2013年02月

2013/02/28 (木) ベルト穴は四番目

数年前に脳内出血で倒れた僕の体重は、その後遺症で16kg減少した。そしてそれまで使っていたベルトが使えなくなった。





そこで、きょうの午後に百均ショップでベルトを購入した。ある場所でベルトを4cm短くしてもらい試着するとピッタリだ。そばにいた女性が「素敵だわ」と言いながらベルトを指差すので(注・写真)、僕は考えた。


議員でいる間はスーツを着る生活が多く、事実、一部のすきも無い僕の正装が多くの女性たちを魅了した、という噂をよく聞く。確かにスーツはダーバン製だったし靴はイタリアーノ、そしてネクタイを買った覚えはない。すべて女性たちからのプレゼントだった。


けれども今年の6月でスーツとは無縁の生活に入る。軽装のいでたち、つまりベルトがあらわになるのでそこのおしゃれに気を使わなければならない。今は百均ショップでの安物購入だがゆくゆくは本革製にするつもりです。

2013/02/27 (水) 3月議会定例会

本日から3月議会定例会が始まります。

日程は次の通り
2/27  本会議 9時30分開会
会期決定 議案上程
提案理由説明
委員会付託 
3/05 本会議  9時30分開会
一般質問 
  広報編集委員会 本会議終了後
3/06 厚生経済常任委員会 9時30分開会
3/07 厚生経済常任委員会 9時30分開会
3/08 厚生経済常任委員会 9時30分開会
3/11 総務文教常任委員会 9時30分開会
3/12 総務文教常任委員会 13時30分開会
3/13 総務文教常任委員会 9時30分開会
3/21 議会運営委員会 9時30分開会 
3/22 全員協議会 9時00分開会
  本会議 13時30分開会
委員長報告
質疑 討論 採決
閉会 

2013/02/25 (月) 新しい週の始まり

神といひ 仏といふも世の中の
     人のこゝろの ほかのものかは
  源実朝

とても平明でわかり易い。僕に宗教心があるのかないのかあるとしてどの程度あるのかは皆目わからないが、上の歌が真理であることだけはわかる。

実朝は鎌倉幕府二代目の棟梁だ。その二代目がこのような歌を詠んでいたとは驚きだが、貴族に代わって勃興した関東武士団の権力闘争の中心におかれ、しかも貴種であることによって祭祀以外に実権のない象徴的な存在であったということを考えるならば、天皇制における歴代の天皇によく似た地位にあったと言うべきであり、歌詠みにいそしんでいたとしても不思議ではない。
午後にしばらくの間、竹田川堤防を歩いた。


何日ぶりかの晴天で川べりの雪は殆ど融けている。「早春賦」のメロデイが頭の中を流れる。

2013/02/24 (日) 暗くったっていいじゃないか

なんにもせずにゴロ寝していた昨日の昼下がり、お笑い芸人の又吉直樹がテレビに出ていた。なんとか小学校の特別授業で教壇に立った又吉は子ども達に向かって、「暗くったっていいじゃないか」と呼びかけた。彼は太宰治の「人間失格」を盛んに引き合いに出して語りかけていた。僕はまだ読んでいない。きょうは日曜日なので図書館へ行き、かりてこようと思う。

昔から自分の暗さを自覚している僕には、なかなか小気味のよい番組に思われた。
いつ頃だったか、ある高校で手話を一年間教えたことがある。最後の授業を、「君たちはいまから大人になっていきますが、大人になっていくということは、君たち自身が持っている可能性のひとつひとつを消しゴムで消していくようなもんです」という挨拶で終えたのだが、そのあと、担任の先生から「あんな暗くなるようなこと、言わないでください」と叱られてしまったのを思い出す。
ところで
今年のあわら市議選は6月に行われるので、あと四ヶ月だ。立候補予定者の顔もそろそろ見えてきた。僕のところへも選挙の相談でやってくる人が何人かいるのだが、下らないことにカネをかける選挙戦などしてほしくない。議会で何に打ち込みたいかを明確に発信すべきである。私心を持つ人は選挙に出る資格がない。
・・というようなカッコイイことを僕が言えるのも、もう出ないからだ。出ない限り、有権者は王様なのである。

山崎行太郎は、昨日のブログで次のようなことを書いている。

「大久保利通また半年後には惨殺された。江藤信平を斬首、晒し首に追い込み、西郷隆盛を自決に追い込んだ「勝利者・大久保利通」もまた、翌年にはされたのである。僕はこの事実を知った時、かなりの衝撃を受けた。

大久保利通は、西郷隆盛の死後、少なくとも四、五年は生きていて、新政府で実権を揮ったと思っていたからである。では、生き延びて生き恥をさらした山縣有朋や伊藤博文・・・が最後の勝利者だったのか。そんなはずはない。生き恥をさらしただけである。つまり、誰もが死ぬのである。歴史に勝利者などというものはいない。江藤淳の『南洲残影』を読むと、そこには、西郷隆盛を神のように崇め、自己の決断で、西郷隆盛のそばで死にたいと、行動をともにした多くの有能な青年たちの死が描かれている。村田新八、増田宗太郎、桐野利明・・・。僕は、青年たちを喜んで死に赴かせた、江藤淳言うところの「西郷隆盛という思想」こそが、問題だと思う。「西郷隆盛という思想」がわからなければ、歴史の真実も人間の真実もわからない。もちろん、西南戦争に結集した西郷隆盛とその仲間たちを、時代遅れの愚者集団とし考えることの出来ない司馬遼太郎には何も分かっていない。そもそも西郷隆盛は、僧・月照と心中事件を生き延び、徳之島、沖永良部島への流刑を生き延び、そして江戸幕府を倒し、明治新政府の実権を一手に握った、いわゆる「生き延びた革命家」であり、「生き延びた政治家」「成功した永久革命家」である。司馬遼太郎の「通俗歴史読み物」しか読まない最近の政治家たちが、「西郷隆盛になってはならない」とか、「奴は西郷隆盛だ」などと言うのは、根本的に間違っている。そもそも、お前たちは西郷隆盛になってもいない。最近の政治家も政治家を応援・支持する一般市民連中も、勉強がたりない。馬鹿ばかり。巫山戯ている。ちなみに、江藤淳は本名は「江頭淳夫」である。江藤淳の「江藤」は、佐賀の乱を起こし、大久保利通によって斬首、晒し首にされた郷土の先輩・江藤新平から拝借したものである。江藤淳(江頭淳夫)の一族は佐賀出身であり、「皇太子妃・雅子」も江頭家の出である。」

昨年、龍馬を思いながら土佐の桂浜を歩いた時と、先日鹿児島市内の「維新ふるさと館」へ行った時の気分的な違いの理由が少しわかったような気がする。


2013/02/23 (土) 小野小町

うたたねに 恋しき人を 見てしより
   夢てふものを 頼み初めてき
 と歌ったのは、ご存知絶世の美女・小野小町である。

十数年前に東北地方を旅行した時、土地の古老からその地に小野小町伝説のあることを聞いた。彼女は謎の女で「生誕の地」も全国に幾つかあるようだ。

果たして彼女の美貌度はどの程度のものだったのか・・。
楊貴妃の上をいくのか、クレオパトラの上をいくのか、はたまたオードリー・ヘプバーンに匹敵するのか、しかしそういうことを考えても意味がない。何故なら美人の基準は、時代によって変遷するからである。

生活様式も時代によって変遷する。
めぐり逢ひて 見しやそれとも分かぬ間に 
    雲隠れにし 夜半の月影
 と歌った紫式部は石山寺で夜な夜なせっせと「源氏物語」を書いていたのだが、平安時代に電気照明はなかった。菜種油の行灯のそばで書いていた。「日本風俗誌」によると当時は風呂に入るのも高貴卑賤を問わず毎日ではなかったのだから、当然顔は油精分で薄汚れていたことだろう。

2013/02/22 (金) 下宿

昨晩の手話サークルで、「下宿」という単語の手話化が問題となった。
音声言語で概念をはっきりと把握しなければ、手話もあやふやになってしまう。ところが、最近の学生が入るのは、アパートとかマンションであって下宿ではない。つまり「下宿」は死語となっているらしい。死語になれば手話も絶えてしまうのが歴史の必然である。

ひるがえって私が学生時代に先ず入ったのは、明らかに「下宿」。3帖一間で、晩飯がついて一ヶ月¥9000エンだった。隣室とはベニヤ板一枚で仕切られたきりだったのでぼそぼそ声が聞こえてくる。隣室の主は広島出身の武田で、この眉目秀麗の男のもとに時々女性が訪れる。ぼそぼそ声があえぎ声に変わる頃には、「何故同じ男でありながらこんなに差があるんだろうか」と世の女性達を恨んだものだ。

私をご存知のブログ読者のみなさんには信じられないかも知れないが、その頃の私は(現在と正反対で)女性から全く相手にされなかったのである。

相手にされない私が唯一とれた行動は文庫本読書だった。けれども押入れのない3帖間は布団の積み上げにより実質2、5帖間。当然机などというハイカラなものはなく、読書はもっぱら雑魚寝スタイル。その癖は40数年後の今でも変わらない。

2013/02/21 (木) 深夜に鯵フライを食べながら

昨日の全員協議会は午前中で終わった。今議会での提出議案は39件。当初予算を含むので分厚く、物差しで計ったら31mmあった。財政部財政課より配布された「当初予算概要」を見ると、25年度と24年度の比較表が出ていてとても理解しやすくなっている。昨年の下半期、我々「議会活性化委員会」が視察研修も含めて検討会を積み重ねてきたことの成果であると言えるし、今年の6月からの新任期の議員さんがたにとっても喜ばしいことに違いない。

午後、事務所で議案書へのINDEX貼り付けに精をだしていたところへ来訪者あり。
来訪者は、「我々団塊の世代は、社会活動のできる最も上の世代となってきつつある。我々はまちの歴史の勉強をすると同時にそれを次世代に伝えていかなければならない。昔やっていた「わちらの会」も是非再開してほしい」と言われた。・・なんつうか、議員を辞めてからのほうが忙しくなるような気がする。

来訪者が帰ってから、小浜逸郎著:「日本の七大思想家」を開く。そのなかの、小林秀雄と福澤諭吉の項を読んだ。

福澤の項の部分を引用すると
「丁丑公論」(明治十年)は、西郷隆盛が下野して若手の不平士族の突き上げに遂に屈して西南戦争を起こした顛末に絡めて、識者の間ですら逆賊呼ばわりされた西郷を一貫して擁護し、彼のような度量の広い大人物をあのような窮地に追い込んだのは政府の責任であり大きな損失であると、当時の政府を激しく論難した論文である。またこの論文は、よく知られているとおり、福澤が当時我に和あらずと見て発表を差し控え、彼の死後公開されたいわくつきの文章でもある。
いまその当否は措くが、この中に、政府は若き不平士族たちの憤懣をなぜうまく吸い上げて活用せず、武力で制圧してしまったのかという批判が何ヶ所も出てくる。一例を引こう。
『政府は唯無知の小民を制御して、自治の念を絶たしむるのみに非ず、其上流なる士族有志の輩を御するにも同様の法を以ってして、嘗て之に其力を伸ばす可きの余地を許さず。抑も廃藩以来、日本の士族流は全く国事に関するの地位を失ひ、其無卿の有様は、騎者にして馬を殺し、射者にして弓を折たるものの如し。此時に当って政府たるものが巧に間接の法を用ひ、其射騎の力の形を変化せしめて他の方向に誘導するに非ざれば、鬱積極まって破裂に至る可きは、智者を待たずして明なる所なれども、(中略)薩の士族にても、(中略)其性質を尋れば、唯権を好むの一点に在るのみの者なれよく其性質に従て更に方向を示し、間接に之を導いて其赴く所を変じ、或は以って転福の効を奏す可きことある可し。(中略)三、五年以来、世上に民会論の蝶々たるあれば、政府は早く其勢に乗じて事の機を失ふことなく、姑く此民会論を以って天下議興論と見做し、此公議興論に従て士族の心を誘導すれば、名義正しく、人心安く卿の士族も始て少しく其力を伸ばすの地位を得て、其心事の機を転ずるを得可し。政の巧は此辺に存するものなり。』

2013/02/20 (水) 本日は全員協議会

本日は4時半に起床。目玉焼きをつくり、朝食をすませて外に出ると、さらさら雪が舞っている。毎年見る光景だが、死ぬまでに一度、「雪の精」に会ってみたいものだ。



「雪」  三好達治
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ

①眠らせていうのは雪だとずうっと思っていたが、ある時某老女が僕に「三好達治は極端なマザコンやった。だから、眠らせているのは母親や。母親にだっこされながら安堵して眠ってるんや。」と、言った。

②この詩は古語を使っているから、叙情的なんだろう。「ふりつむ」の「む」で、屋根が藁屋根となり、静寂の世界となる。

これが現代語だったら
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつもる。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつもる
となり、「る」がどうしても撥音をイメージさせてしまい、静寂とは程遠い。

CADが一息ついたので、昨日、事務所の整理をしていたら、昨年いただいた郵送物が出てきた。差出人は現在東京在住の三谷彰氏で、このブログを御覧のみなさんの中にもご存知の方は多いのではないか。

2013/02/19 (火) 九州旅行で最後に感じたこと

今回の九州旅行でもうひとつ印象に残ったのが、福岡県の柳川川下り。この舟に乗ったわけではないが、橋の上から乗降場を眺めながら柳川川下りを愛した北原白秋に思いをはせていた。



白秋といえば誰もが知っている童謡詩人である。白秋の親友に、これも誰もが知っている旅と酒の詩人・若山牧水がいて、白秋は牧水の最期を看取った。

末期においてまで酒を欲しがった詩人の
白玉の 歯にしみとほる秋の夜の
         酒は静かに飲むべかりけり
 は私の好きな歌だ。
ところで
下の写真は笑顔の感じがいいのでアップしました。


背後に見える池は柳川御花の庭池である。
古式ゆかしい庭とか滅びゆく民家とか年季の入った人間とか、とにかく古いものはなんでも好きだ。

2013/02/18 (月) 新しい週の始まり

「あれは大きな鐘のような男だ
小さくつけば 小さく鳴り
大きくつけば 大きく鳴る」
と、坂本龍馬は西郷について語っている。

今回の鹿児島への旅で、150年の時の流れを超えて鹿児島県民から相変わらず強く慕われているのが西郷であることを実感した。

生前の西郷を感激させた人物の一人が我が越前の橋本佐内であったことは有名な話で(但し西郷は無類の感激屋だったような気もする)、ならば幕末に名をなした人の背後には名君主の存在が不可欠ということになるのだろう。島津斉彬→西郷、松平春嶽→橋本という関係のように。

明治政府を形作った貢献者としては、西郷と同郷の大久保利通がナンバーワンだと思うのだが、語り部の口からその名前はそんなに多くは出てこなかった。これは死に方の差にもよるのだろう。

変革期のリーダーはどのみち畳の上では死ねない。しかし、大久保がテロでやられたのに対して、西郷は薩摩の若者達の暴走の責任をとって(暴走を西郷は知らなかった)負けるとわかっている薩摩軍の総大将となる。田原坂での激戦を経て西郷たちは城山にこもり、故郷を見渡せるその地で別府晋介の介錯により死ぬ。

西南戦争は薩摩私学校の前途ある若者たちの命を奪ったのだから、西郷にも罪があったと言うべきだろう。しかし当時の不平士族の思いを一身に背負った戦争だったと思えば、美に殉じた行為であったと言える。

但し西郷は九州全域で英雄視されているのではない。例えば隣の熊本県での西郷評価は西郷=侵略者である。西南戦争が熊本城焼失を招いたことによるのだろう。熊本県では城の築城主・加藤清正が英雄視されているからだ。

歴史のエポックには必ず何人かの英雄が出た。しかし、英雄は後世の歴史家による検証を経てつくられる。その時当事者たちは既にこの世の人ではなく、草葉の陰から意見を発信することはできない。

死ねば死にきり(吉本隆明)なのである。

2013/02/17 (日) 昨日の一日

昨晩は中央公民館でDVD・「内部被爆を生き抜く」を見た。この鑑賞会の主催は「原発を考えるあわら市民の会」(窓口・中野)で、約一年前に立ち上がった。

昨日のDVDでは、チェルノブイリと福島を頻繁に往復する4人の医師が、こどもたちをめぐる原状と将来への備えを語っていた。



気になるのは、若い人の来場者が少なかったこと。原発稼動に賛成であるか反対であるかを問わず、原状を知ることは大切だ。これから後も定期的に、ある時は専門家を招いての講演会、ある時はDVD鑑賞会が開かれる。興味のある方は、中野充氏までどうぞ。

2013/02/16 (土) 維新ふるさと館

清酒・「北陸街道今庄宿」


未明に錦江湾内で足湯を楽しむ私。


議員会旅行2日目の14日は、鹿児島市内の「維新ふるさと館」。
島津斉彬・篤姫・西郷・大久保等、幕末に激しく生きた薩摩ゆかりの有名人が展示してあったが、なかでも西郷隆盛の展示が目立った。語り部やガイドが西郷を語る時には特に突出した熱気が感じられた。

有名な「敬天愛人」の掛軸も掲げてあったが、僕は、十数年前、このブログを書き始めたときにタイトルを「議員日記」ではなく、「敬天愛人」とした。この言葉の持つ意味をしっかりと理解したわけではなく、なんとなくかっこいいという思いで「敬天愛人」としたのだが、当時の読者から「愛人」の意味を曲解され揶揄されそのタイトルを止めてしまった思い出がある。

議員会旅行2日目の15日は、ご存知加藤清正が築城した熊本城。


後に細川家が入ったが、幕末越前の名君主・松平春嶽の奥方が細川家から来たので、福井市と熊本市は姉妹都市を提携している。

2013/02/15 (金) 議員会旅行

今回の議員会旅行で最も印象に残ったものが、鹿児島県・知覧特攻平和会館訪問だった。太平洋戦争末期の沖縄戦で特攻戦死した隊員は1036名。知覧が特攻基地であったことから、特攻平和会館には出撃した隊員の遺品・遺書などが展示されている。

島尾敏雄の「旅立ちは遂に訪れず」や石原慎太郎制作総指揮映画・「俺はきみのためにこそ死ににいく」などで特攻という愚挙のあったことは知っていたが、盧溝橋から始まった日中戦争→太平洋戦争そのものが愚挙であり、一億玉砕の熱気を煽った当時のマスコミの姿勢の必然の帰結として出てきたのではないかと思うと、特攻で死んだ1036名の若者の死を、無駄としないことは、不戦の誓い=憲法第9条を守り抜くことであると僕はどうしても思ってしまう。

尖閣諸島や竹島問題あるいは北朝鮮の核ミサイル実験などで東アジアの緊張が高まっているのは事実であり結果として憲法第9条の見直しが喧伝されているが、それはあくまでも自衛力の強化に尽きると思う。絶対に戦争をしてはならない。

それは、戦没者遺族の悲しみを思う時よみがえってくる詩のひとつが、竹内浩三・「骨のうたう」だから。

骨のうたう(1942年

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰ってはきましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった

ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまう
その心や

語り部から悲話「ホタル」を聞いた僕は石碑の前で写真を撮った。

2013/02/13 (水) 深夜に書くブログ

昨日も、何人かの人が我が事務所を来訪。うち一人が今年のあわら市議選立候補予定者で、彼は選挙に関する諸々を長い時間語った。そこで私は「貴方の公約はなんや?」と聞いた。

彼が
①議員報酬減額、②安心・安全なまちづくり、と言うので、僕は、「③歴史のみえるまちづくり」を付け加えてほしいなあ、と言った。

それはともかく
明日、このブロクを書き込むことができません。(できたら)INDEX・「声の広場」に書き込みますので、ご高覧ください。

2013/02/12 (火) ちょっと思ったこと

このブログも余命数ヶ月だと思うと、寂しい気持ちが少しはある。十五年程前に僕が金津町町議になった時、町議選でウグイス嬢をしてくれた方の夫から「これからの議員はブログ発信が義務」と言われて、書き始めた。

初めのうちは、毎日、議会のことを真面目に真面目に書いていたのだけれども段々疲れてきた。そこで軌道を修正することにした。
・・題して「半径10km以内でみかけたことの観察日記」。
要するに、情報発信ではなくて、感じたことを(読者が不真面目だと思おうが思うまいが意に介することなく)そのまま書こうと思い至った。ついでにタイトルを「議員日記」から「徒然日記」に変えたら、メールや市政掲示板に「あんたは議員や。タイトルを変えたらあかん」という意見が幾つか入ってきて、すぐにタイトルを元に戻した。

「市政掲示板」への多数の方の書き込みで印象に残っているのは、7年ほど前。
市内の中学校・・「2校存続」か「統合」かで議会が対立し、市民が時の市長リコールの署名運動をしていた頃だ。

あわら市の掲示板はその混乱故に閉鎖され、とばっちりがこちらにまわってきて、僕はしんどかった。ともあれ、自分が議員でいる間に最も心に残ったのは、金津町&芦原町の合併問題と並んで中学校問題だった。

2013/02/11 (月) 金柑を食べながら

曽野綾子著:「非常識家族」を読み終えた。冗談なのか真面目なのかよくわからないエッセイ集で、沖縄問題を論じている章を除けば総じて、面白く読めた。「面白く」の意味は、何が常識で何が非常識か、自分ではよくわからないものだから、結局は自分の思うところに従って勝手に行動している家族の日常のエッセイ集(勿論曽野家がモデルなんだろう)。

厄介なのは
自分勝手といっても、群れの生活を営むのが、(山頭火などを別として)人間の宿命なので、どうしても摩擦が生じる。その場合には声の大きいほうが勝ち、私のように遠慮がちの人間は一歩身を引いて我慢してしまう。それが続くとストレスが生じるので、時には下の写真のように冬の日本海の荒波を見に行き、沖合いの中国大陸に向かって「バカヤロー」と叫んで溜飲を下げるのである。

溜飲が下がると、「さあ、きょう一日有意義に過ごそう」という気分が出てくる。
とは言ってもしなくてはならないのはCADだけで、僕には趣味というものが昔から無い。強いて言うならば旅なのだけれども、旅は金がかかるのでできない。そこで、近年は、地理の旅の代わりに歴史の旅にいそしんでいる。
ということで、CADに疲れた僕はテレビで「豊臣家滅亡」を見ていた。
信長の妹・お市が嫁いだ浅井長政は信長と決裂したために、信長軍によって殺されるのだが、お市及びその三人の娘茶々・初・江は小谷城を後にする。ここから三姉妹の悲劇が始まる。
柴田勝家と再婚したお市は、羽柴秀吉に北の荘城を攻められ、天守閣で夫と共に爆死する(もっとも、「ふるさと語ろう会」顧問・中島道子氏によれば異説があるのだが・・)。

それから幾星霜。
茶々は秀吉の側室となり、江は家康の息子・秀忠に嫁ぎ、初は(確か)京極高次に嫁ぐ。その後いろいろあって西暦1615年の大阪夏の陣で、茶々は息子・秀頼と共に死ぬ。
江の祈りも空しく、初の仲介の労も空しく天に昇る。僕は茶々の最後は「家康憎し・豊臣家に対する殉職」と思っていたのだが、テレビではコメンテーターが異説をしゃべっていた。

「茶々は豊臣家に殉じたのではない。母・お市が現世で唯一愛した浅井長政と兄・万福丸を殺した秀吉を決して許さなかった。だからこそ羽柴から豊臣へと姓を変え
この世をば 我が世とぞ思ふ
    望月の欠けたることの なしと思へば

と藤原道長のように豪語していた秀吉に対して持った感情は憎しみだけだった。つまり、大阪城落城=豊臣家滅亡をしかとマナコで見ることが冥土への土産だったのだ」と、語っていた。

どうでもいいことだが、秀吉が亡くなった後、茶々は操を守っていたわけではあるまい(江戸時代が儒教を取り入れるのはもっとあとだ)。茶々の愛人は大野修理だったという説がある。

不肖・牧田がこの世を去ったあと、「牧田の愛人は誰だったのか?」という憶測があわら市内をかけめぐるだろう。しかし、真実は本人だけが知っている。

2013/02/10 (日) 日曜日の朝に

文藝春秋9月号に、武術研究者・甲野善紀と整体指導師・奥谷まゆみの対談「日本人のからだ」が載っている。

甲野と奥谷の主張は
①今の日本人は、身体の使い方が下手になった。
①重心が上にあがっている
①昔は家庭の中めで電化製品が入っていなかったから殆ど人の手でやるしかないし、こどもも十歳になる以前から手伝わざるを得なかった。腰を司令塔として身体全体をうまく統御する身体の使い方を覚えた。
①荷物を運んだり拭き掃除をするときは、当然、身体が疲れない方がいい。だから疲れない身体の使い方を自然と身につける。しかし筋力とトレーニングは早く疲れさせて、それによって筋肉をつけようとする。これは下手な身体の使い方で負荷を大きくし、筋肉をつけようとしている。
・・というふうに続いていくのだが、結論として、高度経済成長以前の日本人のからだにはしなやかな動きがあったと言っている。

私の妻は、「日本人と西欧人では腸の長さが違うのだから、過度の肉摂取は体によくない」等々、常々、私に対して食生活に関する薀蓄を傾ける。まさに正論だと納得して、彼女の意見のひとつひとつに深くうなずく私だが、「一番悪いのは酒・煙草。それを辞めることができないのは、意志力の弱さや」という最期の言葉にいつもうつむいてしまう。
プアな私は、毎月、元あわら市議・Y氏からいただくひと月遅れの「文藝春秋」を読んでいる。
これを書いている矢先、そのY氏から電話があって「おーい、きのうのブログの「文藝春秋9月号」は2月号の間違いやぞー」と言われたので訂正します。
私は、いつも持ってきてくださるY氏を尊敬していますが、これに上質の酒が加われば、もっと深く尊敬することになるでしょう。

22013/02/09 (土) 無題

昨日の午前中は、福井市役所・建築指導課に於いて、建築確認申請業務に精を出す。僕が頻繁に出入りしていた30年前と比べて、スタッフの顔も一新され受付のシステムも大幅に変わっていた。「10年一昔」というから、三昔になるので、無理もない。

夕刻にあわら市庁舎に行き、所用を終えてを出て自宅に戻る為、駐車場に留めてあった車を動かそうとした時、見知らぬひとに呼び止められた。
「お話したいことがあります」と言われて事務所に招いたのだが、そこから一時間半くらい深刻な話が続いた。

午後7時、男性3人が来訪。9時前に散開。
きょうは早朝から事務所の模様替えにいそしんでいます。
午後一番で、「ふるさと語ろう会」・事務局長のK氏来訪。本年度の事業計画の素案を話し合った。議員生活に別れを告げたあと、一生懸命になりたいことのひとつだ。老若男女を問わず興味のある方は、ご連絡ください。

2013/02/08 (金) 夜明けに

昨日、僕は坂井市の議員に議員バッジをプレゼントした。又、身が軽くなったような気分。不要なものを捨てるのは大切なことで、思い出がたまっていけばそれで十分だ。思い出も、楽しい思い出だけがたまればいいのだが、神様は人間の脳髄をそのようには施工しなかった。楽しさと悲しさの両極は、顕在か沈殿かのどちらかであるに過ぎない。
思うに、光は闇の存在によって、美は醜の存在によって、善は悪の存在によって知覚されるのである。

今朝は3時半に起床し新聞を読み終えてから雑煮を作った。餅をハサミでゴルフボールくらいの大きさに切り込んでから煮込むので、すぐに柔らかくなる。ということは、電気の節約になる。脱原発の社会を目指すための選択肢の一つだと思う。

2013/02/07 (木) ちょっと思ったこと

今朝は、CAD三昧。午後1時半からは、坂井地区広域連合議会。終了と同時に福井市役所の建築指導課へ向かった。

建築指導課では沢山の職員が働いている。彼ら彼女らは、建築指導課に配属されて、そこで何十年かを過ごす。当然、建築基準法のスペシャリストとなり、そして定年を迎える。一種のシンクタンクなのだから、福井市民にとっては、いいことだ。

けれども、と僕は考える。
スペシャリストは直訳すれば専門バカだ。翻って、僕のように幾つかのことにタッチしてきた人間は、底浅バカと呼ばれている。要するに、どちらを選ぼうと衆愚を抜け出せないのが人間なのだが、僕はそういう道を選んでよかったと思っている。
午後9時半、手話サークルの面々がやっと帰った。ウイスキーを口に含んでいると、素面の時よりもなめらかに手が動く。不思議といえば不思議だが、当たり前といえば当たり前だ。

2013/02/06 (水) 散髪を終えて

昨日は忙しい一日だった。
朝は所用で福井市に行き、12時になってから某女性と共に中華料理店で会食。
午後は「坂井地区広域連合介護保険常任委員会」に臨んだ。

委員会付託案件は下記のものだったが
 
 議案第2号 平成24年度坂井地区広域連合介護保険特別会計補正予算(第5号)
 議案第4号 平成25年度坂井地区広域連合一般会計予算
 議案第5号 平成25年度坂井地区広域連合介護保険特別会計予算
 議案第7号 坂井地区広域連合指定地域密着型サービスの人員、設備及び運営に関する基準を定める条例の制定について
 議案第8号 坂井地区広域連合指定地域密着型介護予防サービスの人員、設備及び運営に関する基準を定める条例の制定について
 議案第9号 坂井地区広域連合指定地域密着型サービス事業者及び指定地域密着型サービス事業者の指定に関する基準を定める条例の一部を改正する条例の制定について 
 議案第10号 坂井地区広域連合障害者介護給付費等の支給に関する審査会の委員の定数等を定める条例の一部を改正する条例の制定について

付託案件以外の「その他」で、「平成24年12月末現在第5期介護サービス拠点整備・運営事業者決定一覧表」についての説明を受けた。
それによると、例えば「認知症対応型通所介護」で、生活圏域毎に決定or未決定がばらばらだ。圏域毎に需給の比率に差があることと、事業者の立場での運営のむつかしさがあるのだろう、と思いながら、委員会終了後は控室でラーク9mgを一服。
僕が今年6月で議員を辞めることは既に坂井市の議員連中にも知られているらしく、その控室で、「牧田はん、議員辞めてから何をするんや?」と口々に聞かれた。選択肢は幾つかあるが、それは辞めてからじっくり考えることとしたい。

夜、自宅に戻ってから、チョコレートを食べた。某女性からの誕生日プレゼントである。「おいしい」の一言に尽きる。(彼女はこのブログを読んでくれているのだろうか)。



チョコレートを味わったあとはアルコールだ。

こうして僕は徐々に病魔に犯されていくのだが、それでいい。

割腹自殺した小説家・三島由紀夫も著書:「金閣寺」で「我々が突如として残虐になれるのはうららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に木漏れ陽が戯れているのをぼんやりながめているような、そういう瞬間だ。」と語っている。

2013/02/04 (月) きょうは坂井地区広域連合議会

昨夕は、パレスホテルで、民主党幹事会が開かれた。


幹事会が終わってからの懇親会で、僕はテーブルの前に座っていた福井県議・糀谷さんの顔を見て昨月に書いたブログを思い出した。そして、糀谷さんとの間で話が盛り上がった。

今年1月16日の僕のブログの文章が次のようなもの。

「本日の福井新聞18面の寄稿欄に「敦賀の名称1300年㊤」が載っている。
お袋が敦賀の出身なので、僕にとって敦賀は第二のふるさと(ついでに言うと第三のふるさとは沖永良部島)だ。
この文を模写した。
江戸時代には北前船の中継基地として、戦前には「東洋の波止場」として、古来、国内各地域は無論のこと、アジア大陸を結ぶ公益拠点として殷賑を極めた敦賀港。昨年は、敦賀・長浜間に日本海の鉄道が開通して130年など、三つのアニバーサリーが同時に到来した。そして今年、「敦賀」と名付けられて1300年を迎える。名の変遷を探った。
◆角鹿郡の誕生◆
7世紀の後半、日本は中国・唐の法律体系である律令を取り入れた。律は罪人を罰する法律であり、令は政治上の掟のことである。律令にもとづいた中央集権的な政治体制である律令制のもと、地方の行政は、国・郡・里(715年からは郷)となる。これらは現在の県・市あるいは県・郡・町(村)という組織にあたる。
日本の律令制は701(大宝元)年に作られた大宝律令によって完成したとされる。大宝律令の施行によってそれまでの越前国角鹿評が、角鹿郡として、律令制にもとづく地方行政区画に編成されることになった。
大宝律令の運用は、645(大化元)年に始まる大化改新と呼ばれる一連の政治改革を通して、半世紀に渡り模索されてきた中央集権的な国家の青写真が完成したことを示す。「律令の興り、けだし大宝に始まる」と回顧されるのは、大宝律令の歴史的意義を端的に表現している。
◆記紀に登場◆
ところで、角鹿が含まれる越前国はいつ成立したのであろうか。越前国を史料に初見するのは692年、「日本書紀」の持統天皇6年条においてである。これは越(北陸)地方で、まず越前国が置かれたことを示し、その後、越後国や越中国が置かれたと考えられる。
大宝律令が発布されて9年後の710(和銅3)年、元明天皇の時、藤原京から平城京へ遷都される。「咲く花のにおうがごとく」と歌われた日本初の本格的な首都の誕生である。2010(平成22)年は、「平城遷都1300年祭」が奈良を中心に展開された。
また昨年は、現代に伝わる日本最古の歴史書「古事記」が完成して1300年の節目であった。そして、日本最古の正史でもある「日本書紀」は7年後の2020年に完成1300年を迎える。
二つは合わせて「記紀」と呼ばれ、記述対象時期や記述法などに違いはあるが、ともに国生みから、有名な岩屋戸、稲羽の素兎、ヤマトタケルの熊蘇退治など、豊かな表現で描かれている。現在の敦賀や福井県とゆかりのある人物や事象も語られている。
◆角のある人◆
「この蟹や 何処の蟹 百伝ふ 角鹿の蟹 横去らふ・・・」
「古事記」に登場するこの歌は、15代応神天皇が美しい姫を見初めた喜びを表した歌である。角鹿つまり敦賀の蟹と言えば、今では「越前蟹」というブランド品。カニをキーワードに古代と現代がつながっている。
「古事記」仲哀天皇の段に、角鹿の仮宮にいた太子(応神天皇)に気比大神が奉ったイルカの血が臭かったために血浦といい、それが「都奴賀」になったとある。
「日本書紀」垂仁天皇二年の条には、崇神天皇の時「意富加羅国」(朝鮮半島)の王子「都怒我阿羅斯等」が越国の笥飯浦に来着したが、額に角があったので、この地を角鹿と称したと記す。
越国というのは、越前・越中・越後に分かれる前の北陸地方のことであり、笥飯浦は気比神宮のあたりの海岸である。角がある人にちなんで角鹿というようになったーこれこそ、ツヌガの地名起源説話と言われるものだ。

著者が福井県議の糀谷さんであることにびっくりした。糀谷さんとはいろんな会合でご一緒するが、「気比史学会」会長であることなどついぞ知らなかった。

ふるさとの歴史を知ることが、ふるさとを愛することの土台となる。その意味で、今年6月のあわら市議選には、その方面に造詣の深い人がひとりぐらいは出て欲しいと思う。」

盛り上がって楽しかったのけれども、パレスホテルへ車で来た僕はテーブルに並べられたビールを飲むことができない。つまみだけ食べても当然物足りない。「やっぱりコミニュケーションはノミニュケーションだ」と思い、中座して家路を急いだ。

2013/02/03 (日) 昨晩から今朝にかけて

昨晩は、芦原温泉某旅館で、坂ノ下区八幡会総会及び親睦会。さしつさされつの話の内容に結構考えさせられた(酒はドイツワイン)。


坂ノ下区の旧北陸道ゾーンを「刻(とき)の道」とすべきだという某住職の意見には、その理由に説得力があって、なるほどなあと思った。

明けて今朝は、佼成会あわら支部。私は、明社あわら支部会長の立場で、節分にまつわる挨拶を次のようにした。

「きょう2月3日は節分で、節分の豆まきは勿論鬼を追っ払う儀式。

私は5日前の1月30日に64歳になったが、若い頃から「鬼瓦みたいな顔をしてる」と言われ続けてきた。それにもかかわらず女性にもてるのが不思議だった。実は、それが原因で、鬼に対しては密かに親愛の情を持っいる。

例えば、岡山県には、桃太郎伝説がある。桃太郎は、雉子と猿を従えて鬼ヶ島へ鬼退治に行き、格闘して勝利し、宝物をリヤカーに乗せて自宅へ帰る。その宝物を、育ててくれたおじいさん・おばあさんに渡し、又、近所の人たちにおすそわけして、めでたしめでたし・・、という伝説だが、私は昔から「おや?ちょっと待てよ」と思っていた。鬼ヶ島という鬼だけが暮らす平和な島へ行き、宝物を奪うというのは侵略じゃないかと思ったわけだ。仮に鬼が瀬戸内海周辺の人たちから奪ったものであるとしても、それならば自宅に持って帰らずに瀬戸内海周辺の人たちに返すのが当然だと思ったわけだ。自宅に持って帰れば明らかに強盗だと思ったわけだ。

私は今から30数年前に「泣いた赤鬼」という劇の舞台に出たことがある。その時は赤鬼の役で、福井県内、四つの会場で公演した。
あらすじを言うと、山里に住んでいた赤鬼は里の村人たちと仲良くしたいと考えていたが、村人たちは鬼を乱暴狼藉者と思って近づいてきてくれない。そこで親友の青鬼と相談し、やっと村人たちと仲良くなることができた。
だけど、そのあと、青鬼は赤鬼の前から姿を消してしまうのである。自宅玄関に貼り紙をして姿を消してしまうのである。その貼り紙には、「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、僕が、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもわかりません。それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大切にしてください。僕はどこまでも君の友達です」と書いてあった。
それを読んだ赤鬼が降りしきる雪の中に倒れ込んで、ワーワーと泣き崩れるのがラストシーンで、それがとても印象的だった。
金津の中央公民館でこの公演をやったあと、会場を出てきたある観客の人に、「僕は何の役をやっていたと思う?」と聞いたら「黒鬼でしょ」と言われたのが面白かった。

勿論、一寸法師に出てくるような悪い鬼もいるわけだが例えば「瘤取り爺さん」の鬼もいい鬼として描かれている。