2014年10月
2014/10/15 (水) 昨日の続き |
・・賀補は、三十三か所詣りの十か所目を目指していた時、雪中に倒れ病院に運ばれる。連絡を受けてかけつけてきた意造に対して、「私はもう死ぬ。そして、冥界から烈を護っている。貴方は我が妹・佐穂を後妻に迎えてほしい。佐穂は病身の私に代わって眼病の烈を献身的に世話してくれていて、烈と佐穂の間には強い絆があるのだから」と、この世での最後の言葉を吐く。 自宅に戻った賀補の 賀補を失い気落ちした意造は花街へ出かけるようになり、芸妓・せき(17歳)とねんごろになる。なんせ田地二百町歩を持つ大地主なのだから、その気になればたやすいことだ。呆けた意造は賀補の遺言を無視し、烈、むらの猛反対を押し切って、せきと祝言をあげるのだった。 田乃内家のなかで意造だけが浮いた存在となるのだが、そのうち、せきが身ごもり、長男・丈一郎が誕生する。とりあえずの安堵も三年間で、丈一郎は不慮の事故で三年数か月の短い人生を閉じることになる。脳卒中で不自由な体となっていた意造の落胆を更に決定づける瞬間が近づいていた。それは長女・烈の完全失明である。12、3歳という年齢は感受性の輪郭ができ始めた段階だ。烈の複雑で数奇な人生は、ここから始まるとも言える。 奈落の底に突き落とされた意造は、何をやる気にもならず、蔵元の権利を手放そうとした。酒蔵の経営から手を引き、ひたすら烈のために生きることを決意したのである。しかし烈は父親のそういう態度に女々しさを感じる。盲目となった烈は、ある日、父親に「私が引き継ぐ」と宣言する。 「おとっあま、今夜烈のお 「一生懸命 とまずいい、意造は笑いながら、 「えらい剣幕らな。いいで、何でもいうてみれ」 と促すと 「 と聞いた。 「そうら。わしはへえ、やる気はねえなった。水商売はほとほと 「そせば、誰かに売ってしもあんらね」 「そのつもりらった。こっちにぴったしの買手があればの話らろも、そうでねばあのまんまにしておいても別段 「 と烈はちょっと仰むいて息を吸いこんでから、 「そういんらばねえ、そいんらばおとっあま。 あの蔵を全部烈に 烈が酒造りをしてみせるわね」 といったとき、意造は聞き違えたのかと思い、え?ともう一度問い返した。 |
2014/10/14 (火) 昨日の一日 |
台風19号の影響で外は雨。 午後の来訪客が笑顔と共に持ってきてくださったワインを飲みながら、終日、宮尾登美子著「蔵」を読んでいた。 数冊ぶりに、面白い読み物と出会った感じ。 この本は「吹雪の荒れ狂う、一月末の夜更け、田乃内家に産声をあげた女の子を、当主 時代は大正末期。越後の大地主の当主・田乃内 (ここで私は一昨日に観た「越前竹人形」の照明の妖しさを思い出していた。) それはともかく 私には尊敬している沖縄の人が二人いて、うち一人が真喜志好一氏。 彼は(議会で教育委員などの紹介と同じ形容となるので嫌なのだが)人格・識見ともに抜きんでいて、若かった頃いろいろお世話になった人だ。 沖縄の基地問題に関して市民運動家としてリーダー的立場にたっていると聞く。知事選を前にして頑張っているはずだ。 |
2014/10/13 (月) 越前竹人形 |
私は水上勉の原作を読んでいないが、昨日に観た文楽・「越前竹人形」は、谷崎潤一郎を彷彿とさせる。 文楽を観るのは生まれて初めてで、黒子の動きなどは物珍しさも手伝って面白かったし、バックに設営された孟宗の竹藪もきれいで、照明効果は十分に発揮されていたと思う。 しかし、開幕前の司会が強調した悲恋性については、そのリアリテイに疑問が残る。水上勉著「越前竹人形」が発行されたのは昭和38年だ。戦後の混乱の残滓がまだあった時代で、多くの国民は人生に虚無を感じていた時代である。そういう時代背景で素朴な悲恋小説の「越前竹人形」が受け容れられたのだろうが、平成の今の世にはどうだろうか。現に、観客は中年が多く若い人は少なかった。 気になったのは、喜助と玉枝を合わせ受け持っていた語り手の口調。玉枝への思い入れが強過ぎるような気がした。そのことで悲恋性がうすくなったような気がした。人形が複数でしゃべり手が一人というのは、なかなかむつかしいものだ。 インターネットであらすじを検索すると、こう出ている。 越前・竹神部落は竹細工の産地。竹細工の名人といわれた父喜左衛門を失った一人息子の喜助は、ある日仕事場へ見知らぬ美しい女の訪れを受ける。かつて喜左衛門に世話になった、芦原の遊廓の娼妓玉枝。まもなく喜助と玉枝はささやかな式をあげる。 しかし何故か、喜助は夫婦関係を拒み続け、竹人形を作る事に没頭する。やがて完成した竹人形は玉枝への思いを形にした見事な出来ばえで絶賛される。そんな中、喜助の留守に京都から竹人形を仕入れに人形店の崎山が訪れる。崎山は偶然にも玉枝が京都の遊郭・島原にいた時の馴染みの客だった。崎山と玉枝は一度きりの過ちを犯し、玉枝は妊娠する。 胃を診てもらうと称して京都に発った玉枝は崎山を訪ねるが、残酷なしうちを受け、そのショックが元で宇治川の渡し舟の中で出産するが、うすうす事情を感じていた船頭の臨機の処置で胎児は川に流される。3日後憔悴し切った姿で帰ってきた玉枝は死の床につく。喜助の手厚い看病もむなしく玉枝はこん睡状態に陥り、2ヵ月後やがて息を引き取る。 喜助は玉枝の死後、越前竹人形の製作を止め、3年後自らの命を絶つ。 帰り際にスタッフのひとりに、「何故喜助は夫婦関係を拒んだんですか?」と聞いたところ、「純愛だからです」との答えが返ってきたが、そうならば、不純な愛からしか子孫が生まれないことになる。 |
2014/10/12 (日) 三連休二日目 |
この世に生きる人々は、一人ひとりみな何かの問題をかかえている。街を生きかう人々をみていると、苦しんだり悲しんだりするような問題などはまるでないように見える。大変な問題をかかえている人から見ると、何で自分だけがこんな辛い問題をかかえているのかと、恨めしく思う人が少なくない。しかし、みんな見えないところで辛さに堪えているのだ。 私自身も70年以上生きてきた人生のなかで、そういう状態に追いこまれたことが、何度もある。若かった頃に失敗した時、人生半ばを過ぎようとしていた時期に息子が自ら命を絶ってしまった時など、そんな時には、天は何でこんな仕打ちのようなことをするのかと、思ったほどだ。そんな時に自分を支えてくれたのは、私が少年だった時期に、まだ40歳台だった母が、夫や息子の一人(息子の兄)を病気で亡くしても、懸命に生きた姿だった。息子を喪ってからしばらく経ってから頂いたある若い母親からの手紙が、私の人生観の中にしっかり根づいた。2歳半の子を急病で亡くしたその母親は、こう話していた。「癒しとは決して安易なものでなく、どんなに辛くても、もがきながらでも生きていこうとする人生こそ、正に癒しと言えるものだと思うのです」と。私は苦難を受容するこの母親の心の持ち方に衝撃を受けたほどだった。 「作家という仕事をしていると、苦しみや悲しみの中にある人たちから、しばしば手紙を頂く。どうしたらいいのかと尋ねられる。私はカウンセラーではないが、少なくともこう言える。「苦しみ悲しみをかかえながら、よくぞ今まで生きてこられましたね。今、生きている自分をほめてあげてください」と。 柳田邦男「悲しむ自分を受け容れて」より さて 今朝は、赤い羽根共同募金です。 |
2014/10/11 (土) 寿司を食いながら |
朝早くから、「ふるさと語ろう会」事務局長が来訪。11月に予定の、水戸天狗党の乱ゆかりの敦賀・気比の松原紀行についてのスケヂュールの詰めを行なった。このブログの読者のうちの三人ほどは、天女が そのあと、某建物へ行き、内部の不具合を点検。私は、段々仕事の鬼になっていくようだ。 ご 夕刻に、某女性が来訪。仕事上の悩みを、二時間ほど切々と訴えて帰っていった。組織は、彼女が言うように、上司で決まる。上司が部下の悩みに対してきちっとアンテナをはってないと、組織に歪みが入る。サラリーマン生活の経験がない私でも、それくらいはわかる。 きょうは、親父の七回忌だ。親父は、結構すきなことをやって、この世におさらばした。そうなると息子はどうしても生真面目に生きようとする。そろそろ生真面目さから抜け出して、自由闊達に生きたいと思う。 今、七回忌が終わった。読経が続いたが、意味が全くわからない。ここは日本なのだから、お経を漢語読みから和語読みに変えるべきだと思う。 「わからないからありがたいのだ」という意見もよく聞くが、わからないものをありがたがるという風潮が蔓延したら、それこそ社会は危機に陥る。 |
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2014/10/09 (木) 本日は手話講習会 | |||||
昨晩は、竹田川河原に望遠ビデオカメラを設置して、皆既月食撮影に挑んだ。 月食が始まった6時15分から1時間半、月の動きを見続けていたのだが、体がかなり冷えてしまった。しかし、人生で初めての経験だったので、ファンタジックな気分を味わうことができたのは嬉しい。 それはともかく 今朝のテレビが、「福井県(ふくいけん)が福丼県(ふくどんけん)になった」と言って、バカみたいに騒いでいる。 確かに、福井県は県内の某老舗が大正年間に創案したソースカツ丼など、丼ものが美味しい(のだそうだ)。 数回は食べたことがあるが、ソースカツ丼は確かに美味い。その意味で頻回に食べることの出来る富裕層がうらやましいとは思うが、そもそも「美味いまずい」は個人の恣意性による幻想ではないかと、私は思う。 例えば私が人生でもっとも美味いと思ったのは、小学校四年の時に食べたインスタント中華そば(生麺)だったし、最近ではノリ茶漬けが最高だ。酒のツマミでは、アジフライがあるのにこしたことはないが、無ければ無いで、塩か味噌があれば、ひとりで飲む場合には、充分だ。
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2014/10/ 08 (水) きょうは皆既月食 | |
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2014/10/07 (火) 明日は皆既月食 |
秋の味覚といえば、何と言っても柿です。 早乙女貢著「信康謀反」最後の3ページ 「・・九月十五日、服部半蔵と天方山城守が検視として二股へやって来た。家康の上意によって、死を賜る、というのである。信康は観念した。切腹を許されたのがせめてもである。場所は清龍寺本堂であった。半蔵が介錯の太刀を抜いた。信康が死の座に就いて、半蔵をふり仰いだ。「父上に申し上げてくれい、三郎はせめて今一度、戦場で父上と槍先を競いたかった、とな」 「・・若!」 と、一声、いったきり、半蔵は絶句した。 若年ながら、すでに岡崎城の主となり東三河一円を支配していた信康である。殿様と呼ぶべきだったが、服部半蔵には、いつまで経っても、信康は、三郎 若さまの首を斬らねばならない。非情な家康の上意であった。昨夜は煩悶したであろう信康は、もうすっかり観念していた。 「ただ憾みは・・・」 と、洩らした。 「父上に信長を恐れぬ気概を持って頂きかったことじゃ。たとえ美濃勢百万あろうとも、華々しく戦うて、勝敗を決めるが男ではないか。よしや負くればとて、武辺の本望ではないか。おれは父上と一緒に戦場で死にたかった・・・」 血を吐くような切々たる叫びだった。 半蔵は耳をふさぎたい思いで立ち上がった。 「ご用意召されませ」 信康は短刀の鞘を払った。懐紙を刃に巻きつける。半蔵が刃を振りかぶる。左脇腹へ。 襟をくつろげて、鋩先一寸、さっと左脇腹へ刺した。 刹那・・半蔵は、いまだ、と思った。前へ差し延べた信康のえりあし。蒼みをにじませた若君の首。幼いときは、吾が手に抱いてあやしたこともある。 その首を眼下に見て、刀を振りおろせなかった。 「は、早く・・・」 信康は、一寸刺した刃を浮かしぎみにして右へ、浅く引き廻す・・・。 介錯は、機を逸すると徒らに苦痛を与えるだけである。半蔵は、腕に力をこめようとしながら、なお刀を振りおろせず、遂にその場に刀を投げ捨て、がばと平伏した。 「お許し下され、出来ませぬ。出来ませぬ」 信康の下半身はあふれる血でしとどになってゆく。 「は、早く、頼む・・・」 傍で見守っていた天方山城守は、思わず、膝を起した。つつーっと、走り寄った。 「それがしが、 殆ど抜き打ち一刃が、信康の首すじへ走った。重い音を立てて、無念の首は、前へ飛んだ。 信康に叛意がなかったのは明らかである。 なぜ酒井忠次が信長の疑惑に釈明しなかったかも謎とされている。主君の介錯を成し得なかった服部半蔵の苦哀に対比されるのだが、感情的なものがあったとしても、それだけではあるまい。著者はその背後に、不気味な家康の老獪な表情を思い浮かべずにはいられないのである。 |
2014/10/06 (月) 新しい週の始まり |
昨日の日曜日は、台風18号の接近であいにくの雨。予定していたオープンカフェ花壇整備工事は中止となったので、午前中を読書で過ごした。本は、早乙女貢著「信康謀反」で、信康は徳川家康の嫡男。つまり福井藩藩祖・松平秀康の兄にあたる。まだ最後まで読んでいないのだが、信康は織田信長の命により母とともに自決させられたはずだ。戦国の世で権力を拡大していく徳川家康の戦闘場面満載(早乙女自身、北辰一刀流二段)だが、それゆえに家庭をかえりみることができず、親子の情愛がうすかったことなども細かく書かれていて、道徳の本を読んでいるような気分になる。 午後は 手前味噌かもしれないが、憂いを含んだいい顔になってきたと思います。 |
2014/10/05 (日) 今週から新しい生活に入りそうだい |
昨日の朝、友人の聾者・Kさんが来訪。半年ぶりだ。ぼくが高齢者になったためなのか、認知力に衰えがでてきたためなのか、相手の手話がよく読み取れない。かろうじて、手話サークルの再開をめざしていることがわかる。 この歳になっても、そういう依頼があることを喜ばなければならない、と思った。 ウイキペデアには 「日本語対応手話は基本文法が日本語のため、日本語文法どおりそのまま手話単語に表すような感じになる。そして、日本手話独特の文法(顔の部位等を使う非手指動作)はほとんど使用しない。このように、言語学的な観点から見ると両者は異なる。日本語文法が身に付いている人達にとっては、日本語対応手話は日本手話よりも覚えやすい。しかし、日本語対応手話はピジン言語のため、クレオール言語である日本手話と比べると意思疎通に時間がかかる事がある。この違いは主に非手指動作の有無が影響している」と書かれている。 二か月ほど前、Kさんの奥さんが、芦原中学校で、「私たち聾者の生活環境も、昔とは大きく変わりました。自宅玄関にパトライトが設置され、携帯メールも使用できるようになり、家庭にファクシミリが入ってきて、耳が聞こえなくても、通信などに支障がなくなりました。でも、一番望んでいることは、一人でも多くの健聴者の友人ができることです」と訴えていた。 我々健聴者が口で日本語をしゃべり、耳で日本語を聞くのと同様に、聾者は手の動かしで思いをあらわし、その思いを目で判断する。つまり母語が違うのである。両者が意思の疎通をはかろうとした場合、聾者の音声習得は無理なので、健聴者が手話を習得するしかない。 国は「英語の早期教育を」とか言って騒いでいるが、一般の国民が英語使いの国民と接する頻度は殆んどないはずだ。第一、バイリンガルと呼ばれる人たちは、アイデンテイテイの問題で苦労しているらしい。人間というものは、母語で考えてこそ安定できる。 他国の言語を学ぶよりも、同じ日本人である聾者の手話を学ぶことを優先すべきだと思うが、どうだろうか。 それはともかく 一昨日の来訪者(私とおないどし)から 「自分の一日は、貴方のブログを読むことから始まる。だから真面目一途ではなくて、やわらかい文も書いてほしい。これは景気づけのためのお土産や」と、下のものを置いて帰った。 私は「歳をとるとどうしても石頭になってしまう。自戒せねば」と反省した。 |
2014/10/04 (土) 穏やかな週末 |
昨晩は久しぶりにカラオケに行った。多分二年ぶり。入れ歯になったことでうまくは唄えないけれども、焼酎を飲みながら他人が歌うのを聴いているだけでも、癒しにはなる。 今朝、目が覚めてもアタマがぼおっとしている。ぼおっとしたアタマで、一昨日の老女の話を思い出した。 軍国少女だった彼女が敗戦でうちひしがれていた時に、希望の光となったのが古橋広之進の活躍だったという。ぼくは半年ほど前に読んだ高杉良著「東京にオリンピックを呼んだ男」のメモを書いている。 以下紹介↓ 昭和24年8月つまり私が生後七ヶ月でまだヨチヨチ歩きもできない可愛い赤ちゃんだった頃に、日本水泳選手団が全米水泳選手権に出場するために渡米した。そして和田が日本選手団に、9日間の宿泊先としてサウス・バンネスの邸宅を無償で提供した。 選手権で日本チームは自由形六種目中五種目に優勝、九つの世界新記録を樹立した。特に古橋廣之進の活躍はめざましく、全米マスコミは彼のことを「フジヤマのトビウオ」と呼んで賞賛した(余談だが、作家安倍譲二は渋谷の種馬と呼ばれ恐れられた)。 まだ米軍統治下だった日本本土からマッカーサー元帥による祝電も打電された。日本中が戦後の混乱期のなかで疲弊していた時に勇気と希望を与える出来事となったわけである。 さて 和田が単に戦後の米社会で順風漫歩に成功しただけの男だったとしたら、この物語の魅力は半減するのだが事実はそうではない。彼の一家は生地和歌山県で食い詰め戦前に米本土に移住した。そこでいろんな仕事に手をだし失敗し要するに七転び八起きの人生を繰り返しているうちに両親はなくなった。 そしてその時に米国と祖国日本との間で太平洋戦争が勃発したのである。 彼は強制収用所入りを拒否し、仲間と共にユタ州キートリーに移り住む。日系人は軍需などの工業製品づくりに従事することができないので、荒地を腕一本で開墾し農産物を出荷して生計をつないだ。 周囲からは「中国人をいじめるジャップ、帰れ!」と嘲られた。 米国籍をとってはいたものの、祖国が日本であるとの思いでアイデンテイテイのギャップに苦しんだことが、戦後になってから東京オリンピック招致に米国籍でありながら陰で活躍する伏線となったのは間違いない。 |
2014/10/03 (金) 無題 |
昨日の昼、ある老女宅を訪問した。「ふるさと語ろう会」で何か話してもらえないだろうか、との御願いに行ったのだ。 女性は80歳代。 「病気を患い気力も萎えたので」と固辞されたが、自身の半生を語るインテリジェンスあふれる語り口を、大勢の人に聴いてもらいたかった。 「終戦時に新制中学の女生徒だった私は、それまでの価値観を徹底的に壊され、虚脱感だけが残りました。学校はあばら家で満足に食べることも出来ませんでした。でもそれは教師も同じでした。今にして思えば、その時の先生方の個性あふれる指導ぶりそれ自体が光だったように思います。画一化を推し進める現代とは全く違います・・云々」をきくうち、焼跡闇市派の小説家・開高健や野坂昭如などが思い出される。 典型的な団塊の世代である自分は、戦前あるいは終戦直後の時代を書物を通してしか知らない。余生のながくない人たちが、次世代に対して人生の語り部になることは、大切なことだと思った。 本日午前の来訪客ふたりは美味しそうな地酒二本と美味しそうなつまみを携えてきて、ぼくはすっかり恐縮してしまった。 |
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