2014年03月

 2014/03/31 (月) 異形の将軍
 「異形の将軍」によれば
 角栄の生れた越後・西山町の冬は雪深く、一冬に何度も何度も「雪掘り」をしたという。「雪下ろし」ではなくて「雪掘り」だ。「雪下ろし」ならば少年の頃の私にも一冬に何度かの経験がある。「雪掘り」とは雪に埋まってしまった建屋を掘り出す作業であり、この作業を一家総出での一員として黙々とこなすのだから勢い無口な少年となった。

 加えて田中少年は吃音だった。吃音故に級友たちから足蹴りになどのいじめを受け、小柄な彼は復讐として学校帰りの級友を待ち伏せし、スコップを持って追い掛け回した。この吃音のせいで他者との会話が全くできなくなった。
 ぼくは思うのだが、他者との会話をしない分、自分との対話の世界に入り込む。「こう考える自分」vs「それを否定する自分」というかたちでのダイアローグが彼の精神世界をつくりあげていったのだ。

 角栄の父角次は山師的な男。母フメが昼は野良仕事夜は針仕事で細々と一家の生計を支えた。成績優秀ではあっても上級学校への進学志望など口に出せない角栄は、義務教育を終えると、裸一貫で花の東京へ乗り込む。

 いろいろあって角栄は理化学研究所へ就職する。そう、マスコミの小保方某バッシングで有名になったあの理化学研究所である。
 それにしてもマスコミというところの一緒くたになって持ち上げるときには持ち上げまくり、叩くときには叩きまくるという付和雷同性がぼくにはわからない。勿論、売り上げや視聴率を最優先しなければならないというお家の事情があるんだろうが・・。
 書いている記者もしゃべっているアナウンサーも「不本意ながら」の気分かもしれないがどのみち「社会の木鐸」は死語となった。

 2014/03/30 (日) 三月最後の日曜日

 一昨日のプロ野球開幕戦・阪神vs巨人での圧倒的な負け方を見て、「今年のプロ野球は終わった。阪神はもう見ない」と心に誓ったのだが、ファン心理とは面白いもので、昨日も眼を半分くらい開けて見てしまった。これを怖いもの見たさというのだろう。幸いにも9回に出た巨人捕手・阿部のファインプレーによって薄氷の勝利を得たが、前途多難だ。
 それはともかく
 「天下の悪妻」を読み進めていくうち、勝子の息子が越前藩ではなくて越後・高田藩への国替えという展開になり、ぼくは昨年末の「ふるさと語ろう会」、忘年会においての著者の講演・「越前・福井藩と越後・高田藩について」を思い出した。

 越後というと、文藝界では良寛さん、プロレス界ではジャイアント馬場さん、野球界では明訓高校・ドカベンさん、歌謡界では小林幸子さん、そして学生時代の親友・仁多見さんなどがいるが、昭和の大衆政治家といえばなんといっても田中角栄だ。

 そこで、津本陽著「異形の将軍・田中角栄の生涯」を同時並行で読み始めた。
 
 ロッキード事件で彼が失脚したのは、ぼくが学生の頃だった。
 コンピュター付きブルトーザーと呼ばれるほどに抜群の記憶力の持ち主だった。選挙区のどこそこの家の家族構成や屋敷の庭に植えられている果樹の種類までも完璧に記憶していたという。
 嗄れ声での辻演説では沢山の聴衆のココロを瞬時にキャッチした。独特の語り口は政治漫談のようだったが好かれるために必要な資質を十分に備えていたということだ。
 その田中角栄の誕生から死までを追ったのがこの本だ。本日は日曜日なので、愛車を日本海の海辺にとめて読みふけるつもりです。

 2014/03/29 (土) このブログについて

 このブログを書き始めてから十数年になるが、ここ数年読み続けてくださっている人が十数人いるのは知っている。いってみりゃ、このブログはその人たちに対するパソコン通信みたいなもんだ。特に、昨年に市議を辞職してからは、書く場合に意識する読み手は十人をはるかに下回ってきた。

 先日ある人と話をしていた時「インターネット利用でブログなどを書いている人は大嫌い。書くくらいなら、会って話をするほうがずっといい。書く能力の不足による誤解は、会って相手の顔をみつめて話し聞くことによって溶ける」といわれた。
 確かにそうだ。しかし・・と私は思う。
 読み手のなかに、私の知らない人が何人かいるだろう(勿論女性たちだ)。いや、いるに違いない。だとするなら、ブログ停止とするのはしのびない。

 一昨日、妹と電話で話をしていた時、「お兄さんがブログを書くのは、自分の頭を整理整頓するためなのね」といわれた。おおいにあたっている。進行する認知力衰退との激しいタタカイはすでに始まっているのである。

 四月から旅の人となるのに伴いブログ終了を考えもしたが、遠方からの書き込みはロマンでもあるのだ。
 それはともかく
 中島道子著「天下の悪妻」(河出書房新社)をため息をつきながら読んでいる。


 タイトルの悪妻とは、徳川家康の孫で越前二代藩主・松平忠直の妻の勝子。
 日向の国へ忠直が配流されたのは、(噂で)彼の非人格性故と私は思っていたのだが、実は彼はゼウスさまを信仰する敬虔な隠れクリスチャンだったのであり非人格性云々は隠れ蓑だったのだ。譜代大名がそうであっては徳川将軍家にとって大問題だ。だから、彼は秘密裏に配流されたのである。
 
 勝子が悪妻かというと、こんにち的な意味でいう悪の要素は全くなくて、猪突猛進=有言実行の女性だったということがわかる。
 ま、現代においても、悪妻の存在は自力奮闘を余儀なくさせるという意味で、旦那を強くするのではないだろうか。そのあたり、今度、著者に聞いてみようと思う。

 2014/03/28 (金) もう週末か
 先日、私は一本の杖をプレゼントされた。贈り主は勿論女性なのだが、その意味するところは「杖を利用して、カラダ矯正体操に励んでください。歩行訓練の道具にしてください」というものだ。
 じっと見ているとナカナカ気品のある杖に思えてくる。期待にこたえるべくリハビリに励むつもりです。



 私のこれからの装具品となるのだが、自分を「杖の男」と呼ぶと年寄りくさいので、「ステッキマン」と呼びたいそして呼ばれたい。

 2014/03/27 (木) ポスターガイスト
 椎名誠が東日本大震災以後に出した本に、「ぼくがいま、死について思うこと」(新潮社)がある。7年前の脳内出血によって死を考えざるを得ないようになった私は、背表紙のタイトルでこの本にとびつき一気呵成に読み終えた。


学者本と違って文体が面白いので退屈せずに読み終えたが、椎名はこの本のなかで世界のあちこちで見聞した葬式を紹介している。葬式の話からちょっとずれるが、特に眼を引いたのが「ぼくが経験したポスターガイスト」で、以下断片を紹介。

 ・・若い頃から世界のいろいろな国に行っており、さまざまな土地の夜を過ごした。そうして「場所」によっては、科学的に説明のつかない体験をいくつかしている。そのなかには「悪酔いによる幻覚」とか「単なる悪夢」などということで片づけられるケースもいろいろあるのだろうが、これほど鈍感な感性の者にも、強烈に攻め込んでくる「なにかよくわからないもの」というのがある。
 たとえばスコットランド西方のヘブリデイーズ諸島にあるアイラ島でのことだった。そのあたりの島々は数々の領土争いの戦争があり、バイキングがそうとう悪辣なことをして荒らしまくった「負」の歴史に満ちた島が多いのだが、ある村に向かっている途中、深い森の中にある荒れた古城に出会った。
 小さな城で、城壁というものもなく、ビルにして三、四階程度。半分以上壊れた、見るからに無残な状態だった。しかしこの城も、冒頭書いた日本の「いまわしい」立ち入りのできない場所と同じで、好奇心の旺盛な「感じない」ぼくも、その城のそばまで行く気にはならなかった。遠くから写真だけ撮っておこうと思い、愛用のカメラ(ライカM6)を出してシャッターを押したが、何度やってもシャッターが落ちない。つまり写真を撮ることができないのだ。
 ついさっきまでそんなことはなかったのでぼくは慌てた。これからも大切な取材があるというのに、ここで壊れたら一大事だ。ましていままで、理由もなしに壊れたりすることはなかった。ライカは丈夫でシンプルなカメラのはずである。困りながらその城をあとにした。それからしばらくするとシャッターは元通りに動くようになったのだ。その一瞬の「停止」はいつまでも気になった。
 まもなく取材目的の家に着いて、城のことを聞いた。
夏でも有名なユーレイ城で、ここに夜入っていくと必ずユーレイが出てくるという。そしてそのユーレイを見た者は必ず死ぬ、というオソロシイ話であった。・・

 ・・もうひとつの体験はいささか強烈だった。場所はロシアのニジニ・ノブゴロド。寺院の多い街で、日本でいえば奈良のようなところである。冬の旅だった。冬のロシアはそのあたりで連日零下四十度。太陽は十一時ぐらいに遠くの林の上あたりまでなんとか上がり、あとは同じぐらいの高さを転がるように移動していって午後二時には力なく落ちてしまう。
 我々はチームで厳寒のシベリアを二ヶ月にわたって移動取材しており、ニジニ・ノブゴロドに着いたときはみんな凍傷気味であり、疲労困憊状態だった。
 午後九時にホテルに到着。ロシアの古いホテルは停電しているのではないかと思うくらいロビーからすでに暗くて陰気だ。もうクローズされていた小さなレストランをなんとか頼み込んで開けてもらって、いくらか温かいかなというくらいのスープで冷たいパンを流し込み、ヨタヨタと各自の部屋に別れた。
 事件は夜中に起きた。ぼくの隣の部屋にいた奴が午前二時ぐらいにいきなり暴れはじめたのだ。その暴れかたが尋常ではない。机とか椅子などを部屋中にぶんなげている、というような暴れかたなのだ。さらにぼくの寝ているベッドのすぐそばの壁を向こうから鉄の棒のようなもので激しく叩きまくる。
 狂っている、としか思えないような狂乱ぶりであった。文句を言いにいこうかと思ったが、同行しているKGBのベリコフという男に再三言われていたことを思いだした。
「ロシア人にはアルコール中毒者が多い。彼等は酔うと人間ではなくなる。もしそういう奴に絡まれるかなにかしたら、自分一人で対応しないで必ずワタシを呼んでくれ。そうしないとあとの責任はもてない」
 単独で隣の部屋の暴れ男に文句を言いにいったらドアをあけたとたんに鉄の棒で頭を殴られるとか、最悪は拳銃で撃たれるかもしれない、と言っているわけだ。
 そこでぼくはひたすら我慢しなければならなかった。どうも隣室には複数の男がいるらしく、声はたてないものの、互いに争うように相変わらずいろんなものを部屋中にぶんなげている。
 体も神経も疲れているのにとても眠れたものではない。アイスピックを持っていたので、それで隣室との壁を思いきり叩いた。壁に傷穴があいてしまうが、もう我慢できない。
 おまえらの隣の部屋に寝ている客がいるのだから静かにしろ、というアピールだ。するとそれに呼応してなのか、さらに激しくいろんなものを投げ始めた。さっきのぼくのやったことのお返しとばかり壁のあちこちを鉄の棒らしきもので叩きまくる。なるほどこれでは部屋に抗議で入ったとたんにその鉄の棒で一撃、ということが十分考えられた。
 ベリコフの部屋に電話をいれようかと思ったが、考えてみるとその日はあまりにも疲れていたので、アテンダーが忘れたらしくいつも配布される取材チームの部屋割り当て表がなかった。
 ぼくは起き上がり、あきらめてウオトカを飲んだ。本を広げたがなおも暴れまくる音で集中できない。それにしてもおそろしくタフな奴らだった。
 ウオトカを飲んで無理やり本を読んでいるうちに、ついに隣の騒ぎはだんだん間遠になり、ぼくも疲労が加勢して眠ってしまったらしい。やがてぼくは非常に不快でいまいましい朝を迎えた。朝といっても外はまだまっくらだ。完全な寝不足にウオトカの飲み過ぎ。最悪であった。
 ゆるぎなく続行していく旅は時間に厳しい。すでに朝食をとる時間だった。朝食といっても、薄い果物ジュースに黒パンにジャムぐらいだ。
 レストランに行くまえに、さわぎまくっていた男の部屋の番号を調べておこうと思い、隣の部屋を見に行ったとたん、ぼくの頭は「真っ白」になった。
 隣には部屋などなかったのだ。
 暗い階段があるだけで、昨夜ぼくはその階段を登って自分の部屋に入ったのだ。疲れていたのでそのことに思いいたらなかった。では昨晩のあの騒ぎはいったい何だったのか。ぼくの妄想なのか。それにしてはあんなにやかましく長時間の妄想なんてもはや病気のレベルだ。慌てて部屋に戻り、昨夜怒ってぼくがアイスピックで叩きまくった壁を見た。叩いた穴はちゃんとあった。もしあれも妄想だとしたら、ぼくはもうこの旅は続けられないかもしれない。
 心身ともにヘトヘトになりながら荷物をまとめ、レストランに行った。遅れてやってきたベリコフにすぐに昨夜の顛末を話した。するとベリコフはぼくの手を握ってこう言った。
 「おめでとう。それは完全なポスターガイストだ。この街にはいろんな怪異現象があるので有名なんだ。とくにポスターガイストに人気がある。それを体験しになるべく古いホテルを狙って泊まる人もいるくらいなんだ」・・

 2014/03/26 (水) 梅は咲いたか桜はまだか 
 現在使っているパソコン〔ウインドウズXP〕を仕事専用のものとし、インターネット接続のため一昨日にあらたに購入したLenovoパソコン〔ウインドウズ7〕を、旅路での使用専用と決めた。
 

 この二日間、既存パソコンのなかのデーターをUSBで旅路パソコン〔高額・・6万円代〕にせっせと運び、ようやく運び終えてから、旅路パソコン使用開始の神式式典を挙行した。
 塩を周囲に撒き、祝詞を奏上し、二礼二拍手一礼の段取りで行なった。本当はイスラム教にのっとってやろうかと思ったのだけれども、既に体のマヒしている私が床に膝まづいて礼拝するのは体の機能上無理だし、加えて言うならば断食はできても断酒実行はむりなので、イスラム式礼拝をあきらめた次第。
 

 ところが、パソコンに電源を入れ、ホームページビルダープログラムを起ち上げた時、エラーメッセージが出てきた。「エラーが発生しましたので、プラグラムCDを再入力ください」というメッセージだが、10年以上前に購入したCDなど当然のことだが既にない。どうしたらよいのか。

 2014/03/25 (火) 無題 
 あれだけ長い間続いた耳鳴りが嘘のように収まった。耳鳴りが生理的な障害だったのか心因性のものだったのかはわからないが、収まったことで気持ちが楽になったことは事実だ。蝉の大合唱を聞いているような気分から逃れることができたことで、少し前向きの気持ちが出てきた。
 それはともかく「地霊」を読み終えた。
 
 「後記」
 この二十年ほど、私自身も二人の人物に寄り添って生きてきた。「遠雷」の登場人物、和田満夫と中森広次である。「遠雷」では昔ながらの暮らしの糸を紡いでいた農村に、都市化の波が押し寄せる。住宅団地と工業団地に農地が買われ、満夫はわずかに残った土地にビニールハウスを建てトマト栽培を始める。一方、広次は団地の人妻に狂い、殺人を犯してしまう。村が解体していったのだ。高度経済成長の時代、日本の農村ではどこでも見られたことである。
 続編の「春雷」では、土地を売った父の松造が家に帰ってくる。突然転がり込んできた大金に狂い、街のスナックの女と暮らしていた松造も、蕩尽の果てに金を使い果たしてしまう。息子の満夫は「遠雷」で結婚したあや子と、懸命に村の暮らしを守って家庭をつくっている。満夫が精魂込めてつくっているトマトハウスで、未来に絶望した松造は農薬をあおって自死してしまう。村の解体は家の解体にまでおよんできたのだ。
 「性的黙示録」では、満夫は妻のあや子との間に二人の子をもうけ、母トミ子とともに街で暮らしている。土地をすべて売り払い、貸蒲団屋で働いているのだ。貸蒲団屋社長水野はバブル経済の時代が生んだ欲望に放埓な俗物で、あや子を巻き込んで夫婦交換を迫ったりする。「遠雷」から十年の歳月が流れ、殺人事件で服役していた広次が出所してくる。広次は高速で走りつづけている時代に適応できず、怪しげな宗教理念を妄想している。夫婦仲が冷えきっている満夫とあや子の家庭で居場所のない母トミ子は、広次の妄想に共感する。満夫も時代に適応できず、いつも目の前にいる俗物水野を金属バットで殴り殺して車のトランクに隠し、何気なく日常生活をしている。水野が行方不明となり多くの人が満夫が怪しいとにらむのだが、証拠がない。満夫は同じ車に乗って徐々に腐爛していく水野と、妄想の中で語りつづける。村の解体、家の解体ときて、ついに個の解体へと至るのだ。
 それからまた十年がたち、消えてしまった村に、放浪をしていた人たちが戻ってくる。村人を追いやるほど力に満ち、時代の波にのってやってきた団地は、ついに悪魔の棲むスラムになっている。経済万能の時代が過ぎていったあとには、何が残っているのか。広次や満夫はこの時代の中でどんな観念を紡ごうというのか。わかりきったものを構成して書くのではなく、書きながら私は登場人物とともに無明の闇を歩いていく。これが「遠雷」以来私がとってきた方法だ。
 「地霊」は、「遠雷」「春雷」「性的黙示録」と書き継いできた物語の四部作目にあたる。新興宗教の発生をテーマにした作品であるが、「文藝」に連載を開始したのはかのオウム真理教事件が発覚する以前のことである。時代はどんどん走っていき、人が生きているかぎり私はその人々に寄り添って物語りを書きついでいく。行っても行っても、果てはないのである。
 この「遠雷」の都市近郊農村を素材にした作品は、「雷獣」「百雷」「雷神〔サンダーバード〕」「黙示の華」の長編と、いくつかの短編がある。
 こうして長い歳月をかけて「地霊」を書き上げ、さて私たちは何処に向かおうとしているのかと考えると、暗澹たる思いにとらわれてくる。
    一九九九年晩秋、宇都宮の旧居にて  立松和平

2014/03/24 (月) 新しい週の始まり
 気がめいって仕方がないので、小川へ小魚獲りに行った。獲った二匹の小魚を屋外水槽に入れた。これに二匹の赤金魚と二匹の黒金魚が水槽の住人となったわけである。


 それぞれの動きを観察していると、人間関係を彷彿とさせる。 
赤金魚ふたりはいつも連れ添って泳いでいる。そして黒金魚が連れ添って泳いでいるかというと、そうではないのだ。ふたりは距離をとって背を向けている。
 私は、甘やかされて飼育された4匹金魚族に、闖入者の野生小魚族が戦いを挑むのかな?、と思っていたがいまのところそういう気配はない。
「地霊」より
 ・・この宝塔の中には如来の全身が安置されている。かつて完全な悟りの境地に到達した多宝という名の如来がいた。その如来の全身のために、この塔は建てられたのだ。人は如来を拝むならば、この塔を遥拝すべきである。如来は教えを説くために、この塔に乗ってやってきたのだ。
 求道者は忍耐強く修行をつづけて心が平静となる根拠を会得し、心の中の恐れを消し、嫉妬を捨てなければならない。高慢な連中に随行してはならない。みずからを阿羅漢と思う僧や、破戒の僧から遠ざかれ。たえず微笑んで話しかけてくる尼僧からも遠ざかるのだ。卑しいことに溺れる女の信者を避けよ。この世で悟りの境地を熱心に求める女の信者と懇意になるな。いつも冷静で、何ものにも臆さず、何ごとにもとらわれてはならない。芸人、詐欺師、淫売宿の主人と懇意になるな。遊女や快楽を売る人々のあとを追ってはならない。教えを聴きにきたものに対しては、誰に対しても親しみをこめて教えを説く。安楽な気持ちで教えを説く。すべての不平不満を捨て、周囲の人々に悲しみの力を降りそそげ。集まった人たちを喜ばせ、満足させ、どのような要求もないようにせよ。食物も飲物も衣服も、人々から求めてはならない。真面目で、温和で、忍耐強くあれ。・・

2014/03/23 (日) きのどくな
 妹の娘と私の妻が、お袋の「よねの餅」を近所に配った。
近所のどこへ行っても、年寄りから「きのどくな きのどくな」と言われ、娘はすっかり考え込んでしまった。「祝い事を配るのに、なんで同情されなくちゃいけないの?」という疑問だ。

 東京生まれ東京育ちの彼女は、「きのどくな」の言葉の持つ意味の二重性を理解できなかったのである。

「きのどくな」の
意味①ー「かわいそうに」=全国共通
意味②ー「ごくろうさま」=福井限定方言

 私も高校卒業後6年間だけ関西にいたが、ある時、誰かに何かをご馳走になり、「くどいなあ」と言ったところ相手は怪訝な顔をした。

「くどい」の
意味①ー「〔性格が〕しつこい」=全国共通
意味②ー「味が濃厚」=福井限定方言

 同じ福井でも嶺北と嶺南で方言は違うだろうし、金津と芦原でも違いがある。「金津方言集」をつくるのも、いい暇つぶしになるかもしれない。

 
 それはともかく
 新聞記事デジタル版の「神戸連続殺傷17年 女児の母「全て悪の人いない」」を読んだ。私と違って我が子を殺された母が、ながい歳月を経たとはいえ、このように透き通った感情を持てるようになったのだ。そういう母親を、私には仰ぎ見ることしかできない。

 本文に書いてある通り、事件発生当初は沢山の励ましの言葉をいただいたのだろうが、「所詮は他人の子」ということで世間の目は徐々に風化していく。

 本文のなかにある「この子たちが、目を輝かせて生きていける日本社会を残すのは、私たち大人の責務だと痛感しています」の思いを、私も、およばずながら応援したい、と思う。

2014/03/22 (土) 昨日はにぎやかだった
 昨日の牧田家の昼食は総計11人という多人数のものとなった。メニューは寿司。
 妹が、息子・息子の嫁・孫・娘を連れて帰省してきためだが、孫は食卓の周りを這い回るし、女たちはペチャクチャしゃべりまくるし、妹の息子と私の男二人だけが黙って寿司をつまみ渋茶を飲み込んでいた。

 戦前までの日本は大家族制だったのだから、現在と違ってこういう食事光景は珍しくもなんともなかったのだろう。
 
 さらに江戸期までさかのぼれば、
囲炉裏には身分により座る位置がきめられていた。
 インターネットで検索すると、以下の解説が出てくる。

ヨコザ
神棚・床の間の側近の上座をヨコザ。一家の主か、お坊様など身分の高い客人の座。
カカザ
主婦の座で、台所に近い側。
キャクザ(客座)
男座、むこう座とも言いお客様、男の座。
キジリ(木尻)
土間側で下座になる。老婆や娘、使用人の座。
こちら側から薪をくべるので「木の尻」が見える方向。 

 このように座が確定している家など現在の日本においてはほぼ皆無だろうが、身分制の復権を目指す私としては、せめて居酒屋おまきだけでもこのような座の構成を目指すつもりです。

 それはともかく、「地霊」の146頁。
 ・・保護司は「あなたは人間として絶対にしてはならないことをしてしまった。そのことでは、どんなに悔いても充分ということはないでしょう。悔いて悔いて悔いぬくことです。しかも、人知れず、静かに悔いることですよ。屋根裏の鼠に
なって生きるんです。間違っても、功名心とか、人を出し抜こうとする心とかを興してはならない。屋根裏の鼠になれなければ、下水道の鼠になるんです。きれいごとではありませんよ。更正に失敗した犯罪者を、私はたくさん見てきました。きれいごとならどんなふうにでもいえますが、罪を犯した人間を法律が許しても、世間はなかなか許してくれない。何故だかわかりますか」と、〔殺人犯の〕満夫に言う。・・

このくだりで私は、8年ほど前に某保護司のてはずで、女子刑務所へ、知り合いの受刑囚の接見に行ったことを思い出した。接見は、まさにテレビドラマと同じだった。女性受刑囚は、分厚いトウメイガラス越しに、「刑務所内にイジメがあるんです。それが耐えられない」と訴えていた。

刑務所内のこともそうだが、服役を終えた人が市民社会に戻っても、世間の眼が心の暗雲を刺激しているのである。

2014/03/21 (金) 三月議会終了
 あわら市会三月議会が終わった。
 私が三月議会で傍聴したのは、二月二十五日の本会議初日、三月四日の一般質問、三月十二日の総務文教常任委員会、そして議会最終日の二十日だった。
 
最終日に傍聴したのは、「手話言語法〔仮称〕制定を求める意見書案」提出の審議が予定されており、その意見書提出者〔聾唖者〕から、「議場にきてくれ」と言われたからだ。
 傍聴席には大勢の聾唖者が来ていた。彼等彼女等から「なんで議員を辞めてしまったの?」と聞かれその説明に忙しかったが、いずれにせよ、私は昔を思い出してとても懐かしかった。

私は30歳代の頃、手話学習に対してとても熱心だった。毎週二つか三つの手話サークルに顔を出していた。私の妻〔当時は清楚な感じだった〕はその時に知り合った女性で、その意味でも手話に感謝している。

 三月十二日の総務文教常任委員会で、小学校二学期制移行に関する教育委員会の説明不足を指摘する声が議員側に多くあがり、議会最終日の委員長報告でも議長挨拶でも強い指摘があった。全く同感。
 
 インターネット中継も始まるだろうし、ケーブルテレビ中継も始まる。
 是非ご覧になってください。そして、フットワークの軽い方は議会報告会へ出かけていってご意見をどうぞ。

2014/03/20 (木) トレーニングを終えて
 今年の冬、外へ放りっ放しにしていた金魚が生きていたので、私は大変感動し、水替えをして餌を与えた。〔もっとも妻には、放置していたのは動物虐待や、いじめやと叱られたけど・・〕



  溝江館跡 
 
溝江氏は室町時代溝江庄出身で越前国主朝倉氏に仕え1万700石を領した。館の規模は100m四方、周囲は堀をもってかためた。天正2年(1574)金沢御坊坊官・杉浦壱岐が一揆勢を指揮し越前に攻め込み、北金津総持寺に本陣を置き、2万余りの勢 をもって攻めたて館を包囲した。2月19日、遂に溝江長逸は子長澄を脱出させて城に火をかけ溝江一族30余人、加賀国より亡命していた元加賀国守護冨樫政親の孫泰俊親子5人共に自刃した。
平成6年5月2日、溝江伸康氏から第三代城主大炊助長公が着用した鎧具足(朝倉義景公より拝領)壱領・溝江家織族ならびに伝来の古文書の複本十数通等が金津町へ献納された。供養堂の裏に影逸父子の墓と五輪の供養塔が建立されている。
墓は、丈1m・巾50cm・笏谷石造り、正面に「高岳院殿照月大居士」、「常心院殿高雲宗岳大居士」と刻されている。刻文はあるが風化して読めない。尚、溝江氏の菩提寺は、日蓮宗妙隆寺である。

朝倉始末記に記されている辞世の歌

世の中の 楽をも苦をも 春の夜の
   短かき夢と 今日もはてぬる  溝江景逸入道宗天

上の文章は確か故朝倉先生が書いたものだったと思いますが、先日来訪したY氏によれば、溝江氏についての講演会が本年度に開かれるとのことです。
場所 生涯学習館
日時 未定

2014/03/19 (水) 早春賦
 昨日のブログに書いた「来る女性は来るのである」はどうやら人生の真実で、昨日の来訪者も女性だった。空海を尊敬し何年か前に高野山へ行ったことのある私は、我が事務所を「女人禁制の館」にするつもりだったが、そうならないのも自分の責任ではなくて自分の容貌的魅力のせいなのだから仕方ない。容貌は自分の意志では直せないのだ。
 ものごとはままならないのである。

 それはともかく
 2010年に63歳で亡くなった立松和平の著書「地霊」

の主人公・満夫が、殺人罪と死体遺棄罪での刑務所収監を終え、シャバに復帰してくるところから物語りは始まる。

 24頁の・・「地上に生きる我々は、自分を救う道を自分で学ばなくてはならない。この地上に限っては、あらかじめ敷かれた道など存在しないのだよ。我々は肉体を通じなければならないにせよ霊的な存在でもあるのだから、どんな行動を起こしても、その背後には霊が存在している。どんな邪悪な霊がついていても、その霊を立ち上がらせるのが我々の役目なのだ。嘆いてばかりはいられない。力尽きるわけにはいかないのだ」と広次が語り始めると同時に・・のところから、「立松はインド放浪や永平寺での道元研究で小説のテーマを変えつつあるのだなあ」と思った。今後の展開が楽しみだ。

 「遠雷」で有名になった放浪の小説家は東北巨大地震の前年に亡くなってしまったが、もし存命であったら、巨大地震に向き合ってどんな小説を書いてくれただろうか、と時折残念に思う。
 それはともかく
 先月9日のブログに書いた集会に関する新聞記事〔日刊県民福井〕を某氏が持ってきてくれた。
 お読みください。

2014/03/18 (火) 深夜の風が心地よかった 
 春先にウインドウズXPのサポートが終了するのに伴って、これからの方針を決めなければならなくなり、昨日は、福井市内のパソコン店をいくつかまわっていた。
 「今使っているデスクトップパソコンはインターネットと接続せずにCADつまり仕事専用のものとし、中古のノートパソコンを一台購入する」にどうやら決まりそうだ。そうすれば私は晴れて「旅の人」となれる。

 事務所に戻ってそのための金策を考えていたら、某女性が来訪。硬派宣言して七ヶ月経ったが、来る女性は来るのである。そのひとは、ある展示会の企画の話を持ち込んできた。
 他にも企画の話があり、今年に入って年金生活者となった私を待ち受けているものは「酒と読書の日々」だと思っていたが、そうも言ってられないようだ。でも一面嬉しいことでもある。

 佐村河内 某がゴーストライターによる代作問題で世間の非難を浴びている。自己顕示欲が非常に強い人とのことなので、賞賛であれ非難であれ世間の耳目をあれだけ集めたのだから、彼の目的は達成されたと言える。

 横浜市による聴力再検査で、彼の難聴度が障害者手帳交付の対象となるレベルではなかったとラジオが報告するのを聴いて、昔、何人かの聾唖者の聴力検査のため、手話通訳の立場で耳鼻科医院へ彼等彼女等と同行したことを私は思い出した。

 聾唖の意味は、聾=聞こえない、唖=しゃべれない で、聾が生理的障害であるのに対して唖は付随的障害とされている。
 つまり声帯がしっかりしているのにも関わらず、自分の発語を自分で聴くことができないのでどうしても発語が不明瞭になるということだ。
 
 佐村河内 某の発語の明瞭さをみていると、聾でないことは瞭然としているし、第一、代作者が「彼は聞こえる」と言っていたはずだ。
 マスコミが踊らされていた、ということだろう。


2014/03/17 (月) 新しい週の始まり
 「世界拷問史」を読んでいると、拷問の主流が宗教弾圧にあったことがわかる。となると思い出すのが、若いときに読んだ遠藤周作著「沈黙」だ。著者自身が敬虔なクリスチャンだったからこそ書けた小説だと思うし、その深い意味を宗教から縁遠い私が理解したとは到底思えないのだが、記憶の引き出しにちゃんと入っている。

骨子はウイキペデイアによればこうだ。
「島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペは日本に潜入すべくマカオに立寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴは隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となる。幕府に処刑され、殉教する信者たちを前に、ガルペは思わず彼らの元に駆け寄って命を落とす。ロドリゴはひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」を通すのみであった。逃亡するロドリゴはやがてキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジローの姿がそこにあった。

長崎奉行所でロドリゴは棄教した師のフェレイラと出会い、さらにかつては自身も信者であった長崎奉行の井上筑後守との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は意味を持つのかという命題を突きつけられる。奉行所の門前では、キチジローが何度も何度もロドリゴに会わせて欲しいと泣き叫んでは、追い返されている。ロドリゴはその彼に軽蔑しか感じない。

神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。

夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき踏絵のなかのイエスが「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから」と語りかける。

こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」

踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。」


「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから」と語りかけられ踏み絵を踏んでロドリゴは敗北感に打ちひしがれるのであるが、もし私がロドリゴであったとするならば踏み絵を踏むことに痛痒を感じはしないだろう。「神の愛はそういう瑣末な行為を超えた無限のものなのだから」と思うだろう。

「そうではない。殉教の崇高さが貴方にはわからないのだ」と布教者が言うならば、彼等彼女らは弟子唯円が書いた親鸞の言葉集「歎異抄」を理解していないのだ、と私は思う。
 
私の家は浄土真宗だ。そのため幼少の頃から家の仏壇の前で、坊さんから「あしたに紅顔であるもゆうべに白骨と化す身なり」なんて言葉をわからないままによく聞かされた。だけど自分が大人になってくると、その言葉の作り手=真宗中興の祖・蓮如は政治家であるような気が積み重なって、その気風の全くない親鸞こそが言葉の本来的な意味での宗教者だという思いが強い。
それはともかく
二人の議員から、「聾学校で手話を教えていないのは何故?」と問う電話がかかってきた。最近では「聴力障害者の時間」などのテレビ番海が充実し一般視聴者の眼に触れる頻度が増えてきたし、そういう疑問の声も今後増えるだろう。
これは事実であり、どこの都道府県の聾学校でも対応は同じだと思う。
それはともかく
Sクンに会った時、多賀谷左近三経のパンフをもらった。柿原地区はどうも多賀谷左近を村起こしに使おうとしている。

2014/03/16 (日)  昨日の一日

 人間嫌いが進行し滅多に外で飯を食わなくなった私だが、昨日は久しぶりに外での昼飯となった。自宅近くの喫茶店に中島道子先生が来たからである。5人が集まり、私は蟹雑炊を食べた。歴史四方山が話のテーマだったが、86歳にしてなお矍鑠としている。

 私は1時過ぎに中座して、坂ノ下・八幡神社へ向かった。拝殿で春の例祭が挙行されるためだ。
 鳥居をくぐると凛とする。神域に入るのだから、当然そうなるのだろう。境内を歩く時、死んでいった何人かの人の声が聞こえてきた。

 事務所に戻りニッカウイスキーを飲みながら妄想にふけっていると、携帯電話が鳴った。
 Tさんからの「牧田さんとうとうやりましたよ。手話通訳試験に合格しましたよ!」というメッセージで、私は、本当によかったなあ、と思った。あわら市にも手話通訳士が誕生したのだ・・しばらくあとにはあわら市にとって貴重な人材となる。市のインフラ整備も大切だが、問題は人材。
 フルート、バイオリン、語り部などソフト部門で人材をキャッチすることが、より大切だと思う。

2014/03/15 (土) 拷問
 ブライアン・インズ著「世界拷問史」は、拷問が合法であった三千年のあいだにどのような拷問が行なわれてきたかを絵入りで解説している本。 

            

 「第3章・異端審問」のあたりから、死に至る苦痛を極限たらしめる手口の数々が紹介されており、深夜読書族の私にとってこの本を読み進めることは油汗地獄めぐりの追体験に他ならず、本を棚の奥に引っ込めようとしたこともしばしばだ。
 にもかかわらず読み進めているのは、〔アムネステイ・インターナショナルによれば〕現在の時点でも世界のあちことで拷問が行なわれているということであって、手にとってしまったからには読みきるのが義務だと思うからだ。

 このような歴史を人類が持つということは、我々の深層に嗜虐性が厳然として存在しているということである。これを対岸の存在としてみるのではなく、内なる心のものとして考えることが大切だと思う。
手話関係者の皆さんへ

2014/03/14 (金) もう週末か
 吉村昭著「生麦事件」を読み終えて数日が経った。



 「文久年間、薩摩藩・島津久光が参勤交代の法にのっとって国元へ帰る途中、神奈川の生麦村で馬上の英国人を切り捨てたのが生麦事件で、英国側は「下手人を差出せ、すぐに腹を切らせろ、久光を召還しろ」と幕府に迫る。
 当時世界一の海軍国家であった英国の要求だ。幕府はすぐにこの要求を薩摩藩に伝えるのだが、前藩主・島津斉彬の指導の下、日本随一の海軍力を持っていた薩摩藩の行列部隊は、要求をせせら笑い足蹴りにして国元へ帰ってしまった。
 逆上した英国側は本国に仔細を連絡した。それを受けた英国艦隊は薩摩を目指し、薩英戦争が現実のものとして目前に迫ってきた」
 ・・という調子で始まるこの分厚い本を閉じて数日経つうちに、「生麦事件」は幕末に起こった事件のワン オブ ゼムどころかエポックなのだと思うようになってきた。

 著者もあとがきでこう書いている。
 「桜田門外ノ変」等の幕末を舞台とした歴史小説をいくつか書き、それに関する資料にふれているうちに、私の眼は、いつしか生麦事件に集中するようになった。
 自然に事件に関する資料調べをはじめたが、やがてその事件が、幕府崩壊、明治維新成立の上できわめて重要な意義を持つものであるのを知った。この事件なくして、あのような形での大革命はあり得なかったことを強く感じたのである・・後略」

 それはともかく
 このブログをご覧のみなさんは、三月十三日付け福井新聞24面「あわら市小学校、2学期制に」の記事を読みなっただろうか。

 この総務文教常任委員会を傍聴した唯一のあわら市民だった私は、教育委員会側の説明と議員側の応酬の全てを皮膚感覚で覚えている。
 その実態は取材ノートに書かれているような「戸惑い云々」という紳士レベルのものではなく、怒号さえ飛び交うものだった。
 事務所に戻ってからじっくり考えてみたが、どうしても教育委員会側の拙速を理解できない。いずれ三月議会報告会の際の大きな焦点となるのではないか。

2014/03/13 (木) 熱々珈琲を飲みながら

 昨日の朝、青色確定申告書作製に専念していた時、玄関のチャイムが鳴った。
 ドアを半分開けると、男性が立っていて「貴方は神を信じますか?」と言う。

 私は自分が神を信じているのかいないのかよくわからないが、新興宗教の語りには興味があるのでドアを全開した。
 男性は分厚い聖書を手にして「神の啓示」を語り始めた。

 男性が、「お金が人間の物質的欲望を肥大化させた。諸悪の根源がここにあるのです。それを神はお見通しでした。」と言うので、私は「違うでしょう。不便な物々交換の時代に別れを告げさせたのは交換価値=お金です。これは、お酒と並ぶ人類の二大発明のうちの一つです。物質的欲望云々は人間が本来持っている未熟さに起因しているのであって、敢えて言うならば、貴方がたが信じているところの人間の創造主としての「神」の力量不足によるものではありませんか?」と異論を唱えたら、男性は「神は完全です。旧約新約聖書の書き手はモーゼをはじめ何人もいて、彼等は直接神の啓示を受けているのです。予言者が直接神の啓示を受けているのだから完全なのです」と言う。

 「聖書を読んでいない私がこういうことを言うのは不謹慎かもしれないが、予言者に対しての神の啓示の具体的なかたちは?たとえば神の言葉は何語だったのですか?」と聞く私に、「いや、予言者たちは神の姿を神の思いを映像以前のもの言葉以前のものとしてうけとり、それをそれぞれの言葉に翻訳したのです」と、男性は言う。

 「だとすると、神と予言者との間の交感はブラックボックスのなかにあるということになり、予言者が自分の思いで書いたとしても、我々衆生は「そうですか」と頭を下げるか「説得力に欠ける」と反発するしかない。これは言わば洗脳です」と私が言うと、「いや、洗脳じゃなくて信じるということです。信じれば全ての疑問は氷解します」と言う。

 そうなのだ。信じる者こそ救われる。信じることができるのは幸せなことなのである。

 弥生以前つまり縄文時代の我々の先祖は、人間の背丈を超えた巨大な存在を畏怖していた。多神教の日本には西洋が言うところのゴッドはいなくて、神々が巨木や巨石を頼代として跋扈していた。稲作が伝わっていないのでストックできる余剰物はなく、よってそれをめぐる争いも無かった。
 神々に対する畏怖のもと、我々の先祖は原始共産制社会の豊かさを享受していたのではないだろうか。
 
勿論、防波堤をつくる技術がないので津波に対しては無防備だったし、避雷針がないので雷には無防備だったし、耐火建築物はないので火事には無防備だったし、耐震設計の考え方はないので地震に対しても無防備だった。
 天変地異に対してはひたすら「我々の傲慢を神々は怒っていなさる」と反省し、神々つまり自然に向かって土下座し畏怖していた。

ひるがえって現代人は自然を克服の対象と捕らえ、科学技術の力でそれが実現できると考え、あろうことか原発までつくってしまい、取り返しのつかない3.11をこの世に出現させてしまった。
 現代人と縄文人のどちらが幸せなんだろう。

2014/03/12 (水) 無題
 昨日は東日本大震災および福島原発事故発生三年目の記念日ということで、ラジオは終日特集を流していたし私は終日聴いていたが、日本は東北とそれ以外のふたつに分断されつつあるような気がする。

 「思いを風化させない!再びの元気を!」と合唱することを、最愛の人を失った人たちはどう受けとめることができるのだろう。天災と違って人災であるのだから、良寛のように「災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候 死ぬ時節には 死ぬがよく候」と言い切ることもできない。

 とりあえずいろんな人がいろんなことを語っていた。
 本日の新聞で楽天の星野監督が、「我々は野球という職業をしているから、〔復興が進まない現状の〕根本は変えられない」「瞬間、瞬間で〔震災の記憶を〕わすれさせることしかできない。でもそれが使命だし、モチベーションにしないといけないな」と語っていたが、これは被災者側に立った思いだろう。                                                    

2014/03/11 (火) 双眼鏡を楽しむ
 昨日は、新しく勝った双眼鏡を暇な時間帯に楽しんだ。水鳥、寒椿、木の芽、広告看板エトセトラで、刺激ナンバーワンは、夜の二時に見たお月さん。
 月のかたちは、弓張り月、半月、満月などいろいろあり、昨夜の月は半月よりやや膨らんでいる月〔どう呼ぶのかは知らない〕だったが、双眼鏡で覗くと表面のでこぼこが見えるというか見える気がするのだった。
 単なるでこぼこ模様でありウサギが餅などついていないことを確認できたのは、一歩前進だ。
 
月については苦い思い出がある。
 二十年ほど前の夏、我が家でウラジオストック在住の若い女性がホームステイ。数日間を過ごした。国に帰る前の日の晩、彼女は私の事務所へやってきた。
「オトウサン〔私のこと〕、いろいろありがとうございました、これはほんのお礼です」と言って、一本のウオッカ瓶を私に手渡した。

 ウオッカはとんでもなく度の強いアルコールだ。
 彼女が部屋を去ったあと私はウオッカ瓶を持って庭にでた。満月の夜なので外は明るい。私は雑草の上に座ってちびちびと飲み始めた。飲むたび喉が焼けるようだ。

 すぐに酔っ払ってしまい、にもかかわらず満月を見つめ続けていた。かぐや姫が絹製の十二単を着て降りてくるかもしれないと思ったからだ。勿論、降りてくるはずはなく、そのうちに前後不覚となった。
 朝陽が上る頃に眼が覚めたら、まわりは嘔吐物だらけだった。                                                        

2014/03/10 (月) 昨日の一日
 昨日の午前中に訪れた旧瓜生家住宅〔鯖江市水落町〕は元禄期に建てられた福井県最古の民家で、屋根はどっしりとした風格を持つ茅葺入母屋作りである。



 屋内に入ると、殆ど闇の世界。じっと眼を凝らすと太い柱や梁が見えてくる。素材はおそらく欅で柱の直径は一尺内外。京町屋とは対照的な骨太の古民家で戦国武士を見ている気分になった。
 300年の幾星霜で柱梁は煤によって黒ずみ木目は見えなくなっている。
 
 炉縁に座り、裸電球の下で薪をくべている老人としばらく話す。
老人 「この民家は元禄12年創建で、今から315年前のことです」
私  「おじさんはこの近所の方ですか?」
老人 「そうです。重要文化財なので国の出費でこの家を守っています」

 私は畳の間を歩いた。
 畳の上に置かれた行灯風灯りに眼を奪われる。我々現代人は天井照明の下で生活しているが、下からの灯りで光源の見える生活こそが心を癒すことになるのではないだろうか。昼なお暗きこの建物だから行灯風灯りで雰囲気がより効果的に発揮されていると思った。陰影礼賛だ。

器具も手作りだ。もっとも、出来ばえは昨年12月に私が某女性からプレゼントされたもののほうが素敵だが・・。



 午後は反原発集会の開かれている鯖江市文化センターへ。
 会場周辺の警備が物々しく、右翼のラウドスピーカーががなりたてている。何人かの右翼が会場敷地に入りこんで走りまわり、県警が追いかけまわし、目の前でひとりが県警に倒され四肢を拘束され運び出された。勿論、集会ゲストのひとりである山本太郎さん攻撃のための行動だ。

 会場ではゲストたちのスピーチが始まった。
 一番目は福島から福井へ逃げてきた木田節子さん。悲しみを語る語り口に私は一番胸をうたれた。
 二番目は秋山豊寛さん。宇宙飛行士で福島で有機農業を営んでいたが、3・11以後京都で百姓をやっている。
 三番目は山本太郎さん。しょっぱなに「ライトウイングの皆さん、お騒がせして申し訳ありません。でもライトウイング〔右翼〕の皆さんのあのあふれるエネルギーを反原発運動の一点で役立ててほしい。共闘しましょう」と言って会場をわかせた。さすが芸能人だ。聴衆を独特の手法で惹きつける。
 


 四番目は作家の広瀬隆さん。このひとの講演会には何度か行った。



しかし、私にとって昨日一番の収穫は下の写真=双眼鏡が手に入ったことだ。年代もので手にとるとずっしり重い。



 鯖江市内のお寺境内で開かれたフリーマーケット会場の人ごみを歩いていた時、ちょび髭悪人相の関西弁親父から声がかかった。
 「おおーい そこのお兄さん、この双眼鏡安いでっせ。たったの千円や。昔楽しんだ「のぞき」をこれで又味わえるで。立派な回春器具や。サービスで千円 どうや」と言う。

 私に「のぞき」の趣味はないし、何故私が呼び止められたのかはわからない。しかし私の今年の目標のひとつが「野鳥観察のために双眼鏡を手に入れること」であり、渡りに船とはこのことだと思い、大枚千円をはたいて購入した。満足している。

2014/03/09 (日) 昨日の一日
 昨日は雪の朝だった。



 細呂木方面へ車を走らせると、そこは完全な銀世界だ。

 森の中の生き物たちも寒かろう。もしも、私が森へ分け入って歩いたならば、凍死体に出会ったのではないか。考えてみれば、彼等彼女等は日中〔にっちゅう〕野に出て餌をついばみ、日が暮れると森に帰って眠る。寝屋は寒暖に対して緩衝されていないのだから、そこで死んでゆくのも不自然ではない。
 彼等彼女等は葬送の儀式を通過せずに土へ帰ってゆく。墓がないのだから友人知人たちからもいづれ忘れ去られてゆく。
 知的生命体である人間の場合も、葬送の儀式が成立あるいは墓が建てられるようになったのは、人類史全体を俯瞰すれば、ごく最近のことだろう。

 というようなことを考えているうち、某夫妻宅に着いた。
 応接間に通された。
 「お茶がいいですか?珈琲がいいですか?」と問われた私は、「本当ならお酒とりわけ焼酎が欲しいのですが、車なので我慢します。珈琲をください」と答えたあと、カバンからとんぼさんの労作・「お寺のおばあちゃん」をとりだし、学童疎開の話に入った。

テーブルの向かって右側に座る某氏は昭和18年生まれ、左側に座る奥さんは昭和22年生まれ、そして真向かいに座るおばあちゃんは93歳とのこと。
 「このプリントを持ってきたのは、戦時下のあわら市にこういう交流のあったことを一人でも多くのあわら市民に知ってもらいたかったからです」と云って、某氏宅をあとにした

2014/03/08 (土) 降る雪や 明治は遠くなりにけり

 昨日の午後5時に仕事のCADを終え、吉村昭著「生麦事件」を開いた。

 文久年間、薩摩藩・島津久光が参勤交代の法にのっとって国元へ帰る途中、神奈川の生麦村で馬上の英国人を切り捨てたのが生麦事件で、英国側は「下手人を差出せ、すぐに腹を切らせろ、久光を召還しろ」と幕府に迫る。

 当時世界一の海軍国家であった英国の要求だ。幕府はすぐにこの要求を薩摩藩に伝えるのだが、前藩主・島津斉彬の指導の下、日本随一の海軍力を持っていた薩摩藩の行列部隊は、要求をせせら笑い足蹴りにして国元へ帰ってしまった。

 逆上した英国側は本国に仔細を連絡した。それを受けた英国艦隊は薩摩を目指し、薩英戦争が現実のものとして目前に迫ってきた。

 ・・と、ここまで読み進めてきた時に、博覧強記のHさんが来訪。
 私は、Hさんに熱々珈琲を出し、自らは「本格焼酎・麦」を飲みながら、当時の時代背景をいろいろ聞いた。聞き終わって話はあわら市政のことに転じた。

 その時、市政関係者のHさんが現れた〔くしくもイニシャルが同じだ〕。なぜか話のテーマは「太平洋戦争・・フィリピンの捕虜収容所から鉄条網を破って脱出した男」に転じた。
 あまり大きな声では言えないが、その男の私生活は私が一番詳しく知っている。 

2014/03/07 (金) 無題
 詩人・高橋睦朗のエッセーに「日本の歌あるいは歌物語の原型には、倭建命をルーツとする「ますらお型」と木梨軽皇子をルーツとする「みやびお型」の二つがあり、そのいずれもが「さすらい人」という母型をかたちづくっているのではないか」というのがあって、今風に云うならば、「ますらお型」は「硬派」、「みやびお型」は「軟派」、そして「さすらい人」ははしだのりひことシューベルトの「さすらい人の子守唄」にそのエッセンスがある。

 そう云えば、私のその後の人生の方向を決めた若き日の沖永良部島滞在の日々で、浜辺に咲くハマユウを見ながら歌ったのは、「さすらい人の子守唄」だった。

 夜の浜辺で南十字星を眺めながらひとり口ずさんでいたのは、「17才」〔南佐織〕だった。

 手をつないでアダン・ガジュマロの道を歩いた時、みつめあいながら歌ったのは「永良部百合の花」だった。

 「軟派」を脱し「硬派」となった私の次のステージは「さすらい人」であり、春が待ち遠しい。

それはさておき
きょうは某工事現場の消防検査の日でとにかく寒かった。
 

2014/03/06 (木) 新聞を読んで

 震災記録でやらせ 女性にラジオを聴くふり強いる
 「東日本大震災の被災地、宮城県南三陸町のラジオ局に密着したドキュメンタリー映画「ガレキとラジオ」に、「やらせ」があったことが分かった。娘と孫を津波で失った女性がラジオに励まされる場面が描かれるが、実際はラジオを聴いていなかった。女性は制作者の求めに応じて演技をしてしまったことに罪悪感を抱き、苦しんでいる。」

 この記事〔電子版〕を読んで、私は20年ほど前を思い出した。

 ある晩、私はサリドマイド薬禍で両腕の〔殆ど〕無い成人男性と話をしていた。
 彼は座敷牢で幼少期を送らされた体験を語ってくれたのだが、その内容はすさまじいものだった。上の記事が思い出させたものは、座敷牢から開放されたあとのもので、以下概略列挙。

 「ある時、俺のところにマスコミが来た。<サリドマイド薬禍にもめげず真摯に生きる人>というテーマで、テレビ放送をするためとのこと。
俺は、家族の複雑な思い、西ドイツの薬メーカーに対する怒り、周囲の偏見そして世の中全体に対する呪詛をギラギラ眼で語った。語っている時、カメラ担当から「目線を上げてしゃべってください。ところどころで笑顔を交えてください」という声がかかった。俺はそういう恥知らずの声に逆上の気分となったぞ」と語った。
 これも一種のやらせで、マスコミが、彼の生きる姿勢を美談に仕上げたかったゆえのやらせと云える。

 何回かラジオや新聞に出た私は、あんまりマスコミの悪口を云いたくないのだが、マスコミの基本姿勢にこういう体質があるのは否めない。

2014/03/05 (水) 昨日の一日
 昨日は、朝一番で、打合せのために嶺北金津消防署へ。
この季節、火事の対応に備えてか、消防署署員たちの顔はピリピリしているように見える。

 事務所へ戻ってからはCAD三昧。ウイーンのハイデルベルグ音楽院時代の同棲相手=アルプスの少女・ハイジを思い出したので、BGMをドビッシーとした。

 私は彼女の創りだす無(リャン)を追いかけて明けくれていた ドビッシー

 ・・うん、人生は「無」なのである。

 午後はあわら市議会へ傍聴に出かけた。興味を引く通告内容が二件あったからである。それと本会議初日のバタバタが又みれるかな?と思ったからである。
 傍聴者は、私ととんぼさんの二人だけだった。

 暫時休憩の時、議員のうちの何人かが傍聴席へやってきて、私は、いくつかのことを言われた。
 たとえば
①傍聴によう来てくれた
①まきちゃん、傍聴に来るくらいやったら、議員続けていりゃよかったのに
①服装が年寄りじみてきたなあ エトセトラ

 某議員の質問と行政側の応答とがまるでかみ合っていないと〔私には〕思えたところがあったので、終了後にそれを某議員に云った。
 「うん、云われてみりゃあその通りや。でも、質問席に立ってる時は緊張しまくってなあ、なかなかうまくいかんわ」だった。
 確かに、私も八ヶ月前までは現職議員であって、今はウオッチャーとなったから気楽にそういうことが云えるのかもしれない。

 事務所に戻って業務整理を終えてから入浴。正直に云うと、風呂場に熱燗一合瓶を盆に載せて持ち込みたいのだけど、家族への迷惑を考えるとそうもできまい。

 あったまった体で寝袋に入りベッドに横たわる。立松和平著「地霊」を開く。
 1999年発行だから、死ぬ10年前の作品だ。立松は「春雷」を読んだ時から好きになった。死ぬ10年前だから、もう宗教に傾倒し始めてからの作品だと思う。

 ・・「この清らかな大地は平穏である。稲がたわわに実り、草も木も邪魔をするものもなく繁って、風光明媚だ。どんな細部もおろそかにされずにつくられている。気候はよく、食料も豊かで、人々は何が欲しいとも何が食べたいとも思わずに暮らしている。自分が貧しいという観念はないから、結果としてみんな富裕なのだ。ここには多くの男女の群れが充ちあふれ、子供たちも地に充ちている。瑠璃でつくられているこの大地に」・・

 午後7時に就寝。帰宅した妻の「お父さん、もう寝たんか」という声が聞こえたような気がするが、ともかく熟睡。珍しく夢も見なかった。今朝は5時に起床。10時間眠っていたことになる

2014/03/04 (火) 本日の議会は「一般質問」
 浅田次郎著「活動写真の女」読了・・不思議な本だ。
 時は昭和44年。京大文学部の学生・三谷薫は、医学部学生 ・清家忠昭と出会う。二人は共に熱狂的な映画少年として育っていた。
 
 三谷は清家の紹介によって太秦の撮影所でアルバイトをするようになる。そこには日本映画界草創期からの全ての裏事情を知っている辻老人がいた。ある日、清家と三谷と三谷の恋人・結城早苗は時代劇映画にエキストラとして出演するのだが、その時、紅柄格子の向こうに芸者姿の美しい女優を見た。早苗がその女優と言葉を交わし、そしてここから現実と非現実とがほどきようもなく交錯した世界に、迷いこんでしまうのである。恐怖感に襲われた三人は、ことの顛末を辻老人に打ち明ける。

 辻老人は日本映画界草創期に活躍したマキノ省三、尾上松之助、坂東妻三郎、嵐寛十郎、片岡知恵蔵、溝口健二、小津安二郎、山中貞雄らについての薀蓄を語るのだが、その過程で、三人と辻老人は、女が「祇園の姉妹」にチョイ役で出ていた女優・伏見夕霞であることを知る。そして、ひょんなことから彼女が昭和12年に死んでいたことがわかる。
 
 いつの間にか清家は、三谷、早苗と疎遠になるが、鴨川べりを歩いていたある晩、二人は清家と出会う。清家には夕霞がぴたりと寄り添い、三谷、早苗に対して微笑みを投げかけるのであるが、三谷、早苗以外の誰にも夕霞が見えない。つまり夕霞は死者でありながらある理由で現世にとどまっている存在であり、その彼女と清家は既に恋仲となっている。

 幻想的なこの物語はこのようにして進んでいくのだが、数年前から霊魂の存在を信じている私には、希望の本だった。

2014/03/03 (月)

私は喪に服しています

2014/03/02 (日) 昨日の一日
 早朝に「ふるさと語ろう会」事務局の河田さんが来て、26年度行事のアウトラインを話し合った。

 そのあと、とんぼさんと一緒に細呂木地区の梅林へ。何百本もの梅の木が拡がるその地では小鳥の囀りが聞こえ、春の訪れの近いことを感じさせる。紅白梅の開花は案内者によればもう一ヶ月先のことになるとのことだが、その時には是非再来訪しようと思った。


 梅林に別れを告げたのち、のこぎり坂に寄った。5、6人の労働者が石碑周辺の整備に汗を流していた。土曜日ということで、世間の人は海へ行き山へ行きあるいはイベントを楽しんでいるなかで黙々と働いている人に対して、私は無条件に敬意を表する。私が五体満足であったならば、当然手伝っていただろう。
 中に、旧金津町時代の教育長・S氏がいた。
 S氏から、吉崎へとつながる古道の話、天爵大臣水谷忠厚〕の話、一向一揆の話などを聞いた。

 午後は事務所の全面的模様替に挑戦し夕刻に終了。春になるに連れ、来訪客の増加が見込まれる。客を魅力あるインテリアで迎えねば、思ったから。

2014/03/01 (土) 懐古

私はこのブログを10数年間書いていますが、唯一「感動した」というメールが入ってきたのが下の日記です。

10/20(土) 夕陽恋 


三国土木事務所での打合わせ終え、海岸に出た。
落ちる夕陽に染まる水平線からの風は冷たい。

パリで買ったダーバンのコートのえりをたててのくわえ煙草。憂愁の気分で岩畳にたたずむ私を横ぎろうとするひとつの影がある。
年の頃は42,3か。利休ねずみの鼻緒の草履、浅黄色の地に濃紺紋様の西陣、白いうなじ、島田髪の和服女性は、軽く私に会釈し去って行く。

遠ざかる彼女の細い背中は夕陽の逆光でシルエットと化した。
岩畳を散策する足取りおぼつかなく、不意の波しぶきよけようとした彼女の体が反転しよろけた。
かけつけ、「大丈夫ですか、奥さん」と声かける私に「おおきに、大丈夫どす。それにうち、今は奥さんあらしません」と彼女は言う。

うちとけ、肩並べつつ砂浜を歩いた。いつの間にかふたりの指はからみあっている。
彼女の胸の激しい鼓動が聞こえてくる。抱きしめ口づけを、と思わないでもなかったが議員なので我慢した。
別れた亭主のこと、今彼女にいいよっている幾人かの嫌な男たちのこと、そのうちのひとりが某市の議員だということ、にも関わらず自立し孤高に生きていこうとする思いききつつ、「この人にしろ私にしろ、美男美女の人生につきまとうのは、やはり悲しみと憂いなのか、それが宿命というものなのか」と私はココロでつぶやいた。

気がついたら辺りは既に闇だ。
「それでは」と背をむけた私を「りりしいおかた・・・たくましいおかた。うち、貴男様のお名前まだ聞いてしません。今晩のお宿どこですの?教えてくださいな。うち、行ってもかましませんでしょ?ねえ、かましませんでしょ?」と彼女の涙声の懇願が追う。
私は「奥さん、いやもと奥さん。私は名のるほどのものではございません。貴女は私をいとしく思っているのかもしれないが、それは本当の私・裏の私を知らないからだ。どんな男でも、私よりましなのです。恋に恋してはならない。恋に恋したところでなにも生まれはしない。貴女はいつの日か必ず真実の男性にめぐり合います。ここでさよならすることだけが、お互いを幸せにする道なのです」と答え、歩きはじめた。

背中見続けているであろう彼女の視線に耐えきれず、私はゆっくりと、しかし止まることなく歩き続けた・・・・。


こんなことを岩畳の上で夢想したのだが、こんなシチュエーション、52年のわしの人生に一度もなかったなあ。悔しいなあ。