2013年11月

 2013/11/30 (土) トップは叡智の人でならなくては

吉村昭著「彦九朗山河」の彦九朗とは寛政期の儒者・高山彦九朗のことで、この小説は彼の諸国見聞記。ちょうど半分ほど読み終えたところで、煙草(ラーク9mg)に火をつけ目を閉じた。


後の世に林子平などと並んで寛政の三奇人のひとりと謳われる高山彦九朗は上州で農民の子として生まれるも、先祖が新田義貞の家来であったことによって勤皇の思い極めて強く、儒学者を志し勉学に励み有名になっていった。


当時は通信手段が発達していなかったので、彼はより深く自己研鑽するために諸国を旅して「これは!」と思う男と酒を酌み交わし、藩の政治経済の適不適を語り合い続けた。


寛政の前は天明。天明といえば何と言っても「天明の大飢饉」で、東北列藩の飢饉に対する対応はまことにだらしなく、一人の餓死者も出さなかった上杉鷹山の米沢藩と松平定信の白河藩を除いて、他は無茶苦茶だった。


無茶苦茶とはどういうことかというと
徳川開府以来百数十年を経て、武士階級はすっかりサラリーマン化して、己の利権つまり御身大切だけの守旧派だらけになってしまった。当然、領民の生活を担保すべき「予期せぬ大災害に対する米の備蓄」などの防災対策は全く皆無だった。


例えば南部藩のある村では
家の米びつが空になると、領民は山中深く分け入り野生の山芋を探し椎の実を探す。領民の頭にあるものは24時間食い物のことだけである。地中のものあるいは木の実などがなくなると次に馬牛を殺して食べる。明治以前だから獣類は勿論御法度で、食べれば獣になると信じられていたが、生きるためにはそんなこと言ってられない。


幽鬼のようにさまよい地べたに横たわり、一人ひとりと死んでいく。身体の弱い者から死んでいく。死者は土中に埋葬される。土中が死体だらけで埋葬できなくなると、死体は近辺の川に流される。


生き残った住民は川の上流から流れてくる死体を引き上げ、小刀で死肉を削り取って食う。更には埋葬した家族の死体を掘り起こして食う。食うことによって命をつないだ者もやがて死ぬ。まさに中世絵巻・餓鬼道の世界で、土地の人からそれらの話を繰り返し聞かされた彦九朗の武士階級に対する憤怒は頂点に達するのである。


この下りでぼくは、坂井町大関の用水路脇にある石碑「振袖地蔵」を思い出した。あの石碑も涙なしで読めるものではない。







名前  : とんぼ
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1 客用布団 枕 多数あり2 座布団  多数あり3 座椅子4 器 お盆 お銚子 盃 多数あり5 器入れ箱 多数6 客室金庫(鍵付き) 横48cm 高さ38センチ 奥行き30センチ 10台7 その他備品多種類御希望の方 連絡ください 電話 78-7666 長谷川まで

 2013/11/29 (金) 無題

対人恐怖におののく私にしては珍しく、昨晩は客人の来訪があった。
紺色の丹前姿と焙じ茶で客人に応対し「この世の無常」を話し合っているうちに、柱時計が午前零時をうつ。


雪の降りしきるなか、ふたりの客人の影は夜の闇のなかに消えていった。


ひとり残された私は、しかし左足の痛みがひどく寝付かれない。仕方なく、山本一力著「粗茶を一服」を夜明けまでに読み終えた。

2013/11/28 (木) 無題

 名月や 座にうつくしき かおもなし 芭蕉
この句を芭蕉はどこかの句会で詠んだ。その句会の題は「名月」。人間の心底に潜む嫌らしさを詠んだ句である。


句会に出席した面々は「よおーし、きょうは芭蕉大先生が添削してくださるのだ。俺は絶対一番になるぞ」との決意のもとに名月を見ている。そして、こういう思いで見ている面々の顔は醜いのだ。自分を他人よりよく見せようという意識が働いている限り、名月に没頭することはできない。無心から生じるという芸術のイロハから隔たってしまうのである。

 2013/11/27 (水) 深夜に左足マッサージに励みながら

11月24日のブログで林清子著「黄水仙の見た夢」に触れたが、その二日後に男女3人で喫茶「ことのは」へ珈琲を飲みに行った時、たまたま居合わせた女性(前期高齢者)から、庵主さんの墓の本当の所在地を聞いた。


彼女は庵主さんと一緒に暮らしていたので、庵主さんの全てを知っており、藤一に恋焦がれたのも別の女性であって、「庵主さんと思ったのは、牧田さんの読み違え」であることを指摘された。


「ことのは」からの帰りに寄った庵主さんの墓は、金津町水口区の六地蔵脇に在った。





自分の生活ゾーンにこういう類い(たぐい)を発見するのは、ささやかな幸せだ。加えて言うならば、墓所は一般道路面から1mほどレベルアップしており、上がるには数段の階段を使わなくてはならないが、ただ今筋肉故障中の私には介添が必要で、美しい女性に手を引いてもらっての介添をしていただいたのも、私に幸せ感をもたらした。

2013/11/26 (火) きょうは忙しくなりそう

丹前姿が似合う私





白崎昭一郎著「橋本佐内」を半分ほど読み終えた。


嘉永2年(1849)に、16歳の橋本左内が大阪・適塾を目指して福井城下を出立するところからこの物語は始まる。


15歳の時に書いた「啓発録」のなかで「立志」と題して「志立テタル者は恰モ江戸立を定メタル人ノ如シ。今朝一度御城下を踏出シ候ヘバ、今晩は今庄、明夜は木ノ本と申ス様ニ、遂々先ヘ進ミ行申候者ナリ」と書いた。まさに青雲の志である。


左内は代々越前藩主の表医師をしていた家柄の嫡男で、父・彦也は松平春嶽を診ていた。


左内は、父親の期待を背負い立派な医者になるため適塾に入り、蘭語のエキスパートとなっていくのだが、その過程で、「米欧ロシアなどが虎視眈々と日本侵略を狙っているこの激動の時代に私がなるべきは医者ではなく、行動する志士なのだ」との結論に至る。


鈴木主税亡きあと、松平春嶽の懐刀となり、将軍徳川慶喜擁立のために奔走するのだが、時の大老・井伊直弼から睨まれ、いわゆる安政の大獄で、弱冠25歳の命を閉じる。


この物語は橋本佐内と交流のあった人たちの人生をもかなり克明に描いていて、例えば若州藩士・梅田雲浜の逸話などむしろそっちの方に興味をそそられた。


幕末の志士・梅田源次郎雲浜は赤貧のなかで生活するも大酒飲みで、気の合う友人があばら家を訪れれば酒肴でもてなし天下国家を論じる男で、要するに経済観念ゼロだった。その雲浜を裏で支えたのが妻・信子。


ある日友人が来て酒肴が出された。双方酔っ払ってきた頃、襖で隔てられた隣室から美しい琴の音色が聞こえてきた。「?」と思った雲浜が襖を開けると、信子が襦袢姿で琴を奏でていた。要するに、信子が自分の着物を売って夫の友人をもてなしたわけである。


この下りで思い出したのが、「月さびよ明智が妻の話せん」
ものの本にはこう書いてあった。


明智光秀は明智城が滅ぼされた後、称念寺を頼って越前へ来る。称念寺門前に寺子屋を開くが、生活は貧しく朝倉家仕官の芽もなかなか出ない。やがて、朝倉の家臣と連歌の会を催すチャンスを、称念寺の住職が設定する。しかし貧困の光秀には資金がない中、妻の熈子がその資金を黙って用意した。称念寺での連歌の会は、熈子の用意した酒肴で大成功に終わり、やがて光秀は朝倉の仕官がかなう。しかしその連歌会の資金は、実は熈子が自慢の黒髪を売って、用立てたものだった。光秀はこの妻の愛に応えて、どんな困難があっても必ずや天下を取ると、誓ったのである。


江戸期までにはこういう女性もいたのだ。平成のこの世では、日本じゅうさがしてもまず居ない。それが良いのか悪いのかはわからないけれども、まず居ない。

2013/11/24 (日) 本日は大相撲千秋楽

昨日の午後1時半から坂ノ下八幡神社で新嘗祭が挙行され、ぼくも参加した。
仏式イベントで聞かされるお経は全て漢語読みで意味不明であるのに対して、神主が奏上する祝詞は古語ではあっても日本語なので一応は意味が理解でき、奏上中に意味を反芻することが退屈しのぎになる。日本は神仏習合の国なのだから、この落差をもっと考えてくれてもいいのじゃないか。


ということはともかく
今朝の来訪者が「串茶屋遊女の墓」に行ってきたと言う。パンフを見ているだけで、行ってみたくなる。


ここ金津町も江戸期は宿場町で、遊郭街には美しい遊女が沢山いて、「金津八日町 ほうきはいらぬ 揚屋小女郎の 裾ではく」の戯れ歌が流行ったほどだ。又、坂ノ下八幡神社界隈には青楼無縁塚があって、その石碑には「姫川の 俤ゆかし 枯れ柳」の句が彫ってある。


しかし、「串茶屋遊女の墓」は各遊女の名が彫ってあり、スケールが絶大で、本来、「淫売」と蔑ませられる対象であった遊女たちを、共に同じ地域で生きてきた人たちという認識の下に、手厚く葬った結果の所産であろう。

2013/11/23 (土) 熱々珈琲を飲みながら

よくわからない。


昨日の朝、ぼくは開業医へ出かけ、ある部位の診断を受けた。X線写真撮影後に診療費を払って医院を出た。


仕事の打合わせなどでいくつかの場所をまわり事務所に戻った午後、医院から電話が入った。「牧田さん、履いて帰ったズックを間違えていないでしょうか」と言う。履いて帰ったズックをチェックしたところ、大変に似てはいるものの、自分のものとは確かに違う。


早速、そのズックを持って医院へ行った。受付で、「申し訳ありませんでした。謝りに行きますので、被害者の方の住所と電話番号を教えてください」と言ったのだが、「いいです。ご本人も気にしていませんし・・。第一、個人情報を言うことはできないのです」が答え。何度か懇願したのだが、同じ答えが戻ってきた。


自宅に戻ったが、どうも釈然としない。他人のズックを自分のズックと間違うほどに認知力が衰えているとはいえ、ぼくは明らかに加害者である。加害者は自分の加害に気づいた時、謝るのが社会生活を営む上で最低限のルールだろう。しかるに個人情報保護法案が、謝罪の壁となっている。


犯罪というほどでもないが、極端に言えば、犯罪者が被害者に謝罪もできない世の中になりつつあるのか。

2013/11/22 (金) もう週末か

林清子著「黄水仙の見た夢」から
 

 ● 指きりはね切り 死んでもかまはん
親は極楽 子は地獄 「演仙寺物語」
 ● 公園は学校の裏にあった。公園といっても、小高い山を開拓し、平地にしているだけで、ベンチ一つあるではなし、なんの変哲もなかった。ただそこには、正面に忠魂碑、上り口に身の丈二メートル余りの優美な観音像が祀られてあった。この観音像は、この町の出身者が、町の繁栄と町民の幸福を祈願するために、寄贈したとのことである。
 ● その庵主さんも、平成十年三月二十九日に九七歳にて死去された。
 ● 藤一は日本人として、初めてソ連の戦闘機を撃墜したのだ。この戦功により、彼には金鵄勲章が授与された。





ここに出てくる藤一は、ぼくの友人で、今、創作の森で喫茶「ことのは」を経営している小泉クンの叔父さん。結局空中戦で亡くなってしまった藤一を庵主さんはひそかに恋焦がれていた。いつだったか彼の写真を見たことがあるが、眉目秀麗の青年。
そのことを小泉クンに言うと「確かに美形だった。若い頃のまきちゃんに負けないくらいだった」という答えが返ってきた。


ぼくは、庵主さんの墓が雲雀ヶ丘寮北側の墓地のなかにあると、知人から聞いている。きょうにでもお参りしてこよう。

2013/11/21 (木) 小松の那谷寺

石山の 石より白し 秋の風


芭蕉が奥の細道紀行で那谷寺へ寄った際に詠んだのがこの句だ。
ここの紅葉の見事さに惹かれて、ぼくは毎秋訪れていたのだが、年毎に同行者を変えて訪れていたのだが、今年はその機会を逸してしまった。


石山はむしろ奇岩で、岩肌に雪が降り積もる風景も味があるだろうと思うので、今年はマイカーをスノータイヤに変えての完全装備で、ここを訪れたい。

013/11/20 (水) 昨日の一日

昨日は最悪だった。
外出の必要性があって、夕刻に車を動かそうとしたのだけれども、ウンともスーともいわない。氷雨のなか、ボンネットをあけてバッテリーコードの接続を調べたが、故障の原因がよくわからない。


自動車は走ればそれでいい」とだけ思っている車メカ音痴のぼくに故障の原因がわかるはずもなく、「明日になったら自動車屋に連絡しよう」と思い、外出を諦めて部屋に戻った。


氷雨で冷えた身体を温めるために熱い風呂に入ったが、悪寒が止まらない。眠れそうもないので、仕方なく、池波正太郎著「剣客商売・暗殺者」を読んでいたが・・


柱時計が深夜の午前零時を打った頃に、携帯電話が鳴った。優しい声を聞いているうちに悪寒は吹き飛び、明日への活力がわいてきた。

2013/11/19 (火) 納豆を食べながら

五色をまじえた色彩は人の目をくらませる
五音をまじえた音楽は人の耳をだめにする
五味をまじえた料理は人の味覚をそこなう
乗馬や狩猟の歓楽は人の心を狂わせる
手に入りにくい珍品は人の行動を誤まらせる  孝子


ということで、最近のぼくは和色に凝っている。和色つまり日本の伝統色は草木染めや花の色に由来するものが圧倒的なのだが、色見本で桔梗色や山吹色を見ていると平安王朝の世界にタイムスリップした気分だ。


問題は色が色自体で表現体とはなり得ないことにある。色つまり染料は基盤に付着して初めて具象となるのだが、基盤が鉄板であるか布であるか紙であるかエトセトラであるかによって、色調がさまざまに乱れるのである。


乱れの好きなぼくは、事務所サロンに藍染の布をたらしてみた。





空気の流れによる布の微妙な動きあるいは色調の変化に目がついついいってしまう自分はやっぱり色好みなのだろう。

2013/11/18 (月) 新しい週が始まる

高田宏著「雪 古九谷」を読み終えた。


高田宏はお隣加賀市の出身で、この小説の基調は詩的イメージだ。
時代背景は寛永年間で、主人公は九谷焼きの釜場で働くててなし子・太吉。この男の絵師としての才能の開花を暖かく見守るのが加賀藩銀座役・後藤才次郎。才次郎は、大聖寺藩のおかかえ絵師たちの時流迎合に眉をひそめ、本当の芸術発掘を至上命題とし、結果として加賀藩主から蛇蝎の如く嫌われている。
そして男としての太吉をまるごと愛し生活を支えていくのが、幼なじみ・りん。
この小説は、言ってみればこの三人のトライアングル人間模様の描写小説と言える。


太吉の父親は隠れキリシタンだった。時の政府の厳しい追及の手を逃れるために山中温泉よりも四里東側つまり奥山にある九谷焼きの釜場に逃げ込み、浮世とは隔絶した厳しい労働の日々を送るのであるが、ある日、ついにその素性が発覚し、磔の刑に処される。
父親は釜場で働く女性・すずと情を通じており、すずは胎内に太吉を宿していた。


処刑の翌日、すずは出産した太吉を谷川の岩の上において、身投げを敢行する。偶然その場に居合わせた才次郎は、下女に太吉の生育を命じる。
異常な星の下に生まれた太吉は、現世への嫌悪とアーメンの隣人愛を併せ持ち、長じるに従い絵師としての才能を発揮する。その才能は藩のお抱え絵師のようなただ綺麗で上品なだけのものとは全く別のものであった。


太吉によって描かれた山中の自然、つまり谷川を泳ぐ魚や空を飛ぶ鳥は、目に見えるそれではなく命そのものの発露であり見る人の魂をゆさぶらずにはおれなかった。
太吉には師が居なかった。師が居なかったからこそ、既成概念を持たずに自分の世界を画帳にぶつけることができた。


しかし藩主(利長だったかな)の審美眼ではこれを理解することができず、藩主と太吉・才次郎・りんの三人組との間の確執だけが深まり、とうとう三人組が釜場を去る日がやってくる。
才次郎は太吉に「最後だ。お前の一番好きなものを九谷の焼き物に絵付けしてくれ」という。思案した太吉が選んだ題材は、妻・りんの裸体だった。


出来上がった平大皿に乗り移ったりんの裸体は、言葉での評価の域を超えていた。才次郎は皿の前で、ただ涙するばかりだった。


才次郎は、「ヌードを描いた焼き物などかってなかった。藩主が知ったら切腹ものだ。おまえたちはこの皿を持って山に逃げろ。そして山中の地面を掘って隠してしまえ。300年ののちにこの皿が発見された時、お前は評価されるだろう」と言って、才次郎自身も釜場を去っていく。


これが小説のエンデイングなのであるが、芸術の分野での天才は、ゴッホがそうであったように、後世に評価されるものなんだろう。

2013/11/17 (日) きょうはCAD

高橋克彦著「だましゑ歌麿」。
寛政年間に起こった押し込み強盗事件を探索する南町奉行所役人・仙波一之進は、探索の過程で、時の老中・松平定信の、前老中・田沼意次の贅沢奨励政治に対する徹底した反キャンペーン即ち贅沢弾圧的緊縮奨励政治を憤る江戸庶民の感情が背後にあることをつきとめる。


仙波は他の役人とは別人ともいうべき変わり者で、賄賂や色事遊興への誘いに対しては唾をはきかけるのみ(このへんは私のようだ)・・ひたすら緊縮政策を推し進める松平政治の理念に沿って働いてきたのであるが、吉原界隈を調べ歩くうち、ささやかな贅沢を奪い取られた江戸庶民の反政府的感情を代弁して動いているのが当時人気絶頂の浮世絵師・喜多川歌麿であり、彼のサポーターだった版元・蔦谷重三郎でありあるいは歌麿よりも10歳若く当時はまだ無名だった葛飾北斎であることを知り、彼らの思いに共感していく。


押し込み事件の真実に近づきつつある仙波の動きは、上司たちにとって目の上のたんこぶで、彼は南町奉行所配属を解任され、盗賊など荒くれ者を捕縛する役目の火付盗賊改職に配置換えされるのだが、にもかかわらず押し込み事件の真実に切り込むため、非番の日をそのさらなる探索に充てる。


彼にとって運が良かったのは北町奉行・初鹿野が仙波と同種の石頭人間だったことで、二人は共闘してついには事件の全貌を顕わにし、最後には松平定信にお目通りして全貌を報告する。


白河藩主・松平定信は「そうか・・そうだったのか。わしは田沼の贅沢奨励政治が人心をまどわすと思い、倹約しつつの地味奨励政治でまことの人心をとりもどすことができると思ったのだが、早計だったのかもしれぬ・・。」


仙波一之進は「殿、庶民はささやかな贅沢で明日への鋭気を養うことができるのでございます。お上の政治は人心に敏感であることが必須要件でございますぞ」と言う。


定信は「そちは希少動物のような男だ。上には歯に絹を着せず、下には傲慢のかけらもなく、そして無類の剣客だ。そちよ、白河藩の藩士となってわしの傍らについてくれぬか」と言う。


一之進は「ごめんこうむります。わたくしの上司はおてんとさまだけでございます」と言って、定信のドラフトを断るのである。

013/11/16 (土) ふるさと語ろう会・11月例会

昨晩は、中央公民館において「ふるさと語ろう会・11月例会」が開かれたため18人が集まった。





講師は語ろう会会員でもある市村先生。先生が自分で作製した「史実・伝承等の年表」を基にしての1時間半のレクチュアで、主に八雲神社の歴史、安徳天皇のこと、浜坂にある鯨塚のことだった。


★鯨塚 解説
浜坂の305号線を吉崎に向かって進むと、開田橋の手前で左へ折れる小さな路地がある。その路地を入ると民家や船着場が立ち並び、まもなく松林の中に入って行く。その辺りから舗装はなくなり、大きな松の根の張る砂の道となっている。
松林は美しく気持ちの良いところであるが、かって浜坂海水浴場が盛んであった頃のものだろうか、バンガローの残骸が転々と放置してある。見苦しいので何とかならないものかと思いつつもう少し先へ進む。
305号線から約900mほど進んだところで、左手、そこは浅い谷間になっていて、松の若木が群生している。その辺りの草木をより分けてゆるやかな坂を100mほど登ると、右側の松の木陰から小さな墓石らしいものが見えてくる。鯨塚の碑である。やっと見つけたという思いである。
江戸時代、この辺りには船着場や番所があって、この坂道を「ごまん坂」と呼んでいた。コナゴを運ぶと一荷ごとに5文の駄賃をもらったことから「5文坂」といい、それがなまって「ごまん坂」といわれるようになったと伝えられている。
芦原町の教育委員会が郷土カルタを作るために、平成9年6月、編集委員がこの碑の調査に出かけた。しかし、草木の茂る夏場であったので見通しが悪く、碑だと思って近づくと松の切り株だったりして、地元の人に案内してもらったが見つけるまでに半日もかかってしまったという。そこで、郷土カルタの鯨塚の読み句は「草と木につつまれて在る鯨塚」である。よほど生い茂る草木に邪魔されて難儀したのだろう。
私は11月の晴れた日に見学に行った。11月ともなると草や蔦は枯れて松林の中は遠くまで見通せる。だからかなり短時間に見つけることができた。
碑の見学に行く時、近くで野良仕事をしている2、3人の人に碑のあり場所を尋ねてみた。しかし、ある人は浜の方にあるといい、ある人はゴルフ場のコースの中に移されていると言って定かでない。碑があることは知っているが建っている場所までは関心がないのだろう。碑は草木に埋もれて人知れずひっそりと建っているので、すっかり忘れられているのだろうか。
しかし、浜坂の牧田栄蔵区長は、この碑を祀る小さな祠を建て、参道を整備して多くの区民がお参りできるようにしたいと言っていた。この碑が建っている山は小九朗といい照順寺の持ち山である。そこで、区長はこのことをお寺にお願いしたが「人が集まると空き缶やゴミを捨て山を荒らすことになる。」という理由で断られてしまったという。しかし、村を救ってくれた鯨の供養のためにあきらめずに何度もお願いするつもりだと、区長の思いは固いようであった。
さて当時(文化9年1812年頃)浜坂は、約170戸700人の大きな漁村であった。そして、男達は海で漁をし、女、年寄りは田畑を耕して家庭を守る平和な村であった。しかしそんな時、天候不順で不漁や凶作が相次ぎ、平和な村は苦しい生活に一変した。
芦原町史によると、鯨塚建立の前年の文化8年に一揆と思われる事件が発生している。
文化8年12月24日の晩、常名家(屋号は出店)へ浜坂の浦人(村人のこと)100人ばかりがやってきて金銭を要求した。常名家は金子15両と銀子65匁を渡したので、浦人は翌2月期限の借金証文を作成した。しかし金銭は返済されず事実上借りっ放しであった。この事件は常名家の柔軟な対応で荒ら立たずにすんだが、これは一種の一揆である。というのがその概略である。以上の記録でもわかるように浜坂は大変な困窮に喘いでいた。
そんな時、一頭の大鯨が浜坂の海に迷い込んできたのである。浦人は狂喜してその鯨を捕獲して食料とした。そして、その大鯨一頭のおかげで浦人は10日も飢えをしのいだと伝えられている。
鯨は古くは勇魚ともいわれていた。勇ましくたけき魚という意味である。そして、その勇魚が一頭捕れれば7浦(漁村)が潤うといわれていた。したがって、古来、人々は鯨を「福を呼ぶ神様」として信仰したり、捕鯨地に供養塔を建てたりして鯨に特別な思いを寄せていた。
県内には浜坂の他に、小浜線の本郷駅と和田駅の中程の青戸入江に面して鯨の供養塚が立っている。大正7年、飛島組工夫によって鯨が捕獲され、飛島組によって建てられたものである。
雄島の伝説に「雄島の神様が雄島に来るとき、波に乗せてくれと頼んだが断られたので、鯨に乗せてもらって雄島にやって来た。」という言い伝えがある。また、波松では、今でも結婚式には必ず鯨汁が振る舞われる。鯨汁がないと結婚式が成立しないということである。鯨の供養塚は日本海側には珍しいといわれているが、こうしてみると、県内郡内でも結構
、鯨との結びつきは深いようである。
                 (平成10年12月市村記)

  2013/11/15 (金) 今晩は「ふるさと語ろう会」

去る10月に開かれた高三・クラス会の模様がDVDとなって送られてきた。46年ぶりの再会であり、参加した面々の殆どとは、この世での最後の逢瀬となるだろうことを思うと、感無量のクラス会だった。


勿論、物故者も何人かいて、そのうちの複数名は自殺だ。「遺書を書いたのだろうか」ということが気になった。


ぼくは「遺書を書いて死んでいきたい」と思う者のひとりだが、反面、「本当の思いを書いたらやばい」と思う者のひとりでもある。


それはともかく
ぼくが今までに聞いた臨終の場での最後の言葉で一番印象に残っているのは、友人の祖母の臨終での言葉。


こんだけながいこと生きてきたけど、
        一日たりとも飛ばした日はなかった。
 

2013/11/14 (木) 早朝のぼくは幸せな気分

 昨日の午後1時、ぼくはあることに気がついた。
 

足を損傷したぼくは、今週末の予定を全てキャンセルし、整骨院に通ってリハビリに専念している。日常生活での一番のさしさわりは歩行が困難なこと。


 10メートルも歩くと左足に激痛が走り、うずくまってしまうのだ。議員時代に「あわら市議会のアラン・ドロン」と噂され、端正なマスクとともに引き締まった裸体が賞賛の的だったぼくは、「外見がすべて」をモットーとして生きてきた。それだけに今の状態は口惜しい。


 ところが、自宅内を歩く時は痛みを覚えずスムーズに歩くことができる。この違いはなんだろうと考えた時に思い出したのが、10数年前に福井市内の建築家・Sさんが僕に語ったこと。


 「小中校が鉄筋コンクリート造や鉄骨造になってから、児童生徒の膝が相対的に脆くなった。木造床だと床材の下に空隙があって弾力性が維持されるのにだ。学校は絶対に木造がいいのだ」が語った内容だが、はからずも、ぼくはそれを実感したことになる。

2013/11/13 (水) 無題

昨晩は、首と肩と足の痛みがひどくて、とても眠れるような状態ではなく、仕方なしに「フーコン戦記」を読み続け明け方に読み終えた。


 著者はあとがきのなかで
「今は太平洋戦争と言っている半世紀前の戦争を、私たちは大東亜戦争と言っていたが、あの大東亜戦争の敗戦で、日本帝国の軍隊はなくなった。
 あの軍隊は国民皆兵の軍隊であった。兵役と納税と、初等教育を受けることは、国民の義務だと国法で決められていたが、子供を学校に行かせなかったからといって、たちまち親が牢にほうりこまれるわけではない。脱税もよほど悪質のものでなければ、ただちに牢に投じられるわけではない。だが徴兵を拒む者は、悪貨も良貨も、情状酌量もない、蔑むべき犯罪者であって、大人だけでなく、家族親戚までが迫害された。
 それを当然だと思っていた国民が、満州や支部那大陸、南は東南アジアの広汎な地域に送られ、他国を荒らし、盛大に死んだ。
 私は、徴兵は当然だとは思っていなかったが、拒むことはできなかった。私も徴集されて戦場に送られた。
 私が送られたのは、東南アジアで、私は終始最下級の兵士であったが、戦後のこの国の人たちの戦争の語りように納得の行かないものがある。
 たとえば、インパールの悲劇が、あれほど大きく賑やかに語られるのに、中国雲南省や北ビルマの戦いを語らずにビルマの戦いを伝えることはできない。本書の文中にも書いたが、雲南、北ビルマの戦いを語らずにビルマの戦いを伝えることはできない。だが、ビルマの戦いの本道を伝える伝えないのということは別にしても、私は雲南、北ビルマを書きたかったのである。・・」と言っている。

 2013/11/12 (火) フーコン戦記

大岡昇平の「野火」や森村誠一の「ミッドウエイ」などの戦争記録文学は世に知られているが、フーコンのことは全然知らなかったので、昨晩は古山高麗雄が書いたその「フーコン戦記」を読んでいた。

軍の司令部が兵士達を屑のように扱い、飢えと疫病が充満する白骨街道にどうして送り込んだかを、既に70代に入ろうとする元従軍兵士・辰平の回想というかたちで描いているのだが、戦闘を大きくとりあげるでもなく心理の内面に深く切り込むのでもなく、要するに戦時下を淡々と描いている。
辰平は、戦争未亡人・文江と知り合ってから、将校達の書き残した記録を読み始め、自分がどこを逃げ迷ったのかを調べるのだが、調べつくしても、分るものは分る分からないものは分らない。

「戦争の作戦は、軍の一番上の方で決めて下達されるだけで、命令が下れば、何万人もの人間が動き、死ぬものは死ぬのである。」


「二度と戦争を起こさないために、戦争の悲惨を語り継ごう、などと言って、戦争を知らない若者たちに、戦場や空襲の話をしたり、それを印刷物にしている人たちがいる。あれも嘘であり、嘘ではない。だが、あれは、本当は平和のためではなく、大変な目に遭った自分の話を聞かせたいのが第一で、平和のため、というのは、名目である。」



抑制の効いた描写が一貫していることによって、ぼくは不思議な感動を覚えたし、フィリピン戦線を経験したぼくの親父がその体験を子供にすら語ることなく逝ってしまったことの意味が少しわかったような気がする。


 

ズボン吊りの長さを某女性に調節していただいたので





ついでに写真を撮ってもらいました。

 2013/11/10 (日) きょうから1週間の始まり

一昨日の夜はあわら市在住の建築設計業者二人が来訪。これからの設計稼業の在りかたについていろいろ話し合った。私の場合、ここ十数年の議員在職時代は当然のことながら市の仕事をしてこなかったので、最近の入札方法がよくわからず、二人の話が非常に参考になった。


昨日の日曜日は、雨音を聴きながら津村節子著「星祭りの町」を一心不乱に読んでいた。吉村昭の嫁はんの津村は福井県・鯖江市で生まれ小4までを当地で過ごす。父親の急死によって鯖江を離れ埼玉県入間川町に向かった。


ということくらいは知っていたが、今までに一冊の著書も読んだことがなく、今回が初体験だった。父と母を失った津村姉妹及び祖母4人が向かった入間川での生活が始まったのは大東亜戦争敗戦直前で、その頃の津村家の生活を描いている。女4人の、時代に翻弄される家族を描いている。


ぼくは、この本を読んでいるあいだ、津村と同じように女学生だったお袋の戦時中の生活を想像し続けていた。


それはともかく
寝違いに拠る首の痛みがひどく昨晩は一睡もできなかったので、きょうの朝一番に整骨院へ行った。


「先生、左首が痛く左腕が痛く左膝が痛くて、潮来の伊太郎 です。」と症状を申し上げ丁寧にケアしていただいたのだが、「いつでも楽な姿勢でいると、筋肉が縮んで炎症をおこしたりします。時には敢えて楽ではない姿勢をとってリハビリに励むことが必要です」と言われた。


生きている限りは健康であるほうがいい。頑張ってリハビリに励もう。

2013/11/09 (土) 宴(うたげ)

昨晩の事務所は6人での宴(うたげ)の場となった。男たちのことは省くとして、3人は女盛りのひとたちでとても楽しかった。生きることの充実感を味わうことができた。


酔うにつれ、3人の目線は私の横顔に集中する。男性的魅力の観点からそうならざるを得ないのだが、これにはちょっと困った。

2013/11/08 (金) もう週末か

書物のなかに海がある
心はいつも航海をゆるされる


書物のなかに草原がある
心はいつも旅情を確かめる


書物のなかに町がある
心はいつも出会いを持っている


人生はしばしば
書物の外ですばらしいひびきをたてて
くずれるだろう


だがもう一度
やり直すために
書物の中の家路を帰る


書物は
家なき子の旅        寺山修二「あなたに」


ということで
年金生活者目前になってから本の世界に惹かれ始めたが、もっと若いうちから読書に浸ればよかったと思う。図書館や本屋で並んだ本の背表紙を眺めると、99.9%以上が読んでない本で、このまま死んでいくのがいささか残念。

左肩が全く上がらないようになってしまったので主治医に診てもらったら、50肩とのこと。
「これからは、アルコールをセーブしリハビリに励まなあかんなあ」と思っていたら、とんぼさんから「自転車トレーニングの器具要らんか」と言われたので、今朝ありがたく頂いてきた。真面目にトレーニングをするつもりです。

2013/11/07 (木) きょうはCAD三昧

昔から一番好きな食い物は道草だった。これほど美味しい食い物は他にはないのである。


昨晩読んだ赤瀬川隼著「人は道草を食って生きる」は序文でこう書いている。


「人は何を食って生きていくのか。道草を食って生きていく。道草こそが、人が生きる上で最良の滋味あふれる栄養源である。今、七十年に近い僕の半生をかえりみると、そのすべてが螺旋状あるいは葛折状の軌跡を描いてきたように見える。そして、そのすべてに「道草」の名を与えてよいように思える。これからもそうだろう。
しかし、ここでことばの矛盾を思い知る。すべてが道草なら、道草なる語は使えないのではないか。なぜならこの語は、本道あるいは主目的といったものを想定したさいに初めて、それを外れるものとしてあるものだから。いったい、おまえの本道なり生きる主目的は何なのだ。
こう聞かれたら、僕は躊躇泣く答える。「そんなものはない」
かくして僕は、この言葉の矛盾を死ぬまで解決することができないだろう。
人生に目的はあるのだろうか。そんなものはないし、考えないほうがいいと思う。ビッグバンに始まった宇宙の生成に目的や意図がなかったのと同じように、その末の星の成分から生命を帯びている人間個々も、目的や意図をもって生まれてきたわけではない。生物として生まれてきたから生きてゆくだけだ。人生論というものに僕は関心が向かない。
ただ、人間だから、真偽、善悪、美醜を自分なりに峻別するセンスは培っていきたい。
それを培う場は、「人生の目的」と錯覚されているものへの人為的直線的な突進ではなく、螺旋状にふくらむ雑草の中にこそあると思う。
この稿では、、それをもう少し敷衍してみようと思う」

 2013/11/06 (水) ネバーギブアップ

どうしたわけか、数日前に寝違いになってしまった。ネックウオーマーを首にまいたり、サロンパスを貼ったりしたが効果なし。


寝違いが生命に関わることはないにしても、ズキズキの痛みに始終襲われて、うっとおしいことこの上ない。外へ出ても、横を向く時に身体全体で向き直しをせねばならない。夜もなかなか眠れないし、酒で癒やされるわけでもない。


「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」、明日を待つしかない。



それはともかく
議会事務局で、私の写真入り新聞の千束一里塚記事をもらってきました。いい顔に写っていると思います

 2013/11/05 (火) 加佐ノ岬倶楽部

昨日はCADの合間を縫って、加賀市橋立町にある加佐ノ岬倶楽部カフェへ行った。カフェ店主が、10月27日日記で紹介した宮本昭夫さんであり、またまた話を聞きたくなったためである。




お会いするのは今回が確か4度目だった。
宮本さんのような語り部があわら市内にも居ればいいなあと思いました。

2013/11/04 (月) 本日は旗日振替休日

明け方に、新藤兼人の遺作「一枚のハガキ」を観終えた。


昭和35年に500万エンの低額予算でつくった、無声映画のような「裸の島」で覚えた不思議な感動が頭にこびりついていたし、愛人→妻の乙羽信子をいつも「乙羽さん」と呼んでいたその語り口に誠実さを感じていたぼくは、DVDレンタルショップでこの作品をみつけすぐに観たのだが、期待にたがわずいい作品だった。


森川友子(大竹しのぶ)は、戦争で愛する夫・森川定造(六平直政)をなくし、定造の弟・三平と再婚するが三平も又戦死。
世を儚んだ姑夫婦が病死・自殺して全くのひとりぼっちとなった友子の家を、軍隊で定造の同僚だった復員兵士・松山啓太(豊川悦司)が訪れ、物語の展開に深みが増していった。大竹の演技が画面を引き締めていった。

 2013/11/03 (日) 昨日の一日

昨日の午前8時半。ぼくはあわら市庁舎3階の正庁に居た。市及び教育委員会の功労者表彰式出席のためだ。


市政に功労した覚えなどないぼくが何故対象のひとりになったか・・それは何期か市議をやっていると、人格に関係なく自動的に表彰の対象になるとのこと。ぼくは、賞状じゃなくて副賞が何かということに興味があった。


ところで
式に出席していた現職市議の何人かから、「まきちゃん、今朝の新聞に,千束一里塚を説明する姿が、大きな写真入りでかっこよく出ていたぞ」と言われて、1週間ほど前に県民福井の記者が取材のために来訪したのを思い出した。ぼくの家は県民福井をとっていないので、式終了後に市内コンビニのいくつかへ新聞購入のために走ったのだが、いずれも既に売り切れていた。


「どのみち、ぼくの女性ファンたちが先を争って買ってしまったのだろう」と思うと、ぼく本人が読めなくても腹はたたない。


ということで、福井市内の工事現場へ車を走らせたあと、事務所へ戻り、素うどんを食べていたところへ妙齢の美女があらわれた。続けてVIPが来訪。4時間ほどなんやかんやとしゃべりあっていたのだが、話題が表彰式にうつった時、美女は「なんで市議経験者に功労賞をわたさなあかんの?自分で立候補して当選して対価として報酬をもらっていたんだからそれで充分じゃないの・・」と言う。
「お説ごもっともやなあ」とぼくは思った。

2013/11/02 (土) やや疲れ気味

凡庸な教師は指示をする。
いい教師は説明する。
優れた教師は範となる。
偉大教師は心に火をつける。  ウイリアム・ウオード

2013/11/01 (金) 反省

昨晩のプロ野球日本シリーズ「楽天vs巨人」第6戦。
9回のワンアウト1塁・3塁で則本が内野安打を打たれて同点とされ、なおも塁上には二人のランナーがいる。

この時点で「もうあかん、逆転負け必至や。原監督の談話笑顔など見たくもない」と思った僕はテレビのスイッチを消し、そのあとはずっと読書。


朝になっても新聞に目を通さずテレビのスイッチも点けなかったのだが、朝食時に妻が「楽天、延長10回で勝ったんやよ」と言う。


「しまった。しびれるような試合を最後まで見るべきやった」と、反省した次第です。