2009年10月


09/10/31 (土) 10月最終日


昨晩は夜の12時半に寝た。そして、きょうは夜の12時半に起きた。完全に昼夜逆転の生活だ。
事務所の階段に座ってひとり眺める月が美しい。
月を眺めているうちに、何故か雪の句が頭に浮かんできた。


降る雪や 明治は 遠くなりにけり    中村草田男


作者が降る雪に過ぎ去った明治を懐旧したように、私は秋の月に過ぎ去った昭和の少年時代を思い出す。小学校高学年から中学校の頃だ。
触るとすぐに砕けそうなやわな感性で、吊橋を歩いている時のようなこわごわした思いと、そのくせ時々破廉恥なことを平気でする行為が同居する変なこどもだった。





届いた新聞を読む。次のような記事が目についた。
施設を開設・運営するひとから、この種の話をよく聞く。住民の不安はそれなりにわかるけれども、じゃあ、何故そういう不安が出てくるかというと日常的な付き合いのなさに起因する。そしていわれのない偏見が生じる。換言するなら無意識のうちの差別だ。


障害者に対する偏見は、濃淡は別として誰の心にもある。
私の経験で言えば例えば
若い頃、東京で開かれた障害者の大会に介添者として参加したことがある。
昼の昼食時間となった。
隣のテーブルで重度の障害者を介添していた男が
「おまえに食わせてやるより犬に食わせてやるほうがよっぽどラクやなあ」と大きい声で言い、言われた障害者はニコニコ笑っていた。
聞いていて「親しき仲にも礼儀ありではないか」と立腹した私は、後日、友人にそのことを話した。
友人の答えは
「それは違うだろう。事実として食事介護が大変なんやし、大変なことを大変と素直に言える関係が既に介助者と被介助者の間に構築されていた結果のあらわれだろう。強固な信頼関係が二人の間にあると見るべきや」だった。


今朝の未明に私は森の道を歩いていた。
突然、道の前方に野犬が現れた。大きな野犬だ。
私は、目をあわさないうちに踵を返して逃げた。
背後から鋭い牙で噛み付かれるという恐怖と戦いながら逃げた。

「あわら市花乃杜1丁目のMさん、森の道で死体で発見さる。Mさんの内臓は引き出され顔は恐怖におののいていた。警察の調べでは殺人事件ではないとのこと」とかなんとかの記事が明日の朝刊に載るのだろうか、嫌だなあと思いながら逃げた。
車のところに戻り入り込み、ロックしてから背後を振り返った。野犬は消えていた。


そういえば、明日、車を買った会社の感謝祭がある。
私はそこへ行って、「車のおかげで助かりました」というつもりだ。



09/10/30 (金) もうすぐ11月


一昨日、あわら温泉某旅館で開かれた連合福井の定期大会では馬場連合福井会長や西川県知事はじめ主催者および来賓のたくさんの挨拶があった。
挨拶のなかで一番印象に残ったのは腎友会の代表の方の挨拶だった。
「腎臓の透析を始めた30数年前には医者からせいぜい数年の命と宣告されたし、自分もそう覚悟していた。けれども自分はながい間、生き続けることができた。これは医学の発達によるものだ。日本の医学の向上に大変感謝している。けれどもその結果として、本来早くに死んでいた私たちが病人ということになった。つまり病人が増えている。病床や医者が足りなくなってきている。民主党政権にはそれらの拡充を望む」という挨拶だった。
大会終了後の帰途、エレベーターのなかでも偶然その方と一緒になり、呟きを聞かせていただいた。
真摯な声の響きは小声のなかにこそあると思った。

昨日は私の事務所にて、有志議員・猪肉鍋の会が開かれた。最近の私は来客のある場合、必ず掃除をする。そしていつ来客があるかわからないので常に整理整頓を心がける。しなければならないと思ってするのではなくすることで心が透明になるのでする。
途中通りすがりの医師も加わり、政治談議は午前零時を過ぎるまで続いた。猪の肉には焼酎が一番似合う。しかし、VSOPもおいしかった。猪肉の副つまみのなんやかんもおいしかった。誰が何を持ってきたのかわからなくなってしまったが、なにもださなかったのが私であることは間違いない。
某議員殿、猪肉どうもありがとうございました。



もう11月が目前だ。
11月は民主党福井二区議員団の集まりや連合福井関係の集まりがいろいろ予定されている。坂井地区介護保険広域連合議会や議会の視察研修も予定されている。あわら市議会常任委員会の視察研修も予定されているし、その合間を縫ってのCADもある。
忙しさとの戦いが続いていくのだろう。
忙しいことの功罪はある。功罪とはなにか。
功は、自分の存在基盤を確かめることができるということ。
罪は、ものごとをじっくり考える時間がとれないということ及び会いたいひとになかなか会えないということ。
忙しくないことの功罪は、前述の裏返しを言う。

09/10/29 (木) 市町議員合同研修会


昨日午後に自治会館で開かれた合同研修会ではふたつの講演があった。
@地域に根ざした産業振興(講師 由布院玉の湯取締役社長・桑野 和泉 氏)

A地方分権下における議会改革」(講師 早稲田大学マニフェスト研究所客員研究員・中尾 修 氏)



@は、あわら温泉の今後を考える意味で、選択肢のひとつを提示していたような気がする。


Aは、日頃私が思っていることと重なり、「そうやそうや」とうなづくことが多かった。


・有権者の多くは、国会議員も自治体議員と同じだと思っているが、実際は違う。自治体議員と自治体首長は同じ市民から選挙で決められる。つまり二元代表制だ。市民は、首長に執行権を与える。そして議会にその監視役を与える。
首長が市民に予算執行の方向を説明するのに対して、議員は予算執行のプロセスでどのような問題があるかあったかの全体を説明する義務を持つ。


・講演者の住所(北海道栗山町)の近くに旭山動物園がある。何故旭山動物園への来場者が多く、脚光を浴びているかというと、本来楽屋であった部分も含めて全てを来場者にみせていることにある。議会もおなじことだ。本議会・委員会・特別委員会などを全て公開することだ。


・どぶ板議員の時代ではない。地区地区の要請は、本来、地区の区長の仕事である。   
 

などが講演の骨子だったが
確かに我々は市税からつまり市民全体の血税から報酬をいただいていて、地区からいただいているわけではない。だとしたら、市をマクロに考えなければならないと思う。その場合に地区推薦をいただいていると、どうしても手枷足枷がつきがちだ。私は地区推薦をいただかなかった、というよりいただけなかった。ま、それだけ地区での評判が悪かったということだが、逆に言えば気持ちが楽な面もある。


09/10/28 (水) 久しぶりの快晴


本日の午前中は連合福井定期大会が開かれる。
午後は自治会館に於いて「市町議会議員合同研修会」が開かれる。
他市の議員と合同研修を行なうのは決してむだなことではない。いろいろ参考になる意見を拝聴できるし、気の合った(というか考え方の合った)議員との持続的な情報交換が始まるきっかけにもなる。
当たり前のことだけれども、私が議員になった頃は「町村議会議員合同研修会」だった。
平成の大合併で、金津町があわら市となり、県内に村はなくなり研修会の名も「市町議会議員合同研修会」と変わった。
合併の時は、いろいろなことがあった。議会が節目を迎えた時だったといえる。


昨日の朝、真言密教のお坊さんの講話を聞いていたとき、お坊さんがこういうことを言った。
「仏は佛とも書きます。佛の意味を考えてみると、沸騰の沸からきています。沸は水が水蒸気に変わるという意味です。沸のサンズイがニンベンに変わったのが佛で、これはつまりひとが死んでホトケになるということを意味しています」
・・・そういう意味があるなんて知らなかった。


棚田跡の休耕田を歩いているうちに夜があけてきた。



遠くで列車の音が聞こえる。近くで鳥の鳴声が聞こえ始めた。

09/10/27 (火) 未明の外は雨 


昨日の午前中は「坂井地区介護保険広域連合事務局」に行って、わからないところをいろいろ聞いていた。平成12年2月1日に設立された坂井地区介護保険広域連合はもう第4次計画に入ったが、団塊の世代がリタイアあるいはセミリタイアした去年あたりからその真骨頂を問われる段階にきたと思う。「子供は国の宝、年寄りは国のやすらぎ」という標語もある。


坂井地区介護保険広域連合事務局
は坂井市坂井町の「コカコーラ大看板」の近くにある。


本日は午前3時に起床した。
熱々珈琲を飲みながらインターネットで「読売」を検索すると、次のような記事が出ている。


「日本郵政の取締役に、作家の曽野綾子氏(78)が就任する見通しとなった。社外取締役らで構成する日本郵政の指名委員会(奥田碩委員長=トヨタ自動車相談役)の決定と臨時株主総会での承認を経て、28日にも就任する。

関係者によると、曽野氏の起用は亀井金融・郵政改革相と、日本郵政の次期社長に内定している東京金融取引所社長の斎藤次郎氏(73)が強く希望した。経済界以外からも人材を起用し、郵政改革に幅広い意見を取り入れる考えとみられる。

曽野氏も、政府が閣議決定した郵政民営化見直しの基本方針に賛同しており、就任を内諾しているという。

曽野氏は東京都出身。小説「神の汚れた手」などの著書で知られ、宗教、戦争、社会問題などへの深い洞察力を生かした幅広い作家活動を行っている。1993年には恩賜賞・日本芸術院賞を受賞、2003年には文化功労者に選ばれた。

国際協力活動にも取り組み、97年に自身が主宰する団体が読売国際協力賞を受賞している。

95〜05年には日本財団会長を務めたほか、司法制度改革審議会委員や教育改革国民会議委員なども歴任した。

日本郵政の経営陣の人事を巡っては、亀井郵政改革相が「幅広い範囲から立派な方々に集まってもらおうと思う」と述べ、民間企業出身の経営者にこだわらない意向を示してきた。また、現経営陣を全面刷新する当初方針から、新社長への協力を条件に一部留任を認める柔軟姿勢も示している。


昔、何かの週刊誌で毎週曽野綾子のエッセイを読んでいた時期がある。その硬質な文体は彼女が敬虔なクリスチャンであることにもよるのだろう、と私は思った。


世間的には「保守の論客」とレッテルされているひとだが、ひとの思想(というか考え方)を「保守」だの「革新」だのと腑分けすることに意味はないだろう。第一どんなひとも基本は保守だし、又革新すべき思いをどこかに持っている。

彼女のノンフィクションレポート「沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実 日本軍の住民自決命令はなかった!」と、読売新聞社編「BC級戦犯」が最近読んだ太平洋戦争関係の本で印象に残っている。


 09/10/26 (月) 新しい週の始まり


ホームページのクリックカウントがΣ50万を超えた。クリックしてくださった全ての皆さん、ありがとうございます。


10年ほど前に金津町議になった時、選挙のウグイス嬢をしていただいた方のご主人がインターネットに精通した方だった。
その方から、「牧田はん、議員になったんやからホームページ発信をするのは義務やぞ」と言われ、ホームページの原型スタイルをつくっていただいた。だけど操作技術など持ち合わせていない私はそのまま一年間ほど更新せずに放っておいた。なんせ当時の私にとってのパソコンは建築構造計算をする道具以外のなにものでもなかったのである。


そのうち周囲のひとたちから、「掲示板を開くべきや」という声が出てきた。
ならば公開日記を毎日つけようと思いたったのが、表紙最上段に記してある2000年2月14日だった。ホームページソフトを買ってきて操作方法をいろんな方に教えていただいた。


当時椎名誠ばかりを読んでいた私は彼の口癖にならって「半径4km以内で自分が目にしたもの感じたことだけを自然体で書く」を書き込みの第一原則とした。
「毎日書く。飽こうが飽くまいが毎日書く。下手な鉄砲も数うちゃあたる」を第二原則とした。
「原則はあくまでも原則。例外もある」を第三原則とした。


そのうち「掲示板」への書き込みが多くなってきた。一番多くなったのは、中学校問題で議論がまっぷたつに分かれていた時だった。市が「みんなの掲示板」を廃止したこともその要因だったようだ。マスコミ記者の何人かから、「覗いてます」と言われた。


「くだらないことを書くな」というお叱りメールもたくさんいただいた。叱られて心の傷となったことも勿論ある。
しかし、これも椎名誠からの引用だが
「若い頃は体の傷はすぐ癒えるが心の傷は治りにくい。歳をとると心の傷はすぐ癒えるが体の傷は治りにくいのだ」なのである。


去年から今年にかけて私の人生観は大きく変わった。変わったけれども、生き続けるという点では同じだ。思い出す言葉がある。私の友人の祖母が90数歳で亡くなる臨終の席ではいた言葉だ。


「こんだけながいこと生きてきたけど、一日たりともとばしたことはなかった」である。

 09/10/25 (日) 一周忌


10月9日の米国オバマ大統領ノーベル平和賞授与発表を聞いた時、とっさに私が思い浮かべたのは1974年の佐藤栄作ノーベル賞受賞だった。佐藤首相とニクソン米国大統領の間での、沖縄への核兵器持込密約公文書の存在が巷で噂されるなかでのつまり非核三原則という日本の国是にそむいていると噂されるなかでの一方の代表者が平和賞を受賞するのだから平和賞は自然科学関係の賞とは異質だとつくづく思ったものだ。
余談だが
当時の私には強く尊敬する沖縄人がいた。関西某大学のセンセだった彼は沖縄問題オピニオンリ−ダーのひとりとみなされていたそうで、「私が愛するのはみっつだけです。沖縄の自然女性だけです」が口癖だった。そういえば、謝花昇を初めて知ったのも彼の口からだった。


大統領になりたてのオバマがどういう政治戦略を持っているにせよ、実績を積んでいくのはこれからである。その彼が平和賞を受賞したのは何故か。
・ノーベル賞委員会が、イランを空爆する戦略を米国にとらせないようにした。
・大江健三郎が文学賞を選考段階で拒否したようにオバマも拒否することができたはずだ。
拒否しなかったのは彼がイランを空爆する気を持っていないことを示している。米国を単独覇権主義から多極主義にもっていこうとする意思表明に他ならない。
とインターネット検索でも出てくる。
こんなこと、商業新聞の記事には載らないけど。


きょうは親父の一周忌だった。
親父が亡くなったのは昨年の10月20日。
早いものでもう一年間が経過した。あの時私は脳内出血を起こして医大病院にいた。で、通夜にも葬儀にも出ることができず、つまり喪主としての務めを果たすことができなかった。これはとても残念な気持ちとして、今も心のなかに残っている。49日の際に挨拶をしたが、その時の私はまだ病院を退院したばかりで、体の動きも口の動きもまことに弱弱しいものだった。だけどそれからほぼ10カ月たったこんにち、私の体は非常に回復してきている。それは、多分私の体がもともと強かったせいだろうし、その意味で頑健さというDNAを残してくれた親父には大変感謝している。なんにも親孝行をしてやれなかった私とは逆に、たいへんな子供孝行をして親父は天国に旅たった。


いつだったか、ラジオの深夜放送を聴いていたら、「全国こども俳句コンクール」の一等賞を発表していた。それは、こんな俳句だった。


天国は もう秋ですか お父さん    聞いていて、じーんときた。
 

09/10/24 (土) もう週末か


本日は、嶺北消防組合設立40周年記念式典があった。


消防活動が我々の命や財産を守る意味で最も大切な活動であり活動に従事するひとたちが尊敬のまなざしを受けるのは当然のことだと思う。


式典終了後は、消防音楽隊によるブラバン演奏があり、そのあと坂井市三国町在住のシンガーソングライター・横田はるなさんの「Live Stage」となった。



なかなかに美しいメロデイをかもしだし、鼓膜を通り越してココロの琴線に触れる歌唱力を発揮するではないか、実に地方の時代だと私は思った。


もう十数年前のことになるが、私の家の隣が深夜に火災を発生した。
東京在住の妹が子供たちを連れて帰省していた時のことだった。子供たち(計6人だった)を家の外へ出し、人数の点検を完了したあと、私は家の前の大通りをブリキのバケツをたたき「火事やあ、火事やあ」と叫びながら走った。
最近のバケツは全てプラステイック製だが、最低ひとつブリキ製バケツを保管しておくべきだと思う。
猛烈な火煙をふきながら家屋が倒壊した時、不謹慎な話だが私は三島由紀夫の「金閣寺」を思い出してしまった。耽美主義者で語彙の豊富な三島は豪華絢爛な金閣寺を炎上させることでもって主人公(というか火付け犯)の僧に美に対する復讐を完遂せしめたのだ。「金閣寺」を読んだ当時生真面目な建築科学生つまりアーチストの卵だった私は、いっぺんで三島のとりこになってしまった。
確かに、美しいものには棘がある。毒がある。敵として申し分ない。


気が付くと私の上半身は裸だった。火の粉を浴びた上半身がひりひりしていた。

きょうの福井新聞の論説に、「長妻厚生労働相の話として勝山の社会保険病院等を存続の方向へ」という記事が出ていた。勝山の地理的位置からいって当然だと思う。
でも、例えば三国病院の場合はどうなるのだろう。

09/10/23 (金) 昨日の一日


昨日の午後は、坂井地区介護保険広域連合運営協議会が開かれた。
協議事項は
(1)第32回広域連合議会定例会予定議案について
(2)居宅サービスについて
(3)介護サポーター制度について   の3点。


(3)の介護サポーター制度について に質疑・意見交換が集中した。
この制度は介護保険連合第5次計画策定のなかで出てきたもので、来年4月1日付けで施行開始の予定となっているもの。


運営協議会委員の意見を拝聴しながらあるいは自分もしゃべりながら、何かしら腑に落ちないものを感じた。
そもそも東京一極集中の日本で、太平洋ベルト地帯の都会側とその他の地方では生活意識・近隣との関わりがかなり違うはずだ。国策である介護保険制度のありようを東京中心に一律に考えたのでは、実情にそぐわない面が出てくると思う。このことについては、後日詳述したい。


夜は帰福したNさんを中心ゲストとした焼酎宴会。5年ぶりの再開だった。
みんなの話がはずみ、私は焼酎を口にしながら、もっぱらそれを聞いていた。
?なんか変やね。・・そうか 手話の宴会なのだから
みんなの手がはずみ、私は焼酎を口にしながら、もっぱらそれを見ていた。
9時半過ぎには散会し、私も自宅に戻った。


茶漬けを食べながら漫然とTVを見る。見るというよりも眺めるといったほうが正確だ。
いつの頃からTVを見なくなってしまったのだろう。
我が家にTVが入ったのは私が小六か中一の頃だ。クラスで遅いほうから数番目だったと記憶する。
「若い季節」「ひょっこりひょうたん島」や「大相撲・柏鵬戦」「怪傑ハリマオ」「事件記者」などを熱心に見ていたが、なかでも印象に残っているのは「地方記者」だ。主演は、小山田宗徳。
主題歌も好きだった。

人の心は 悲しいけれど それに負けていられないのだ
生きている・・・生きているんだ人間が
泣いて 笑って がまんして 空のグラスを前にして 涙こらえる時もある



この「生きている・・・生きているんだ人間が」でいつもぐっときた。

 09/10/22 (木) 介護


認知症の南田洋子が亡くなった。くも膜下出血で亡くなった。
夫・長門裕之と妻・南田洋子は芸能界一のおしどり夫婦と言われていた。

「くっついたと思ったらもう離れた」が常態の芸能界にあって珍しい存在だった。


長門裕行の嗚咽を写真で見て私は思った。
美しい女性たちがわんさといる芸能界で刹那的に魅かれた女性はいただろう。あるいはつまみぐいをした女性もいただろう。しかし夫婦の絆はレベルが違うのである。「好いた惚れた」を通り越しているのである。


長門はここ4年間ほど妻の介護にいそしんでいたという。
去年の10月20日に亡くなった私の親父の場合も同じく4年間ほどお袋の在宅介護を受けていた。できるならば夫婦の支え合いで老を生き死を迎えるのが一番いい。というか、自然なあり方だ。


介護が制度用語となってしまったことで言葉の持つ本来の価値観が剥落していく。そうして社会意識が変わっていく。
そういえば、きょうは「坂井地区介護保険広域連合議会・運営協議会」が開かれる。


今朝の散歩でセイダカアワダチソウの繁茂をみた。しかしよくみると、繁茂のなかにススキの茂りもある。北米原産の外来種横暴科と純和種との共存だ。奇妙な風景だと思った。




世界のキーワードは数年前にはグローバリゼイションだった。しかしその経済用語の実態は超大国による独占的支配への方向づけだった。
現在においてはG7からG20へと世界経済がシフトしつつある。つまり多極化だ。
そう考えれば、セイダカアワダチソウとススキの共生も、歴史の必然かもしれんと思う。

09/10/21 (水) 水を飲みながら


昨日はトリムパーク金津で健康長寿祭が開かれた。健康長寿祭とは敬老会のこと。
昨日が金津地区できょうは芦原地区だ。きょうは葬儀があって行けないので、昨日の祭りで年寄りの顔顔顔をみながらいろいろ考えていた。


合併前、金津町時代の長寿祭で配布されるパンフには、各地区の長寿者数リストが載っていた。私は各地区の長寿者比率を毎年算盤ではじいていた。
長寿者比率は勿論地区によって違うが、おおまかに言って郡部地区のほうがまちうち地区よりも長寿者比率が高かった。こんにちでも同じだろう。


理由は少なくともふたつある。
ひとつは、郡部の場合三世代同居が多く、孫と付き合うことによって年寄りが癒され明日への鋭気が養われるということ。孤独感から開放される。
もうひとつは家屋をとりまく環境の違いだ。
郡部家屋の周囲には樹木が多い。多いことで毎日森林浴をしていることになる。


十数年前のラジオから飛騨の家具づくり集団リーダーのしゃべりが聞こえてきた。
その集団がモルモット百匹を飼うボックスをふたつつくった。ひとつはコンクリート製でひとつは杉材製だ。毎日の餌や空気調整の条件は同一とした。三年後にコンクリートボックスのモルモットの80%が死んだのに対して杉材ボックスのモルモットは20%が死んだにとどまった。
樹木が放つエキスには滋養強壮効果が濃厚にある。
又、敷地内に畑が多く、家族の食生活は地産地消を地でいっている(割合が大きいだろう)。
そして、日々土と親しむことによって地霊と交感する。


46歳で夭折した小説家・中上健次は生前、「人智を超えたなにものかに対する畏れ」を言っていた。生誕地の関係で熊野信仰と関係深く被差別部落出身であったことなどがその契機となっているのだろう。
ともあれ、霊との交感が無意識にしろ自分の生を「人智を超えたなにももか」に委ねる思いを強くし安心立命を可能にしていくのだと思う。

 09/10/20 (火) 地蔵のこと


昨日、久しぶりにコンテンツ・「掲示板」をみた。
金津地蔵のことが書かれていたので、古町の現場へ行ったり教育委員会へ行ったりしているうちに、金津中学校PTA会長をやっていた10数年前を思い出した。


その年の秋の文化祭で、私たちPTA親の会は蓮如の劇をすることになった。私は道端の地蔵の役だ。地蔵の役など座っているだけで簡単だと思われるかもしれないが、実際は難しい。
微動だにしてはいけないのである。


蓮如が吉崎に来ていた時期は、応仁の乱が始まったころで、その頃の大衆つまりその殆どを占める農民たちは疲弊しきっていた。毎夕、農作業を終えて自宅に戻る道すがら、「世の中が平和になりますように。私達農民が安心して暮らせますように。生活第一です」との思いで、地蔵つまり私に向かって合掌する。その際、私は決して動いてはいけないし表情を変化させてはいけない。
ところが、村人Aに扮した某氏が台本にはないアドリブのせりふをはいたのである。
しげしげと私の顔をみながら、「なんて色の黒い地蔵さんや!」と大きな声で叫んだのである。
無表情をどうしても維持することができなくなった私は、思わず笑ってしまった。


ボーボアールが来日して古典芸能・文楽の「曽根崎心中」を観たとき、「この日本に完璧な死の表現があった」と感嘆したそうだ。
文楽は人形劇だから死体が動かないのは当たり前だと我々凡人は思うのだが、偉い人は妙なことに感嘆する。
しかしよく考えてみると
人間が死体を演じるのは確かに至難のわざだ。
床に横たわり冷たい表情で一点を凝視し続ける。周囲からの刺激に対して心も体も反応してはならない。もしかしたら心臓の鼓動も仮停止させなければならないのだから、生きている人間に死体の役は本来無理なのかもしれない。


一年前の今日、親父は亡くなった。その時私は医大病院でウンウンうなっていたので、葬儀に喪主として出席することができなかった。その悔しさは今でも残っている。


数日後に一周忌が開かれる。
その時の挨拶のなかで、親父に対する思いの丈を述べさせてもらう。
述べることによって胃の淵にたまっていた澱が軽減されるもしくは無くなるだろうと思う。

09/10/19 (月) 近畿府県合同防災訓練


昨日は、「近畿府県合同防災訓練」がテクノポート福井で開かれた。
自衛隊や近畿いちえんの各自治体救出ヘリが空を飛び交い、道路啓開、広域応援部隊投入、医療関係者空輸、中高層建築物救出、応急救護所設置運営、土砂埋没車両救出、列車脱線事故救出、東海建物救出、毒劇薬災害、ライフライン災害対応などの大掛かりな各種訓練だ。





最後に閉会式が行なわれVP数名が総評を含めた挨拶をした。
聞きなれている地元VIPのことはおくとして
京都3区選出の国会議員・泉健太政務官の挨拶が目についた。というより耳についた。


35歳という若さが放つ言質は、簡潔明瞭で無駄がなく力強い。
若い頃に戻りたいとは思わないが、人生のなかで若さが武器である時代は確かにあると思った。


午前2時半に事務所の前に立ち、漆黒の闇を見つめていた。闇は思索を深くさせる。
思索している私をみつけてか、警察のパトカーが静かに近づいてきた。
半年ほど前にコソドロと間違われたことがあるので、「又か」と私は身構えた。
しかしパトカーの中から出てきた声は、「こんばんは。ご苦労さんです」という礼儀正しいものだった。
聞けば、今は自転車を利用した犯罪の多い季節なので、それを把握する為の深夜パトロールだとのこと。

09/10/18 (日) 本日は合同防災訓練視察


本日の新聞に「加藤和彦さんが自殺」という記事がでていて驚いた。
私は関西で6年間の学生生活を送ったが下宿の深夜放送(関西放送だったかな?)のなかでよく流れていた歌がフォークルの「帰ってきたヨッパライ」だった。笑福亭仁鶴の「結構毛だらけ 猫灰だらけ」と合わせてよく覚えている。


生活苦や人間関係のもつれからくる自殺などにはそうさせる社会環境に対して強い理不尽を感じるけれども、功なり名を遂げたこういうひとの自殺は予定調和的なもの、言い方を変えれば人生の完了方法として予め組み込まれていたものという気がする。


考えてみると、私の友人だった数人も自殺している。そのうちのひとりはこの世で電話をした最後のひとが私だったということがわかっていて、その電話の一時間半が20数年を経過した今でも鮮明に思い出される。


昨日、越前市へ行った折、某小児科クリニックに寄った。



私が建築設計自営業をはじめた20数年前の最初の作品だ。とてもなつかしかった。

09/10/17 (土) ちょっと思ったこと


今朝の未明は冷え込みが少なくアウトドアの空気はむしろ生暖かった。
私は隣区・重義区の竹田川沿い堤防を歩いた。私はいろんな場所をひたすら歩く。
歩きながら高村光太郎の牛についての詩を思い出していた。


牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない 
ただでは躍らない 
がちりがちりと
牛は砂を掘り土を掘り石をはねとばし 
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐことをしない 
牛は力いっぱい地面を頼って行く 
自分を載せている自然の力を信じきって行く 
ひと足ひと足牛は自分の力を味わって行く
ふみ出す足は必然だ
うわの空のことではない 
是が非でも出さないではたまらない足を出す牛だ 
出したが最後 牛は後へはかえらない 
そして やっぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしゃらではない 
けれどかなりがむしゃらだ 
邪魔なものは二本の角でひっかける 牛は非道をしない

(中 略)
利口でやさしい眼と なつこい舌と
厳粛な二本の角と 愛情に満ちたなき声と
すばらしい筋肉と 正直な涎を持った大きな牛 
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く 
牛は平凡な大地を歩く




金津小金津中時代の同級生たちは私をニックネームで「牛さん(ぎゅうさん)」と呼ぶのだが、その由来説はいくつかある。しかしそのうちのひとつがこの詩のなかの「やさしい眼」にあることは言うまでもない。


この区の堤防は背の高い雑草の繁茂で歩きにくい。ニックネームは「牛さん」でも実体は人間の私がこれを食むことはできない。草刈鎌をもってこなければと思った。鎌で刈らねばと思った(私は怠惰主義だから、実際に刈るかどうかはわからないけどね・・笑・・)。




雑草のあわいに見える地肌からいろんなことを連想する。
一昨日の木造小住宅の打ち合わせで、基礎のことが話題となった。昭和56年の建築基準法大改定以後、木造耐震基準の改定も着々と進んでいる。セメント成分を地中に入れ練りつける地盤改良工法が近年まで一般的だったが、現在は柱状改良工法が支配的となってきているそうだ。
確かに建物直下をコンクリめいたものにすれば、上部構造体の耐震性能はより良くなる。
しかし、こういう工法が蔓延するならば、将来の日本は、その代償を抱え込まなければならないようになるのではないか。
セメント成分で硬化した土は本来の土ではないのだから、当然、微生物を排除する。
後世のひとたちは土地の有効利用の自由度を剥奪されることになる。


万物は生成流転する。私はこれをひそかに「愛のメタモルフォーゼ」と呼んでいる。
愛・・愛・・愛こそが全てなのだ。
国語辞書の一番初めに出てくるこの言葉を軸として、世界を見直さなくてはならない。

09/10/16 (金) もう週末か


いつの間にか、プロ野球のレギュラーシーズンが終わってしまった。熱心な阪神タイガースファンの私だけれども、今年はTV放映試合を一試合も観なかった。観ないと決めていたわけではないが、いろんなことに追われ続けて、観る暇がなかった。


阪神は4位でシーズンを終了した。強からず弱からずの昔にもどったみたいだ。人間もプロ野球チームも同じで、これくらいがちょうどいい。



今朝は森の中で朝を迎えた。
森といっても、奥山の森の類いではなく、自宅から車で数分の林に毛がはえた程度の場所だ。
思い出のある場所だ。
道の表面は土と砂利と雑草がごちゃ混ぜだ。
歩くのには、このような道が最適だ。アスファルトのような円滑な路面だと、土ふまずが路面に接触せず足の裏が刺激されないが、このような道だと刺激され脳が活性化するそうだ。加えて、地霊とコミュニケーションができる。


歩いていた時、道端で杉玉の連なりを見た。



子供の頃の代表的な遊びが杉玉を使った杉鉄砲討ちだった。不思議なもので、杉玉を目にしただけで、心が躍ってくる。

09/10/15 (木) 青い鳥


早朝に自宅裏の竹田川を歩くとセイダカアワダチソウが盛りである。



この北米原産の外来種がいまや日本国じゅう至る所にみられ、豊原瑞穂のこの国の在来種植生はすべて破壊されてしまうのではないかと、ささやかれていた。


ところが最近こんな新説が登場した。
「セイダカアワダチソウという雑草は強い生命力であっという間に野原や空き地をおおいつくしてしまう。そして数年後、自家中毒を起こして枯れてしまうのだ」(サイエンス言誤学、清水義範、朝日新聞社)。


「北米原産の外来種」を「超大国・アメリカ」に置き換えることができる。
鳩山首相は、もともと米国の市場原理主義つまりネオコンを批判していたから、対米従属を対米同位にシフトさせようとしている。これは世界が多極主義に向かっていることへの連動であり、その延長線上に東アジア共同体(アジア通貨統合)がある。そして東アジア共同体構想の中核に日・中・韓があるのだろう。


ソ連邦解体で冷戦構造が終焉した頃から、アジア通貨統合の可能性が出てきたのではないかと市議にすぎない私も思っていた。




竹田川河川敷を更に歩いていったところ、突然、足元から青い鳥が飛び立った。目の覚めるようなコバルトブルーの鳥である。突然なのでシャッターをきることができなかった。
数年前に、宇根観音の近くの細い山道を某氏、某女と3人で歩いた時、同じ青い鳥を見つけて感動的興奮を味わった。
しかし、青い鳥は自宅裏にいた。メーテルリンクは偉い人だと思う。



金津中学校の同級生諸君へ 
当時、金津中学校に赴任していた中島先生が文芸講演会をします。


09/10/14 (水) 湿り気のある朝


昨日の昼頃だったか、HP日記記述に関しての匿名メールが入ってきた。
昨日の日記に枝葉抹消と書いたものが「枝葉末節ではないか」という間違い指摘メールだ。
「普段使わない語彙を使うとこうなる。ご指摘はありがたいことや」と感謝しながら訂正した。


訂正して読み直している時、何故か道元に思いが及んだ。道元から蓮如を連想し、二人の出会いエピソードを書いた。
アップしてから、道元と蓮如が同時代人であるはずがないことに気づきその部分を削除した。
アップ時間は短かったのにもかかわらずそれを読んだ某氏から電話が入り、「道元と蓮如ではなく、一休と蓮如」とのご指摘を受けた。
ご指摘に感謝しているうち、確かにそうだという記憶がよみがえってきた。


今朝の5時、天空が白み始めた時刻に事務所前のポーチに立って日の出を待っていたら、目の前を横切ろうとする影がある。影は知人女性だった。
砂糖付き熱々珈琲をご馳走した。
話のテーマは「私たちが失ったもの」になった。
この数十年の間に社会環境・生活環境は大きく変わった。手に入れた利便性の裏側で失ったものが沢山ある。それらを総点検することが必要なのではないか、ということでふたりの意見は一致した。


久しぶりに重義地区の地蔵堂の前に立った。



地蔵は菩薩だ。釈迦入滅ののち、56億年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされる。


いわばピンチヒッターだ。十数年前に郷土史家の故・山口先生の薫陶を受け、友人たちと一緒に旧金津町内の地蔵探しに精を出していた時期がある。
あの頃は純粋だったなあ、とつくづく思う。

09/10/13 (火) 建築審査について


昨日の朝日新聞一面記事に「建築審査 簡素化の方針」があった。


姉歯偽装や民間審査機関、建設業者の手抜きが表面化して検査を強化した結果、建築確認申請件数住宅着工件数が極端に落ち込み、流通が停滞して経済問題にもなった。その強化の仕方が枝葉末節でいかにもお役所的だと思った私は、建築指導課へ行って理不尽さを何度訴えたことだろう。
「牧田さん、お気持ちはよくわかります。でも、国の指示だから仕方ない。我々木っ端役人は指示に従う以外、生きる道がないんですよ」が担当課の定番回答だった。
ならば国が変わらなければいけないと思っていた矢先、その兆しが出てきたことは大変に良いことだ。というよりも当然のことだ。


私のことを知っているひとはわかってくれると思うが、設計者であれ施工者であれ技術者は本来生真面目だ。石頭と言っていいほどに生真面目だ。クライアントから信頼されることを無上の喜びと思って仕事をする。建築基準法を守るのは最低限度のイロハだと思って仕事をする。
確かにルール違反をする輩がごく一部にはいるのだろうが、そこは前原国交省相が言っているように、厳罰で臨めばいいのである。


今までの国交省の姿勢にあきれ、建築設計からリタイアしていた私だが、セミリタイア程度に戻ろうかと思ってきた。


午前中で用事を済ませ、昼一番に事務所の掃除を始めた。「何故俺は掃除をするのだろうか。どうせ又汚れるのだ。してもしなくても同じことではないか。それならば他のことをしているほうがいいだろう」と、以前は思っていた。
しかし、今はちがう。「掃除をすることに理屈は要らない。掃除をしたいからする」と思うようになった。いや、「思う」という思考プロセスも今の私にはない。
このことを妻に話したら「進歩したね」と褒められた。
もしかしたら、私は禅言葉・「不立文字」を何かの啓示で会得したのかもしれない。

09/10/12 (月) 昨日の一日


昨日の午前中は某会の式典に出席。
午後は坪江地区の秋まつりに行った。会場内を糸川さんと一緒に歩いた(私は糸川親衛隊の一員です・・笑・・)。


事務所に戻ってから、しばらくの間村上春樹を読む。
村上春樹は著書・「海辺のカフカ」のなかで「すべての物体は移動の途中にあるんだ。地球も時間も概念も、愛も生命も信念も、すべてのものごとは液状的で過渡的なものだ。ひとつの場所にひとつのフォルムで永遠に留まるものはない。宇宙そのものが巨大なクロネコ宅急便なんだ」と語っているが、これはブンガク観というよりも宇宙論の解説だ。
ホーキンスの「300億年のちに宇宙は消滅する。そして時間も消滅する」という有名なフレーズだ。


私の脳味噌では到底わからないのが
@時間が消滅するとはどういうことか。消滅したら何かが始まらなくてはならない。何が始まるのか
である。


この広い地球上に生息する人間は二種類に分けられる。@がわかる人間と@がわからない人間の二種類に分けられる。
そして
@がわかる人間は、天才というよりもバカであると思う。


「ソ連水爆の父」と呼ばれたサハロフは地下鉄の切符を買う方法がわからず、地下鉄に乗ることができなかった。
ついでに言うと、
「戦争と平和」を書いたトルストイは、嫁はんに叱られて牛乳瓶一本を持って家出した。そして近くの駅の待合室で凍え死んだ。
言うまでもないが
「天才」という言葉は彼此岸の埋められない距離を感じさせ、「バカ」という言葉は我々をほっとさせる。

 09/10/11 (日) 青春の光と影


昨日は、加賀の海へ車を走らせた。以前から10月10日のひとときを加佐岬で過ごしたいと思っていたからである。しかし穏やかな秋空とは裏腹に海は荒れていた。明らかに台風の余波だ。
仕方なく車を方向転換した。これがもうけものだった。





杉と竹の混合林からの木漏れ陽が林道地表にシルエットをつくっている。まだら模様をつくっている。「人生はまだら模様」という私の人生観とぴったり符号する。


車から降りた。光と影の細い道を歩いた。
歩く私の脳裏にジュデイ・コリンズの「♪青春の光と影」が流れてくる。

 09/10/10 (土) 週末も予定だらけ


昨晩は事務所においてひとの集まりがあり、散会したのが午後10時。
自宅に戻り熟睡して今朝は午前3時半に起床した。本来的な意味での「早寝早起き」態勢になったといえる。


一週間前の来訪者から「牧田さんの午前2時起床を早寝早起きとは誰も言わないわよ。昼夜逆転というのよ」と言われて、私は就寝時刻を10時前後、起床時刻を午前4時前後とするように努力してきたのだ。


午前3時半は新聞が配達されてくる時刻でもある。
目覚めてから、洗顔し歯を磨き熱々珈琲を飲み新聞を読む。新聞を読んでいる時、窓外に虫の音の聞こえないことに気が付いた。毛糸の股引をはかなければならない程に朝夕は冷え込み始めてきている。



きょう10月10日は「たおれ記念日」だ。
この一年間に私はいろんなことを経験した。ひととの出会いも沢山あった。時間はまことに濃密に流れた。忘れることの決してできない一年間となった。数年数十年に置換し得る一年間となった。


19世紀仏の哲学者・アランは著書・「幸福論」で、「敵は自分自身のなかにしかいない」と言っている。この言葉をかみしめ続けた一年間でもあった。

昨日の来客がスナップショット写真を持ってきてくださった。
実は、私は自分の写真をみるのがあまり好きではないので、久しぶりのわが身拝見となったのだが、拝見して驚いた。16kg痩せるということは、容貌をこんなにも変えるものかと驚いた。
痩せた分だけ眼光が鋭くなっている。


そういえば昨夕に私は某病院眼科へ行った。長年のパソコン前長時間座りで疲れ目となった為だ。眼科医は、機械検査結果表を見ながら「ひとみはきれいですね」と言った。私の肉体のなかでひとに自慢できる唯二のうちのひとつがひとみであることを再確認した。


そのきれいなひとみで川の流れを見たいと思い、きょうの未明に「かみしげばし」へ車を走らせた。だけど、川の流れよりも雲の流れのほうが気にいった。

09/10/09 (金) あわら屋台村・湯けむり横丁


本日の福井新聞に、「屋台村」関係の記事が載っている。


屋台村ができて既に二年近くが経つが、記事によれば月平均6000人の来客数だ。これはまあまあのペースだろう。私もたまには行く。焼酎も飲む。
ただ、湯けむり横丁に入るとそれなりの雰囲気が漂っているが遠景がよくない、といつも思う。個々の屋台の厨房として使われているコンテナのために横丁内部が視覚的に遮断されているということ及びコンテナのバックがむき出しになっているということ。
コンテナの幾何学的な線は「横丁」というレトロ概念に対しては逆立する。


町並みであれ横丁であれ個々と全体の絡みに有機性がなければ片手落ちだ。つまり遠景と近景のバランスの良さが生命線だ。未利用跡地のなかでの湯けむり横丁の配置位置は明らかに「えち鉄・湯のまち駅」からの動線に主軸をおいている。とするならば、その動線の雰囲気づくりは不可欠だし、温泉街幹線道路からの遠目での風景づくりも不可欠だ。
跡地利用計画という近々の課題にこれらのことがことが盛り込まれなければいけないと思う。

 09/10/08 (木) 台風


午前2時に目が覚めた。福井県の一部も台風の暴風域に入っているというラジオニュースが流れている。漆黒の闇の彼方から風のうなりが聞こえてくる。夜があけたら、あわら市内を車でまわろうと思う。


台風についての一番印象深い思い出は、私が小学校低学年の時だった。深夜に襲来した台風による激しい風と雨で母屋は揺れがひどく停電となってしまった。私たち家族は納屋に避難した。六帖の部屋にろうそくをつけ、家族はろうそくのまわりに車座となった。
納屋も雨漏りがするので、ブリキのバケツを床の上に置いた。恐怖のせいで皆、無言だった。


一本のろうそくだけが明かりのつまり殆ど闇の世界では、聴力が異常に研ぎ澄まされる。
ブリキのバケツに落ちる雨滴の音は時に激しく時に穏やかだ。
雨音がつくる強弱のリズムは私にとっての確かな原風景となった。ものもと人嫌いだった私はますます無口になり、絶対音感だけが私の世界となっていった。


モーツアルトの研究のため、後年に私がザルツブルグ音楽院をめざしたきっかけがこの原風景にあったことは言うまでもない。


10月11月はイベントや会議や勉強会がなんやかんやと多い。きょうもいろんないざないの文章がファックスされてきた。
昭和30年代までの日本は農業社会だったから、農作物の収穫が終わる秋の季節は人々が束の間の開放感を味わう季節だったのだろう。商い(アキナイ)は秋の行い(アキノオコナイ)からきていると何かの本で読んだことがあるが、農作物を換金した時こそこういうことに対するエネルギーが発散される。


ばあさんっ子だった私は、この季節にばあさんと一緒にキノコ採りに行くのが楽しみのひとつだった。
「においマッタケあじシメジ」は人口に膾炙した言葉だが、採れるのはシメジばかりでマッタケが採れた思い出はないなあ。真っ赤な毒キノコはよく見た。


文盲だったばあさんは「たかお、読み書きだけはできるようにならんとあかんぞ」と言うのが口癖だった。そのばあさんははるか昔、40年ほど前に他界した。その数年後(確かニクソンが北爆を開始した日)にじいさんもばあさんの後を追った。そして一年前に親父も他界した。
三人は浄土でどんな生活を送っているのだろうか。
饒舌だったばあさんはしゃべり続けているのだろう。徹底して無口だった爺さんは蓮の葉っぱに座って瞑想する日々を送っているのだろう。遊び人だった親父は麻雀やポーカーに精出したいはずだが、浄土は博打禁止だと思う。

09/10/07 (水) きょうはCAD


昨日夕刻の来訪者から、民主党の子育て支援政策に対する批判を聞いた。何人ものひとから聞かせていただいたことだが、主に財政支援が大丈夫かどうかということと、より多くのモラルハザードを招くのではないかの二点にリスクがあるというものだ。


民主党マニフェストのなかのこの項目についてだ
11.年額31万2000円の「子ども手当」を創設する
【政策目的】
○次代の社会を担う子ども1人ひとりの育ちを社会全体で応援する。
○子育ての経済的負担を軽減し、安心して出産し、子どもが育てられる社会をつくる。
【具体策】
○中学卒業までの子ども1人当たり年31万2000円(月額2万6000円)の「子ども手当」を創設する(平成22年度は半額)。
○相対的に高所得者に有利な所得控除から、中・低所得者に有利な手当などへ切り替える。
【所要額】
5.3兆円程度


先進国中、教育への投資率が最低という現実が先ずある。
そして
金津中学校のPTA会長だった10数年前、親子関係のおかしさを教師から度々指摘されたし、又おかしい教師がいるということも実感した.
何人かのお母さんがたからDVを含めた涙の訴えも聞いた。
聞く側の私が日頃変人と言われているので、私の思いが説得力のあるものかどうかはわからない。けれどそれを承知で言わせてもらうならば、国の投資が子育てに安心を与えるという正価値もあるし、親が親としての本来の責任から逃げ出すという負価値もある。制度が変わる場合に、より大切なのは制度自体よりも制度を裏打ちする精神つまり制度哲学だと思う。その正確な把握の上に制度行使があるべきだ。


どんよりとした曇り空の今朝は、好きなひとの家の近くに車を停めていた。
と書くと
「あら、私の家の近くに来ていたの?・・・玄関ブザーを押してくれれば熱い珈琲をおだししましたのに。牧田さんて恥ずかしがりやなのね」と思った女性読者が沢山いるだろうが、実は私が中学生時代の恩師の家の近くに車を停めていたのである。
悩みが多いせいで寝付かれない日がよくある。その場合、私はこういう行動をとる。


 09/10/06 (火) 昨日の一日


本日の福井新聞に、<県会に「民主党・一志会>の記事が出ている。県民連合5人、一志会4人と無所属1人が合流して結成された会派だ。
記事にも出ているように民主党議員は自民党議員と比較してその数が圧倒的に少ない。市議会議員の数なども桁違いに少ない。広がりと深まりへの模索は、当然だと思う。
当あわら市議会でも民主党議員は私ひとりだけだ。民主党議員が複数いるところの議会での会派活動を聞いていると、うらやましくなる。一人会派でもつくろうか、という気にさえなる。


議員の動きとは別に、市民の動きもある。既に各地で始まっている。
昨日はそういうひとからの電話が複数あったし、来訪者もあった。


そのうち夕刻になり、所用をかかえていた私は坂井市丸岡町へと車を走らせた。
最近自覚しているのだが、私の目は鳥目と化している。夜のとばりがおりると、まわりがわからなくなるのだ。
目的地がわからず周囲をうろうろしているうちに、あろうことかガス欠になってしまった。
妻に電話をしてその旨を伝えた。車の外に出て田んぼにいずかりガソリンの到着を待っていた。そこは辺り一面田んぼだが、遠くに民家群の灯がみえる。


「家族が皆で団欒しているのだろう。きょう一日の無事に安堵しているのだろう。明日の一日が心配のない一日であるそのような社会をつくらなければいけない」と思った。


到着した妻から「車に乗るときは<ガソリンOK、シートベルトOK(シートベルトに関してはひとに言えない事情があるのです・笑・)>と必ず唱えなさい。そしてもっと明るい声もっと明るい顔をしていなさい」と叱咤された。


家に帰ってから、妻は「おとうさんに言いたいことを言ったのですっきりしたわ」と言う。
私は叱咤されたことはドンマイで、にこやかな顔に戻った妻の顔をみるのが嬉しかった。
既に恋人どおしとはいえないが、強力な同志ではある。私の生き方の羅針盤である。

09/10/05 (月) 新しい週が始まった


昨日の午後6時に名泉郷をめがけて車を走らせた。東の空に月が出ている。



中秋の名月だ。
車を降りてデジカメシャッターをきった。
周りを見回すとススキ群が生えている。みているうちに吉田拓郎の旅の宿が口をついて出た。


浴衣の君は ススキのかんざし
熱燗とっくりの首つまんで
もう一杯いかがなんて
妙に 色っぽいね
僕は僕で あぐらをかいて
君の頬と耳は真っ赤っか
ああ風流だなんて
一つ俳句でもひねって
部屋の明かりを すっかり消して
風呂上がりの髪 いい香り
上弦の月だったっけ
久しぶりだね 月見るなんて
僕はすっかり酔っちまって
君の膝枕にうっとり
もう飲み過ぎちまって
君を抱く気にもなれないみたい


私の学生時代はフォークソングの全盛期だった。広島フォーク村から出てきた吉田拓郎のこの歌を初めて聴いた時、「俺もいつかこのような体験をする。その時期は近づいている」と思ったが、結局は体験のないままに40年が過ぎてしまった。


名泉郷に入りS氏宅へ。話のテーマのひとつが新幹線問題だった。
途中で奥さん、息子さんも話に加わった。
驚いたのは、新幹線建設によって在来線が三セクになることを知らない人が若い世代には多いということだった。「新幹線がきたほうがいい」という人が私の周囲にほとんどいないのは実感しているが、それよりも三セク化されることによって自治体の負担がどの程度増えるのかなど「広く会議を興し万機公論に決すべし」の課題が新幹線問題にあることを重視しなければならない、と私は思った。


もっと驚いたのは、私がながい議論に耐えることができるようになってきたことだ。体の状態は一日一日と着実によくなっている。

09/10/04 (日) 昨晩


昨日の午前中は、あわら市社会福祉大会に出た。午後になって事務所に戻ると市外の某氏が来訪。四方山話に花が咲いた。
夕刻には福井市へ。某国会議員の御母堂の御通夜に出る為だったが、受付のテントは複数並び、受付箇所が沢山に分かれている。
「さすが、国会議員の御母堂の御通夜はスケールがちがうなあ」と思った。


事務所に戻ると数人による宴会が開かれていた。焼鳥つまみの芋焼酎ミニ宴会だ。
話のテーマは、街づくりのこと新幹線のことこれからの選挙のこと。


民主党に入ってから、私の人間関係は大きく拡がった。基本的には、自治体政治に政党はそぐわないと思っていた。中学校2校存続運動などはその典型だ。なんせ、自民・民主・共産入り乱れだった。
だけど、政権交代が自治体政治に与える影響は確実にある。つまり、国政と自治体政治の間にリンクするものとリンクしないものがあるということだ。
無所属ならまだしも、私のような政党議員はリンクを峻別し自らの意見に整合性をもたせていかなければならないと思った。


宴会は午前零時過ぎまで続いたが、うちひとりは「まきちゃん、こんどは鍋物パーテイをやろう」と言って帰っていった。確かに、秋は鍋物の季節だ。

みんなを見送ったあと夜空を見上げた時、去年の10月に天国へ逝った親父の顔が浮かんだ。


天国は もう秋ですか お父さん
  という子供俳句コンクール一位の句を思い出してしまった。

09/10/03 (土) 本日は福祉大会


昨日、厚生経済常任委員会から提出された資料の数字をにらめっこしているうちに夜があけてきた。
気分転換のために竹田川河畔を訪れた。



昨夜の雨のせいで水かさが増している。水かさが増すと上流の河川敷に捨てられた諸々が流れてくる。それらを眺めているのは効果のある野外学習だ。エッチビデオやエッチDVDが流れてくるのをみて、私はそう思った。


電気屋の友人によると、エッチビデオは水に濡れたら再生不可能だが、DVDは大丈夫だとのこと。私はそういうものに興味がないから拾わなかったが、何故流れてくるのかは考察にあたいする。
上流に住む青少年が小遣いをためて買った品物なのだろう。親に隠れて映像を楽しんだのだろう。好きな女の子(男の子)をイメージしながら楽しんだのだろう。そして、「燃えないゴミ」の袋に入れることもできず、闇にまぎれてそっと捨てたのだろう。
人類維持の為に、性欲は存在する。青少年期は特に性欲が強い。彼ら(彼女ら)は、映像で性欲を発散しようとする。しかし、そのことが性犯罪に結びつくのかどうか、私にはわからない。

本日の午前中は「あわら市社会福祉大会」が湯のまち公民館で開かれた。
記念講演の講師は向野幾世さん。情感たっぷりの講演は、聴き手をひきつけるものがあり、なかなか良かった。但し、私はもっぱら手話通訳をみていた。
ふた昔前に一緒だったひとが通訳をしていたのでどうしてもそうなる。情感を交えた語り口を手話通訳するのはなかなか難しいだろうなあ、とも思った。

09/10/02 (金) 本日は厚生経済常任委員会


昨年の10月10日午前11時に私は脳内出血で倒れた。あれから一年が経とうとしている。体の三ケ所(脳・右手・右足)にわずかなマヒが残ってはいるけれども、日常生活のこなしに問題はなくなってきている。
一周年ということで、総括する必要があるだろう。


倒れた直後に幽体離脱を経験したのだが、詳述はやめる。
救急車で大学病院に運ばれた時の私の心的状態を説明するのは難しい。傍目には意識不明なのだが、当事者である私自身の頭の中は例えば昭和初期の映画フィルムによくみられるような映像の乱れ・ジャミジャミが流れ続けていた。自分が天国にいるのか地獄にいるのか現世にいるのか全くわからなかった。不思議なのは、痛みや恐れがなかったことである。


痛みは、覚醒後の治療段階で出始めた。
そして、覚醒後に顔を合わせた妻子を識別することは全くできなかった。誰が誰なのかさっぱりわからないのは困ることだ。


リハビリが始まってからの回復は驚異的だった(と担当者から言われた)。「学会で発表したいのでリハビリ風景を動画に収録させてほしい」とも言われた。


「もう車椅子に乗らなくてもいいですよ。病院の敷地内を歩いてください。日光を浴びてください。歩くのが一番のリハビリです」と激励された。
10数日ぶりに戸外へ出たときに彼方の山々に紅葉が始まっているのをみて涙が出た。「自然はうつろう。自然のうつろいをみることができるのは、俺が生きているからだ」と思った時に涙がでた。涙をぬぐう為に胸ポケットのハンカチを取り出そうとしたがなかったので手で涙をぬぐった。
横を通りかかった女子高校生3人組みが怪訝な顔をして私をみつめたが、私は全然恥ずかしくなかった。本当は号泣したかった。


重篤な患者と一緒の入院生活は発作前の私の生活の総点検を促した。
つまり、「日々を生き続けること」自体が最大の目的のひとたちとの毎日の対話で、私の人生観は大きく変わったのだ。


退院してからは自宅周辺を決まった時刻に決まった歩幅で歩くことを日課とした(カントみたいだ)。山道を歩きながら私は考えた(漱石みたいだ)。


私は二本の足で歩いている。何故足は二本あるのだろうか。
そうだ・・左足は歩くための足だ。そして右足は立ち止まって考える為の軸足だ。何故そのことに今まで気付かなかったのだろうか、と思った。


発作に襲われた時、私は59歳だった。今は60歳つまり還暦である。還暦とは人生のワンクールが終わり新たなワンクールが始まったことを意味する。
妻がよく言うのだが
発作前の私の生活は無茶苦茶だった。事務所にひとが沢山集まってきていたせいもあるのだが、煙草は一日3箱、毎夜焼酎づけ。散らかった事務所でいつの間にか寝込んでしまう日々だった。
現在の生活だが、焼酎はコップ一杯のみ、しかもつまみなしだ。煙草とも縁をきった(というか、一日数本に抑えている)。夜は早く自宅に戻り、ちゃんと布団に入って熟睡している。
起きたら布団をたたむのが当たり前の生活となった。
何よりも変わったのが、潔癖になったことだ。潔癖症になったというほうが正確か。
自宅や事務所の整理整頓に精出すことは勿論、戸外の道路にゴミが落ちているのをみると気になってしょうがない。


昨晩の私は、某場所で水餃子つまみにコップ焼酎を飲みながらそんなことを思っていた。


きょうの昼のラジオが下田の街を紹介していた。
下田の街の一部の外灯は、ガス灯であるそうな。


私は18歳の夏、男三人で能登半島を歩いた。能登半島の先端にたどりついた時、御陣乗太鼓と時国家住宅に感動した。
時国家住宅はガスランプを灯りとして使っていた。
ちょうどその頃、谷崎潤一郎の「陰影礼賛」を読んでいた私は、「明かりは部屋を明るくする為にあるのではない。明かりは陰をつくる為にある」という信念を持っていた。
ガス灯は明治期の象徴だ。吉田松陰や坂本竜馬や西郷隆盛が若い命を投げ出してつくった明治国家の象徴だ。
全身美意識だった当時の私に、ガス灯は澱として胃の淵に残っている。
せめて私の事務所をガスの館にしたい。健全な明かりよりも妖しい明かりを引き出したいと思っている。

 09/10/01 (木) きょうから10月


昨晩は、イネスで<「食料を考える」学習会>が開かれた。
学習会講演の講師は玉井よろず道楽研究所の玉井道敏氏。



氏の話は、福井と全国との稲作率あるいは稲作形態の際立った違いについての解説から始まった。ユーモア(ユーモアの語源はラテン語で血液の流れをさす)を少し入れてほしいと思ったが、興味のつきない話に終始した。


「地域主義という言葉が最近のトレンドだが、地域よりも個人だ。地域という言葉は異質を排除してしまう。地域ではなくて個人なんです」というくだりに私は大いに共感した。

少年期に農業少年だった私は「農業に上司は要らない。おてんと様だけが御主人や」といつも思っていた。


午前6時の竹田川。



雲の棚引く向こう側に朝陽がのぼる。絶景だ。
何故ひとは物見遊山の旅なんかするのだろう。宗教的な程に美しい心の洗われる風景が足元に必ずあるのに。
人間関係もそうだ。
今読んでいる立松和平著・「人生の一番美しい場所で」は、認知症になった配偶者と等身大で向き合いへとへとになりながら介護するなかで、次第に配偶者と自分との関係の総体に光明を感じていくというストーリーだが、確かに「介護」を制度用語で捕らえてしまうと、一切が平板になる。
この小説を読んで(まだ読了していないが)、何故著者が禅宗総本山・永平寺にこもって修行をしていたのか、その片鱗をうかがい知ることができた。