい。聞いて来てほしい」という要請を受けて行くのが殆どだが、仮にそういう要請がなくても行く。
我々議員が(例えば私の場合変則三期でせいぜい10年ちょっと)短期キャリアであるのに対して、行政職のベテランは何十年もやり続けてきており、当然その知識量には厳然たる差がある。つまり聞きにいかなくてはわからない部分が沢山ある。


議員は住民・有権者から選挙で付託されるのだが、付託は住民・有権者の疑問や思いを素朴に行政にぶつけるところにある、と私は思うのである。
シンプル・イズ・ザベスト・・・・・最近とみにこう思うようになってきた。


★本日の福井新聞第23面。
辺見庸の随筆・「水の透視画法」を読んだ。この高名な小説家は5年前に脳溢血で右半身が麻痺し今も毎日を闘っている。
私も昨年に同様な経験をしたが、私の場合は約一ヶ月で完治した。いわば駆け足体験で辺見庸と同じような思いを味わったわけだが、プロのもの書きでもない私に「水の透視画法」のなかの「・・不具合のある体が、意識の暴走を制動し、意識の倣岸と虚飾にきびしい掣肘をくわえる・・」といった珠玉の文章は書けない。読んで共感するだけである。

09/02/06 (金) きょうも快晴


★昨晩の来訪者は、久し振りのひとだったのでとても懐かしかった。坂井市に勤めている公務員なのだが、旧4町が分所体制をとる坂井市の場合されぞれでやり方がかなり違うみたいだ。そのことで感じるとまどいを語って帰っていった。

坂井市は旧四町が合併してできた自治体だが、あわら市は旧二町が合併してできた自治体だ。
合併したら財布はひとつなんだから旧金津町も旧芦原町もないだろう、そのほうがシンプル・イズ・ザベストでいろいろ考えやすいはずだと単細胞の私は思うのだが、現実にはいろんな被害者意識が渦巻いているのかもしれない。


★きょうの午前中は、有志議員が集まってのいろいろな相談。
そこで出てきた話だが、「民報あわら」を配布している山川知一郎議員と、まきさんの議員日記・「市政関係掲示版」を管理運営している牧田孝男議員つまりわたしが、旧統合派議員にとって目のかたきだそうな(・・笑・・)。


終了し外へ出ると陽射しが暖かい。コートを羽織って竹田川河畔を金津橋から下新橋まで歩いた。
途中、畑仕事にいそしむ同級生のOくんと出会う。「もう一週間で定年だが、生活の変化についていけん」と言っていた。


★区の老人会会長から電話があり、午後は市役所担当課へ帯同した。他に副会長・会計も一緒。老人会は65歳以上が年齢上の規約なので私なんぞはまだまだである。
それはともかく、今の老人に元気者が多いというのが偽らざる印象だ。
老人はながく生きている。その過程で「言うべきことは言うべし。遠慮しても損するだけや」という人生哲学が形成されていくのではなかろうか。
前期高齢者に達するまでにまだまだ年数を残している私などは、明らかに恥じらいの多い側の人間に属する。

09/02/05 (木) 節酒禁煙実行中


★昨日は立春だった。そのせいか、空は青く風は暖かく小鳥のさえずりが随所で聞こえた。「野鳥の会」会員ではないのであちこちの樹木の枝に止まった小鳥たちの名前を私は知らない。知らないのだけれどもさえずりに感動することはできる。


★議員の仕事が議会に出ることだけでないのは勿論で、自分の思いや住民の意見を行政側に伝達する為の方法はそれぞれ議員によってまちまちだろう。
私の場合は、10年前に始めたこのホームページでの「議員日記」書込みと「市制関係掲示版」管理運営が先ずは出発点になっているような気がする。
例えば
昨日の日記の子育て応援特別手当支給事業に関して、電話でこういうお言葉を頂いた。
「何故小さい子のいる家庭だけが対象になるのか。子が小さくても、大きくても大変なのは同じ。第一、私たちの時にはこういう制度がなかった。」というもの。
半ばその趣旨を理解しているつもりではあるが、担当課で仔細を聞いてこようと思った。
ま、この事業は単発である。継続事業ではない。
2月1日時点で3歳〜5歳の第2子以降といえばそれだけでとても限定される。例の定額給付金の給付と同じでねらいは景気刺激だろうが功薄しだろう。


★はてさて
「市政関係掲示版」に湯けむり横丁についての意見が複数件出ていた。
今湯けむり横丁にあるのは「いちろくらーめん」「やすらぎ」「夜鳴き庵」「ほーむ」「本道坊」「なかのや」「明」「天井パスタ」「お多福」の9店舗
保証金¥30万及び家賃¥4万+共益費¥1万=¥5万での公募に応募し入っている。
「創生塾」がここの事業主体であり他に「湯めぐり手形」などの事業をしている。

09/02/04 (水) 今朝は快晴だ


★これを偶然というのかも知れない。
あるひとに頼まれ、昨日の昼、あわら市役所農林水産課に行った。あわら市の減反政策のこれまでの流れ及びこれからの展望について、資料を元に説明を聞いた。
明けて今朝、新聞を開くと、「減反の選択性 有力」の記事が福井新聞第一面に載っている。


例えば昨日頂いた資料のうちのひとつ供給熱量の構成比較を読むと、我々日本人の食生活の変化が一目瞭然である。日本人のカロリー摂取に於いて米摂取が落ち込み畜産物と油脂類が増えている。そのエポックの時期を聞くと「万博の頃でしょう」という答えが返ってきた。


★本日の午後、私は友人Kくんとともに共通の友人を見舞いに某大病院へ行った。
病院で私は、「健康維持のためには節制がとても大切だ。そして、生かせていただいているという感謝の気持ちが必要だ。自分の体をいとおしく思う気持ちが全てやぞ」と説教した。
実はその説教には伏線がある。
昨日、私は深酒をしてしまった。退院後、初めてと言っていいだろう。
翌朝(つまり今朝寝覚めた時)、私はモ−レツな吐気を催した。牛乳を飲み、白湯を飲んで体調を回復させことなきを得たが、早朝から私の体を心配いてくださるメールが入ってきていた。
人は決してひとりで生きているわけではない。ひとりで生きていけるわけがない。
そう感じた本日でした。

09/02/03 (火) 昨日の全協


★昨日の午後は全協(全員協議会)が開かれた。次の三月議会迄待つことなく予算化したい幾つかの案件についての臨時議会が13日に開かれる。その為の全協だった。

補正予算については、概略このとおり
この中には妊婦健康審査費無料化事業子育て応援特別手当支給事業もある。


さて、「あわら市学校給食検討結果報告」も出た。これは旧金津町が自校方式、旧芦原町がセンター方式を採用していて、センターが大変に老朽化してきていることでのこれからの対応についてのものである。
複数の議員から、「民間委託をもっと考えてもいいのではないか。公であろうが民であろうが食品衛生法が食の安全を保障している」という意見があった。


しかし・・・
どうするかの承認はまだ先の話だが、市役所から帰宅しひとり夕餉の食卓に座った(うん、妻は大坂やらに行って帰ってこないのだ)私は腕を組んで考えた。
今、食育という言葉が市民権を得ているが、この言葉の内包する意味は結構文化に根ざすものだと私は思う。即ち、毒性がないかとかカロリーが十分かとか、塩分が少なめか(高血圧の原因)、といった食品衛生学的見地のものだけではなく、親がつくってくれた弁当を子が味わうという構造に大切なものがあると思う。


はやい話、私が子供の頃は給食というものが無くて、大量の米粒と少量のオカズの詰まったアルマイトの弁当箱を持って登校した。つまり日々が粗食ではあったけれども親がつくってくれたものという感謝の念は育った(ような気がする)。
だから、本当は給食よりも弁当がいいのではないかと思うのである。
現実問題としてそれが無理だとしても、そういう環境に一歩でも近づく給食環境を望みたい。

09/02/03 (火) 昨日の全協


★昨日の午後は全協(全員協議会)が開かれた。次の三月議会迄待つことなく予算化したい幾つかの案件についての臨時議会が13日に開かれる。その為の全協だった。

補正予算については、概略このとおり
この中には妊婦健康審査費無料化事業子育て応援特別手当支給事業もある。


さて、「あわら市学校給食検討結果報告」も出た。これは旧金津町が自校方式、旧芦原町がセンター方式を採用していて、センターが大変に老朽化してきていることでのこれからの対応についてのものである。
複数の議員から、「民間委託をもっと考えてもいいのではないか。公であろうが民であろうが食品衛生法が食の安全を保障している」という意見があった。


しかし・・・
どうするかの承認はまだ先の話だが、市役所から帰宅しひとり夕餉の食卓に座った(うん、妻は大坂やらに行って帰ってこないのだ)私は腕を組んで考えた。
今、食育という言葉が市民権を得ているが、この言葉の内包する意味は結構文化に根ざすものだと私は思う。即ち、毒性がないかとかカロリーが十分かとか、塩分が少なめか(高血圧の原因)、といった食品衛生学的見地のものだけではなく、親がつくってくれた弁当を子が味わうという構造に大切なものがあると思う。


はやい話、私が子供の頃は給食というものが無くて、大量の米粒と少量のオカズの詰まったアルマイトの弁当箱を持って登校した。つまり日々が粗食ではあったけれども親がつくってくれたものという感謝の念は育った(ような気がする)。
だから、本当は給食よりも弁当がいいのではないかと思うのである。
現実問題としてそれが無理だとしても、そういう環境に一歩でも近づく給食環境を望みたい。

09/02/02 (月) 昨日の一日


★さて
昨日は車のパンクから始まった。何故か朝早く私は蓮ケ浦近くにいたが路上で釘をふんずけ、タイヤをペシャンコにしてしまった。仕方なく徐行で家まで戻り、初寄り総会の行なわれている某寺院へ歩いていった。
寺院では元坂ノ下区長に「坂ノ下区の出初式にも顔を出したほうがいい」と言われ車を借りて区民館へ直行。AEDの操作方法を学んでからお寺に戻った。
午前11時から春江で「糸川正晃新春のつどい」が予定されていたので、寺院を10時半に中座。
マイカーはパンクしているので、参加する友達に乗せていってもらった。



なんというか、沢山の人・人・人だった。
会場内で何人かのひとから私の体を心配するお言葉を頂いたが、ドンマイドンマイすべてOKである。


終了後、友達と一緒にバターラーメンを食べに行った。ラーメンは三ヶ月ぶりでとてもおいしかった。
気付いたことがある。
退院してからの私は変わった。ベッドに寝づっぱりで自然と付き合うことのできない沢山の人がいることを知って自然の移り変わりに対して敏感になった。
元気に生を得ているからこそ自然と付き合うことができるのだと思うようになった。


友達と一緒に居ると、その一挙手一投足が瞼に焼きつけられる。
人生とは物語であってひとは思い出をつくるために生きている。しかし当然のことながら人生に与えられた時間は有限だ。
限定された時間のなかで私の眼はカメラレンズのように動く。私の瞼はカメラシャッターのように開閉する。

09/02/01 (日) 忙しくなりそうな本日


★来客が全て帰った昨日の午後7時。防寒服に身を包んだ私は、某氏宅に行った。
6人集まって、来し方行く末を語り合う静かな飲み会だ。


白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の 
      酒は静かに 飲むべかりけり  若山 牧水

である。
鍋のなかの牡蠣とだだみつまりやわらかぶつがが特においしかった。好きな焼酎を何杯かお変わりし食も進んだが、夜も更けた10時半に妻が車で迎えにきて私は中座した。


熟睡の後、午前5時半に起床。新聞の死亡欄が目を引いた。
昨年の十月、私が入院していた時一緒にリハビリを受けていたひとの名がある。
頻繁に会話を交わした仲ではないが、リハビリを受けている時の目線・振舞ははっきりと覚えている。
人間関係は一期一会なのだと、つくづく思った。