大原富江の「平家物語」を読み終えた。
有名な冒頭・「祇園精舎の鐘の音は、諸行無常と鳴る。娑羅双樹の花の色は、釈迦入滅のときは白く色褪せ、盛者必衰の道理をあらわしたものだ。おごりたかぶる人もいつまでも続きはしないのである。人の世のことは、春の世の夢のようにはかないものだ。勇ましく強い人もついには滅びる。まったく風の前の塵と同じである」は、安倍政権に対する警句のように感じてタイムリーな読書だったが、全編を通じてぼくが思ったのは、「昔の人(この場合は、保元・平治の乱→壇ノ浦)は、雲上人であれ平家の公達であれ源氏の猛者であれ、何故あれほどにはらはらと涙を流したのだろうか」という一点だった。
勿論、語り部(琵琶法師だったかな・・)による戦記ものだから、大音声をあげての決闘・主従の別れ・妻子との別れ満載で、はらはら涙がおかしくはないのだが、現代人はそんなに涙をみせない・・というか、心で泣く。
泣きたい時には思い切り泣くほうが自分の感情に忠実であり、あとに残さない。その点、現代人は屈折しているといえるのかもしれない。
さて平清盛の嫡男・重盛は、父の横暴な振舞いをいさめようと粉骨砕身するのだが、ノーテンキな父親は聞く耳を持たない。「ああ・・これでは法皇様(後白河)に対して申し訳がたちませぬ。かくなるうえはわたくしめの命を天にさしあげますから、両者和平をお願いいたします」と祈ったのちに死ぬ。いわゆる「忠たらんと欲すれば孝たらず、孝たらんと欲すれば忠たらず」というやつだが、ぼくは彼の優等生的振舞いがあまり好きではない。平家一門の総帥という権力の座や雲上人との付き合いの座にさっさとおさらばし、語り部的乞食僧となったほうがはるかによかった。
重盛死後に総帥となった次男・宗盛は自分の保身しか頭にないバカだから、おくとして、同じ弟・知盛の最後は絵になる。
壇ノ浦の合戦で負けて、海に入水自殺するときの台詞は、「見つべきことは見つ・・ハ、ハ、ハ」だ。
これを「平家の最後を見届けた」とだけ解釈したのでは、あまりにも狭量だ。「盛者必衰の道理をこの目で見届けた」と解釈することによって、無常観に近づけると思う。
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