2010年01月

  10/01/31 (日) 未明にチョコレートを食べながら

昨日の午前中は、事務所の大掃除に一生懸命だった。普段は無頓着なのだけれども、掃除をやり始めると潔癖症になる。床に塵ひとつ落ちていても気になって仕方がない。


途中来客一名。行政がらみのことで相談を受ける。
「翌日は日曜日だけれども構うことはない、担当課自宅へ行って思いを伝達してこよう」とココロに決めた。
掃除が終わった頃、パソコン修理専門店から「パソコンの入り切りスイッチの不具合が直りましたよ」という電話が入ったので、早速専門店へ行った。
「事務所の模様替えも終わったし、パソコンも直ったし、俺の生活はバージョンアップや」と思った。


夕刻、友人に誘われて「金津創作の森」へ。そこでは朗読会が開かれていた。たまにこういう文化的営みを観るのも悪くはない。もっとも文化って何なのかがよくわからないのだけれども。
昨夜は6時半に就寝。今朝は3時40分に目が覚めた。珈琲を飲んだあと、いただいたチョコレートを口にした。すごく美味しい。何故なら中に焼酎が入っているからだ。食べながら窓外の大きい満月を見ているうちに沖永良部島を思い出してしまった。


僕が沖永良部島の北端・国頭の地の牛小屋2階に住んでいた時、隣接する珊瑚礁の海岸に映画俳優・映画女優たちが来た。山岡久乃や田村高廣もいた。
一色次郎が亡き母を偲び沖永良部島の風景を回想して書いた小説・「青幻記」の映画化・ロケのために来たのだ。この小説は、太宰治賞をもらっている。
主人公・田村は母の墓のなかから頭蓋骨を取り出し浜に押し寄せる波で洗骨する。生前の母を偲び号泣しながら洗骨する。
後年、映画・「青幻記」を福井市順化の「メトロ会館」で観た。僕は涙した。


30数年振りに沖永良部島を訪れた稔(田村高廣)は、島の風景に母(賀来敦子)の幻影を見る。アダンの陰から母が現れる。サンシンの音色が遠くから聞こえてくる。
幼少の頃に母は結核で亡くなった。母の死を理解できない稔は葬儀の日にユタを訪ねる。ユタの夜、稔は母の声を幻のように聞く。
「稔さん、お母さんは、一度でいいから、あなたを力一杯抱きしめてあげたかった・・」
結核感染を恐れて母は実の息子を抱きしめることができなかったのだ。


余談だが、沖縄本島を始めとして琉球列島の墓は海を向いている。シアワセを運んでくる神・ニライカナイのいる方向を向くからだと聞いたが、ニライカナイは勿論清国を指すのだろう。和国が鎖国状態であった江戸期、琉球は清国と交易を重ね、異国情緒を形成していった。


当時一緒に住んでいた男たち及び小数の女たちと一緒に夜な夜な焼酎片手に「永良部百合の花」を歌ったものだ。
彼ら彼女らは今頃どこで何をしているのだろう。

10/01/30 (土) きょうは誕生日

「ライ麦畑でつかまえて」のサリンジャーが老衰で亡くなった。
「ライ麦畑でつかまえて」は、確か僕が成人した年に読んだ本で、野坂昭如の「エロ事師たち」と並んで強く印象に残っている。
僕の誕生日(1月30日つまりきょう)の前日に亡くなったことにも因縁を感じる。


僕と同じ誕生日の有名人というと
石川さゆり  (1958) なんたって 津軽海峡冬景色
三條正人   (1943)  美人女優を妻にもつ
稲盛和夫   (1932)  日航再建なるか
横山ノック  (1932)  おさわり府知事
長谷川町子  (1920)  サザエさん
高見 順   (1907)  俺は荒磯の生まれだ
勝 海舟   (1823)  坂本龍馬の師匠


江戸城を無血開城に導いた立役者が同じ誕生日だと思っただけで、誇らしげな気分になる。これをミーハー気分というのだろう。




昨晩は、事務所において、「(仮)ふるさと語る会」が開かれた。
内容は「神様」についての講義拝聴。
講師・U氏の博覧強記ぶりは講義を大層面白いものにした。
あわら市にもいろんな人がいるもんだ。


室生犀星は、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」とうたったが、遠くでなくとも思ってしまうのが人間の情だ。そして、ふるさとの古(いにしえ)を遠く遡る時、神々が現れてくる。多神教の日本においては「八百万の神々」が現れてくる。


例えばイスラムのような一神教の世界では「神」が人間世界を一元管理する。人間と神との間には、厳密な契約関係が成立している。
しかし、「豊原葦の瑞穂の国=日本」における「八百万の神々」はまるで人間そのものだ。素戔男尊のような荒ぶる神もいる。つまり神々を考えることが人間を考えることになると、僕は思うのです。


次回は2月19日(金)午後7時より(場所・牧田事務所1階)
ふるさとの歴史・文化に興味のある方はどなたさんも気軽にお越しください。

10/01/29 (金) 深夜の窓外の雨音はショパンの調べ

昨晩の手話サークルには新しい客人が参加した。「人生は出会いと別れの連続」なのだが、歳を経てもというか歳を経てきたからこそこのことを強く実感する。
ということで、昨晩は新鮮な気分を味わうことができた。

「民主党は2日、ウイルス性肝炎の患者支援と医療体制整備を盛り込んだ肝炎対策法案を臨時国会で成立させることを目指す方針を確認した。衆院厚生労働委員長の提案による議員立法を模索する動きが出ている。」という。
民主党が成立を目指す法案は、旧与党の「肝炎対策基本法案」をベースにしている。
いわば党派を超えたこの法案の成立に大変な関心を持ち見守っている御夫婦から詳細をいつも聞かされてきた。

予定を携帯電話に書き込むことを止め、手帳に書き込むことにした。脳内出血で倒れてから一年間の格闘の末、マヒの残っていた右手でのメモ書き能力が戻ってきたためだ。勿論、手帳のなかの狭い罫線に整然と書き込むのはまだ無理でその意味では「昭和の能筆」と呼ばれた右手はまだ戻ってきていない。罫線をはみだすような乱字になってしまうけれどもしかしそれでいい。無理せず気長にボールペンと付き合っていこうと思う。
ところで
字をキーボードで書き込む作業と白紙に字を手書きする作業とは脳の使い方において全く別ものだということがよくわかった。
キーボード打ちはキーを指先で押し込むだけの単純作業だが、白紙への手書きは各々の字のヘンやツクリなどいろいろな画像を脳内に蓄積された引き出しから取捨選択するという複雑な働きを要する。


金津小学校6年の時に「若越習字二級」を取得した僕だからこそそう言えるのかもしれないが。

10年01月28日 今朝はしとしと雨

地協から携帯に「議会報告をしてほしい」という電話が入る。ぼちぼち原稿を考えなきゃならんなあと思いながら帰宅。


二月には坂井地区介護保険広域連合議会が予定されている。
四月に坂井市議選があるので今のメンバーでの最後の議会となる。そのことも含めて一般質問を考えたい。二月は広報編集委員会の視察研修及び環境対策調査特別委員会の視察研修も予定されている。忙しくなりそうだ。

きょうの午前中は井ノ部航太氏と共に数名であわら市内の何箇所かを廻った。

  10年01月27日 未明に

このところ起床時刻が遅くなってきた。一週間前までは午前2時起床が定番だったけれども今朝は4時20分に起床。これくらいを(本来の)早起きというのかもしれない。
外に出ると風が穏やかだ。春の気配が感じられる。当面は三寒四温が続くのだろうが「春遠からじ」の思いを持つことができるのは、我々越前人の特権かもしれんね。


というところで、世間に流布されている北陸三県人の気質をあらわす「越中強盗、加賀乞食の越前詐欺」を思い出した。


越中(富山)はかって新産業指定都市となり工業生産にいそしみ全国ブランドの企業を生み出した。


加賀(金沢)はいわずとしれた前田家100万石の国。江戸期に文化を洗練させ「小京都」と呼ばれるほどに金沢の知名度をあげた。
文化人は有事の際に何の力を発揮することもできず、道端で乞食をするしかなかったことの謂いだろう。幕末には天下の流れを見ているだけだった。


越前(福井)は近江に近くつまり近江商人の流れを持つ。江戸期の身分制「士農工商」を考えると揶揄の気分があるのだろう。
しかし幕末の名君・松平春嶽は財政手腕を持つ由利公正を側近につけた。後に由利は東京府知事となる。
その頃既に商人の力は大きいものとなっていた。

10年01月26日 昨日の一日


同じ議員でも国会議員や県会議員と違ってその系列の末端に位置する市議というのは職能集団ではない。今はセミリタイヤしてしまったけれども十数年前まで「建築設計事務所」という専門的職能集団にいたからだろうが、なおさらそう思う。これは「いいわるい」という価値観の範疇外のことだ。


ということで昨日は何人ものひとに会って苦情を聞き、あるいはしかるべき場所に同行した。議員の仕事の原点は「話を聞く」ことで、時間はその為に費やされなければならない。その声を普通は「市民の声」というのだろうが、ぼくの感性に「市民」という言葉はなじまない。市に住んでいる民(たみ)が市民なのだから言葉の使い方に間違いはないのだろう。
しかし偏見かもしれないが、この言葉に僕は政治的啓蒙集団という匂いを感じる。庶民感覚が抜け落ちている。


とかなんとか考えていた夕刻、僕は三国・サンセットビーチへ車を走らせた。かりそめの恋を体験した場所だ。


真冬の日本海を眺めているうち、若山牧水がアタマに浮かんだ。


山ねむる 山のふもとに海ねむる
   かなしき春の 国を旅ゆく   若山 牧水



山はいい。海はいい。

10年01月25日 思うこと

「世界は大きな劇場だ。そして人間ひとりひとりはその劇場劇の主役である」と言った有名なひとがいる。真意はわからないけれども、僕はそれを「喜びも悲しみも幾年月」と勝手に解釈している。


23歳の頃、僕は沖永良部島にしばらく身を置いていた。海岸線にあった牛小屋2階で生息していた。
世話になった平(たいら)のおじさんから、島の歴史の悲哀を聞かされた。「前科7犯」を自称していた赤ら顔の漁師と夜な夜なアダンの木の下で酒を飲んだ。「酒は泡盛焼酎、つまみはとれとれの生きている蛸」が定番だった。酔いが覚めると、バナナの木陰に置かれたドラム函風呂に入り、青い月を眺めながら♪「そっとおやすみ」を唄った。一人だけの牛小屋暮らしは二人・三人と増えていき、最後は八人となった。


その沖永良部島の南が与論島でその南に沖縄本島がある。本島には敬愛するふたりのひとがいて彼らから沖縄の歴史が占める特異な位置をよく聞かされた。


昭和20年4月28日に米軍が沖縄本島に上陸。本土防衛のための要めとされ、戦闘・非戦闘合わせて(確か)16万人のひとが殺された。
米軍支配下に置かれた当時の沖縄は、しかし基地経済への依存感のほうが大きかったように思う。


あれから幾星霜で昨日は名護市長選。
「辺野古に基地作らせぬ」をうたった新顔・稲嶺氏(民主・共産・社民・国民新・沖縄社会大衆、そうぞう推薦)が初当選した。
「辺野古への移設」という選択肢は現実的に無くなっただろう。

10年01月24日 昨晩は6人久しぶりの逢瀬

今朝の朝日新聞28面に「音泉組」のことが載っている。


去年の今頃だったか。学生時代の友人5人が関西から来福してJR芦原温泉駅前の中華料理店座敷で一緒に飲んだ時、「音泉組」のメンバーふたりが我々6人の横で演奏・独唱してくれた。


ずっと昔、カナダ・トロントのレストランで我々夫婦が地元の製紙会社副社長夫妻と一緒に会食した折バイオリン引きふたりがクラシックを聞かせてくれた。その時にも感じたことだが、ステージ演奏やBGMとは違って音が自分(たち)だけのために流れてくれているというのは気分をとても高揚させる。
(金を出したわけではないけれど)世界を買い取った気分になる。

「小沢幹事長、東京地検の事情聴取に応じる」がマスコミを賑わしているが、「きっこの日記」「ムネオ日記」「植草一秀の知られざる真実」などをインターネットで読んでいるとため息が出る。

10年01月23日 明け方に熱々珈琲を飲みながら


30代の終わり頃の数ヶ月、僕は大阪で出稼ぎをしていた。妻子と離れ、某設計事務所の寮で寂しい夜を過ごしていたが、その時の慰みが司馬遼太郎の一連の幕末ものだった。そのなかに「竜馬がゆく」があった。


慶応2年のきょうつまり1月23日(陰暦)、坂本龍馬が伏見奉行配下の捕り方に襲われた。場所は京都・寺田屋。


上述の「竜馬がゆく」によると、竜馬はのちの妻・お龍の機転によって危機を逃れた。機転とはお龍の全裸作戦実行のことだが、攘夷派と開国派が殺しあう幕末においてこういうエピソードを持つ竜馬は太陽のような存在だったのだろう。


もっとも、竜馬が有名になったのは明治末期の日露開戦の時。
皇太后の夢のなかに竜馬が現れてからだそうだ。

司馬遼太郎の小説に出てくる登場人物は皆闊達だ。湿り気がない。例えそれが実像と離れたものであるとしても小説だから構わないのだ。



本日の朝日新聞一面見出しに「建築審査 迅速化へ」がある。
当然だろう。


建築確認申請手続きの主な改正点は
・自治体や検査機関での審査と、構造計算適合性判定機関での審査を同時並行で実施
・審査中に図面を変更できる対象を拡大
・審査機関に苦情窓口を設置
・構造計算の概要書は提出不要に
・国が認めた防火建材やシックハウス建材をデータベース化し、審査機関で共有
・長期有料住宅の提出書類の簡素化
   だ。


審査中の図面変更ができなかったことは、ぺーパーレス社会進行からの後退であったし、計算概要書の提出に何の意味があるのかもわからなかった。姉歯事件の影響で、建築設計に関わる人間は全て潜在的犯罪者集団とみなされるようになってしまった。あるいは能力に疑問符を持つ集団とみなされるようになってしまった。


建築基準法や構造計算規準は建築あるいは建築構造のエキスパートたちによって作られ改訂されてきた。そしてその面での法の精緻度は世界一だとも聞く。
当然、建築図面や構造計算書はその基準・規準を厳守しなければならない。というよりも、図面作成の技術者は厳守することによって安心を得るのだ。


つまり姉歯のような輩が異例中の異例であることは例えば僕を知るひとは理解しているだろうが、一般的な理解となっていなかったことが残念だ。

10年01月22日 きょうは臨時議会

図書館で偶然手にした本・高村真利子著「アメリカ手話留学記」を昨晩読み終えた。
思いの他、いろんなことを考えさせてくれた本でこういう本と出会った時、得した気分になる。
難聴の彼女が米ロスアンジェルスの大学院に留学中体験したことが書かれているが単にアメリカ手話を書いているだけでなくて、その背後にあるアメリカという国の国民性がスケッチされている。


土着派の僕は勿論アメリカに行ったことがないし行きたくもないし行く金もないのだが、興味深い体験記を読んだ時だけは体験的動き回り派がうらやましくなる。

15年程前、アメリカから日本にきた長身の青年が三国の手話サークルに出入りしていたことがあるが、「米ロスアンジェルスで、障害者をハンデイキャップト パーソンというのはタブーや。というよりも死語になっている」と言っていた。
「ろうあ者が高等教育を受ける時、必ず授業にノートテイカーや手話通訳者がつく」と聞いて、僕はアメリカという国の先進性に驚いたものだ。


高村さんの「アメリカ手話留学記」にも確かにそのことは書かれている。
ただし、それは公的保障でのっけからそれが享受できるというものではなく、ろうあ者をサポートする人材供給の体制は整っているのだがあくまでも有償で、より優秀な人材を獲得するためにろうあ者自身がアルバイトなどで必死になっている、と書いてあった。
そして「そのことに違和感をもつ者はいない。努力したものが救われる世界なのだ」と書いてあった。
いかにも資本主義先進国のアメリカらしい。

10年01月21日 呆れたこと

高知地裁で問題が発生した。


「裁判員裁判で裁判員候補となった女性がろうあ者で、その人は裁判員の選任手続きに呼び出され、出席した候補者31人のうちの1人。呼び出し状に同封されていた事前の質問票に、女性は「手話通訳が要る」という欄に印を付けて返送していた。同地裁の複数の職員が質問票をチェックしていたが、見落としたという。・・中略・・女性が帰り際、職員に「事前に要望していたのに手配をしてくれなかった。私は裁判所が嫌いになりました」と書いたメモを見せたことから、チェック漏れが判明した。 同地裁の近藤英彰総務課長は「候補者に大変迷惑をかけた。二度とこういうことがないようにしたい」と話している。」→アサヒ.コムより抜粋



立場上、「見落としていた」で済まされることではなく、無意識のうちの情報障害者軽視が招いた人権蹂躙だ。




本日の福井新聞一面の「首相 可視化法案提出せず 検察圧力批判を懸念」を読んで、いかにも友愛・鳩山らしいなあと感じた。


僕はいつも思うのだが、マスコミがリークを記事にする場合、関係者によれば・・」が必ず冠される。この書き方だと深読みすれば関係者を捏造することもできる。情報操作をしているのではないかと疑われても仕方ない。


言葉を発するのは人間だ。猿でも幽霊でもない。
建前であるにしろ社会の木鐸と呼ばれる新聞・ラジオは、関係者名を付記することによって木鐸であることを維持できると僕は思う。

10年01月20日 深夜に

プロフィルにも書いたが、僕には趣味もないし特技もない。
そういう余計なものを持たずに平凡に地道に生きることを僕のライフスタイルとしてきた。


そうはいうものの本当のことを言うと僕にも趣味がひとつあった。、それは「ふるさと探訪」だ。十数年前まで仲間たちと一緒に例えば旧金津町内の地蔵調べなどをしていた。デスクワークとフィールドワークの両面でやっていた。
去年の市議選前、「牧田はん、もう選挙になんか出ないほうがいい。昔みたいに探訪などして一緒に遊ぼうや」と言われた。


にも関わらず選挙に出たのは
「安堵して平凡に普通に生きていける自治体である」ことの実現にむかって努力するのが地方議員の役目ではないかと思ったからだ。


きのうの朝、郷土史好きのひとが事務所にやってきた。ひととおりの四方山話を終えたあとで、別の郷土史好きのところへ彼を案内した。
四方山話の最中にも何人かのひとが顔を出した。
「ウーン、ここはサロンや。僕の事務所とおんなじや」と思った。


午後。僕はお袋と一緒に市外某大手DYI店へ行った。ブリキのバケツを買いたかったのだ。買い物を済ませ駐車場でお袋を待っているとひとりの男が近づいてきた。「きのうはご苦労さん」と言う。きのうの民主党政経パーテイを知っているみたいだ。話は小沢幹事長元秘書逮捕のことに及んだ。
彼は、特捜部が動いた背景を田中角栄逮捕とのリンクで滔滔と語った。


余談だが、僕は「小沢」という名前を耳にすると顔が赤らむ。
妻の旧姓が「小沢」なのだ。
結婚前、福井商業高等学校野球部がセンバツ甲子園大会で決勝戦に進出した。相手は静岡の浜松商業だった。そして力投する福井商業のスリークオーターエース・板倉からヒットを量産し浜商を勝利にみちびいたのが、浜商の四番バッター(もしかしたら三番だったかもしれない)の「小沢」だった。
僕は、「小沢は好きだ、だけど小沢は憎い」という心理学用語・アンビバレンツを身をもって体験した。

10年01月19日  スキャナー回復

昨日の午後1時半に始まった全協(全員協議会)及び広報委員会が終了した時、時計は既に5時過ぎを指していた。終了後、僕は同僚議員三人とともに愛車トウデイに乗り込み、福井商工会議所ビルを目指した。民主党の政経パーテイがそこで開かれたためである。着いた時、小沢幹事長の話は既に終わっており、会場を覗くとそこは宴のあとだった(僕は「宴のあと」と「金閣寺」で三島由紀夫が好きになったような気がする)。
仕方がない。我々地方市議にとっては市議会が一番大切だ。


しかし、僕個人としては収穫があった。
僕が福井県PTA連合会の副会長をしていた十数年前に行動を共にしたM氏と会場内でばったり出くわしたのだ。その場で旧交を温めた。
十数年前と変わるところがなく若々しい。ということは私自身も彼の目には若々しくうつっているはずで、永遠に若いのが団塊の世代の特徴だと思う。

小沢幹事長元秘書の通常国会直前での逮捕に関しては、マスコミ報道とは別の論調がインターネット世界に渦巻いている。注視し続けよう。

沖縄県名護市の市長選が告示された(投開票は24日)。移設反対の新人・稲嶺進氏と移設容認の現職・島袋吉和氏の戦いだ。ここでの勝敗を政府は非常に重視している。是非とも稲嶺氏が勝利してほしい。

10年01月18日  きょうは全協

「細腕繁盛記」の小林繁が亡くなった。
江川卓のごりおし的巨人入団によってトコロテン式に巨人を追い出され阪神に移ったあの小林繁である。
僕の巨人嫌いはあの事件でMAXに達した。
阪神に移った年にエースとして22勝をあげた小林は世間から「悲運のエース」と呼ばれたが、僕には小林が「福の神」に思えた。仮に江川がドラフト結果のまま阪神に入っていたら、その時点で僕の阪神嫌いが始まっていたのかもしれない。


まだ57歳の若さだったことを考えるといかにも惜しい。インターネットには「自宅が福井」と書いてあったのでちょっとびっくりしたのだが、彼の出身地は島根か鳥取あたりじゃなかったろうか。
「雪国から野手は出ないが投手は育つ。冬のグラウンドが練習場にはならないので野手はストレッチくらいしかできない。しかし投手は室内で硬式ボールを投げることができるからだ」を何かの本で読んだことがある。
その時僕はおおいにうなづいた。
「だから雪国には孤高のひとが多いのか。一人か二人ぐらいが僕を孤高のひとと呼ぶのもそれ故か」とうなづいた。


しかしよく考えてみると、大リーブで今年ヤンキースからエンジェルス(だったかな?)に移った松井も加賀・根上町つまり雪国の出身だ。だから上記の言葉の真偽についてはよくわからない

10年01月17日 朝陽を浴びながら 

通常国会が始まる時に東京地検特捜部が石川議員を逮捕したことでさまざまな憶測が流れている。

小沢氏の講演は数年前に聞いたことがあるが、流布されているこわもてのイメージとは正反対のものだった。
金銭疑惑はマスコミの好餌となるので連日大きく報道されているが、本当に我々にとって必要な報道は、生活と関係ある景気などについての国会論戦であり、それが優先されないことは、国民にとって不幸なことと言わざるを得ない。
そのためにも小沢幹事長のしっかりした説明が必要だ。
きょうもこの件に関しての民主党への幻滅を聞かされたが、特捜部の思惑がどこにあるにしろ、はやく決着してほしい。

昨晩は冷え込みが激しかったのではやばやと布団に潜り込み、浅田次郎著・「五郎治殿御始末」を一気に読み終えた。僕は「鉄道員」でこのひとのファンになったのだが、矜持というものの大切さを訴える小説を書いている。
目線位置に魅かれて、いつも休みなしで読み終えてしまう。

10年01月16日 土曜日  阪神淡路大震災

15年前の1月17日に阪神淡路大震災が発生。
「死者:6434名 行方不明者:3名 負傷者:43792名。西宮市仁川では、住宅街に面した造成斜面において大規模な地すべりが起こり、34名が犠牲になった。」とある。

仁川の長屋風木造下宿で学生時代の大半を送った僕は震災発生数週間後にこの地を訪れた。学生時代に仁川下宿で人生を語り合った男が購入のための仮契約をしていた家屋物件の震災による傾きなどの被害状況を調査するために宝塚へ行った際、訪れたのである。
地すべり跡を歩くと土砂に埋まった乗用車の屋根が足元に見えたりあちこちに線香や献花が見えたりして、往時との落差にめまいがする程だった。

あわら市の手話サークルに手話通訳者Aさんが来たことがある。Aさんは通訳ボランテイアとして神戸に行った時の印象を語ってくれた。
「発生時の衝撃のなかでいったい何がおこったのかわからないことほど恐ろしいことはない。どこが避難場所なのかわからないことほど不安なことはない云々」を語ってくれたのだが、情報障害者に対するしっかりしたサポートが無い限り、彼ら彼女らは被害者のなかの被害者となり得る。

あの日の未明、我が家が大きく揺れた時、僕は子供部屋に飛び込み子供達におおいかぶさった。それは極めて本能的な行動だった。

10年01月15日 金曜日  昨日は寒波のなかで 

寒波のなか、僕はお袋と一緒にJRで敦賀へ行った。従兄弟の見舞いのためだ。今庄付近の雪が一番多い。辺り一面銀世界だった。

午前10時半に敦賀駅に到着。迎えに来てくれていた従姉妹の車に乗って敦賀病院へ。敦賀病院は市立病院だ。病院の中を行き来する患者群を見ているうち、一昨年末の入院生活を思い出した。生死の境をさまよったことあるいはそこでの入院患者たちとのデイリー会話の蓄積によって僕の人生観はすっかり変わってしまった。
患者群を見ながら、しばらくの間、日本の医療のことを考えていた。

菊池英博氏はこう言う

偶然だが
敦賀から事務所に戻ると知人から電話がかかってきた。「HIV問題で活動している人を紹介してほしい」というもので、すぐに紹介したのだが、我々議員はいずれの分野にしろ専門家ではなく掛け渡し屋だと思う。

10年01月14日 木曜日 

午前2時に目が覚めた。外は真っ白だ。今年最高の積雪。
熱々珈琲を飲んで体を温めコートと手袋を身につけ、雪の降り積もった4台の車の除雪を始めた。頬や耳がちぎれるように痛いが、一昨年暮れに臨死体験をした僕には不思議と怖さがない。そういえば、昨晩読み終えた複数の書き手によるエッセイ集のタイトルは「死ぬのによい日だ」だった。

除雪を中断して事務所に入り灯油ストーブの前に座ったが、冷気が強いのでストーブの発熱温度を二℃程上げた。やっと落ち着いた気分になり、昨日を回顧。

午前中は民主党支持者・某氏の家へ行き、一昨日の幹事会の報告をしていた。
事務所に戻ってから、諸々の資料のスキャンを試みたのだが故障したみたいでうまくいかない。途方に暮れていたところへ坂井市・民主党市議がリーフレットを持ってやってきた。定数を4名削減しての坂井市議選は4月11日公示だ。是非頑張ってほしい。

そのあとは市庁舎へ行き、頼まれた案件についての折衝。折衝を終えてから三国土木事務所へ車を走らせた。
帰路、某あわら市議から携帯コールが入った。

事務所で某市議と「あーでもないこーでもない」と懇談。
時計の針が8時前をさしたので、別れてから帰宅。

ひとり夕食となったが晩酌としてついたコップ一杯のお湯割り焼酎でカラダが随分温まる。
ひとのシアワセ感はさまざまだが、僕の場合は「焼酎一杯のシアワセ」だ。そういうタイトルの歌謡曲があったような気がする。しかしやっぱりないだろう。

10年1月13日 水曜日  昨日の一日

本日は、午前4時に起床。外へでると、新たな積雪はないが風が強い。漆黒の闇の世界がう
なっている。事務所に入ってインターネットを検索し、新聞を開いた。

大阪羽曳野市の居酒屋でライフル発砲事件があったようだ。発砲で居酒屋の経営者と客が死亡、容疑者も自殺したとのこと。
経営者の娘が容疑者の妻で、最近離婚を巡ってトラブル中とある。それにしても何故無関係の者が巻き込まれて死なければならないのか。理由もなく人生が遮断されることの理不尽を思うと胸が苦しくなる。

福井新聞第2面に「民主県連 井ノ部氏の公認申請 参院選擁立を正式決定」とある。
僕も幹事会に出ていたので記事の内容がよくわかる。ともあれ参院選に向けての第一歩が踏み出された。

幹事会終了後、年金事務所へ車を走らせたのだが、沢山の人でごった返していた。係員に聞くと二時間待ちとのこと。二時間を無為に過ごすわけにはいかない。文庫本を持って出直すことにした。

帰路、県連から頼まれた調べもののために、あわら市庁舎へ寄る。
庁舎を出た午後6時、辺りは真っ暗だ。
帰宅してから入浴。頭のてっぺんから足の指先までを入念に洗った。夕食を終えてすぐ布団へ。
まどろみ始めた頃、携帯電話コールがいくつかあった。アタマがとろんとしている時の対応は苦手だ。いきおい、不義理をすることとなる。



舞い散る粉雪がうっすらと積もったアスファルト路面に、僕は奥村チヨの♪「終着駅」を思い出していた。

10年1月12日  新しい週の始まり

今朝起きると、携帯着信がいくつも入っている。昨晩、早寝したせいで全くでることでき
なかったわけで、申し訳ありませんでした。
さて、昨日は旗日だったので久しぶりにインターネットでいろんなひとの御意見を拝聴し
ていたが、そのなかにこういうのがあった。

自民党・谷垣新総裁は、政治評論家・森田実氏のインタビューに対して
「この10年間、私が国民の皆さんに話しつづけてきたのは『日本の元気はふるさとから』ということでした。いまも語りつづけています。自由民主党が長い間、政権政党として支持されてきたのは、自由民主党が地域の人々の絆を基盤にしてきたからだと思います。この『絆』こそが、自由民主党再生の鍵なのです。いま、わが党は、政権構想会議で、自由民主党のあり方と自由民主党再生の方向を検討しています。自由民主党の基本的立場は、『家族・家庭、ふるさと、日本の良き伝統を維持し、次の世代に伝えながら、よりよい社会をめざす』ことにあります。この上に立って『品性ある国民、品格ある日本』の創造をめざします」と、答えている。

確か、大学1年の時にクラスメートが「日本列島の過密と過疎」というタイトルの中公新書を貸してくれたが(著者は忘れた)、要は日本が高度経済成長するなかで、企業の東京集中あるいは太平洋ベルト地帯への工場労働者投入が進むというものでその意味で過密と過疎は表裏だった。時の自民党政府の施策としての中央集権化が農村の疲弊をさす「3ちゃん農業」という言葉を生んだのもこの頃ではなかったか。

昨年の衆院選の折、国民新党のシンパから「小泉内閣の郵政民営化政策が過疎地の更なる困窮を招いている」という声をよく聞いた。
最近よく聞く言葉に「限界集落」がある。昨年11月だったか、坂井地区介護保険広域連合の視察研修の際京都近郊の中都市の中心部に「限界集落」があると聞いてびっくりしたものだ。

世代間で社会意識に相当な差がある。社会の変遷がドラステイックになってきたということだ。ムラ社会の伝統的規範は往々にして若いひとたちのココロをしばる。僕は、そのはざまで悩み苦しみ死んでいったひとを知っている。
単に「良き伝統」を喧伝するのはノスタルジーだ。喧伝するなら、やっぱり芭蕉の「不易流行」だと思う。

 10年1月11日 月曜日 

昨日の日曜日は、あっち行ったりこっち行ったりで大変だった。
午前中は故障したパソコン周辺機器を家電修理店に持って行ったりしているうちに
終わってしまったが、午後は某温泉旅館にて成人式。何故か議員の出席は5名のみ。
ここでトラブルがあった(本日の福井新聞に出ている)。

成人式終了後、地元・坂ノ下地区の初寄り総会へ。
総会終了後、隣区・下八日区の総会に行き挨拶をさせていただいた。例年この地区
の総会の日は佐儀長の日でもある。余談だがあわら市内金津地区で佐儀長が行わ
れるのはここ下八日と細呂木の2ケ所のみだとのこと。
帰り際、佐儀長の火で切り餅を焼いていたおばちゃんが、「牧田はん、餅食べていか
んけの」と言う。
雑煮をはじめとしてあらゆる餅が大好きで「餅の好きなひとに悪いひとはいない。世界
の人々が餅を食べたら、体制・宗教を超えて平和が訪れるだろうに」と日頃思っている
僕は、勿論おいしくいただいた。

偶然だが、そこへ糸川氏が秘書氏と共に現れた。総会の場へ行き挨拶を終えて出て
きた糸川氏と餅を食べながらしばし談笑。
「今から鯖江へ行かなければ」と言う。国会議員の先生方は大変なのだ。

夕食。
天麩羅をつまみながらのひとり晩酌でいろいろ考えた。去年のこの日と違う雰囲気を
感じた。
ほっこりした気分での新年スタートとなった。

10年1月10日 日曜日  成人式 

本日は成人式だ。成人式で思い出すことがいくつかある。

自分自身の成人式は40年前だった。会場に行くことは行ったのだが、遅れて行った。
エライ人たちの挨拶を聞くのが嫌だったためと、にもかかわらず式が終わってから振舞われる善哉を食べたかったためで、その善哉は本当に美味かった。
冬=成人式=善哉という定型的イメージがその時にできあがった。

30年程前だったか。当時人気絶頂のアイドルタレント・郷ひろみさんが成人式を迎え、その日の夜のTVバラエテイ番組に出ていた。
郷ひろみさんは「きょうから僕の弁護士はいません」と言う。
自身が考えた言葉なのかスタッフが言わせた言葉なのかそれはわからないが、粋だなあと思った。

20年程前だったか。三国町社協から電話で三国町成人式の手話通訳を頼まれた。
当日の記念講演者を聞くと、H氏受賞の詩人・荒川洋二さんだと言う。
引き受けはしたが困ってしまった。詩人の話など、練習なしでできるはずがない。
社協から電話番号を聞いて、氏の家へ電話した。
「何をお話なさるのですか?」という僕の問いに「考えていません」という答えが返ってきた。
式当日の彼の話は、「歌人・寺山修二論」だった。
短歌は音韻の世界だ。ビジュアル言語の手話に翻訳できない部分がたくさんたくさんある。翻訳できない部分にその世界の独自性がある、とも言える。
僕は途方に暮れてしまった。

 10/01/09 (土) 本日は出初式   

「日本航空の経営再建問題を巡り、前原誠司国土交通相は8日夕、法的整理による再建案を容認する意向を表明した。」というニュースを聞いた。

ずっと昔の話だけれども、田中角栄元首相が逮捕されるに至ったロッキード事件の収賄容疑ルートには「丸紅ルート」「全日空ルート」「児玉ルート」の三つがあった。
たまたまテレビを見ていたのだが
「全日空ルート」容疑で全日空の若狭社長が国会に参考人招致され「記憶にございません」を連発していた時の全国民を相手にした睥睨するような顔つきを忘れることができない。
日航の(確かオオバと言った)トップの割りに実直そうな受け応えとは対照的だった。
そして僕は技術者あがりの日航トップに対して相対的な好感を持ったものだ。

けれども、その後、僕の印象は段々変わっていった。
政府系会社だった日航のそれ故に親方日の丸的甘えとは別に、若狭社長の顔つきには「全日空を守るためには黙秘でもなんでもする。嘘もつく。」という強い意志力があったと思うようになった。企業社会ではそのようなタイプが社員から信頼されるんだろうな、と思うようになった。

あの時に世間を騒がせた田中角栄はじめ、小佐野・児玉・若狭といった面々は既にこの世にはいない。隔世の感がある。
本日の午前中は坂井市三国町で「嶺北消防組合・消防出初式」が行われた。

10/01/08 (金)  トランプ    

昨晩の手話サークルは今年第一回目ということで、新年会の場となった。
飲み物はウーロン茶、つまみはアラレ等の乾きものだ。アルコールの無い素朴な新年会は静かなもので、これがなかなかいい。シンプル イズ ザ ベストなのである。

トランプを持ってきたひとがいて、「七ならべ」を楽しんだ。「ババ抜き」も老若男女で楽しんだ。誰も抜いてはいけない。

こども達が小さかった頃以来のトランプだ。遅れてきた正月を楽しんだ気分になった。

10/01/07 (木) 本日は手話サークル

昨日の午前中は広報編集委員会。
夕刻に、ホテル藤田へ行った。連合福井の「新春旗開きパーテイ」が開かれたためだ。
行く途中の縦貫道路沿いは雪化粧だった。
暖冬が異変ではなくなってきたけれども1月の中旬から2月にかけて、多少の積雪は必ずある。
余談だが、昔の僕はこの時期がうっとおしかった。
1月の終わりが僕の誕生日で2月に入るとバレンタインデイがある。たくさんのGF(ガールフレンド)たちからメッセージやプレゼントが届くのを見るにつけ、「過ぎたるは及ばざるが如し」と思ったものだ。今にして思えば隔世の感がある。

ホテル藤田から帰宅して一休みしたあと、某氏宅へ行った。
北潟湖浄化についてのレクチュアを受けた。宿題が沢山できたような気がする。
夕方のNHKラジオで片山前鳥取県知事がしゃべっていた。
地方分権論者で有名な片山氏は、「どこの自治体の首長も原則として地方分権には賛成だ。だけど、ものごとを進めるためには必ず議会承認が必要だ。そして、議会のことを考えると途端に口が重くなる。何故なら議員が地区がらみのぶんどり合戦をするからだ」と言っていた。
片山氏の言う議会は県議会を指しているのだろうが、市議会レベルでも同じことが言えるのかもしれない。

10/01/06 (水) 昨日の一日

「藤井裕久財務相が通常国会を前に体調不良で閣僚を辞任するだろう」というラジオニュースを聞いた。
藤井氏があわら湯の町公民館に来たのは4年程前だったろうか。

若泉氏(現代議士)の立会い演説会が開かれたのに伴い、後援会の立場で僕がしゃべったあと、藤井氏が若泉氏に対する応援演説をしてくださった。
(当たり前の話だけれども)財政のこと及び政界の細部を熟知しているという感じの闊達なしゃべりだった。
そういう縁があるので心配だ。人間、健康第一なのだから、十分なケアを望むものである。
昨日の午前中はユニオンプラザにいた。
我々坂井地区民主党市議と連合福井・馬場会長との懇談の中身はパイプラインのことだった。

午後、パソコンのスイッチを入れるとマウスが動かない。立ち上がりも不自然だ。修理メーカーにパソコンを持っていった。
診断の結果は「制度疲労によるシステムエラー」だった。
キリスト教の解釈では「神がアダムとイブをつくって魂を入れ込んだ」ことになっている。
人間がつくったパソコンに魂が宿っているとしても不思議ではない。制度疲労が起こったとしても不思議ではない。
10/01/05 (火) メール無断的部分的添付 

広島在住の友人から、以下のメールが入ってきた。

「あけましておめでとうございます。・・中略・・時々、あなたのHPを読ませてもらっています。・・中略・・感心しながら読ませてもらっています
結構、「貴君の裏の裏?を知っているので、時々ニヤリと笑わざるを得ないことがありますが・・・

昨年の一番の思い出が僕たちとの再会だったと書かれていましたね。そのように、思ってくれたのだったら、やはり福井まで行ってよかったと思いました。旅館で晩御飯食べてからまた中華料理店で宴会だと言われたのには、やや面食らいましたが・・・中略・・あまり、無理せずゆったりと、なが〜く活動してください。また、機会があったら青春時代に戻って、大いに語り合いましょう。」

インターネットは便利な道具だが、読もうと思えば瞬時にどこででも読まれてしまうので、恐ろしいといえば恐ろしい。いきおい、文章にどこかで構えてしまう部分がある。
先日もある人から、「牧田のブログを読んで、おまえが誠実だと思っている奴がいるぞ」と言われた。
勿論誠実なのだけれども、実は少しくらいは不誠実だ。それが普通の人間だろう。そして、普通が一番だと僕は思っている。

夜明け近くになって、強風が雨に変わった。アスファルト路面に跳ねる雨音が耳に心地よい。遠くで雷鳴が聞こえてくる。珈琲を飲みながら昨日を回想した。

昨日の午後は市庁舎にいた。僕が議員になった頃の正月明けは人の出入りが目立っていた。ある課長が「自分の仕事始めは、机の上に置かれた名刺群をゴミ箱に捨てることや」と言っていたが、今は静かなものだ。いいことです。
三階の議会事務局から眺める金津の街は、雪がすっかり溶けていた。
しかしラジオの天気予報は「明後日から大雪が降るでしょう」だ。自分も警戒しなければならないだろうし、市全域を見てまわることになるかもしれない。

10/01/04 (月) 仕事始め 

きょうは仕事始めだ。
正月に最も興奮したのは箱根駅伝だった。往路で東洋大の柏原が見せた走りは驚異的で、その走りの30分間だけはテレビ観戦した。
同胞より先に前へ前へ走ろうとするのは人間だけだ。
(僕の半生は「前へ後ろへ右へ左へ」だったからひとによって違うのだろうが・・。)

今から20年程前、僕は長距離ランナーの伴走をしたことがある。伴走といっても自動車でランナーの後ろをついていくだけだがね(・笑・)。
ランナーは京都の企業で練習するろうあ青年で、敦賀から武生までをひとりで走り、武生で次ランナーにたすきを渡したのだが、「自分のフルマラソン最高タイムは2時間40分」と言っていた。一流ではないにしても随分はやかったはずだ。

真後ろの自動車から見る彼の走りには全くぶれがない。左右の脚がほぼ密着していて横へはひろがらない。

寒風吹きすさぶ越前海岸道路をひたすら走り続けたところで、突然止まった。
「股ずれが痛くてかなわない。自動車で敦賀の街まで戻って膏薬を買ってきてくれないか」と言われた。
長距離ランナーにとっての最大の敵は「皮膚と皮膚との接触」であることがよくわかった。

余談だが、その頃に読んだアラン・シリトー著「長距離走者の孤独」(丸谷才一訳)はたいそう面白い本だった。

今年の目標をひとつ決めました。
目標→午後9時までは絶対に眠らない。
今までのように7時に寝てしまうと、深夜の2時に目が覚める。そうすると、電気代や灯油代が高くつく。4時過ぎに起きるのが、人間としての自然な姿だろう。
ということで
事務所のクローズは9時過ぎと決心しました。どなたさんも、気軽にお寄りください。

 10/01/03 (日) まだ松の内

昨日の夜はJRで福井市へ行った。義兄宅で毎年恒例の両家族年賀挨拶及飲食のためだ。
夜の二時起床が定番の僕は、迷惑のことを考えると他人の家で寝るのが苦手で、それ故JRを利用した。

5時半発の普通に乗る。
高架のJR芦原温泉は階高が大きい。昨年12月議会定例会の一般質問でエレベーター設置を訴えた議員がいた。市長答弁は「新幹線の進捗状況をみて考えたい」だった。
手話をやっている僕としては「構内アナウンスに文字放送の設置」を付け加えたいが、これは対JR陳情か。

「夜汽車の窓は水族館のようだ」と書いた詩人がいるが、僕には乗客のさまざまな顔を観察しているほうが面白かった。

福井駅周辺が大きく様変わりしているのに驚いた。
東口の「アオッサ」とかいう変な名前の建物がマッシブでバス乗降口が整然と配置されている。勿論、新幹線をにらんでの駅周辺整備なのだろう。何年か前の正月に京都駅駅舎内の焼き鳥屋で阪神間在住のふたりと旧交を温めたことがある。今度は福井駅で誰かと飲みたいと思った。

駅はひとが交錯する場所で自治体の顔だ。ビジターは駅周辺のたたずまいでその地域の過去・現在・未来を偲ぶ。えち鉄湯のまち駅前跡地利活用にしろJR芦原温泉駅前周辺整備にしろ活気を感じさせるものになってほしい

10/01/02 (土) 熱々珈琲を飲みながら

昨日はおとそをいただき雑煮を食べたあと、CADに励んだ。
午後には二組の若夫婦と新年の挨拶を交わしたが、それぞれに悲しみを背負って
生きていることを僕は知っている。
正月のテレビバラエテー番組は馬鹿笑いの連続だけれども、現実の世界には苦渋
が満ちている。

夕刻に仕事をはやばやと切り上げ、自宅でくつろぐうち眠くなり熟睡。
午前一時に起床し事務所に入ると、ラジオは石川啄木・「一握の砂」を朗読してい
る。

たはむれに 母を背負いて そのあまり
     軽きに泣きて 三歩あゆまず
そういえば、昨日の初参りは、妻・母・僕の三人での坂ノ下・八幡神社への詣出だ
った。
老母はすっかり腰が曲がって、体も小さくなっている。女友達を背負ったことはあっ
ても母を背負ったことのない僕に軽きの程度はわからないが、気持ちはわかる。

いたくびし ピストルでぬ 砂山
     砂を指もて りてありしに

石原裕次郎が歌った「錆びたナイフ」の原典がここにあったとは知らなかった。

はたらけど はたらけど猶 わが生活
       楽にならざり ぢっと手を見る

正月だからこういうことを書いても許されるだろう。
嶺南に住む高校教師から30年ほど前の正月に届いた年賀状には、この歌のパロ
デイが書いてあった。「こすれどもこすれどもわがせいよく楽にならざり ぢっと手を見る」・・これも又悲哀の歌だ。

外交は国の問題であるといっても、それは「地元の民意を無視する」ということでは
ないはずだ。今回の普天間問題の先行き不透明は、この民意という視点が入って
きたことにもよる。そもそもが東アジア共同体を打ち出している鳩山首相の脳裏に
は、米国のいう辺野古移転の戦略は無い。
これまでのような頭越しの日米二国間協議の押し付けではなく、必要な情報公開
を経ての選択肢検討でなければ、我慢と納得の微妙なバランスを築くことはできな
いだろう。 

 10/01/01 (金) 謹賀新年
大晦日の午後は、事務所を整理・整頓し、知り合いの何人かのところを挨拶伺いし、
神仏に祈り身体の禊をして2009年をしめくくる予定だったが、熱烈な糸川ファンが来訪。論議というか世間話というかそういうものが数時間に及んで、午後の計画は頓挫した。
「牧田はんと腹蔵の無い話ができてよかった。人間、腹割ってはなししなあかん」と言って帰っていったが、僕も同じような感想を持った。
10数年前、金津中学校にAET教師としてきていたカナダ人女性から「母国カナダの教育では、相手との彼此の違いを認識することが論議のスタート点やった。けど日本は違う。和をもって尊しとなすや。これはカルチャーショックやった。」と言われたことがある。
海外渡航の経験も東京へ行った経験も二回しかない土着議員の僕は「フーン」と聞いているしかなかったが、しかし、今の若い世代はそうでもないんじゃないか、とも思う。

年越し蕎麦を食べてから、テレビでK-1戦を観ていた。魔裟斗は強い。魔裟斗人気は日本で唯一の世界チャンプであることにもよるのだろうが、それよりもあの甘いマスクによるところが大きい。甘いマスクを持った男はそれだけで得だ。なんで引退などするのだろう。チャンネルを紅白歌合戦に切り替えると、知らない歌手による知らない歌のオンパレードだ。振り付けと手足動かしだけがなんとなくわかる。僕の記憶では、手を動かしながら歌った歌手のはしりは「他人の関係」の金井克子だ。
でも歌謡歌手の正当な姿の原点は故・東海林太郎にあると思う。直立不動の姿こそがひとの心をうつ。