戦国非情 結城氏・多賀谷氏 伝 結城氏は藤原秀郷を祖とし、秀郷の5代後、一族の一人が武蔵国大田(埼玉県太田市)に移住し大田太夫と称した。大田太夫から4代後、大田正光が下野国・小山(栃木県小山市)に移住し小山正光を名乗った。関東有数の豪族・小山氏の祖である。
小山正光は常陸国八田(茨城県下館市八田)の豪族・八田宗綱の娘・寒河尼を継室(後妻)に迎え、三男・朝光を得た。寒河尼は正光に嫁ぐ前、源頼朝の乳母であった。
1180年、頼朝は平家打倒の旗を掲げ挙兵するも敗れ、安房国(千葉県南部)に逃れた。此の地で再起を図るが、彼我の兵力の差は歴然としている。このとき頼朝の宿舎を寒河尼が14歳になったばかりの我が子・朝光を伴って訪ね、朝光を頼朝の家臣に加えるよう申し出た。頼朝は願いを聞き届け、さらに朝光の烏帽子親となった。これを以て小山氏は頼朝に与力の証とした。
※ 正光の長男は朝政。このとき正光、朝政は御所の警護で京都にいた。夫の留守の場合、権限は正室に移る。寒河尼の行動は、夫・正光の意思である。つまり小山一族が頼朝方についたことを公にしたことに他ならない。
寒河尼の尽力で頼朝は関東有数の豪族、小山氏と八田氏の兵力を得て巻き返しに成功した。鎌倉政権を樹立後、小山氏と八田氏(後の宇都宮氏)は有力御家人に取り立てられた。
頼朝は寒河尼の恩義に報い、朝光を結城郡の地頭に任じた。朝光は小山氏から独立し結城氏を名乗り、初代となった。
※ 八田氏(後の宇都宮氏)・・・藤原北家の流れ。(藤原氏には北家、南家、京家、式家がある)これとは別に八田氏の祖は上毛野氏とする説もある。
上毛野氏・・・崇神天皇第一皇子・豊城入彦命を祖とする豪族。
ともあれ源頼家の奥州の阿部氏征伐(前9年の役。1051~1063)に功があった八田宗円が宇都宮二荒山神社(下野一宮神社)の別当職に任じられ、宗円の孫・朝綱(八田宗綱の嫡男。寒河尼の兄)が宇都宮氏を名乗ったのが始まりとされている。
結城氏系譜
初代 朝光(ともみつ)
2代 朝広(ともひろ)
3代 広綱(ひろつな)
4代 時広(ときひろ)
5代 貞広(さだひろ)
6代 朝裕(ともすけ)
7代 直朝(なおとも)
8代 直光(なおみつ)
9代 基光(もとみつ)
10代 満広(みつひろ)
11代 氏朝(うじとも)
12代 持朝(もちとも)
13代 成朝(しげとも)
14代 氏広(うじひろ)
15代 政朝(まさとも)
16代 政勝(まさかつ)
17代 晴朝(はるとも)
18代 秀康(ひでやす)
19代 直基(なおもと。秀康4男。嫡男・忠直は松平氏を名乗る)
鎌倉末期、4代時広(享年24歳)5代貞広(享年21歳)が若くして病死。6代朝裕は南北朝の乱で、北朝方武将として戦死。享年28歳(1336年)。7代直朝も同じく北朝方武将として戦死。享年18歳(1343年)。
相次ぐ当主の夭折で結城家は衰退した。8代直光(なおみつ)は直朝の弟で、やはり北朝方として働き、功があった。3代続いた功績を足利尊氏に称えられて所領を増やされた。
尊氏の4男・基氏が鎌倉公方として下向し、上杉憲顕(憲顕の伯母が尊氏の母)が関東管領として復帰すると、憲顕の強引な手法に関東領主は反発し、鎌倉府に反旗を翻した。
※ 直義(尊氏の弟)が尊氏と争ったとき、(観応の擾乱) 憲顕(当時関東管領。上野国・越後守護職)は直義に与力し、尊氏に与力した宇都宮氏綱、板東平氏(畠山国清、河越直信、高坂重信、江戸氏ら)と争った。争いは尊氏が勝利し、直義は降伏した。(後に毒殺される)
戦後処理で、尊氏は憲顕の関東管領職と守護職を剥奪し、信濃に追放した。
尊氏方として働いた関東武将に恩賞として、畠山国清に関東管領職、宇都宮氏綱に上野・越後守護職を与えた。河越直信、高坂重信らに、それぞれの領地の守護職を与え、自治権を認めた上で鎌倉府への協力を求めた。世に薩埵山の盟約と言われている。
※ 薩埵山盟約 静岡県薩埵山での直義軍との戦い後、尊氏と尊氏陣営についた板東平氏を含む関東武将との間でかわされた盟約。
尊氏の死後、基氏は腹心だった上杉憲顕を呼び戻し、畠山国清から関東管領職を、宇都宮氏綱から上野、越後守護職を返上することを求めた。
※ 憲顕は尊氏に追放される前、基氏の後見役であった。
関東管領職返上を拒否した畠山国清を討伐して関東管領職を剥奪し、宇都宮氏綱を屈服させ、守護職を奪って、上杉憲顕に戻したのである。さらに河越直信、高坂重信に守護職返上を求めた。薩埵山盟約の反故である。
上杉憲顕に不満を抱いた武蔵平一揆(河越氏、高坂氏、江戸氏ら武蔵平氏一族の同盟)が蜂起し、宇都宮氏綱が加わり、さらに南朝残党である新田義宗(義貞3男)、脇屋義治(義貞の甥)もこの機会を捉えて蜂起した。
南朝残党が加わったことにより、幕府は関東諸侯に憲顕支援を要請し、甲斐武田氏、
相模平一揆(相模国の平氏一族の同盟)、小山政義(小山氏11代当主)らが鎌倉府方として戦い、乱は鎌倉府によって鎮圧された。(武蔵平一揆の乱。1368年)
この戦で新田義宗は戦死、脇屋義治は出羽国へ逃亡。乱の首謀者であった河越直信は伊勢国へ逃亡し、武蔵平一揆は消滅していった。宇都宮氏綱は許されたが、二年後(1370年)死去。嫡男の基綱が後継となった。
尚、鎌倉公方・足利基氏は武蔵平一揆の前年(1367年)に病没(享年28歳)。上杉憲顕はこの戦いのさなか、陣中で病死している(享年62歳)。
鎌倉公方は9歳の氏満、関東管領職には憲顕の3男・能憲が継いでいた。
宇都宮氏と小山氏は関東の有力大名としてライバル関係にあった。武蔵平一揆の乱の後、宇都宮氏は衰退し、小山氏が関東最大の勢力となった。この事態を氏満は嫌った。どこの大名であれ、強大な大名の出現は鎌倉府の関東支配に不都合であったからである。
宇都宮基綱と小山政義が所領をめぐって争い(1380年)、双方多数の死傷者を出した。ことに宇都宮方は当主基綱が戦死した。これ以上小山氏の勢力拡大は鎌倉府、関東管領にとって脅威になる。さらに小山氏は将軍・義満に誼を通じていた。密かに将軍職を狙う氏満には放置できない。基綱の戦死の報に鎌倉公方・足利氏満は小山政義討伐を決意した。
戦いは鎌倉府と小山義政に移った。1381年、鎌倉府が勝利し、義政は降伏して出家したが、翌年には再度決起して鎌倉府に抵抗した。同年、鎌倉府に責められ義政は自害(享年33歳)、嫡男の小山若犬丸は逃亡の末、追い詰められ自害(1396年)、若犬丸の二人の子も捕えられ処刑された。小山家嫡流は途絶えた。
この間、結城氏は9代基光と10代満広は武蔵平一揆では参戦の記録は見当たらないが、小山政義の乱では鎌倉府に与力している。
宇都宮氏、板東平氏は衰退し、小山氏は消滅した。(後に結城満広は弟・泰朝に宗家・小山氏を継がせて再興させている)関東の有力領主が鎌倉府に屈服し、没落していくなか、結城氏は小山氏を傘下に組み入れ、鎌倉府重臣として、下総守護職として絶頂期を迎えた。
鎌倉府が有力武将の力を削ぎ、支配力を強めた東国は室町幕府の影響力が及ばない独立国家の様相を帯びてきた。やがて鎌倉公方は将軍職への野望を抱くようなになった。当然幕府は鎌倉府を警戒するようになる。関東支配を果たした氏満は幕府に不満を持つ大内氏と謀り、義満に退陣を迫る軍を上洛させようとしたが、関東管領・上杉憲春(憲顕の4男)が諫死をもって説得したことにより思いとどまった。
鎌倉公方系譜
前職 足利義詮(後に室町2代将軍) 1336~1349
初代 足利基氏 1349~1367
2代 足利氏満 1367~1398
3代 足利満兼 1398~1409
4代 足利持氏 1409~1439 永享の乱で自刃
5代 足利成氏 1449~1455 幕府と対立し古河へ逃れる。
古河公方(こがくぼう)
初代 足利成氏 1455~1497
2代 足利政氏 1497~1512
3代 足利高基 1512~1535
4代 足利晴氏 1535~1552
5代 足利義氏 1552~1583
古河公方は5代で終焉
足利5代将軍・義量が18歳で死去すると、継ぐべく子はなく将軍職は空職となった。鎌倉公方4代持氏は強く将軍職を望んだが、6代将軍は義量の父、4代将軍・義持の弟・義円(後の義教)が就いた。持氏は義教の将軍就任に不満を示し、義教もまた持氏を嫌った。
持氏は将軍職への野心を捨て切れず、義教討伐の機会を窺っていたのだが、関東管領・山内上杉氏の憲実(憲顕の曾孫)は持氏に幕府に従うように諫言した。が、持氏は聞き入れず、逆に憲実を疎んじた。身の危険を感じた憲実は鎌倉を去り領国上野国に帰国した。持氏は憲実の無断帰国を謀反の決起のためと断じ、憲実討伐の軍勢を送った。
※ 上杉一族のなかで有力なのは鎌倉山内に館を置く山内上杉氏と鎌倉扇谷に館を置く扇谷上杉氏であった。そのなかでも山内上杉氏は上杉一門の筆頭格で、代々関東管領職を務めた。後に山内、扇谷は争い、上杉氏衰退の原因となった。
※ 山内上杉・・・尊氏の叔父・上杉憲房の嫡男・憲顕が初代。
※ 扇谷上杉・・・憲房の弟・重顕が初代。
持氏の挙兵をとらえ、将軍・足利義教は持氏討伐を憲実に命じた。鎌倉公方・足利持氏対関東管領・上杉憲実、幕府との争いになった(永享の乱)。
永享の乱で結城氏朝(結城氏11代当主)、嫡男の持朝(12代当主)は鎌倉公方方についた。だが争いは幕府の支援を得た上杉憲実方の勝利に終わり、持氏と嫡男義久は鎌倉永安寺で自刃した(1439)。永享の乱によって鎌倉府は断絶した。(1439年~1499年の間)
義教は空位となった鎌倉公方に我が子を就けようとしたのだが、足利持氏の旧臣、結城氏朝と持朝、次男朝兼ら結城一族と多賀谷一族が持氏の遺児、春王丸、安王丸を擁立して、結城城にたてこもり幕府に反乱を起こした。結城氏の反乱も上杉勢と幕府軍によって鎮圧され、首謀者の氏朝、持朝、朝兼は討死、春王丸、安王丸は斬殺された。(1441年結城合戦)
このとき、足利持氏4男・万寿丸(後の成氏 3~4歳)も囚われており、兄同様の運命にあったが、処分が下される前に将軍義教が赤松満裕に殺害されたため、赦免された。結城氏朝4男・七郎(重朝、後の成朝、2~3歳)は落城の際、多賀谷氏家、(33歳)高経兄弟に抱きかかえられ常陸国太田(茨城県太田市)の佐竹氏に逃れた。氏家が七郎を養育したとされている。(多賀谷伝より)
※上杉勢の大将は 上杉清方(憲実の弟)で、憲実は持氏自刃の悔悟から出家している。
多賀谷氏の祖は道智頼意で、頼意の子・頼基とその三子・光基(初代)が多賀谷郷に移住して多賀谷姓を名乗ったことから始まったとされている。吾妻鏡では頼朝上洛の先導隊に弓の名手として多賀谷小三郎が記されている。鎌倉の御家人であったが、鎌倉幕府滅亡後、多賀谷郷(現埼玉県田ヶ谷)は小山氏の領地であったことから、小山氏の有力家臣として存続したと思われる。小山義政が鎌倉公方・足利氏満に反旗を翻し滅亡した後、その所領を分家、結城氏が引き継いだことにより、結城氏の家臣となった。
結城家でも歴代、重きをなし、結城四天王(多賀谷氏、水谷氏、山川氏、岩上氏)の筆頭格とされていた。多賀谷氏8代政朝のとき、結城氏10代当主満広の実子・満義(後の光義)を養子に迎え、我が娘を嫁がせ、9代当主とした。
※ 満広は小山氏を継いだ弟小山泰朝の子を養子に迎え、11代当主としている。結城合戦で戦死した結城氏朝、その人である。
結城合戦のとき、多賀谷氏当主は光義であった。光義は実家の結城氏についたのである。光義は戦死したものの、その子・氏家(10代当主)高経(氏家の弟)は結城七郎(元服しての重朝。後の成朝)を伴って佐竹氏に逃れた。
※ 結城氏朝は小山泰朝の実子。結城満広は養父。多賀谷光義は結城満広の実子。多賀谷政朝は養父。
結城落城より10年後、鎌倉府が再興され、足利成氏が鎌倉公方5代となった。鎌倉府滅亡後、関東は混乱が続き、その抑えとして鎌倉府の必要性を越後信濃守護・上杉房定(清方の次男)によって幕府に進言されたのである。鎌倉公方は関東諸侯の推薦により成氏が就いた。成氏の復活にともない、結城七郎こと成朝(重朝から改名)も復活、結城氏13代当主となった。結城家再興に伴い、多賀谷氏家、高経は結城氏家老となった。
成氏は父・持氏を死に追いやった上杉憲実を憎み、その息子である憲忠とは犬猿の仲であった。鎌倉公方(成氏)と関東管領(上杉憲忠・・憲実嫡男)との対立が再発した。
成氏から結城成朝に憲忠暗殺の命令が下り、多賀谷氏家、高経が憲忠(22歳)謀殺を実行した。(1455。亨徳の乱)
憲忠の首は三方に乗せられ成氏に検分された。多賀谷家の家紋はこれを表わす。
憲忠殺害の手柄により多賀谷兄弟は成氏より下妻33郷を与えられ結城家の家臣ながら大名格として扱われた。下妻の領主には氏家がなったのだが、後に高経が引き継いだ。高経は成朝の一字を与えられ、朝経に改名した。
上杉憲忠の後任(山之内上杉当主。関東管領職)は弟の房顕が継いだ。
成氏の憲忠謀殺により幕府と鎌倉府は再び対立。幕府(8代将軍・義政)は鎌倉公方・足利成氏討伐に動いた。鎌倉府から東国武将を離反させる調略がすすめられた。工作は結城成朝にも及び、憲忠殺害の朝経に責任を負わせる手打ちが進められたのである。この動きを察知した朝経は反発し、結城成朝(24歳)を殺害した。(1463年)
※氏家は朝経の嫡男・家植(多賀谷氏11代。後に基泰を名乗る)を養子にして隠居しており、多賀谷氏の実権は家植の父、朝経にあった。
結城成朝の後継は成朝の兄、長朝の子・氏広(14代)となった。
※長朝は氏朝の3男、成朝は4男。二人は13代当主の座を争ったが、成朝が就いていた。
一方、幕府(8代将軍・義政)は成氏討伐を上杉房顕、今川範忠(駿河守護職)、上杉房定(越後守護職)に命じ、成氏を鎌倉から追放した。成氏は下総古河(茨城県古河市)に逃れ、ここを本拠地とした。以後、古河公方と呼ばれた。
結城氏14代当主・結城氏広は足利成氏方の武将として関東管領・上杉房顕らと戦った。だが、幕府に支援された上杉勢の前に、古河公方は苦戦を強いられ、結城氏内部でも結束が乱れ始めた。多賀谷氏、山川氏、水谷氏(みずのやし)らの重臣は独立への道を歩むようになった。
※ 山川氏の祖・山川重光は結城家の狙・結城朝光の庶子。その後も、結城氏と山川氏は互いに養子縁組を組んでいる。
※ 水谷氏・・・関ヶ原の戦いで功を認められ大名となる。後に備中松山藩の藩主となる。
結城氏の衰退に歯止めがかからないまま。氏広は死去した(享年31歳。1481年)
15代当主に3歳の政朝が就いた。補佐役として登場したのが多賀谷和泉守である。(和泉守は朝経の孫か、氏家の孫かは不明)
その和泉守であるが、結城家伝によれば藩政の実権を握り横暴を極めたと記されている。
結城家家臣のなかに和泉守派を形成し、家臣は藩主政朝よりも和泉守の下知に従うようになった。多賀谷一族の棟梁と自任する基泰(家植)にとっても台頭してきた和泉守は目障りな存在である。政朝と基泰は共謀して兵を送り和泉守を殺害した。主だった和泉守家臣、結城家中の和泉守派も殺害、追放した(1499年)。政朝は当主としての権限を取り戻し、以後、積極的な外交・軍事行動で旧領奪還を図った。
政朝と共謀して和泉守一派を排除した基泰も名実ともに多賀谷一族の棟領となった。基泰もまた領土拡張を進め、政朝と領土争いで衝突している。結城家伝では多賀谷氏は結城四天王の筆頭でありながら、主家に弓を引いた一族として記されている。
※ 結城4天王 多賀谷氏、山川氏、水谷氏、岩村氏
※ 多賀谷氏、山川氏、岩村氏は秀康重臣として越前入国。水谷氏は松山藩領主となる。
※ 岩村氏の祖は三浦氏とされている。三浦氏・・北条氏と並ぶ名家。北条氏と争って滅亡。
※
結城政朝は宇都宮成綱(宇都宮17代当主)の娘を正室に迎えた。当時の宇都宮氏は武蔵平一揆の乱から復活し関東有数の軍事力を有していた。宇都宮氏と同盟関係を築いた結城氏も勢力を伸張させた。成綱が没し、忠綱(18代当主)が跡を継ぐと関係が悪化し、政朝と忠綱が争い、結城氏が勝利して、宇都宮氏の所領となっていた旧領を取り戻し結城氏再興を果たした。
政朝は嫡男・政直を後継に指名したが、政直が夭折したため次男・政勝を16代とした。3男・高朝は小山政長(小山氏16代当主)の養子になり、小山氏(宗家)の跡を継いだ。(小山氏17代当主・小山高朝)
政勝には1男1女がいたのだが、いずれも夭折し、弟・高朝の3男・小山晴朝を養子に迎え17代とした。結城晴朝である。
結城氏は代々鎌倉公方(後に古河公方)に仕え関東管領・上杉氏と争い、晴朝も古河公方を傀儡としてきた北条氏(鎌倉幕府の執権北条氏と区別するため、後北条と称される)陣営に属してきたのだが、上杉景虎(謙信)が関東管領に就くと、反北条氏に転じた。
晴朝には跡を継ぐべき男子はなく、宇都宮21代当主広綱の次男・朝勝(ともかつ)を養子に迎え当主とした。宇都宮広綱の正室(朝勝の母)は佐竹氏17代当主・義昭の娘である。この縁組によって、結城氏、宇都宮氏、佐竹氏の同盟が成立し、小田原の北条氏政に対抗した。
晴朝は豊臣秀吉の小田原征伐(1590年)に出陣し、所領を安堵された。晴朝はさらに結城家存続を確実なものにすべく、秀吉の養子・秀康(徳川家康次男)を養子に受け入れた(1590年)。その前年に秀吉に実子・鶴丸が誕生しており、秀康の養子先を捜していた秀吉の意向だった。関東最大の大名徳川家康の次男でもある秀康を結城家当主に迎えたことで、豊臣、徳川の二大勢力が結城家の後ろ盾となり、晴朝にとって願ってもないことであった。
※ 結城朝勝は当主の座を秀康に譲り、実家の宇都宮家に戻った。宇都宮家改易後(後述)は、佐竹氏に身を寄せ、関ヶ原合戦での上杉氏、佐竹氏の連携(西軍)に努めた。大坂の陣(冬、夏)では佐竹氏を離れ、牢人となって大阪城に入り、徳川方と戦っている。大阪城落城の後も生き延びて、晩年は神官として生涯を終えた(1628年。享年60歳)。朝勝の子・光綱(養子)は後に久保田佐竹藩(後述)に仕え、宇都宮氏の家名を佐竹藩に残している。
※ 尚、結城氏系譜に朝勝の名はない。17代当主・晴朝の後は18代当主・秀康と記されている。
※
関ヶ原合戦(1600年)で、秀康は西軍の上杉景勝(会津120万石。関ヶ原合戦後は米沢30万石)、佐竹義宣(常陸54万石。関ヶ原合戦後は出羽久保田20万石)を封じ込む役目を果たし、その功により下総結城10万千石から67万石に加増されて越前北の庄の領主となった。
秀康は結城姓を名乗っていたが、嫡男・忠直は松平姓を名乗ったため、晴朝は秀康の5男・直基を養子として結城姓(19代当主)を継がせた。
直基は後に勝山藩3万石(1624年)、大野藩5万石(1635年)に加増移封されている。
直基も後に松平姓を名乗り、実質的には秀康によって結城家は絶えた。結城家の祭祀は直基の流れを継ぐ、松平前橋藩によって継承されている。
多賀谷氏の系譜。
初代 光基(みつもと)
2代~7代は略
8代 政朝(まさとも)
9代 光義(みつよし)
10代 氏家(うじいえ)
11代 家植(いえたね、基泰)
12代 家重(いえしげ)
13代 重政(しげまさ)
14代 政経(まさつね)
15代 重経(しげつね)
16代 宣家(のぶいえ。下妻多賀谷氏。佐竹宣家)
三経(みつつね。下総太田多賀谷氏)
※ 下妻多賀谷氏の宣家が本流であるが、下妻多賀谷氏は改易となり、消滅。以後、傍流の下総太田多賀谷氏の三経が多賀谷氏を継いだ。
17代 泰経(やすつね)
18代 経政(つねまさ)
11代の家植(基泰)のとき、一門のライバル多賀谷和泉守を殺害し、一門の棟領としての立場を確立した。家植は前述のように本領下妻から周辺に進出し、やはり旧領回復にむけて進出する結城氏との紛争があった。また古河公方の内紛(父・政氏と嫡男・高基の争い)では結城政朝は高基方として、(政朝、高基双方の正室が宇都宮成綱の娘)、多賀谷家植は政氏方として争っている。
※ 古河公方の内紛は高基の勝利。
関東は古河公方(前身は鎌倉公方)と関東管領・山内上杉氏との対立が長らく続き、関東豪族も両者の争いに翻弄されながらも、公方と関東管領双方が長期にわたる戦いで消耗し弱体化すると、彼の地を奪い。勢力拡大を図るしたたかさを持っていたのである。
ともあれ多賀谷氏は以前、臣従していた結城氏を始め、周辺領主と争いながら、下妻城、城下町を整備して、周辺地域に進出していった。
だが、小田原北条氏(氏綱、氏康)の勢力拡大が進むと、関東諸侯(上杉氏、宇都宮氏、結城氏、佐竹氏、多賀谷氏)は反北条氏を鮮明にして立ち向かった。敵対関係にあった結城氏と多賀谷氏が和解したのも、この頃であった。
多賀谷氏が最盛期を迎えたのは15代重経のときで、下妻20万石と多賀谷家伝に記されている。秀康が当主となったとき、結城家は10万1000石であるから、遥かに凌駕している。
小田原征伐(1590年)には結城晴朝、宇都宮国綱、佐竹義宣は小田原城(北条氏居城)へ攻撃をしかけ、その功により所領と地位を安堵された。
多賀谷重経は病気を理由に参陣は遅れたものの、秀吉に詫びて、このときは許され所領を安堵された。だが、文禄の役(秀吉の朝鮮出兵。1592年)で病気を理由に参加しなかったため、減封された。(10万石前後か)
重経の嫡男が虎千代。元服して左近大夫光経。左近の烏帽子親は石田三成。その一字を光とかえて三経とした。本来なら三経は重経の跡を継ぐべき位置にあったのだが、分家し下総太田(茨城県結城郡八千代町)に居城(陣屋)を築き、移住した。
三経が家督を継げなかった理由は、多賀谷氏と佐竹氏の同盟関係にある。多賀谷氏が結城氏を始めとする周辺勢力、進出を強める北条氏に対抗するために常陸国の強国佐竹氏を頼らざるを得なかった。多賀谷氏は佐竹氏の庇護下で戦国時代の存続を図ったのである。
重経の娘(大寿院)が佐竹氏18代当主義重の嫡男・義宣(19代当主)に嫁し(1580年)、その10年後に義重の4男・宣家(義宣の弟)を養嗣子として迎え、娘(珪台院)と娶わせ、多賀谷氏16代当主とした。嫡男がいるにもかかわらず、佐竹氏より養嗣子を迎えたことは多賀谷氏が佐竹氏に隷属するに他ならないと、左近の周辺は捉えた。家中で重経派(宣家派)と左近派が対立した。
重経にはさらなる課題が課せられていた。秀康が結城家を相続した際、秀吉は多賀谷重経に結城氏に臣従するよう命じていた。結城氏はかって多賀谷氏の主家である。とはいえ多賀谷氏は独立した大名である。しかも隣接する結城氏とは所領争いもある。石高も多賀谷氏が多い。天下人の命令とはいえ結城氏の家臣に組み入れられことに反対する者は多い。
重経は多賀谷家を分裂させることにより、難題を解決しようとした。下妻を本拠とする、本家(重経、宣家派)と下総太田を本拠とする分家(左近派)に分裂させたのである。
分裂させることにより、重経派(宣家派)と左近派の確執の種を摘み取ろうとした。さらに左近を結城氏に仕えさせることにより、秀吉の命令を受け入れ、尚且つ、家中の反結城(重経派・宣家派)の声を抑え込んだ。
下妻多賀谷氏(本家。宣家)は佐竹派、下総太田多賀谷氏(分家。左近)は結城派に分かれたのである。
重経が小田原参陣に遅れた理由はこの家中の混乱の収拾するためであった。
文禄の役に出陣しなかったのも、留守中、家中で結城派と佐竹派の騒乱が勃発することを恐れたからであろう。それほど家中の対立は深刻だった。
関ヶ原合戦で下総太田・多賀谷氏(三経)と下妻・多賀谷氏(宣家)は東西に別れた。結城秀康は家康の命令により宇都宮に布陣し、石田方の上杉景勝、佐竹義宣と対峙し、上杉・佐竹勢の関ヶ原参陣を防いだ。三経は秀康の先陣として下野国大田原城(栃木県大田原市)に在陣した。
※ 結城秀康が多賀谷左近三経を先陣とした理由は、左近の寝返り(宗家下妻多賀谷氏への同調)を恐れたからであろう。事実、秀康の養父・結城晴朝が結城家伝を編纂しているのだが、多賀谷氏への記述には不信感が散見される。
この記述は結城家における多賀谷左近の立場の微妙さを浮き彫りにしている。或いは越前多賀谷氏の断絶に影響しているのかもしれない。
下妻・多賀谷氏の宣家は兄である佐竹義宣に属し、石田方に付いた。上杉・佐竹勢と結城秀康は対峙したまま、関ヶ原合戦(1600年9月15日)は一日で決着した。
※ 宇都宮国綱(宇都宮22代当主)が太閤検地で虚偽の申告(過少申告)をしたとの理由により秀吉の不興を買い、改易処分となった。宇都宮国綱と繋がりが深い佐竹義宣(国綱の母は義宣の祖父義昭の妹。正室は義宣の父義重の娘)にも嫌疑がかかり、連座処分が下されようとしたが、三成のとりなしにより処分を免れた。その恩義に報いるために家康の命令に背いたとされている。
※ 国綱は宇都宮家再興のため、宇喜多秀家の軍に加わり、朝鮮に出兵し手柄を立てたものの、お家再興は果たせず失意のうち江戸浅草で没した(1670年。享年40歳)。嫡男・義綱は成人後、500石で水戸藩に仕え、その嫡男・隆綱は千石の大身となり、次の宏綱は水戸藩家老を務めた。以後子孫は明治維新まで水戸藩家臣として家名を残している。
関ヶ原合戦の戦後処理が行われた。結城秀康は結城10万1000石から越前福井68万石に移封された。これに伴い三経は下総太田を引き払い、秀康から越前坂北郡の村々の総高32000石を与えられ、柿原郷の領主となった。
下妻多賀谷氏は改易。宣家は佐竹家に戻り出羽国檜山(秋田県能代市檜山)1万石を兄・義宣から与えられた。その佐竹氏は(当主・義宣)常陸54万石から出羽久保田(秋田市)20万石に減封された。
三経の実父・重経は下妻を追放された後、困窮しながら各地を放浪した。
重経が以前は下妻多賀谷家に仕え、主家の改易後は佐竹家に仕官した旧臣に出した手紙が残っている。文中の六郷とは、旧知の佐竹氏前当主・佐竹義重(18代)の隠居の地。
※ 六郷・・・現秋田県仙北町美郷町
「御国替以来、方々乞食仕り候へ共、がしにおよび候間、旧冬ふと六郷へ参り候
老期と云い、不弁の式と云い、何共書き尽くし難く存じ候」
(国を召し上げられて以来、方々を乞食となってさまよい、餓死しそうになり、昨年の冬、ふと旧知(佐竹義重)を頼って六郷を訪ねました。老齢といい、極貧といい、なんともその悲惨さは筆舌に尽くし難いのです)と窮状を訴えている。
この旧臣は重経を哀れみ、酒と肴を送り届けた。20万石の大名が物乞い同然に零落して秋田を訪ねたという噂は藩内に広まり、重経は此の地も追われるように去った。最後は実子の茂光(彦根藩士)を頼って近江に行き、彼の地で没した(1618年)と多賀谷家譜に記されている。
終。
参考資料 下妻市史(茨城県下妻市) 関城町史(茨城県真壁郡関城町)
結城家伝 多賀谷家伝 ウイキペディア(フリー百科事典) 他 資料
平成26年7月14日 資料編纂 長谷川 勲
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