重松清著「峠うどん物語」を読み終えた。上下二巻で計508頁はかなりの厚さ。若い時ならともかくこの歳になってくると、長編を読むだけの気力がなくなってくる。手足の、肌の、眼の、発声の衰えは、閉じこもりしていればいいだけの話で一向に気にならないが、読書気力の衰えはちょっと悲しい。重松の本とは当分さよならということで、昨晩は山本一力著「銀しゃり」(寛政年間の江戸前寿司職人・新吉の話)を読んでいた。
コーヒーブレイクの時、パソコンで「松岡正剛の千夜千冊」を開いて、小出裕章「隠される原子力」に出くわした。小出京大助教は9月15日に福井市中央公園で開かれた集会でも挨拶していたし、二年ほど前には講演も聴いた。大体において、原子物理学の話など、ある程度専門的に勉強した人以外の我々庶民にはわかるものではない。
だから私は、内容以外のところで感じられる彼の話しぶりから、誠実な信じられる人だと判断した。
以下は松岡正剛の「隠される原子力」についての解説の抜粋(というか、私の印象に残った部分。)
・・原子核には陽子と中性子がつなぐ結合力がある。この結合力を爆発的に解放させるのが核分裂で、このエネルギー解放の原理のしくみの研究から核兵器も原子炉も生まれた。
解放とは言うけれど、実はエネルギー誘導の原理と言ったほうかがいい。人類はその誘導に成功したマンハッタン計画によって禁断のルビコンの河を渡り、原子核にエンジニアリングの手を入れてしまったのである。
そのエンジニアリングをまとめて原子核工学という。
原子核工学は、原子物理学と原子核物理学を基本に、放射線および放射性物質を何らかのエネルギー・システムにいかすために探求されてきた。それゆえこの領域の入口は原子核物理における質量とエネルギーの関係をはじめ、核物理のイロハに理論的にもとづいているのだが、ということは、ここには「原爆と原発」という“双生児の原理”が必ず説かれているのだが、しかし本書がそうであるように、ふつうは原子核工学のメインになっているのは原子力発電の基本原理の技術化を詳述することにある。
どんな原子炉を設計し、どのように管理するかということが、原子核工学の長きにわたった目的だったのだ。これはアイゼンハワーの「平和のための原子力」という方針を受けたものでもあった。
原子核工学や原子炉をとりまいて、核問題が技術的にも社会的にも大きく広がっている。もともとは原水爆をめぐる議論からスタートしたのが日本における核問題で、そこにはいまや原発事故から放射能汚染問題まで含まれる。
世界で唯一の被爆国となった日本の核問題の歴史と展望については、当然ながらいろいろ類書があるが、公平にみて本書が最も広いテーマをわかりやすく、かつ一貫した思想によって扱っている。執筆陣も原水禁の和田長久・宮崎康男、高木仁三郎がつくった原子力資料情報室の西尾漠・勝田忠広・澤井正子をはじめ、小出裕章・今中哲二・小林圭二らの“熊取組”などが顔を揃えて、ていねいな解説を試みた。
第1部で「原子とは何か→核分裂と核融合→ウランとプルトニウム→放射線→放射性崩壊と半減期の意味→核燃料サイクル」という順に基本が解かれ、第2部で核兵器の大半の現状が説明され、第3部ではアメリカ・ロシア・中国からインド・イラン・パキスタンの核開発戦略のあらましが、第4部で原子力発電のしくみのABCがプルサーマル問題にいたるまで解説されている。
ぼくの実感からすると、最終ページに日本被団協や広島原水禁の代表を務めた森滝市郎の核絶対否定論がとりあげられているのが象徴的だった。
この本の著者は1965年に東京電力に入ったのち、中越地震のときに事故をおこした例の柏崎刈羽原発の所長を1995年から2年間務め、その後は東電の原子力本部長になったという経歴をもつ。これでわかるように、著者はあきらかに原発推進派の中心人物の一人なのである。
だからといって、この本が原発まるごとの安全宣言をしているわけではない。むろん危険だという警告をしているのでもない。何が起これば危険で、だからこういうふうに制御するのだということを技術のほうに寄りながら、ぬらくらと、しかし平易には書いている。安全と危険が隣り合わせであることも、あまり熱心ではないけれど、とくに隠しだてもせず書いてある。
どこかで原発推進派の啓蒙書ともいうべき本を読んでおこうと思って物色したもののうち、この本が最も平均的に感じられたのでざっと読んだのだが、件の広瀬隆(1448夜)のものなどまったく読んだことがない読者がこの手の本を読めば、原発がとてもマイルドなプラントのように感じられてしまうように書いてある。原子力発電の問題を、巧みに溝にはまらないように、また言いまわしも意図的にエレガントに扱っているのである。
上記の榎本聰明『原子力発電がよくわかる本』は、いわば安全と危険のレベルを巧みにホゾを合わすように書いていたのだが、つまりグレーゾーンを巧みにすり抜けていたのだが、本書は原発設計者がはっきりと「原子炉は本来が危険なものであってあって、安全ではない」という立場を貫いている点に最大の特徴がある。
とくに、原発は「安全になっている」のではなく、「安全にできるようにしてある」にすぎないと言っている姿勢がいい。だから、著者はこう言うのだ、「原発ではできることをしないかぎり、いつだって安全ではない」。
ほぼ専門レベルの話がぎっしりつまっているのに、妙におもしろかった。かつての京都大学原子炉実験所長で、KUR(京大炉)の設計責任者だった著者が、当時をふりかえってかなり縦横無尽に原子炉談義をしたもので、月刊「産業とエネルギー」という雑誌に連載されたエッセイをまとめた。前身が『原子炉お節介学入門』(2000・11)で、本書はその新版だ。
談義はあくまで原子核工学ふうなのである。一応はエッセイ調になってはいるのだが、内容はかなり細部にわたる。だから大小の技術論が400ページに及ぶ大半を埋めているのに、すらすら読めて妙におもしろい。
おもしろいというと誤解を招くだろうから言い換えておけば、原子核工学のみならず、工学の深部のツボを十全に心得た本になっている。本人は、事故はたいてい「つまらないこと」でおきるものだが、本書はその「つまらないこと」をできるだけ多く説明しようとしたと書いている。
とくに「危険の兆候は決してデジタルにはやってこない」ということを、さまざまな例を通して繰り返しのべているあたり、この著者の真骨頂があった。いったいどんな御仁だったか知りたいものだが、巻末に人物評を寄せた内田岱二郎はたんに「とにかく口の悪い人だった」と言っているだけで、なんの参考にもならなかった。
おそらくは観察眼がめっぽう鋭く、つねに自分がその対象やしくみにかかわったときは何をすればいいかを考え続けてきた御仁だったのだったろう。わが編集工学的にいえば、つまりは「お題をたてる名人」だったのだろうと思われる。
一例を紹介しておく。
過日、著者がベルギーのモル研究所を訪れてBR-2という高中性子束の材料照射用原子炉を見学したと思われたい。2000人ほどの所員をかかえる研究所だった。
当時のBR-2は軽水減速の炉心が6万キロワットほどの大出力炉で、その減速材の中に照射用ループを設けて、高速炉の燃料の照射試験をしていた。この燃料は自身の核分裂のため高温になっていく。そこで冷却しなければならない。モル研では高速炉と同様にナトリウムを流していた。著者はこんなものを炉水の中に入れるのは大変だろうと推理して、きっとループ構造に工夫があるのだろうと思い、そのことについて質問してみた。0・6ミリの薄肉のステンレス管で作ったという。
では、当然、溶接しているのだろう。そのころの日本では0・6ミリを溶接したものをこの手の複雑きわまりない設備に使える技術はない。「よく二重管を溶接できましたね」と褒めたら、「いや、一重管です」という答がかえってきた。衝撃的だった。
柴田は気をとりなおして重ねて聞いた。どのくらい照射するのですか。「わからない」と言う。質問の英語が悪かったのかと思いまたまた聞いてみると、「燃料が壊れるまで照射する」のだと言う。ここで柴田はギャフンとなった。
二重管ならばそのあいだに漏れ検出のためのセンサーを設けないといけないだろうが、炉心からの水と内部からのナトリウムの両方の漏れをチェックできる検出器を管の中に設置するのは不可能だという判断が、モル研にはあったのである。そう言って、担当者は「ねえ、そうでしょう」とニヤッと笑った。著者はこの笑えるほどの警戒と自信がどこから出てくるのか関心をもった。
帰国後、さまざまな実験をした。炉心容器の円筒は内側が軽水で、外側は重水である。こちらは水漏れセンサーを一番下方に設ければいい。ナトリウムのループ管を作っていろいろ試みると、漏れが部分的な欠陥から噴水状に出てくることがわかった。モル研ではこれらのことをすべて試したうえで一重管でいけると確信したのだったろう。
著者はあらためて考えた。これらのことをクリアするには、これらのことを組織全体が認識できていなければならない。われわれは、そのような組織をつくりあげるために、つねに工学的な問いを発し続けてきたのだろうか、と。
機械は責任をとらない。スイッチを入れるのもオフるのも人間なのである。原子核工学といえども、献身的な努力とそれに見合う組織対応がないかぎり、機械を動かすことにはならない。それでも事故がおきたときは、すべての責任を人間と組織がとるべきなのである。
フクシマの原発事故にかぎらず、事故のほとんどは人災なのである。それを誰も言い逃れすることは許されない。
日本の反原発の科学技術者として、最も良心的でラディカルだろうといわれているのが小出裕章である。KUR(京大炉)を作った柴田俊一が親分だった京都大学原子炉実験所の助教だが、1949年生まれで実績も十分なのに助教のままであるのは、37年間にわたって助手に据え置きされているということであり、ここには当然、その昇格を阻むものが大学人事にあるからだ。
もっとも小出はそういう立場にいることに呆れてはいるものの、不満があるわけではないらしい。仲間もいる。京大原子炉実験所は大阪府泉南の熊取町にある。そこで「熊取六人組」と呼ばれているのだが、この6人組が仲間なのだ。海老沢徹・小林圭二・川野眞治・今中哲二・瀬尾健(故人)。いずれも筋金入りの反原発派の面々だ。
柴田の組織のもとにこのような6人が登場してきたことについては、ぼくが知らないさまざまな事情があるのかもしれないが、それでも京大原子炉実験所が研究組織として機能しつづけているというのは、たいへんユニークなことである。ただ反原発派はみんな似たような境遇に置かれることになっているらしく、大学の中ではちょっぴり不遇をかこつのである。しかしそれが仲間だと思えば、小出は平気なんだと言う。
ちなみに京大にはこのように反原発の原子力研究者がいるのに対して、東大には一人もいないとされている。原発廃絶のために原子炉研究を続けているのは京大だけなのだ。小出自身は1970年10月に女川町で開かれた原発反対集会に参加したときに、反原発の道を歩み始めていた。
その小出が単著として初めて世に問うたのが、本書『隠される原子力:核の真実』だった。原子炉研究者の反原発論として注目された。
それから僅か数カ月で3・11となり、福島第一原発メルトダウンがおこった。政府も東電もそのことを隠していたが、そのうちバレた。まさに原発は小出お見通しのとおりの「隠される原子力」だったのである。
その後、小出の本は各社が競うようにして次々に出た。『原発のウソ』『原発はいらない』『原発のない世界へ』などなどだ。週刊誌や講演会にものべつ引っ張り出された。
ところが、それらの本はすべて講演やインタヴューや対話で構成されていて、小出がしっかりと文章を練り上げてはいない。そこは柴田とはまったく違うのだ。そのためときどき話題や論旨が前後したりする。
これだけの本気の筋金入りがどうして決定打を放たないのだろうと思っていたが、おそらくゆっくり書いている暇などはなく、そんな気持ちにもなれないのであろう。また執筆よりは実践なのでもあろう。ぼくも、この人はそういう人なのだと納得した。それでも、これらの本のどんな本の端々にも小出の哲学や技術観は鋭く突出しているし、とくに原子炉を扱う研究者としての痛哭に近いほどの責任の重さは、どのページにも滲み出ている。
小出は好んでマハトマ・ガンジーの墓碑に記されている「七つの大罪」を引く。よく知られているだろうが、こういうものだ。もし知らないのだったら、よくよく味わってほしい。「理念なき政治」「労働なき富」「良心なき快楽」「人格なき知識」「道徳なき商業」、そして「人間性なき科学」「献身なき崇拝」である。
小出とともにあらためて言うべきだ。いま、日本全部がこの大罪とのみ闘うべきである、と。
こうして全共闘闘士としての姿はいっさい見えなくなったのだった。本来の科学史の深部に降りていったからだった。
その山本がついに現実社会に向かって発言したのがこの小冊子である。「みすず」に原発事故についての文章を求められて原稿を書いてみたところ、つい長くなってきたので、連載にでもしてもらおうとおそるおそる提案したら、それなら単行本にしましょうと言われて刊行されたものらしい。
中身は一言でいえば、日本が原発開発と設置にしゃにむに向かっていった事情に静かに「待った」をかけている本である。
とくに思想的に新しい見方が書いてあるのではない。とくに新しい科学思想が述べられているのでもない。反原発派ならはたいていは知っていることが淡々と述べられて、途中に吉田義久『アメリカの核支配と日本の核武装』(編集工房朔)、鈴木真奈美『核大国化する日本』(平凡社新書)、ジェローム・ラベッツ『科学神話の終焉とポスト・ノーマル・サイエンス』(こぶし書房)、高木仁三郎『プルトニウムの恐怖』(岩波新書)などを引きつつ、山本が原発事故を引き起こした科学技術の近現代史をふりかえるというふうになっている。
最後にぽつりと提示される言葉は「原発ファシズム」だ。
これは佐藤栄佐久が『知事抹殺』(平凡社)や『福島原発の真実』(平凡社新書)で国のやりかたを徹底批判したこと、および菊地洋一が『原発をつくった私が、原発に反対する理由』(角川書店)のなかで、原発は「配管のおばけ」だと言ってのけたことなどを受けて、日本の政治と経済がまるごと推進してきたのは原発ファシズムとしか思えないというところから出てきた言葉であるが、この批判用語は山本にしてはいささかおおざっぱであった。
それよりも山本義隆が次のように断定してみせたことのほうに、やっぱり説得力があった。要約して、次のような主旨だ。
「‥原発の放射性廃棄物が有毒な放射線を放出するという性質は、原子核の性質、つまり核力による陽子と中性子の結合のもたらす性質であり、こんなものを化学的処理で変えることはできない。核力による結合が化学結合にくらべて桁違いに大きいからだ。‥ということは放射性物質を無害化することも寿命を短縮することも不可能だということだ。‥とするならば、無害化不可能な有毒物質を稼働にともなって生み出しつづける原子力発電は、あきらかに未熟な技術と言わざるをえない。‥ヒロシマとナガサキとフクシマを体験した日本は、ただちに脱原爆社会と脱原発社会を宣言し、そのモデルを世界に示すべきではあるまいか」
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