2013年12月

2013/12/31 (火) 一年間の回顧

このブログを読んでくださる少数のみなさん、今年一年間のご愛顧どうもありがとうございました。一年間を振り返ってみます。
今年の6月から私の生活は大幅に変わりました。


15年間の議員生活に別れを告げたことによって交友関係も少なくなり、スーツ+タイの正装スタイルはカジュアルなものにかわり、建築設計の仕事以外での外出は殆どなくなり、あれだけ頻繁にあった温泉や料亭での親睦会と称する飲み会は、肩の凝らない限られた友人たちとの「人生を考える飲み会」にバージョンアップし、しかもその場所は「居酒屋おまき」なので、ここをしゃばとは隔絶した日本古来の伝統的和調空間にするために努力してまいりました。


議員の仕事はしゃべることであったのに対して、建築設計の仕事は書くことにあります。いきおい口数は減り、考えることつまり妄想することが増え、「寡黙なまきさん」が私の代名詞となってきました。


今年の7月、8月は、夜な夜な白ワイン片手にオープンカフェに出て、煌めく星々をつまり137億年経った宇宙を飽きもせず眺めるのが日課となっていました。眺めながら、「私はどこからきたのか何故生きているのかどこへ行こうとしているのか」を考えているうち、私は「硬派」に変身しました。「心の奥底に哀愁を抱きながら外見は凛としている」・・これが「硬派」の基本姿勢です。


秋は旅の季節でした。一日あるいは半日の旅を何回かこなしてまいりました。本当は数日かけての長旅をしたかったのですが、右半身に加えて左半身にもマヒが入りはじめそれは不可能となりました。
体の衰え気力の衰えは神様からのさずかりものですから、その運命を虚心に受けとめることが肝要です。


とはいうものの、「沖永良部島紀行」をまだ諦めたわけではありません。体が奇跡的に復活したならば、私が一番美しくたくましかった頃世話になったこの島を訪れ、朝には星砂の上を再び歩き、昼には再度あの地下洞窟を這って歩き、月夜の晩には地下足袋姿でカンテラを持ちながら珊瑚礁を歩きまわって眠っているタコやサカナたちをヤスで刺し殺し、それをサカナにアダンの樹の下でサトウキビ焼酎を再び島の漁師たちと飲みながらえらぶゆりの花を裸体で唄う。いたってちっぽけな夢ですが、夢なんてそんなものでしょう。


さて
来年の目標は双眼鏡を買うことです。倍率の高いものを中古ショップで買うことです。できるならば夜間も見えるものがいいのですが、ヘンなことに使うのではなく、深夜に里山を歩き夜行性動物の姿を見極めたい。私が深夜生活族となって来年は6年目。自然界は夜こそ息づいていると思う今日この頃であります。

2013/12/30 (月) 3・11 

昨日のテレビは、報道の日ということで3・11東北大震災で家族を失った人たちのその後を特集していたが、ぼくは途中でスイッチを切ってしまった。涙が出てどうしようもなかったからだ。


愛するひとを突然失うことでの言い知れぬ寂寥感は体験した者でないとわからない。「津波に流されていく親の自分を見つめる眼が脳裏に焼きついて離れないが、これからは前向きに生きていかねば」と穏やかな表情でしゃべる少年の言葉は、嘘でないし嘘であると思う。


平成元年に専門家グループから3・11を予知する報告があったと、報道特集は言っていた。死に別れという極限地獄を体験した人たちのその後の人生は、東電や国への憤怒からはじまったはずで、その思いが潜在化すると、これから生きることの意味を問うことになる。意味なんかないと感じ自殺したひとも多数居るが、それが相対的に少数であることは、「人類社会を持続させているいる原動力が死への恐怖感」だからだ。


「3・11をわすれないぞ 東北頑張れ!」の大合唱が東北を元気づけているのは、嘘でないし嘘であると思う。
被災の当事者たちにとって「わすれることができたらどんなに幸せか」との思いが少なからずあるからだ。
とまあそれはさておき
昨日朝一番の来訪者(男性・推定年齢60代後半)はこんなものを持ってきた。






「烏賊串100本の贈答品や。コレステロールいっぱいの濃厚味で、牧田はんの体には悪いと思うけど、酒のつまみには最適や。食べて」と言って帰っていった。


食べようとしたが、ものすごく硬い。まるで歯が立たなかった。

2013/12/29 (日)  昨日の一日

昨日の午前中は、某工事現場でアスファルト舗装の立会。




立会をしているだけの私ですら頬を打つ粉雪の冷たさは厳しく、作業員達の労苦は押して知るべしべしだ。


事務所に戻ってから、「製図コーナー」及び「居酒屋おまき」の整理整頓に励んだ。ひときわ妖しい灯りを放つのはランプシェード。






夕刻に、清酒「辛口一献」と「寒鮒刺身」を携えて初老の紳士がやってきた。



淡水魚に慣れていない私だが、驚くほど美味い。例えて言うならば、美女の股肉だ。
酩酊の私に紳士が「松尾芭蕉と服部半蔵との関係は?」と、聞いてきた。元禄期に「奥の細道」を旅した健脚・芭蕉は伊賀忍者だったという説もあるし、「本能寺の変」の時京の都にいて「信長公の次は俺か!」とあわてふためいた家康を無事駿府まで送り届けた伊賀忍者の頭領が服部半蔵であったという意味では関係があるのだが、両者の間には100年の幾星霜があり、「よくわかりまへん」と答えるしかなかった。
四ヶ月前に「硬派宣言」をした私だが、結局何もわからないのだ。


紳士が帰ってから軟派カムバックの気分になった私は、DVD「テイファニーで朝食を」を観た。トルーマン・カポーテイ原作、オードリー・ヘプバーン、ジョージー・ペパード共演の1955年公開の映画。「ローマの休日」で清楚な王妃を演じたヘプバーンが小悪魔を演じている。私は、金津中学校生徒時代からヘプバーンの強烈なファンだった。


2013年現在、ヘプバーンを超える魅力的な女性はあわら市内に一人しかいないと、私は思う。

2013/12/28 (土) 仕事納め

昨日の市役所は仕事納め。
今年の6月まで世話になった議会事務局に行き、「長い間ありがとうございました。お礼にこれをどうぞ」と、ネギタコを置いてきた。


散髪したからだろうが、「頭がカッコよくなりましたね」と言われ





自信のある後ろ側を撮ってもらい、アップしました。

2013/12/27 (金) 昨晩

久しぶりにハードボイルドを読んだ。北方謙三著「夜をまちながら」を読んだ。やたら頑健でやたら無口でやたら女性にもてる浜田の登場だ。


「なにかにつかまっていたい。そんな気分が、どこかにあるの。川の中の、杭みたいなものかな。つかまれば、流されていかないで済むような気もする」と、可那子は、愛する浜田に言う。


父子関係を超えて浜田を愛する戸籍上の娘・夏子から「大人ってなによ」と聞かれた浜田は「なくすことの哀しみを知ることだ」と答える。


浜田は思う。
鈴川も立野もそのつもりのはずだ。そして、それぞれ家へ帰る。そこには人生の昼がある。決して光が輝いているわけではないが、穏やかな明るさには満ちている。しかし、その光が、躰を、心を腐らせる。夜でしか生きられない。その通りだった。そして、夜は自分で作るものだ。陽が落ちるように、人生の夜は自然にやってくることはない。





昨晩の忘年会は冗談無しの真面目な飲み会となり、年末になって目立った安倍内閣の暴走を憂うる会となった。

2013/12/26 (木) 機関車先生

昨晩は午前2時に起床。
DVDで「機関車先生」(伊集院静原作)を観た。今回が二回目で一回目では見えなかったところが見えたような気がする。


時代背景は多分昭和20年代後半。
吉岡先生(機関車先生)は全国剣道大会で相手剣士からの喉元への突きによって声帯が破戒され、唖者となってしまう。その彼が、母親の生まれ育った瀬戸内の離れ小島の小学校に臨時教員として赴任するところからこの物語は始まる。


唖であっても聾ではない彼は子供達の声を聞き、黒板にチョークで字を書いて答える。場面のところどころに簡単な手話表現が出てくるのは当然だ。
機関車先生に子供達はどんどん惹かれていくのだが、網元で島の実力者の美作重太郎(伊武雅刀)は点数的教育効果の観点から機関車先生を嫌い、島から追い出そうとする。


そんな網元一派に睨みをきかせ、機関車先生をかげひなたに支えるのがよねばあさん(倍賞美津子)で、味わいのある演技。アントニオ猪木と離婚したことで人間の幅が拡がったのだろう。その意味で離婚は大切だ。


島の風景も魅力的だが、一番惹かれたのは島で唯一の居酒屋の風景。さまざまな人間模様がそこで繰り広げられる。


ぼくの事務所兼居酒屋的サロンもそういう雰囲気を目指したいと、深夜の妖しい灯りの中で思った.




そういえば、今晩もここで男5人の飲み会だ。

2013/12/25 (水) 二十歳の原点

高野悦子→ぼくと誕生年・誕生月が同じで、45年前の20歳の時に鉄道自殺。遺著「二十歳の原点」の最後の文章がこれ()だった。


旅に出よう
テントとシュラフの入ったザックをしょい
ポケットには一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう


出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら


そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく


大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根元に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を吸おう


近代社会の臭いのする その煙を
古木よ おまえは何と感じるか


原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を吸おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで
静かに休もう


原始林を暗やみが包み込む頃になったら
湖に小舟をうかべよう


衣服を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ
左手に笛をもって
湖の水面を暗やみの中に漂いながら
笛をふこう


小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
静かに眠ろう


そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

2013/12/24 (火) 冷えた珈琲を飲みながら

山本周五郎著「その木戸を通って」(新潮社)は7編が入った短編集で、その中の一つが「落葉の隣り」。


浅草黒船町の裏の同じ長屋で生まれ育った三人の人情が物悲しく伝わってくる。繁次と参吉の友情、おひさへのあきらめに似た愛情、そして参吉への信頼は裏切られ、おひさはだめになった男に惹かれていく。


繁次の「落葉の雨の・・・」の端唄を唄うシーンが印象的で、いつまでも心の中に沁みつく。
寂れた誰もいない居酒屋で、繁次が酌婦相手に唄うこの端唄が途中で消え入るのが絶品。つつましい人間の生活が、どうにもならない宿命が、生きる寂しさが、さりげなくそして深く表現されている。


勘定をして外に出ると、街はひっそりとして、辻灯台のほかには一つの灯も見えず、かなり強い風が吹いていた。繁次は立停って、左右を見まわした。
「どっちへゆくんだ」まっ暗な街を眺めながら、彼は途方にくれたように呟いた。「・・・これからどっちへいったらいいんだ」

2013/12/23 (月) 眼鏡について

咳をしても一人  尾崎放哉


こういう生活を理想と思うようになったぼくは、土日の終日を事務所から一歩も出なかった。ベッドに横たわって本ばかり読んでいた。「本に飽きると眠り、眠りから覚めると本を広げる」の繰り返しでは、当然、昼夜の別もつかない。


そういうぼくのところへの昨日の来訪者は、年配の男性だった。
男性は、ノートパソコン・プログラムソフトのことで相談に来たのだが、ソフト制作料として5000エンを置いていった。建築設計以外でカネをもらったのは初めてだ。ぼくはこれを眼鏡購入に充てることにした。


ぼくの机の上には七つの眼鏡が置いてあり、うち六つは百均ショップで買ったもの。一つだけが眼鏡屋で買ったものだが、これでしか本を読めない。しかしもう十数年経つのだ。枠は歪みレンズはその度にはずれ、はじれたレンズをアロンアルファで固定してきた。当然のことながら、本を読む時、アロンアルファの塗り代が邪魔になって読みにくい。
読書時の来訪者の殆どから「なんて汚い眼鏡や。眼鏡くらいは綺麗なのにすべきや」と言われてきた。





きょうぼくは三国の眼鏡屋へ行く。完璧な眼鏡を買うことによって、ぼくのこれからの読書生活が保証されるのである。

2013/12/22 (日) きょうは日曜日

昨晩は某氏宅に7人が集まっての忘年会で、午後7時開始。
缶ビールで乾杯のあと鍋がグツグツいい始めたが、久しぶりの参加だったぼくは何故か緊張し、テーブルの一番隅でひたすらウイスキーを飲んでいた。






その姿が隠し撮りされたので、ここにアップした。
左腕の動きが肩のところでブロックされているぼくにとっては苦しい姿勢なのだが、写真を見る限りは表情に余裕がある。思うに服装のせいだ。十数年前にパリのシャンゼリゼ通りで買ったダーバンのスーツのせいだ。
いつものことだが、このスーツを着ている時は余裕が出てくる。


それはともかく
津本陽著「修羅の剣」を読み終えた。
「文政ー文久」を生きた越中の百姓出・仏生寺弥助は、15歳の時、ひょんなことで「練兵館」の創始者・斉藤弥九郎の弟から剣術の才を見出された。彼は、江戸へ出奔し「練兵館」に入る。


瞬く間に「練兵館」第一の腕となった弥助。だが、文盲で出自の卑しい彼は塾頭にもなれず、御前試合に出るとか道場破りをするとか道場破りを撃退するとか、いわば「練兵館」の囲い犬としての日々を送る。
そのうち、彼の剣は道場剣を越えて、野外での真剣勝負を繰り返すうち「狂気の剣」となっていく。


そういう弥助に寄り添い暖かく見守りそして死別していった女性達が、お里・おまき・おすみの三人だった。傑出した男・弥助の愛人が三人だけというのは不思議だ・・ぼくより少ないではないかと思ったが、本当の男というものは女嫌いなのかもしれない。


弥助をよく知る有名人は、桂小五郎など一部に限られる。だから「修羅の剣」はノンフィクションなのかフィクションなのかよくわからないシーンが多い。しかし、いずれにしろ、出世を望まず無頼として生きた弥助の一生はぼくにとって痛快な物語だった。


文久3年6月24日、弥助は京の地で暗殺される。享年33歳。

2013/12/21 (土) 天の職

松岡正剛「千夜千冊」のなかの木下晋著「祈りの心」は、らい患者として棄民された桜井哲夫を追っていて、桜井の詩集のなかの下のふたつや写真などを紹介している。


「天の職」
おにぎりとのしイカと林檎を包んだ唐草模様の紺風呂敷を
しっかりと首に結んでくれた
親父は拳(こぶし)で涙を拭い
低い声で話してくれた
らいは親が望んだ病いでもなく、お前が頼んだ病気でもない
らいは天が与えたお前の職だ
長いながい天の職を
俺はすなおに務めてきた
呪いながら、厭いながらの、長い職
今朝も雪の坂道を務めのために登りつづける
終わりの日の喜びのために


「おじぎ草」
夏空を震わせて 白樺の幹に鳴く蝉に
おじぎ草がおじぎする
包帯を巻いた指で おじぎ草に触れると
おじぎ草がおじぎする
指を奪った「らい」に 指のない手を合わせ
おじぎ草のようにおじぎした


40年ほど前に読んだ北条民雄著「いのちの初夜」で感じたことでもあるが、国の隔離政策によって棄民されたにも関わらず、己の人生を「天の職」と名づけており、字面の奥に見えてくるものは祈り慟哭する姿だ。


10年近く前に若狭でらい患者の講演を聞いたことがあるが、彼の淡々としゃべり続ける姿の背後にも
今朝も雪の坂道を務めのために登りつづける
終わりの日の喜びのために     
という決意があったのだろうか。


鼻は削がれ目は潰れ口が極度にひん曲がった桜井の祈る姿の木下晋による絵はぼくの肺腑をえぐり、思わず目をそむけたくなった。しかし、絵を見た者は見ることを中途半端に止めることは許されない。戦慄を覚えながら見続けるうちに、モノトーンの絵であるにも関わらず色彩が浮上してきた。線のタッチは柔らかさを帯び、凝視の視線は勢至観音のそれとなった。


数ヶ月前に三国の大森氏宅を訪問した時、彼は、懇意にしていた三好達治とのエピソ-ドを語った。
三好から「詩は何に書くとお思いですか」と問われ、「紙に書くんでしょう」と答えたところ、「違います。胸に書くのです」との答えが返ってきたという。


音楽は聴力を通り越したところで聴くものだし、絵は視力を通り越したところで見るものなんだろう。そして付け加えるならば、見られる客体のなかに見る側の主体が入り込んでいるということだ。

2013/12/20 (金) 寒鮒を食べながら

京都の銘酒と寒鮒の刺身を持ってきてくれた人がいた。淡水魚は滅多に食べないが、小骨が入っていることさえ我慢すれば、この季節のものは身がこりっとして美味しい。





これを晩酌にして、昨晩は高杉良著「東京にオリンピックを呼んだ男」を読んでいた。主人公は、ロサンゼルス在住日系二世フレッド・和田勇。


昭和24年8月つまり私が生後七ヶ月でまだヨチヨチ歩きもできない可愛い赤ちゃんだった頃に、日本水泳選手団が全米水泳選手権に出場するために渡米した。そして和田が日本選手団に、9日間の宿泊先としてサウス・バンネスの邸宅を無償で提供した。
選手権で日本チームは自由形六種目中五種目に優勝、九つの世界新記録を樹立した。特に古橋廣之進の活躍はめざましく、全米マスコミは彼のことを「フジヤマのトビウオ」と呼んで賞賛した(余談だが、作家安倍譲二は渋谷の種馬と呼ばれ恐れられた)。


まだ米軍統治下だった日本本土からマッカーサー元帥による祝電も打電された。日本中が戦後の混乱期のなかで疲弊していた時に勇気と希望を与える出来事となったわけである。


さて
和田が単に戦後の米社会で順風漫歩に成功しただけの男だったとしたら、この物語の魅力は半減するのだが事実はそうではない。彼の一家は生地和歌山県で食い詰め戦前に米本土に移住した。そこでいろんな仕事に手をだし失敗し要するに七転び八起きの人生を繰り返しているうちに両親はなくなった。
そしてその時に米国と祖国日本との間で太平洋戦争が勃発したのである。


彼は強制収用所入りを拒否し、仲間と共にユタ州キートリーに移り住む。日系人は軍需などの工業製品づくりに従事することができないので、荒地を腕一本で開墾し農産物を出荷して生計をつないだ。周囲からは「中国人をいじめるジャップ、帰れ!」と嘲られた。


米国籍をとってはいたものの、祖国が日本であるとの思いでアイデンテイテイのギャップに苦しんだことが、戦後になってから東京オリンピック招致に米国籍でありながら陰で活躍する伏線となったのは間違いない。


このあたり、今回の東京オリンピック招致の顔となりながらも不祥事で辞職を余儀なくされた猪瀬某とは対照的だ。

2013/12/19 (土) 鬱から脱出

図書館で借りた「樅の木は残った」(山本周五郎著)を読み終えて、「何故ぼくは山本を今までに読まなかったんだろう・・山本の著作は全部で38冊ある。余命わずかとなったぼくが果たして全部読めるだろうか」と気になった。


ということで、ここ数日誰とも会わず山本周五郎の世界に入り込んいて、ブログもノータッチ。


しかし昨晩は何故か牧田事務所が男女8人集まっての猪焼肉刺身的宴会の場となった(居酒屋おまきは8人が限界だ)。久しぶりに他人の顔を見たら酔いの効果も手伝って気が楽になった。かつ話の内容が生臭いものだったのも、ある意味面白かった。そういう時ブログを書きたくなる。他人が読もうが読むまいが書きたくなる。そして少し場ばかり気が晴れる。


やっぱり休まないで書こうと思った。

2013/12/14 (土) 唯一の忘年会

ぼくにとって今年唯一の忘年会である「ふるさと語ろう会忘年会」が某料亭で開かれ、22名が集まった。この会ができてから5年が経過したが過去最高。年々会員数が増えてきているのはまことに喜ばしい。


本年度の公式行事は
①06/23→「姫川吟社とその界隈の散策」
①07/27→「応蓮寺に伝わる鉄笛」
①09/21→「源氏、平家の落人の里」
①10/27→「北前船の里を訪ねて」
①11/15→「旧芦原町の石碑について」で


昨晩が、会の顧問・中島先生による記念講演「越前・福井藩と越後・高田藩について」だった。





福井藩主・秀康は徳川家康の次男で、高田藩主・忠輝は六男。十三人の息子達のうち、この二人だけが家康から異端者扱いされていた。理由として①秀康は正妻の侍女に産ませた子、①忠輝は異形の相であったことに拠る、とのことだった。


家康は高貴な女が大嫌いで、下々(しもじも)の女が大好きだったという講演者の説明を聞いた時、「あわら市内にもそういう男がいるなあ」とぼくは思った。


講演会のあとは、広間での大宴会。
宴たけなわとなった頃、中島先生が「カラオケを唄いたい」と言う。
カラオケ機械の操作方法を部屋係りに尋ねたが、機械もマイクも壊れていて使えないとのこと。しかし「マイクなどなくても、アカペラで構わない」と主張する先生が一同凝視のなかで唄い始めたのが、「靖国のうた」
(注 私は右翼やけど、茨城県の某市長選では共産党市長候補をマイクで応援していたよ。要は人柄や、と言っていた)。
85歳とは思えないほど、声に色艶がある。


万雷の拍手のあと、「最後は牧田会長の港町ブルースやぞ!」との声が座からいっせいに上がった。


バック演奏やバックコーラスの無いアカペラは生まれて初めての経験だ。でも一生懸命唄ったのでそれなりの評価を得た(と思う)。



2013/12/13 (金) 宴のあと

昨日の昼に、「今晩、牧田さんのサロンに二人で行きます」というあわら市職員からの電話があった。ぼくはサロンを綺麗に清掃し壁に飾りつけを施し




つまみにブリ大根をつくって二人を出迎えた。
彼らの持ち土産も又沢山のアルコールと美味しい副食だったので、宴は当然華麗なものとなった。


宴は、「あわら市役所はどうあるべきか」という真面目なテーマで始まったのだが、酔うほどに日頃堅く口を閉ざしている「沖永良部島のできごと」とか「淡路島のできごと」に移り、ついには「相関図を見せよう」との思いになって金庫に手をかけようとしたのだが・・やめた。


私は遺書に「相関図は〇〇さんに渡すこと」と明示しており、信義の観点からそれを破ることはできないという最後の理性が働いていたのである。


ま、相関図は見せなかったが、その骨子を酔いに任せてしゃべってたんだけど・・。


深夜に二人を見送ってから、スリーシ-ズン用シュラーフに入って熟睡し午前2時半に目覚めた。
DVD「男たちの大和」を観る。今回が三回目だ。

2013/12/12 (木) 北潟古謡「どっしゃどっしゃ」

「北潟古謡どっしゃどっしゃ」の紙コピーを持ってきた人がいたのだけれども、読みにくいのでデータファイル化し、ついでにブログに載せました。
いつも思うことですが、自分の思いを文章化するのは手任せ故に楽であるのに対して、他人の書いた文章をファイル化するのは時間がかかりとても疲れます。




北潟古謡「どっしゃどっしゃ」のいわれ
 

北潟古謡どっしゃどっしゃは、古くから安楽寺境内で踊られてきました。その安楽寺は養老2年(718年)に泰澄大師が開祖したと伝えられています。
かつて北潟は農業と漁業で生計を立てる半農半漁の村でした。


 その農耕や漁労などの力仕事に明け暮れる生活の中から労働欲が生まれ、手振りが付いて踊りとなり、源平合戦後の平安末期に流れ着いた平家の落人や僧侶たちの手によって、歌詞にも文芸的な題材が詠まれたり、踊りにも優美な手振りが加えられて今の形になったと推定されています。


 『どっしゃどっしゃ』という掛け声は「調子付け」「掛け声」であるという説もあれば、北潟に流れ着いた平家の落人と村人たちとの間に交流が生まれ、互いに同じ信仰と志を持つようになって、その「同信や、同志や」から変化したという説もあります。

 いづれにしても千年以上も前から北潟の地で歌われ、踊られてきた私達のふるさとの大事な古謡です。


 平成6年に県の無形民族文化財に指定されています。

北潟民謡 どっしゃ どっしゃ


アアどっしゃどっしゃ
手おさかたねてどっしゃ踊れ


アア  衆かいの 北潟の衆かいの(ソラコイ) 
 オオ 柿のかたびらに (アラ縄の帯びー
    柿のかたびらに  縄の帯び)


アア  しても 縄帯びしても(ソラコイ) 
 エエ かもてもらわぬ (アラ旅の衆にー
    かもてもらわぬ  旅の衆にー)


アア  都 天王屋敷ヤ都(ソラコイ) 
 オオ 西も東も (アラ皆ござれ
    西も東も 皆ござれ)


アア  揃うた 若い衆が揃うた(ソラコイ) 
 エエ 二番ぞろいの(アラ麻のようにー
    二番ぞろいの 麻のように)


アア  庭で 安楽寺の庭で(ソラコイ) 
 エエ みこしかいたり(アラ踊ったリー
    みこしかいたり 踊ったリ)


アア  辻の 大門辻の(ソラコイ) 
 オオ 空の石垣ャ(アラなけりゃよいー
    空の石垣ャ なけりゃよい)


アア  ご縁じゃ 松葉のご縁じゃ(ソラコイ) 
 エエ 枯れて 落ちても(アラ二人ずれー
    枯れて 落ちても 二人ずれ)


アア  つらさ 別れのつらさ(ソラコイ) 
 エエ 逢うて別れが(アラなけりゃよいー
    逢うて別れが なけりゃよい)

 
 
アア  やらと どうしたんじゃいのやらと(ソラコイ) 
 エエ 思い出しては(アラ泣くわいのー
    思い出しては 泣くわいの)


アア  もくで 間垣のもくで(ソラコイ) 
 エエ 結われながらも(アラ花が咲くー
    結われながらも 花が咲く)


アア  なんじゃいの 散らばらななんじゃいの(ソラコイ) 
 エエ 豆をまいたような(アラ散らばらとー
    豆をまいたような 散らばらと)

アア  一里 千里が一理(ソラコイ) 
 エエ 逢わずもどらば(アラ又千里―
    逢わずもどらば 又千里)


アア  思うて 踊ろと思うて(ソラコイ) 
 エエ 盆のゆかたを(アラ染めおいた―
    盆のゆかたを 染めおいた)


アア  踊り 盆には踊れ(ソラコイ) 
 エエ 盆が過ぎたら(アラ口惜しかろ―
    盆が過ぎたら 口惜しかろ)


アア  ないわいの 口惜しくはないわいの(ソラコイ) 
 エエ お地蔵祭りが(アラ早ようござる―
    お地蔵祭りが 早ようござる)


子ども達の作詞


アア  たから 北潟のたから(ソラコイ) 
 エエ 歌いつごうよ
(アラ いつまでも 歌いつごうよ 
いつまでも)

2013/12/11 (水) 供養

昨夕、「多賀谷左近顕彰会」の事務局をやっているS君がふらっと私のサロンにやってきた。四方山話のあと、立派なチラシをぼくに見せて、「旅に行かないか」と言う。


ぼくは「断る。首から下が徐々に動かない体になりつつある俺がそんな旅に行けるはずないし、仮に行けるとしても団体旅行に興味はない」と、答えた。


彼は金津中学校3年5組の同級生。「人格・識見ともにナンバーワン」と噂されていた男で、ニッパー事件をひき起こしたぼくなどから見れば、素晴らしい男だった。


彼の説明を聞いていて、ぼくはあさっての「ふるさと語ろう会」・忘年会のことを思い出した。席上での記念講演は、我が会の顧問・中島道子さんによる「越前、福井藩と越後・高田藩」の予定で、高田藩主は、多賀谷左近の親分・結城秀康の次男のはずだ。一生懸命聴いて、一生懸命飲もうと思う。





それはともかく
図書館に行った昨朝、先ず目に飛び込んできた背表紙が藤原新也著「なにも願わない手を合わせる」。この写真家に興味を持ったのは、「東京漂流」を読んだ時だったと思う。


「父そして母と、肉親が他界するたびに、これまで二回ほど四国巡りをしている。四国を巡る動機というのは人さまざまである。ある者は病い治癒の願掛けのため、ある者は自らの贖罪のため、またある者は何か一つのものを成し遂げたいという動機のもとに八十八ヶ所の歩き遍路をする者もいる。私はこれまで半世紀以上も生きているのだから、自らが知らぬ間に犯した罪と対峙しなければならないことも多々あるかも知れぬが、今回は兄の死に際していつものようにその供養のために回った。


追善供養とは仏教における三世因果の道理をもとに行われる祈願である。つまり過去・現在・未来とつながる人間の生命は、その行いの善悪が三世にわたって作用するとされる。善行を積んだ人はその善い果報を受け、冥土においても人間界、天界、極楽に住み、悪業の者は地獄、餓鬼、畜生の三悪道に堕ちてもがき苦しむとされている。死後に善い果報を受けている霊に対してはますます善い道に進むように、また悪道に堕ちている亡者をその苦悩から逃して安楽の道へ差し向けるように、遺された身内の者が供養することが、追善供養ということになる。


室町時代に「地蔵菩薩十王経」という経典を元に広まっていったこの教えによると、死後における幸・不幸は、遺族が行う追善供養の度合いによって決まるとされている。


「十王経」には、死者の魂は三回忌までは安住する所が決まらず六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を輪廻し、三回忌の供養の時、初めて阿弥陀佛が観世音菩薩と勢至菩薩を連れて迎えに来てくれると説かれている。


しかし思うにこのような追善供養の教理は死者が死後もその魂を維持しているという前提に立った教えであり、数々の死の場面に遭遇し、人間が死ねば一切が無に帰すると考えるようになった私のような者にとっては、一種の社会的な儀礼行為にしか見えない。


それではそのような儀礼行為のためになぜわざわざ四国くんだりまで赴くのかということになるが、実は私はそれを儀礼とは捉えていないのである。つまり供養に対する考え方が私の場合はいささか異なる。
私個人は「死者の魂」とは私の心の中に居残っている死者への思い、という風に捉えており、そういう姿で死者はそれを思う人々の魂の中に生きていると思っているのである。・・」という風に文章が始まる。


青字の部分など、日頃ぼくが考えているのと全く同じだと思った。

2013/12/10 (火) きょうも雨

昨晩は、百田尚樹著「リング」を夢中になって読んでいた。題名からわかるとおり、プロボクサー列伝ノンフィクションで、まんなかにいるのがファイテイング原田。去年だったか偶々読んだこの人の「永遠のゼロ」がとても面白く、今回も興味を持って読ませていただいている。


何故こんなに本好きになってしまったんだろう。
年の瀬になったというのに忘年飲み会の誘いもなく、数人を除いての対人恐怖症は進行し、身体の痛みは相変わらずで、工事現場へ行く以外はCADをこなすだけの毎日。
頭の中がボーッとなっているのを埋めるのは、本以外にないんだろうな。


昨日の午前中、市議会で一般質問を傍聴していた際に携帯コールがあった。傍聴席を出ての着信履歴コールの声は「牧田!仲間の〇〇が死んだぞ」だった。


そういうお知らせがあるのが珍しいことではなくなってきた世代が我々の世代なのだ。
お悔やみの思いを述べたあと、ぼくは「次は私である」と切り出した。


「私も又脳損傷に苦しみ、この世に対する希望をなくし、あの世とこの世を往還する求道者となっている。あの世が近いことをむしろ喜びと思っているのかもしれない」と諄々にしゃべった。
「牧田の言うことを聞いていると楽しくなって心がやすまる」が相手の答えだった。ということはぼくにも存在価値があるのだろう。

2013/12/08 (日) 無題

昨日は、明社の歳末助け合い共同募金ということで、街頭のそちこちに立っていた。








それはともかく
一昨日の夕刻に共産党員のひとがぼくの事務所にあらわれ、「太平洋戦争とは何だったのか」という話となった。話は、「日清・日露・日中戦争について」まで拡がった。共産党支持者ではないぼくと共産党員とのあいだでは当然のことながら激論となる。否、無神論的宗教者であるぼくは論戦を好まず、終始微笑みを絶やさず聞いていたのだが・・


彼が帰ってから、ぼくはDVDで「日本の一番長い夏」を観た。観ながら出演者の一字一句をノートパソコンにキーボードで叩きこんていった。


このDVDは、半藤一利の編集。


昭和38年の夏、文芸春秋社主催で、昭和20年8月に政府の要職に就いていた者、戦争の最前線で命を賭して戦っていた者、特攻を志願した者、銃後の兵士だった者エトセトラ総計38人が集まった。そして、彼ら彼女らの肉声は私の耳を撃った。


当時の書記官長・迫水久常によれば
昭和20年7月26日に英・米・中の首脳がポツダムに集まり、いわゆるポツダム宣言(日本の無条件降伏勧告)が発せられた。
それまで、佐藤尚武ソ連駐在大使を通してソ連を仲介とする和解工作を模索していた日本首脳にとってこれは寝耳に水。そしてこの情報は国民の誰一人にも知らされることがなかった。


時の戦争指導者会議のメンバーは6人。
米内、東郷、鈴木の三人が宣言受諾を主張したが、阿南、梅津、豊田つまり軍人側の3人が天皇制護持を目指し本土決戦を主張。会議は混乱に混乱を重ねた。


8月14日の御前会議による昭和天皇の御聖断まで受諾はずるずるっと延びてしまい、その間に広島、長崎へ原爆が投下されたのである。


8月7日(だったかな?)、佐藤ソ連駐在大使は外相モロトフに呼び出され、宣戦布告書を手渡される。そして8月9日にソ連軍が満州へ侵攻してきたのである。ぼくはソ連国民をナターシャ以外誰も知らないが、国家としてのソ連はどうしようもないと思う。


いろんな発言のなかで印象に残ったもののひとつが、沖縄戦で白梅部隊にいた楠さんの証言。


米軍の砲火攻勢が強まった昭和20年6月。彼女が所属していた部隊の長から「もうあかん。わしら帝国陸軍兵士は既に玉砕を心に決めたが、おまえら看護兵は家へ帰れ。生き残って結婚して立派な日本人を産んでくれ」と言われ、彼女は親友とふたりで部隊をあとにする。沖縄南部の地で米軍砲火をかいくぐりながら逃げ惑うふたりの前に陸軍兵士5人が突然現われる。


「兵隊さん、私たちを連れて行ってください」と懇願し、計7人は行動を共にするのだが、行く手に米軍部隊が現われた。5人は四散し、亜熱帯のジャングルに逃げ込む。しかし彼女らふたりは女の身なので、逃げ足が遅い。しかたなく手榴弾を手にして自決を図るのだが、起爆操作がうまくいかないうちに米軍に捕まってしまう(正確には、捕虜となった)。


彼女たちが米軍トラックに乗せられようとしたその刹那、陸軍兵士5人が日本刀を抜いて切り込んできた。そして彼ら5人は彼女達の数メートル目の前で米軍火器により、頭を飛ばされ、胴体を分かたれ、全身血だるまとなって息絶える。


要するに5人の兵士は、拉致されようとする彼女らを救おうとして、身を粉にしたのだった。

 2013/12/05 (木) 俺は硬派だ

あいにくの雨の中、昨日の午前10時に牧田事務所を出発した我々5人は、一路串茶屋民族資料館を目指した。


資料館は串茶屋町公民館に隣接しているが、文化文政期に立てられた酒屋を利用している。





柱・梁の骨格は太くがっしりとしてはいるが、長年の風雪により木製建具などの傷みはひどい。つまり朽ちつつある建物で、そのことが「全てのカタチあるものは無に向かっている」という無常観を漂わせていて魅力的だ。


中に入ると、資料館館長の懇切丁寧な説明が待っていた。





小説家・中島道子先生の著作には「遊女哥川 越前三国湊の俳人」があるので、中島先生は、加賀千代女のことも絡めて、熱心に質問していた。


Hさんが「まきさん、こんなのがあるぞ」と指差した壁に、何枚かの「売られてきた女性と楼主との金銭契約書が貼られていた。





そしてそのなかの一枚には「越前金津 〇〇 二十歳 金37両云々」と書いてあり、ぼくは考えた。
金津宿場も遊郭街として有名だったのだが、まさか生まれた土地で遊女の仕事をこなすわけにはいかない。異郷の地へ行き、亡くなれば無縁仏として葬られたのだ。


↓資料館をあとにした我々は、串茶屋町遊女の墓所へ向かった。





それぞれの墓に源氏名と俗名が彫られており見事なものだ。地域の豪商や豪農との夜な夜なの相手は過酷な肉体労働であったに違いなく、地域のひとたちが、「性的歓楽提供を通しての地域への貢献」とみなしてこのような墓群を建てたのは心温まる話である。


妻以外の女性を知らないぼくは、当然のことながら売春の場へでかけたことはないが、それでも、彼女たちの哀歓の一端を垣間みたような気がする。


事務所に戻ってから、三人でした話のテーマは、越前・福井藩についてのこととなった。藩租・結城秀康は徳川家康の次男で、二代将軍となった秀忠よりもはるかに人格者で気配りの人でかつ信念の人だった(例えて言うならば、今年の6月まであわら市議をつとめたM氏のような人)。


秀康が亡くなり、40日ほど経って、側近・多賀谷左近が亡くなった。


「これを殉死というのは真実ではない。秀康の死により、権力争いが表面化して左近は無念の死を遂げたのだ」と、例証をあげながらHさんは説明した。


傍らのS女(老女)が「まあ、Hさんて歴史の森羅万象を知っているのね。知識の泉・・素晴らしいわ」と言っていた。

2013/12/05 (木) 無題

宮本輝著「三千枚の金貨」を読み終えた。30年ほど前に「蛍川」を読んだ時、蛍が乱舞するエンデイングの幻想的なシーンにしびれ、その後ずっと読み続けてきたのだけど、何かの本でこの小説家がいやになり、読むのをやめてしまった。だから久しぶりの対面だったが、あんまり面白くなかった。


それはともかく
きのうで仕事が一段落したので、きょうは、小松市・串茶屋遊女の墓へ行ってきます。

2013/12/03 (火) 本日は議会初日


今朝の来訪者が「啄木はいいなあ」と言いながら帰って行ったが、ぼくも心が寂しくなると、啄木の詩が頭をよぎります。


呼吸すれば 胸の中にて 鳴る音あり
      木枯しよりも さびしきその音


不来方の お城の草に 寝転びて
    空に吸われし 十五の心 


己が名を 仄かによびて 涙せし
   14の春に かへるすべなし


友がみな われよりえらく 見ゆる日よ
   花を買い来て 妻としたしむ  「一握の砂」


東海の 小島の磯の 白砂に
      われ泣きぬれて 蟹とたはむる


いたく錆びし ピストル出でぬ 砂山の
     砂を指もて  掘りてありしに

たはむれに 母を背負ひて そのあまり
       軽きに泣きて 三歩あゆまず

高きより 飛びおりるごとき 心もて
      この一生を 終るすべなきか

非凡なる 人のごとくに ふるまへる
     後のさびしさは 何にかたぐへむ

それもよし これもよしとてある人の
      その気がるさを 欲しくなりたり

人といふ 人のこころに 
    一人づつ囚人がゐて うめくかなしさ

わが抱く 思想はすべて 金なきに
     因するごとし 秋の風吹く

かにかくに 渋民村は恋しかり 
     おもひでの山 おもひでの川

石をもて 追はるるごとく ふるさとを
    出でしかなしみ 消ゆる時なし


 2013/12/01 (日) 「彦九朗山河」の続き

世の中を武断政治から文治政治に変えなければと、高山彦九朗は朝廷と連携しながら王政復古運動を水面下で画策し、諸国の儒学者達にその思想を説いてまわるのだが、幕府・松平定信の危険人物・高山彦九朗への追求の手厳しく、諸国を歩く彦九朗は常に幕府隠密に後をつけられる。


「頼るは薩摩藩だけだ」と思った彦九朗は、日本のなかの独立国とも言うべき薩摩に潜入するのだが、彦九朗を敵視する勢力が思いのほか多く、失意のうちに薩摩を後にする。後にしても九州各藩はお上の叱責を恐れ、「はやくここから立ち去ってくだされ」と、彦九朗を追い出す。


流浪の民となった彦九朗は、久留米・赤碕で自刃する。かけつけた医者から、「なぜそのようなことを」問われた彦九朗は、「狂気也」と答えて静かに目を閉じる。


彼の思想は吉田松陰に受け継がれ、自刃から74年経って、大政奉還が実現する。