大岡昇平の「野火」や森村誠一の「ミッドウエイ」などの戦争記録文学は世に知られているが、フーコンのことは全然知らなかったので、昨晩は古山高麗雄が書いたその「フーコン戦記」を読んでいた。
軍の司令部が兵士達を屑のように扱い、飢えと疫病が充満する白骨街道にどうして送り込んだかを、既に70代に入ろうとする元従軍兵士・辰平の回想というかたちで描いているのだが、戦闘を大きくとりあげるでもなく心理の内面に深く切り込むのでもなく、要するに戦時下を淡々と描いている。
辰平は、戦争未亡人・文江と知り合ってから、将校達の書き残した記録を読み始め、自分がどこを逃げ迷ったのかを調べるのだが、調べつくしても、分るものは分る分からないものは分らない。
「戦争の作戦は、軍の一番上の方で決めて下達されるだけで、命令が下れば、何万人もの人間が動き、死ぬものは死ぬのである。」
「二度と戦争を起こさないために、戦争の悲惨を語り継ごう、などと言って、戦争を知らない若者たちに、戦場や空襲の話をしたり、それを印刷物にしている人たちがいる。あれも嘘であり、嘘ではない。だが、あれは、本当は平和のためではなく、大変な目に遭った自分の話を聞かせたいのが第一で、平和のため、というのは、名目である。」
抑制の効いた描写が一貫していることによって、ぼくは不思議な感動を覚えたし、フィリピン戦線を経験したぼくの親父がその体験を子供にすら語ることなく逝ってしまったことの意味が少しわかったような気がする。
ズボン吊りの長さを某女性に調節していただいたので
ついでに写真を撮ってもらいました。 |