2010年06月

2010/05/31 (月) 世間虚仮

昨日の午後は、大変に珍しい客人が事務所に現れた。話しているうちに20年ほど前の交流の日々が懐かしくよみがえってくる。

客人が帰ったあとは、宮本輝著・「骸骨ビルの庭」を読み進めた。骸骨ビルという名の戦後に米軍が接収していた建物を共同使用する戦争孤児たちの話だが、文学にこそ人間の心の実相をえぐり出す力があるとつくづく思った。

夕刻には「社民、政権離脱」の報が刻々と入ってくる。確かに鳩山首相の政権奪取時の言葉とは裏腹の結果に対して、社民が「政権内にいることができない」と言うのは当然だろう。又、沖縄県は他府県の地域エゴによって包囲されてしまったともいえる。

旧政権やマスコミの民主たたきはますますヒートアップしていくだろうが、そもそもこういうがんじがらめの構図をつくったのはどの政党なのか。何故つくられてきたのか。
ムネオ日記植草一秀晴耕雨読山崎行太郎などを読むとよくわかる。

あるひとから「あなたがこの世でやらなければならないことは全て終わった。ひとつだけを残すのみ」と言われた。今後の座右の銘は「残すひとつ」となりそうだ。

2010/05/30 (日) 禁煙パイポを呑みながら

昨日の午後、芦原温泉某旅館において、「東海・北陸ブロック里親研究大会」が開催された。

オープンングセレモニーで、知人の娘さんおふたりがフルートとピアノの演奏を披露した。


演歌が専門の僕にはクラシックが高尚という先入観があったけれども、今迄何度も聴いてきて、クラシックの柔らかな音色は「癒し」だと思うようになっている。

冒頭の「里親の会」会長の挨拶を聞いて思ったこと。
商売柄、僕は今までに国会議員はじめ沢山の政治家の挨拶というのを聞いてきた。彼らは挨拶や演説に慣れているため、しゃべりにめりはりがある。


翻って会長の挨拶は朴訥だった。だけど朴訥には朴訥の味があった。田中康夫言うところの「温性」というものがあった。ほのぼのとした気分になった。

オープニングセレモニー終了後、分科会となった。
僕は「第三分科会 発達障がいや虐待のいろいろについて考える」をオブザーブした。
講師は臨床心理士。
講師によると、現在、日本国内には把握されているだけで64万人の引きこもりがいるという。
うち、7割が男性で女性は3割にすぎないそうだ。
何故なら女性はしゃべり好きだからという。

講師は、引きこもり脱却には次の4点を目指したらいいという。
①笑う
②泣く
③寝る
④しゃべる

今の僕も心情的には引きこもりなので、うなづけた。但し僕はひとつ付け加える。
⑤お湯割り焼酎を飲む・・・だ。

今朝はポステイングで三国地区を歩いた。
三国へ来るといつも思うのだが、三国は文学の香りのする町だ。高見順・三好達治・室生犀星・森田愛子・荒川洋治など三国に縁の深い文学者は多い。
僕は同行のHさんの文学談義を拝聴しながら三国の町を歩いた。博覧強記のHさんは、あわら市の人材だ。

加えて三国は坂の多い町だ。
軽度の障害者となった僕にとって歩くのが難儀な町でもある。残存身体能力を使って頑張るだけだ。

某寺院で見つけた言葉

2010/05/29 (土) 春の陽射しを受けながら

昨日の夕刻に井ノ部航太氏(35歳)が事務所を来訪。車座ミニ集会の場となった。
井ノ部氏が政治家を目指すことになった動機など、大集会ではなかなか聞くことのできない根本的な話を聞くことができてよかった。

我々年寄りは余生が短いけれども、若いひとは先がながい。ながいから国や地域を(相対的に)大きいパースペクテイブで捕らえることができる。その意味で若いということは絶対的な強みだと思う。

井ノ部氏が帰ったあと、糸川さんの秘書氏が来た。これを持ってきた。
元自衛官の秘書氏と我々の話は、「国防」について。
夜も更けてきたので僕は焼酎をちょっとだけ飲みながら、話を聞いていた。散会した時、時刻は8時をすぎていた。段々と遅くまで起きていることができるようになってきている。
きのうはSさんからレーザープリンターをいただき、Iさんからオーバーヘッドプロジェクターをいただいた。私の事務所がほそぼそとながらも維持できるのは諸氏の御好意による。・・・謝謝。

2010/05/28 (金) もう週末か

昨晩は春江中小企業センターへ行った
しかし(糸川氏秘書から聞いていたのだが)、ゲストの下地幹朗氏出席不可能というハプニングが起こってしまった。国会の総務委員会で委員長不信任案が出て、混乱が長引いている為という。

ここで僕は思いがけないものを見た。壇上の糸川氏の携帯電話に、国会にいる下地氏からのコールが入ったのだ。


そしてその声は増幅機を通して会場内に流れ始めた。
ハイテクの時代なのである。・・・僕もはやく中古のOHPを購入したいと思った。途中、妻から携帯コールが入った。タウンミーテイング終了後、自宅に帰り、妻とじっくり話し込んだ。

明けて今朝は雨もあがっている。事務所裏鉄骨階段ペンキ再塗装も可能だろう。
きょうの格言

おれは あの木とよく似ている
頭から先に まいるのだ
   スイフト

2010/05/27 (木) いびつな贈り物

昨晩は久しぶりに阿刀田高を読んだ。
エッセー・「いびつな贈り物」にこういう言葉があった。

騙されることはあっても騙したくはない。
それで生きていけるならそのほうがずっといい。

あと何年生きるのかわからないけれども、この至言をわすれないでおこうと思った。

鳩山首相が名護市辺野古への移設を前提とした意思決定を行った場合、社民党党首の福島消費者担当相が閣僚としての署名を拒否する方針を記者団に語ったそうだが、社民党としては当然そうするだろう。

不思議なのは、名護市移設を言い始めてからマスコミの鳩山タタキが止んだことだ。
米は地元が認めない限りどこへの移設も認めないと言っていた。そこで例えば大阪橋本府知事のように「こっちが受ける」という声もあったがじきに引っ込んだ。徳之島も反対した。つまり自分とこへくるのはみんな嫌なのだ。みんな我が身だけが可愛いのだ。
だとしたら地元中の地元である沖縄県民が「捨石にされている」と怒るのは当然だ。

沖縄が日米共同の防衛上「要石」というのも、軍事専門家筋によれば嘘である。
米人保護の為の必要性はあっても、そもそも今は冷戦下ではない。

テニアンのように「どうぞ」と言うところがあっても米は首をたてにはふらないだろう。
米の超大国としての覇権度は薄らいできている。インターネットでは「世界はG7からG20にシフトしている」とどんどん書かれている。中国も江沢民政権時代とは明らかに違ってきている。
だけど米は基幹である軍需産業を衰退させることはできない。
ここが一番問題なのだろう。

10年ほど前に読んだ松井某著の文庫本に「日本は町人国家として生きていくべきだ」と書いてあったが、しかり、これは「対米従属路線から脱出しなさい」ということだ。

2010/05/26 (水) 驚いたこと

本日は午前4時に起床。三時間ほどCADにいそしんだあと、プリントアウトして波松に行った。
波松からの帰りにえち鉄沿い道路を走っていたら、パトカーや消防車が止まっている。よく見たら芦原温泉芸妓会館が全焼していたので、びっくりした。
この火事による有形無形の損失については、市政掲示板に「とんぼ」さんが、詳しく書いている。
午前9時半から、厚生経済常任委員会協議会が開かれたが、橋本市長も冒頭の挨拶で同様の趣旨のことを述べていた。

2010/05/25(火) 昨日の一日

昨日の厚生経済常任委員会管内視察は17箇所。雨中での視察となってしまった。
視察場所は次の通り。
1・市道816号線
2・市道十日・嫁威線
3・春宮二丁目開発行為
4・芦原温泉駅周辺整備事業
5・芦原温泉駅西口駐車場
6・旭団地第1棟,第2棟
7・㈱SHINDO
8・県道 中川松岡線
9・普通河川 沢尻川
10・刈安山林道
11・県水第1受水場
12・余熱館「ささおか」
13・複合福祉施設
14・あわら湯のまち駅(観光協会及びおしえる座ぁ)
15・JA花咲ふくい総合選果場
16・北潟湖畔花菖蒲園
17・県下水道公社

夜は意見交換会。お酒を交えてのものとは言え公務なので最後までいた。
行政側は所管課、参事・課長・部長級。
飲み交わしているうち、僕のブログを読んでいる職員が意外に多いのを知った。
話は数年前のことにもなったが、確かに3,4年前の「市政掲示板」への書き込み量はすごいものだった。

2010/05/24 (月) 本日は厚生経済常任委員会管内視察

昔から、隠者の生活にあこがれていた。鴨長明がかっこいいと思っていた。
60歳をすぎたら山中深くに庵をつくろうと思っていた。
しかしその為の資金をつくることができず今日(こんにち)に至ってしまった。

そこで、この事務所を庵と名づけることにした。来訪者が多いので、山中深くに転居するのはやめにした。
亭主としての僕は、千利休のような茶道のたしなみがないので日本茶を出せない。
その代わり、美味しいインスタント珈琲を出したいと思っている。

きょうは塗装屋がペンキを塗りにくる。部分的リフレッシュ工事だ。
ゆくゆくは接客コーナーの天井から自在鉤を吊るしたい。ゆくゆくはオーバーヘッドプロジェクターを設置したい。
それらの装置を駆使しながら、人生を語り合いたいと思っている。


左側の写真は十数年前のもの。勿論、今よりずっと若々しいのだけれども、お気に入りの写真なので掲載することにした。

2010/05/23 (日) 昨日の一日

昨日の昼は、「井ノ部事務所」の開所式に行った。


昨年の衆議院選では、糸川事務所になった場所だ。この場所でいろいろ汗を流した昨年の暑い夏が走馬灯のようによみがえってくる。

帰路、コンビニに立ち寄ったとき、知人女性が話しかけてきた。
久しぶりではあるが、僕の身辺に起こったことをいろいろ知っているようだ。
ぼくは立ち話ながら自分の現在の心境を手短かに語った。

「牧田さんは、あわら市に絶対必要なひとです。頑張ってください」が、別れ言葉だった。
「アホやバカや」とはよく言われるが、誉められることのない僕にしてみれば、大変ありがたい言葉だった。
帰宅してそのことを妻に言った時の妻の返答はこうだった。
「確かにお父さん(僕のこと)は、誉められることがないひとでしょう。でもね、アホバカと言いやすい対象であるとも言える。この言辞には親しみがこめられている」
・・アホバカを差別言辞として一蹴することは危険だ。例えばテストで満点とってきた子供に「エラカッタわ」とさりげなく言う親よりも、零点とってきた子供に対して「バカ」と渇を入れる親のほうが可愛いがね。子供を丸抱えしようとする愛情が伝わってきますがね。
夜は某料理屋で多人数での親睦会。
南米ボリビアに在住していたひととの間で口蹄疫の話になった。というよりもいろいろ教えていただいた。聞いたことを整理して南米大使館に電話質問をしようと思う。

9時過ぎに迎えに来てくれた妻の車に乗って帰宅。すぐに就寝。
今朝起床してインターネットを検索すると口蹄疫のことが載っている。

2010/05/22 (土) きょうは土曜日

「ムネオ日記(5月21日)」を読みながら、今朝の日の出を迎えた。

昨晩の僕の事務所は、郷土史の話で盛り上がった。なんせ、一家言持つひとばかりの集まりなので盛り上がらないはずがない。浮世を忘れさせるひとときだった。

そういえば、事務所裏階段のOP再塗装が来週はじめに予定されている。

このプレファブ事務所が設計事務所というよりも「金津中学校50周年記念事業の事務所」として建てられたのは17、8年前。50周年記念事業が終わってからも、いろんなひとたちが出入りし続けてきた。金津小学校PTAの仲間たちと何十回焼肉焼き鳥水炊きパーテイを楽しんできたことだろう。三九会の集まり場所であった時期もある。今は手話の例会場所にもなっている。

まだ骨格は大丈夫だ。この事務所だけはあと数年持たせたい。

2010/05/21 (金) 無題

伊集院静の「少年譜」は七つの短編で構成されている。
その中の「トンネル」は海で弟を亡くす話だが、これは勿論伊集院の実体験に基づいている。
伊集院といえば本邦最高の美女とうたわれた夏目雅子を妻に持ち、はやくに亡くしている(27歳)。

この短編集のなかの「古備前」は銀座の寿司屋夫婦が寿司職人見習い・悠を迎え育てていく話だが悠の在所は福井県坂井郡内と書かれていて、ちょっとびっくりした。

伊集院静の写真を見たことがないので文体から想像するしかないが、
ウイスキー党の彼は日毎古い酒場を日暮れに訪問し、初老のバーテンダーとカウンター越にぽつりぽつりと語り合い、客が集まり始めたらそっとその場を去っていく男だろう。
つまり絵になる男だろう。

きょうは一日じゅうCADにいそしんでいた。夕刻に詳細図面を書き上げたので、アタマの切り替えのために図書館へ行った。図書館にはセーラー服の女子高校生たちが何人もきていた。
紺のスカートのひだひだが気になる。

「きみたち・・、図書館は知の宝庫だよ。ただで(と言っても税金だけど)、いろんな本を沢山読むことができる。それが将来の君たちのココロの幅と奥行きを深いものにする。学校の授業なんかより、ずっと為になる。いや、現世を生きる上でのノウハウという観点からはなんの役にもたたないだろうが、役にたたないものこそが大事なんや。星の王子様も、<見えないもののなかにこそ真実がある>と書いているでしょ」と言おうと思ったのだが、「ヘンなおじさん。変質者かしら?」と思われるのが嫌で止めた。

幕末ものを中心に8冊借りて事務所へ戻ると、柱時計が5時の時報をうった。
夜は又10人近くが集まる予定なので、鋭気を養うために日本酒を大型コップ一杯だけ飲んでいる。
E気持ちだ。

2010/05/20 (木) 昨日の一日

昨日の朝一番で波松の知人から電話が入り、波松へ行った。郷土史のことをいろいろ話し合った。
話を終えてから海岸へ出た(波松はあわら市で唯一海岸線を持つ地区だ)。波は繰り返し海岸へ打ち寄せる。何十億年の太古の昔から波はこの作業をやり続けている。えらいもんだと思った。
事務所への帰路、河間に住んでいる大学時代の先輩に電話した。このごろわかってきたことだが、昔の知り合いに会ったり電話をしたりしている時、ほっとする。

事務所に戻ると三国土木事務所から電話がかかってきた。建築設計事務所再登録の手続き完了の電話だった。生活のカタチが変わりつつある悪いことではない。
昼一番で三国土木事務所へ許可証をもらいに行った折、三国陣ケ丘の動物病院建築現場へ寄った。7月中旬開業の予定だ。ペットをお持ちの皆さん、どうぞご利用ください(・・笑・・)。

その足であわら市庁舎へ。
気になることが幾つかあったので議長室へ。議長としばらくの間、話をしていた。

夜は僕の事務所に数人が集まっての定例会議。
中に福井県肝友会の副会長がいて、福田衣里子氏が衆議院議員となるまでのいきさつを詳しく聞いた。
すごいひとだ。行動のひとだ。きゃしゃな体からは伺えない裂帛の気合を持ったひとだ。

ところで、本日の福井新聞にこのような記事が載っていた。

この橋本医師は東大医学部卒業の大変な頭脳明晰医師で、30年ほど前に僕が設計事務所勤務をやめて設計事務所を開業した時の初仕事が彼の小児科医院だった。僕の作品集にもH小児科として載っている。

彼は「福井では東大卒は出世できない」と言って開業したのだが、福井ではやっぱり京大卒なんだろう。ま、どうでもいいことだけど・・。


2010/05/19 (水) 未明に熱々珈琲を飲みながら

曽野綾子著・「寂しさの極みの地」を読み終えた。タイトルに惹かれ図書館で借りたのだが、三浦朱門の妻で熱心なクリスチャンのこのひとの文章には週刊誌の雑文でしかお目にかかったことがなく、単なる皮肉屋というイメージだけが強かったのだけれども、初めて読んだこの小説には感心させられるところがいろいろあった。
ま、プロの文章家なのだから当然といえば当然なのだが・・。

意外と男性的な文体だ。
小説に通底するものは、多分「虚無」だろう。「虚無」は「厭世」につながるものと、僕は今迄思っていた。けれどもこの小説を読んで、その逆も又あるのだと思うようになった。

先日の飲み会で僕の横に座った某福井市議が、お湯割り焼酎を飲みながら、「議員を何期もやっていると、面従腹背(めんじゅうふくはい)になる。厚顔無知になる。つまりバカになる」と言っていた。その嘆きが自嘲を含んだものかどうかはわからないが、僕も何期かやってきたものとして同感だ。
市議クラスに選挙が必要なのかな?とも思う。どのみち強力な地元地区推薦を受けたひとが当選を担保されるしくみになっているのだから、町内会長選出のように輪番制にしたほうが、マイクがなりたてもなく住民に迷惑がかからないのじゃないか。

22010/05/18 (火) 昨晩

昨晩はフェニックスプラザにおいて「井ノ部航太氏を励ます大集会」が開かれた。
応援弁士はというと

先ず立ったのが、薬害肝炎九州訴訟の会の原告で衆議院議員となった福田衣里子氏。


次に立ったのが、最近マスコミを賑わせた横粂勝仁衆議院議員。


次に隣県石川県の田中美絵子衆議院議員。

僕はもう何度も拝聴しているが、いつも加賀市の街頭でマイクを持っているそうです。

特徴的だったのが、全国から同志の地方議員が沢山参集したこと。
このひとは高知県連の幹事長で、福井と高知のアナロジーを語った。


この人は群馬からきた市会議員。

つい一ヶ月前に癌の摘出手術を受けたばかりという。

最後に井ノ部氏本人が思いを語った。


・・・全体に若さがみなぎっている。還暦をすぎた僕には特にそう思えた。

余談だが、医学用語としての「認知症」を僕は好きではない。伝統的な言葉「ぼけ」がいい。差別的言辞としてこの言葉が排斥されるようになったのかもしれないが、「ぼけ」の語源は「ほうける」で三昧の意味を他に持つ。
老いるに従い、周囲や自分自身に対して鈍感になっていくということは、生きるうえでの武器だと思うのである。
先述したように、「ぼけ」には三昧の意味もあるので、明日から僕の事務所は定例会の三連チャンだ。それぞれの定例会は全く異質のもの。一応僕は市議であり、生活の糧はそこから頂いているのだが、それが全てかというと全然そうではない。
生活の糧という部分を割り引いて考えると、自分の仕事は何なのかよくわからない。

2010/05/17 (月) 新しい週

田村隆一の詩に「どんな死も中断にすぎない」がある。

 「腐敗性物質」終連

どんな死も中断にすぎない
詩は「完成」の放棄だ

神奈川県大山(おおやま)のふもとで
水を飲んだら

匂いがあって味があって
音まできこえる

詩は本質的に定型なのだ
どんな人生にも頭韻と脚韻がある

・・・これはすごい言葉だ。どんな人生にも完結などありはしない。どんな死も中断にすぎない。

2010/05/16 (日) 快晴の下で

昨日はある懇親会が福井パレスホテルで開かれた。来賓の国会議員5人は衆参全て自民党。地方議員も民主党系は数人だけで、普段と勝手が違う。どおってことないのだけれど、少しいこごちが悪いですね(・・笑・・)。

きょうの夜明けに山すそを歩いた。


新緑ウオーキングだ。野の花々があちこちに見える。

きょうの午前8時半からのトリムマラソン・開会式に出席した。
糸川正晃氏も来賓として挨拶に立った。
事前の打合せでは挨拶時間三分間との主催者側からの内々の連絡があったのだが、僕が腕時計で測った限りでは、50秒。
「?」と思ったが、挨拶はもともと禅用語で挨は「押す」を意味し拶は「引く」を意味する。
つまりシンプル・イズ・ザ・ベストなのだろう。
開会式は体操服姿の親子連れでいっぱいだ。正直言って、見ているのがつらかった。


2010/05/15 (土) もう週末か

日記をご覧の皆さん、時間と興味がありましたら、5月17日はフェニックス・プラザへおこしください。
チラシにある福田衣里子さんといえば、昨日のテレビが北海道での肝炎訴訟の模様を報道していた。
接種で息子さんを亡くしたご両親が仏壇に手を合わせる姿が映像に写っていたが、息子さん死亡時の年齢をみるだけで、僕の胸はしめつけられる。

昼前に某知識人氏が来訪。四方山話は普天間問題に及んだ。
「マスコミは鳩山政権の迷走ぶりを連日大きく報道しているが、せざるを得ないいびつな日米関係をつくったのは、政権交代までの自民党政権だ。それが国民の前に露呈されたということだけでも前進というべきではないか」と言っていた。
確かに
例えば野中広努官房機密費問題などをマスコミ・テレビは報道しようとはしない。
そりゃそうだろう。各テレビ局はコメンテーターを抱えているのだから、報道すれば自らの恥を公開することになる。
このようにして、「公平中立な報道」の中身が決められていく。

5月9日の僕の日記が誤解を招いたようだ。
昨夕に携帯コールをしていた女性から、「車をリクライニングして一緒にシュークリームを食べていた女性」という指摘があったのだけれども、これは全くの誤解で、一緒にいたのは、勿論、男性です。
僕は、ムネオ日記を毎晩読んでいる。

理由は三つある
①何年前かの国会で、辻元清美が彼を「疑惑のデパート」と言って追い詰めた時の彼の涙にシンパシイを感じた。
②その頃のテレビで石原慎太郎都知事が彼のことを「ゴミ・クズ」と揶揄していた。
③数年前にグランデイア芳泉に講演にきた彼から話しかけられサインをもらった私の妻が「鈴木さんて、とっても頭のいい感じのいいひとよ」と、言った。

エスタブリッシュメントには興味がなく「アホ・バカ」と呼ばれる類(たぐい)に興味のある僕としては当然のことだ。

2010/05/14 (金) 手話について

昨日の午前中に、あわら市庁舎で手話入門講座の最終回が開かれた。友人に誘われてその場へ行くと、知り合いが複数人いてびっくりした。世の中縁である。
講師は数十年前に知り合ったろうあ者・Sくんで、請われて僕は、数十年前に手話の勉強を始めた動機をみんなの前でしゃべった。往時を偲びながらしゃべった。
僕は例えば昨日の会のようなマスコミに載らず社会的注目を集めない小さなつぶやきの声にこそいつも惹かれる。プロパガンダやパフォーマンスのないそのような場での声が真実の声なのだといつも思っている。

昼は幾つかの場所を、井ノ部さんと同行。事務所に戻りCADにいそしんでいた時、柱時計が6時を報じた。

6時からは二区選対会議。10人前後が某レストランに集まり今後の予定についてのいろいろを話し合った。
8時前に事務所へ戻ると、定例手話サークルが開かれている。病気予防・健康の話題で盛り上がっていた。今度、健康についての講義を某医師に頼んでくれと、言われた。
しかし僕はココロが萎えるとカラダの健康もおぼつかないのではないかと思っている。

2010/05/13 (木) 昨日の一日

昨日午後の事務所来訪者は、御自身の数年間にわたる欝体験を語って帰っていかれた。
食欲は全くなくなり、人と顔を合わせることもできず、体はこわばり、要するに「生ける屍」のような状態になったという。
このことはよくわかる。

夕刻は「道の駅・いねす」へ。
ここで、「坂井地区労働者センター・第18回総会」が開かれ、僕は来賓として出席した。
議長は冒頭の挨拶で「高速増殖炉もんじゅ運転再開のこと・普天間基地問題のこと」に触れた。いずれも国民注視の問題だ。
僕は先の三月議会定例会の議会報告をしてから、家路についた。

帰宅しお湯割り焼酎をつくりテレビの前に座った。つまみはジャガイモのテンプラだ。
プロ野球はセパ交流戦が始まり、画面は日本ハムvs阪神を中継している。残念ながら贔屓のタイガース苦戦だ。救いは時折画面に現れる他休場途中経過・巨人苦戦だけだった。

面白くないので、床に入り読書。夜伽相手は三好徹著「史伝 新撰組」だ。
獄門にかけられた近藤勇、結核で世を去った沖田総司、函館戦争で壮絶な死を遂げた土方歳三の新撰組ビッグスリーについてはいろんな作家がいろんな本で史伝を書いている。
なのに飽きないのは、今のふやけた時代に対するアンチテーゼの象徴となっているからなのだろう。

坂井市三国町陣ケ丘で新築中の「ラーバンの森動物病院」。

設計は、勿論、私です。

2010/05/12 (水) 魯迅

魯迅は1936年に55歳で死んでいる。
この有名な小説家の読んだ本は1冊だけなので、実際にどういう人であったのかはよくわからない。
ただ、生前の寺山修司が何かのエッセイで魯迅の阿Qに対する蔑視感・つまり民衆蔑視感を衝いていたのを思い出すくらいだ。

その魯迅が仙台医学専門学校に留学中、解剖学徒として芦原町出身の藤野厳九朗との間に心の交流を持ったのは事実であるしそのことは「藤野先生」にも書かれているが、魯迅を小説家・思想家としての魯迅たらしめたのは別のところにある。

魯迅が仙台医専に留学中、教室で、日露戦争における中国人のロシア側スパイ処刑のスライドを見た。その映画では、日本人によって、間諜(軍事スパイ)として処刑され、さらに同胞である中国人が処刑される様を喝采して見物する姿があった。その情景と日本人の反応を見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだという。これを契機に、魯迅は、中国の社会改革と革命に関心を深め、人体を扱う医学から社会改革を目指す道に転じるきっかけとなった。

このあたり、江戸期中期の代表的儒者となった雨森芳州と履歴が似ている。

年譜には
「帰国後は、杭州・紹興などを経て、1912年、南京において中華民国臨時政府教育部員となる。さらに政府の移転に伴い北京へ転居。1918年雑誌『新青年』に『狂人日記』を発表する。以来、「魯迅」およびその他多くのペンネームを用いて文筆活動を本格化した。
また、北京大学などで非常勤講師として中国小説史の講義を担当した。中国の伝統的文学観においては、小説は歴史や詩文に比べて一段低いものと見なされ、研究に値しないとされてきたのだが、」と書いてある。
また、「北京大学などで非常勤講師として中国小説史の講義を担当した。中国の伝統的文学観においては、小説は歴史や詩文に比べて一段低いものと見なされ、研究に値しないとされてきたのだが、魯迅は早くから散逸していた小説の断片を集めるなど実証的な基礎作業を進めていた。その蓄積にもとづいて神話伝説から清末までの小説史を論じたものが『中国小説史略』(1924年)である。中国最初の小説史であり、今日でもこの分野を語る際の必読書となっている。
魯迅の作品に見られる特徴のひとつとして、欧米語とりわけ英語の文法をなぞった、本来の中国語(白話)には無い語法がある。彼は中国語が文法的な精緻さにかけているという発想に取り付かれており、欧米語は文法が精緻なので思考も理性的なのだと考えていた。
現代の言語学的立場からすれば、魯迅の思想は疑似科学的なものである。更にいえば、欧米語に比べて中国語(白話・北方官話)の文法が精緻ではないという魯迅の考え自体も一面的である。欧米語よりも精緻な文法体系を持っている。
中国の近代化改革を望んだ文学者である彼がその過程で不可避に欧米への崇拝・事大意識をもち、それを自身の言語観や文学作品に投影したことは中国の近代化のあり方をめぐる一つの研究対象とされている。」
と書いてある。

言語学など皆目わからない僕にその詳細を書くことはできないけれども、寺山が阿Q正伝を批判した背景にあるものは、このような言語観を持つものとしての魯迅批判だったのだろう。
時間のある時に魯迅を読んでみようと思う。

2010/05/11 (火) 無題

あわら市の小中校耐震補強改修は、本年度を持って施工完了する運びとなった。
数年前は中学校の統合or二校存続で揺れに揺れたあわら市だが、県下で(おそらく)一番に小中校耐震改修が完了することはいいことだ。
翻って隣市・坂井市の中学校耐震補強改修は今からだ。

ところで、「耐震補強」という言葉は充分に市民権を得ているが、その意味するもののデイテールについては、わかりづらい。僕も設計事務所をやってきたので、建築構造一般についてはわかるけれども、「建築本体調査検討→評定判定→補強計画」の流れについては幾分不案内だ。
ということで、昨日は耐震補強専門家のところへ行き、長時間にわたって話を聞いてきた。
さすがに「餅は餅屋」だと思った。

合併して既に6年が経過したあわら市だけれども、まだ旧両町のやり方のアウフヘーベンされていないいくつかがある。今後予想される事業展開に、議員としてどう臨むか。
昨日は、それらの資料を整理しあるいはひとに会って話を聞いていた。
そういえば6月議会定例会も近くなってきた。
やらなければならないことが沢山ある。

2010/05/10 (月) 小鳥のさえずりを聞きながら

昨日の午前中は、福井市内にてポステイング。約3時間の歩きづくめで疲れた。土地感のない場所なのでなおさらだ。筋力を鍛えておかなければならない、と思った。
福井市への車での往復の道中、同乗のHさんとの話は明治維新の頃の日本についてのテーマで盛り上がった。
帰宅し一休みしたあと、CADに専念。

午後3時半からは、「F・top21 4支部幹事会」。
午後6時から懇親会に入った。
かってのようなあばさけた飲酒は僕から全くなくなった。コップ一杯、二杯のお湯割り芋焼酎で充分に快感が走る。
三人のそれぞれのひととの人生の哀歓についての話で、懇親会はあっという間に済んでしまった。
迎えにきてくれた妻の車で帰宅。布団にもぐり込み熟睡。
目がさめると外は既に明るい。
昨日は充実した一日であったような気がする。
いろんなことがあって、このホームページ日記をもう止めようと思っていた。
だけど今朝会った友人から、「まきちゃん、読者がひとりでもいる限り止めるべきではない。死ぬまで続けてほしい」と制止された。
ありがたいお言葉だった。止めないでおこう。

2010/05/09 (日) 喫茶店

昨日の午前中はCADに精出していた。

CADに疲れた僕は昼一番に車を福井市に走らせた。久しぶりの友人に電話をかけ、落ち合った。相手は「喫茶店へ行こう」というのだが僕は断った。九頭龍川河畔に連れて行き、木陰に車を停め、シートをリクライニングしシュークリームを食べながら四方山話をしていた。

喫茶店が嫌いというわけではないのだが、僕にとっての喫茶店は文庫本を読む場所なので、ひとと一緒には行かない。

そういえば、映画館へ行くのもいつもひとりだった。
「特殊な映画が好き」という理由もあるのだが、ひとと一緒に映画館へ行くと相手の方に気が散って、映画に没入できない。

思うに僕は人間付き合いが苦手だ。
だから、自然のなかに身を置く時にだけ癒されるのだろう。

2010/05/08 (土) 快晴の朝に

昨日の午後は特急・しらさぎで敦賀へ行き、市民病院に従兄弟を見舞った。
従兄弟が倒れてからもう五ヶ月が経つ。ベッドの脇にはりついている奥さんから、現状やこれからのことについてのいろいろを聞いた。

市民病院を出て、敦賀港へと歩いた。
港に佇むと遠くに敦賀半島が見える。見ているうち、半島の白木地区にある高速増殖炉「もんじゅ」の運転再開を思い出した。
あのナトリウム漏れ事故が起こったあと数年して、我々金津町議のメンバーは事故現場を訪れた。溶けた制御棒を見て強いおぞましさを感じた。
その数年あと、有志が手配したマイクロバスで渡来人の地区と言われている白木地区を訪れた。当時の区長・橋本氏からは朝鮮半島にあった鶏林という国家の由来を聞いた(橋本氏にもいろいろな人がいる)。
総括ガイドは在日の小説家・故金達寿だった。司馬遼太郎と一緒に「月刊三千里」を編集していた人。「プロの文章書きはこんなにもものすごいのか」とその博覧強記ぶりに驚いたのを覚えている。その頃、僕は運転再開反対のデモにも参加した。

夕刻になって港のホテル・敦賀観光ホテルへ。
若泉精三氏の政経パーテイだ。

来賓・渡部恒三氏の会津弁しゃべりには、ユーモアとそして民主党小沢一郎幹事長との確執が見え隠れした。


今年の四月に東京でも拝見したが、石川県選出の田中美絵子氏は噂どおりの美形だった。

2010/05/07 (金) 昨日の一日

昨日の午前中は、CADに専念。
昼近くになって、H氏が来訪。請われるまま、一緒に市内の中古賃貸候補物件を見てまわった。

昼飯を終えた頃、長男が勤めていた会社のかたおふたりが自宅に花を持ってきてくださった。霊前で、ありし日の息子をいろいろ語ってくださった。

夕刻に僕はその会社へ行った。忌明けとなったので、挨拶の為に行った。
挨拶をしているうち、気持ちに強い揺れ戻しがあったがこれは親として当然のことで、死ぬまで続くだろう。それはそれとして、裂帛の気合で頑張っていこうと思った。

出かけなければならないいろんな予定が入ってきている。
その合間を縫って原稿などを書く必要も多く出てきた。持ち運びできる小型の中古ノートパソコンを一台購入しようと思っている。
夜明けに大溝を歩いた。風が強い。
朽ちかかった枝葉が揺らいでいる老木が目に入った。
金津城溝江の館跡にある木だ。


この木の根元には溝江城主親子が身を投げた井戸がある。
16世紀末にタイムスリップしたような気分になった。

2010/05/06 (木) 熱々珈琲を飲みながら

昨晩は、遅くまで三国町の陣ケ丘で三人が長い間話し込んでいた。僕を含め三人はいずれも還暦前後。
僕には10年間のサラリーマン経験があるが、他の二人にはない。

話を聞いていて感じたことだが、サラリーマンが専守防衛であるのに対して自営はリスクを抱えながらも人生に対して積極的だということ。年齢に関係なく自分の思いの実現のために夢中だということ。そういう男たちの横顔は魅力的だ。

深夜に帰宅し、バタンキュウでひたすら熟睡した。目がさめると既に外は明るい。
事務所に入りインターネットを検索した。

偶然だが真喜志好一さんのブログが目に入った。真喜志さんは、学生時代に僕がその人格・識見故に尊敬していたふたりの沖縄人のうちのひとり。

こういう偶然の再会があるのも、インターネット時代の良い面かもしれない。

2010/05/05 (水) 連休最終日

①対米隷属政治からの脱却
②官僚天下りの根絶
③企業団体献金の全面禁止

この三つの実現もしくは進行が民主党政権の使命であるとは、巷間言われていることであるが、普天間問題は、①の領域に属することだろう。

1972年の沖縄返還をめぐって、「沖縄独立論」が出ていたことは今も僕の記憶に新しい。
沖縄は、薩摩藩の苛斂誅求や、謝花昇のことや、太平洋戦争の末期における米軍沖縄上陸での悲劇など特殊な歴史を持っている。そして今は75%の米軍基地を抱え込んでいる。
現在、故郷沖縄で活躍している某氏から、僕は沖縄の苦悩を昔、さんざん聞かされた。

辺野古基地建設での政府間合意という自民党時代の負の遺産の見直しを沖縄県民が望んでいるのは当然で、それが先の県民大集会の盛り上がりにも現れている。
沖縄県知事・宜野湾市長・名護市長らの日頃の発信も沖縄県民の立場に立てば当然のことと言える。
「米軍基地を本土に分散配置」という時折出てくる意見に対しても本土は迷惑やと冷たい。
これは、極論すれば本土が沖縄をいじめているという構図だ。

ならば国外移設かというと、中国脅威論の高まりで日米安保上無理だと米は言う。つまり今は八方塞りに近い。
この延長線上に潜伏的に進行するものは、再度の「沖縄独立論」の高まりなのではないかと僕は思う。

それはともかく実務者協議も始まった。
国の根幹に関わることなのだから、「5月いっぱい」にこだわることなくひとつひとつのねじれをお互いの心底からの意見交換で埋めていくことが不可欠だろう。
今朝、僕はあるひとのことを思っていた。
20年ほど前に会ったひとで、サリドマイド障害児としてこの世に生を受けたひとである。両腕がつけねから無いひとだ。
そのひとは僕に、じっくりと半生を語った。
「父親は自分を殺そうとした。しかし母親の必死の嘆願で殺されずにすんだ。自分は家の奥につくられた座敷牢で育った。家の中を歩きまわることは比較的自由だったが、来客のあるときは必ず座敷牢に押し込められた」と淡々と語る彼の表情が突然変わった。

「何年か前、マスコミが僕を取材にきた。TVカメラをまわしながら【もっと笑ってください。元気にしてください】と言う。楽しくもないのに、なんで笑わにゃいかんのだ」と言った。

TVカメラの担当者は、番組を脚色する。劇ならともかく、ドキュメンタリーはそのままをみせてこそドキュメンタリーと言えるのだと僕は思う。

2010/05/04 (火) 座頭市逆手斬り

きのうはGyaoで「座頭市逆手斬り」を見ていた。勿論主役の座頭市は勝新太郎で、偽の座頭市に藤山寛美が脇役として出ていた。

20歳代までの週末は映画館ですごしていたというくらいに映画好きだった僕だけれどもその後は映画館へ足をのばさなくなった。近年になって、正月・ゴールデンウイーク・お盆などにGyaoで娯楽映画を1,2本見るようになったが・・。

座頭市の勝は格好いい。
黒沢映画を思い起こさせる白刃のスピードと音と風のうなりがある。
勧善懲悪を地でいくわかりやすい座頭市シリーズなのであるが、実は僕が勝新太郎を本当に格好いいと思ったのは、なにかの民放TV番組にゲストとして出ていた彼を見た時だった。

番組の合間にスポンサー製の茶菓子が出た。アホな司会者が「お味どうですか?」と聞いた時、彼は「わしはコマーシャルが嫌いやねん」と京都弁で自然に答えていた。

後年(こうねん)、僕がラジオのしゃべり番組に出た時、やはり合間に珈琲と茶菓子がでてきた。マイクをつきつけられて味の感想を聞かれた僕は、「宣伝は嫌い 出されるものはなんでも好き」と答えたが、この答え方に勝新太郎への思い入れのあったことは言うまでもない。

今朝の明け方、僕は角田房子著・「悲しみの島サハリン(戦後責任の背景)」を読み続けていた。まだ読了してはいないのだが、朝鮮人樺太強制連行の戦後処理に関しては、旧ソ連書記長がゴルバチョフになってペレストロイカが進行したことで好転してきたことは確かなようだ。

そういえばゴルバチョフがソ連最後の書記長の座を降り、エリツィンがロシア大統領となった頃、我が家に極東・ウラジオストックからふたりのロシア娘がホームステイしてきている。
ふたりとも色白で、極東大学・東洋学科にいるインテリだった。
うちひとりは極真空手の有段者で、恋人はウラジオストック極真空手のチャンピオンだと言っていた。
僕は福井県のいろんなところに彼女たちを連れていったが、いざ揉め事が起こった場合、彼女たちが護衛してくれると思うと安心だったなあ(・・笑・・)。

ホームステイ最後の日の晩、彼女たちは正装をして私の事務所に来た。
ロシア正教徒である彼女たちは、私に何枚かのイコンを手渡して言った。
「お父さん(僕のこと)、ロシアは貧しい国です。私たちがホームステイのお礼にお返しできるものはこんなものしかありません」と言って紙袋をくれた。

彼女たちが去ってから、紙袋をあけるとそこに入っていたものは、一本のウオッカだった。
僕はウオッカを持ち、事務所の駐車場に出てくさわらに寝転んだ。

満月を眺めながら50度のウオッカを、瓶ごとグビグビ飲んだ。
お月さんから降臨してくるかぐや姫を待ちながら飲んだ。しかし、かぐや姫は現れなかった。
そのうち強烈な酔いがまわって僕は意識を失った。
朝陽が昇り始める頃に意識を回復したが、くさむらは反吐だらけだった。

日ロ友好を促進するのは外務相だけではない。
我々庶民の間でも日ロ友好は進んでいるのだ。

2010/05/03 (月) 無題

大型連休ということで、昨日はずっと本を読んでいた。
本は角田房子著・「悲しみの島サハリン(戦後責任の背景)」で、’94年3月に発行されている。
つまりその後は事情に多少の変化があったのかもしれないが、
日韓併合、終戦間際のソ連対日参戦、朝鮮戦争及びその後の38度線による半島分断という歴史の荒波のなかでサハリンに強制連行されてきた朝鮮人たちのその後を追ったもので、大きく運命が変わってしまった彼ら彼女らとの対面記録である。
まだ途中までしか読んでいないが
日中戦争・太平洋戦争と比べて、シベリア抑留やサハリンの悲劇らは世に知られていない部分が多いような気がする。その分だけ読後感には重いものがあった。

2010/05/02 (日) ムンク

きょうは義母の一周忌だったので、法事の行なわれた義兄宅(福井市二の宮)に居た。
読経が流れる・・・。が、生憎、僕は中国語を知らない。お経を目で追えば少しは分かるけれども、音韻では意味が全くわからない。

突然、ノルウエイの画家・ムンクの「叫び」がアタマに浮かんできた。


僕は二十歳の頃、神戸市長田区の「貞松・浜田バレー団」に通っていた。二十歳前後のバレリーナたちと一緒に止まり木に手を沿え、「アン・ドウ・トロウ」といいながらクラシックバレーを練習していた。
その練習場所はテナントビルの2階フロアにあったが、2階へあがる階段踊り場に「叫び」(勿論レプリカ)がかかっていた。
初めて見た時の衝撃は忘れられない。
私達全ての人間が心の底に持っている「何か」を表現していると思った。
どんな言葉も超えてしまう絵のすごさなのだろう。
法事及び親類一同での焼酎付昼食会が終わったあと.、妻運転の車でJR福井駅へ向かった。
すぐにJRに乗る気にはならず、駅前商店街をぶらぶらと歩いた。若い頃だったら通りを歩く女性たちにばかり目がいったものだが、還暦をすぎた現在、そういう気にはならない。
通りを歩くひとたちがオブジェに見えてしまうのだ。

さあ、明日から頑張ろう。