2014年09月


22014/09/30 (火) 9月最終日

 昨日の、御嶽山噴火事故惨事に関するテレビ番組で、予報責任者が淡々としゃべっているのを聞いて、「??」と思った。そしてその思いは、武田邦彦のブログを読んで納得した。以下転載

このブログで「専門家の責任」について何回も書いた。それは、「科学に関係することで、こんなルーズはことをしていたら、いつか大事故が起こる」と思ったからで、福島原発事故、そして今回、御嶽山噴火事故が起こった。いずれも天変地異ではなく、想定外でもなく、日本の専門家の無責任とそれを許す社会にある。
私としては残念だ。 科学を専門とするものとして犠牲になった方に申し訳ない。今回は、「決定できる力もないし、責任も取る気のない東大教授が噴火予知連絡会の会長になる」ということが起こったからだ。
とにかく、東大教授を中心とした大学教授はなぜか国の委員になりたがる。国の委員は、僅かな報酬で、東京の会議室まで行き、つまらない委員会に2時間ほど付き合って帰る。自由に行動したり、発言したりもできにない。でも、なぜか先生方は国の委員になりたがる。
なぜか、答えは簡単で「メリットが多く、責任がない」からだ。そんな仕事はこの世にない。会社の重役になれば給料も上がるけれど、会社の収益や倒産の責任はとらなければならない。そんなことは決まっている。
でも、国の委員ほど気楽なものはない。自分の権限範囲で人が死んでも責任を取らなくても良い。なんの罪もない人が命を落とすだけだ。今回の御嶽山噴火事件でも、レベル1からレベル2に上げる決意がつかなかったと説明された。それなら決意がつかないときに辞任するか、「私にはわからないのでレベル設定を止めます」といえば良いが、それはプライドが許さない。つまり人の命より自分のプライドであることがはっきりわかる。
予兆はあった。記者会見では気象庁が予兆がなかったといったが、下図のような予兆があったが、それを判断する学力がなかっただけだ。
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一方、国の委員になるメリットは多い。委員長や座長ならなおさらだ。
まず研究費は国が決めるから国の委員をしておけば学問的力に関係なく研究費が増える。研究費が増えればそれを配下の教授に配ることができ、権限も増え、学会長にもなり、勲章も近くなり、大学を定年退官したあとの就職を世話してくれるひとも増える。ただ、研究だけは遅れる(委員会などに出席するから)。
研究よりお金、名誉、退職後の職業が大切なのだ。
追加して(録音にはない)、今日のテレビを見ると「予測できないのは仕方がない」ということを言う人がいたが、予測ができなければ予測しないのが正しい。予測できないのに、レベル1などと予測するから犠牲者がでる。こんなことをテレビで言ってもらっては困る。
もう一つ。御嶽山の噴火では大勢の人が犠牲になった。でも「研究倫理」やらを専門としてSTAP事件でテレビに出ていた人は今回はもっと大きな科学の倫理問題なのに、登場しない。小保方さんが一つの論文を自由な立場で出しても、社会はなんの具体的な損害もない。好きな人が論文を読んで興味を持つだけだ。でも、予知連絡会ともなれば、国の委員会が間違えると大勢の犠牲者がでる。責任は噴火予知委員会会長の方が重たいのは当然だが、「倫理」を専門としているという専門家は、小保方さんが弱いと見るとバッシングし、予知を誤った東大教授は批判をしない。あとで仕返しをされるからだ。
それで倫理というなら、倫理の専門家をやめたほうがよい。小保方さんを盛んに批判したNHKや関西の民放、それに分子生物学会なども「小保方さんより、若山さんの責任が重い。それよりはるかに噴火予知委員長の責任が重い」と言うべきだ。社会は万人に対して公平でなければならない。
でも、日本の学会がこれで良いはずはない。学問をしたい人は自由な研究ができるのだから国の委員にならなければ良いが、そうなると「火山村」から追い出されて研究費がもらえない。結果、国民は「御嶽山はレベル1。自由に登山が楽しめます」と言われて、紅葉を楽しみに御嶽山に上り、その挙句に死ぬ。レベル1を決めた人は一言も詫びない。

 それはともかく
 四、五日前に読み終えた「一乗谷炎上」の著者・井ノ部康之氏は、5、6年前に国政選挙に出た井ノ部航太さん(今は県議戦準備中とのこと)の御尊父だ。初めて航太さんとお会いした時、「父は、静岡県在住の小説家です」と言われて、「うーん、本人よりも、お父さんから、いろんな話を聞きたいなあ」と思ったのを覚えている。
 そんなわけで、図書館でこの本の背表紙を見つけた時、すぐに借りた。縁があるというほどではないけれど、縁がないというわけでもない。そういう場合、読み進めるうちに書き手のひととなりが浮かび上がってくる。


22014/09/29 (月) 昨日の一日

 「ふるさと語ろう会」会員を乗せたマイクロバスは、午前7時に、湯のまち公民館の駐車場を出発した。
 出発にあたっての私の挨拶は
 「本日は、「ふるさと語ろう会」本年度のメインエベントとも云うべき鳥越城跡等視察です。昨年のこの時期の北前船の里資料館視察と同じように、朝早くから夕暮れまでの一日中が、密度の濃い研修になるだろうと思います。なによりも、豪勢な昼食と酒が予定されているので、会員の皆様には、きょうだけは日頃のうさを忘れて楽しい一日となりますよう、お祈り申し上げます。
 お知らせしたいことが、ひとつあって、前回、我々は、泰澄大師ゆかりの宇根観音堂へ行き、地元のひとの話を聞き、観音堂内部にある仏像等をみせてもらい、この地域の保存を痛感したわけです。その後、これを受けて、この会の会員でもあるY議員が9月議会の一般質問で、この問題を取りあげました。この質問の模様はインターネットで放映されていますので、あわら市のホームページを是非クリックしてみてください・・・エトセトラ」で、きわめて気品のあるものだった(と皆は言う)。

 「簡保の宿」で昼食をとった。給仕にきてくれた女性が若くて美形だ。
 「私たちは越前からきたのですが、越前には貴女のような美人はひとりもいません。<越前男と加賀女>と世間で噂されていますが、きょう、私は貴女をとおしてそれを実感しました」と言って、彼女の顔を赤くさせてしまった。女嫌いを宣言して半年経ったが、実践の道はなかなかけわしい。

 午前中に目指したところは井波別院瑞泉寺



午後は鳥越城跡、一向一揆歴史館、林西寺。
 個人的な好みから言えば、鳥越城跡が一番よかった。


 白山麓山内惣庄の旗本鈴木出羽守を城主とし、天正初年(1573年)頃、織田信長による加賀一向一揆討滅の経路がはかられる中で、門徒集団である山内衆の抵抗の拠点として築城されたもの。天正8年(1580年)、織田方の柴田勝家軍によって落城し、山内衆の主領鈴木一族は滅ぼされる。その後この城は織田方の吉原次郎兵衛の管理下に置かれたが、白山麓門徒の抵抗は続き、攻防戦が展開された。しかし天正10年(1582年)3月1日、織田方の佐久間盛政によって鎮圧され、三百余人が磔に処せられた。この城は、加賀一向一揆の栄光と挫折を最後まで担い続けた、白山麓門徒たちの記録として歴史に刻まれた。(インターネットから転載)

 標高三百数十メートルの簡素な山城である。マイクロバスは頂上付近まで行ったが、それでも数十メートルの坂を歩かなくてはならない。牛歩の私は、みるみるうちに皆から差をつけられてしまった。なおかつ途中でダウンして、草原(くさわら)に倒れこんでしまった。
 かっての私の肉体美を知っている女性たちがこの日の私を見たならば、「百年の恋も覚める」ということになるだろうが、それも仕方ない。
 これからはプラトニックラブの道を歩むつもりです。

 とんぼさんは、「周囲を遥かに見渡すことができ、敵の侵入を察知できるという意味では、守備型の城だが、いかんせん、周囲に大きな水路がない。その意味では、兵糧攻めにあったらもうだめだ」と言う。
 復元された舛形門の下、当時の百姓姿でポーズをとる私は、ポーズをとりながら
 <夏草や 兵どもが 夢のあと 芭蕉 >を思い出していた。




22014/09/28 (日) きょうは5時半出勤

 井ノ部康之著「一乗谷炎上」を読み終えた。朝倉義景の生涯をとおしての信条は、「嘘つくな。とにかく嘘つくな。自分に対しても嘘つくな」だった。義景の生きた時代が悪かった。織田信長に翻弄された一生だった。


22014/09/27 (土) 夕陽恋





三国土木事務所での打合わせ終え、海岸に出た。
落ちる夕陽に染まる水平線からの風は冷たい。

パリで買ったダーバンのコートのえりをたててのくわえ煙草。憂愁の気分で岩畳にたたずむ私を横ぎろうとするひとつの影がある。
年の頃は42,3か。利休ねずみの鼻緒の草履、浅黄色の地に濃紺紋様の西陣、白いうなじ、島田髪の和服女性は、軽く私に会釈し去って行く。

遠ざかる彼女の細い背中は夕陽の逆光でシルエットと化した。
岩畳を散策する足取りおぼつかなく、不意の波しぶきよけようとした彼女の体が反転しよろけた。
かけつけ、「大丈夫ですか、奥さん」と声かける私に「おおきに、大丈夫どす。それにうち、今は奥さんあらしません」と彼女は言う。

うちとけ、肩並べつつ浜辺を歩いた。いつの間にかふたりの指はからみあっている。
彼女の胸の激しい鼓動が聞こえてくる。抱きしめ口づけを、と思わないでもなかったが、議員なので我慢した。
別れた亭主のこと、今彼女にいいよっている幾人かの嫌な男たちのこと、そのうちのひとりが某市の議員だということ、にも関わらず自立し孤高に生きていこうとする思いききつつ、「この人にしろ私にしろ、美男美女の人生につきまとうのは、やはり悲しみと憂いなのか、それが宿命というものなのか」と私はココロでつぶやいた。

気がついたら辺りは既に闇だ。
それでは、と背をむけた私を「りりしいおかた・・・たくましいおかた。うち、貴男様のお名前まだ聞いてしません。今晩のお宿どこですの?教えてくださいな。うち、行ってもかましませんでしょ?ねえ、かましませんでしょ?」と彼女の涙声の懇願が追う。

私は「奥さん、いやもと奥さん。私は名のるほどのものではございません。貴女は私をいとおしく思っているのかもしれないが、それは本当の私・裏の私を知らないからだ。どんな男でも、私よりましなのです。恋に恋してはならないのです。恋に恋したところでなにものも生まれはしない。貴女はいつの日か必ず真実の男性にめぐり合います。ここでさようならすることだけが、お互いを幸せにする道なのです」と答え、歩きはじめた。
背中見続けているであろう彼女の視線に耐えきれず、私はゆっくりと、しかし止まることなく歩き続けた・・・・。

こんなことを岩畳の上で夢想したのだが、こんなシチュエーション、52年のわしの人生に一度もなかったなあ。悔しいなあ。

 ホームページ作製ソフト(ビルダー)の内部データーを整理していたら、このブログをつけ始めた頃に岩畳の上で夢想して書いた「夕陽恋」が目についたので、再びアップ。あれから12年が経過しても、相変わらずありませんが、ネバーギブアップです。


2014/09/26 (金) もう週末か
 
 大相撲・逸ノ城vs豪栄道戦を観たが、逸ノ城は確かに逸材だ。土俵際の攻防で、無類の腰の重さを見せつけた。アンドレ・ザ・ジャイアントが日本に上陸した頃を彷彿とさせる。相撲界にはプロレス界のようなベビーフェイスvsヒールの区別がないので、これからはどんどん人気が増すだろう。
 ところで、大相撲史上最強の力士といったら雷電 爲右エ門だ。勿論、テレビで観たわけではなく、伝記本(著者名は忘れた)を読んでの感想だが・・。

 雷電は信州の男。江戸中期の浅間山大噴火を受けて、力士になるべく、江戸に出る。並外れた膂力で、通算戦績254勝10敗(勝率は実に9割6分)を残す。あの谷風でさえ、本場所での取り組み相手となることを拒否した。
 横綱になれなかったのは、お抱え松江藩藩主との確執が原因とされているが、そのほかに、本場所土俵上、かんぬきで相手力士を殺してしまったことなどもあげられる。

 伝記本を読んで一番印象的だったのはラストシーン。

 引退し、くにへ帰った雷電は好々爺となり、近所の子供たちと戯れ、自宅近くの池での鮒釣りを日課とする。晩秋のある日、例によって鮒釣りに興じていた時、突然、赤とんぼの大群が現われた。真っ赤に染まった空をみあげる雷電 爲右エ門の目から涙がこぼれる。

     夕焼け小焼けの赤とんぼ おわれてみたのはいつの日か

     山の畑の桑の実を 小かごに摘んだはまぼろしか

     十五で姐(ねえ)やは嫁にいき お里の便りも絶えはてた

     夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよ竿の先


そうなのだ。真の勇者は、金勘定で相撲協会などに残ることなく、社会の片隅でひっそりと老い、栄光の時代を回顧しながら、静かに死を迎えるものなのだ。


  2014/09/25 (木) ちょっと思ったこと

 神戸の女子児童行方不明の理由が、ああいう猟奇性を帯びた死体遺棄事件だったことに対して何とも云えない理不尽を感じるが、女子児童の両親からの、「今はなんにも云えません。考えられません」という自筆文章をマスコミがテレビ画面で流していたことに対して、さらに嫌な気持ちになった。
 マスコミが被害者宅に押し掛け、ドアホーンごしに「今のお気持ちは?」などとの愚問をぶっつけたことの結果としてのああいう文章公開なんだろうが、そんな質問をされる側は、たまったものではない。

 そう思うならばテレビなど見なければいいのではないかということになるし、実際、阪神戦・大相撲・大リーグ・手話以外はほとんど見ることがない。新聞も、全国紙は止めようという方向になってきているし、実際、最近は新聞を読んではいない。パソコンを買い替えてから、三か月ほどはメールの取り出し方がわからなかったが、それで困ったことなどなかった。前の車が壊れた時、もう車に乗るのはよそうかと思ったが、さすがに仕事の面で必要なので、中古の軽トラック(愛車ケトラ)を購入した。しかし、それで充分だ。乗り心地などどうでもいい。なにごとによらず、どうでもいいと思えば欲は抑えられる。

 酒は自宅の応接コーナーで飲むのが一番だ。つまみにはアジフライ二個があればいい。旅館や居酒屋で輪になってワイワイガヤガヤ騒ぎ飲みするよりも、肩の凝らない少数の友人たちと飲むことで自足する。ぼくにとってうまいつまみとは、味のある面白い話を静かに聴くこと自体にあるのだから。
 ひとりで飲んでいれば、自分が語り手にも聴き手にもなれる。つまり演劇的空間に浸ることができるのである。


  2014/09/24 (水) 瞬間の永遠性

 8年前に設計した家を訪問した。






 ていねいに使われているので、とても嬉しい。
 
 若い頃に、先輩諸氏から「建築設計は小住宅に始まって小住宅に終わる」と、よく言われた。齢をとってきて、その言葉が肌身にしみるようになってきた。
 建築設計をなりわいとしている者全てにあてはまることだが、自分が死んでも作品は残る。そしてその建築物は世間の目にさらされ続ける。つまり生きた痕跡が残るという意味でも嬉しいことだ。

 ところで
 送られてきた「佼成」をペラペラとめくっていたら、柳田邦男の次のような文章に出会った。

 「講演での語りかけや音楽の演奏などは、その場限り、その瞬間限りで、虚空に消えてしまう。しかし、語る内容に強く共感した瞬間のことや、演奏に激しく心を揺さぶられた瞬間のことは、心にしっかりと刻まれて、いつまでも記憶に新しい。そのことを、私は「瞬間の永遠性」という言葉でとらえ、大事な考え方にしていると、前号で書いた。
 その気づきは、25歳で逝った洋二郎の死後に生じたものだった。洋二郎が亡くなった直後はただ悶々として在りし日のことを思い返すばかりだったが、ある日、その回想のなかでハッと気づいたのだ。確かに洋二郎は、いなくなった。しかし、思い返している私自身の心の中で生きているではないか。しかも漠然と思い出しているのではなく、ある日私と語り合った時の表情や語り口、一緒にコンサートを聴いて感動した曲について彼がつぶやいた時の様子など、瞬間瞬間の情景が数限りなく生き生きと(よみがえ)ってくる。そういうかたちで、彼は私の心の中で生きているのだと、心の底から実感することができたのだ。それこそが、人間のいのちにかかわる「瞬間の永遠性」と言うべきものであろう。・・・」


  2014/09/23 (火) きょうは旗日

 奥山に  紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ  秋は悲しき  猿丸大夫

 奥山ではないが、清滝の(ふもと)で鹿に出くわした瞬間には興奮した。数十メートル隔てて見つめ合ったのだが、シャッターチャンスだと思ったぼくは、デジタルカメラを右手に構えながら、匍匐前進した。優しげな瞳でぼくの行動を見据えていた彼(彼女かも)は、突然走り出した。その逃げ足の動きは「走る」ではなくて、「跳ぶ」だった。チータよりは遅いのだろうが、それにしても、100メートル数秒といったところだ。畑地にほとんど足跡を残さないほどの大きなストライドで逃げていった。猪と違って、鹿が害獣に指定されない所以はここにあるのだろう。

 熊坂の知り合いが、以前、ぼくにこう語った。
 「わしが朝の散歩をしていたら、鹿が突然現われた。じっとわしを見据えている。ポケットから鹿せんべいを右手にとりだして見せたら、近寄ってきて、ペロペロと食べた。奈良公園からの脱走鹿に違いない、はるばる日本アルプスを越えて逃げてきたに違いない、とわしは思った」と語ったが、おそらく嘘だろう。


  2014/09/22 (月) 修行の大切さ

 昨日の午前中は、お寺で清掃奉仕をしていた。何年振りかの参加だ。見知ったひとたちから「カラダのほうはどうや?」と尋ねられる。・・ 清掃と言っても、いびつなカラダのぼくには軽作業しかできない。

 肝心なことだが
 今までは、元の頑健なカラダに戻さなければ、という思いが強くあった。しかし、今はない。カラダがいびつでもココロがいびつでも、それがぼくの真の個性だと思えるようになったのである。何故、はじめからそう思うことができなかったのだろうか、と考える。

 頑健だった頃に戻って、ふたたび、多くの美しい女性たちに愛されたいというよこしまな思いがあったからだ。千日修行の結果、その思いを断つことができた。あるがままの自分をあるがままに受け入れることによって、淡々とした日常となった。


 オープンカフェ改修工事が完成した。



 一重(ひとえ)に、ボランテイアで工事をしてくれたYさんのおかげです。謝謝(しぇーしぇー)

 永峯清成著「新田義貞」が読了寸前となった。後醍醐天皇、護良親王、足利尊氏、楠正成等との関係を描いていて、単なる軍記ものというより、義貞の心の確執に焦点をあてた物語というべきで退屈しない。
 金津町時代に助役だった円道さんが「新田義貞顕彰会」に入っているので、あしたあたり、彼の御自宅を訪問して、感想を述べてみたいと思う。

 

  2014/09/21 (日) きょうも忙しくなりそうだ

 昨日は昼間から6人宴会。つまみは巻きずしで、話のテーマは「あわら市の郷土史について」と「来年のあわら市長選挙について」と「男と女の愛について」。
 

とにかく、私が一番若いという高齢者宴会でした。

 タクマカラン砂漠を前にして、貴志子は憲太郎に対して、こんなことも言っている。

 「今日は死ぬのにもってこいの日だ。生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。すべての声が、わたしのなかで合唱している。すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。今日は死ぬのにもってこいの日だ・・・。アメリカのナンシー・ウッドっていう女性が、インデイアンの古老たちから聞いた彼等の生き方にインスピレーションを得て書いた詩なんです」
 そう言って、自分はこの詩の「死ぬのに」という箇所を「生きるのに」と置き代えるのが好きなのだとつづけた。

 ところで
 昨晩の来訪者のひとり・黒川正則さんが、「福島へ包丁を研きに5泊6日で出かける」の手書き文章を持ってきた。勿論、文章の背後にある体験の逐一をぼくたちは聞かせてもらったし、彼のひとがらが文章自体にあらわれていると思い、インデックスに貼りつけた。
 印象に残ったのは、彼の持ってきた小さなスケッチブック。「ぼくはデジカメの使い方がわからないので」という理由で、津波、原発による爪痕をそこに沢山スケッチしていた。勿論、「わからないので」は本当の理由ではなく、自分の手でスケッチすることによって、さまざまを脳裏にしまうことができたのだ・・とぼくは思う。


  2014/09/20 (土) きょうは慰労会

 昨夕
 とんぼさんが、結城家・多賀谷家関係の歴史を調べた著作(第一部、第二部、第三部)を持ってきたので、PDF化して「トンボ作品リスト」に貼りつけました。興味のある方には、必読の著作だと思います。ぜひ、お読みください。


 ところで
 歴史というものの寂しさ、という表現をした作家がいるが、たしかに、歴史というものは不思議な寂しさを持っている・・・。
 貴志子はそう言った。
 「星を観たあとの寂しさに似ているような気がするんです。宇宙へ行ったアメリカやソ連の宇宙飛行士の何人かが、地球に戻って何年後かに心を病んだそうですけど、富樫さんのように、宇宙の途方もない力に鼓舞されるか、それとも、その途方もなさに打ちのめされて、神経がおかしくなるか・・・。自分というものの小ささだけを感じて虚しくなってしまうか・・・。きっと、その人間の無意識の領域にある宗教的な何かが影響してくるんだろうって気がします。歴史に足を踏み込むことも、似たようなもんなんだろうなって・・・。歴史って、一歩踏み込んだら、蟻地獄みたいなもんですもの」

 「草原の椅子(下巻)261ページのこの部分を読んでいて、ぼくは自分自身の体験を思い出した。
 7年前の脳出血の際の臨死、幽体離脱体験のあと、森羅万象に対するアンテナがたしかにかわってしまった。離脱の際、ぼくはうすぼんやりとした闇の空間を、ただただ流されていた。思うに、宇宙飛行体験もおなじだ。そしてそう考えれば、無意識の領域にある宗教的な何かにアンテナの方向がかわったのも道理なのだと思う。

 これから「とんぼさん慰労会」が開かれるので、早朝に建築施工業者との打合せを終えたあと、事務所清掃に励んでいる。事務所の床板はなにもコーテイングされていない杉のムク板なので、エゴマ油を塗った。要するにエコハウス。


 準備万端だ。

  2014/09/19 (金) もう週末か

 宮本輝著「草原の椅子」も終わりに近づいてきた。主人公の考える「使命」が具体的に見えてくるなかで何故か頭に浮かんだのが、高戸甚右エ門著「インダスの流れ」。

 10年近く前、御自宅を訪問した時にこの本をいただき、読んだあとのあとがきが以下です。
 著者・発刊に際して
 「私たちは、今恵まれた窮めて便利な生活をしている反面、おもいやりの心がすたれて、「自分さえ良ければいい」という風潮がみなぎっているが、これは人間社会の貧困そのものではないだろうか。
 戦後日本は立派な製品を安い価格で世界に売り出し、めざましい発展をとげているにもかかわらず、「国民そのものに欠陥がある」と米国ハーバード大学のエズラヴォーゲル教授が指摘された通り、日本的考えがどこでも通用するような錯覚が目立つのではないだろうか。毎年沢山の人が海外旅行すると聞くが、海外へ行くにはパスポートが必要でありこれには外務大臣が相手国に対して行路の安全を依頼する文面がついている。ところが日本人であるとの国家意識を持たず、そのような教育を受けず、国策を無視した言論が横行し外国のジャパンパッシングに同調するなど国益を考えない人々が大手を振って歩いている国から出ていくから冷や汗ものであり、一国の繁栄だけを願うものではなく、世界の平和と繁栄を願い、地球の保全と 人類の進歩を考えるとき他国の事情を知り、理解することが大切である。
 どの民族にも歴史と伝統があり、風俗、習慣、言語が異なるも、それぞれその環境で英知を重ねて生活がなされているのである。
 海外での生活を通して今改めて「豊かさ」とは何なのかと考えさせられるのである。
 二カ年のパキスタンでの生活と歴史の歴史を書きとどめたのは、帰国した昭和三十五年(一九八八)の暮れである。その後、会社に勤務し昭和六三年(一九八八)定年退職しても農業の傍ら公務を持ち多忙のため原稿を死蔵していたが七五才を迎え老人の郷愁から整理をすることにした。

 日進月歩は世の常。すでに四〇年を経て、かってのパキスタンは印パ戦争のあと一九七二年一月東パキスタンはバングラデシュとして分離独立し今日に至っている。パキスタンに於いても首都が「カラチ」から「イスラマバード」に移り、パキスタンも近代国家として繁栄、進歩をしていることであろう。
 一九五九年「チッタゴン(東パ)」からカルカッタに入り領事館で聞いた「ダライラマ亡命」のビッグニュースも昨日のことのように思われ、カルカッタのハウラー駅からブツダガヤ、アグラ、デリー、アムリツアー(インド領)、ラホール(4パキスタン領)への汽車の旅もなつかしい。ボンベイ、マドラス、スリランカのコロンボやベラデニヤ等も、TVで報道を聞く度に現地での思い出が四〇年前にタイムスリップして、、脳裏をかすめる昨今である。  
              平成一二年三月

 そうこうしているきょうの昼下がり
 「本格芋焼酎・霧島」を持った男性が現われた。



 確かに、芋焼酎といったら「霧島」に一番なじみがある。今晩は、芋の天麩羅をサカナにして、これをじっくりと味わおう。


  2014/09/18 (木) 秋真っ盛り

 打合せのため、市役所へ行った。議員時代はほぼ毎日行っていたところだけれども、今は滅多にいかない。つまり久しぶりに行ったということになる。思うに、役所はサービス業だ。自分たちが外へ出て営業活動をするのでもなくものづくりに励むのでもなく、市民からの税金で食っているので、クライアントは市民一人ひとりということになる。であるならば、来訪者に対しての応対は、笑顔から始まるのが当然だと思うのだが、俯瞰するに、そうでない職員もいるようだ。

 それはともかく
 オープンカフェ改修第二期工事に着手した。コンクリートブロックは意外と重く、動かない左腕を動かすのは至難の業だ。マヒはひどくなるかもしれない。しかし、もしかしたらリハビリ効果によって回復への道を進むのかもしれない。どっちになったところでかまわない。それでいい。

 

 それよりも困るのは、右手の指のマヒだ。
 字が書けない。製図はCADで足りるし、文はパソコンキーボード叩きでOKなのだが、時折は、自筆記入を要求されることがある。特に小さい枠内への記入となると、お手上げだ。加えて、脳内出血以来、字体が全く変わってしまった。もはや、「昭和の能筆」とは誰も呼んでくれない。
 筆跡鑑定によって自分が自分であることを証明できなくなりつつある。

 それはともかく
 きょうの午後、ぼくは三国土木事務所の道路保全課に居た。県道の歩道手摺が錆びつきあるいは破損している箇所があって危険なため、改修を訴えるためだ。去年までは、市議だったのでこういうことは再三あったが、今回はなんていうか、訴える自分の気持ちが今までとは微妙に違った。
 以前は、「身体障害者にとって、手摺がしっかりしていることが生命線なんですよ」などとしゃべっていたし、今回も言質はおなじだったのだが、前までは身体障害者を見る眼に距離があった。しかし自分が(半)身体障害者になったことによって、その距離あるいは垣根がなくなった。全く自分自身のこととして興奮しつつしゃべっていた。

 バカアタマの自分は、そうなってみないとみないとわからない。その点、小説家は偉いのだ。
 想像力で読み手を納得させる技量を持っている。


  2014/09/17 (水) 熟睡して目の覚めた朝

 「ふるさと語ろう会」会員の皆様へ。事務局から電話がありまして
 「鳥越遺跡への旅」参加者は17名とのこと。昼食時にビールを飲む人は、会費以外に個別負担ということになりました。研修の旅ですので、飲んでも乱れたりしないように注意してください。一番心配なのが会長だとのうわさもあります。

 それはともかく
 宮本輝著「草原の椅子」は
 「・・あなたの瞳のなかには、三つの青い星がある。ひとつは潔癖であり、もうひとつは淫蕩であり、さらにもうひとつは使命である。
 フンザの集落の入口近くの小さな雑貨屋で出会った老人の言葉は、遠間憲太郎の心から消えなかった。
 自分の歳を知らないという老人は、遠間憲太郎には八十歳前後に見えたが、ホテルの英語が喋れる従業員は、おそらく百歳に近いはずだと言った。預言者でも占い師でもないが、彼の言うことは当たるのだ。なぜなら敬虔なイスラムであるから、と」で始まる。

 主人公・遠間を読み手に置き換えるならば、ドキッとする言葉で、そもそも「潔癖」と「淫蕩」とは対立する概念で、それらが共存するとはどういうことか、という疑問符を持って読み始めたのだが、読み進めるうち徐々にわかってきた。要するに人間という奴は裸になれば矛盾の束であることがわかるということだが、それにしても「使命」とはなんだろう。
 ぼくのように、何の目的もなく生きている人間にでも、「使命」があるのか。隠れて存在しているのか。それならば捜し出さなければならないだろう、とぼくは思った。


  2014/09/16 (火)  無題
 今朝は、5時に目が覚めた。テーブルの上には、缶ビール、清酒瓶、焼酎瓶、アジフライの残りエトセトラが散乱している。そうだ・・昨晩は四人での(うたげ)だったのだ。三人が何を話していたのかはよく覚えていないが、とにかく楽しかった。

 ゴミを袋に詰めて外へでると、しとしと雨。きょうは一日中雨だろう。

 それはともかく
 早朝にYさんから「金津小学校の奉安庫の石碑が二ノ宮尊徳像の横にみんなにわかるように移されているぞ。よかったよかった」という電話があったので、デジカメを持って現場に行った。


 みんなのわからない場所に放置されているこの石碑を移し替えるように進言したのは、半年ほど前だったと思うが、とにかくよかった。

  2014/09/15 (月) 連休最終日

 スコットランドが独立か否かの住民投票を数日後に控えてマスコミがやかましい。独立派の急先鋒にいるスコットランド芸能人が「007ロシアより愛をこめて」などで有名なショーン・コネリーだ。そして、この007シリーズで唯一日本人のコネリー相手役となったのが、「007は二度死ぬ」に出演した女優・浜美枝。

 ここでぼくの思い出は政治情報から芸能情報に転じる。
 20年ほど前だったと思うが、福井市文化会館で浜美枝の文化講演会が開かれ、何故か、ぼくは彼女の手話通訳を受け持った。
 彼女は演台中央で椅子に座って話し始め、ぼくは彼女の横に立って手を動かし始めた。有名女優なので、ぼくの目線は数十センチの距離にある彼女の横顔にチラチラとそそがれるのだが、その時ぼくは発見をした。上から見える谷間だ。大きい谷間が見えるのである。
 コネリーのような肉体派男優は、浜のようなトランジスタグラマーが大好きなのだということがよくわかった。

 再び芸能情報から政治情報に転じる。
 ぼくの海外渡航は65年の人生で二回。一回は妻と一緒のカナダはトロント郊外のホームステイで、一回は簡保旅行で行先はオーストラリアだった。いずれも30年ほど前だったと記憶する。
 カナダへ行った時は、モントリオール州がカナダから独立するかどうかの住民投票を目前に控えていたし、オーストラリアへ行った時は、この国自体が英連邦から離脱するかどうかの住民投票を目前に控えていた。結果としていずれも否決されたが、世界大戦直後の南アジヤやアフリカ大陸は別として、一般的には否決されるものだと、ぼくは思った。


  2014/09/14 (日) 食欲の秋

 自宅の正面に置いた梨の鉢。そこから実が出てきた。

 

 ゴルフボールくらいの大きさしかないけれども、触るとみずみずしい。美味しいに違いない。

 そうだ、今は秋真っ盛りなのだ。終日、事務所に閉じこもってCADと読書だけの世界に居ると、当然のことながら季節のにおいがわからない。そこで、早朝に後山方面へ車を走らせた。稲がたわわに実った田んぼの向こう側にカントリーが見える。
 若かった頃、春には稲苗をとりに秋には我が家の田んぼで収穫された米を納めにここへ来た。いつも親父と一緒だった。その親父が死んで七年。
 10月には七回忌が予定されている。


 はてさて
 朝日新聞が、吉田調書や慰安婦問題で他のマスコミの攻撃の的となっていて、妻が「あんな新聞とるのもうやめよう」と言うし、ぼくも「そうやなあ」と答えているのだが、朝日に関しては思い出がふたつある。

 ①ひとつは、ここあわら市が二校問題で揺れた10年ほど前、私の事務所へ頻回にやって来たのが朝日の女性記者で、彼女とは大いに気が合って、いろんな話をしたものだ。

 ①ひとつは、25年ほど前のことで、敬愛していたMさん(故人)に「この政治論文を朝日に持って行ってほしい」と頼まれて、原稿を福井支局に持っていった時のことだ。応対に出た支局長から「先ず論文の主旨を説明してほしい」と言われ、バカアタマの私にそんなことできるはずもなく「ええ!天下の朝日新聞が検閲をするんですか?」と言うのがせいいっぱいだった。
 「当然です。朝日には朝日のボンセサスがあるんですから」と言う。「私がボンセサスってなんですか」と聞くと「知らないんですか?フランス語で良識という意味です」と答えたのだ。

 即座に「もういいです」と言って、原稿を持って福井支局をあとにした。帰ってから、「俺はあの時なんでカッカきたんだろう」と考えた。
 「新聞社にはそれぞれの新聞社で編集方針があるのだから、支局長の言葉も一応はうなずける。だけど、<知らないんですか?>というひとを睥睨したあの態度はなんだ。<ボンセサスがあるんですから>というあの言い方はなんだ。まさか俺をフランス人と思ったわけではないだろう。」と思ったのである。


  2014/09/13 (土) きょうはオープンカフェの改修

 昨日の早朝にかかってきた携帯電話は大変にながいものだった。電話の主は年寄女性(多分ぼくと同年代)で、とにかく、ある男性のことを悪しざまに罵る。「包丁で刺したい」とさえ言う。何故そういう気持ちになったかを説明するのだが、興奮してしゃべるので聞く側の立場では要領を得ない。「もっと整理整頓してしゃべってや」と言うのだが、感情ぶっつけのくり返しを抜けることができない。 「誰かに聞いてもらいたかったの。ありがとう」の言葉で電話はきられた。

 しゃべりそのものが真剣なのはよくわかるが、釈然としないものが残った。
 「歳をとると人間が練れてくるというのは、嘘じゃないか。大人は子どもの夕暮れだ。俺も同じだ」と思った次第です。

 それrはともかく
 本日の午前中はオープンカフェの改修でおおわらわだった。もっとも、ぼくは見てしゃべっているだけだったが・・。工事者は、あわら市の有名園芸家Yさん。





  2014/09/12 (金) 平家物語

 大原富江の「平家物語」を読み終えた。
 有名な冒頭・「祇園精舎の鐘の音は、諸行無常と鳴る。娑羅双樹の花の色は、釈迦入滅のときは白く色褪せ、盛者必衰の道理をあらわしたものだ。おごりたかぶる人もいつまでも続きはしないのである。人の世のことは、春の世の夢のようにはかないものだ。勇ましく強い人もついには滅びる。まったく風の前の塵と同じである」は、安倍政権に対する警句のように感じてタイムリーな読書だったが、全編を通じてぼくが思ったのは、「昔の人(この場合は、保元・平治の乱→壇ノ浦)は、雲上人であれ平家の公達であれ源氏の猛者であれ、何故あれほどにはらはらと涙を流したのだろうか」という一点だった。

 勿論、語り部(琵琶法師だったかな・・)による戦記ものだから、大音声をあげての決闘・主従の別れ・妻子との別れ満載で、はらはら涙がおかしくはないのだが、現代人はそんなに涙をみせない・・というか、心で泣く。
 泣きたい時には思い切り泣くほうが自分の感情に忠実であり、あとに残さない。その点、現代人は屈折しているといえるのかもしれない。

 さて平清盛の嫡男・重盛は、父の横暴な振舞いをいさめようと粉骨砕身するのだが、ノーテンキな父親は聞く耳を持たない。「ああ・・これでは法皇様(後白河)に対して申し訳がたちませぬ。かくなるうえはわたくしめの命を天にさしあげますから、両者和平をお願いいたします」と祈ったのちに死ぬ。いわゆる「忠たらんと欲すれば孝たらず、孝たらんと欲すれば忠たらず」というやつだが、ぼくは彼の優等生的振舞いがあまり好きではない。平家一門の総帥という権力の座や雲上人との付き合いの座にさっさとおさらばし、語り部的乞食僧となったほうがはるかによかった。

 重盛死後に総帥となった次男・宗盛は自分の保身しか頭にないバカだから、おくとして、同じ弟・知盛の最後は絵になる。
 壇ノ浦の合戦で負けて、海に入水自殺するときの台詞は、「見つべきことは見つ・・ハ、ハ、ハ」だ。
 これを「平家の最後を見届けた」とだけ解釈したのでは、あまりにも狭量だ。「盛者必衰の道理をこの目で見届けた」と解釈することによって、無常観に近づけると思う。


  2014/09/11 (木) 旅の思い出

 昨日、目の腫れのことを書いたら、複数のひとから「心配携帯コール」やら「心配来訪」があって、「私的なことくらいしか書くことのできない自分やけど、私的すぎることを書くのは幼児の甘えみたいなもんや、もう一切止めよう」と、思い立った次第です。
 そこで、きょうは何を書こうかと考えるのですが、何もアタマのなかに浮かんでこない。

 少し視野を広げて、11月の沖縄県知事選はどうなるんだろうか、学生時代にお世話になった基地反対活動家・真喜志さんは、今どんな思いでいるんだろうかと思ったところで、本土の人たち(ヤマトンチュー)にとって沖縄人(ウチナンチュー)のことは、所詮対岸の火事だ。江戸期の薩摩藩による苛斂誅求は明治新政府になっても止まず、太平洋戦争末期には本土防衛のための生命線と位置付けられ、軍人・民間人の多数が命を奪われた。
 政府はそういう悲惨な歴史を持つ島を日米安保のための米軍基地として日本全体を俯瞰しても飛びぬけた面積を、沖縄人の願いとは裏腹に、沖縄に固執している。
 それならば、沖縄返還の時に論議された「沖縄独立論」が再び浮上しても、決して不思議ではないとぼくは思う。
 琉球列島は、日本の鎖国時代に清国との交易で繁栄し、ニライカナイの思想を持っていた。服装や習俗や言葉もヤマトとは全く違っていた。敢えて言えば異国だったのである。
 ぼくの沖縄旅行は新婚旅行などの二回だけだが、同じ琉球列島に属する沖永良部島で長期間生活していたことがある。その時に島の古老たちから、沖縄戦の地獄を聞かされた。
 ぼくの従兄の息子の配偶者は沖縄人で、その人を思い出すたび、気持ちが複雑になる。

 それはともかく
 昨日、Aさんから「牧田さんは、付き合う人が以前と比べてすごく狭くなっているように思う。ものごとには多様な意見があるのにも関らず、しゃべりが頑なになっているような気がする」と言われて、おおいに納得した。

 議員時代には確かに付き合う相手が多かったが、建築士に戻ってからは一人の人間(クライアント)とだけの付き合いで数か月が経過する。郷土史に興味が出てきてからは、茶飲み話の相手は年寄りつまり余命の少ない相手だけになっている(イクセプト女人)。手話でいうと、聾者世界はもともとが狭い。言うならばぼくは「井の中の蛙」だ。
 でも
  「井の中の蛙は、井の外に虚像をもつかぎりは、井の中にあるが、井の外に虚像をもたなければ井の中にあること自体が井の外とつながっている」とある思索家が言っていて、ぼくは彼を尊敬しているので、これで充分だと思う。


  2014/09/10 (水) 

 ぼくがこのブログの背景色を濃紺に変更した最大の理由は、オープンカフェに咲き誇る朝顔(下記写真)に惚れたからです。


数日前から両目が腫れてとても痛く、CADや読書が困難となっていた。テイッシュペーパーで拭いても拭いても涙があふれてくるのである。「悲しみの涙」ではないから、対処の方法がない。明け方に目が覚めた時両目がふさがっていて、周りが見えないのには困った。脳内出血の後遺症ではない。老化による機能不全というやつだろう。順調に老化が進んでいることを、「神のおぼしめし・・アーメン」ととらえなくてはならない。
 この数日間、そう思っていたのだが、今朝目が覚めた時、痛みがとれている。

 そこで、檜山良昭著「芭蕉 羽黒山の殺人」を開いた。
 ぼくが芭蕉の生家跡を訪れたのは、今から八年ほど前だったと記憶する。それまでは彼の俳句も含めて何の興味もいだかなかった人だが、生家跡で彼が元武士であったことあるいは、「おくのほそ道」紀行も幕府の密命をおびての旅だった可能性がある云々を聞いてから、俄然興味が出てきた。ぼくは、基本的に二面性のある人間、風狂の徒と呼ばれる人間に対してミーハーなのである。
 この本は、推理小説仕立てであって、従来の芭蕉本とは趣を異にしている。読み終わったら、読後感を書いてみたい。

 坂井義則が脳出血で亡くなったというニュースを聞いた(享年69歳)。ぼくにとっての「昭和」が又一つ消えたのだ。昭和39年東京五輪の開会式で最終聖火ランナーを務めた男。階段を駆け上がってゆく彼の雄姿が忘れられない。
 男子100メートルのヘイズもマラソンのアベベ・円谷、柔道の神永、水泳のショランダー、女子バレーの貝塚チーム、体操のチャフラフスカ、80メートルハードルの依田よりも、つまり誰よりも印象に残ったのが坂井だ。

 降る雪や 昭和は遠く なりにけり (詠み人知らず)


  2014/09/09 (火) 無題

 昭和22年生まれの清水義範著「日本ジジババ列伝」を読み終えた。初版発行は1995年でふた昔前ということになるが、平均年齢の伸びによって、でてくる人物の実年齢に対するイメージに多少の誤差はあるとしても、十分に今日的(こんにちてき)な小説だと思うし、退屈しなかった。

 この本はジジババの人間関係の哀楽を12の短編で書いている(反乱・片思い・おぼろ灯台・子供の喧嘩・おしどり・八十年間世界一周・ホラ吹き爺さん・お客さん・二度目の人生・茶のみ話・夕焼け小焼けで・ひとり))。
 短編のなかには、ジジババ夫婦のお互いひとりよがりの思いを扱った編もある。肝心なことは、ぼくもあきらかにジジ(爺)の領域にはいってきたのだが、9歳年下の妻はまだババ(婆)の領域に入っておらず、その点をどう考慮したらいいのか、よくわからなかったということだ。

 専門的な話で恐縮ですが、現在、ある図面のペーパーデーターをCADデーター化する作業に取り組んでいます。これがものすごく煩雑で困難で時間がかかってどうしようもない。どなたか、PDFファイルをCADデーター化するいい方法をご存じでしたら、お知らせください。充分ではないにしても、謝礼を進呈します。


  2014/09/08 (月) 新聞を読んで

 普段、新聞で眺める記事はスポーツ欄とテレビ予定欄くらいのものだが、今朝の予定欄に「臨死体験 立花隆ドキュメント 死ぬ時心はどうなるのか」の予告記事が出ていた。

 ぼくの臨死体験は8年前に脳内出血で倒れた時、やってきた。長期入院を経て自宅に戻ったのち、立花隆著「臨死体験集」を読んだ。ぼくの場合は、体外離脱の仕方が、体験集に網羅されていたものと比べてやや特殊ではあった(自分の体が天井面に浮いて、それをみつめている自分がいた。その後、意識がなくなって、戻るまでのあいだ、空中を浮遊していた。そこは闇の世界でも陽射しのあたる世界でもなく、うすぼんやりの世界だった)が、それにしても、「体験集」が退院後の生きる指針となったのは事実だ。

 以下、予告記事を紹介
 人が死んだら、心はどうなるのか・・。その謎を追い続けるジャーナリストの立花隆(74)が、欧米の研究者たちを訪ね、最新の研究で分かってきたことに迫るNHKスペシャル「臨死体験」立花隆思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるか」が、14日の午後9時から放送される。
 死のふちをさまよった人の多くが体外離脱や「光に向かって進む姿を見た」などと、似たような体験を話すのはなぜなのか。そもそも「心」とは一体何なのだろうか。あまりにも難しいテーマに思えるが、番組では、ここ数年で急速に、多くのことが分かってきているという。
 米国の研究者は「意識とは膨大な数の神経細胞が複雑につながることによって出来ている」という論文を発表した。仕組みとしては、将来的には、意識を生み出すことも可能になるらしい。
 また別の研究者は、偽の記憶を人に植え付けることができると実証した。人は高度に脳が発達し想像力を持つため、偽の記憶を作りやすいのだという。
 右田千代子チーフデイレクターは、東日本大震災で多くの人が不条理に他界したことをきっかけに、昨年夏に臨死体験の番組を作ろうと決意。長年、立花とともに取材をしてていた岡田朋敏デイレクターが賛同し、今年1月から準備を進めた。「ここまでは分かっていること、という事実を示しながら、亡くなった人たちに救いがあることを祈って作った」と右田。
 番組では、膀胱がんの手術を受けた立花が、自分の死について吐露する場面も。右田デイレクターは「家族や親しい人々と死について話し合うきっかけになれば」と話す。
 それはともかく
 CADに追われていた午前11時。N氏(男性・推定年齢77歳)が現われた。とれとれの林檎を持って現われた。ぼくはN氏を林檎おじさんと名づけよう。


 

  2014/09/07 (日) 錦織選手勝利のTVニュースで目が覚めた
 
 打ち上げ花火は一瞬だからこそ美しい・・と、ひとまずは思うのだが、
 「美しさなどというものは、あくまでも見る側に属する事柄であって、見られる側の問題ではないのである。」と井上ひさしは書いている。



 であるならば、素敵なひとが傍らにいるから花火がよりいっそう美しいのだな。昨日は、そういうことをぼんやりと考えていた。
 それはともかく
 昨日夕刻の来訪者はSくん(推定年齢50代なかば)。四方山話が終わっての帰り際に、彼は「まきちゃん、死なないで。まきちゃんが死んだら僕は泣くよ」と、言う。ぼくは涙をこらえるのに必至だった。ぼくが死んだら泣くのは女性ばかりだと思っていたからで、ぼくは思いを新たにした。
 

 2014/09/06 (土) 早朝に波松海岸にて
 ぼくは本を系統的に読んだことなどなかった。本屋であれ図書館であれ、背表紙が微笑んでいると直感したものを小脇に抱えて持ってかえるだけで、小説のテーマも著者名もばらばらの乱読型人間だ。

 それが、最近はちがってきている。一冊を読み終えたら、そのなかで心に残った描写と関連付けて、次の一冊を探すようになってきた。典型的な例が「親鸞」であり「上杉鷹山」である。関連付けることによって、登場人物への感情移入が進む。進めば、()の姿が善悪の彼岸に見えてくる。これが、「読むことの面白さ」だと思うようになってきた。

 というようなことを、波松の浜辺に寝ころび、押し寄せる白波をみつめながら、復旧なったノートパソコンに打ち込んでいる。潮騒(しおざい)が聞こえてくる。



 私の耳は貝のから 海の響を懐かしむ 「月下の一群」

 

 2014/09/05 (金) 鷹山のこと
 パソコンが壊れてしまいカウンターも作動しなくなり、自分でいろいろいじったら頭がますますぐちゃぐちゃになってしまって、仕方なくパソコンを大手家電店に持っていった。「直ります・・が、5000エンかかりますし、二日間あずからせてください」と言われた。さすが、餅は餅屋だ。しかし、パソコンがないと、CADができないのには困った。

 ドンマイだ。
 ちょうど童門冬二著「上杉鷹山」を読み終えたところだったので、鷹山に惚れ直したぼくは、夢の中で米沢詣でをしていた。鷹山の墓前で平伏した。童門は、あとがきでこう書いている。

 先日、米沢市役所に行ったら、上杉鷹山の「伝国の辞」の写しを職員に配っていた。いまから二百年も前に書かれた「伝国の辞」は、藩主は、人民と国家のために存在するので、国家と人民が藩主のために存在するのではない、とはっきり書いている。
 ルソーの社会契約論やエミールが発表されたのは、鷹山が十二歳の時(一七六二・宝暦一二年)だが、当時の日本の国情で、鷹山がこれらの著作を読んでいたとは信じられない。またフランス革命が成功し、人権宣言が発表されるのは、かれが三十九歳の時である。
 「伝国の辞」は、隠居した鷹山が、嗣子に与えた治国の心がまえだが、その内容はあきらかに主権在民の思想である。そして、フランスの人権宣言よりも四、五年早く書かれている。この大胆な考えは、さぞ当時の日本の士人を仰天させたことだろう。・・
 ところで
 今日は早朝から携帯電話ラッシュだった。そのなかには、「牧田さんのブログが更新されないのは、とても寂しい。だって、牧田さんのブログを読むことから一日が始まるんだもの(男性・推定年齢70歳)」というのがあって、「よおし、一人でも読者がいてくれる限り、俺は書き続けようと思った。

  2014/09/03 (水) ブログのこと
 三時に起きて、このブログのインデックスをいじっていたら、「過去日記」のタイトルがすべて消えてしまって大混乱。
 五時に、なんとか復旧した。
 
 妻は、「何故、ブログなんか書いているのか。私は読んだことないけど、ブログやフェイスブックやツイッター書いてる人の気がしれん。書くくらいなら、会って話していりゃいいんじゃないの」と、常々、ぼくに言う。

 確かに
 読んでくれてる人は100人/日くらいいるみたいだけど、顔を思い浮かべることのできる読者はせいぜい10人だし、それくらいなら、たまに直接会ってしゃべる方が、思いの丈を過不足なく伝えることができる。
 だのに、何故毎日書いているのだろうか、考えてみた。

 ①15年ほど前、金津町議に初当選した時、当時のウグイス嬢(美人)の旦那から、「議員日記をブログで書くことは、これからの議員の義務だぞ」と言われて書き始めた。

 ①「議会報告」を中心に書き始めたのだが、どうも、人間がカタブツになるような気がして、身辺雑記に傾いていった。

 ①ブログを読んでくれた女性から、「ウイーンのハイデルベルグ音楽院はどんなところですか?」という読後メールが入ってきて、ぼくは、アルプスの少女・ハイジを思い出した。彼女はハイデルベルグ音楽院留学時代のガールフレンドで、セーヌ河畔を腕を組みながらよく歩いたものだ。その時一緒に口ずさんだのが、アズナブールの「枯葉」とアダモの「雪が降る」・・とてもなつかしい。
 つまり既に忘れていることを、思い出させてもらうという効用がブログにはある。

 ①芦原温泉旅館での飲み会の席で、女将(おかみ)から、「牧田さんの語り口と文体は全くおんなじね」と言われた。坂井市議会との合同飲み会で、隣席から、「牧田はんの文体としゃべりは180度逆やな。こうやって話していると、シモネタばっかりや」と言われた。自然体で書いていると意見がさまざまであるが、要は自分をたかめるために書いているのだと思う。

 ①去年、市議を辞めた時、ブログを続けるか辞めるか迷ったのだが、ある人から、「続けるべきや。そしてタイトルを<妄想日記>に変えるべきや。だっていつも妄想を書いているが」と言われ、納得した。
 三木卓 は、「馭者の秋」 のなかで、「人は、75%を妄想によって生きている。妄想こそ意識だというべきだし生活だといっていい。ただ人は恥ずかしがって口を噤んでいるだけだ」と言っている。

 ①「人は、考えていなければ言葉が出てこない。「考える」と「書く」とのあいだには互換性がある」とある友人が言っていた。その友人はこうも言っていた。「牧田さん、人間、中年のときまではギラギラしてだめだ。男が本当に魅力的になるのは老年になってからや、つまり腐りかけてきてからや」

 思うに、ぼくは自分自身に向かってこのブログを書いている。
 それはともかく
 童門冬二著「上杉鷹山(上巻)」の89ページは、藩主・上杉治憲お国入りの場面で、その通りだと思い、うるんだ。
 ・・江戸で治憲に協力する改革者たちを育て、改革案を実質的に指導した松柏は、治憲が江戸を発つ直前、肺患が重くなって死んだ。まだ三十三歳だった。
 死のまぎわ、松柏は見舞にきた治憲に、
 「何かお困りの節は、私の師・細井平州先生に教導をお受けになりますように」
 と遺言した。細井平州は、治憲にとっても少年時代の学問の師だ。松柏は辞世として漢詩、和歌、発句をひとつずつつくった。

 今朝の露と われも消えけり 草のかげ

 松柏が死んだとき、治憲は食を絶って悲しんだ。
 が、ふしぎなことが起こった。治憲の脳裏にはいつも松柏の姿が浮かび、松柏の声がきこえるのである。生きていたころとおなじように、
 「お屋形、そんなことをなさってはなりませんぞ」
 とか
 「お屋形、もっと強いお心をお持ち下さい」とか、いろいろいうのだ。 
 治憲はこう思った。
 (松柏が生きているころにしても、何も四六時中、松柏と会っていたわけではない。しかし、顔を見なくても心は通じた。松柏の声も聞こえた。これとおなじではないのか。松柏は死んだ。しかし松柏は生きている。私の心の中に生きている。私の中に生きているかぎり、松柏は死んだとはいえない)

  2014/09/02 (火) 本日はCAD三昧
   何よりも、この数年間に桐野を狙って討ちきれず入浴中の彼を襲おうとした卑怯さを恥じながら飛び出したのだから、どうにもならない。
 すっかり躰を洗い、まだ仕込杖の刃を抜いたまま、ぼんやりと立ちつくしている山田又蔵へ、桐野がいった。
 「おはんも風呂をあびて、小屋へおいで。めし、食いもそよ」
 この夜から、又蔵は桐野の小屋へ住みつくことになるのだが、
 「ああいう人物を何というのか、つまり、その、むかし元亀天正のころに生きていた豪傑というのだろうよ。あのときのおれは、まったく桐野の思うままにうごくより仕方がなかった。それでいて、あの人の、人なつかしげな目のいろや声やが遠慮会釈もなく、こちらの胸の底にぴんぴんひびいてくるのだ。こいつ、たまらなくいいやつだ、と、こう思わざるを得ないのだな。二人で酔っぱらって眠りこみ、夜が明けたときには、おれはもう瘧が落ちたように、さっぱりした気持ちになってしまってね」
 尻尾を巻いて帰るつもりが、ずるずると居ついてしまった。これも伝説的な桐野の人間的魅力を裏づけるものであろう。
 とにかく意気投合し、山田又蔵は、ついに桐野の従僕となって西南戦争へ参加することになるのだ。

 山田又蔵は、まだ西郷隆盛を一度も見ていなかった。この明治維新の大立者に対する人気というものは、維新後わずか四、五年のうちに日本全国へ波及したといってよい。
 文字通りの「偉人」としてのイメージを、彼は裏切らなかったのである。
 あの「征韓論」にしても、西郷は韓国の排日、鎖国の頑冥を解くべく、先ず自分が使節として朝鮮へ乗込もうとした。
 当時の状況では、そのことが、ただちに決裂と、西郷自身の危険を意味し、さらに朝鮮出兵をも意味するものとしてうけとられた。だから、西郷の主張する和平交渉は、そのまま征韓主義として見られたわけである。
 西郷は最後の閣議で、反対派の岩倉具視や大久保利通などに、こういっている。
 「わしゃ、朝鮮へ喧嘩な売りに行くのじゃない。談判をしにいくのでござる」
 むろん和平交渉が成るか決裂するかは、やってみなければわかることではなく、西郷が死を決していたのも事実である。
 反対派は、欧米列強に威力の前に、ようやく小さな日本が新生の第一歩をふみ出したばかりの心細さを痛感し、彼らの不安は、
 「朝鮮は後まわしにして、まず内政をととのえなくては・・」
 の一言につきる。
 それでいて、西郷が下野した翌明治七年には、台湾へ出兵する始末であった。清国(中国)と朝鮮は、せまい海峡をへだてたのみで日本に向い合っている。日本は、この二国との関係において古代のむかしから波瀾にみちた歴史をくり返して来た。
 それが現代の日韓問題にまで、えんえんと尾を引いてきているのである。
 だから台湾に出兵すれば、必然、清国が介入するし、清国をひそかにあやつりはじめたのがイギリスであった。
 このとき、木戸孝允が、閣議の席上で、たまりかねたように、
 「わが政府は征韓の議を打ち倒し、西郷さん以下五人の参議をうしなった。これも大義のためと思えばこそやってのけたことだ。その政府が一年もたたぬうちに、外地へ出兵するというのは如何なわけか。これでは陰謀をめぐらし、西郷さんを政府から追い出したと、世の指弾をうけても仕方ありますまい」
 と、大久保利通に食ってかかり、ついに辞職をしてしまった。木戸は桂小五郎のむかしから「対面」にこだわりすぎる癖をもっているから、面倒になると、すぐに身を引くことによって難局を逃げてしまう。
 兄弟のように苦労を共にしてきた西郷と別れ政府に残って、すべての責任を肩に背負いこんだまま、黙々とはたらきつづける大久保利通の胸底を知るものは、伊藤博文くらいなものだったろう。

  2014/09/01 (月)  新しい週の始まり
  一週間ほど前
 シートベルト着用違反(違反点数1点)の積み重ねが6点となり、一日免停違反講習会のため、春江の運転免許センターへ出かけた。
 午前中は、道交法違反の点数などについての詳しい講義で、午後は、「社会活動参加」だった。
 「社会活動参加」とは、幹線道路交差点に立ち、「運転中は携帯電話ダメ!!」とか「シートベルト着用を!!」とか書かれたプラカードを持っている行為だ。

 「恥ずかしいなあ。プラカードで顔を隠していたいなあ」と初めのうちは思ったのだけれど、10分も過ぎると退屈になってきた。目の前を通り過ぎる車から手を振ってくれないかなあ、とか、「まきちゃん頑張れよー」と運転席から叫んでくれないかなあ、という思いに変わっていった。マイクがあったら口を動かしていたいなあ、という思いに変わっていった。

 あきらかに、議員時代の癖が抜けていないのだ。辻立ちでマイク持って叫んでいる時、車からの声援が限りなく嬉しかったのである。  
 それはともかく
 昨日は日曜日なので、自分の部屋から一歩も出ず、幕末ものを読んでいた。読んだのは、池波正太郎著「卜伝最後の旅」と津本陽著「荒ぶる波濤」だが、短編集「卜伝最後の旅」のなかの「剣客山田又蔵従軍」が印象に残った。

 又蔵は慶応四年の上野戦争で彰義隊に加わり、なんとか一命をとりとめる。そして、彼の剣術の師・鈴木隼人を斬った人切り半次郎・桐野利秋を仇討しようと執拗に追い始める。
 ・・が、剣士として段違いの貫録を持つ桐野の前ではいいようにあしらわれるだけだった。

 明治七年、又蔵は鹿児島を目指す。「征韓論」をめぐる薩摩軍人と新政府との軋轢で、西郷隆盛や桐野らは既に鹿児島に帰っていたからだ。
 桐野利秋襲撃は明治八年三月十七日の夕刻であった。
 ・・故郷へ帰った桐野は、鹿児島旧城下から六里ほど離れた吉田村・宇源谷の原野に小屋を建て、只一人で開墾をはじめた。ときに三十八歳。
 このあたりは桐野の生家がある実方の村から五里も山へのぼったところで、ほとんど、あたりに人家はない。
 妻子は、まだ健在でいる母が住む生家へあずけておき、桐野はこの原野に起居し、泥まみれになって芋をつくったりしていた。
 小屋の外に野天の風呂場がある。といっても、石を敷きならべた一角に風呂桶が雨ざらしになっているのだ。風呂好きの桐野は開墾地から戻ると必ず湯をあびる。
 鈴木隼人ら三名に襲われたときも、上野の戦争が終って、神田・三河町の銭湯で汗と血を洗い流し外へ出た瞬間に斬りつけられた桐野であった。

 この夜、霧がたちこめていた。
 山田又蔵は霧の中を忍び寄って、風呂桶から出たばかりの桐野の前へ躍り出るや、
 「恩師の仇を討つ!!」
 と、叫び仕込み杖の白刃を抜いた。
 桐野は「ほほう・・」といって、あきれたように又蔵を見つめていたが、
 「そうかい、そうかい」という。
 「素っ裸のおいどんを斬るちゅのかい」
 「む・・」
 「そいもよか。斬ってみなはれ」
 又蔵ぐっと詰った。相手に刀を与えたら返り討ちである。だからこのまま斬ってしまうつもりで飛び出したわけだが、桐野は裸のまま、全くの無抵抗で石畳の上へあぐらをかき、
 「おいどんの首な、狙うちょるやつはいくらもいる。名乗らんでもよか。斬りなはれ」
 「よ、よし。か、刀をとれ」
 「そりゃいかん」
 「何・・・」
 「おいどん、刀をとったら、もう負けもはん。とらしちゃいかん、そりゃいかん」
 他人事のように首をふったが、いきなり斬りつけるような鋭い声で、
 「江戸のさむらいな、昔の喧嘩を根にもつのか!!」
 と、きめつけたものである。
 又蔵は、これでがくりときた。
 ・・このあたり、同じ幕末の人斬りと呼ばれながら、武市半平太の犬として生きざるを得なかった岡田以蔵とは対照的だ。桐野vs西郷と岡田vs武市と見比べると、人生は人間関係に尽きると、ぼくには思える。