2010年03月


  2010/03/31 (水) 3月最終日

昨晩は真夜中に目が覚めたら悪寒がひどく、あとは眠れなかった。
事務所に入りラジオのスイッチをつけると総務NHK予算委員会審議をやっている。。
日本共産党の山下芳生氏が手話放送について質疑し、原口総務大臣がそれについて答えていた。

山下氏が手話放送と文字多重放送の違いについて説明していたが、確かに聴力障害者と無縁(と思っている)大多数のひとたちにとっては興味のないことかもしれない。
しかし、失聴した時期などによって手話放送への依存度は大きく変わるのである。

原口総務相は同意しつつ、「障害はそのひとの中にではなく、社会の中にあります」と答えていたが、僕も思った。
余生をこのあわら市での手話の情宣につとめようと思った。
今朝、三月いっぱいであわら市を退職する部長たちが、退職の挨拶に来た。
長い間、どうも御苦労さんでした。

  2010/03/30 (火) 昨日の一日

昨日の朝一番であわら市役所へ。井ノ部航太氏と蓮舫氏の二連ポスターの屋外広告物許可申請書を提出に行ってきた。
帰宅してCAD。午後は建築物定期調査報告書作成のために某氏宅へ。
建築物定期調査報告とは、特殊建築物の現状(防火性・防水性・構造的安定性など)を役所の報告する制度だ。

事務所に戻ると、民主党サポーターのひとが数名来訪。
「ああでもないこうでもない」の議論を交わしているうちに時報が5時半を知らせた。所用を思い出し、あわら市役所へ。

職員たちの雰囲気が心なしかあわただしい。考えてみると異動の時期なのだ。

異動とはチェンジだ、可能性の飛躍だ・・・と一般的には解されている。
しかし寺山修司はこう言っている。
「人生とは可能性のひとつひとつを消しゴムで消していく行為である」と言っている。
昔、三国高校の教室で、生徒たちに向かってこの言葉を吐いた時、「生徒たちの夢をこわすようなこと言わないでください」と担任教師からしかられてしまったなあ(笑)。

帰宅し、麦焼酎をコップ3/4だけ飲んでの晩酌(妻から制限を厳しく言い渡されている(笑))。
晩酌ののち、布団に入り「紫電改の記録」を読む。大東亜戦争(太平洋戦争という呼び方は嫌いだ)の末期、特攻隊員として死地に飛び立った年端のいかぬ若者たちの飛び立ち前夜の記録だ。涙が出て仕方なかった。
大義の検証がどうであれ、大義のために死を志願した行為は絶対的なものだ。これを今の世の価値観だけで評論することは許されない。

 2010/03/29 (月) 忙しくなりそうな月曜日

きのうの日曜日はスポーツテレビ観戦三昧だった。
甲子園選抜高校野球・敦賀気比vs花咲徳栄戦、大相撲、フィギュアスケートだ。
スポーツテレビ観戦はなんにも考えなくていい時間帯を僕に与えてくれる。

大相撲というと、僕はふたりのひとを思い出す。

ひとりは高名な詩人で、なにかのエッセーで「相撲のがぷり四つは人生そのものだ。全身に力をいれているのにお互いが拮抗して動かない。傍目には力を抜いているようにも見える。」と書いていた。

もう一人は元名横綱・若ノ花勝治。二十年程前、週間ポストが八百長疑惑をとりあげていた頃の話だ。
桟敷で観戦中、若ノ花は「あのやろう又注射(八百長)しやがって・・」とつぶやいたそうだ。
「傍目にはわからないけど尻の筋肉の張り具合で、してるかどうかぐらいわかる」とつぶやいたそうだ。これは達人こその眼だ。

つまり外からどうみられるかはどうでもいいことだ。知るひとは知ってくれる。
僕もふたり分の日々を生きているので負担荷重はおおきいが、喜びも悲しみもふたり分を享受できるという意味では嬉しくもある。

 2010/03/28 (日)  本日は日曜日 

昨日の昼は、福井県民主党第2区総支部の幹事会のため、福井市にある民主党県連事務所にいた。テーマは「これからの方向について」で、国会・県会・市会議員同席の会だった。

不思議なことに気がついた。あわら市を離れているほうが気分が楽になる。

帰路、歩いている高校生集団を見かける。今が受験の季節であることを思い出した。親しいひとの息子さんの大学受験を思い出し携帯で電話した。

帰宅すると義姉(妻のお姉さん)が来ていた。夕刻に、妻・義姉・娘の三人でどこかへ食事に出かけた。ありがたいことだ。
身近な親類と顔をあわせている時、かたくなさが溶ける。

夜。炬燵に入り藤沢周平を読む。いつも江戸期が時代背景のこのひとの小説は市井の片隅で生きるひとたちが主人公だ。
焼酎の酔いが徐々にまわり就寝。

 2010/03/27(土) きょうは週末 

きのう、プロ野球セントラルリーグが開幕した。
巨人が勝ったのは気に食わないが、タイガースが白星発進となったのはいいことだ。
「タイガース3連勝・巨人3連敗」の時には、事務所で焼酎パーテイを開きたいと思いますので、タイガースファンかつアンチ巨人のみなさん、お越しください。

本日は県連で会議。
現世のことは現世のこと、来世のことは来世のこと。思う世界をしっかりと峻別して生きていこうと思う。

最近、まちで出くわしたひとふたりから、「どうもありがとうございました」と言われた。
「?」と思ったのだが、詳細を聞くと、それらのひとたちから頼まれて僕が行政に伝えたことが実現したらしい。何ヶ月か前のことなのですっかり忘れていた。
KYではドブ板議員になれないなあ(笑)。



夭折した詩人・寺山修司がこういう短歌をつくっている。

人生は ただ一問の 質問に
   すぎぬと書けば 二月のかもめ


きょう、時間がとれたら、三国港へかもめを見にいってこよう。

 2010/03/26(金) 昨日の一日

昨日の午前中に、某氏から「ファックスしてほしい」という電話が入ってきた。
(余談だがファックスはファクシミリからきている。英語圏のひとたちはファックスと聞くと、顔を赤らめるそうだ。)
事務所のファクシミリの調子がおかしいので、午後になってからコピーをN氏の自宅に持って行った。そのあと挨拶のために何軒かを訪ねた。

夕刻までCADに励んだあと、図書館へ。背表紙を見ていると癒し系の本だけを読みたくなる。僕にとっての癒しである藤沢周平を何冊か借りて自宅へ戻ると、同業者のN氏から電話があって事務所来訪。来訪者が叙所に増えてきている。

夜になったので帰宅。
コップ酒を飲みながらNHKを見る。昔は民放しか見なかったが、今はNHKそれも「ニュース」と「大相撲」と「生き物地球紀行」だけだ。民放のお笑い番組などで話し言葉強調のために突然字幕が出てくると嫌になる。あれはろうあ者のための文字多重放送でもなんでもない。

風呂からあがって就寝。きょうの午前二時に目が覚めた。
事務所に入りラジオのスイッチを入れると「NHK予算審議会(録音)」をやっている。審議内容にラジオ関係のものが多かったのでいつもライオを聴いている僕は耳をこらしていた。そのうち思い出したことがある。
日本共産党書記長が宮本氏の時だから随分昔のことになるが、記者会見で日活ロマンポルノを批判していた。記者から「日活ロマンポルノを見たことがありますか?」と質問され、「そんなものは見たたことがない」と答えていた。
これはおかしい。見たことのないものを批判(賞賛でも同じだが)するのは、予断と偏見に基づいていると言わざるを得ない。
本日の広報編集委員会は午前中で終了。突然海が見たくなり、三国の浜地へと車を走らせた。

日本海の荒波を見ているうち、心が少し落ち着いた。
生命は海で発生した。何億年を経て生命は上陸した。先祖の先祖である爬虫類や恐竜が活躍したあと、500万年前に人類の祖先「アダムとイブ」がアフリカ峡谷に現れた。

同乗者が、「貴方と息子さんの間には誰にもうかがい知ることの関係が固定化されたんじゃない?」と言う。
そうなんだ、だから僕の余生はあいつとの二人三脚なんだ。

  2010/03/24 (水) 人事異動

気がつけば、人事異動内示の季節だ。昨日は、警察署員から携帯に着信が入っていた。
僕が悪いことをしたのではない。彼の所属署が変わったことによる挨拶の電話だった。
あわら市の人事異動内示の発表ももうすぐだろう。
僕の人生において、異動というものはなかった。
「来る者拒まず 去る者追わず」の人生だった。その前提は、「本音で話しを」のひとつだけだった。

三月議会定例会は終わったけれども、これからの予定は徐々に詰まってきている。対応予定の諸グループは刷新されたメンバーということになる。

昨晩、街郊外の農道に車を停めて、道の傍らに立った。目の前は田んぼ。
見上げるとおぼろ月が出ている。
カエルの大合唱が聞こえてくる。日本の正しい春がそこにある。そして、春は人事異動の季節なのだ。

10年03月23日 火曜日 本日は坂井地区介護保険広域連合議会

本日は坂井地区介護保険広域連合議会。この広域連合の構成市はあわら市と坂井市だ。
坂井市議選(4月11日公示)を直前に控えての議会なので、坂井市議のひとたちにとっては大変だろうと思う。
僕は民主党員であり、先ずは民主党議員に当選してほしいと思うが、広域連合とか一部事務組合での同僚議員に当選してもらいたいとも思う。これは、日頃顔を合わせていることで蓄積された情(じょう)というものだろう。
坂井市議のひとたちにとっては今期最後の議会になるが、来期も同じメンバーが顔を揃えることを望むものであります。
ここ数日考え続けてきたことだが、僕はこれからの生活のことに関して、あることを決意した。固い決意なのだけれども、胸のうちにしまっておこう。ここに書くと思いが逃げていってしまうような気がするので胸のうちにしまっておこう。

会議だったのでテレビ中継を見ることができなかったのだけれども、選抜甲子園大会で敦賀気比高校があの天理高校に勝った。
僕のお袋の実家は敦賀市川崎町。気比の松原が目と鼻の先だ。幼少の頃から松原の砂浜でたわむれていた。地引網、花火大会、灯篭流しなどの思い出がある。すいせんまんじゅうはおいしかったなあ。何人かのGFと一緒に歩いた思い出もある。
全ては遠い昔のことで既におぼろげな記憶となっているのだが・・。

10年03月22日 月曜日 胡蝶の夢

昨日の午前中は、越前町生涯学習センターにおいて、民主党幹事会が開かれた。
午後は、越前町井ノ部後援会設立式。


設立記念講演は海江田万里民主党衆議院議員。


追 蓮舫参議院議員が福井に来ます。

ところで、自宅への帰路、僕はショッキングな体験をしてしまった。
福井市内の幹線道路で、後続のトラックが信じられないような無謀運転の結果、対向車線をはみ出し、乗用車とぶつかってしまったのだ。数メートル手前で事故の一部始終を目撃した僕の額から汗が流れた。
どんなに安全運転を心がけていても不可抗力による事故はあり得る。
昔、胡蝶の夢の故事を考えていた時期がある。
夢から覚めた自分が荘周なのか蝶なのかわからなくなるという故事だ。僕がこの故事から思いだすのは英・19世紀脚本家の「地球は大きな劇場だ。そして地上に住むひとり一人が主人公なのである」という言葉。
敷衍すれば・・僕は悲しいのではない、悲しみを演じているだけだ。舞台を降りて楽屋にいけば、人生を淡々と消化している自分と相対できる、ということになる。

そう思いつつ、お袋に頼まれて先祖の墓所にお袋を連れて行った。すっかり忘れていたのだけれども、昨日は彼岸の中日だったのだ。墓の汚れをまっさらなタオルで拭き、ライターで線香に火をつけようとした。風が強くてなかなか火がつかない。マッチでようやく火を点けることができた。
何故かわからないが、衝動的に墓を全身で抱きしめたくなった。

10年03月21日 日曜日 うす曇の朝

三月議会定例会が終わったので、気持を少し落ち着かせようとした。

昨日は、病院へ行き、血圧の薬をもらってきた。幾つかの事務所を訪ね四方山話をしてきた。福井市内で昼飯を食べた。大型パソコンショップで小型ノートパソコンのウインドウショッピングをした。
当たり前のことだが、行き交うひとたちの表情に特別な変化はみられない。だけれども、生きることの悲しみを胸にしまい込みながら歩いている。つくづくそう思う。

議会中に小学校中学校の卒業式の案内がきていた。議会そのものには出席したけれども、卒業式には出席できなかった。いろんな思いがわきあがってきて、出席できなかった。

これから先、僕が何年生きるのかはわからないが、その生の歩みは逝ったひとと一緒だ。僕の喜びは逝ったひとの喜びだ。僕の悲しみは逝ったひとの悲しみだ。

今朝の6時。僕は竹田川・浦安橋の欄干にもたれて、川面を眺めていた。



「ゆく川の流れは絶えずしてまたもとの水にあらず」は鴨川であろうが竹田川であろうがおんなしだ。流れ去る水があるからこそ流れ来る水がある。明治の群像を思い浮かべても、歴史の真理だと思う。
個人も社会も国家も宗教も流れゆく水のようなものかもしれない。
そう思った時、逝ったひとと一緒に明るく生きていかなければならない、と自分自身に誓った。


10年03月20日 土曜日 熱々珈琲を飲みながら

先日の深夜ラジオで、作家・太田治子が父親の思い出を語っていた。極端な優しさと極端な傲慢さが同居した父親の思い出を語っていた。父親とはあの有名な太宰治だ。

ふた昔ほど前に僕の友人夫妻が娘をなくした。母親はその後、太田治子と往復書簡を交わしていると言っていたので、僕はこの名前を知っている。神仏を信じない母親は、出生に関して数奇な運命を持つ彼女に思いをぶつけていたのだろう。

いつだったか、深夜の三国・雄島で橋の欄干にもたれながら、潮騒バックに母親と長時間話し込んだことがある。「牧田くん、私は死ぬのが怖いと思ったことはないよ。怖いのは時経て親しい友人たちから忘れ去られていくことなの」と言っていた。
彼女は今頃どこでどうしているのだろうか。


事務所の整理整頓をしていたら、少年時代を回顧する習作が引き出しから出てきた。

「牧田孝男少年の日々」

嗚呼紅顔の 少年の 
冬のその日の 思ひ出が
走馬の如く 蘇る

貧しかりしも あの頃は
山紫水明に いだかれて
自由気侭が 友たりし

雪降りしきる 冬の日の
木造校舎の 教室に
赤々燃える 炭火鉢

隅に置きたる 弁当の
唾飲みながら 口にする
梅干煮干 たくわんは 
おふくろの味 つまりしき

夕闇せまる 放課後の
ほの暗かりし 階段に
すれ違ひたる おとめごの

恥じらふ頬の 紅潮を
恥じらふまなこの 激しさを
光源氏の あざなもつ
我は久遠に 忘るまじ


10年03月19日 金曜日 きょうはあわら市議会三月定例会最終日

きょうはあわら市議会三月定例会最終日。午後5時に終了し、6時に市庁舎から事務所に戻ってきました。詳細は後日、このHPに書き込みますが、正直言って今回の三月議会程つらいものはありませんでした。
常任委員会の場にいて行政側の説明を聞いていても大変しんどかった。説明に対して質問をすることが、議員として報酬をいただくことの対価なのだけれども、「我が心ここにあらず」で、説明は鼓膜どまり。鼓膜を通り越して心のなかに入ってくることはありませんでした。これでは月給泥棒と言われても反論できない。

支持者の皆様市民の皆様、大変申し訳ありませんでした。
次回定例会には、普通の気持ちで、一般質問などに臨むつもりです。

2010/03/18 (木) 昨日の一日

昨日の昼、とんぼさんが来訪。とんぼさんは、人間の生の「さだめ」について語った。御通夜からあと、家族以外のひとと長時間にわたって話し合ったのは初めてで、自分のなかに「生きる覚悟」が少し戻ってきたような気がする。

以前の日記に「悲しみを運ぶ大きな船に同乗して云々」と書いたが、確かに自分(たち)だけが悲しみの当事者だと思うのは、ある意味傲慢だ。心がやすらいだ。

とんぼさんが帰ったあと、丸岡の福永雷太さんが来訪。


4月11日公示の坂井市議選に立候補するという。
自衛隊の履歴を持つ折り目正しい若々しいひとだ(と妻も言っている)。航空自衛隊時代のことをいろいろ聞かせて頂いた。是非ともがんばってほしい。
午後6時には葬祭場・アスピカホールへ。
二週間前の僕の身内の不幸の時、御通夜に来ていただいたひとが突然倒れて亡くなったのだ。僕より若く、人生まことに「一寸先は闇」だ。    合掌

自宅へ戻ると二・七日ということでお寺の住職が来ていた。女性の住職なので読経の声音にもはなやぎがある。読経のあと四方山話をして帰っていった。
追 とんぼさんへ
おやき、ありがとうございます。掲示板のNO.100の文章どおりのほっとするような味でした。

2010/03/17 (水) 未明に珈琲を飲みながら

パソコンのなかから下の写真が出てきた。


5年程前、僕は仕事を切り上げた夕刻、いつも竹田河原にいた。
缶ビール右手に雑草の上に寝転び西の空を眺めるのが日課だった。
ある日の雲のかたちに強く引き寄せられた。思わずデジカメのシャッターを切った。
まるで親子雲だ。

2010/03/16 (火) 焼酎

僕の晩酌は、お湯割りコップ焼酎。つまみは何でもいい。なくてもいい。
つれあいの話だけで十分だ。

遠い昔のことだが、僕の爺さんの晩酌つまみは塩か味噌だった。舌なめずりしながら飲んでいた。少年の僕に酒の味は勿論わからなかったが、普段は渋面の爺さんの顔が時折ほころぶのを見て、酒のおいしさを想像することだけはできた。

「酒は百薬の長」という人口に膾炙した言葉がある。だから僕は晩酌の時間帯を一番大切にしている。

5年ほど前、この日記に書いたことでもあるが
ひとの一生の長さについて、僕は算盤をはじいてみた。
地球ができてからの45億年を1年間にしてみると、
恐竜が滅びた6500万年前は、365日×6500万年/45億年=5、27日つまり5日と6時間前のことだ。
アフリカ峡谷で最古の原人イブが生きていたのが450万年前だから、365日×450万年/45億年=0、365日つまり8時間45分前のことになる。
源平合戦は365日×24時間×800年/45億年=0,002時間つまり7秒前だ。

僕のきょうまでの人生は365日×24時間×3600秒×61年/45億年=0.4秒なのだ。鼻かんでる間に終わってしまうのが、ひとの一生ということだ。
そしてそのなかに悲喜こもごもがある。


2010/03/15(月) 納棺

一昨年、世間の耳目を集めた映画に「おくりびと(本木雅弘・主演)がある。納棺師を描いたもので、僕は観ていないが、そのあらすじだけは聞いていた。

身内の不幸で納棺師の仕事を目の当たりにした時、僕は不思議な感動に襲われた。
やってきたのは二人の若い女性だった。伏目がちの目礼のあと、湯館・納棺にとりかかる。
寡黙な所作が遺体に対する畏敬の念の現れだと思った。彼女たちが遺体を清らかにしていく時、遺体は呼応して動く。
する側とされる側との関係は決して一歩通行じゃない。魂と魂が溶け合っている。
遺体は幸せなのだと思った。僕はこのひとの親であって本当に良かったと思った。

納棺の行為そのものが言葉を超えた荘厳さを放つ。縁側から差し込む木洩れ日の光がまぶしい。
納棺を終えた彼女たちを玄関で見送る時、僕は「ありがとうございました」とだけ言った。
それ以上何も言えなかった。けれども万感の思いがこの言葉の中にあった。

2010/03/13 (土) 無題

陽気というほどではないけれども春めいた天気がやっともどってきたが、昨日までの一週間は、小雨が降り雪がちらつき、風も強かった。
新井満は「千の風になって」と歌ったが、この天気のなかで千の風になっても肌身に冷たさを感じるだけじゃないかと思っていた。この歌が憎らしいとさえ思った。


若い時から様々なひとの死と出会ってきたが、死についての思いを拝聴してきたが、無に帰ることが僕たちひとりひとりの人生の到達点であると思えば、気持ちが落ち着く。

22010/03/12 (金) 無題

昨日の常任委員会が終了した時、時刻は午後6時を過ぎていた。事務所に戻り、税金の確定申告書の書き入れを進める。
何があろうと、こなしていかなければならないものはある。それは辛いことだけれども、一面、気の紛れになるともいえる。

一昨日、僕は二つの家を訪ねた。今迄、時々(励まさなければと思って)訪ねていた家だ。逆に無性に励ましてもらいたくなって訪ねた。事実励まされたし、心がかなり整理されたような気がする。
僕たちはひとりで生きているわけではない。家族だけで生きているわけではない。友人知人たちも又広い意味で哀切の感情を共有できる存在だ。

言い方が適当かどうかはわからないが、悲しみを運ぶ大きな船に同乗して僕たちは生き続けているような気がする。

2010/03/11 (木) 本日は厚生経済常任委員会

きょう、あした、15日にわたって厚生経済常任委員会が開かれる。
日程は次のとおりです。

3月11日(木) 09時30分~ 経済産業部
農林水産課
観光商工課
市民福祉部

市民生活課
3月12日(金) 13時30分~ 市民福祉部
福祉課
健康長寿課
3月12日(月) 09時30分~ 土木部
建設課
上下水道課
芦原温泉上水道財産区


2010/03/10 (水) 無題

きょうで息子の忌があけます。

あしたからは普通どおりの生活です。
沢山沢山のお見舞いのお言葉、どうもありがとうございました。

2010/03/09 (火) 無題



裏山にある巨木。樹齢数百年と思える。
我々人間の苦しみや悲しみを、数百年にわたり黙って見続けてきたのだろう。

 2010/03/08 (月) 無題

いろいろ、ありがとうございました。

 2010/03/04 (木) 無題

しばらくの間、日記を休みます。

千の風になって」

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

千の風に 千の風になって
あの 大きな空を 吹きわたっています

あの 大きな空を 吹きわたっています



 2010/03/03(水) 昨日の一日

昨日の午後、民主党支持者が来訪し、これからのことを長い間話し合っていた。そこへ、坂井市議が来訪。「後援会 事務所開設の案内」を持ってきた。
坂井市議選は4月11日が公示。残された期間は一ヶ月強だ。あっという間にやってくる。
地方議員に民主党は圧倒的に少ない。少なくとも現有議席を維持していかなければならない。
ふたりの間で、話が盛り上がっていた。

 2010/03/02 (火) 熟睡ののち1

昨日の議会初日。
行政側の議案書説明に対して、某議員から「特定疾患」に関する質問が出た。
答弁によくわからない部分を感じた僕は議会終了後、担当課へ行き、詳しい説明を聞いた。

「特定疾患」はいわゆる難病のことで、一般の疾患とは全然違う。その境界にいる友人を複数知っている僕は彼らの日々の苦労に思いを馳せた。
苦労や負担をできるだけ軽減することが、公の使命だ。

三月に入ったので、早朝ウオークを再開した。再開第一日目は、15年程前の「思い出の地」を歩いた。


田んぼは冬枯れそのままだ。「冬がくるのか」という錯覚に陥ってしまった。

 2010/03/01 (月) きょうから三月

きょうから3月。そしてきょうは議会初日です。
提出議案は次の通り。
提出議案(1)
提出議案(2)をクリックしてください。三月議会の提出議案としては、平成21年度の補正予算と平成22年度の一般会計予算が大きな軸となる。
そしてあわら市議会の場合「委員会中心主義」を採っているので、審議は委員会に付託される。
一般会計予算は、行政側の本年度の方向性を示しているので、常任委員会ではいろいろ質問し意見を述べていこうと思っています。
さて、3月が就職と受験の季節であることを、昨日のある女性との電話で思い出した。
10年程前の3月はというと、3人のこどもたちが福井を離れていった時だったし、43年前は僕自身が福井を離れていった時だった。
とりたてて希望というものはなかったが、とにかく建築学を習得する真面目な学徒でありたいとだけは思っていた。東海道新幹線が開通して3年目で、日本列島に鉄筋コンクリート製建築物がにょきにょきと立ち上がっていた頃だから、なおさらその思いが強かった。

就職にしろ受験にしろ三月はあわら市の人口が減少する月だ。しかし彼ら彼女らには数年後にUターンしたいと思ってほしい。そのための受け皿つくりに行政は励むべきだ。

本日の議会は午前中で終了。
午後は、郷土史好きのひとと会い、そのひとの案内で吉崎へ向かった。そこでおもいがけないものを見せてもらった。あの魯迅の仙台医専時代の同級生の墓だ。
魯迅ゆかりのあわら人は「藤野先生」だけではないのである。


世に知られているひとよりも知られていないひとを追うのが郷土史の面白さだと僕は思った。