↓オープンカフェのガラス水槽内の金魚とニッポンザリガニを広い水槽に移し替えた。
↓私はニッポンザリガニをてっきりエビだと思っていたのだが、数日前に来訪した有識者(男性・推定年齢68歳)から「これはニッポンザリガニや」と指摘された。
獰猛なアメリカザリガニならば金魚を食ってしまうところだが、ニッポンザリガニは優しく、金魚と見事に共生している。
それはともかく
吉村昭著「プリズンの満月」を読み終えた。題名から推察される通り、プリズンは巣鴨プリズンのことで、ここに収容された戦犯と彼らを監視する刑務官双方の胸中に絶望希望が互いに想起する。
・・・GHQはその年の十月三十日、巣鴨にある東京拘置所に対し四十八時間以内に立退くよう命じて接収し、それを巣鴨プリズンと改称して戦犯容疑者を移監した。
容疑者の逮捕がつづき、それらはA級、B級、C級に分別された。A級は平和に対する罪として戦争の計画、準備開始または実行、もしくは右諸行為のいずれかを達成するための共通の計画、または共同謀議への参加にかかわった者。B級は通例の戦争犯罪、C級は人道に対する罪とされた。この逮捕と拘禁は、日本が無条件降伏によって受諾したポツダム宣言の第十条「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加へらるべし」という条項にもとづくものであった。
A級の戦犯容疑者二十八名は、市ヶ谷の旧陸軍省内にもうけられた極東国際軍事裁判所に起訴され、審理の結果、昭和二十三年十一月十二日に七名に絞首刑、十六名に終身刑、二名に有期刑の判決を言い渡し、十二月二十三日に七名を処刑した。その間、B、C級戦犯は、横浜軍事法廷で裁判を受け、多くの者が絞首刑に処せられた。
巣鴨プリズンには、死刑、終身刑、有期刑の判決を受けた者たちが収容され、武装した米軍将校が厳重な警備にあたっていた。むろん鶴岡も、巣鴨プリズンに多くの戦犯たちが拘禁され、絞首による処刑もおこなわれていることを、新聞報道によって知っていた。しかし、プリズンは米軍の占領政策によって管理され、収容されているのは日本人だが、所長以下監視にあたっているのは米軍の将兵で、日本の刑務所、拘置所とは全く無縁のアメリカの施設であった。
そのようなプリズンに、なぜ、自分が勤務を命じられたのか。
「朝鮮戦争で情勢が変化し、日本の刑務官が必要になったのだそうだ」
所長は、鶴岡の懸念にこたえるように、管区長からの説明を口にした。
朝鮮は、第二次大戦後、北緯三十八度線を境にソ連、アメリカのそれぞれ支援をうけた北朝鮮と韓国に二分され、国境紛争が続発していた。が、二か月前の六月二十五日午前四時頃、突然国境全域にわたって大規模な戦闘行動が起った。北朝鮮の軍事力は、ソ連の積極的な軍事指導と武器援助で韓国のそれをはるかに上廻っていて、北朝鮮軍はたちまち国境を突破して南進し、三日目には早くも首都ソウルを占領、韓国軍は総崩れとなった。
アメリカはただちに国際連合に北朝鮮の軍事行動を非難する提議をおこない、それに賛成した加盟国の大半が、北朝鮮の武力攻撃撃退、韓国援助の決議案を採択した。これにもとづいてアメリカ大統領トルーマンは、陸海空軍に出撃命令を発し、七月一日にアメリカ陸軍部隊が釜山に上陸、国際連合はアメリカに国連軍指揮を依頼し、マッカーサー元帥が最高司令官となって司令部を東京に設置した。 |