2011年05月

 
2011/05/31 (火) 五月最終日


すべての人間は弱い。
だれもが恐れをもっているが故に弱いのである。
にもかかわらず一方が「強い人」になり他方が「弱い人」になるのは、「心のなかの苦悩」に対する反応に二つの逆の型「強い反応」と「弱い反応」があるからである。「強い反応」は「自分の弱さを隠すために確信と攻撃という外見を装い、他人に恐れを感じさせることによって自分の恐れを隠す」。
「弱い反応」は「狼狽したり、またその結果、隠したいと思っている弱さを暴露する」。    P・トウルニエ


この文章を読んだ十数年前は格別の印象はなかったのだけれども、今読み返してみるとなかなか興味深い。人間の味がわかるようになるのは、60歳を超えてから、ということかもしれない。
「フォト日記」

今朝ぼくが自宅周辺を歩いた時、K病院建設着々進行が目に入った。
総合病院はどうしても威容となる。



30年ほど前、S建築事務所に在籍していた時、ぼくは「ピア」や「ベル」の常駐監理(サブ)をした。その頃には「ピア」や「ベル」が県内最大の巨大建築物であったはずだ。
現場内をいろいろ動き回ったが、広すぎて自分が現場内のどこにいるのかわからない。平面図のマイクロフィルムによる縮小版を見てかろうじてわかった。「百聞は一見に如かず」という格言があるが、全てにあてはまるわけではない。「百見は一聞に如かず」もまたあるのだ。


工事現場の昼休みは、ギャンブル教室の場でもあった。
背中に刺青をしたこわもての職人たちがやっているオイチョカブ教室では、とび職が「これはよう、前の現場で資材を盗んでつくったカネやあ」といいながら万札をはっている。すごいもんだとぼくは思った。


ポーカーでは、担当建設会社御曹司が強かった。ぼくら貧乏人と違って、カネはいくらでもある。ワンペアかツーペアでも平気で勝負をしてくる。勿論ポーカーフェイスを維持できる。ポール・ニューマンのような端整顔ではなかったが、ギャンブラーとしての品格を持っていた。


当時は今と違って職人たちの気質も荒っぽかった。鉄筋棒を振り回しての喧嘩を数メーター手前で見た時にはぞっとした。誤ってぼくにあたっていたら、冥土暦30年となっていたかもしれない。


2011/05/30 (月) 熟睡から覚めて


横なぐりの雨の昨晩、ぼくはある団体の総会・懇親会のため三国町内の某料亭にいた。夕陽恋の舞台となった場所の近くだ。ぼくを含めて坂井地区内三人の顧問議員の挨拶が終わったあと、会は宴(うたげ)の場となった。


何人かの会員と酒を酌み交わしたが、某氏からは自然エネルギーの可能性を深く教わった。そういえばジャーナリストの池上彰も次のようなことを言っている。


「私が注目したいのは、「日本ならでは」の新エネルギーです。
たとえば今、最も有望な代替エネルギーの一つは地熱発電です。日本は火山国であり、地下には1000度ものマグマだまりで熱せられた高温の地下水が豊富に広がっています。簡単に言うと、温泉の元ですね。
日本の地熱資源量は、2300万kW以上。アメリカ、インドネシアに次いで世界第3位を誇り、ざっと原発20基分に相当するとも言われます。地下に眠るこの“宝”を有効活用しない手はありません。
地熱発電は高温の地下水から熱水や蒸気を取り出し、タービンを回して発電します。・・・(後略)」


ところで、ぼくは昔から雷を有効利用できないかと思っていた。
近代科学成立以前の人間にとって、雷が雲と雲との間での放電現象であることは想定外だった。


雷(カミナリ)の語源は神鳴り(カミナリ)である。愚かな人間たちを叱る神の吼え声である。この場合の神は、荒ぶる神=素戔嗚尊だろう。


しかし雷が電気エネルギーであることを、我々近代人は既に知っている。
有効活用しない手はないと思う。
2011/05/29 (日) 白ワインの余韻のなかで


昨日は、従姉妹の子供の結婚式にお袋及び妻と一緒に参加した。結婚式に参加したのは十数年ぶりだ。


式場の佐佳枝廼社(社名の命名者は松平春嶽公)へは予定よりはやく着いたので、妻と共に神社の沿革図を漫然と眺めていたのだが、神社の主祭神が福井藩祖・松平秀康公、徳川家康公、福井藩第16代藩主・松平春嶽公であることに改めて感慨を深くした。


昔から、福井は陸の孤島、文化果つるところと思わされてきたが、どっこい、なかなかの俊英を輩出してきたのだ。


神式による儀式は従来どおりだが、別会場で行われた披露宴にぼくは隔世の感を持った。昔の披露宴の際には、親類の年寄り連中が「高砂やあ」をうなったりしたものだが、昨日はそういうものは全くなくて、新郎新婦の友人たちによるコーラス披露があっただけだ。


結婚は結果として家と家の結びつきでもあるが、先ずは惚れ合った男女の獲得宣言の場である。その意味では友人たちのおめでとうコーラスだけのほうが好感がもてる。


ぼくは「チューリップ」のテーブルに座り、白ワインを飲みながら宴の進行を眺めていた。30年前のぼくたちの披露宴を思い出しながら眺めていた。
その時まで操を守り通して本当によかったなあ、と思う。
2011/05/28 (土) 6月議会がせまってきた


10年ほど前にこの日記に書いたことでもあるが・・


ある日突然ぼくは一年的凝縮年表をつくった。地球の歴史50億年を1年間とした場合のエポックな出来事の相対的な比較表だ。
その凝縮年表によると
恐竜絶滅の6500万年前は、大晦日の除夜の鐘が鳴り始める4日前となる。

アフリカ峡谷で人類の祖=アダムとイブが誕生した500万年前は、8時間前となる。
古代史のエポック・壬申の乱は12分前だ。
ひとが最長100年間生きたとしても、ほんの0、1秒前の誕生でしかない。


「ひとの一生は鼻を噛む時間にもならない」ということだが、40年ほど前の夏、ぼくはある男と一緒に旅をして夜の大飯町海岸にたどり着いた。


その海岸を宿と定め枯枝を集めて焚き火を開始した。その男はガットギターを手に、当時流行っていたフォークソングを歌い始めた。しかしぼくは目の前のおしてはかえす波を見つめ続けていた。「能ある鷹は爪隠す」というやつだ。


どこからともなく3人の若い女性が現れ、「横に座っていい?」と聞く。
いつの間にか計5人は海岸の砂の上にあおむけになってねていた。天空には満月が浮かんでいる。


ひとりの女性が、「お月さまは、私たちのことをどう思って眺めているのでしょうね」と言った。
続けて、「「地球にいる人間という生物は、意味もなくあたりを走りまわっている。たかだか数十年の人生のくせに」と思って眺めているでしょう。ほんと、あっという間の人生だけどかけがえのない人生だわ」と言った。


40年経った今でも彼女の肉声が聞こえてくるようだ。
 2011/05/27 (金) 夜明けに目薬をさしながら


昨日の午後、文化会館に於いて「あわら市日本中国友好協会総会」が開かれた。
総会に先立つ来賓諸氏挨拶は、近現代における日中の不幸の歴史に言及し、あるいは東日本大震災で某企業の専務が身を呈して中国人研修生たちの避難誘導につとめ自らは殉じたというエピソードに言及した。


総会終了後の記念講演講師は、県立大学経済学部準教授・福山龍氏。
最近の中国の世界への投資状況を物語るものでなかなか面白かったが、途中で友人Sくんから中国人研修生についての相談携帯コールが入ったため、会場をあとにした。


中国は勿論のこと、若い頃は世界のあちこちを訪れたいと思ったものだが、その為の資金を調達することができず、カナダトロント1週間の夫婦的ホームステイとオーストラリアシドニー1週間の集団的簡保旅行だけがぼくにとっての異国見聞地として、人生を終えそうだ。


会うのは日本国内の外国人だけで、そういや何年か前に中国人メデイア関係者と一緒に真冬の越前海岸へ蟹を食べに行ったことがある。なんやかんやの話のなかでぼくが「中国は国土が広すぎる。人口が多すぎる。一国のシステムで沿海部と内陸部の格差を解消するのは至難や。中国は4分割すべきや」と、石原慎太郎の受け売りを言ったら、「中国のそして毛主席の批判をすることは内政干渉です。訂正してください」と、えらく怒られてしまった。


国よりも人間だ。
山崎行太郎の5月24日ブログには全面的に共感した。



更地となった敷地の地盤調査が本日予定されている。



地盤調査の結果如何によっては、地盤改良を必要とするかもしれない。それが瑕疵担保責任の保証となるのだから合理的ではある。


しかし、とぼくは思う。
何年前だったか、知る人ぞ知る隠れた建築家のぼくが三国町陣ケ丘にあるおけら牧場Mさんの建物を設計した時のことだ。大湊神社の神主Mさんが祝詞を奏上した。
「この地に住んでいる虫さん、雑草さん、小鳥さん。しばらくの間、我々人間どもにこの地を貸してください。追い出すようで申し訳ないが許してください。おねげえしますだ代官さま」と奏上した。


一般的に言って、セメント混入の改良地盤としたら、何十年間かの人間使用期間が済んで大地が原野に戻ったとしても、虫・雑草・小鳥は戻ってこれないのではないか。
 2011/05/26 (木) もう木曜日か


久しぶりに出会うひとの殆どから、「なんでそんな歩きかたになってしもうたんや?」と聞かれる昨今だ。
勿論、数年前の脳内出血に拠る後遺症としてのマヒによるものだが、そのことによって最近は体のことを考えることが多くなった。正確に言うならば、体と心のことについて考えることが多くなった。


体の衰えは四肢の筋肉の衰えと思われがちだが、実は違う。
バランスをとることの困難さの露呈だ。若い時からの日常的な立居振舞のパターン化とその積み重ねが本来シンメトリーである人体に違和感を与える、と人体解剖図を前にしてぼくは思う。


例えばぼくの場合右半身にマヒが残ったが、結果として歩行の場合に左足が右足をひきずるようになる。その分、左足が余分の負荷を負うことになる。
負荷の量が問題ではなくて、左右両足の負荷が均等にならないことが問題なのだ。


そして「やっかいなことや」と困惑する心(いや、頭かな?脳かな?)が、問題を硬直化させてしまうのだ。


どういう態度をとればいいか。
いろいろあせらないことである。あせると心が窮屈になる。自然体でいて心を開放させることである。開放され周囲をぷかぷか浮き沈みしている心を眺めていれば、そのこと自体がリハビリになる。
 2011/05/25 (水) 深夜に牛乳を飲みながら


こういう表を見た。


ぼくたちの年齢になれば、日々の生活が死と向き合うことであっても自然だが、放射線被爆に拠るガン死の比率は幼児に於いて頂点となるという事実をこの表はぼくたちに教えてくれる。


十数年前PTA会長であった時、壇上でこういうことを言った覚えがある。
「ぼくたちのこどもが胎児の時に母親の子宮からこの世をかいま見て、「嫌な世の中や、世に出るのを止めておこう」と思ったとしても、胎児は否応なしにこの世の中に押し出される。押し出すのはぼくたち母親・父親だ。その意味でぼくたちは、こどもたちにとって住みよい世の中をつくる義務がある」


その観点からいえば、福島原発事故による放射能放射線漏れは過酷のきわみで、ハード面の復旧のあとは、利権がらみの責任者たちの処罰を徹底することが不可欠だ。

仮設事務所の殺伐とした空間に一点の緑
例えて言うなら はきだめの鶴
そしてその名はモンステラ



持ってきてくださった女性に心からの敬意を表します。

 2011/05/24 (火) 五月雨の未明に


一昨日の中島道子講演会終了後、希望者が中島さんを囲んでの座談会となった。その際、話題が突然小野田寛郎のことになった。中島さんは小野田と銀座のレストランで対談をした時のエピソードを紹介してくれた。


太平洋戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰国を果たした小野田は、戦後の日本の変貌ぶりに驚き国の将来を憂い子供たちの為の自然塾建設を決意する。
その為の土地提供を例の金丸信に懇願したところにべもなく断られ困っていた。その時に、福島の土地提供を申し出てくれたのが伊東正義だったとのこと。


「政治家に徳目を求めるのは、八百屋で魚をくれというのに等しい」という秦野章語録を信じている僕だけれども、伊東のような清廉潔白のひともなかにはいるのだろう。
竹田川一周リハビリ的早朝歩行の時、目に入る緑について考えた。
五月の緑は確かに美しい。けれども若い時に感じた緑と現在感じる緑との間には明らかに違いがある。
若い時に感じた緑は、僕たちの社会を構成する様々な人工物に対するアンチテーゼとしての緑だった。
現在は・・・うーん、うまく言えないが、なんつうか、僕の近未来の姿だ。「近未来さん、こんにちは」だ。


この頃の僕は、輪廻転生を信じるようになってきた。しかし、軽犯罪を繰り返し酒色におぼれ、どちらかというと表街道よりも裏街道が好きだった僕が人間として生まれ変わるのを神さまはお許しにならないだろう。
人参か大根かうまくいっても百合の花として生まれ変われと命じられるのではないか。
そう思うと、植生がたまらなくいとおしくなる。
 2011/05/23 (月) 新しい週の始まり


「老いの現在進行形」を図書館で借りてきて、昨晩から読み始めた。
水難事故で意識不明を体験した吉本隆明さんと介護のプロである三好春樹さんとの対談形式で構成されているこの本のまださわりを読んでいるに過ぎないけれども、随分と示唆的なことが書いてある、と僕は思う。


そう思うのは僕が同じような体験をしているからで、体験を共有しないつまりアタマでの理解では彼此岸の関係がどうしても残る。
言語や音声が担保するのは「知る」ことでしかないのに対して、「感じる」ことの担保は体験そのものだ。


最近の僕は妙に生々しくそう思うようになってきた。結果としてひとと会うのが面倒くさくなってきている。


昨日の講演会終了後、中島道子さんに花束を贈呈する私


やはり贈呈者が美男美女だと絵になると思います。
 2011/05/22 (日) 無題  


本日の午後2時より、あわら市中央公民館に於いて中島道子氏講演会が開催されます。是非ご来場ください。



昨日の夕刻に福井市内で開かれた「柔道整復師会・年次総会」の懇談パーテイに出席した。もともとが自民党の支援団体なので、来賓の国会議員4人は全て自民党籍。


来賓諸氏の挨拶が終わったあとは無礼講となった。
マイカーで会場にきた僕はウーロン茶を飲んでいたのだが、気がつくと県知事のまわりにはひとがいない。


「権力者は孤独なんかなあ」と隣席に話しかけたら、「単に人気がないだけやろ」との答えが返ってきた。


挨拶した国会議員のなかでは稲田朋美さんのそれが印象に残った。管政権の大震災対策の後手後手を追求していたが、その語気の強さは弁護士という前歴によるものだろう。
数ヶ月前にDVDで「靖国 YASUKUNI」を見たが、その映画のなかにも彼女は登場している。数日前の新聞が「沖縄ノート」を巡っての大江健三郎訴訟で無罪判決があったと報道していたが、彼女はこの訴訟での原告側弁護士でもあった。


それはともかく、宴席で飲めないのは寂しい。
コンパニオンガールズが近寄ってきても、しらふではなんにもしゃべれない。
早々に会場をあとにした。

 2011/05/21 (土)  昨晩 


あるひとから、「「市政掲示板」や「過去日記」のコンテンツが表示されない」と言われた。過去にも何人かのひとからそう言われたことがある。
あわら市役所パソコン精通職員によると、「表紙を複数フレームにすると、見る側のパソコンバージョンによって、見れない場合があります」とのことだ。


シンプルイズベストだと思い、昨晩の僕はこのホームページ表紙の簡素化にせいを出していた。
・固定電話の番号が0776-73-0863(含ファクシミリ)に変更となりました。
・プレファブ事務所の無償譲渡先がほぼ決まりました。
・臼+杵の無償譲渡先があっという間に決まりました。
 2011/05/20 (金)  昨日の一日 

昨日
某建築設計事務所所長と一緒に福井市内の介護施設の調査を行ったあと、昼食を共にした。
「まきちゃん、我々は死ぬまで生きてなあかん。我々はまきちゃんの気力復活を願ってるんやぞ」と言われて昼食を終え帰宅。


仮設事務所では、既存エアコン取付工事が行われていたので、仕事ができない。仕方なく自宅に戻り、シャツを脱いでパンツを脱いで昼風呂に入った。


真新しい下着に着替えさっぱりした気分で竹田川河原を散歩していたら熟年夫婦に呼び止められた。
「議員さん、私らの娘はチェルノブイリ原発事故発生当時、某テレビ局のアナウンサーをしており、事故のあと現地を取材した。そして去年甲状腺癌が発見されたんです。悲しいことや」と言われたのだが、原発事故による被災の特徴は、何年か何十年かあとに症状がでてくることにある。


夕刻
プレファブ事務所解体風景を見ているうち、感慨にとらわれた。




十数年前に立ちあがったこの事務所が仕事のための事務所であったのは当然として、夜な夜なの集まり場所にもなっていた。
PTA時代の友人たち、三九会の面々、何人かの議員諸氏、手話サークルの面々エトセトラ・・・と書くと、かたい集まりと思われるかもしれないが、実際にはそうでもなかった。
無垢材の木製巨大テーブルを囲んでの焼肉・おでん宴会を何十回何百回開いたことだろう。


本日をもって解体撤去は完了し、敷地は更地となる。だけど数々の思い出は脳裏に残る。
 2011/05/19 (木)  昨日は環境対策調査特別委員会


昨日の午前中は環境対策調査特別委員会。
委員長あいさつ・市長あいさつのあと、東田中地係の㈱グリーン・システム及び熊坂地係のエフ・ケイ・メタル共同組合を訪れた。


自動車のガラクタ破砕が山と積まれたエフ・ケイ・メタル現場へは、もう何度訪れたことだろう。旧金津町時代には、格納建屋の外壁がガラクタ破砕の圧力によって一部破損するという事故も発生した。これを受けてガラクタを建屋外に野積みとしたところ、降雨と反応してのボヤが二回も発生した。


ガラクタが分別され、完全に撤去搬出されるまでにはあと9年かかるとの説明を受けた。地元住民にとってはえらい迷惑だ。地元市議が、「熊坂地区水系(権世川水系)の汚染監視モニターの設置を要求していたが、当然のことと思う。


視察を終え市庁舎に戻ってからは、福井県原子力環境センター・大西勝基氏による「大気汚染について(放射性物質の拡散防止対策等について)」の講義を受けた。
我々にとって馴染みのない用語・馴染みのない単位が頻々と出てくる。一時間という制限枠では理解しきれないところが沢山あった。委員会とは関係なく、再度聞きに行ってこようと思う。


午後はCADの合間をぬって、幾つかの市内小中校まわり。中島道子氏講演会のチラシを持っての情宣行脚だ。


僕が金津小・金津中のPTA会長をしていた十数年前にPTA担当教師だったひとたちも、今じゃリタイアおじさんあるいは校長先生だ。先生が先生であることのモチベーションが子供たちとの接触であるとするならば、校長といった管理職は窓際族なのだと、僕は思った。


 2011/05/18 (水) 深夜の静寂のなかで


大島信三のひとことメモ(5/16付)が、津島裕子・「不運と不幸は別のもの」に触れている。


20年程前に同じ体験をした友人女性が心の境地を開く場を津島裕子との手紙交換に求めていたことを、当時直接聞いていた。


今の僕にははっきりわかるが、体験を共有した者どおしの言葉だけが、お互いにとっての癒しの力となる。


 2011/05/17 (火) 夜明けに牛乳を飲みながら

昨日、



現在の事務所解体撤去に伴い仮設事務所を設置・開所したところ、観葉植物を携えた一人の女性が現れた。


こういう写真を載せることを、正直ためらった。他の女性読者の嫉妬を恐れてのものだ。しかし議員にプライバシーがあってはならないと思い、敢えて掲載した。


晴天の下での二人だけの授与式で、ココロがあったまった。無口な僕は適切な謝辞を述べることができず、「ありがとう」としか言えなかった。


そのあと、四箇所へ打ち合わせにでかけたが、ココロのあたたまりは、終日消えなかった。


 2011/05/16 (月) きょうから変わる私

昨日の午前中は、トリムマラソン。8時半からの開会式に出席した。
金津町時代のトリムマラソン参加者にはなじみの顔が沢山あったが、今は殆どない。歳を経るにしたがって、こういう元気溌剌の場から消えていくのが人生というものなんだろう。
最近の僕の興味の焦点は、「人生いかに生きるべきか」が「人生からいかに消えるべきか」にシフトしつつある。


午後は福井市教育センターにて民主党・幹事会が開かれた。
先の統一地方選総括のあとは、
・東北関東大震災被災地視察について
・県内原子力発電所視察について
・原子力の勉強会について      が議題となった。


嶺南の地方議員から、「原発事故についてのマスコミ報道と、原発内部の労働者の声には数段の落差がある」というラデイカルな報告がなされた。


出席していた国会議員(松宮さんと糸川さん)に対しての「国家公務員給料10%カットは地方公務員にも波及するのか?」という質問に対する答えは「影響はあると思います。但しその場合には労働三法が保障されることになるでしょう」だった。


思うに
公務員は公僕で、全ての住民の意見を聞き尊重し取り入れなくてはならないこととなっている。しかし素朴に考えて、市民Aと市民Bが正反対の意見を役所にもちこむことも沢山あるはずだ。
公務員の安定的生活保障は、上記のような局面で生じるジレンマ&ストレスに対する代償という部分もあるのではないか。
だって、「あーあ・・・嫌になった」と思って、ストを断行したら住民サービスが機能しなくなる。


「みんなにいい顔をしなければならない」というのはしんどいことだ。
そういや、議員もおんなじだ(そうだ)。
 2011/05/15 (日) 古事記

昨日の来訪者との間で話題が日本神道のこととなった。


天津神は天孫降臨族で皇族の先祖。そして大和朝廷によって平定された人々の信仰対象が国津神。その代表が大国王であることを、かって故・山口喜三太先生から僕は教わった。


その後、古事記をぱらぱらと拾い読みした時、「日本にはなんと沢山の神様がいることよ。その神々が広い山野で活躍するんだから、神々イコール人間ではないか」と思ったものだ。


古事記は国生みの神話から始まる。イザナギとイザナミが天の御柱の前後で相対しそして交わったあと淡路島以下日本の島々を産み落とす物語だが、僕はこの物語のなかに男性優位社会の建設イコール女性差別の芽生えがあると思う。あわら市の行政にも「男女共同参画社会」を目指す動きがあるが、是非とも国生みの神話という原点から考えていってもらいたい。


話は天照大神のことだ。
和辻哲郎は天照大神を邪馬台国の女王・卑弥呼に比定しているそうだが、僕は昔のこの学者のことなど全く知らない。けれど今でも、怨霊史観の井沢元彦が同じことを言っている。


彼は「天の岩戸」神話つまり天照大神が弟神スサノオの乱暴狼藉を嘆き天の岩戸に隠れてしまう物語に目をつけ、太陽神の隠れはすなわち日食のことではないかと推測した。
そしてパソコン(多分ウインドウズ以前のものだろう)を駆使し、卑弥呼が活躍していた時代に日本列島を日食が覆ったという事実をつきとめる。


僕は思う。
古事記は虚実ないまぜの物語なのだろうが、一応は国のなりたちを顕す権威書だ。であれば小中義務教育に教材として取り入れるべきだ。国語のセンセか社会のセンセかが、教壇にたってゼスチャーつきでしゃべったら、こどもたちは興味津々だと思うがなあ。
 2011/05/14 (土) 昨晩は寒かった


新聞を読んでいると、「原発の安全神話の崩壊」という言葉をよく目にするが、安全神話など本当にあったのか首をかしげたくなる。
僕の周囲の友人たちの多くは、もともとが原発依存に疑問を持つひとたちだ。福井県が、全国一原発の集中立地している県という特殊事情もあるだろうが・・。


ところで、昨晩の僕は「ふるさと語ろう会」総会の場にいた。別にふるさとでなくてもいいんだけど自然や歴史の探索が昔から好きで、この趣味はカネがかからないから死ぬまで趣味であり続けるだろう。
歴史のない場所などどこにもない。目的の地に行ってたたずむと、有名無名さまざまのひとたちの霊がただよっているようだ。更にその地の関係者の語りを聞いていると想像力がいっそう刺激される。
宴席でのコンパニオンガールズとの会話よりも数段贅沢な刺激だ。


無償譲渡のお知らせ→立派な臼と杵
希望なさる方はメールしてください。
 2011/05/13 (金) 夜明けに熱々珈琲を飲みながら

昨日の午後、新田義貞奉賛会のKさんと会う機会があって、「畑時能の古戦場を偲ぶ」という小冊子をお借りした。PDFファイル(1)(2)としたので、興味のあるかたはご覧ください。


東日本大震災以降、僕の内部に微妙な変化が生じている。
それまでの僕は「ひとは死ねば死にきり」と思っていたが、今もって不明である一万人強のひとたちは終(つい)に遺体も発見されないだろう。葬送の儀を通ることもできず冥界を住所とするのか現世を住所とするのかもわからない。つまり霊魂がそちことをさまよっているのだ。
そう考えると、冥界と現世はというより死と生は浸潤しあっていることになる。

今朝、Eさんを訪ねて伊井地区を歩いた。傍らの用水溝を一匹のアマガエルが泳いでいる。流れに抗してコンクリート壁面を登ろうとしている。



よく見ると左腕がもがれている。登ろうにも登れない。悲しいことだ。
 2011/05/12 (木) 数日ぶりの朝陽

昨日の午前中は市庁舎担当課へ数人で出向き、中島道子氏講演会の情宣についていろいろ打ち合わせをしていた。町の歴史を(特に若いひとたちが)知ることは楽しいことでもあるし、中島さんのような歴史小説家を郷土が産んだことを沢山のひとたちに知ってほしい。


打ち合わせが終了してから、数人を仮設事務所に招いた。僕はこの仮設事務所を密かに「庵(いおり)」と呼んでいる。勿論、鴨長明・「方丈記」を意識してのことだ。但し方丈の二倍程度の面積を持つ。現代人にはパソコンやプリンターが必要なので仕方がないのだ。


僕はこの庵で(たまには酒を飲みながら)人生の悲喜劇を語りたい。そしてある日突然消える。それが理想です。
 2011/05/11 (水) 昨日の一日

昨日は忙しい一日だった。
午前中は三国土木事務所にてずっと打ち合わせ。


午後は臨時議会が開かれた。議案は5件。
議案第37号   専決処分の承認を求めることについて
(平成22年度あわら市一般会計補正予算(第8号))
議案第38号  専決処分の承認を求めることについて
(平成22年度芦原温泉上下水道財産区水道事業会計補正予算(第3号))
議案第39号  専決処分の承認を求めることについて
(あわら市国民健康保険税条例の一部を改正する条例の制定について)
議案第40号  専決処分の承認を求めることについて
(あわら市国民健康保険条例の一部を改正する条例の制定について
 議案第41号  あわら市教育委員会委員の任命について


議会終了後は事務所にて複数件の打ち合わせが待っていた。


夜は6時半から議員全員と行政側VIP連中との意見交換会。
意見交換会とはいっても酒が入るので和気藹々だ。当然多少エッチな話も聞こえてくる。だけど僕は石頭なのかそういう話が苦手だ。


僕はお湯割り芋焼酎片手に、「畑時能ゆかりの鉄笛について」と「介護保険制度のこれから」についてを一生懸命しゃべっていた。


午後9時に妻の運転する車が迎えに来た。助手席に座った僕は既に夢見心地となっていた。
 2011/05/10 (火) 本日は臨時議会

故障で、ここ数日間、自宅の冷蔵庫の温度調節がうまくいっていない。
友人の電気屋Qくんに診てもらったところ、使用期間がながいので基盤に問題があるとのこと。
昨日の朝食に出てきたコウナゴがかちんかちんだ。「冷凍庫は温度がさがるのでそこへいれといた」とお袋は言う。若い頃はアイアンテイース=鉄歯を誇ったものだが寄る年波で今はぜんぜんダメ。


事務所解体計画に伴い仮設事務所を設置したのだが、きょうまで電気が入らず苦労した。はやいはなし、この日記やCADだって、パソコンを使って書くのだから電気がこなけりゃどうしようもない。


「人間は日の入りとともに布団に入るべし」が僕の生活信条なのだが日の出まで眠り続けることはできずどうしても深夜に目が覚める。そしてごそごそ動く。やっぱり電気が必要だ。


短期間でもこれだけ不便を感じるのだから、東日本大地震被災者の皆さんの苦労は想像を絶するものだと思う。
 2011/05/09 (月) 無題


僕は、プレファブ事務所内の保管書類をせっせと焼却場へ運んでいる。過去とさよならするためだ。
昨日の作業中、書類のあわいから次のようなメモが出てきた。


「外の街全体が壊滅して生き残っているのは自分だけ。もし助かって外へ出られたらこれからどうするか。この世をゼロから作り直していかねば・・・」
             木辺弘児・「阪神大震災から4日」

                 
阪神大震災被災者の記録集のなかに書いてあった。数日間瓦礫に埋められ奇跡的に救出されたひとの文章をメモしたもの。
周りが全くみえない極限的な体験をしたのだから、荒野にひとりたたずんでいる自分が比定されるのは当然だ。


思うに
東日本大震災の場合は、大津波の侵入がこういうひとたちの存在をすら許さなかった。こういう状況下で共同体の成員としての僕は「祈る」ことしか出来ないが、にも関らず「祈り」の意味がよくわからない。
今年の7月に宗教思想家の山折哲雄が吉崎に来るという話を聞いたが、万難を排して聴きに行きたい。
 2011/05/08 (日) おろし蕎麦と冷酒

「フォト日記
昨日、僕たち数人は中島道子親分引率のもと、勝山市・伊知地を訪れた。そこには畑ケ塚つまり畑時能埋葬の土饅頭がある。











田園風景の拡がる地で春の柔らかい陽射しを受けたこの塚は、近くを走る幹線道路に案内板を持っていないので旅人の目から見過ごされがちだ。しかしそれ故に静謐を保っている。700年の時間を越えて畑時能の霊と交感しているような気分を、僕は味わうことができた。


勝山からの帰り、僕たちは丸岡・高椋家住宅に立ち寄った。





品のいい奥さんから門の由来を聞いたあと、丸岡町内の蕎麦屋へ。
ドライバーでなかった僕ととんぼさんは、おろし蕎麦大盛りと冷酒を注文した。おろしの辛味と冷酒はマッチする。なによりも、昼のひなかにこれを口にする贅沢さは格別だ。たまにはこういう贅沢も許されるだろう。
今朝の僕は、椚公民館の駐車場にいた。刈安山頂上で「ブナの森コンサート」が開かれる為だ。といっても軟弱カラダと化した今の僕にとって刈安山を目指すことは、一般の健康体がヒマラヤを目指すくらい困難なことなので、皆を見送るにとどめた。
世話役の黒川さんから共産党福井県委員長の南さんを紹介され、お互いぼそぼそとしゃべった。原発関係のことを深く聞きたかったのだが、出発前のあき時間だったのでそうもいかぬ。


皆を見送ったあと、携帯コールが続けさまに3件。きょうも忙しくなりそうだ。
 2011/05/07 (土) 土曜日の朝

きのうの朝食時、テレビは東北地方のある小学校の始業式風景を報じていた。全校児童百数十名のうちの半数以上が亡くなっての学校再開だ。


傍らで、子を亡くしたお父さんやお母さんがランドセルを供え線香をあげている。テレビ局がインタビューするという過酷な場面があったが、その方たちはぽつりぽつりと答えていた。答えることができるというのが、僕には不思議だった。
いずれにしろ、これが5月6日のこの日本の現実なのだ。

 2011/05/06 (金) 深夜に牛乳を飲みながら


東日本大震災の直後から、各地で温泉の湯が突然増えたり、出なくなったりしているそうだ。例えば大野の九頭龍温泉では湯量が1.5倍に増えたとのこと。大きな地殻変動の結果だろう。


温泉といえば
古代天皇(持統天皇だっだかな?)が湯治したことで有名な有馬温泉が思い出深い。学生時代に某老舗旅館の娘が友人だった関係で、その旅館のアルバイトにある時期精出していた。


夜の宴席が終了し後片付けをしたあと、まとまった残りものをサカナに仲居さんたちと夜更けの宴会をよく楽しんだもんだ。身の上話しを聞かされて、「うーん、温泉旅館で働く女たちにはワケアリが多いんだなあ」と思ったもんだ。


歌もよく歌った。その頃の僕の持ち歌は「♪そっとおやすみ」だった。それには理由がある。当時、「ロッテ歌のアルバム」の公開放送で楽屋警備のアルバイトをしていた僕が便所でおしっこをしていたら、野球帽をかぶった布施明が入ってきて僕の横に並んだ。僕より小さい(身長のこと)彼に、「布施さん、かっこいい帽子ですね」とおべんちゃらを言ったら「君にあげるよ」という答えが返ってきた。その気さくさ故に僕は彼のファンになったのだ。


僕は仲居さんたちから「団長さん、団長さん」と呼ばれていたが、長を拝命したのは、あとにもさきにもこの時だけだ。

 2011/05/05 (木)-2 フォト日記 
「フォト日記」

僕の住まいから徒歩10分のところに金津城址がある。
 
 

溝江景逸・長逸親子は、越前北部防衛の拠点としてこの地に金津城を構え、加賀の一向一揆とたびたび戦った。
しかし、天正元年、朝倉氏が織田信長に滅ぼされると、一向一揆は勢いを盛り返し、翌年二月に二万の一揆勢が金津城におしよせ、溝江氏の一族郎党は自刃。自刃した城址も今は単なる草わらだ。
僕は草わらに寝転び、春の日差しを浴びながら束の間眠っていた。


世の中の 楽をも苦をも 春の夜の
         短き夢と 今日見果てぬる      景逸

束の間の眠りから覚めた僕は、吉崎を目指す蓮如上人御一行が坂ノ下八幡神社境内で小休止する日であることを思い出した。僕はデジカメ片手に境内へ急いだ。


御一行がやってきた。

 御一行を茶菓子で接待するのは、坂ノ下区・神明会(老人会)のスタッフだ。このなかに入ると僕はまだまだ若い。
 
 
 
 浄土真宗の始祖を親鸞上人とするならば、8代蓮如上人は中興の祖だ。子供27人をつくったあたり、生臭い感じがしないでもないが、恐らく中興の祖として勢力拡大を至上命題としたことの結果だと、僕は思う。
 
 2011/05/05 (木) 連休最終日


本日の読売オンラインに西川福井県知事の国に対する姿勢表明が出ていた。国内で最大数の原発を抱える福井県の知事として佐藤福島県知事との会談、橋下大阪府知事の発言、嘉田滋賀県知事の発言エトセトラを踏まえれば当然の姿勢だ。


福島原発事故以降、沢山の原子力評論家がテレビに登場し、我々庶民が今までに聞いたこともないような用語を振りまいて目を白黒させてきた。それが専門家の権威を維持する処方であることは言うまでもない。国策であることから生じる様々の利権を隠蔽する走狗の言葉と思って間違いはない。


勿論、なかには本当の(つまり信じることのできる)評論家もいる。そういうひとたちは饒舌とは無縁だ。自分の発する言葉のひとつひとつを自己検証しながらしゃべるから、「立て板に水」とはおよそ対極になる。


情報社会の今日(こんにち)、マスコミに様々なひとが登場する。そのひとたちが真実を語っているのか、無知をさらけだしているのかあるいは偽りを述べているのか、僕たち視聴者のひとりひとりが考え判断し監視していくことが、この国のかたちの再構成につながると、僕は思う。

 2011/05/04 (水) 一日の始まり


この季節、午前5時を過ぎて空が白み始めると、「きょうを充実した一日としなければ」という思いがとても強くなる。


僕は、熱々珈琲満載のカップを持って、外へ出る。野ざらしの古いソファーにどっしりと腰をおろす。一羽の小鳥が僕の周囲で餌をついばんでいる。小鳥の眼中に僕はなく一心不乱に餌をついばんでいる。


白山連邦の頂きから閃光がさし始めた。昇る朝陽を眺めながら、マイルドセブン(3mg)を一本、時間をかけてゆっくりと吸い込む。
僕にとって至福の時間帯だ。


吸い終わった僕は、我が家の畑へと車を走らせた。といっても、畑仕事をするためではない。野菜や草花を濡らす夜露が、朝陽を受けて金色に輝くのを見るためだ。
既に何人かのひとが畑仕事を始めている。
僕をはじめとして、日本人は勤勉だとつくづく思う。


朝の香りを満喫して自宅に戻った。布団にもぐり込み束の間の読書だ。最近は推理小説に凝っている。

 2011/05/03 (火) 白湯を飲みながら


ゴールデンウイークなので国内外のあちことを旅しているひとも多いと思う。僕も旅が嫌いではない。ただし僕の好きな旅は「時間の旅」だ。カネがかからないので、どこまでも旅することができる。


昨日の僕はある禅寺へ出向き、住職と歴史の話をしていた。話が北ノ庄城落城のこととなった。
戦国末期、柴田勝家を城主とする北ノ庄城は豊臣秀吉の軍に攻められた。敗北を覚悟した勝家は、秀吉の使者と話をして、妻・お市の三人の子供たち(初・江・茶々)を秀吉に引き取らせる。勝家はお市とともに天守閣へ登り、そこで爆死する。初・江・茶々は、足羽山につくられた秀吉の陣から、北ノ庄城落城の模様を秀吉への憎悪の思いをこめてみつめていた。・・というのが、確か井上靖の小説で読んだ顛末だ。


けれども「これには異聞がある」と住職は言う。爆死した勝家の指示に従って北ノ庄城を脱出したお市は九頭竜川を船で下り、河口の港町・三国のあるお寺に身を寄せそこで生涯を暮らした、という。
そういえば中島道子さんにも、「それからのお市の方」という著書がある。


「連休中に是非一度その地域を訪ねよう」と僕は思った。

 2011/05/02 (月) スケヂュールだらけの本日



最近あるひとのエッセーに「人間には「植物としての人間」「動物としての人間」「人間としての人間」の3つがある」と書いてあるのを読んで考えた。

僕ら人間は普通、動物の一員として考えられているが、もっとも原始的な動物は植物と未分化の状態にあるという。とすれば僕らのDNAに植物の要素が蓄積されていることになるのだから、僕らが緑を見てほっとするのも回帰機能が働いて緑に対する憧憬をかきたてているためなのだろう。


「言葉」を習得した人間はそのことで地球の支配者となってしまったが、文明を起こし都市を形成するなかで、既に自然への侵攻を繰り返してきた。
しかし奥深さを懐に持つ地球の大自然は、人間のそういう姑息さをあざ笑ってきたような気がする。


出不精の僕が珍しくカナダ・トロントのオークタウンに短期滞在のために行ったのは20年ほど前のことだが、僕ら夫婦の乗った日航機が夜の北極海上空を通りかかった時の眼下に拡がる黒々とした冷たい風景は、「風景を拒否する風景」とでも形容すべきものだった。その時に僕は「神に祈る」衝動に初めて駆られた。


一昨日だったかの福井新聞に、東日本大震災に絡めた記事として山折哲雄が「祈り」について書いていたのを思い出す。

本日は、プレハブ事務所二階の机など大型家具を運び出していた。男性3人にサポートしてもらい午前中に無事終了。
若い頃は逆三の体で、膂力にだけは自信があった(この腕で抱きしめられることを欲した女性も何人かいた)が、脳内出血で倒れてからは全然ダメ。小さい家具も持てない僕はただしゃべっているだけだった。


終了後、汗を拭きながら見上げれば、青空が広がっている。

うらうらに 照れる春日に ひばり上がり
             心悲しも 独し思へば 大伴家持



万葉集に収録されているこの歌を、近代的自我の芽生えと、大岡信は言っていた。昔はその意味がよくわからなかったけれども、カラダの衰えでアンニュイな気分の進行する今こそよくわかる。

 2011/05/01 (日) 未明に雨音を聴きながら


事務所解体撤去の期日が迫り内部の諸々のあらかたを運び出してしまったので、事務所に寄り付くことが殆どなくなってしまった。つまり雲隠れ人間となってしまったのだが、仕事が実業ではなく虚業に属するものなので、それによる差し支えは特にはない。


けれども、たまに事務所にいると、ひとがやってくる。
これを考えると、期間限定的応接コーナーをどこかに探さなければならないとも思う。


僕は時折、旧金津町のサンマイ跡を訪ねる。サンマイとは死者を葬る場所で行政が火葬場を経営する以前は、各地域にこれがあった。例えば笹岡地区の森のなかにもこれが残っている。


東日本大震災大津波による行方不明者は今だに一万数千人にのぼっているが、彼ら彼女らの遺族にとっての一番の悔しさは生死を分かつ葬送の儀を執り行えないところにあると僕は思う。いや、遺族にとってというより共同体にとってと言うべきか。