福井新聞 平成11年4月11日
金津 浄土信仰南北朝時代から? 蓮如以前の板碑を発見
金津町指中で南北朝時代のものと思われる板碑が見つかった。県内では三番目に古く、板碑に刻まれた文字から、蓮如上人が同町吉崎に滞在、布教を広める以前から浄土信仰の下地があったことを裏づける貴重な資料と見られる。
板碑を発見したのは鯖江市田村町の県文化財保護委員、山本昭治さん(62)。板碑は指中の農道沿いの中央部にあり、高さ百三センチ、幅三十三センチ、厚さ十五センチで安山岩で作られたとみられる。
山本さんによると、板碑の中央部には阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の阿弥陀三尊の梵字が三角形に刻まれている。下部には四行の文字列があり風化して判読不可能なものもあるが一行目の「無縁法界」、二行目の「平等利益之故也」、三行目には時代を表す「応安」(一三六八―七五年)、四行目「念仏一結衆願しゃ」が読みとれる。
最初の二行は仏教用語で、最後の行は作者を表し、板碑は地元の信仰集団が仏の代わりとして作ったと推測できるとしている。浄土信仰中興の祖、蓮如上人が京都から下向し、金津町吉崎に坊舎を建立したのが一四一年で、それ以前から近辺に信者がいたことを証明している。
板碑は死者の供養、墓、仏として建てられ、関東地方で多くみられる。県内では春江町井向の白山神社にある板碑(県指定文化財)が鎌倉時代の文永十一(一二七四)年と最も古い。金津町で見つかったのは初めてという。
山本さんは「南北朝の戦乱の中、人々の幸せを祈って建てられたのだろう。このとき既に浄土信仰が広まる環境があり、蓮如上人が来て一気に拡大していったと思われる」と話している。
半年前の古い新聞記事で申し訳ないんだけど、昨日の朝にとんぼさん宅でこの記事を見せていただき、蓮如吉崎下向より百年もの昔という点に感慨新たとなり、早速昨晩にキーボードを叩きました。
それはともかく
昨日の夕刻に「創作の森」のなかにある喫茶店へ行った時、窓外にムジナを発見した。と言っても、ぼくにはタヌキとムジナの違いもわからないのだが、店主が「あれはムジナや」と言うからそうなのだろう。とてもゆっくりとした動きだ。
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