2011/07/28(木) 山折氏講演


「山折哲雄・文化講演会」を聴きに吉崎御坊蓮如上人記念館へ昨晩でかけた。(そういう講演会があるなんて全然知らなかった。メールで知らせてくださった〇〇さん、ありがとう)


昔から、ラジオでの対談を聞いたりエッセイを読んだりはしていたが、肉声を聴くのは初めてなので、ミーハー的にドキドキしながら山折さんの登壇を待った。





「今年80の私・山折は老人フリーターです」が第一声だったが、これはゲットだ頂きだ。65歳になったらぼくもこの言葉を使わせてもらおう。


1時間の講演を聞いて強く感じたことが2、3あった。


浄土真宗開祖の親鸞が悪人正機を唱えたのに対して、中興の祖・蓮如(8世だったかな?)は善人正機を唱えた、と山折さんは言う。


親鸞の「悪人正機」の捕らえ方は複雑なのだが、ぼくは三国町の僧侶から聞いた「悪人とは自分が悪人であることを自覚しているひとのことです」という自己評価的解釈が一番なじんでいた。


けれども山折さんは、善悪をあくまでも客観的評価として捕らえ、親鸞のつまり武士階級勃興の時代と蓮如のつまり応仁の乱勃発による民衆の登場の時代との世の中の背景の差による違いだと解説した。
ぼくは、親鸞が思想家で蓮如は政治家だと思っていたのだが、そういう二元論で見失ってしまうことのあることを感じた。というより、ぼくら庶民も歳をとるにしたがって見えてくるものがあるということか。


「北陸路つまり越前から越後までの落日の風景に日本人の原風景・仏教的無常観があり、それに深く関与しているのが親鸞・蓮如・芭蕉・良寛である」と言った。


ぼくの偏見かもしれないが
芭蕉を除く三人は、女性との関りを持ち続けた。
これを下世話に言ってしまえば女好きということでぼくと同じレベルになってしまうが、そうではなくて人間は人間一般であると同時に男性あるいは女性でありそこに永遠の何かを求めたということだ。


吉本隆明さんが若い頃に書いた「共同幻想論」のなかの、自己幻想vs対幻想を彷彿とさせる。