魑魅魍魎の跋扈する世界が議会であることは過去三期で充分承知していたが、今回の市議選で選挙そのものに魑魅魍魎の跋扈を見て、憂鬱は更に深まった。
けれど、挨拶廻りに歩く昨今、清涼剤も感じる。例えば昨日の場合、それは僧侶・A氏とのながい会話だった。 浄土真宗の始祖・親鸞は歎異抄のなかで、「親鸞は父母の孝養のためとて一返にても念仏申したることいまだ候はず」と言っているが、この言葉は生きとし生けるもの全てに対しての連帯表明だ、と私は思うのである。
A氏は、黒人奴隷と聖書の話を引き合いにして私に宗教を語ったが、確かに宗教がセクトを超えて連帯しない限り、我々に明日はない。
私は昨年秋に大病を経験した。三途の川を渡りきり、閻魔大王の手下たちが待ち構える向こう岸に上陸する寸前、この世に引き戻された。
その後の闘病生活を含めた経験の全体で、私の人生観は根底からくつがえされた。 ヒトであれモノであれ目に入るもの全てがいとおしくてたまらないのである。
そういえば、きょうは又、別の僧侶・B氏と会う。
僧侶たちは弁舌の徒である。彼らを冠婚葬祭の場で見るだけの存在にさせてはいかにももったいない。車座のしゃべり手にどんどん引っぱり出したい。
きょうの早朝に「堀江公番田館跡」の原稿を書きあげ、メール送信を終えた私は、友人ふたりと共に清王・照厳寺を訪れ、住職から寺の沿革などを聞いていた。本来の北陸道の位置という「義経記」を思い出させる興味あるテーマにさしかかった時、某坂井市義から携帯電話が入った。 「教組の関係で、本荘小学校へ来てほしい」と言う。 友人のうちのひとりに事務所まで送ってもらい、本荘小学校へと車を走らせた。 「党生活者」となった私は、忙しいのである(笑)。 |