2013年10月
2013/10/31 (木) 10月最終日

若い頃は体の傷はすぐ癒えるが心の傷は治りにくい。歳をとると心の傷はすぐ癒えるが体の傷は治りにくいのだ。 椎名誠「モンパの木の下で」


確かに、僕の場合、歳をとることで心の傷はすぐ癒えるようになった。というよりも、「傷を傷として認知しないようになった」というのがより正確な言い方だ。


これは人間の本能じゃないだろうか。つまり近づいてくる死を受け入れるためには、傷など忘れて静謐な心でいたいという本能が働くのではないだろうか。

それはともかく
昨晩はDVDで「日本の一番長い夏」を観た。二回観た。


終戦時に内閣書記官長だった人、各国大使だった人、NHK記者だった人、共産党員だった人、ラバウル玉砕を免れたひと、回天特攻隊員だった人たち約30人が集まって、昭和38年にこの戦争を回顧した座談会を文芸春秋が企画し発表したものを、数年前に半藤一利編集で映像化したものだ。


最も心を動かされたもののひとつが、沖縄戦で白梅部隊隊員だった楠政子さんの証言。


沖縄戦の帰趨がはっきりした頃、陸軍部隊は行動を共にした白梅部隊に解散命令を出した。楠さんと一人の友人は部隊を離れ島の南端をさまよった。さまよううち、5人の陸軍兵と同行するようになる。しかし、彼ら彼女らの前に突然米兵部隊が現われ、彼ら彼女らは四散した。白梅部隊の二人は自決を覚悟し手榴弾を手に取ったが操作方法がわからずまごまごしているうちに米兵に捕まってしまった(正しくは保護されただろう)。その時、木陰に隠れていた陸軍兵士5人が日本刀を片手に切り込んできた。しかし、あっという間に米兵たちに射殺されてしまった。


「彼らは私たち二人を救おうとして現われたのです。そして私たちの目と鼻の先で殺されたのです。言い換えれば私たちが殺したのです」と語る彼女の声は嗚咽の声だった。

 2013/10/30 (水) 正賢寺

昨日の午後、とんぼさん及び年増の女性と共に三人で波松・正賢寺を訪れた。


太平洋戦争時の昭和十九年に学校単位で学童疎開をすることになった大阪市榎並国民学校の受入れ先のひとつが正賢寺であったので、現在の住職の御母堂・白越行子さんから、当時の話を拝聴するため及び資料を拝謁させていただくためである。


縁故疎開ならば、我が牧田家にも大阪からの縁故疎開組があったのだが、学校単位学童疎開という言葉について、僕は全然知らなかった。それを知ることができたのも、足で歩き回るとんぼさんの情報収集能力のおかげだ。


もともと疎開先は芦原温泉旅館への分宿だった。しかし戦局悪化と共に旅館が陸軍病院の仮収容所に充てられたため、それぞれは近郊の寺などに預けられた。
二十年四月、疎開学童計百数十人のうち女子二十二人が正賢寺に落ち着き、彼女たちはそこから近くの波松国民学校に通った。


行子さんから見せてもらった疎開学童たちの写真の表情は屈託がない。明るい。おそらく現代のこどもたちとは違う顔だ。


同年九月に学童たちは大阪へ帰ったが、その後、榎並小学校の校長が世話になった御礼のために正賢寺を訪れ、又、昭和二十三年の福井大震災の折には見舞金六万円(当時の金だから今に換算するとかなりの額だろう)を贈られた。


なお、昭和三十年代に、藤本義一及びレッツゴー3匹ら一行が芦原を訪れ、当時の模様を劇として発表した(それは日本テレビで放映された)時の手書き台本もみせていただいた。なんたって手書きには味がある。


結婚し全国に散在した当時の学童たちも今は七十歳代後半のはずで、亡くなった方も多数おられるだろうが、寺に残っている手紙などで芦原への感謝の思いを字面に見ると、ほっこりした気分になる。

013/10/29 (火) 古代政局

硬派転向三ヶ月を記念して、昨晩は大化の改新に関する本を読んでいた。


板蓋宮正殿で中大兄皇子と中臣鎌足が謀って蘇我蔵作(入鹿)を惨殺したのが大化の改新で、それによって中央政局は中大兄皇子にコントロールされるようになったのだが、何回かの好機があったのにも関わらず、皇子は天皇になろうとしなかった。


齢40を過ぎてからやっと天皇(天智天皇)となり近江朝移転を実現した。天皇になかなかなろうとしなかった理由は、決して表面に出ない権謀術数故のものだろうくらいにしか僕は思っていなかったのだが、昨夜読んだ本によると、もっとはっきりした理由があるとのこと。


それは、実の妹・間人皇女との近親相姦である。皇子がもっともいとおしく愛し性的関係を持ち続けた相手が妹だったという直木孝次郎説がもし本当ならば、政府関係者の間で「人倫にもとる行為だ」という怨嗟の声が大きくひろがり、皇子が「今天皇になるのはまずい。機が熟するまで待とう」という気になったのは当然である。


それにしても、天智・天武の時代は、近親相姦だらけだったみたいだ。
僕は妹のことを考えてみたが、どうしても兄妹での相姦などイメージできない。1300年を経て人間が理性を持ってしまったために、本来根源的であったはずの欲望が記憶の引き出しの奥深くに封じ込まれてしまったからなのだろうか。

 2013/10/28 (月) ふるさと語ろう会

昨日は「ふるさと語ろう会」10月例会の日となった。今回の目的は「ロマンを秘めた加越国境に今なお残る『浜街道や源平の遺跡』を尋ね、『北前船の栄華』を偲ぼう」である。


午前8時半に湯の町公民館に集合した15人のメンバーは、チャーターした大型バスに乗り込んだ。


浜街道を歩いたあと、加佐岬倶楽部に到着した我々は、歴史の語り部・宮本氏(写真右端)の出迎えを受けた。



篠原合戦跡を歩き、石碑・首塚の前で源平合戦の模様をレクチャーされたのだが、宮本氏の語りは、立て板に水・当意即妙で、68歳という若さにも関わらず大御所の風格さえ帯びていた。


我々は、そのあと、橋立漁港沿いの「山本屋」で、ビール付き海鮮料理を楽しみ、一息ついてから「北前船の里資料館」へ。






再び宮本氏のレクチャーを受けている私の傍らに妙齢の和服女性が寄ってきた。




聞けば地元の女性で
お茶会に出席した帰り、この資料館に立ち寄ったのだという。


写真は、人口に膾炙している「越前男と加賀女」の構図と言えるだろう。




山川知一郎議員から依頼があり、ここに議会報告会の日程を貼り付けました。
 今月行われる議会報告会の日程・会場等は次の通りです。どの会場でも参加自由ですので、都合の良い会場にぜひご参加ください。(開催時間はいずれも午後7時半~9時です)

10月28日(月)
番田区民館・1班 本庄公民館・2班 中浜区民館・3班 細呂木公民館・4班

10月29日(火)
波松区民館・1班 ikossa3階・2班 商工会本所・3班 北潟公民館・4班

10月30日(水)
名泉郷会館・1班 剱岳公民館・2班 伊井公民館・3班 浜坂区民館・4班

議員配置
 1班 山本篤、森之嗣、八木秀雄、向山信博、杉田剛

 2班 平野時夫、杉本隆洋、笹原幸信、坪田正武、東川継央

 3班 毛利純雄、山田重喜、山川知一郎、卯目ひろみ

 4班 吉田太一、三上薫、北島登、山川豊
 

 2013/10/27 (日) 昨日の一日

柳田邦男の本は、中原中也の
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない
 という詩の紹介で終わった。


肺腑をえぐるこの言葉をかみしめていたところへ、新聞記者Nさんが来訪。


いっとき前まで沈黙の世界に浸りこんでいた僕は、瞬時に饒舌の世界に入り込み、うん、元気がでた。Nさんは、僕を何枚も写真に撮っていた。何日かあとに、僕の遠くの雲を仰ぎ見る姿が新聞に出るでしょうが、愁いを帯びた横顔には自信があります。是非ご覧ください。


夜はあわら市を脱出して、三国町の某料理店へ。
中庭の庭園灯からの光が、和紙貼り障子の縦桟横桟を通して微妙な陰をつくる。陰影礼賛なのだ。三国なので、海鮮料理と銘酒がとても美味しかった。しかし、一番美味しかったのが会話であることは言うまでもない。

 2013/10/26 (土) いのちのこと

昨晩は、ノンフィクション作家・柳田邦男の「僕は9歳のときから死とむきあってきた」を読んでいたが、ぐんぐん引き込まれているうちにとうとう夜が明けた。


4章で、息子の自死に対する思いを記者から問われて、こう答えている。


「肉親、恋人など看取る側の視点の大切さに気づかされました。いままで私は生と死の問題を三人称の立場で書いていました。息子の死に直面して、人生を分かち合っていた者としては自分のなかの何かが死んでいくというものすごい喪失感がありました。人間のいのちには生物学的ないのちだけではなく、精神的ないのちがあり、精神的ないのちは二人称の立場の人が共有しているということがわかりました。とくに脳死について考えますと、二人称の立場に立って脳死の人の側にいると、体全体から死にゆく人の人格、人生、いのちを感じているのです。脳の機能停止イコール死とは情動レベルでは受け入れられない。死は点ではなくプロセスで、いわば脳死は死の始まりの段階。ですから、脳死状態になったからといって、一律に死と線引きしないで、精神的に受け入れられる人だけが生前の意志と確認できたときのみ死とすればいいと思うのです。二十一世紀を人間中心の時代にするには、このように多様な死生観を受け入れていくことが必要ではないかと思います」

 2013/10/25 (金) 独楽吟(橘曙覧)

たのしみは 草のいほりの筵
   ひとりこゝろを 靜めをるとき



たのしみは すびつのもとにうち倒れ 
    ゆすり起
すも知らで寝し時



たのしみは 珍しき書人にかり
    始め一ひら ひろげたる時



たのしみは 紙をひろげてとる筆の
    思ひの外に 能くかけし時



たのしみは 百日ひねれど成らぬ歌の
   ふとおもしろく 出
きぬる時



たのしみは 妻子むつまじくうちつどひ
   頭
ならべて 物をくふ時



たのしみは 物をかゝせて善き價
   惜みげもなく 人のくれし時



たのしみは 空暖かにうち晴
    春秋の日に 出でありく時



たのしみは 朝おきいでゝ昨日まで
   無
りし花の 咲ける見る時



たのしみは 心にうかぶはかなごと
   思ひつゞけて 煙草
すふとき



たのしみは 意にかなふ山水の 
   あたりしづかに 見てありくとき



たのしみは 尋常ならぬ書に畫に 
   うちひろげつゝ 見もてゆく時



たのしみは 常に見なれぬ鳥の來て 
   軒遠からぬ 樹に鳴
しとき



たのしみは あき米櫃に米いでき
   今一月は よしといふとき



たのしみは 物識人に稀にあひて
   古
しへ今を 語りあふとき



たのしみは 門賣りありく魚買
   煮
る鐺の香を 鼻に嗅ぐ時



たのしみは まれに魚煮て兒等皆が
   うましうましと いひて食ふ時



たのしみは そゞろ讀ゆく書の中に
   我とひとしき 人をみし時



たのしみは 雪ふるよさり酒の糟
   あぶりて食
て 火にあたる時



 たのしみは 書よみ倦るをりしもあれ
    聲知る人の 門たゝく時



たのしみは 世に解がたくする書の
    心をひとり さとり得し時



たのしみは 錢なくなりてわびをるに
   人の來
りて 錢くれし時



たのしみは 炭さしすてゝおきし火の
    紅
くなりきて 湯の煮る時



たのしみは 心をおかぬ友どちと
    笑ひかたりて 腹をよるとき



たのしみは 晝寝せしまに庭ぬらし
   ふりたる雨を さめてしる時



たのしみは 晝寝目ざむる枕べに
   ことことと 湯の煮
てある時



たのしみは 湯わかしわかし埋火
   中にさし置
て 人とかたる時



たのしみは とぼしきまゝに人集め
   酒飲め物を 食へといふ時



たのしみは 客人えたる折しもあれ
   瓢
に酒の ありあへる時



たのしみは 家内五人五たりが
   風だにひかで ありあへる時



たのしみは 機おりたてゝ新しき
    ころもを縫
て 妻が着する時



たのしみは 三人の兒どもすくすくと
    大きくなれる 姿みる時



たのしみは 人も訪ひこず事もなく
    心をいれて 書
を見る時



たのしみは 明日物くるといふ占
    咲くともし火の 花にみる時



たのしみは たのむをよびて門あけて
   物もて來つる 使
えし時



たのしみは 木芽して大きなる
   饅頭
を一つ ほゝばりしとき



たのしみは つねに好める燒豆腐
    うまく煮
たてゝ 食せけるとき



たのしみは 小豆の飯の冷たるを
    茶漬
てふ物に なしてくふ時



たのしみは いやなる人の來たりしが
    長くもをらで かへりけるとき



たのしみは 田づらに行しわらは等が
    耒
とりて 歸りくる時



たのしみは 衾かづきて物がたり
    いひをるうちに 寝入
たるとき



たのしみは わらは墨するかたはらに
    筆の運びを 思ひをる時



たのしみは 好き筆をえて先水に
    ひたしねぶりて試
るとき



たのしみは 庭にうゑたる春秋の
    花のさかりに あへる時々



たのしみは ほしかりし物錢ぶくろ
     うちかたぶけて かひえたるとき



たのしみは 神の御國の民として
     神の敎
を ふかくおもふとき



たのしみは 戎夷よろこぶ世の中に
   皇國
忘れぬ 人を見るとき



たのしみは 鈴屋大人の後に生れ
  その御諭
を うくる思ふ時



たのしみは 數ある書を辛くして
    うつし竟
つゝ とぢて見るとき



たのしみは 野寺山里日をくらし
    やどれといはれ やどりけるとき



たのしみは 野山のさとに人遇
    我を見しりて あるじするとき



たのしみは ふと見てほしくおもふ物
     辛くはかりて 手にいれしとき




橘曙覧の極貧ぶりは有名だ。ある時、福井藩主・松平春嶽が彼のあばら家をお忍びで訪れ、「家来にならないか」と誘ったところ、彼は即座に断った。自由人は、組織内人間として生きることができないのだろう。


第一、「独楽吟」は、かつがつの生活をしていたからこそ生まれた歌の数々なのである。彼は、酒が好きで煙草が好きだった。こういう嗜好品が脳の活性化を促したのではないか、と僕は思う。


正岡子規によって世人が知ることとなり、クリントン元米国大統領によって、再度、大変に有名になった橘曙覧を、我々福井人は誇りにすべきだ。

2013/10/24 (木) バナナを食べながら

津本陽著「松風の人」を読み終えて、吉田松陰のひととなりが少しわかったような気がする。松下村塾での門人の高杉・久坂・桂らが回天大事業に飛び込み、または伊藤・井上らが明治新政府の重鎮となったのに比して、松蔭そのひとはそれを見ることなく、安政年間に刑場の露と消えたのである。
辞世の歌「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」の大和魂は、勿論、尊皇攘夷思想の根幹をなしている。


後年、門人たちを辟易させるほどに頑固一徹。今の時代から見れば「狂気の人」という言葉があたっている。


松蔭は門人から死生観を聞かれると、こう答えた。
「死生の悟りがひらけぬというのは、まことに愚かの至りである。くわしくいってやろう。十七、八の死が惜しければ、三十の死も惜しかろう。八十、九十、百の齢(よわい)をかさねてもこれで足りたということはない。草虫、水虫は半年の命であるが、これが短いというものでもない。松柏は数百年の齢をかさねるが、これが長いわけでもない。天地の悠久とくらべるならば、松柏の寿命も、わずかの間生きる蝿のそれと異ならない。ただ伯夷などのような人は、周から漢、唐、宗、明を経て、清に至ってもその名はいまだ滅していない。もし当時太公望の恩に感じて西山に餓死しなかったならば百まで生きても短命であったといえよう。浦島太郎、武内宿禰もいまは死人である。人間わずか五十年、人世七十古来稀。なにか腹の癒えることをやって死なねば成仏はできない。私は今より、当世派の尊攘家へ一言も応答はしないが、古人に対してすこしも恥ずかしいことはない。君たちがもし肝っ玉があれば古人に恥じるだろう。いまの人はうるさい。この世にいて何を楽しむか。凡夫は浅ましく恥を知らない。『孔子いわく、志士仁人は身を殺して仁をなすあり』、『孟子いわく、生をすてて義を取る者なり』などいって、見台を叩いて大声に喚く儒もいる。そのうるささを知らずに一生を送る者もいる。君たちもその仲間だ」


松蔭は、東北から九州まで諸国を歩き回った。その地その地で尊攘の義人と触れ合い美酒を飲んだ。彼の口癖は「君、地理の人となり給へ。二の足でその地を踏む。それで歴史を体感できるのだ」だった。


松蔭先生の思いを少しでも敷衍できたらと思う僕は、しかし既に足を患っていて長距離歩行が困難なので、愛車トウデイを改造した。本日の午前、Sくんがシュラーフを持ってきてくれたので




準備万端となった.

 2013/10/23 (水) 日々坦々

本日の新聞に、「連城三紀彦・死亡」の記事が出ている。


今はストーリーを全く覚えていないが、30年ほど前に連城著「恋文」を読んで、読んだ時の感動だけは覚えていた。「なんであんな小説を書けるのかなあ」と不思議に思っていたところ、去年の冬、偶然に彼の実生活の波乱を知って、「なるほど・・実生活の文章表現への影響は大きいものなんやなあ」と思った。




今朝6時の観音川上流。





このあたりの水草下を手網でたぐっていた。小エビがわんさかいる。


獲った小エビを友人の家へ持って行ったら



年代もののフランス製ワインを御礼にくださった。ラベルには、「ジョルジュ デュブップ ボジョレーヌーボー」と書いてある。今晩の夕食が楽しみだ。

 2013/10/22 (火) 無題

★事務所サロンの模様替えが一段落したので、




昨日は、オープンカフェを掃除した。目に触る汚いものは、全て笹岡焼却場へ運んだ。




昨晩は、きれいになったそのオープンカフェで、夜空を見上げながらぼおっとしていた。しかし、晩秋の夜はセーター姿でも冷える。10分もしないうちに事務所サロンへ戻った。


もうしばらくすると、夜空は冬の星座になっていく。凛とした空気のなかに身をおいて眺める星座は美しいが、それを味わう必要条件として、お湯割り焼酎が必要だと思った。

 2013/10/21 (月) そろそろセーターが必要か

昨日の日曜日は午前中をCADで費やし、午後は図書館と散髪屋に行き、夕刻は、白ワインを飲みながら、DVDで黒澤映画「天国と地獄」を楽しんだ。今回が3回目だが、スリリングさはまだ味わえる。


身代金目的推理映画の発想は奇抜でデイテールに目が届いていて、役者が贅沢(三船敏郎、仲代達也、香川京子、山崎務、石山健二朗エトセトラ)で、退屈しない。


身代金受け渡しの舞台は東海道本線を走っている特急「こだま」だが、映画公開は1963年で、撮影時はまだ新幹線登場直前という時代背景だった。


結局、犯人(山崎務)は捕まり、死刑が確定するのだが、拘置所で金網にすがりながら号泣するシーンで、胸のつかえが降りたような気分になった。


映画だから、当然、水準以上の色男・色女だらけ(と言っても登場する女性は香川ひとり・・)なのだけれども、そのなかで刑事役のひとり・石山健二朗はごつい顔で、それ故に存在感を出していた。

 2013/10/20 (日) きょうは龍翔館

昨日の昼、Mさんが久しぶりに来訪。3時間ほどいろんなことを話し合っていた。


この女性の息子さんは、プロレスラーをやっていて、現在全国を巡回中とのこと。子供の時からプロレス志望で毎日牛乳を大量に飲んでいたそうだ。小学校の卒業記念誌に「ぼくの将来の夢は立派なプロレスラーになることです」と書いたという。


高校卒業と同時に上京し、新日(アントニオ猪木代表)及び全日(ジャイアント馬場代表)の門を叩いたのだが、いずれにも「身長が規定以下」との理由で入門を断られた。しかし、そこで諦めないのがすごい。
メキシコに渡り、フライイングプロレス(ミル・マスカラスなどで有名)に入門したのだ。


二十年近く前の夕刻、Mさんが私の事務所にやってきた。大阪府立体育館での息子のデビュー戦を見ての帰りだという。「結果はノックアウト負けだったけれども、相手の平手打ちや蹴りが息子の顔面に入る度に、私は悲しくって涙が出たわ」と言っていた。


それから何年かして、私はMさんに誘われ福井市立体育館へ行った。息子さんの相手はアブドーラ・ザ・ブッチャーだったが、あの太鼓腹を利用して、ブッチャーの頭上を飛び越え空中から蹴りを入れるシーンをリングサイドからも観ていて、とても人間業とは思えなかった。

 2013/10/19 (土) 朝が来た

いつのまにか土曜日だ。
この1週間、忙しかったのか暇だったのかよくわからない酔っ払い気分で暮らしてきた。勿論、昼間に飲酒をするわけはないのであって、要するに気分がそうだったということだ。


目の前が実は夢であり、夢想が本当の現実ではないかと思えてくるのが、そういう気分に惹かれる理由だと思う。昔から都合の悪いことには蓋をして、都合のいいことだけに目を向ける癖がぼくにはあり、近年その傾向は強くなってきている。又、周囲の近しい人もそれを指摘する。





昨日は新井氏の言葉と山折氏の言葉を反芻し続けていた。彼らの講演をラジオで聞いたものだったら、反芻気分にはならなかっただろう。同一空間で肉声を直接聞くことでオーラを感じることになる。


新井氏が紹介した歌のひとつが
たのしみは 銭なくなりて わびをるに
  人の来りて 銭くれし時      橘曙覧


だったが、実は昨日の私がそうだった。

 2013/10/18 (金) 楽しみは

昨日の夜は福井市文化会館へ。





新井満氏と山折哲雄氏のコラボが開かれたためだ。新井氏の演題は「楽しみの発見」、山折氏の演題は「かなしみと日本人」。二時間半の長丁場だったが、行ってよかったと思う。


新井氏の話は「千の風になって」(作詞作曲新井)が中心だったけれども、私には独楽吟の歌「楽しみは」(作詞橘曙覧・作曲新井)のほうがよかったように思えた。


当人は歌う前に、「アコーデイオンを楽器として、シャンソン風につくりました。とりわけ『パリの屋根の下』をイメージしながら。皆さんは若い時のジャン・ギャバンやイブ・モンタンを思い起こすでしょう」と言った。


聴いている私は、今年六月に橘曙覧記念館を訪れ、係員から聞いた諸々を思い出していた。


聴き終えた私は、「俺の港町ブルースでは逆立ちしてもかなわない。どんなに上手かろうと、歌にはある種の気品がなくてはいけないのだ」と脱帽した。


彼はステージの最後に「楽しみは・・と歌っていながら、かなしみは・・と歌っていたような気がします」と語ったのが、それがとても印象的。


このブログをご覧のみなさん。是非、CD「楽しみは」を買って聴いてみてください。聴いてみて不満だったら、私が弁償します嘘です。


それぞれの講演のあとは、二人対談。
特別ゲストの山折氏に敬意を表して自らは地味に終始しようとしているのにも関わらず新井氏に華が感じられるのは、彼のキャリアのせいつまりプロモーター、作家、作詞家、作曲家、歌手をこなしているからだろう。

 2013/10/17 (木) 昨日の一日

昨日は夕刻までてんてこまいだったが、5時半からはゆったりモードに切り替わり、「信州まごころワイン竜眼」と「芋焼酎黒霧島」をH氏とふたりで楽しんだ。



つまみの「昭和の味」は、勿論H氏の手作りだ。最近のぼくはシンプル イズ ザ ベストだと常に思っている。




今朝は御前4時に起床。寒いのでベッドからなかなか抜け出せず、津本陽著「覇王の夢」を一時間ほど読んでいた。終半に織田信長が荒木村重(岩佐又兵衛の父)一統の人質成敗をおこなうシーンがでてくる。


・・十二日の夜になって、京都へ送られる人質は、雪みぞれの降るなか、有岡城を出立した。その夜、滝川一益ら三人は、尼崎七松で磔にかける女房衆百二十二人を選びだした。処刑される女房たちは、親子兄弟にあてた遺書を、涙とともに書いた。『信長公記』には、十三日の朝、尼崎でおこなわれた処刑の有様を、つぎのように記している。


「十二月十三日辰の刻(午前八時)に百二十二人、尼崎に近い七松というところで磔にかけるため、引き出した。
さすがに歴々の侍たちの妻であるので、衣装も美々しき女房たちが並んでいるのを、荒々しい侍が彼女たちの母親に手伝わせて磔柱に縛りつけ、ある者は鉄砲で撃ち殺し、ある者は槍、薙刀で刺し殺す。
百二十二人の女房がいっせいに苦しみ叫ぶ声は天にも響くばかりで、見る人は目もくらみ気が遠くなるほどで、涙を滂沱と流した。その様子を見た人は、ひと月ほどのあいだ情景が心に焼きついて、最後の俤を忘れようとしても、ふり払うことができなかった」


このほかに、彼女たちに仕えていた若党、下女五百十二人も、同じ検視立会いのもとに、焼き殺された。『信長公記』はその模様を記している。


「これらの男女を四軒の家に押しこめ、柵で囲い、周囲に枯草を山のように積み、焼きたてた。風に吹かれ、火がまわってくると男女は生簀のなかで魚が逃げまどうように、上になり下になり、焦熱地獄の焔にむせび、躍りあがり飛びあがり、煙のなかに悲鳴が響きわたる。見物人たちも肝を奪われ、眼をふさいで逃げ散るほどのすさまじさであった」・・


岩佐又兵衛ファンの中島道子先生が、信長を憎む理由がよくわかる。

2013/10/16 (水) 忙しい一日

昨夕、昔の手話仲間・N氏が「信州まごころワイン竜眼」を持ってきた。




秋の夜長に星を見ながら、じっくりと味わうつもりです。


さて
夜は5人が事務所に集まって、「原発を考える市民の会・世話人会」が開かれた。最近は、夜も人の集まることが多くなってきたので、午後9時半くらいまでは起きている自信がついた。当然起床時刻が遅くなり4時前か。これを本当の早寝早起きと言うのだろう。


それはともかく
DVD派だったぼくは、完全に活字派に転向してしまった。小説の原作とその映画化されたものを比べた時、殆どの場合、原作のほうにより多く惹かれる。多分、活字で浮かんでくる映像はどうしてもファジーであり、それを鮮明にするための想像力の駆使が脳にココチヨイということなのだろう。


いつだったか、某氏から、「牧田さんも小説を書ける。だけどその前提は宦官になることだ。そうすれば猥雑な感情がなくなりつまり純粋な気持ちで原稿用紙に向かうことができる」と言われた。


「猥雑」の定義はむつかしいが、仮に、女性を考えることがそのなかに含まれるとするならば、ぼくにとっての「猥雑」は生きる源泉なのだから、勿論このままでいい。

2013/10/15 (火) きょうから仕事

一昨日の早朝に網とバケツを持って観音川へ行った。場所は指中公民館の近く。エビを獲るためだ。

川べりの雑草の根元を網ですくい上げると何匹もの小エビが網の中で跳ねまわる。朝陽に反射する小エビの肉体が神々しいほど美しくみえてくる。


エビ天の材料にするのではない。オープンカフェに置いた水槽に入っているのがメダカだけで、異種生物どおしを友達にさせることが目的だ。試みがうまくいくかどうかはまだわからない。



小松重男著「御庭番の明治維新」は、新潟奉行を務めた川村修就(閑斎)の、慶応四年(1868)頃の回顧談で、物語は、
・・天保十三年(1842)六月、清国の香港島を分捕ったイギリスが、こんどは貴国の新潟湊を狙っている、というオランダ商館長の通報で幕閣は色めき立った。なかでも越前守は三年前の開戦当時から阿片戦争の推移に関心を持っていたので、すぐ理解して危機感を強めた。「越後の新潟と申す長岡藩の飛地は、その地勢がマラッカやマカオに近似して、かれらは守備しや易く、わがほうが大軍を差し向けて奪回を図っても、わずか数隻の軍艦(装甲汽船)と数百人の兵のみにても、やがて大艦隊と大救援隊が到着するまで持ち堪えられるのじゃそうな。イギリスの大砲と砲術が優れておることは、そのほう、先刻承知のとおり・・」で始まる。


・・しかし、そのほうたちに支給できる大砲は、まるで使い物にならぬ旧式なものがたったの九門だけ、新潟に着任してから順次新式の大砲を鋳造して、まこと役に立つ台場(砲台)を構築すべし、というのが当面の御主意だった。もちろん、必要な部下を江戸で選抜して説得、新潟赴任を承知させること、現地で実弾射撃訓練を重ねて、ほんとうにイギリス軍艦へ命中させられるほどの腕前にすること、現地の住民が協力的になるよう善政を敷くこと、それらの指針たる先例を各分野にわたって明文化することも含まれていた・・。


このように文章は続いていくのだが、ぼくは幕末における欧米列強の脅威というのは、例えば薩英戦争、例えば下関戦争、なかんづくペリーの浦賀来航など太平洋沿岸のことと思っていたので、日本海側の脅威のことはあまり知らなかった。そういえば、松島水族館の近くには、丸岡藩設置の「お台場跡」がある。

2013/10/14 (月) 本日は明社活動

疲れたからなのか、昨晩の午後6時から今朝の6時までベッドのなかに居た。あいだににオープンカフェで星空を眺めるための珈琲ブレークタイムが数回あったけれども、あとはこんこんと眠り続けていた。

そのせいで、今、爽快感のなかにいる。人間、眠ることが大切だ。

2013/10/13 (日) 雑感

昨日午後1時半のハートピア春江・小ホール。そこで中島道子先生による明智光秀についての講演会が開かれた。
演題は、★月さびよ 明智が妻の 話せん 芭蕉





美濃国の明智城に生まれた光秀は26歳の時に煕子と結婚。
天正10年6月2日の本能寺の変で織田信長を殺したあと、山崎合戦で羽柴秀吉軍と戦い、55年間の生涯を終える。
その光秀の越前国での活動期間10年が話の骨子だった。


29歳の時に斉藤義龍に攻められ明智城が落城。光秀は身重の煕子を背中に担いで急峻の油坂峠を越えて越前国に入った。知己の長崎称念寺を頼ったが、与えられた住居は作小屋で、ここでの三年間の生活は貧窮切迫したものであった(そのころ三女の細川ガラシャが生まれる)。


朝倉家への仕官を目指していた光秀はある時、朝倉家有力インテリ家臣数名を招いて「連歌の会」を称念寺で開いた。会が終わると隣の部屋の襖が開き豪華なお膳と豪華な酒が運ばれてきて光秀はびっくり仰天。そこには丸坊主となった煕子が居た。煕子は光秀のために女の命である長い黒髪を売って、「連歌の会」開催のための支出を裏で支えたのである。


この行為がそれから100年後の、「奥の細道」徒歩旅行で長崎に寄った松尾芭蕉の耳に入り、月さびよ 明智が妻の 話せん の句となったのである。


仕官叶った光秀は一乗谷に近い東大味に居を構え、朝倉文化の繁栄に尽力するものの、数年して織田信長の有力家臣となる。
そして43歳の時、信長の野望であった朝倉討伐に従軍するのだから、歴史とは皮肉なものだ。


しかし光秀は東大味の人たちのことを忘れてはいなかった、本来だったら火の海になったはずの東大味を、柴田勝家から拝領した安堵状によって守ったのである。


当然、光秀は救世主として当地区の人たちから尊敬された。けれどもその思いを声高に叫ぶことはできない。何故なら、光秀は主殺しの逆臣であり、武士道に真っ向から背くからである。


しかしながら、東大見の3家族が周囲からの白眼視にめげず、私財で小さな明智神社をつくった。爾来300年、手弁当で神社を守り続けている。
昨年、ぼくも当地区を訪れ、光秀住居跡を歩き、明智神社に参拝した。なお、光秀の墓は滋賀県坂本町の西教寺にある。
中島先生は、明智光秀のような反骨の人が好きなのである。


ここで話はどんと変わるが、一昨年の夏にぼくたち4人は中島先生と一緒に、新田義貞の忠臣・畑時能の墓をみるために勝山市伊知地を訪れた。道中の乗用車は世間話の場となっていたが、運転者のYさんが突然、「先生、私は毎日嫁と一緒に散歩をしているんです。嫁はきだてがよくって云々」といい始めたその時中島先生の顔色が変わった。


そして、「あなた・・、女性の前で嫁の話などするもんではないのよ。男としての魅力がなくなるのよ」と語気を強めて言ったのだ。隣席のぼくは下を向いてしまった。笑いをこらえるのに必死だったからだ。


そして、「なるほど・・、俺が女に持てるのは、女の前で嫁の話などしたことがないからなのか」と思った。
ということはともかく
本日で、愛する阪神タイガースの命運は尽きた。9回裏の桧山のプロ野球最終打席ホームランには涙が出たが、しかし・・虚しい。この上は広島カープが巨人に対する刺客としての努めを果たしてほしい。
考えようによっては刺客=カープのほうがよかったのかもしれない。理由はふたつある。


①セリーグナンバーワンの貧乏球団がセリーグナンバーワンの金満球団をうちのめすという戦国下剋上のスリリングな構図をテレビでみる可能性がでてきたこと。
②カープには福井商業出身の選手が何人かいて、きょうの試合でも、天谷、横山が活躍していた。福井県出身の選手が活躍する球団には、それだけで愛着がある。


来期のタイガースの人事についてだが、例の問題でしかめっ面が定番となった和田監督を更迭し、若狭出身の川藤幸三を監督とするのがいいと思う。なんせ「嫁はんが働いているので無給でもいいから、現役登録を続けさせてほしい」と球団に直訴したボランテイア精神の持ち主なのだ。


無論、采配は無茶苦茶になるだろう。というより、幕末の毛利公のように「好きにせい」と言うだけだろう。しかし、タイガース人気は確実に上がる。プロ野球は高校野球と違ってエンターテインメントなのだから、川藤監督登場をぼくは切望する。

13/10/12 (土) 全く同感

本日の朝日新聞で、玉岡かおる(56)はこう書いている、


「農業用水をたくわえる「ため池」の価値に注目している。会長を務める「いなみ野ため池ミュージアム運営協議会」が第15回日本水大賞の農林水産大臣賞を受賞。7月に東京で開かれた贈呈式に出席し「「歴史あるため池を未来に引き継ぐため、これからも努力します」と笑顔を見せた。


兵庫・東播磨の「いなみ野」は万葉集にも詠まれた台地で7世紀に造られたため池が残る。兵庫県は全国一ため池が多く、約4万カ所あるという。2位の広島県の倍だ。だが、農村の衰退でため池の維持管理は難しくなった。


ゴミが投棄されることも多く、臭くて危険と嫌がられる。そんなため池を地域遺産としてとらえ直そうと、兵庫県や市町、池の管理者が6年前に協議会を発足。加古川市に暮らし、兵庫県を舞台に小説を書いてきた縁で会長就任を依頼された。


以来、会が主催する出前講座やシンポジウムに参加するほか、地元のドブ貝で「ため池産」の真珠を採ることにも挑戦した。「ため池やその周辺は、多くの動植物のすみかでもある。次は土手でハーブを育てたい」


かって中学校で教師をしていた時、釣をを楽しむ教え子に会った。「教室では見せない生き生きした表情が印象でした。私にとってため池は、故郷の風景そのものです」

 2013/10/11(金) もう週末か

月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ 
   わが身ひとつの 秋にはあらねど   大江千里



ということで日ごと秋が深まるこの季節、月を見ながら感傷的になっています。

マイカーの助手席を取り除いた(Mくんにやってもらったのだけど・・)。これで快適な一人旅を楽しむことができる。

 2013/10/10 (木) 昨晩

昨日の事務所は久しぶりの飲み会で、大鍋のおでんがメインデイッシュだった。




つくり手がプロのとんぼさんだから美味しくないはずがないのだが、昨晩は特に美味を感じた。高度経済成長以前の昭和の味、反コンビニの味で誰かが「報恩講の味」と言っていたが、まさしくそうである。


この味でぼくは45年前に亡くなった祖母を思い出した。祖母と一緒のキノコ獲り、菜種干し、落穂ひろい・・。
紅顔の美少年だったぼくも、幾星霜で前期高齢者になってしまったが、いとしいひとは心の中に在り続ける。

 2013/10/09 (水) 昔を思い出して

昨日読み終えた小説・清水義範著「催眠術師」によると、自分の(というか我々の)潜在意識の掘り起こしは、今から40年ほど前にアメリカで起こったセラピスト集団によるマインドコントロールの影響を多く受けているということが書いてある。


僕は30年ほど前の春と夏(それぞれ1週間ほどだった)、横浜の長者町ビル11階フロアに缶詰となって、「可能力開発講座」なるものを受けた。春の講座では、全国から集まったお互い名前以外の一切を知らされていない6人が講師の掲げるテーマに沿ってデイスカッションを繰り広げ、最後の二日間の仕事は、白い原稿用紙に感想文を書くことだった。


講師は初めに「感想を書く際、幼児期に戻って書いてください。あなた達は4歳頃まで戻ることができるはずです。戻ることができたら、あなた達のトラウマの形成過程を理解でき、それがトラウマからの開放の糸口となるでしょう」だった。


確かに、6人はそれぞれにトラウマを持っていた。
例えば大阪からやってきた在日の大男の職業は某ゴルフ場の用心棒で、母親や自分に乱暴をくりかえしてきた父親をある晩殴り倒しぐるぐるの簀巻きにして淀川に放り込んだことが大きなトラウマになっていた。


北海道の苫小牧からきた女は、しまうまがトラウマになっていた。「しまうまの縞が白の部分なのか黒の部分なのかを考えると、夜眠れない。それならば考えなきゃいいのでしょうが、それを考えることが人生そのものになっていたのだからもうどうしようもない」と、言っていた。


翻ってぼくのトラウマが何だったかは、個人情報保護法案により秘密。


そして三ヶ月が過ぎ、夏の講座に参加した時、講師から「牧田くん、君は成長した。春の講座の時にはしゃべってばかりだったが、君はやっと沈黙の大切さを会得できたね」と言われて、とても嬉しかった。


ところでグループの6人は、今、何をしているのだろうか。生きているのなら、用心棒の男やしまうまの女など小説を書いたらいいと思うのだ。面白い小説になること請け合いだ。

さて
今晩は、とんぼさん近松文学賞佳作賞受賞記念飲み会で、酒は勿論副賞となった鯖江の地酒。

2013/10/08 (火) 熱々珈琲を飲みながら

清水惣七著「足利尊氏と新田義貞」を読み終えた。後醍醐天皇の忠臣・楠正成は兵庫湊川で足利軍と戦って落命し、新田義貞は平泉寺の僧兵などを頼って北上、しかし思い叶わず福井市新田塚町で落命する。

新田の鎧が長崎・称念寺に保管されていて、昨年だったか、住職からその鎧の説明を受けた時には、伊井・応蓮寺で新田ゆかりの鉄笛を見せてもらった時と同じほどに歴史のロマンを感じたものである。

しかし、この本を読み終えた時には、楠正成及び足利尊氏の従来とは違うひととなりを改めて垣間見たような気がした。楠正成や新田義貞は戦前の日本の国家主義イデオロギーに祭り上げられていて、その人物像に虚像が多くあったのだろう。

2013/07 (月) 昨晩はへべれけ

昨晩は、高校時代のクラス会が芦原温泉某旅館で開かれ、39名が集まった。

ぼくは小中高を通じて担任教師がみんな嫌いだったので、こういう類い(たぐい)の集まりに出席したことはないのだが、高3の時のこの先生・K氏だけは例外的に好きだった。

理由は四つほどある。ひとつは、「わしの自慢は校長や教頭といった管理職にならなかったことや」という口癖だ。教師の使命は生徒との生の接触にあるのだから、管理職を望むのはその理念に明らかに反する。ぼくは飲み会のあいだK氏の右横にぴったりと座って、来し方をいろいろ話し合っていた。

物故者は6人。同学年のクラスでは一番少ないそうだが、これから10年ほどの間に随分増えると思う。
既に80歳の峠を越したK先生の別れぎわの言葉は、「牧田・・本当の男になれよ」だった。胸にジーンときたぼくは、事務所に戻ってから、早速DVD・「山桜」を観た。藤沢周平・海坂藩シリーズファンのぼくにはDVDも又素晴らしく、何度落涙したことか。

2013/10/06 (日) CAD三昧の日曜日

建築界の先輩・K氏から「金沢の仕事をしないか」という電話があって福井市のK氏事務所へ出かけ2時間ほどで打合わせを終えた。そのあとは人生の話。

「まきちゃんも大変な経験をして、以前のまきちゃんではなくなった。かげをひきずるまきちゃんになった。それは仕方のないことや。けれども生きている者は、程度の差こそあれ、みんな悲しみを心の底に抱いて生きているんやぞ。もう議員ではなくなったんやから本来の建築設計業者に戻って輝やこうや」と、言われた。

K氏は来年70歳になるのだが、腰を痛めてはいても、建築論を語る時は30年前よりも饒舌で勿論目力もある。こういう人が周囲を明るくするんだろうな、と僕は思った。

考えてみれば最近のぼくの付き合い相手はこの年代が多いような気がする。

2013/10/05 (土) ーその2  表彰式

午後1時からは、鯖江市立待公民館に居た。鯖江市近松文学賞に佳作入賞したとんぼさんの受賞風景を撮るためであるが、全国からの応募総数556件からベスト7に選ばれたのはあわら市民として嬉しい限りである。
表彰式に特別審査委員の阿木 燿子が来ていなかったのはちょっと残念だったがね。



でもぼくの本当の狙いは、副賞の大吟醸「梵」にあった。全日空の機上でVIP用に振舞われる酒で人気度ナンバーワンとのこと(でも酒造メーカーの社長がマイクを持ってしゃべっていたのだから真偽はよくわからない)。いずれにしろシモジモの民が口にできない酒であることは確かだ。



ぼくが次の飲み会まで保管しておくことになった。問題はちゃんと保管しておくことができるかどうかつまりひとりで飲んでしまうことがないかどうかで、ここでぼくの忍耐力が試される。

2013/10/05 (土)  再開

10月3日のブログで
「本日まで、駄文とのお付き合い、どうもありがとうございました。
皆さんには大変感謝しております。    草々」


と書いたのは勿論本心で、何故かというと、「個人情報保護法案」というものがあって、ブログに実名を書くことあるいは暗示することは許されない。ならば鍵付手書き日記で自分をひそかに慰めるしか選択肢はないんじゃないかと結論づけたことが上述の挨拶文につながったわけです。

しかしながら昨日は、「何故やめるの? 書かなくちゃ駄目じゃないの!」という複数回の携帯コールが入ってきました。この言葉尻からわかるように電話の主は女性です。

ぼくは金津町議時代に有象無象の議員たちから「町議会のアラン・ドロン」と呼ばれていました。合併してあわら市議会となってからは「市議会のキムタク」と呼ばれようになりました。確かに鏡で自分の横顔を見ると、凡人にはない気品があります。

ぼくのお袋の実家は敦賀・気比の松原です。天女が十二単の衣に包んだ赤ちゃんのぼくをそっと白砂の松原海岸に置いて昇天したという噂は、今や敦賀市史のなかで歴史的事実となっているそうですが、これがぼくには不愉快です。ぼくのルーツはこれとは違うと思うのです。

三国土木事務所での打合わせを終えた昨日の午後5時56分頃、夜の会議開始を目指して愛車トウデイを走らせているさなか、坂ノ下区在住のOくんから、「椚古墳は円墳か?前方後円墳か?」という問いかけ携帯電話が入ってきました。

円墳か前方後円墳か明らかではないのですが、この古墳の主が男大迹王(継体天皇)の王子椀子王一族のものであるという説にぼくはひかれます。つまりぼくの親父の血は純粋に金津で、だからぼくには継体王朝という貴種の血が流れていて、それこそがまさにぼくのルーツなのではないかと思ってひそかに誇りにしているのです。

2013/10/03 (金) 10月1日の続き

昨晩
柱時計が午後6時を打つと同時に、CADを終了。缶ビール「のどごし<生>」を片手に、DVD「白い巨塔」を見始めた。のっけから手術シーンだ。
鋭利なメスで患者の腹が引き裂かれ、財前助教授は手をつっこみ、ぐちゃぐちゃした内臓をこねくりまわしている。僕にはとても正視できないシーンだった。


結局この患者は死ぬのだが、患者の死が浪速大学医学部第一外科教授の座をめぐる権力争いの伏線となる。僕はここで雨森芳州を思い出した。


20年近く前、金津町PTA連絡協議会は、滋賀県高月町にある雨森芳州記念館を訪れた。生家跡前の高札は概略下のようなことを説明していた。
「寛文年間にこの地で生まれた芳州は幼少時から秀才を謳われ、医学の道を進んだ。しかし芳州はふと考えた、・・一人前の医者になるまでには何人かの患者を殺さなければならない。ウーンなんと悲しいことか・・けれども儒者は違う。せいぜいが原稿用紙を没にするだけだ。ならば、儒者になろうと思い立ち、中国語・朝鮮語をマスターしたあと対馬藩に仕え、李氏朝鮮との通好実務をこなした。江戸期を通じて最高の朝鮮学者だった」


2013/10/02 (水) 昨日の深夜に白ワイン片手に眺める月は
                           綺麗な三日月だった




昨年の金津地区戦没者慰霊祭での遺族会会長の挨拶は、「中国政府の内政干渉的外圧発言にひるむことなく総理は8月15日に靖国神社を参拝していただきたい。靖国神社参拝反対を叫ぶ不逞の輩たちは、そもそも日中戦争が何故起こったのかを根本から勉強してほしい」だった。


聞いていて「なるほど」と思った僕は、その日以来、軟弱な読み物を机から遠ざけ(但し愛は別)、日中戦争・大東亜戦争に関した本を近づけることにした。レンタルビデオは、「太平洋戦史・上下」などになっていき、例えば昨晩は「真夏のオリオン」を観ていた。


僕が二ヶ月前に硬派宣言をしたのもこういう伏線があってのことだが、付け加えれば数年前に亡くなった親父のことがある。フィリピンの捕虜収容所で終戦を迎えた親父は、戦後、結婚して二人の子供をもうけた。にも関わらず、二人の子供に戦争体験を語ることはなかった。しかし、親父の噂は戦友とか金津で近かったひとから時々聞いた。


何故人生での最も過酷な体験を家族に語ることがなかったかが、最近ようやくわかるような気になった。それと同時に大日本帝国陸軍海軍の犯した過ちを我々後世の世代が勉強するのは、人間としての義務であると思うようになった。

それはともかくとして
CAD図面と格闘している最中、傍らのラジオで、某NPO法人の代表が温泉旅館のバリアーフリー化を訴えている。聞いていて、「芦原温泉のバリアーフリー化はどうなっているんだろうか」といぶかしんだ。


一口に障害者といってもいろいろだ。
・・先ず初めに思い浮かべるのは四肢障害者である。その対応は段差解消であったり動線での手摺設置であったりするのだが、例えば視力障害者にとってのそれは、床に点字ブロックを貼ったり受付の案内本の点字化が進んでいるかどうかだ。僕が普段付き合っている聴力障害者にとってのバリアーフリー化とは、受付に手話のできる人がいるかどうかだが、残念ながらいないだろう。


いや、それらが完備されていないとしても大切なことは、今流行の「おもてなし」の心(僕には恥ずかしくって口に出せないが・・)だ。つまりバリアーの部分を全身でカバーすることだと思う。


二十数年間に全国聾唖者大会出席のために、埼玉県の国立なんとかセンターへ行った。その日の晩、僕は福島県からきた聴力障害者と一緒に二人部屋に泊まった。眠る前、彼は「牧田さん、ぼくは今晩安心して眠ることができる。だって、どこのホテルに泊まっても火事の際の急報は自動火災報知器で、僕らはそれを聴くことができないんだよ」と言ったのである。


あれから幾星霜。芦原温泉の対応はどうなっているんだろうか。

2013/10/01 (火) きょうから10月

昨日
高校時代の同窓会があるとのことで里帰りしている妹と一緒に喫茶店へ行き昔のあれこれを語った。
昔から後悔だらけの人生だった。これからは、後ろを振り返らず前だけを見て歩いていこうと思った。


午後になると二人のGFが入れ替わりでやってきた。好むと好まざるとに関わらずこれだけ女性にもてる私は、やっぱり軟派なのかもしれない。
というようなどうでもいいことはともかく
山崎豊子が亡くなった。山崎と言ったら「白い巨塔」で、僕は原作を読んでいないが映画は観た。①大学病院というところ(モデルは阪大だったと思う)はあんなにエゲツナイところなのか②財前五朗役を演じた田宮二郎は二枚目ナンバーワンやなあ・・という印象が残っていて、もう一回観ようと一昨日にDVD「白い巨塔」を借りてきたばかりだった。


①医学部の陰湿な権力闘争に何故本来仁術者であるはずの医者が巻き込まれるのか、少なくとも当時は医者が医者であるだけで世間から尊敬されていた時代だったはずなのになあ、と思った。
しかし、僕には尊敬という概念が実感としてよくわからない。尊敬の反対語は軽蔑なのだから、人間に対してその双方の感情を持っていることが、尊敬という特殊視を生み出す前提となるのだが、あいにくと軽蔑概念は差別視につながると思っている僕は、そういう感情つまり尊敬軽蔑の感情を基本的に持たないことを是としている。


②笑顔の素敵な田宮は43歳で猟銃自殺をしてこの世を去った。このことのほうが、僕にはショックだ。世を去った本当の原因は本人しかわからないのかもしれない。しかし、山本陽子という絶世の美女を彼女にしていてなんの不満があったのだろうかとついつい思ってしまう。生きていてもっともっと活躍してほしかった。