2015年02月

 2015/02/28 (土) もう週末か

 昨日は、時間の合間を縫って、数カ月ぶりに三国町のおけら牧場へ遊びに行った。牛の餌づくりに汗を流していた牧場主の山崎さんに「金津の夜明け・・」 を手渡し、「三国のもんにこれを知ってほしかったんや」と云いながら中身の概要を説明した。

 「そおーか、国鉄金津駅開業に至るまでの経過にはそんなことがあったんか。三国と金津の人間の仲の悪さには理があるんやなあ」と、彼は云う。
 「仲がいいか悪いはともかく、北陸新幹線金沢駅開業を前にして金津のもんに読んでほしいと思って、十何人かに配ってきたが、三国のもんにも読んでほしいと思って持って来たんや」と答えて、さよならした。
 今朝は、伊井工業団地で会社を経営するTさんと一緒に、「たたら鉄研究会」のメンバーが鉄をつくっている現場へ。
 
 金津が鉄の町であることを再認識した。

 2015/02/27 (金) 手話講習会

 昨夕は、市庁舎ロビーで、定例の手話講習会。いつもは会議室を使うのだが、確定申告などで全ての部屋が使われており、仕方なく一階ロビー使用となった。

 脇を通る人たちのうちの何人かが、しばし立ち止まって私たちを見つめる。これがなかなかいい。教える方も教えられる方も、他人に見つめられていることで、より一生懸命になるからだ。
 今朝の午前11時。三国の海岸線にある古民家の敷地測量に励んでいた時、急に黒雲が拡がり、(みぞれ)混じりの強風となった。
 
 目を転じると、日本海は荒れ狂っている。春はまだまだだ。

 

 2015/02/26 (木) 無題

 昨晩も来客があったが、アポイントでの来訪だったので、僕はきちっと起きて待っていた。加えて来訪の内容が仕事の依頼だったので、気分も高揚した。
 それはともかく
 本日の福井新聞・見出し記事「パリ「北斎」展 大盛況で幕」に目が留まった。
 パリのフランス国立グランパレ美術館で開かれた「北斎」展への入場者数が36万人だったとのこと。
 解説者・木下某は、既に知られている「春朗時代」「宗理時代」「葛飾北斎時代」「「戴斗時代」「為一時代」「画狂老人卍時代」の年代区分あるいは北斎の奇談についてのみ言及していたが、先日僕が読んだ高橋克彦の「北斎殺人事件」では北斎が幕府の隠密だったという仮説が展開されていてこれがすこぶる面白く、そのあたりにも触れてほしいと思った。
 それはともかく
 本日は死んだ親父の誕生日だ。フィリピン戦線で捕虜となり、信じられないようなエピソードを残したあのひとの誕生日だが、それよりも、昭和11年、日本陸軍皇道派青年将校による二・二六事件勃発の日として有名で、襲撃された人物の一人・牧野伸顕は、とんぼさんの「金津の夜明け・・」によれば、大久保利通の息子で明治期に福井県知事をやっていたことがあるとのことです。
 それはともかく
 四十年 かかって酒は 毒と知る  岸本水府
 下は筆者近影です。
 
 改めて、まだまだ若いなあと思います。

 2015/02/25 (水) 禁焼酎

 昨日は一日中デスクワーク(CAD)に専念。夕刻になって疲れた僕は、コップ一杯だけの晩酌を楽しみ、そのあとは布団にくるまって歴史本を眺めながら、いつの間にか眠りについた。

 ところが熟睡まっただなかの午後八時にアポイントなしの来訪者があって、僕は寝ぼけまなこで応対せざるを得なかった。市長選に関わる真面目な要件だったので、襟を但し、とりあえず焼酎を一杯飲みながら相手の話を聞いていた。

 相手が帰ったあと、目がさえて眠れそうにもない。仕方ないので、もう一杯焼酎を飲み、ツマミを探しに台所へヨロヨロ行ったら、運悪くそこには妻がいた。
 「焼酎は度が強いので飲んだらあかん。清酒にしなさい」と、叱られた。

 要するに、昨晩が最後の焼酎夜となったわけです。

 2015/02/24 (火)  おもてなしの心

 昨日は、新聞記者の方が来訪。とんぼさんは途中で帰ったが、結局、四時間近く話し込んでいた。
 
 メインテーマは「仲仕組合創立総会之碑」(写真)及び「お寺のおばあちゃん」についてで、説明者は勿論、とんぼさん。
       
 僕は思ったのだが、僕の事務所への来訪者は知り合いばかりだ。けれども、昨日のように初対面の人が来ることもたまにはある。ならば、応接コーナーを清潔にしておかねばなるまい。珈琲は上質のものを提供しなければなるまい。この際、インスタントコーヒーを辞めて、豆を挽くところからもてなそうか。
 でも、一番大切なのは、笑顔を見せることだ。これがむつかしい。無愛想人間が笑顔を見せるのは苦痛でもある。
 それはともかく
 本日はCAD三昧となるだろう。

 2015/02/23 (月) 新しい週の始まり

 本日の午後五時、とんぼさんが戦国非情の訂正データを持ってきたので差し替えました。ご覧ください。コンテンツ右上をクリックしてください。
 それはともかく
 昨日の日曜日は「鏡月」を飲みながら。昨年四月に読んだ山本兼一著「利休にたずねよを思い出していた。
 著者は既にこの世にはいない。

あめや長次郎

利休切腹の六年前

天正十三年(1585)十一月某日

京 堀川一条

 京の堀川は、細い流れである。

一条通に、ちいさな橋がかかっている。

王朝のころ、文章博士の葬列が、この橋をわたったとき、雷鳴とともに博士が生き返った・・。

そんな伝説から、橋は戻り橋とよばれている。冥界からこの世にもどってくる橋である。

その橋の東に、あめや長次郎は瓦を焼く釜場をひらいた。

「関白殿下が、新しく御殿を築かれる。ここで瓦を焼くがよい」

京奉行の前田玄以に命じられて、土地をもらったのである。

聚楽第と名付けられた御殿は、広大なうえ、とてつもなく豪華絢爛で、まわりには家来たちの屋敷が建ちならぶらしい。

すでに大勢の瓦師が集められているが、長次郎が焼くのは、屋根に飾る魔よけの飾り瓦である。

長次郎が鏝とヘラをにぎるとただの土くれが、たちまち命をもらった獅子となり、天に咆哮する。

虎のからだに龍の腹をした鬼龍子が、背をそびやかして悪鬼邪神をにらみつける。

「上様は玉の虎と、金の龍をご所望だ。お気に召せば、大枚のご褒美がいただけるぞ」

僧形の前田玄以が請けあった。

「かしこまった」

すぐに準備にかかった。

まずは、住む家を新しく建てさせ、弟子たちと移った。

そこに大きな窯を築いて、よい土を集めた。

池を掘り、足で土をこねる。

乾かし、釉薬をかけて焼く。

今日は、焼き上がった瓦の窯出しである。

「こんなもんや。ええできやないか」

弟子が窯から取りだしたばかりの赤い獅子のできばえに、長次郎は大いに満足した。

獅子は、太い尻尾を高々とかかげ、鬣を逆立てて牙を剥き、大きな目で、前方をにらみつけている。

長次郎が、あめやの屋号をつかって、夕焼けのごとき赤でも、玉のごとき碧でも、自在に色を

つけられるからである。

明国からわたってきた父が、その調合法を知っていた。

しかし、父は、長次郎に製法を教えなかった。なんども失敗をくり返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。

なんども失敗を繰り返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。

長次郎の子も、窯場ではたらいているが、釉薬の調合法を教えるつもりはない。

・・一子相伝にあぐらをかいたら、人間甘えたになる。家はそこでおしまいや。

父祖伝来の秘伝に安住していては、人間は成長しない。代々の一人ひとりが、創業のきびしさを知るべきである・・。それが父の教えだった。

まだぬくもりの残る窯のなかから、弟子たちがつぎつぎと飾り瓦を運び出してくる。

いずれも高さ一尺ばかり。

できばえは文句なしにみごとである。

龍のつかむところに雲があり、虎のにらむところに魔物がいるようだ。

得意な獅子も焼いた。

造形もうまくいったが、赤い釉薬がことのほかいい。

冬ながら、空は晴れて明るい陽射しが満ちている。

その光を浴びて、獅子にかかった釉薬が銀色に反射した。

「いい色だ」

長次郎の背中で、太い声がひびいた。

ふり返ると、大柄な老人がのぞき込んでいた。

宗匠頭巾をかぶり、ゆったりした道服を着ている。真面目そうな顔の供をつれているところを見れば、怪しい者ではないらしい。

「なんや、あんた」

釜場には、まだ塀も柵もない。こんな見知らぬ人間が、かってに入ってくるようなら、すぐに塀で囲ったほうがいいと、長次郎はおもった。

「ああご挨拶があとになってしまいました。わたしは千宗易という茶の湯の数寄者。長次郎殿の飾り瓦を見ましてな。頼みがあってやってまいりました」

ていねいな物腰で、頭をさげている。

長次郎は、宗易の名を聞いたことがある。関白秀吉につかえる茶頭で、このあいだ内裏に上がって、利休という勅号を賜ったと評判の男だ。

「飾り瓦のことやったら、まずは、関白殿下がさきや。あんたも聚楽第に屋敷を建てるんやろうが、ほかにも大勢注文がある。順番を待ってもらわんとあかん」

権勢を笠に着てごり押しするような男なら追い返そうと思ったが、老人は腰が低い。

「いや、瓦のことではない。茶碗を焼いてもらおうと思ってたずねてきたのです」

長次郎はすぐに首をふった。

「いや、あなたに頼みたいと思ってやってきた。話を聞いてもらえませんか」

話は穏やかだが、宗易という老人は、粘りのつよい話し方をした。

・・人間そのものは粘っこいのや。

長次郎はそう感じながらも、宗易のたたずまいに惹かれた。

・・この爺さん、なんや得体が知れん。

ただそこに立っているだけなのに、釜場の空気がひき締まるような、不思議な重みがある。

・・よほどの数寄者にちがいない。

長次郎の直観が、そうささやいている。

「窯出しが終わったら、お話をうかがいましょ。それで、よろしいか」

「けっこうです。おや、あの虎は、とくにできがいい。天にむかって吠えている」

いま弟子が窯から出してきたばかりの虎は、ずらっとならんでいるなかでも、いちばんよいできである。

長次郎は、宗易の目利きのするどさに驚いた。

 

 

 この本は24の章で成り立っている。

・死を賜る 利休

・おごりをきわめ 秀吉

・知るも知らぬも 細川忠興

・大徳寺破却 古渓宋陳

・ひょうげもの也 古田織部

・木守 徳川家康

・狂言の袴 石田光成

・鳥籠の水入れ ヴァリニャーノ

・うたかた 利休

・ことしかぎりの 宗恩

・こうらいの関白 利休

・野菊 秀吉

・西ヲ東ト 山上宗二

・三毒の焔 古渓宋陳

・北野大茶会 利休

・ふすべ茶の湯 秀吉

・黄金の茶室 利休

・白い手 あめや長次郎

・待つ 千宗易

・名物狩り 織田信長

・もう一人の女 たえ

・紹鴎の招き 武野紹鴎

・恋 千与四郎

・夢のあとさき 宗恩

 

 たとえば

 ・野菊 秀吉

 利休切腹の前年

 天正十八年(1590)九月二十三日 朝

 京 聚楽第 四畳半

 

 「・・利休が膝をにじって、床の前にすすんだ。

 ・・さてあやつめ、どうするか

 秀吉が障子窓のすきまに顔をつけた。

 利休の背中にも、肩にも、手のうごきにも、逡巡はない。

 ・・なにも迷わぬのか。

 なんのためらいもなく両手をのばした利休は、左手を天目台にそえて、右手で野菊をすうっとひきだし、床の畳に置いた。

 天目茶碗を手に点前座にもどると、水指の前に茶碗と茶人、茶碗をならべ、一礼ののち、よどみなく点前に取りかかった。

 茶を点てている利休は、見栄も衒いも欲得もなく、ただ一服の茶を点てることに、心底ひたりきっているようである。

 といって、どこかに気張ったようすが見られるわけではない。あくまで自然体でいるのが、よけい小憎らしい。

 床畳に残された野菊の花は、遠浦帰帆の図を背にして、洞庭湖の岸辺でゆれているように見える。

 秀吉は、途端に機嫌が悪くなった。

 むかむかと腹が立つ。

 それでも、最後のしまつはどうするのかと、そのまま見ていた。

 三人の客が茶を飲み終え、官兵衛が鴨肩衝の拝見を所望した。

 客が茶人を見ているあいだに、利休は水指から天目茶碗まで洞庫にかたづけた。

 拝見の終わった鴨肩衝を、仕覆に入れ、利休は膝をにじって床前に進んだ。

 置いてあった野菊の花を取り、床の勝手のほうの隅に寄せかけた。

 鴨肩衝を床に置くと、利休はまた点前座にもどった。

 床の隅に置かれた野菊の花は、すこし涸れて見える。

 ・・負けた。

 秀吉は、利休を笑ってやろうとした自分のたくらみが、野菊の花と同じように涸れてしまったのを感じた。

 なんのことはない。むしろ、笑われているのは自分であった。・・」

 

 たとえば

 ・西ヲ東ト 山上宗二

 利休切腹の前年

 天正十八年(1590)四月十一日 朝

 箱根 湯本 平雲寺

 

 ・・山上宗二に秀吉が問う。

 「おまえが茶の湯者というなら、身ひとつでここにまいっても、なにか道具を持って来たであろうな」

 「むろんにございます」

 宗二は懐から、仕覆を取り出してひろげた。なかは、端の反った井戸茶碗である。すこし赤みがかかった黄土色が、侘びていながら艶やかな印象をかもしている。

 秀吉が、その茶碗を手に取って眺めた。黙って見つめている。

 やがて、薄いくちびるを開いた。

 「つまらぬ茶碗じゃな」

 

 乱暴に置いたので、茶碗が畳を転がった。

 「なにをなさいます」

 宗二はあわてて手をのばし、茶碗をつかんだ。

 「さような下卑た茶碗、わしは好かぬ。そうだ。割ってから金で接がせよう。おもしろい茶碗になるぞ」

 「くだらん」

 宗二が吐きすてるようにいった。

 「こらッ」

 利休は大声で宗二を叱った。

 「こともあろうに、関白殿下に向かって、なんというご無礼。さがれ、とっととさがれ」

 立ち上がった利休が、宗二の襟首をつかんだ。そのまま茶道口に引きずった。

 「待て」

 冷やかにひびいたのは、秀吉の声だ。

 「下がることは相成らん。庭に引きずり出せ。おい、こいつを庭に連れ出して、耳と鼻を削げ」

 秀吉の大声が響きわたると、たちまち武者たちがあらわれて、宗二を庭に引きずり降ろした。

 「お許しください。お許しください。どうか、お許しください」

 平伏したのは、利休であった。

 「お師匠さま。いかに天下人といえど、わが茶の好みを愚弄されて、謝る必要はありますまい。この宗二、そこまで人に阿らぬ。やるならやれ。みごとに散って見せよう」

 立ち上がると、すぐに取り押さえられた。秀吉の命令そのままに、耳を削がれ、鼻を削がれた。血にまみれた宗二は、呻きもせず、秀吉をにらみつけていた。痛みなど感じなかった。怒りと口惜しさがないまぜになって滾っている。

 「お許しください。憐れな命ひとつ、お慈悲にてお許しください」

 利休が、地に頭をすりつけて秀吉に懇願した。

 宗二は意地でも謝るつもりはない。秀吉としばらくにらみ合った。

 「首を刎ねよ」

 秀吉がつぶやくと、宗二の頭上で白刃がひるがえった。・・ 

 

 たとえば

 ・白い手 あめや長次郎

  利休切腹の六年前

 天正十三年(1585)十一月某日

 京 堀川一条

 

 京の堀川は、細い流れである。

 一条通に、ちいさな橋がかかっている。

 王朝のころ、文章博士の葬列が、この橋をわたったとき、雷鳴とともに博士が生き返った・・。

 そんな伝説から、橋は戻り橋とよばれている。冥界からこの世にもどってくる橋である。

 その橋の東に、あめや長次郎は瓦を焼く釜場をひらいた。

 「関白殿下が、新しく御殿を築かれる。ここで瓦を焼くがよい」

 京奉行の前田玄以に命じられて、土地をもらったのである。

 聚楽第と名付けられた御殿は、広大なうえ、とてつもなく豪華絢爛で、まわりには家来たちの屋敷が建ちならぶらしい。

 すでに大勢の瓦師が集められているが、長次郎が焼くのは、屋根に飾る魔よけの飾り瓦である。

 長次郎が鏝とヘラをにぎるとただの土くれが、たちまち命をもらった獅子となり、天に咆哮する。

 虎のからだに龍の腹をした鬼龍子が、背をそびやかして悪鬼邪神をにらみつける。

 「上様は玉の虎と、金の龍をご所望だ。お気に召せば、大枚のご褒美がいただけるぞ」

 僧形の前田玄以が請けあった。

 「かしこまった」

 すぐに準備にかかった。

 まずは、住む家を新しく建てさせ、弟子たちと移った。

 そこに大きな窯を築いて、よい土を集めた。

 池を掘り、足で土をこねる。

 乾かし、釉薬をかけて焼く。

 今日は、焼き上がった瓦の窯出しである。

 「こんなもんや。ええできやないか」

 弟子が窯から取りだしたばかりの赤い獅子のできばえに、長次郎は大いに満足した。

 獅子は、太い尻尾を高々とかかげ、鬣を逆立てて牙を剥き、大きな目で、前方をにらみつけている。

 長次郎が、あめやの屋号をつかって、夕焼けのごとき赤でも、玉のごとき碧でも、自在に色をつけられるからである。

明国からわたってきた父が、その調合法を知っていた。

 しかし、父は、長次郎に製法を教えなかった。なんども失敗をくり返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。

 なんども失敗を繰り返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。

 長次郎の子も、窯場ではたらいているが、釉薬の調合法を教えるつもりはない。

 ・・一子相伝にあぐらをかいたら、人間甘えたになる。家はそこでおしまいや。

 父祖伝来の秘伝に安住していては、人間は成長しない。代々の一人ひとりが、創業のきびしさを知るべきである・・。それが父の教えだった。

 まだぬくもりの残る窯のなかから、弟子たちがつぎつぎと飾り瓦を運び出してくる。

 いずれも高さ一尺ばかり。

 できばえは文句なしにみごとである。

 龍のつかむところに雲があり、虎のにらむところに魔物がいるようだ。

 得意な獅子も焼いた。

 造形もうまくいったが、赤い釉薬がことのほかいい。

 冬ながら、空は晴れて明るい陽射しが満ちている。

 その光を浴びて、獅子にかかった釉薬が銀色に反射した。

 「いい色だ」

 長次郎の背中で、太い声がひびいた。

 ふり返ると、大柄な老人がのぞき込んでいた。

 宗匠頭巾をかぶり、ゆったりした道服を着ている。真面目そうな顔の供をつれているところを見れば、怪しい者ではないらしい。

「なんや、あんた」

釜場には、まだ塀も柵もない。こんな見知らぬ人間が、かってに入ってくるようなら、すぐに塀で囲ったほうがいいと、長次郎はおもった。

 「ああご挨拶があとになってしまいました。わたしは千宗易という茶の湯の数寄者。長次郎殿の飾り瓦を見ましてな。頼みがあってやってまいりました」

 ていねいな物腰で、頭をさげている。

 長次郎は、宗易の名を聞いたことがある。関白秀吉につかえる茶頭で、このあいだ内裏に上がって、利休という勅号を賜ったと評判の男だ。

 「飾り瓦のことやったら、まずは、関白殿下がさきや。あんたも聚楽第に屋敷を建てるんやろうが、ほかにも大勢注文がある。順番を待ってもらわんとあかん」

 権勢を笠に着てごり押しするような男なら追い返そうと思ったが、老人は腰が低い。

 「いや、瓦のことではない。茶碗を焼いてもらおうと思ってたずねてきたのです」

 長次郎はすぐに首をふった。

 「いや、あなたに頼みたいと思ってやってきた。話を聞いてもらえませんか」

 話は穏やかだが、宗易という老人は、粘りのつよい話し方をした。

 ・・人間そのものは粘っこいのや。

 長次郎はそう感じながらも、宗易のたたずまいに惹かれた。

 ・・この爺さん、なんや得体が知れん。

 ただそこに立っているだけなのに、釜場の空気がひき締まるような、不思議な重みがある。

 ・・よほどの数寄者にちがいない。

 長次郎の直観が、そうささやいている。

 「窯出しが終わったら、お話をうかがいましょ。それで、よろしいか」

 「けっこうです。おや、あの虎は、とくにできがいい。天にむかって吠えている」

 いま弟子が窯から出してきたばかりの虎は、ずらっとならんでいるなかでも、いちばんよいできである。

 長次郎は、宗易の目利きのするどさに驚いた。

 
 

 2015/02/22 (日) ゆったり気分の日曜日

 たまには本格焙煎珈琲が飲みたくなる。
 ということで、昨日の午後一番に、片野海岸の喫茶・うみぼうず
へ車を走らせた。確かに珈琲は美味しいが、夕方に行けばよかった。落ちる夕陽がすばらしいのである。

 

 2015/02/21 (土) 応蓮寺

 一昨日に、元金津町助役・円道昭一さん宅へ遊びに行った際、
 
「ふるさと越前の歴史発掘(福井・新田塚郷土歴史研究会)」をいただいた。

 その本のなかに、円道さんの文章が載っている。以下紹介。
   「畑時能と応蓮寺」 あわら市伊井 円道昭一
 畑時能は、武蔵国の生まれ(一説に加賀福田村の生まれともいう)で、南北朝の時代には、新田義貞の四天王の一人として、義貞の弟、脇屋義助等と活躍した南朝勤王の勇将であった。
 新田義貞の戦没後は、三国の湊城を根拠地として足利方の斯波高経と戦う。最後の拠点とし戦火て鷹巣城(福井市高須町)を死守して南朝のために孤軍奮戦を続けたが、勢力挽回の望みを遂げ得ず鷹巣城を逃げ出し、平泉寺豊原寺の中間地点に当たる鷲ヶ岳(勝山市北郷町)に立てこもり戦うも興国二年(一三四一)十月二五日南朝方最後の武将として壮烈な戦死を遂げた。享年四一。畑時能は楠正成、新田義貞、脇屋義助等と共に南朝忠臣としての生涯を終えた。
 畑時能の一子、惟能(これよし)は父と京都に在りし頃、藤原藤房に仕え勤王の志を深くする。父亡きあと、遺子の惟能は、父の菩提を弔うため豊原華蔵寺にて出家し、玉泉坊道教と号した。
 戦乱が治まった後、鷹巣城址に赴き、父時能及び藤原藤房公の菩提を弔っていた。
 興国五年(一三四四)に、選ばれて伊仗村(伊井村)の神明宮別当職に就くことになったので同年冬、高須の庵を閉じて伊仗村に移住した。
 時が経ち正平十年(一三五五)に伊井村宇堂の森と云うところに一閣を建立し、高須山応蓮庵と号し、同時に畑家の墳墓とした。
 天正元年(一五七三)織田信長が朝倉攻めのため越前に侵攻した際、応蓮寺も神明宮も共に破却せられた。
 慶長元年(一五九六)に応蓮寺は宇堂の森より現在の字中舎に移った。
 寛文二年(一六六二)にいたって、東本願寺の末寺に加わり、高須山応蓮寺として申請し認可せられた。
 寛保四年(一七四三)には、将軍代参並びに藩侯の参内寺院となった。
 明和四年(一七六七)芝原村勘解由次官藤原朝臣渡辺藤兵衛は、畑時能菩提のため梵鐘を寄進した。

 安政元年(一八五四)に寺社奉行安藤長門守より海防のため寺院の梵鐘を幕府に召し上げるとの沙汰が出された。
 この時、当時の梵鐘は畑時能菩提供養のため寄進せられたものであるとの由来を具申して、取上げを免ぜられた。
 玉泉坊道教の開基、高須山応蓮寺は畑時能の菩提寺として今日に至っていると共に畑時能の守り本尊と鉄笛を戦火や福井震災など幾多の災害に遭いながらも応蓮寺歴代の住職は寺宝として大事に守り、後世に伝えてきた。

 畑時能に叙位
 大正天皇ご即位の大典に際して叙位のご沙汰が出され、大正四年(一九一五)大正天皇から畑時能の勤王をおぼしめされ正四位を贈られた。
 時能の忠魂を慰めるため、波多野宮内大臣より、山号大額を応蓮寺に寄贈された。号名は「高須山」であり、その額面中に「南朝忠臣畑時能菩提寺応蓮寺の為」と付記。本額は現に本堂正面に掲額してある。
 また、久我侯爵は畑時能神号副を、万里小路伯爵は忠魂堂額を、藤枝男爵は短冊を、荒木寛畝氏は袱紗画を寄贈されて、その忠魂を慰められた。
 応蓮寺が秘蔵する白布の巻物の中に」次のような漢詩がある。
 時能卿に御贈位のありければ
    ひさかたの雲いに
      なおもととめけり
    たかすの城の
       たかきいさをは
                 男爵・藤原雅之

 精忠涙痕印鉄笛
 吹奏一回驚妖魔
 世上多見澱吹人
 独有楠公真吹奏
  大正六年 仲冬 大司教沙門 雷有 拝印

 (せい)(ちゅう)(るい)(こん)鉄笛(てってき)(いん)
 (すい)(そう)(いち)(かい)妖魔(ようま)(おど)かす
 ()(じょう)(おお)くは(みだ)りに()(ひと)()るも
 (ひと)()楠公(なんこう)(しん)吹奏(すいそう)

 時能公が最後まで大事にしたと云われる楠公の鉄の笛。
 この笛が一度曲を奏でると、その音色はたちまち賊軍を震え上がらせたことだろう。
 それにしても世の中には、上手に笛を吹く人は沢山居るけれども、この笛こそ、楠公の誠忠を奏で伝えるただ一つの笛だ。
   嘉水 細川嘉徳妄訳

 留得忠臣口澤香
 一枝鉄篴鏤花蒼
 秋風試清河曲
 吹烈南朝懐古腸

文学博士 前田彗雲敬題 前田彗雲印
 ()()たり忠臣(ちゅうしん)口澤(こうたく)(かおり)
 一枝(いっし)鉄篴(てってき)(はな)(ちりば)めて(あお)
 秋風(しゅうふう)(こころ)みに(そう)奏川(みなとがわ)(きょく)
 吹烈(すいれつ)南朝(なんちょう)懐古(かいこ)(はらわた)

 口澤=長く用いた茶碗のふちなどの、口をふれたあとの汚れ。篴=笛。鉄篴=鉄の笛。懐古=昔のことを思い起こす。腸=はらわた。
 楠公が愛用したと云われる笛には、そのことで蒼錆となり、花のように美しい。
 因みにいま、この笛で湊川の曲を奏で、聞く者の心を断つことだろう。
 鏤花蒼の鏤(ちりばめる)当て字です。原詩の筆跡は、舗または鋪に見えるが、この字は漢詩の規則に違反することから、この字を使うことは考えられない。
 いずれにしても、ここでは笛を讃えていることには間違いないと思います。
   嘉水 細川嘉徳妄訳

 「楠公の鉄笛」
 鉄笛は長さ四八・五センチ。細径一・五センチであり、漆塗りの箱に入っている。
 表に「楠公之鉄笛 嘉暦三年九月日」と書かれている。
 鉄笛をよく見ると、すりへって判読しにくいが、応蓮寺の秘蔵する白布の巻物の中に男爵藤枝雅之が「笛には嘉暦三年にして・・・」と書いているので、鉄笛の作られた年であろう。
 その当時、鉄笛(鉄管)を作ることが出来たのかと思う人もいるが、この笛には一本の溶接したような筋があり、平板を丸く曲げて溶接したものと思われる。

 数年前、この鉄笛に唇をよせた時、700年の時間を超えて楠正成と接吻しているような気分になりました。


 2015/02/20 (金) 昨日の一日

 午前中はCADに邁進。
 午後一番で、あわら市議会事務局へ。三月議会に請願書を提出する団体から電話での誘いがあっての同行だった。副議長・Tさんと一時間ほどの意見交換だったが、終了のあとは久しぶりの四方山話となった。
 このブログを読んでいる議員が居るとはとても思えないけれども、万一居ましたら、所管委員会でのご検討よろしくお願いします。

 午後三時半。
 Sさん(年増女性)こういうチラシを持ってきた。Sさんに拠れば、印牧先生は90歳を超えているにも関わらず、金津の歴史を調べたい金津でしゃべりたいとの意欲を持っていなさるとのことで、姓に牧のつく人はこうなのかもしれない。


2015/02/19 (木) 鳩ケ湯

 「大野市の温泉旅館・鳩ケ湯が雪で倒壊し今春の再開を断念を今朝の新聞で読んで、30年以上前を思い出した。

 当時連日のように会っていた友人が結婚するということで、彼の新妻を含めた五人でのお祝い一泊の舞台となったのがこの鄙びた温泉旅館だった。
 ①名前の由来がいい
 猟師に撃たれ羽の傷ついた鳩が、ここの沸き湯に毎日浸かって傷を癒し、飛び去っていったのでこの名がついたのだとのこと。
 ②当時としては大変珍しい木造三階建てだった。
 ③夜、闇のなかから聞こえてくるのは、谷川のせせらぎだけだった。
 ④栃の木の原生林が近くにあって、ぼくたちは栃の実を拾い集めた。

 等々が鳩ケ湯温泉の印象だったが、げに、温泉は鄙びたところに限る。テレビも見ずインターネットも検索せず新聞も読まず、一汁一菜をありがたくいただき、露天風呂(できたら混浴)に入って、静寂の世界に身を委ねることこそが贅沢というものだろう。

2015/02/18 (水) 早春賦

 春は間近だ。
 三月に入ったら、「愛車ケトラ」の荷台に幌をつけよう。幌の色は濃紺だ。
 畳を敷き、ノートパソコンを載せ、簡易ガスコンロを積んで、旅に出よう。旅のいでたちは作務衣だ。
 今の世の中どこにでもコンビニがあるのだから、食事の面では心配ない。トイレについては、「道の駅」を使用できる。

 たまには遠方の友人宅で、一宿一飯の施しを受けるのも悪くはない。広島の友には牡蠣をごちそうになろう。阪神間の友には神戸ステーキをごちそうになろう。沖永良部の友にはソーキそばをごちそうになろう。名古屋の友にはキシメンをごちそうになろう。三重の友には赤福をごちそうになろう。夜通し飲みあかし、来し方を振り返りたい。

 先ずは、ニソの杜を起点としたい。


2015/02/17 (火) ちょっと思ったこと
 
 昨日の朝は、元金津中学校校長の西川先生宅に居た。
 とんぼさんの最新著作を持って行ったのだが、西川邸訪問は数カ月ぶり。話題が、来たるあわら市長選についてに転じた。

 「どちらが市長になるにせよ、公開討論会は絶対必要だと思うんです。JCが討論会を企画したところ、一方が拒否したとのことで、これについては大変残念です。街宣でがなるだけが選挙でないことは当然で、あわら市有権者の判断材料のひとつをみすみす捨ててしまうことになる」と、僕は申し上げた。

 それはともかく
 西川先生が金中校長で僕がPTA会長であった時から20年近くの歳月が流れている。
 あの頃の僕はとても溌剌としていて、酒も煙草もOKだった(注 今でもOKだが)。
 僕に思いを寄せる若いお母さんがたも、多かったのではないだろうか。
 こう思う僕は自意識過剰なのか・・どうかよくわからない


 2015/02/16 (月) CADの前に
 
 昨日の日曜日、僕は、高橋克彦著「北斎殺人事件」を読みふけっていた。
 画狂人・葛飾北斎については、緒形拳主演の映画「北斎漫画」をDVDで観たことと、長野県小布施町にある北斎館見学を通してしかイメージがなかった。

 まだ読み切っていないので結末がどうかは知らないが、浮世絵研究家・津田良平は女画廊主・執印摩衣子に依頼されて北斎の足跡を訪ね歩き、「北斎は隠密だった」との大胆な仮説を立てるのである。

 プロローグからしてわくわくさせる文章だ。
 「壁に巨大な絹本が飾られている。
 画面は縦百六十センチ、横百三十センチ。絹本としてはあまり類を見ない大きさだ。題名は描かれていないが一目で宗教に主題を求めた作品とわかる。
 上半分を占める空には荒々しく青白い炎を放つ竜が飛行し、その背の上には薄い衣を纏った五人の仏たちが立ち並び柔和な目で地上を見下ろしている。仏たちのまわりは漆黒の闇だ。白く流れる雲が足許にからみつき、それぞれの下半身を覆い隠している。闇の中にひとつポツンと光のように輝くものがある。痩せた仏が手にする野生の花の黄だ。よく見ると、それは金色に燃える両眼と細い三角形を成していて、暗い画面に緊張を与えている。偶然に描かれたものではない。
 目を画面下半分に転ずると、極彩色の地獄絵図が展開されている。腹を膨らませた屍が累々と白っぽい砂地に打ち捨てられ、黒光りした鳥が群がっている。体内に充満したガスが薄い皮を破り、赤い臓物がはみでている屍もいくつか数えられる。あるいは鳥によって食い散らかされたあとなのかもしれない。いや、どうやら違っていたらしい。鳥はむしろ後始末の役割を担っているだけで、それらを食べていたのは、おなじ人間なのだ。
 左側に目だけをギラギラさせて佇む五、六人の痩せ細った裸の男女の口許にはドス暗い血がこびりつき、中には切りとった細い腕を大事に抱えている老女もいた。餓鬼たちだ。彼らの腹も異様に膨らんでいる。・・・」

 20年ほど前、女性筑前琵琶奏者を、公演の為に金津町へ招いたことがあるが、彼女は僕に、「私のボーイフレンドは小説家の高橋克彦よ」と語っていた。
 その時高橋は、朝日新聞に小説を連載していたと思う。
 それはともかく
 牧田事務所応接コーナーのテーブル天台を広々としたものに代えました。
 
 一昨晩の8人(うたげ)でその必要性を感じたからです。
 これで女性たちも喜んでくださるでしょう。

 2015/02/15 (日) 宴のあと
 
 八人の男女(男五人 美女三人)が集まっての宴は賑やかだった。
 
 いつもだったら途中で眠ってしまう私なのだが、昨晩の私は、珍しく最後まで起きて(12時くらいだったかな?)、Sさんと「世界平和」について語り合っていた。午前7時現在、ソファではひとりの男性・Yさんがまだ眠っている。

 彼は7時半に起床。
 彼(あわら市議)からは、今、国会で問題になっている全中問題を、約1時間論じてもらった。

 午前11時に昨晩の来訪者のひとり・Tさんから、携帯コールが入った。「昨晩はありがとうございました。僕ひとりしゃべってばかりいたけど、とても楽しかったです」と、言う。

  まずは昨晩集まってくださった方々へのお知らせです。
 

 2015/02/14 (土) もう週末か
 
 昨日の午後、分厚い「福井県の歴史(印牧邦雄編)」を携えて入ってきたY氏が、「この本のなかの<市場町.宿場町として栄えた金津>を読むといい」と、言う。著者は清原雄二氏。

 例えば
 「・・・近世になると、金津では商業活動がますます活発で、毎年七月中三日・十二日は北金津坂下町、六日は南金津六日町、八日は北金津八日町、十日は北金津十日町が市を立て、近郷の者が物資を交換しすこぶる盛況で、このほかに新町にも商家が並び商業活動が盛んであった。市の発達とともに市姫神社が崇敬されるようになり、商売繁盛の神として仰がれた。天明の頃の金津の規模は、一一町から成り、実数六一五軒、人口二一四四人、そのうち北金津が四〇二軒・一三二四人、南金津が一二八軒・五一〇人、新町八五軒・三一〇人で北金津が宿の約三分の二の戸口をを占めていた。明治初年には、北金津四七八戸、南金津二三六戸となり、橋南の増勢が注目される。・・・」と、書かれている。

 2015/02/13 (金) 和蕎麦堪能
 
 昨日の昼、福井市島山梨子町にある蕎麦店へ四人で行った。
 
 この庵は筑後百数十年の古建築で、大黒柱の7寸角は黒光りしている。
 我々はおろし蕎麦を注文し、なおかつ運転者ではない僕ととんぼさんは、大吟醸を注文した。僕はコップ三杯飲んだが、口当たりがとてもよい。とんぼさんの歴史講義もしっかりと頭に入った。
 「寒い日は蕎麦も酒もヒヤに限る」のだ。

 白玉の 歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり  若山牧水
 それはともかく
 宮本輝著「睡蓮の長いまどろみ」は上下で559頁と長く、残り150頁となったが、読み慣れているはずのこの人の小説に違和を感じる。数奇な運命の星の下に生まれた主人公・世良順哉の心の揺れを描いているのだが、そこに統合性がみえない。それは、読み手の僕の認識力が破壊され始めたためかとひとまずは思うのだが、勿論認めたくない。人間は誰でも自分が正常だと思い続けるはずだから。だとしたら、著者の描写に妄想が始まったのかと思うほうが楽だ。

2015/02/12 (木) きょうは久しぶりの遠出
 
 休日の昨日の朝は山里に住む知人の家へ行った。和室に入ると、窓越しに見える白山山麓が眩しいほどに白い。和装の奥さんがお盆に湯呑茶碗を載せて入ってきた。正座し、「粗茶をどうぞ」と言う。
 緊張した私は黙礼するだけだったが、心の中で、「昔はさぞ美しかったんだろうなあ。旦那がうらやましい」とつぶやいていた。

 その旦那が、襖戸を開けて入ってきた。途端に「お客様に対して失礼じゃありませんか。早く襖戸を閉めなさい。今朝は寒いのですよ」と奥さんが言う。ニコニコ顔で妻に従う旦那を見て「仲良きことは美しきかな」と、私は思った。


 2015/02/11 (水) 建国記念日
 
 本日は建国記念日である。
 昨日、お袋(88歳)が、「昔はこの日をなんて呼んだかなあ?」と、僕に聞くので、「俺よりも認知障害が進んでいるんやなあ」と、感慨を新たにした。

 神武天皇が即位されたとされる2月11日を、明治政府が「紀元節」と定めたのだが、典型的な戦後世代・団塊の世代・全共闘世代の自分らでも、これは知っている。

 思い出すのが16年ほど前。
 事務所で僕がKクンと一緒に金津町議会議員選挙に立候補するための準備をしていたところへ、やや恐ろしげな形相の中年男性ふたりが入ってきた。明らかに「カネクレ」のゴロ新聞系だ。
 「我々は万世一系の天皇家を心酔しこよなく敬う者である。しかるに最近の若者は、天皇家の系譜さえ知らん。これでは、国が亡びるのではないかと危惧する者である云々」と言う。

 僕は、「ちょうどよかった。戦後世代の私は左系の何人かは知っているが、右翼の方の話を聞くのは初めてや。貴方たちの言う天皇制は現代の象徴天皇制を指すのか、明治憲法の大権天皇制を指すのか。そもそも天皇制とは何なのか。私のお袋でも、歴代天皇の名前を暗記しているのだから、そのあたりから解説してほしい」と、請うた。

 「申し訳ないが、五代までしか知らない。今度出直してくる」と言うので、ぼくはちょっとだけアタマにきた。

 「貴方がたは天皇制の情宣のために来たんでしょう。当然、この場で答えるのが、情宣者の最低限の資格であってしかるべきや。出直してくるなんで、資格失格や」と言葉を荒げた。

 彼らは黙って帰ってしまったが、それからしばらくして、僕は、「古事記(筑摩書房)」を読んだ。跋扈する神々が実に人間的で面白い。
 義務教育でこれを教科書に入れて必読の書とすべきではないか、と思った。

 2015/02/10(火) 雪降れば
 
 寒波襲来で、隣家の樹木はこのように雪化粧。
 
 
 雪降れば 木梅に花ぞ 咲きにける いづれを梅と わきて折らまし  紀友則
 なのである。
 昨晩は寒さのせいで3時間ほどしか眠れなかったし、それも熟睡と言うにはほど遠く夢うつつの状態で幻聴も経験したが、ふり返ってみれば、貴重な時間帯だったといえる。
 師・芭蕉に全てを捧げた男 内藤丈草

 うずくまる 薬の下の 寒さかな

 一月は 我に米かせ 鉢たたき

 しら浜や 犬吠えかかる けふの月

 うかうかと 来ては花見の 留守居かな

 霜原や 窓の付けたる 壁のきれ

 木がらしの 身は猶かろし 夢のなか

 水風呂に 筧しかけて 谷の柴

 寂しさの 底ぬけてふる しぐれかな


 2015/02/09 (月) ちょっと思ったこと
 
 二年前まで15年間ほど議員をやっていたことで得たものと失ったものがそれぞれあって、基本的に差引ゼロだとは思うが、そのなかで得たものとしては、視察研修で全国津々浦々を訪れそれぞれの御国事情に触れることのできたことが挙げられる。そして、御国事情の共通点として、「としより問題」が大きかったのを思い出す。

 ここ数日、「としよりのこれからの生き方について、誰それを紹介してほしい」との相談を受け、これは、「としよりプラス半障害者プラスまだらボケ人間」である自分自身の問題でもあると思うのだ。
 「やっと出番がきた、金もうけもしなければならぬ、頑張らなければ・・」と、思っている次第です。

 三日ほど前のNHKテレビが赤瀬川源平を特集していた。「老人力」「路上観察学」のあの赤瀬川だ。赤瀬川は路上にある不要なもの、ゴミのようなものつまり世の益にならないものに対してゲージュツを見出した男で、敷衍すれば老人の容貌もゲージュツなのだと、僕は思う。
 それはともかく
 和歌山県での小五少年殺害容疑者を大々的に報じている各メデイアが、家族のことを報じていない。父親が空海の有名な研究者で大学教授であること等を一切報じていない。勿論、成人男性の犯罪は自己責任であって、家族云々は関係ないのだが、普段は、視聴者の耳目を引き付けるため視聴率アップのために家族云々を恥も外聞も捨てて出し続けるメデイアが、家族が教職乃至は有名人というだけで沈黙するところにも、この国のねじれがあると、僕は思う。


 2015/02/08 (日) 昨日の一日 
 
 午前中は建築現場にて住宅改修工事の打ち合わせ。
 午後は中央公民館で開かれた「北陸新幹線フォーラム・パネルデイスカッション」を聴きに行った。その後、会場で偶然出くわしたTさんの会社へ。彼のNPO法人「年寄りの憩い」設立への思いをずうっと聴いていた。
 日が暮れてから、坂ノ下区・八幡会新年会のため、芦原温泉某旅館へ。集合人数は30名で、コンパニオンガールズも来た。飲んで食べてしゃべってで大変疲れたが、年に一度くらいだったらこれもいい。

 2015/02/07 (土) 午前中から千客万来
 
 確定申告の季節となったので、昨日は終日書類整理。午後六時に布団にもぐりこみ、数日前に読んだ「滅びゆく国家」(2006年発行)を反芻していた。

 超知識人・立花隆のこの本は
 第一章 ライブドアショック
 第二章 天皇論
 第三章 靖国論・憲法論
 第四章 小泉改革の真実
 第五章 ポスト小泉の未来
 第六章 イラク問題
 第七章 メデイア論  の七章で成り立っている。
 
 リアルタイムレポート集のこの本を読んでいると「当時はあんなことがあった。10年ひとむかしやなあ」と、我が劣化脳は感じたのだが、勿論、個々の問題は様相を変えながらも続いていて、「立花先生は予言者なのではないか」と、私は思った。


 2015/02/06 (金) 花鳥風月という不易の世界
 
 数日前の、山裾に独居している熟年男性からの電話で、「俺は新聞をとっていない。テレビは見ない。パソコンもしない。でも時折訪ねてくる友人たちとお茶を飲んでいりゃそれで充分や」と、言われた。その物言いがずうっと鼓膜に残っている。

 確かに、昨今の私も、世の中に生起する諸々がバーチャルに思えて仕方ないので、情報メデイアを遮断するのが今からの有り得べき生活態度ではないかと思っている。しかし思ってはいても、少しは新聞も読むし少しはテレビも見るし少しはパソコンも使っている。娑婆っ気が抜け切れないのだ。

 抜けるためにどうしたらよいのか。
 昨日、童門冬二著「小説・内藤丈草」を読み終えた。内藤は芭蕉をこよなく尊敬し、自らは武士の身分を捨て禅僧となり、長じて芭蕉の身の回りを世話した男で「句禅一致」を目指した。寡黙な内藤のしかし心のうちにある煮えたぎる発句への情熱に僕はうたれた。
 
 そうだ、句の世界に身を投じよう。
  月に一度、女性(おなご)を交えた句会を開こう。

生を受けて65年、俳句などつくったことのない私だが、趣味なのだから力量はどうでもいい。結句の「それにつけても 金の欲しさよ」だけは決まっている。

 例えば
 
 此道や 行人なしに 秋の暮 
芭蕉
 
これに上述の結句を加えれば
 此道や 行人なしに 秋の暮 それにつけても 金の欲しさよ (ぎゅう)   となる。
 

 2015/02/05 (木) 頭がボアーっとしている
 
 三日前のネット検索で、後藤さんの惨殺遺体を目にして、ひどい吐き気に襲われた。ああいう映像が公開されるインターネット社会をどう理解したらいいのかわからない。インターネット接続は、当分の間、この日記の書き込みとCAD資料検索にとどめよう。

 そう思いながら昨晩は午後六時に寝入ったのだが、八時過ぎに電話で起こされた。
 話を終えて再び布団に入ったが、なかなか寝付かれない。仕方なくテレビのスイッチをつけたら、番組は「夏目雅子特集」を放映している。
 夏目は1985年に27歳で夭折したが、この美人女優を妻にしていた伊集院静はなかなかのシアワセモノだったと思う。

 夏目がカネボウのキャンペーンガールとして人気急上昇だった年の真夏のある日、一枚の葉書が届いた。葉書には「夏してますか」と書いてあった。僕は「暑いのでしてません」と書いた返事を出した。
 後日、彼女は「バカねえ・・。そういう意味じゃないのよ」との電話をかけてきた。

 2015/02/04 (水) 金津の夜明け 
  
 北陸新幹線金沢駅延伸開業が目前ですが、それはともかく
 長谷川さんが最近書き上げた下の文章が実に面白いです。(注「とんぼ作品リスト」

 日本が明治期に入り、殖産興業の基盤として政府が先ず手がけたのが、全国を網羅する鉄道の敷設でした。国鉄金津駅が開業したのは明治30年です。
 しかし、金津駅開業に至るまでには、もう一つの候補地・三国との間で猛烈な闘争があったのです。そりゃあ、江戸期において日本海航路を航行する北前船の寄港地として他の追随を許さないほど繁栄したのが三国であり、水運から鉄道への切替が国策だとしても、鉄路は当然三国経由としてもらわなければ困ると、国に訴えたのが三国の豪商達でした。
 当時日本政府は西南戦争で出費が嵩んでいたこと、特に軍部は、せまりくる日露戦争に対する脅威の観点から「福井ー大聖寺間はまっすぐの路線で金津経由としなければならぬ。三国経由は不可」としていたのですが、三国の豪商達は、時の日本経済の重鎮・渋沢栄一に国会での応援演説を依頼、これに猛反発したのが時の金津町長・坂野某で「金津駅設置期成同盟会」をたちあげ、反三国キャンペーンを展開しました。
「鉄道は国益の理念に基づいてグラウンドデザインされなければならぬ。それを、三国という単なるひとつの地方自治体が私益だけのために何をほざいているか・・エトセトラ」が、キャンペーンの内容でした。

 これらの史実を長谷川さんが丹念に調べ詳しく書いたのが下の文章です。あわら市民必読の書だと思います。

 金津の夜明け・・・北陸線開通。金津駅開業の道のり(長谷川 勲)

目次

序    仲仕組合創立総会之碑            (1

     北陸線開業までの歴史            (3

(一) 東北鉄道会社創立願             (4

(二) 東北鉄道会社発起人除名につき上申      (10

(三) 北陸鉄道会社創立願書            (13

(四) 北陸鉄道会社解散              (21

(五) 北陸線敷設事業が国家事業となる       (23

(六) 北陸線敷設に関する鉄道会議         (25

(七) 北陸線三国迂回論              (34

(八) 坂野書簡と杉田書簡             (35

(九) 北陸線金津経由に決定する           (45

(十) 北陸線開業による物流の変革          (46

最終章  金津仲仕組結成               (47

序  仲仕組合創立総会之碑
 

金津新富係、蛇行している竹田川沿いの市道を隔てた一画に高さ二・五メートル(本体一・八、土台〇・七)、横幅〇.八メートル、奥行き〇・三メートルの石碑がひっそりと立っている。木立に囲まれているため道側から見えず、ほとんどの人はこの石碑に気づかない。実際、歴史遺産というべきこの石碑は関心をもたれず、転々と移動した。最初の場所は金津駅近く、竹田川の船着き場を臨む場所にあった。いつ頃か不明だが辺り一帯の区画整理に伴い、坂の下(現花之杜)願泉寺の境内で保管され、その後、現在地に移ったと土地の人に教えられた。

石碑は碑首(ひしゅ)頭部)、()(しん)(中央部)、碑座(ひざ)(土台)からなり、碑首には碑額(石碑名称)「仲仕組創立総会之碑」と(てん)書体(しょたい)(古代文字)で刻まれている。碑身には碑文が刻まれているが、風化欠落しており全文は読めない。冒頭はかろうじて読める。

 

「明治三〇年秋九月鐡路竣工汽車始通爾来気運一・・・」

・・・明治三〇年(一八九七年)九月鉄道が竣工し汽車が通り始めた。これから、気運が一変するだろう(物流に一大変革がおこるだろうとの意)・・・

それからが判読が困難。所々に千里離、寂惨之地、忽、住、多客、商 の文字が読める。

・・・都から千里離れた寂れた僻地(へきち)鉄道開通により、(たちまち)人が集まり住み、多くの客が訪れ商いは盛んになる・・・そのようにも読める。未来を予測しているのだろうか。

 

興業所以報国家倫●●●●集荷 の文字がある。

・・・産業を興すこと(殖産興業)によって国恩に報いる、集荷は殖産興業を援ける(みち)という意味であろうか。漢詩もあるのだが風化して読めない。

末尾の一行は読める。

明治三十四年七月夏   鶉村  小史

 

碑文は明治三十四年(一九〇一年)七月に書かれた、北陸線金津駅開通から四年後である。鶉村とは誰か。杉田定一は鶉山の号を持つが、鶉村を使用したことはない。小史とは作家などが筆名、号の下につける語であるが、略史という意味もある。鶉村は碑文作者の号ともとれるが、この場合は

・・・明治三十四年夏、鶉村(当時坂井郡鶉村。現福井市川西町)にて 略史を記す・・・と読むこともできる。とすれば碑文の作者は杉田定一の可能性が高い。彼は北陸線金津駅経由を強く主張していた。(八で記述)

 

この石碑は仲仕組創立総会を記念して建立された。仲仕とは港湾、河川港にて荷物の陸揚げ、船積み作業に従事する人たちのことである。鉄道が登場するまで、荷物の大量輸送は海運、水運によっておこなわれた。福井県嶺北地方の産物は主に竹田川、九頭竜川を経由して三国港に集められ北前船で全国各地に出荷された。また各地の産物も北前船で三国港に集まり、竹田川、九頭竜川を経由して福井、丸岡、金津に運び込まれた。

 

金津仲仕は金津~三国港間の川舟の運行業務(船頭)も兼務していたらしい。河川運送は扱い量が少ないため船頭、仲仕の分業ができなかったのであろう。仲仕としての仕事だけでは生活ができず、他の仕事(土木作業員等)も請け負っていた。

彼等に転機が訪れたのは北陸鉄道、福井~小松間が開通した明治三十年以降である。北陸線金津駅開業は此地に交通・物流の変革をもたらし、海運・水運の荷受人であった仲仕が仕事を失い、転職して鉄道の荷受人となり、さらに陸運会社設立に係わる。それを示したのが「仲仕組創立」であった。石碑は仲仕を通して物流の変革を現代に伝えている。

 

「仲仕組創立之碑」の歴史的価値はそこにあるのだが、その前段として北陸線開業までの歴史を記述したい。あわら市民として興味深いのは坂井郡ルートに三国迂回論と金津経由論があり、当時の鉄道会議で鉄道官僚、軍部、経済界を巻き込んだ論争があったことである。

 

当初坂井郡ルートは東北鉄道会社(明治十四年申請。解散)、私設北陸鉄道会社(明治二十一年申請。解散)に於いて坂井港(三国)経由であった。県内において坂井港は福井に次ぐ鉄道拠点と目されてきた。だが民営鉄道会社が挫折し、官営鉄道となったとき(明治二十五年)鉄道会議で金津経由に変更された。

その後の三国の巻き返し、金津の反論などを示す興味深い文書も残されている。紹介したい。

 

鉄道開業を求める北陸の人々が私設鉄道会社設立に挑戦した熱意、度重なる挫折、さらに官設北陸線敷設に至った当時の国内事情、国際事情をぜひ多くの人に知っていただきたい。

北陸線開業までの歴史

明治五年九月十二日(一八七二年十月十四日)、東京新橋~横浜間の開業で鉄道の有用性が認識され、鉄道敷設の動きが加速した。

明治七年、大阪~神戸間開業。明治十年(一八七七年)、京都~大阪間開業。ここまでは順調だった。

 

鉄道事業は富国強兵、殖産興業策の要として国策事業として出発したが、しかし明治十年(一八七七年)の西南戦争(二月十五日~九月二十四日)で巨額の戦費を要したため国家財政は悪化、激しいインフレーションが進行し鉄道事業は頓挫した。

政府は打開策として民間資金を鉄道事業に導入する方針を打ち出した。その資金を担ったのは旧大名、および在野の資産家であった。それ以降、明治二十五年(一八九二年)六月二十一日に公布された「鉄道敷設法」まで鉄道敷設は民間に委ねられてきた。

明治十三年(一八八〇年)に札幌~手宮(てみや)(小樽市)間が開業。手宮は寒村であったが小樽港に面しており石炭の積み出し港であった。十六年(一八八三年)七月、上野~熊谷間開業。蚕産地の群馬県(富岡製糸工場)と東京、横浜を結ぶためであった。さらに延長して二十四年(一八九一年)九月青森駅が開業した。東北本線である。二十二年(一八八九年)七月、東海道本線(新橋~神戸間)が、三十四(一九〇一年)年五月には山陽本線(神戸~下関間)が開業した。九州でも鉄道会社が創立され、明治二十二年九月に博多~久留米間が開業、順次路線を延長していった。日本は鉄道の時代に入り殖産興業政策を支える大動脈としての地位を確立していったのである。

北陸でも鉄道敷設を求める声があがった。

北陸での鉄道敷設運動は「東北鉄道会社創立願」から出発した。

 

(一) 「東北鉄道会社創立願」 (全文)

伏して(おもいみ)るに維新以降百度改進し(飛躍的進歩を果たし)(しかし)して(その)主とする所(もっぱ)ら運輸の利を興し殖産の道を開くに在り 故に海は即ち港湾を修し(整備)燈台を築き(もっ)(ふね)(かじ)に便し 陸は即ち(けん)(しゅん)(険しく高い)を(さく)し(貫通)橋梁(きょうりょう)()けし以て車馬に益す これを以て万里比隣(ばんりひりん)(遠くを近くにする)を為し西陬(せいすう)北蝦(ほっか)(西北の果て)の遠きと(いえど)(なお)旬日(しゅんじつ)(十日)を出すして至り (したが)いて産業(ほう)(せい)(盛んとなり)し各地(かくち)人民(じんみん)(みな)(その)恩波(おんぱ)(恩恵)に浴する事を得る

(しか)るに北陸の一道(北陸道)帝京(東京)を()ること(距離)(わず)かに百有余里(四百キロ余り)而して北海に(ひん)し(面し)(しゅん)(れい)(切り立った嶺)が重畳(ちょうじょう)(幾重にも連なる)として急湍数波(きゅうたんすうは)(幾つもの激流)其間より横流(おうりゅう)し(あふれ流れる)()()艱難(かんなん)(山道は険しく極めて困難)にして(こう)(りょう)跋渉(ばつしょう)(山を越え海を渡る旅)に苦しみ(てい)()(道のり)常二(つねにに)(じゅん)有余(ゆうよ)()(常に二倍以上の日)を経過し()つ貨物運搬の如き(じん)(けん)()()(人馬に頼る)を仮に旬余日を費やす非ずんば達せる事(あた)はず (いわん)(りゅう)(とう)(真冬)の際積雪往々(たびたび)行人(こうじん)(旅人)の跡を絶つに至る(拒絶する) 而して海路は又危険非常にして秋冬以降、怒浪驚濤(どろうきょうとう)(荒れ狂う波濤(はとう))船舶を覆没(ふくぼつ)(転覆沈没)する事少なからず 是を以て天産(てんさん)人工(じんこう)(生産物)の富(ありと)(いえど)も海陸共に不便にして輸出入機に後れ時を失いし(時期を逸し)得常に失うを(つぐな)はず(常に損失が発生する)

且つ各地運輸の便益開くるに(したが)い(各地で運輸が便利になるに従い)該地(がいち)の物価益平均を失い(当地では不利益を(こうむ)り)国土日に(すい)(たい)に赴き(衰退を招き)所謂(いわゆる)起業殖産の如きは(もと)より論なし(無理である) 其嚮(そのさき)来所就の工芸(地場産業)稼穡(かしよく)(農業)の事と雖も(また)()さに(ようや)く(だんだんと)廃壊(はいかい)(荒廃)せんとす 此の如くにして(なお)救済せんとするは其(ついえ)たる(損なわれる)(あに)(決して)(ただ)衰替のみにとまらんや(このようになお救済しょうとするのは、損なわれるのが決して当地の産業衰退にのみに止まらないからです)

利嗣(としつぐ)(前田利嗣・発起人)等 此土(此地)の士民に旧故(きゅうこ)(旧縁)あるを以て情誼(じょうぎ)の関する所黙視傍観するに忍びず(私共旧藩主として領民に対して特別な思いがあり、困窮を見るに忍びず) 相共に共同を以て之を救済せんと欲す (せつ)(切)に思ふ該地の情たる先ず鉄道を架設して輸送の便を開くに非ずんば他に救済すべき(すべ)なし(鉄道を敷設し、輸送の便を開く以外に此の地の人民を救済する術はない) 運輸の便既に開けば即ち殖産の道随いて興り(おおよ)そ百工商(農工商)業逐次(ちくじ)振起(しんき)し(振い興る)而して衰替(ようや)く挽回し士民の恩波に浴するもの亦(まさ)に各地に劣らんとす (しか)らば即ち国家進歩の道に於ける又(あに)必ず少補(しょうほ)なしと云わんや(さすれば国家繁栄のために少なからず貢献できます)()って利嗣等奮然(ふんぜん)(ふる)いたち)此業(鉄道架設)の発起者となり更に東北鉄道会社を興し各率先公衆に(はか)り(民の先頭にたって諮り)鉄道を此道(北陸道)に延布(えんふ)(展開)し(いた)(どり)()(けん)(今庄町虎杖峠)を抜き以て江州(ごうしゅう)柳ヶ瀬(やながせ)(滋賀県柳ヶ瀬)の線路に接し而して(それから)又同国長浜の鉄路を接延し勢州(せいしゅう)(伊勢国)四日市港に及ぼさん(接続する)事を期す(目指す)

然るに其業たる規模宏大、経費鉅万(巨万)、線路亦数十里に綿(めん)(こう)し(長く連なり)公私無数の土地等を貫穿(かんせん)し(貫き通す)且つ其事業により()()(おびただしい)の困難を生ずるなきを(あた)はず 即ち政府特恩の庇護を蒙るに非れば此に従事し偉功(いこう)(偉業)を()ぐる事能はず事を恐れる(政府の特別支援を得られなければ鉄道敷設の偉業を達成する事が不可能になりかねない、それを恐れます)。

故に今其の允許(いんきょ)(許可)あらん事を請願する条款(じょうかん)(条項)及び会社より政府に対し遵奉(じゅんぽう)(法令に従う)すべき件々は之を別牒(べつちょう)(別記)に叙列(じょれつ)し(並べ記す)且つ会社創立規則稿及び発起株高禄各一冊を附し併せて上申す

尚実際の着手により具陳(ぐちん)(事細かに述べる)する所あらんとす

伏して(こいねがわ)くは政府 利嗣等の(あい)(じょう)(憐憫の情)を察し該地の(すい)(たい)(あわれ)み特に非常の恩典を垂れ以て允栽(いんさい)(決済)あらん事を 其会社定款(ていかん)及び申合規則等の如きは(まさ)に允許の日を待ちて漸次(ぜんじ)(順を追って)(てい)(しん)(進呈)する所あらんとす 利嗣等懇願の至りに堪えず

明治十四年八月。

華族 前田利嗣  (加賀前田家十五代当主)

華族 大谷(こう)(えい)  (東本願寺 二十二代法主)

華族 松平(もち)(あき)  (越前松平家十七代当主)

華族 大谷(こう)(そん)  (西本願寺二十一代法主)

華族 前田(なり)(やす)  (加賀前田家十三代当主)

華族 松平(よし)(なが)  (越前松平家十六代当主)

華族 前田(とし)(あつ)  (越中前田家十三代当主)

華族 前田利鬯(としか)  (大聖寺前田家十四代当主)

華族 土井(とし)(つね)  (大野土井家八代当主)

華族 前田(とし)(たけ)  (加賀家分家)

華族 本多副元(ふくもと)  (府中本多家九代当主)

華族 小笠原長育(ながなり) (勝山小笠原家十代当主)

華族 有馬(みち)(ずみ)  (丸岡有馬家八代当主)

華族 間部(まなべ)(あき)(みち)  (鯖江間部家九代当主)

東京府知事 松田道之 殿

右出願に付奥印(おくいん)仕候(つかまつりそうろう)

 明治十四年八月八日        東京本郷区長 加藤治幹

              註)奥印・・公文書等の記載事項の確認証明印

(資料 福井県史「資料編」内「工部省記録」鉄道之部第二十三巻)

 

(解説 東北鉄道会社創立願は各地で鉄道敷設の動きが活発化するなか、北陸三県が共同して東海道線と接続し、関東関西と接続する鉄道敷設を計画するものであった。鉄道敷設成否が北陸の命運を決するとの緊迫した思いが文面から窺える。発起人には越前、加賀、越中の旧大名に東西本願寺の両法主が加わり鉄道敷設の先頭にたった)

 

東北鉄道会社創立規則 (一部割愛)

大日本政府の允栽を得て鉄道会社を創立せん為発起人一同協議決定する条款左の如し

第一章  大綱

第一条     本社は東北鉄道会社と称すべし

第二条    

第三条     本社は有限責任とす 故に会社に損失又は他の事故ありて閉鎖分散する事あるも株主は其株金の損失に止り別に弁償等の責に任せざるものとす

第四条     本社は近江国柳ヶ瀬の鉄路を(けい)(えん)し越後国新潟港に達せしめ又近江国長浜より伊勢国四日市港に布設するを目的とす 然れども里程(りてい)遠長(とおなが)(道のりは遠く遥か)道路嶮難(けんなん)(険しく難路)なるを以て資費(しひ)(費用)又従て巨額を要す 故に着手の順序に至ては先ず之を三期に区分し順次工業を興すものとす 即ち其区分左の如し

 第一期 江州(ごうしゅう)柳ヶ瀬の鉄路を継延し越中富山に達す 但株金募集(ならびに)(並びに)本線の都合により能登七尾港まで支線を架する事もあるべし

第二期 江州長浜より勢州(せいしゅう)(三重県)四日市港に達し又一方は越中富山より越後柏崎に達す

但長浜より四日市の線路は里程僅少(僅か)なるを以て株金募集の都合により第一期に繰込む事もあるべし

第三期 越後柏崎より同国新潟に達す

第五条     本社は先ず第一期の工業を興すものとし其里程(おおよそ)六十里(二百四十キロ)此資金四百五十万円と為す 而して此十分一以上即ち四十五万円以上を発起人に於て負担し其余は募集株金とす

 

 (解説 単純な比較はできないが、明治期の一円は現在の二万円に相当。

それに従えば四百五十万円は九百億円。

 鉄道敷設には巨額の資金を必要としたため、各地の鉄道会社は創立当時から資金不足に苦しむことになる)

 

第六条此第一期工業は凡五カ年間に竣工するを目的とす

 

第二章  株式及株金徴収

第七条 百株以上を加入する者は発起人とす

第八条 本社の株式は一株の金額弐拾五円とす

    (中略)

第五章  雑則

第四十一条 工事は(なる)()け外国人外国品を仰がず内国人内国品を用ふ()

第四十二条 本社創立中の費用は一時記名発起人に於て立替置き追って結社の上は創業入費に繰込む可し

 

右の条々記名発起人一同の協議を以て決定す。(より)て各自之を遵守す可きものと

明治十 年  月  日

                        前田利嗣

                        大谷光蛍

                        松平茂昭

                        大谷光尊

                        前田斉泰

                        松平慶永

                        前田利同

                        前田利鬯

                        土井利恒

                        前田利武

                        本多副元

                        小笠原長育

                        有馬道純

                        間部詮道

此概則は記名発起人協議を以て成定すと(いえ)ども出願の上多少改正すべきものあるべし

(資料 福井県史「資料編」内「工部省記録」鉄道之部二十三巻) 

 

 (解説 この東北鉄道会社創立規則は草案の段階で、結局幻に終わった。

この後、明治十六年、東北鉄道会社から越前発起人が除名(脱退)を申し出た。政府が示したルートに越前方が反発したためであるが背景に資金調達問題もあったと思われる)

 

(二)東北鉄道会社発起人除名につき上申

 (さる)明治十四年八月前田利嗣(はじめ)私共東北鉄道会社創立之儀を出願せしは(そもそも)北陸の地たる南に(とち)()(きの)()(南条町木の芽峠)の(しゅん)(れい)(よう)し行路運搬(もっとも)艱難(かんなん)(くるし)む(南に木の芽峠の険しい山道が旅人、貨物の往来を阻み) 又敦賀坂井の両港ありと雖も秋冬以後風浪(ふうろう)(けん)(あく)舟運に便ならずして(又敦賀、三国の港ありといえども秋冬以降は風浪の条件著しく悪化、船便に適さず)(いたず)らに困難あるのみ 窮竟(きゅうきょう)(結局)此の如くなるに於ては(あに)(もっぱら)に行路運搬の不便のみならんや(ただ旅行運搬の不便の極みのみです)

上国(じょうこく)(都に近い国。関東関西)の風化(影響)と(あわ)せ進み人智開け物産興る運に(見識が広まり産業興る気運に)(いず)れの時か遭遇するを得んや 即ち()きに私共率先し鉄道布設の計画を起し人民(また)(いさん)で株主に応せし所以(ゆえん)なり(すなわち、いつの日かそのような機会に巡りあえる事を期待して、先に私たちが率先して立案した鉄道布設計画に、また人々も積極的に株主に応じてくれた理由です) 然るに昨十五年十二月に至り工部(こうぶ)(きょう)(工部省長官)より石川福井の両県令(県知事)を経て該社(がいしゃ)(当社)発起人へ御内達(内々の通達)の(おもむき)(趣旨)にては其線路たる越前福井以北より坂井港加州(かしゅう)(加賀)金沢を経過し越中伏木港に達すとあり (つつしん)審按(しんあん)(吟味)仕候(つかまつりそうろう)に此の如くにては私共越前人民の最熱望する南方峻嶺を(どう)(かい)(貫通)せざるの工事たるが故に地方の影響如何あるべきやと深く苦慮し

(工部省長官よりの内々に通達によれば東北鉄道の線路は福井~坂井港~金沢~伏木港に達するものとあり、私どもはそれを吟味しましたが、これでは越前人民が最も熱望する武生以西の(とちの)()、木の芽の峻嶺を貫通して敦賀に達する工事は含まれておりません。内示案では私共地方の悪影響は避けられないと深く苦慮している所であります)

則(即)代理人を差遣し其事情を考察せしに果して地方一般の株主共に於ては大に其()(よう)の(きわめて大切な)目的を失い此の工事に対しては決して株主たる事を欲せざるのみならず私共の発起たる事をも亦之(またこれ)を喜ばざるの形勢来せり(至急代理人を遣わせ情勢を分析検討するに、果たして越前の一般投資者から最優先の目的を失った此の工事に対し、出資をとりやめたいとの声が上がり、私たち発起人も同様の考えに至っております)

(もっとも)政府に在ては御内達の趣旨を遵奉(じゅんぽう)するにあらざれば決して允可(いんか)せられざるの儀とも(うけたまわ)(おり)(もっとも政府に於いては御内達の趣旨に従わなければ此の工事に決して許可を与えないとの方針も承っております)

上下(お上、一般株主)に対し此上の方法も相立兼(あいたちかね)(そうろう)に付今般発起人前田利嗣始め一同協議を遂げ候上私共儀は断然該者の発起を除名の事決議仕候

(政府、越前出資者に対し此の他の方策も相立兼ねますので、前田利嗣を始め発起人一同との協議の結果、私共越前発起人は東北鉄道会社創立発起人からの除名(脱退)を決議しました)

(より)ては曩に出願の書面私共発起の名列(めいれつ)御取消(おんとりけし)(くだ)成下度(されたく)(この)(だん)上陳(じょうちん)仕候也(つかまつりそうろうなり)

(よって先に出願した書面より私共を発起人名簿から取消されるようお願い申し上げます)

明治十六年三月廿二日

                         華族 間部詮道

                         華族 有馬道純

                         華族 小笠原長育

                         華族 本多副元

                         華族 土井利恒

                         華族 松平慶永

                         華族 松平茂昭

   東京都府知事 芳川顕正 殿

右申出に付奥印候也

                      小石川区長 加藤治幹

資料 福井県史「資料編」内「工部省記録」鉄道之部第二十三巻

 

(解説 明治十三年(一八八〇年)四月、敦賀~米原の鉄道工事が、敦賀と長浜の双方から開始された。(長浜~米原は明治二十二年・・一八八九年・・開通。同年七月、東海道線 新橋~神戸が開業。

越前の願望は敦賀~福井間を最優先させ、関西、関東へのルートを確保することだった。だがその区間には橡木、木の芽峠の難所があり敷設に巨額の資金を要する。財源不足を危ぶんだ政府はこの部分を後にして、福井~坂井~金沢~伏木から着工するとの指導を行った。この着工順位に三国を除く、越前方は強く反発し、民間からの協力も望めなくなり脱退に至った。

一方、すでに開業している上野~高崎から横川に延伸(明治十八年開業)。さらに直江津~長野~軽井沢の敷設(明治二十一年開業)、軽井沢~横川の敷設(明治二十六年開業)の動きがあった。この段階で上野~直江津が開業することになる。

加賀・越中方は伏木から直江津に延伸させ、東京へのルートも選択肢にあり、工部省の内示案への抵抗はなかった。

 

ただ越前方の脱落により組織が弱体化し、おりからの松下正義(大蔵卿)のデフレ政策による不況から資金調達が行き詰った。

発起人の間からも事業の継続を危ぶむ者が続出し、十七年(一八八四年)七月、代表前田利嗣は政府へ受書ならびに会社定款(二 東北鉄道会社創立規則を参照)の提出ができず、北陸三県華族(旧大名、東西本願寺法主)が発起人となった北陸を縦走する鉄道敷設計画(東北鉄道会社設立)は挫折した。

 

政府のデフレ政策も明治十九年(一八八六年)頃には終息し、殖産興業事業の紡績産業等や鉄道を中心としたインフラ事業も息を吹き返した。ちなみに十八年から二十五年にかけて私設鉄道会社創設の出願は五十件であった。

北陸でも敦賀から福井・坂井港を経て金沢・富山に至る鉄道敷設計画が再燃し、二十一年(一八八八年)六月三十日、「私設北陸鉄道会社創立願書」が内閣総理大臣黒田清隆に提出された。

(資料 福井県史「通史編」内 金沢商工会議所文書 小谷正典著「北陸線の敷設」「福井県藤島高等学校研究収録・・二十四」)

 

(三)北陸鉄道会社創立願書  (しょう)(抜粋)

私設北陸鉄道会社創立願書指出候(さしだしそうろう)に付進達(しんたつ)(上申書を官庁に提出)仕候(つかまつりそうろう)

鉄道布設の義に付ては(さき)(じつ)(先般)東北鉄道中止の事も有 (この)地方の情況(とく)(とり)調(しらべ)候処(そうろうところ)今回の義は有志者発起以来発起株主たらん事を競いて申立候(もうしたてそうろう)(さま)の情況にて(とう)事業を翼賛する(手助けする)実に前日(東北鉄道会社創立を指す)の比に(なく) (これ)時期(じき)(すで)に成熟せしものと信認(認め)仕候(つかまつりそうろう) (かつ)起業(きぎょう)目論(もくろ)()(しょ)(事業に関わる詳細な説明書)の表 旅客貨物の数量等確実之(かくじつの)調査(ちょうさ)にして(いささかの)不都合無(ふつごうなき) (これ)収支(しゅうし)予算(よさん)に於ても適当と認候(みとめそうろう)に付(すみや)かに御允許(おんいんきょ)(許可)(あい)成度(なりたく)此段(このだん)副申候也(もうしそえるそうろうなり)

                    富山県知事  国重正文

 明治二十一年六月三十日        石川県知事  岩村高俊

                    福井県知事  石黒 務

内閣総理大臣 伯爵 黒田 清隆 殿

 

北陸鉄道会社創立願

運輸の便を開き交通の途を(ひろ)むるは今日の急務にして国益を(はか)(もっと)も(最も)之より急なるはなし 然るに我富山石川福井県の地方たる別紙北陸鉄道布設趣旨書に詳細に記述せる如く今日にして鉄道を布設し運輸交通の便を謀るにあらざれば現今地方の衰替は到底挽回し得るべからざる義と信認し北陸鉄道布設の事を発起し尚営業上の収支等取調候処(とりしらべそうろうところ) 別紙起業目論見書第四項の通に(あり)之候間(これそうろうあいだ)速かに本社設置の義御允許被(おんいんきょく)成下度(だされたく) (もっとも)御允許の上は明治二十年五月十七日勅令第十二号私設鉄道条例の諸件は堅く遵守可仕(じゅんしゅつかまつり)別紙北陸鉄道布設趣旨書(ならび)に北陸鉄道会社特許請願書及び起業目論見書相添(あいそえ)(この)段上願候也(だんねがいあげそうろうなり)

明治二十一年六月三十日

    富山県発起株主名           略

    石川県発起株主名           略

    福井県発起株主名

          福井県南条郡武生橘町十番地  内田健太郎

          以下十一名  内訳 士族五名  平民七名

内閣総理大臣 伯爵 黒田 清隆 殿

 

(解説 明治二十年の私設鉄道条例・・・日本初の民営鉄道事業に関する法律。当初鉄道事業は国営とするのが政府方針であったが、西南戦争戦費で財政がひっ迫したため民間鉄道会社の設立を認めた。そのため各地で私設鉄道会社が乱立、規制するため四十一条からなる条項を定め、遵守させたうえで免許を与えた)

 

 北陸鉄道会社起業目論見書

  第一 社名本社等所在の事

本社は越中・加賀・能登・越前の四カ国に鉄道を敷設し旅客及び貨物運輸の業を営むを以て目的とするものにして名付けて北陸鉄道と称し本社を加賀国金沢に設け便宜により事務所を東京・富山・福井に置く

 

  第二 線路の事

本社の鉄道を敷設せんとする線路は越中国富山より加賀国金沢・越前国坂井港・福井を経て武生に達する本線(および)越中国守山より伏木に達する支線(すべて)(おおよ)そ百拾九(まいる)三分(一九二キロ)の間にして追ては(その後)加賀国河北郡津幡より能登国七尾港及越前国武生より敦賀港に通じる線路を選定し(ルート選定)敦賀の官線(十五年官営鉄道長浜~敦賀開業。)に聯接(れんせつ)(接続)する目的なれども目下工事の都合により先ず富山より武生迄の間と定め即ち実地を観察し調製(調整)したる線路の図面別紙の如し (もっと)愈々(いよいよ)工事に着手するに当り尚細密成る測量を為すに至らば或いは多少の変更を要する事あらんと(いえど)も其大要(根幹)に至ては(けだ)し(おおよそ)大差なかるべし

 

  第三 資本金の事

本社の資本金は四百万円と定め一株を金五十円として総株数八万株を募集するものとす

 

  第四 工事の事

越中国富山より越前国武生迄及越中国守山より伏木迄延長凡そ百十九哩三分間に鉄道を敷設するに就き之が費用の概算を立てるに総額金三百六十五万六千三百六十三円十六銭にして平均一哩(一六〇九メートル)の費用金三万六百四十八円四十七銭六厘とす 其内訳左の如し (ただし)(この)費額は概測(がいそく)(おおよその測量)に()り計算したるものなるを以て尚詳細の調査を遂げんには(遂げた後には)多少の増減なきを得ず 故に此外(このほか)に三十四万三千六百三十六円八十四銭の準備金を用意して資本金四百万円と定め以て万一の(おそれ)に供えたり

(北陸鉄道予算書・収支概算 略)

前記の要領に従て本社一年間営業上の損益を計算すれば左の如し

一 金五拾弐万千三百四拾八円拾九銭四厘       総収入

一 金拾七万九千百拾四円六拾五銭          総経費

一 金三拾四万弐千弐百三拾三円五拾四銭四厘     純益金

即ち資本金四百万円に対し年々八分五厘五毛強の利益なり

 

(解説 当時政府は配当八%を政府保証として、民間からの資金導入を促していた)

   富山県発起人交名(きょうみょう)(人名の列記)並株金高       略

   石川県発起人交名並株金高               略

   福井県発起人交名並株金高 

                     四千五百円    一名

                     三千七百五十円  二名

                     三千円      五十七名

           福井県計      十八万三千円   六十名

           他府県発起人 百七万九千八百五拾円 二百四十四名

 

(解説 発起人の資格は六十株三千円以上の保有者) 

富山・石川両県に比較して格段に少ない。理由として富山・石川両県は危険な海運から陸運への願望が福井県よりも強いからと思われる。さらに福井県では敦賀~武生間の木の芽峠開鑿(かいさく)の時期が示されないことにより熱意が欠けたことも否めない。福井県の地区別発起人数は坂井郡二十三人(内三国港十三人)、足羽郡十三人(内福井十一人)、大野郡八人、今立郡六人、吉田郡四人、南条郡四人、丹生郡二人である。三国が多いのは三国経由が示されたからである)

 

(参考資料 金沢商工会議所所蔵「私設北陸鉄道会社創立願書」 日本の鉄道史 福井県史「通史編」 福井県史「資料編」)

北陸鉄道の認可(仮免許状下付(かふ))はおりなかった。鉄道局長井上勝は内閣総理大臣黒田清隆に北陸鉄道の問題点を答申している。以下がその内容。

(一) 北陸鉄道は木の芽嶺の険峻と親知らずの難所にさえぎられ、孤立した鉄道である。

(二) 積雪により冬期運転が困難である。

(三) 四百万円の資金調達が困難である。前回東北鉄道会社が解散に至った諸問題(越前発起人の脱退等)が未解決である。

 

この事態に北陸三県では知事、書記官、発起人等が北陸鉄道敷設を再度請願した。これに対して井上勝は明治二十二年(一八八九年)四月、以下の内容の答申を内閣に提出した。

「鉄道は長大なるをものを延長するを利なりとし短小なるものを孤立せしむるを損なりとする・・・北陸鉄道の如きは之を孤立せしめて利用完全ならず・・・

寧ろ敦賀線より延長して其経済を官設鉄道と一にするの方法を取るを得策なり」

 

井上は、鉄道は幹線を延長することが得策で、東海道線全線開通を目前にして、幹線から孤立した状態で狭い区間で鉄道敷設する北陸鉄道会社の方針は利益を損なうと批判し、むしろ東海道線と北陸鉄道を聯接(れんせつ)する敷設計画(敦賀~武生間敷設)を最優先すべきと主張したのである。彼は各地で個別に鉄道を敷設することに反対し、全国に統一規格の幹線鉄道網を敷設することを目指していたのである。

井上の見解は福井県の悲願(敦賀~武生間敷設を優先)にはからずも合致した。北陸鉄道会社に消極的な立場であった福井県は積極姿勢に転じ、ようやく北陸三県の足並みが揃った。同年十二月二日、北陸鉄道会社創立発起人総代(福井、石川、富山各一人)の名で

「武生敦賀間測量の義をも併せ御允許を蒙り、其工費の都合に依り之を敦賀官線に聯接し遺憾なき完全の線路を布設(そうろう)(よう)支度(つかまつりたく)」の『北陸鉄道布設の義に付追願』が出された。

 

北陸鉄道敷設追願

今般北陸鉄道敷設義に付別紙追願の事情(じじょう)無余儀(よぎなく)視認(しにん)(そうろう)(確認)に付当初願書に併せ御許容(ごきょよう)(許す)(あい)(なり)(すみやか)仮免状(かりめんじょう)御下付(ごかふ)(よう)(つかまつり)(たく)(この)(だん)(そえ)(もうし)(そうろう)(なり)

     明治廿二年十二月二日        石川県知事 岩村 高俊

内閣総理大臣 公爵 三条 実美 殿

 

   北陸鉄道布設の義に付追願

北陸鉄道会社創立発起人総代彦兵衛等(つつしん)追願仕候(ついがんつかまつりそうろう) 私共(さき)(先に)に北陸鉄道布設の事を希図(きと)し(希望意図し)第一着に越中富山より加賀国金沢・越前三国(坂井港の改称)・福井を(へて)武生に達する支線を布設し()ほ右幹線に接続すべき越前国武生より敦賀に達する線路(および)加賀国加賀国津幡より能登国七尾に達する支線は之を第二着とし漸次(ぜんじ)(だんだんと)完成を期する目的を以て昨廿(にじゅう)(いち)年六月三十日 会社創立の願書を(ほう)(てい)仕置候処(しおきそうろうところ)(そもそも)右第一着の工事たる其線路百十有余(マイル)(百七十七有余キロ)の長きに(わた)ると(いえど)も首尾既設の線路に聯接(れんせつ)せざるを以て工事の不便は()うに及ばず鉄道の効用上に於けるも営業の経済上に於けるも不便不利の感なき能はず

(北陸鉄道会社創立の願書を差し出しましたところであります。されどよくよく考えれば第一期工事は線路百十有余哩の長き距離ではありますが、首尾よく既設の線路(東海道線)に接続できなければ布設の有用性は謂うに及ばず、鉄道の利便性に於いても、経営上に於いても不便不利となる感は否めません)

然りと雖も奈何(いかん)せん武生敦賀間の線路たる本邦著名の嶮難(けんなん)即ち木の芽(しゅん)(れい)横たわるありて其距離亦近しとせず経済の許さざる()むを得ず(やすき)を先にし(かたし)を後にするの順序に依り(おもむろ)に之を開通する目的を以て第二着に譲り候次第に有(しかしながら如何せん武生敦賀間の敷設予定地は名高い険難の地、木の芽峻嶺が横たわり、又その区間は短くなく、よって経済上の困難から止むを得ず、平地を先に、難所をその後としたため、武生敦賀間は第二期工事に回した次第です)然るに猶退(なおひい)て熟慮仕候(つかまつりそうろう)に今や武生敦賀間は車道開鑿(かいさく)(開かれて)以来幸に(こう)(りょ)(旅行)運輸(やや)その便を得るに至り昔日(じん)(けん)()()(人馬)に依り(わずか)(しゅん)(ぱん)(険しい坂)を上下したるの比にあらず(しかしながら一歩退いて熟慮すれば 今や武生敦賀間は車道が開かれて以来、幸いにして旅行運搬はやや改善され昔日の人馬によってようやく峻坂を登り下った頃に比べれば楽である)

と雖も其間里程(みちのり)十一里(四十四キロ)に余り車馬の便に依るも猶半日程を費やさざる得ずその行旅運搬の不便なる之が為め前後に布設する官私の鉄道も其効用を全うするを能わず所謂(いわゆる)千仭(せんじん)九仞(きゅうじん)の誤り)の功を一簣(いっき)に欠くの嘆きあり

(といえども、その間の道のり十一里余り。車馬を利用しても猶半日程は費やさざるを得ず。その旅行運搬に不便が為に前後に布設する官営、私営鉄道も共に効用を十分に発揮することができなく、いわゆる故事にもありますように九仞の功を一簣(いっき)欠く(かく)(長い間の苦労や努力も最後に手を抜いた為に水泡に帰するの諺)の恐れがあります)

(かつ)武生敦賀間の工事を先にするときは 鉄道建築の便利は勿論に候得共(そうろうえども)該線路たる(かっ)探訪(たんじん)(調査研究)せるところの線路に在りては工費巨額に上り経済上収支相償はざる恐なきにあらず

(且つ武生敦賀間の工事を先にする事は鉄道布設の効果には優れておりますが、当線路はかって調査研究せる所の線路であり工費は巨額に上り経営上採算が取れない恐れもあります)

要するに未だ精細の探究を尽くしたる線路にあらざれば近時(きんじ)益々進歩せる学理経験に依り尚精密に探究測量するに於ては或は利便の線路を発見し得るやも

難測(はかりがたし)と愚考せられ候

(要するに未だ精細な調査を尽くした線路とはいえず、昨今益々進歩する技術により尚精密に本格的測量をおこなえばより有利なルートを発見できる可能性も否定できないと愚考しております)

最此線路開通せば随いて全線路の収益増加するは必然に可有之(これあるべし) (より)(この)(さい)武生敦賀間測量の義をも併せ(おん)允許(いんきょ)(こうむ)り其工費の都合に依り之を敦賀幹線に連接し遺憾なき完全の線路を布設候(ふせつそうろう)(よう)支度(したく)見込(みこみ)御座候(ござそうろう)(あいだ)先願同時に右武生敦賀間線路測量の義御允許(おんいんきょ)被成下度(くだされたく)此段(このだん)奉追願候(ついがんたてまつりそうろう)

(最も此の路線、武生敦賀間を開通すれば 全線路の収益が増加するのは必然で、よって此の際武生敦賀間の測量の件も併せて御許可を蒙り、其工費の都合に依り、これを敦賀官線(敦賀~長浜・米原)に連接し遺憾なきよう完全の線路を布設したく、見込みもありますので、先願(四の明治二十一年の北陸鉄道会社創立願書)と同時に右武生敦賀間の線路測量の件御許可くだされたく今回追願させていただきました)

尤も本鉄道布設の件に付ては(きゃく)年来(ねんらい)(過去数年来)事情緀々(さいさい)上陳(じょうちん)(上申)()(おき)候通(そうろうのとおり)発起人に於ては(しゅく)()(常日頃)御指令(ごしれい)渇望(かつぼう)罷在(まかりあり)(そうろう)次第(しだい)に付特別の御詮議を以て一日も早く御免許被(ごめんきょ)成下候(くだされたくそうろう)(よう) (あわせ)て 奉悃顔候也(こんがんたてまつりそうろうなり)

(もっとも本鉄道布設の件につきましては過去数年来事情を再々上申しており、発起人に於いては常日頃御指示を渇望している次第です。付きましては特別の調査をされて一日も早く御免許を下さいますよう併せて懇願奉ります)

    北陸鉄道会社創立発起人総代

          富山県富山市東堤町 平民     関野善次郎 

          福井県福井市江戸町 士族     林 藤五郎

          石川県江沼郡立村  士族     久保彦兵衛

 

 内閣総理大臣  公爵 三条 実 美 殿

 

 (資料 福井県史「資料編」内 金沢商工会議所所蔵「北陸鉄道布設追願書」)

 

(解説 先の北陸鉄道会社創立願書では敷設区間は富山~金沢~坂井港(三国)~福井~武生及び富山県守山~伏木間(支線)と定め、武生~敦賀間は未定とされていた。鉄道局長井上勝の方針とは異なるものである。井上は幹線鉄道網構想を抱いていた。地域ごとに孤立した形で鉄道を敷設するのではなく、たとえば東海道線が山陽線、北陸線に連結し相乗効果を生みだすべきと考えていた。おりしも地方に鉄道敷設ブームが到来し、鉄道会社創立申請が続出した。井上は幹線鉄道網構想に外れた路線には許可を与えなかった)

 

北陸鉄道も武生~敦賀間が未定であり、東海道線と北陸線を連接するとする井上の構想に背くものであり願書は保留されていた。

鉄道局の意向を知った北陸鉄道発起人は急遽会議を開き武生~敦賀間敷設を第一期工事に組みいれた。武生~敦賀間敷設を盛り込んだ「北陸鉄道敷設追願書」を先の願書に添えて再申請したのである。

 

「追願」提出の一週間後、十二月九日に待望の仮免状が下付された。

『仮免状第十四号』 

北陸鉄道会社発起人鴨田孝之他五十四名 富山県下越中国富山より加賀の国金沢・越前国阪井港・福井・武生を経て敦賀迄 及越中国守山より分岐伏木に至る鉄道布設出願に依り同線路実地測量することを許可す、但此仮免状の月より起算し満十八カ月以内に私設鉄道条例第三条に記載する図面書類を差し出さざれば此仮免状は無効のものとす 

明治二十二年十二月九日

内閣総理大臣    公爵 三条 実美 

 

(資料 福井新聞 明治二十二年十二月十三日 十八日) 

 

仮免状下付により北陸鉄道布設に向けて大きく前進したと思われたが、事態は意外な展開をみせた。

(四)北陸鉄道会社解散

政府から仮免許が下付され、いざ具体的な話に入ると寄せ集め集団の弱点を露

呈した。まず人事でつまずいた。明治二十三年二月、金沢で開催された株主委

員会総会での理事委員選挙で福井、石川、富山、東京の各二名が指名されたのだが、この選挙で発起人の間で紛争が起こった。詳細は不明だが福井、石川が人選に強い不満を示し、特に福井県側は理事会に提出した意見書が採用されない場合は分離も辞さないという強硬なものであった。(明治二十三年二月十五日福井新聞)

『私設鉄道条例』による仮免除の発効期間は十八カ月、既に七ヵ月が経過したが、福井新聞は「未だ理事長の選任もなく調和も出来ざる由」と報じ、七月二十日には「測量に着手するのに状さえなく発起人諸氏の如きも殆ど之を忘却した」ようであるとして事態を憂慮し、北陸鉄道の現状を「第一、発起人間の折合悪しき事 第二、株金収入に困難あるべき事」と分析した。(明治二十三年七月二十日福井新聞記事)

 

第一の原因の発起人間の折合悪しきとは七月一日実施の第一回衆議院選挙による政党の争いが北陸鉄道の人事に持ち込まれたことを指す。人事が定まらず鉄道敷設の基礎的作業である測量にさえ着手できなかった。

 

(解説 第一回衆議院選挙 改選数 三百議席 内訳 

立憲自由党(民派 大井憲太郎 中江兆民 板垣退助ら)獲得議席 百三十 

大政会(官派 増田繁幸ら) 獲得議席 七十九

立憲改進党(民派 大隈重信ら) 獲得議席 三十一

国民自由党(官派 前田案山子ら)獲得議席 五

無所属 獲得議席 四十五

 

北陸三県 党派別当選者数

富山 立憲改進党 二 立憲自由党 一 無所属 一

石川 立憲改進党 二 立憲自由党 二 国民自由党 一 無所属 一

福井 立憲改進党 四 青山庄兵衛 杉田定一 永田忠右衛門 藤田孫平)

 

第二の前年末からの不景気による金融の逼迫と株式の低落。

 

(解説 明治二十二年、二十三年は不作の年、二十三年には各地で米騒動が起こった。二十三年、世界恐慌に突入、日本が初めて経験する資本主義恐慌であった。株価は暴落、信用不安により金融は逼迫した。製造業も主力産業である生糸輸出が激減し、綿紡績業を含めて操業短縮に追い込まれ、不況感が日本を覆った。北陸鉄道会社が巨額事業資金を調達するには最悪の時期だった)

 

明治二十三年八月、株主委員会総会では理事委員をめぐる内紛の収拾について協議がおこなわれ、一つの結論を得た。各県知事に対する依頼書を提出すことである。依頼書の内容は、

「規定の条規に関せす便宜の法を以て御取扱被下候(おとりあつかいくだされそうろう)(しか)る上は発起人一同に於ては(いささかも)異議無(いぎなく)此渾(これすべて)御指揮(ごしき)に従い可申(もうすべき)

(既に定められた条項にとらわれることなくより良い方法を以て(北陸線敷設を)お取り扱い下さい。決められた事につきましては発起人一同いささかも異議を申さず御指示に従います)

すべてを白紙に戻し、北陸三県知事への全権委任である。

 

(解説 これは次項で記述するのだが民間企業(私設北陸鉄道会社)による北陸線布設を断念し、官設事業へ転換する動きでもあった)

 

発起人委員会と三県知事の協議が為されたが、準備の遅れは否めず測量が開始されたのは翌年三月、仮免状下付から十五カ月を経過していた。期限の(十八カ月)の五月になってようやく福井県の林藤五郎を含む八名の理事委員が選出されるという有様であった。

だが株式は(さば)けず、資本不足は解消されなかった。理事委員会は仮免許期限延長(十ヶ月)を請願し許可されたが作業は遅々として進まず、(この頃には官設への移行に運動の中心が移っていた)

明治二十四年(一八九一年)十一月十九日付で「北陸鉄道廃止届」を内務大臣品川弥二郎に提出された。明治十四年八月八日、「東北鉄道会社創立願」から始まった北陸三県を貫く民営鉄道構想は十年三カ月で終焉を迎えた。

同時に北陸三県議会は 北陸鉄道の官設を請う建議を決議し、政府に請願書を提出したのである。

 

北陸鉄道布設は国の手に委ねられた。

 

(福井県史「通史編」より引用  資料 福井新聞)

(五)北陸線敷設事業が国家事業となる

明治二十四年七月、鉄道庁長官井上勝は、軍事・経済の両面から幹線鉄道官設官営主義を示した「鉄道政略に関する義」を建議、これにもとづき、内務大臣品川弥二郎は同年の第二回帝国議会(十一月二十六日~十二月二十五日)に「鉄道公債法案」「私設鉄道買収法案」の二法案を提出した。

 

同年八月十三日、福井県知事に牧野(まきの)(のぶ)(あき)が着任した。牧野は施政方針のなかで福井県の最大懸案事項である北陸鉄道布設について官設への転換を促した。翌二十五年(一八九二年)六月二十一日、「鉄道敷設法」が公布されるのだが、その内容、少なくても方針を彼は掌握していた。すなわち政府による幹線鉄道建設及び将来における私設鉄道の買収を骨子とする法案、幹線鉄道の対象となり得る私設路線である。

 

北陸鉄道敷設は資金難から民間での事業継続は不可能視されていたから発起人を含め関係者に異存があるはずもなく、十月上旬の発起人総会に於いて、私設鉄道敷設の中止と官設の請願を決定した。それが前述した明治二十四年十一月十九日付の「北陸鉄道廃止届」の提出になったのである。

 

十二月、第二帝国議会において敦賀~富山間は「鉄道公債法案」による官設幹線鉄道に組み込まれた。同法案は衆議院解散によりいったん廃案となったが、翌年の第三帝国議会(明治二十五年五月六日~六月十四日)に於いて前述の「鉄道敷設法案」が上程され可決、公布された。

 

「鉄道敷設法」では官設幹線鉄道の予定線として三十三路線をあげており、そのうち十二年内に敷設予定の路線を第一期線とし北陸線(敦賀~富山間)は中央線などとともに最優先路線に指定されたのである。

 

(資料 福井県史「通史編」)

 

 

(解説 北陸線が最優先敷設の第一期線に指定された背景に、ペテルブルグ(ロシア帝国の首都)を起点とするシベリア鉄道が着々とウラジオストク(ロシア極東沿岸部の州都)に迫ってきたことにある。

註)シベリア鉄道は明治三十七年(一九〇四年)九月に開通。日露戦争開戦(明治三十七年二月八日)から七カ月後のことである。

ロシアの極東進出に危機感を抱いた軍部は対ロシア開戦に備えて兵員、物資輸送のために北陸線開通を急いだ。北陸線福井~敦賀間開通・・二十九年七月・・の翌年八月、歩兵第三六連隊が愛知県守山から鯖江に移り、三十一年三月には歩兵一九連隊が名古屋から敦賀に移った。日露開戦に備えたのである)

福井県にとって敦賀より難所木の芽峠を開鑿(かいさく)しての敷設であり、長年の悲願達成であった。明治二十四年十二月、早期着工請願のため「北陸鉄道期成同盟会」が結成された。

北陸鉄道期成同盟会

北陸予定線は所謂(いわゆる)四確定線の其一にして他に比較線を有せざる唯一つの線路なれば之が急設を請願せんが為に北陸鉄道期成同盟なるものを起こし富山、福井、石川、三県の有志者は去る二十一日を以て呉服橋外(東京)柳屋に集会を催し運動方針、委員設定、()(こん)(これより後)一週間に一回の集会を為すことと等を議決せり (しかし)して常任委員には富山県鳥山敬二郎、福井県林藤五郎、石川県朝倉外茂鉄の三氏当選しか 当日の出席者は代議士には岡研麿、武部其文、岩城隆常、原弘三、大垣兵次、神保小太郎、橋本次六、由雄与三平等の諸氏 松岡文吉、山名清兵衛二氏其他数名なりし 又其二回は昨日柳屋に催うし今後の運動に対し協議する処ありしと云う(明治二十五年十二月二十七日付「自由」)

こうして北陸鉄道敷設運動は官設北陸鉄道推進運動に移行した。

 

(資料引用 福井県史「通史編」「資料編」「福井新聞」「自由」)

 

(解説 牧野伸顕は大久保利通の次男。義理の従兄弟である牧野家当主吉之丞が戦死、後継ぎがいないため牧野家の養子となった。二十歳のとき東京大学を中退し外務省に入省。外交官を皮切りに官僚の道を歩み、首相黒田清隆の秘書官を務めた後、若干三十歳で福井県知事に就任。二十五年十一月十六日まで職にあり(在任一年三カ月)、退職の同日茨木県知事に就任。在任五ヶ月で茨城県知事から文部省次官に転出。以後イタリア公使、オストラーリア公使。内大臣、外務大臣、農商務大臣、文部大臣を歴任。

「自由」は明治二十四年四月に板垣退助らが創刊した自由党の機関紙)

 

(六)北陸線敷設に関する鉄道会議

明治二十五年六月に公布された「鉄道敷設法」によって北陸線は官設幹線路線の第一期着工路線に指定された。同時に法案には鉄道会議の設置が明示された。第一回鉄道会議明治二十五年(一八九二年)十二月から翌年三月にわたって開催され、二月十日の会議では北陸線について審議がなされた。

総延長百二十三(マイル)五十七(チェーン)(二百四.八十七キロ)、橋梁二百九ヵ所、隧道十五ヵ所、停車場二十三ヵ所で工費七百二十万円である。十五ヵ所のうち十二ヵ所が敦賀~今庄間に集中しており、この区間の難工事ぶりがうかがえる。この路線は東北・北陸両鉄道会社の計画がもとになっているが、政府案では従来敷設上の要地としてきた坂井港(三国)経由から金津経由に変更されている。

 

坂井港を経由させるか否かが鉄道会議の大きな論点になった。

 

(福井県史「通史編」から引用)

 鉄道会議議事録(抄) (第一回「鉄道会議議事速記録」全)

北陸線 第一読会(書記 北陸線路議案を朗読す)

線路の形勢設計の概況の説明 

本線は敦賀停車場に起り東向け旧街道に沿い木芽川の渓間(けいかん)(山あい)に入り行くこと一(まいる)半(千九百三十一メートル)にして平地なし 樫曲(かしまがり)(地名)に至りて谷弥々(いよいよ)迫り屈曲(また)(はなはだ)し四(ちえーん)(八十・五メートル)の隧道に二ヶ所を穿(うが)ち(貫通し)左旋北向(きたにむかい)(けい)(かん)(谷あい)に沿いて葉原(地名)に至る此六哩(九を貫き阿曾(あそ)(地名)の山腹に(でる) 敦賀より木芽に達するの間は総て上がり勾千六百五十六メートル)間に於いて同川を渡る十三回に及び 是より旧道を離れ寺谷の小渓に入り四十三鎖(八百六十五メートル)隧道を穿ち木芽の山脈配にして其中三哩(四千八百二十八メートル)四十分の一の勾配を連用せり 是より山腹を迂回して下り其三十八鎖(七百四メートル)間は四十分の一の勾配を用い四十(フィート)(十二・二メートル)橋梁を架し六鎖(百二十一メートル)の隧道を穿つべしとす (それ)より七哩四十八鎖(一万二千二百三十一メートル)に至り二百呎(六十一メートル)橋梁を以て深谿(しんけい)(深い渓谷)を渡り再び上がり勾配を取り十八鎖(三百六十二メートル)隧道を穿ちて阿曾の曾呂地山を貫き杉津(停車場設置見込)河野谷(地名)に出 又四鎖(八十メートル)の隧道を貫き八哩三十鎖(十三・四百七十八キロ)に於いて(わずか)に十鎖余(二十メートル余)の水平線を得 猶山腹を紆繞(うじょう)(まとい巡る)し二百呎(六十一メートル)の橋梁を以て深谿を渡る二回 此間四十分の一の勾配を用て上がるものとす 是より山岳重畳(ちょうじょう)(幾重にも重なり)の間を過ぎ九哩十九鎖(十四・八百六十六メートル)に至て七鎖(百四十一メートル)と二十二鎖半(四百五十三メートル)の隧道を穿(うが)ちて大比(おおひ)()(地名)の観音寺を貫く 是より一層渓山相逼(あいつま)り(迫り)隧道橋梁交互(こうご)相接(あいせっ)し即ち橋梁は六十呎(十八・三メートル)及二百呎(六十一メートル)の三ヵ所を架し隧道は十鎖(二百一メートル)乃至(ないし)二十三鎖(四百六十三メートル)三ヵ所穿ちて山中峠に達す 此に五十五鎖半(千百十六メートル)の隧道を穿ち初て北陸道の地に出つ 此地は本線路中最高点にして海面を抜く(海抜)九百四十五呎有余(二百八十八メートル有余)とす 葉原より此に至る四哩三十六鎖(七千百六十二メートル)の間は本線路中の至難工区にして即ち隧道を合計すれば十ヶ所にして其延長は二哩四十二鎖余(四千六十四メートル余)橋梁も七ヶ所にして其延長九百七十呎(二百九十六メートル)に及ぶとす

是より右旋(うせん)東向(とうこう)し四十分一の勾配を以て下ること二哩十六鎖(三千五百四十一メートル)渓間(けいかん)(谷間)を伝いて大桐(おおぎり)(地名)に至る 此間山岳(さんがく)起伏(きふく)(もと)より多く巨多(巨額)の土工を要すべきものとす

是より谿間(けいかん)少しく余地あり勾配も(また)七十五分一より急ならず 新道(しんどう)(かえる)、の諸村を過ぎ五十呎(十五・二メートル)の橋梁を以て鹿()(ひる)(がわ)を渡り今庄(停車場設置見込)の東に至る (この)(あたり)冬期深雪の(おそれ)あるに依り切取(きりとり)(土砂を切り取る)を避けて高堤(たかつつみ)(小堤防)を築くの設計をなせり (それ)より北向(ほっこう)して百五十呎(四十五・七メートル)と二百四十呎(七十三・二メートル)の二橋梁を架して日野川を渡り(ゆの)()(とうげ)を回りて鯖波(さばなみ)(停車場設置見込)に出つ 是より渓間(山あい)(ようや)く広く勾配も亦(ゆるやか)にして旧道の西側に沿い今宿(地名)を(へて)右旋して武生町(停車場設置見込)の東に出 日野川の西岸に沿い二十八哩五十八鎖(四十六・二二八キロ)に於て右折して同川を渡るに四百二十呎(百二十八メートル)の橋梁を以てし左旋し鯖江(停車場設置見込)の東に出つ 是より浅水川の水害を避け迂回して東方の山麓に沿い(ひがし)鳥羽(とば)(むら)に至り六十呎(十八・三メートル)橋梁を以て同川を渡り尚を九十呎の避溢(ひいつ)(きょう)(大雨のとき鉄道が水没する事を避けるため陸上に設けられた橋)を附架し大土呂村(おおどろむら)(停車場設置見込)に至り左折して江端村を過ぎ二百八十八呎(八十七・八メートル)の避溢橋二ヶ所を架け木田村を(へて) 二百四十呎(七十三・二メートル)の橋梁を以て足羽川を渡り附するに二百十六呎(六十五・八メートル)の避溢橋を以てして福井市の(停車場設置見込)の城東に達す 敦賀より此に至る三十八哩五十六鎖(六十二・三〇二キロ)なり 是より同市人家稠密(ちゅうみつ)(密集)の処を避け右折左旋田圃(たんぼ)を過ぎ国道の下に於て八百(フィート)(二百四十三・八メートル)の橋梁を以て九頭竜川を渡り附するに二百八十八呎(八十七・八メートル)の避溢(ひいつ)(きょう)を以てして森田(停車場設置見込)に出 徳分田大関の諸村を経 金津(停車場設置見込)の東に至り七十呎(二十一・三メートル)の橋梁を以て竹田川を渡り附するに三百呎(九十一メートル)の避溢橋を以てす 是より渓谷の間に入り迂遶(うかい)して青野木に至り小丘を越えて細呂木川の谷に沿いて上り熊坂峠に至り二十二鎖(四百四十二メートル)の隧道を穿(つらぬ)き国道に沿いて下り熊坂村より国道を右に離れ大聖寺(停車場設置見込)に達す (福井県分のみ抜粋記述)

以上線路設計の概況なり (ここ)に全線の距離及工事の要領を(あげ)れば左の如し 

 

距離 敦賀より福井・金沢を経て富山に至る百二十三哩五十七鎖余(百九十九キロ余)

土工 八十四万三千六百十立坪(りゅうつぼ)(百五十一万八千五百立方メートル)

橋梁 二百九ヶ所 延長一万四千八百四十六不呎(四千五百二十五メートル)

隧道 十五ヶ所 延長一万八千七百二十七呎(五千七百八メートル)

停車場 二十三ヵ所

最勾配 四十分の一

(さい)急弧線(きゅうこせん) 半径十五鎖(半径三百メートル)

興業費 七百二十万六千九十三円  (毎一哩に付き五万八千二百四十六円)

 

(解説 発言者の経歴)

有島武・・・大蔵省国債局長

松本荘一郎・・・ 鉄道局部長工学博士

山根(たけ)(すけ)・・・陸軍工兵少佐

川上操六・・・参謀本部次長陸軍中将

山口圭蔵・・・陸軍歩兵少佐

渋沢栄一・・・官僚 実業家 第一国立銀行、東京証券取引所の創立に関わる

理化学研究所の創始者 日本資本主義の父とよばれる

石黒五十二・・・土木監督技師工学博士

 

質疑

(有島武志 三番)一寸質問致しますが敦賀富山の間に別段にもう少し海岸線でなく線路の宜い(良い)所を何処ぞお調べになって測量でもあったのですか

(松本荘一郎 十八番)此線路は御承知の通りの地形でありまして何分海岸を少しく離れますと直ちに山の出て居る所が多うございます ために且つは(一方では)此線路中の一番重(主)なる所と申せば余り大きくはござりませぬが、第一に武生・福井・金沢・富山と云う所が重立(おもだ)ち(主立つ)ました所で、(その)(ほか)(あるい)は大聖寺或いは小松とか、高岡とか云うような、将来鉄道が出来ましたならば其鉄道の便利を最も利用すると云うような人口の多く集って居ります所が現今の国道に皆なって居る場所であります。それ等を成るべく皆通過させたいと云う必要と、且つは前申した地形上の都合とで別段是よりも海岸離れて測量するの見込が立ちませぬ、即ち一線路(だけ)の測量を致しました、是は御参考迄に申上げて置きますが明治十四・五年頃でござりましたが、あの地方に丁度日本鉄道会社が起こる時分に私設鉄道の企てがありました 其時に測量した線路も是と()ぼ似て居ります、又近来になりまして北陸鉄道の企てのあった時にも一応測量したのがある、それも()(はり)同じ所を通って居る 是は誰が測量しても前申上げたような理由のある為に此辺を矢張通って居ります

(有島武 三番)近い所に宜い所が無いのともう一つ地形が許さんと云うことですか

(松本荘一郎 十八番)全く左様でござります

(山根武亮 二十二番)十八番に御尋ねしとうござりますが、木芽峠・・・(もっと)もあれより無いと云う御答でござりますが色々前から測量になって居りますか、ひょっとしたら宜い線があると云う見込でありますか

(松本荘一郎 十八番)木芽峠・・・之は(かね)て御聞及びになって居る通り前に私線の企てのある時より常に(むず)()(しき)所として技術者(など)は随分脳髄(あたま)を悩した所であります、(つい)()れが為めに明治二十二・三年頃に私設を願出した時分にも此部分(たけ)は除いて他の部分をやりたいと云うことを出願した位で此度は幸に測量に従事した者が大部居り合わせましたので、(あたか)(さき)に試みて無駄な所を二度するような差支もなく始めより十分に線路の取れそうな所を探求をした所が遂に此度の結果を得ましたので、曩に測量した時よりは隧道も余程短い是れならば敷設することも六ヵ敷は無かろうと云う所を撰び(選び)出して技術者も満足に思うて居る線路で、此上(なお)予測した所謂(いわゆる)性質上から先日来度々申すように実際布設する時分には猶幾分の改良の出来得るで或はあろうかと思います、出来得ることを希望して居りますけれども、更に勾配其外に就て大に改良するの見込は無いと考えます それ丈を申上げて置きます

 

(有島武 三番)別段御議論も無いようでござりますが御議論ないようならば裁決を願います

(議長 川上操六)第二読会に移りたいと思いますから御同意の御方は起立して下さい

             起立者  過半数

(議長 川上操六)過半数

 

北陸線 第二読会

 

(山口圭蔵 二十五番) 本員は此北陸線の設計は誠に適当に出来て居ると考えますから原案に賛成致します 殊に此坂井港によらずして真直ぐに往くと云うことは至極軍事上に於きましても利益のことであると思います、唯一の希望を当局の御方に対して述べて置きとうござります、それは杉津と申す今の停車場の出来るあの近傍(きんぼう)(付近)で山の半腹(中腹)を線路が通ることになって居る、是れが海上から誠に能く見られる様に思いますから、是は愈々(いよいよ)工事に着手すると云う場合には何れ多少の御改良になることゝ思いますが成るべく海上に対して(おお)われる様に御注意になって設計になることを希望致します

(渋沢栄一 二十四番) 只今絵図面に就て当局者の御説明を伺いましたが、此坂井港()しくは伏木(ふしき)(富山県の要港)あたりの海岸に接続せぬと云うことは()かる理由ということは承りましたが再び熱案(熟慮)して見ますると、(ここ)に北陸鉄道を定めて此工事をやって往くに付きては、其必要な場所を限りますのは鉄道其物自身の経済をしても欠ける所がありはしないか、一応どうしても出来ぬものであるかと云うことを当任者の御方に御伺い申しとうござります

(松本荘一郎 十八番) 誠に御尤(ごもっと)もの御尋ねと存じますが、第一に坂井港に付きましては地方(地元)に於ても是非あれに線路を寄せて貰いたいと云う希望が厚うあるのみならず或いは寄せた方が鉄道の経済上から申しても()くは無かろうかと申すので即ち測量は本線路と同様に精密な測量を遂げたのであります、然るにその結果は曩(先)に申上げた通り余程迂回致しましたので(ほとん)ど六哩(九千六百五十六メートル)と記憶致しますがそれが為に線路が延びる

  そうして坂井港はどう云うものであの形を為して居るかと云うと即ちあれが総て(かの)地方(ちほう)の物貨を輸出入致します咽喉(いんこう)の地(要地)であります、

  然るに其鉄道が再び敦賀の方から通すると今迄坂井港に出たものは鉄道に依らず出ることができる、這入(はい)るにもそうである、且つ坂井港に流れて居る川がありますが今御話の米の如きも此川に依て坂井港に出て居る所が鉄道が川を横切って居る その近傍(きんぼう)(近辺)於て直に川から・・川船から揚げまして之を汽車に積込む事が出来る、(あたか)も山陽鉄道会社の線路で加古川の停車場から川の淵に(こと)さらに支線を引きて米の出ます期節(きせつ)(出荷時期)にはそこより西ノ宮・住吉の米を出すのを積込んで居る、あれに類似したようなことも将来或いは出来るであろうと思います(将来の三国支線敷設に含みを残す)

  (いずれ)に致せ本線路を六哩近くも迂回致しますと云うと、福井近傍より東の方に当る即ち金沢の人或は富山の人にしても鉄道を人間並びに運搬する貨物は(ことごと)く迂回した所を通らなければならず、鉄道の方では迂回すればそれ(だけ)哩数に乗じて賃銀(運賃)を余計取るから格別直接に利益上から関係は無いかは知らぬが鉄道を利用する人の方からは随分迷惑な訳である、故に本線は此様な所を迂回すべきもので無かろうと云うの考えを以て廻らないことに致したのであります

(渋沢栄一 二十四番) 再び御説明で能く分かりましたが私は其仕舞いに(最後に)御述べになりました支線云々を果して此布設があった以上に必要があったら其時にと仰しゃらぬで併せて此布設の設計を御立てなさったら能くはないかと希望するので、坂井港の実況(実状)は極く(つまびらか)には心得ませぬ、其衆散(集散)する貨物も粗雑(大量品)であるか、又は(あたい)の高い目方の少ないもの(希少商品)であるか・・・

  迂回することがどうしても不利益であるならば支線を接続させると云う設計が希望致したいのでござります。

(松本荘一郎 十八番) 弁論ではありませぬが今の支線の事に就て申しますが、御承知の通り法律上此北陸線は敦賀より福井金沢を経て富山に至る線路となって居りますから是に猶ほ支線をつけると云うことになりますと、是は一つ支線のことが法律外のものであろうと存じます、之を今設計をして直に議する(など)と云うことは(とて)も出来るものではないと存じます

(石黒五十二 十一番) 別段に御異論も出ませぬ様でありますから採決にならんことを望みます

(議長 川上操六) 格別御議論もない様でありますから直に確定議に致しとうございます・・・御同意の御方は起立して下さい

          起立者   過半数

(議長 川上操六) 過半数でございます

(福井県分のみ抜粋記述)

(解説 主たる質疑の要約)

山口圭蔵(陸軍歩兵少佐) 杉津近辺の線路が海上よりの砲撃を受けやすい。海上から遮蔽する対策を講じた設計を求めたい。

渋沢栄一(経済界代表) 原案では海岸線を経由せず、したがって坂井港、伏木には接続せぬことになっていますが、よく考えればそれらは交通(海上交通)の要地であり、接続しないとなれば経済上の不利益が生じないか、当局の見解をうけたまわりたい。

松本荘一郎(鉄道局部長、工事責任者) 坂井港については地元の要望が強いのみならず、経済上の観点からも接続した方が良いとの意見から精密に測量したのです。その結果、六哩と記憶しているのですが線路が延びます。それと坂井港は地形から彼地方(越前)の海上交通の要地になっており、物資の輸出入も多いのは事実です。しかし敦賀から鉄道が開通すると坂井港を経由しなくてもよい(海上輸送の需要が減る)。また米のごときも川(九頭竜川、竹田川)を利用して坂井港に運ばれる。ですが駅が川の近辺にあれば川船から直接駅に運ばれ汽車に積み込むこともできます。山陽鉄道の例を申上げますが、加古川駅から川の淵にわざわざ支線を敷いて米の出荷時期にはそこ(川の淵)から積み込み西ノ宮、住吉に搬送しています。それと似たような支線も(坂井港へ)将来できるであろうと思います。何れにせよ迂回案では(原案の)本線より六哩近くも延びることになります。福井近辺から金沢、富山の鉄道利用者は人にしろ貨物にしろ迂回した所を通らなければならず、鉄道会社は迂回すれば距離に応じて運賃を徴収すれば利益の上からは問題ないのですが、(余分な運賃を負担する)利用者にとっては大変迷惑な話で、そのような理由で本線はこのような所を迂回すべきではないと考えたのです。

渋沢栄一 再びの説明で良く分かりましたが、最後に述べられた支線云々でありますが、必要があったらその時にと云わず、本線の設計を立てるとき並行して支線設計を立てた方が良いと申しておきます。

  坂井港の実状は詳しくは心得ておりませんが、出入荷する貨物も大量品であるか、希少品であるかも承知していないが、迂回することが不利益なら、支線を接続することを希望したい。

松本荘一郎 弁論でありませんが、今の支線(三国線)のことについて申します。御承知の通り法律上、北陸線は敦賀より福井金沢を経て富山に至る線路となっておりますから、これに尚、支線を接続すると云うことになりますと、これは法律(鉄道施設法で定められた区間)から外れることになります。これを今設計して直ちに審議するなどと云うことはとても出来ることではありません。

(資料 福井県史「資料編」内 第一回鉄道会議議事速記録)

 

(七)北陸線三国迂回論

北陸線福井~金沢ルートはこれで決定したようにみえたのだが、明治二十七年

(一八九四年)一月の第三回鉄道会議に於いて渋沢栄一以下十一人の鉄道会議

議員の連名によって三国から森田から三国・吉崎を経て大聖寺に達する路線

の変更を求める内容の「鉄道北陸福井森田大聖寺間線路再確定の件に係る建

議」が提出された。理由の四点を略述するとつぎのようである(平野三郎

文書より)。

一 三国への迂回で数マイル増すが、(金津経由の)熊坂峠の険峻が避けられ湯尾(現越前町)より()()伽羅(から)(とうげ)(石川県・富山県にまたがる峠)まで平坦な線路を敷設することができる。また、三国・吉崎間は海岸に近いが丘陵の(ろく)(いん)に敷設するので国防上の問題はない。

二 既定路線では、三国港より築造の材料を舟か軌道敷設によって金津および

  森田に運ばざるを得ず、敷設の設備費が必要となる。三国迂回すれば、熊         

  坂隧道の開鑿(かいさく)が不要である。

三 三国は北陸道中の要港であり、三十五万円の工費で港の修築も竣工しているので、鉄道が敷設されれば海陸両運輸の完成で経済上利益が大きい。

四 三国港は嶺北七郡と加賀の江沼、能美、石川三郡の物産の集散地で、鉄道収入の増加につながる。毎年、吉崎本願寺の御忌日(ぎょきにち)には一二・三万人の信者が参拝し、運賃の利益増加が見込める。

 

政府は在来的な流通経路による私設鉄道的な発想を否定し、官設鉄道による、

新しい全国的な流通網を企画していることを示し、三国迂回線をとらない理由

とした。陸軍も、海岸線に露出する鉄道は国防上から強硬に反対した。

しかし、この会議では、三国の必死な巻き返しによって、迂回路線の再調査を

認める議決が行われた。停車場の設置が予定されていた金津では危機感を強め

「福井県坂井郡金津町既定線既(期)成同盟会」を組織し、既定路線敷設の建

議書を鉄道会議、及び逓信大臣に提出し、さらに貴衆両院にも提出すべく衆議

院議員杉田定一を通して運動がおこなわれた。

 

(この項「福井県史」通史編第四節 北陸線の敷設「三国迂回論と三国町の運

動」を引用)

 

(八)        坂野書簡と杉田書簡

坂野書簡(北陸鉄道線維持同盟会書簡)全文

三国迂回論の高まりに当時の金津町長・坂野深は「福井県坂井郡金津町鉄道既定線期成同盟会」を結成した。坂野が杉田定一に出した書簡が残っている。多分に三国町への誤解があり、文脈に乱暴さが散見されるのは、当時の過熱する鉄道駅誘致運動ゆえと思っていただきたい。それほど町の浮沈をかけた戦いであった。

(坂野書簡)

時下向暖之(じかこうだんの)(みぎり)愈々(いよいよ)御清寧奉恭賀候(ごせいねいきょうがたてまつりそうろう)(暖かさに向かう今日この頃、益々穏やかにお過ごしのことお慶びお祝い申し上げます)、陳者(さて)今回総選挙の結果、尊下(そんか)(貴殿)が大多数を以て()出度(でたく)御当撰の御光栄を得られたるは、実に平素徳望の(しか)らしむる(平素から尊敬されている)処にして、国家の為め(はる)かに(遠くから)奉欣賀候(きんがたてまつりそうろう)(お慶びお祝い申し上げます)、尚将来公共の為一層の御配慮奉頻度候(ごはいりょひんどたてまつりそうろう)(幾重にも御配慮賜ることをお願い申し上げます)

(さて)今日(それがし)(など)が唐突にも尊下に向って此書面を呈する所以(ゆえん)(理由)の要旨は、実に国家上某等が黙過す(べか)らざるの(あい)(じょう)(憂い)を尊下に訴え、某等が正義のある所を述べ、以て他日帝国議会の開けたる節は、某等が哀願する一片の事情を翼賛(賛同)せられんことを乞う義に御座候(ござそうろう)依而(よって)先ず其事情の大略(おおよそ)を左に開陳可仕候(かいちんつかまつるべきそうろう)(言上します)

()の第三帝国議会に於て鉄道敷設法案議定(ぎじょう)(評議)の(あと)、予算委員が其工費を査定するに当り、政府説明委員なる松本工学博士は予定路線の精密なる地図を示され、其北陸線の針路に於て委員は挙げて此図の正確なることを賛(賛成)せられ、(しかし)して(そうして)鉄道委員長なる(こう)(むち)(とも)(つね)氏(官僚。当時は衆議院議員)は其審査の結果を衆議院に報告さるヽに当たり、北陸鉄道線路中越前森田より加州(加賀)大聖寺に至るの線路は大に政府予定図の正確なるを説き、三國町に迂回するの必要は軍事上に於いても経済上に於いても決して利ならざるを縷々(るる)説明に及ばれ、全員挙げて之に賛同可決致せしにも(かかわ)らず、本年壱月十七日逓信省(ていしんしょう)(現総務省)内鉄道会議に於て(にわ)かに此の森田大聖寺間線路再調査の件を発議決したる者有之(ものこれあり)、此の発議の要旨たる、(すなわ)ち越前森田村より北進金津町を通過し一直線大聖寺に達する議会既決の確定線を変して、森田村より日本海岸に()る三國町に迂回し以て大聖寺に達せんとする義に御座候、(より)て其際川上(操六。中将)議長、谷将軍((たに)(たて)()中将)始め陸海軍撰出の議員各位は絶対的大反対をされたるも如何なる事情か出席議員弐拾九名の処九名に対する拾壱名の賛成、(すなわ)ち僅かに一名(二名?)の多数に制せられ再調査となりたる(よし)に洩れ聞き申候

某等は右の議決に付、既決線の至当なるや迂回線の至当なるやは早晩再調査の(あかつき)に於て判明す()きを以て、敢て此鉄道会議決も彼比(あれこれ)を論ず可きに(あら)ざるも、近来の風説(近頃の噂)によれば実に一小部落(一地方。三国を指す)の人民らが陰険手段を以て立憲政体(立憲主義)の今日には有る(ある)間敷き(まじき)醜悪なる運動上より()かる議決の及びたる由を聞き及候(およびそうろう)

此風説たる敢て充分の信を()くに足らず(この噂、敢えて信用に足るとは云わぬが)、()た敢えて天下に露告(ろこく)(公表)することを好まずと(いえど)も、(いやし)くも国家公共の事業たる鉄道を一小部落の人民に自由に異動さるヽに(自由勝手にさせるに)至らば実に(かつ)(ぜん)黙視(もくし)()らざると被信候(しんじたくそうろう)(平然と黙認してはならぬと信じる次第です)。

 

苟くも国家公共の事業たる鉄道を一小部落の人民に自由に異動さるヽに至らば実に括然黙視す可らざると被信候(くりかえすことにより決意を強調)

 

 (ここ)を以て某等同感の者(我ら同志の者)は至急表号(表題)の如き同盟会を設け、徹頭徹尾正々堂々の運動を為し、第一に民間の與論(世論)を求め候処(そうろうところ)(求めたところ)、沿道地方の人民は農と商とに論なく挙げて(沿線住民は農業商業を問わず挙げて)某等が正義のある処を賛成致し(そうろう)(ゆえ)(ここ)に一同、会議長へは建議書を送呈し、又黒田(清隆)逓信大臣へは請願書を捧呈(ほうてい)し、一方には某等が仰依(たのみと)する貴衆両院へ既決線維持の請願書を提出して、飽迄(あくまで)某等が誠意を貫徹することに決し、其筋への(鉄道会議議長、黒田逓信大臣への)二通は既に各地総代連署の上差出し()えしも、貴衆両院は未だ成せざる今日に御座候故、別紙の如く既に書面提出の準備相整えしも、未だ之れを提出するの運び至らざる義に御座候(大臣、鉄道会議議長への二通は各地総代の連署の上提出を終えたのだが貴衆院は未だ開会されておらず、ゆえに別紙の如く書面提出の準備は整えたのですが、未だこれを提出する運びには至っておりません)

何れ議会も早晩開かるヽにに相違無之(そういこれなく)被察候(さっしそうろう)(あいだ)、別紙請願書提出致し(そうろう)(せつ)は何卒某等が微哀(びあい)(ささやかな衷心)を御洞察被下(ごどうさつくだされたく)、某等が願意の貫徹致す様国家の為め呉々(くれぐれ)も御尽力奉願上候(ねがいあげたてまつりそうろう)、別紙謄本は即ち貴衆両院へ提出致す可き請願書にして、御参考の為差上申候(さしあげもうしそうろう)(ゆえ)、充分御熱覧(じっくりとご覧)の上宜敷(よろしく)御尽力の程只管(ひたすら)御願申上候

二伸(追伸)、別紙請願書にある通り、若し三國町へ迂回する如きに至れば、貴地方(東京を指す)の人士(じんし)(有力者。ここでは出資者)にも其の時間と賃銭に於て永久の損害を被むるのみならず、其工事も(おおい)遅滞(ちたい)を来すことに御座候得(ござえそうろう)ば(その工事も大いに遅れ滞る結果になることは必定で)、貴地方に於ても有志者諸君と御協議之上更に適当なる請願書(せいがんしょ)提出呉被下候(ていしゅつくれぐれもよろしくそうら)えば幸甚不過之候(こうじんこれにすぎずそうろう)(これに過ぎる幸せはございません)

  明治二十七年三月廿日

         福井県坂井郡金津町鉄道既定線期成同盟会

                      総代 坂野 深

                      外二百三十九名

 福井県第二区選出

 衆議院議員

  杉田 定一 殿

 

 (資料 大阪経済大学所蔵「杉田定一文書」)

  

 

  杉田書簡(金津町鉄道既定線期成同盟の請願書)全文

坂野深(金津町鉄道既定線期成同盟会 総代)よりの依頼を受け、杉田定一は衆議院議長・楠本正隆に書簡を送った。

 

謹んで一書を裁して(文章に手を入れて。この場合期成同盟会よりの請願書に手を入れて)衆議院議長閣下に捧呈(ほうてい)(差し出す)し北陸鉄道森田大聖寺間再調査の件に付請願す (それがし)(など)(もと)より市井(しせい)の賎民にして礼節に()れず閣下の威厳を冒涜するの言辞(げんじ)(言葉使い)なきに非ざるべしと(いえど)も願わくば先ず之を(ゆる)せられ某等の誠意陳述する処の哀情を(りょう)し(認められ)以て採納(さいのう)(取り上げ)あらん事を 

明治二七年一月十七日飛報(ひほう)(急報)あり東京より来る (いわ)く本日鉄道会議に於て北陸鉄道線路森田大聖寺間再調査の議可決せりと 某等(ここ)に於て熟々(よくよく)其議決の要点を(おもう)みるに森田大聖寺間再調査の義とは森田村より坂井郡の中央部金津町を経て一直線に大聖寺に達する前貴院可決の既定線を変して森田より坂井郡の極西(きょくせい)(西の端)なる日本海岸に偏在する三国町に迂行し三国町より大聖寺に達する線路と為さんとする議 換言すれば三国迂回論を意味するものならんか (それがし)(など)(もと)より局外にあり(部外者にて)未だ(それがし)(しょう)なる(詳しい)事を(あずか)り聞く(あた)はずと雖も(私共部外者にていまだ詳細は聞き及んでいませんが、それでも)()し某等の此憶測にして果して其幾分に近しとせば是れ実に某等の黙視する能はざる処(もし私どもの憶測が多少なりとも当たっていたとすれば私どもは黙認することができません)

(いたずら)に北陸鉄道工事に一頓挫を与え竣成(しゅんせい)(竣工)の期を緩くする(遅らせる)ものと信ずるなり

()う(願わくば)左に其理由を陳述し以て賢明なる閣下の洞察を仰がん

某等が茲に多数の人民の願望を代表し請願を為す所以(ゆえん)の要旨は約言(やくげん)(要約)すれば北陸鉄道幹線を三国に迂回せしむるの必要を感ぜず (いな)(むし)ろ之を不可として徹頭徹尾前貴院可決の既定線を変更せられざるを希望するにあり

(そもそも)前願の決定線路(ただ)今回の国設鉄道のみを然りとなすにあらず往年私設北陸鉄道会社の測量線も(また)(ひと)しく森田より金津を経て大聖寺に達する方針にして

未だ(かっ)て幹線を三国に迂回せしむる議(議論)なかりしなり

(かく)の如く幾多の技師が幾回の実測を為すとも皆決定線と大同小異にして未だ曾て三国廻行線を取らざりしは(おのず)から理由の存するありて然るを証明するに足れり(斯の如き多くの技師が何回測量をしようとも皆既定線と大同小異で未だかって三国廻行線を採用しないのは当然の理由があってのことで、その事実を以て証明するに充分である)

然るに今や工事着手の始めに当り唐突にも三国廻行論の起りしは是れ某等の怪訝に堪えざる所にして三国廻行論を不可とする所以の第一なり

(それにもかかわらず今工事着手に入ろうとする時に、突然三国廻行論が浮上することは我々にとって不可解、納得できぬことで、そのことが三国廻行論に反対する第一の理由です)

論者(三国廻航論を主張する人々)或いは()はん鉄道敷設の要旨は交通運輸の便を開くに在り 然るに今三国の如き通邑(つうゆう)(交通の発達した町)を()いて願みず(顧みず)其商工業をして独り文明の利器の恩恵に(あずか)るを得ざらしむるは鉄道敷設の要旨に反するものなりと然り

(三国迂回論者の云う所は鉄道敷設の目的は交通運輸を便利にするに有りと したがって三国町のような(海路、街道)交通の発達した町を顧みない(外す)ことは、商工業振興において我が地方のみ鉄道の恩恵を逃すことになり、鉄道敷設の目的に反することである)

論者の云う所(まこと)に然り然れども一地方(三国を指す)の一局部(特定の利害関係者を指す)の為め特に長延の幹線を迂回するは其一地方の一局部の為めには固より之に過ぐる幸福なかるべしと雖も(論者の云うことはもっともらしく聞こえるが、三国の一部利害関係者のために長距離の北陸線をさらに迂回させることは彼等の為には、もちろん好都合ではあるが)

 

全局の上に於ては(全体から見れば)哩数を増し其哩数に対し時間と費用との損害を永久に被るが如き場合に於ては固より全局の公益の為めに一地方一部局の利益を犠牲に供せざるべからず是れ実に鉄道の国家事業たる性質上に於いて避くべからず結果にして三国の如き(まさ)しく此場合に該当するもの

(公共の利益の為に一地方、一部個人の利益が制限されることは鉄道が国家事業的性質を有する以上止むを得ないことであり、三国の場合も正しくこれに当てはまる)

論者の所謂(いわゆる)鉄道敷設の要旨は以て之を(がい)する(あた)わざるなり(彼等の鉄道敷設の要旨は憤慨せざるを得ない)

(いわん)経験ある当事者(技術者)が線路実測の(のち)前貴院予算委員会に於て其経費を査定するに(あた)り松本(松本荘一郎。鉄道部長)児玉(児玉源太郎。陸軍参謀長)の政府委員諸君が其図面を公示したるに依るも森田金津大聖寺を経過すべきは明瞭なる(のみ)ならず尚前貴院に於ける鉄道法案特別委員の報告に臨み審査委員長(こう)(むち)(とも)(つね)(政府要職を歴任、当時は衆議院議員)は実に左の如き鉄案(確固たる意見)を下されたり

 

「北陸鉄道線路中に於て伏木(富山県の主要港)三国此の二ヶ所は或議員に於て此線路を廻行する事の必要を感ぜられしも若し他日必要ある場合には支線を敷くも(はなは)(むずかし)からず(特に困難とはいえない)若し之を長延の北陸線に迂行する場合には実に言うべからざる不都合を来す云々」

是れ北陸鉄道全局の上に於いて動かすべからず鉄案にして前貴院亦此議を()れ貴族院も亦協賛一致せられ既に幹線を三国に迂回せざる事に決定せし

今日(にわか)に之を変更せんとするは(あに)理の(まさ)に然るべき所ならんや(どうして理に叶っていると言えようか)

是某等が三国廻行論を不可とする所以の第二なり(是が我々の三国廻行論に反対する第二の理由です)

また仮に一歩を退き論者の言に従い三国の如き通邑を措て顧みず其商工業をして文明利器の恩恵に(あず)からしめざるは鉄道敷設の要旨に反すと為し是非とも三国と北陸鉄道の関係を密着ならんとする場合に於ても

(仮に一歩退き彼等の言い分を認め、三国のような交通の要地を外した結果、商工業振興に鉄道の恩恵を得られないとなれば鉄道敷設の目的に反するから、是非とも三国に北陸鉄道を接続させると云う場合でも)

 

必ずしも幹線を迂回するを要せず別に支線を敷設するも可なり現に決定地図に依るも又私設北陸鉄道会社の測量図に(ちょう)するも(照らし合わせても)三国へ支線を敷設する設計なるを以て見れば愈々(いよいよ)(益々)全局の公益を犠牲に供して三国の為めに幹線を迂回するの必要なきを知るべし 是れ某等が三国廻行論を不可とする所以の第三なり。

 

且つ夫れ日本海岸の地に於て三国と同一の事情に在るものは石川県の金石、富山県の伏木等にして共に鉄道の迂回を希望せりと(いえ)ども要するに皆一地方一局部の利益を主張するに過ぎず固より之れが為めに北陸鉄道全局の公益を犠牲に供する能はずとして断然迂回の議を(しりぞ)け茲に始めて北陸線の決定に至りなり

(且つ日本海側の沿岸地において三国と同一条件にあるものは石川県の金石、富山県の伏木などがある。共に鉄道の迂回を希望しているが、皆その地の一部の人間が利益を主張するに過ぎず、もとより此の為に北陸鉄道全体の公益を犠牲にしてはならずと、断固迂回論を斥けて、ここに始めて北陸線(ルート)の決定がなされる)

然るに今日に至り三国の為めに一たび(一度)決定線変更(よう)(悪しき前例)を作らば金石の如き伏木の如き(また)決して黙止(黙視)せず皆(たもと)(ふる)いて()(ごう)(ぜん)(大騒ぎして)迂回論を主張するのみならず沿道地方の人心亦之が為めに動揺し競いて一地方一局部の私利私便を取らんとするや必せり(必須)

而して事此に至れば競争激烈議論紛淆(ふんこう)(紛糾)(つい)に北陸鉄道竣成(しゅんせい)(竣工)の期を(あやま)るに至らん (いわん)や三国へ迂回するときは軍事上亦大いに障碍(しょうがい)(障害)あるに於てや是れ某等が断じて三国迂回論を不可とする所以の第四なり

 

更にまた眼を転じて越前の地勢を按ずる(案ずる)に東より西に(りょう)()(丘陵がなだらかに傾斜)し源を東山に発する諸水は皆西流して日野、足羽、九頭竜の三大川に合し三大川亦次第に西部卑湿(ひしつ)(低地でじめじめした)の地に就き(つい)に最も(くぼ)()なる坂井郡に至りて合流し然る後に三国港口に向かいて放下す (さす)れば一国(越前)の水(ことごと)く坂井郡に(めぐ)りて湓溢四(ほんいつし)()(あふれ)れ出て)、(りょう)(でん)其害(そのがい)(こうむ)る事多しとす

然るに今森田より九頭竜川の岸に沿いて鉄道を敷設するとせば湓溢の水は愈々放下の地なく(流れ出る地なく)悉く中央の平田に集まり淼漫(びょうまん)(水面が果てしなく広がる)として平湖を為し米穀実らず蔬菜(そさい)(野菜)育せず 幾多の生霊(せいれい)(ここでは人民)は()(こう)(生計)の途を失い其悲惨、其損害(あに)(どうして)三国が北陸鉄道の恩恵に与かるを得ざる不便(ふべん)()()(どう)うして語るけんや

(しかるに今森田より九頭竜川の岸沿いに鉄道を敷設すれば溢れた水の逃れ先はなく、ことごとく中央の平田に集まり満々とした平湖を為し米穀実らず、蔬菜は育たず幾多の人民は生計の途を失いその悲惨さ損害はどうして三国が鉄道の恩恵を得られない不便と同列に語る事ができようか)

是れ某等が三国廻行論を不可とする所以の第五なり

 

以上列挙せし五不可は茲に一あるも以て迂回の不必要なる事を()(りょう)するに足れり(以上列挙した五つの不可、その内の一つでも迂回が不必要な理由になり得ることを納得できるだろう)

況や五不可の併せ存するに於てをや北陸鉄道幹線三国廻行論の取るに足らず(かく)の如し 三国廻行論既に取るに足らずとせば森田大聖寺間再調査の義も又其必要なしと云わざるべからず(云わざるを得ない)然れども鉄道会議に於て既に議決せし結果として()た調査せざるを得ざるの順序なりと雖も(再度調査せざるを得ない段取りとなったとしても)唯伏して希望する処は貴院が前決議の趣意(しゅい)(趣旨)を維持せられ断然(毅然として)三国廻行論を斥け既定路線を変更せざるに決せられん事を 之れ而巳(ただ)某等の切に北陸鉄道の達成を望み工事着手の初めに於て異議の生ずるを悲しみ且つは将来の利害を(おもんばか)るの余り敢て多数人民の志望により不文(ふぶん)(無学)を顧みず(ここ)に哀願を為す意(心情)切にして言足らず(ただ)一に閣下が明鑑(めいかん)(明察)を請うに在り 伏して(こいねがわ)くは閣下某等の願意を採納(さいのう)(取り上げ)あらん事を誠惶誠恐(せいこうせいきょう)頓首(とんしゅ)再拝(さいはい)(誠に恐れ多い事でございますが、伏してお願い申し上げます)

 

解説 杉田定一は三国廻行論に反対した理由を五つ挙げている。要約すると、

一 北陸線森田金津経由は幾度となく測量した上での結論であり、敷設工事が始まろうとしている今になって唐突に三国廻行論が起こるのは不可解であり認めることはできない。

二 鉄道法案審査委員長(こう)(むち)(とも)(つね)氏は「三国、伏木(富山)の二ヶ所は同地への迂回を必要と述べる議員もいるが、もし必要であれば他日支線を敷くことも考えられる。今日長延の北陸線を迂回させ更に延せば大きな困難が生ずる」と述べ、衆議院では氏の意見を受け入れ貴族院も同意され、三国には迂回しないことに決した。議会で決した事を覆すことは認められない。

三 三国に鉄道が必要としても、支線を敷設すれば済む事である。巨額を投じ北陸線を迂回させる必要はない。

四 日本海沿岸にて三国と同じような事情がある地域は石川県の金石、富山県の伏木等であり、いずれも鉄道の迂回を望んでいる。迂回することによりその地方は利益を得るだろうが、迂回することにより公の利益は損なわれる。個の利益の為に公の利益が損なわれる事は認められない。もし三国廻行を認めれば悪しき前例となり、他の地域でも迂回論を主張し収拾がつかなくなる。更に三国に迂回すれば軍事上大きな懸案事項となる。以上の事から三国廻航行論に反対する。

五 坂井平野は低地で水害を受けやすい。三国に迂回するとなると森田より九頭竜川の岸に沿って鉄道を敷設することになる。線路には築堤が必要だが、そのため平野の水は行き場を失い大雨の際、田畑は冠水し米穀・蔬菜に被害が生じて多くの百姓が収入を断たれる。よって三国廻行論に反対する。

 

 (資料 大阪経済大学所蔵「杉田定一文書」)

 

(九)        北陸線金津経由に決定する

幹線鉄道敷設では経済界の重鎮・渋沢栄一と鉄道官僚・井上勝(三 北陸鉄道会社創立願で記述)、松本荘一郎(六 北陸線敷設に関する鉄道会議で記述)等の間で対立があった。渋沢は切磋琢磨の競争によって産業は発展するものとし、政府の干渉は健全な企業の育成を妨げるものとした。したがって鉄道の鉄道国有化に反対し、民間の活力を活用すべきと主張続けていた。ルートの選定にあたっても経済的利点を優先させる、つまり物流の拠点である港湾や経済の要地は鉄道に接続させるべきと主張した。北陸線、森田大聖寺間のルートに就いては三国迂回論を支持し、不可能なら三国支線の同時着工を主張した。

 

一方、鉄道官僚は国策に沿う幹線鉄道を全国に網羅することを第一トした。それぞれの幹線が接続する事に依って鉄道の便は飛躍的に向上する。同一理念、同一規格による鉄道敷設でなければならない、そのためには幹線鉄道の国有化は不可欠と主張した。となれば政府予算で莫大な幹線鉄道の敷設費用を負担する。勢い幹線鉄道は適正投資で最大の効果を得なければならない。故に彼らはコスト増となる迂回路線に反対した。

彼らは既存の物流拠点である港湾と鉄道との接続に敢えて拘らず、内陸を網羅する鉄道によって新しい拠点、それは主要駅であったのだが、つくりを目指した。そこから道路網を整備し、陸上輸送を以て物流を担わせる。海運から陸運のダイナミックな転換を目指した。

 

これに同調したのが軍部であった。鉄道が持つ軍事的価値を重視していた軍部は鉄道国有化を強硬に主張し、幹線鉄道網の完成を急がせた。背景に日露開戦への備えがあった。

ロシア帝国が極東アジア進出を目指しシベリア鉄道工事(最終地は日本海に面する港湾都市ウラジオストク)の竣工を急いでいた。日露開戦は必至とみた軍部は日本海側への兵員、物資輸送の大動脈として東海道線に接続する北陸線を最重要路線と捉えていたのである。同時に北陸線が海上から砲撃されることに警戒感を抱いていた。軍部は海岸線を走る線路、海からまる見えの線路敷設には強く反対していた。

明治二十七年一月、第三回鉄道会議で三国迂回線再調査が渋沢栄一らによって建議され可決されたのだが、児玉源太郎(当時陸軍少将)、寺内正毅(まさたけ)(参謀本部第一局長)ら陸軍幹部はこれを激しく批判した。同年六月、三国迂回に伴う九頭竜川沿いに鉄道を敷設することは治水上の問題があるとの理由で、三国廻行論は斥けられ、既定路線敷設が確認された。三国に就いては必要であるなら支線の敷設も可であると政府が答弁し、路線をめぐる論争に終止符がうたれた。

 

(十)        北陸線開業による物流の変革

明治二十六年(一八九三年)四月北陸線敷設工事が着工された。二十七年の末には敦賀・森田間の七割が竣工した。二十八年は豪雨により築堤、橋脚、隧道に大被害が発生、工事は遅れたが、それでも二十九年七月一五日、敦賀・福井間が開通した。

森田・金沢間の工事は二十七年十一月より開始され三十年九月二十日、福井・小松間が開通。三十一年四月一日には金沢、三十二年(一八九九年)三月二十二日には富山まで開通し、北陸線は全線開業となった。

(資料引用 福井県史「通史編」内『北陸鉄道建設概要』金沢鉄道作業局出張所)

一方で北陸線全線開通により海運会社は大打撃をうけた。

「海運に依るものは殆ど其の跡を絶つに至り」(鉄道院『本邦鉄道の社会経済に及ぼせる影響』)たとえば敦賀・金石(石川県)主要航路とする加能(かのう)汽船会社は、同区間が「汽車開通と共に乗客貨物とも皆無の姿」(明治三十二年六月九日付 北国新聞)となり、三十三年三月解散に至っている。

三国港は越前・加賀の物資集散地であり、「金石、敦賀の諸港に定期航路を開き、千石内外の和船が常に北海道、其他各地に往来するもの百世艘に達し」ていたが、上記加能汽船会社等、相次ぐ船会社の撤退により一気に衰退していった。

三国港と内陸部をつなぐ河川運送も同様であった。

 

港に代わって鉄道駅が物資集散の拠点となった。河川での荷役作業はなくなったが、駅での荷役人が必要となった。さらに駅から各地に荷を運ぶ運搬人も必要であった。

もちろん金津は北陸街道の主要宿場である。江戸時代には参勤交代、幕府・朝廷の使者のための伝馬(てんま)公の使者、荷物を運ぶために定められた頭数の馬、人足を常駐させる)、助郷(すけごう)(宿場の人足、馬の補充を近辺の村落に課した賦役)が宿場には義務づけられていた。それだけ宿場の負担は重かったのだが交通体制は整っていた。民間にも人足(荷を担いで運ぶ人夫)、()(しゃく)(馬を使用して荷を運ぶ人夫)もいた。馬を手配し馬借に貸す馬借問屋も金津にあった。明治に入って伝馬、助郷制は廃止されたが、それに代わる交通運送手段として、伝馬、助郷の組織を利用し、問屋を含めて政府は各地に「陸運会社」の設立を促した。殖産興業を国是としていたから、それを支える物流の近代化を急いだのである。

明治三十年九月二十日、北陸線が福井・小松間が開通し、金津駅が開業。地元の人たちは鉄道開通を産業振興につなげようとした。そのためには駅を拠点とした物流体制を整える必要があった。国策に沿った「陸運会社」の立ち上げである。

その労働力を水運の衰退により働き場を失った仲仕に求めた。地元有力者が発起人となり「仲仕組」を結成、鉄道荷役から運搬を担う役割を仲仕組に求めたのであろう。

最終章 金津仲仕組結成

明治期、殖産興業策の中心にあったのは繊維産業であった。製造工業生産額の四〇%を占め、輸出金額の五〇%を繊維産業が占めていた。中でも生糸製品が稼ぎ頭であった。政府は養蚕と製糸産業を奨励した。明治三十三年(一九〇〇年。北陸線全線開通した翌年)の統計では日本は世界最大の生糸輸出国に成長している。政府は全国に養蚕、製糸産業を奨励した。

福井県は明治二十年代に入り群馬県より羽二重製造技術を導入し、二十八年には日本最大の羽二重生産地に成長した。

金津町でも鉄道開通後、急速に養蚕、羽二重生産が盛んになっている。鉄道開通が地域に産業振興をもたらしたのだが、裏で支えたのが鉄道の荷役人、駅と産地、工場を往来した運搬業者であった。その仕事に仲仕たちも就いたのであろう。

 

明治三十四年(一九〇一年)秋、「仲仕組」が創立されたのは時代の要請であった。碑文に刻まれている『明治三十年秋九月鐡路竣工汽車始通爾来気運一・・・』『・・・興業所以報国家倫●●●●・・・』はそのことを表わしている。

鉄道開通によって働き場を失くした仲仕が鉄道荷役、運送業で生計を立て、地域産業に貢献するに至った、奇縁である。

その記念碑が「仲仕組創立総会之碑」である。

石碑の裏面には創立に係わった人々の名前が列記されている。

 

設立員 八名

永岡太助 岡田清五郎 小幡利吉 中山三太郎

保原利左エ門 坂森八三郎 野中仁吉 稲田興作

発起人 六名

森和四郎 笹岡栄吉 本多宗太郎 稲田三● 端宗太郎 雨谷栄吉

 

青木真次郎 水野石太郎 八木仙太郎 新田谷初蔵 保原石太郎 水上久四郎

籠島継太郎 野田彦太郎 勝木辰五郎 岡田石太郎 中村仁吉 川道●吉

紺井岩● 稲田與吉 杉本初蔵 國本駒吉 中山善太郎 蔦津弥吉 小幡捨吉

稲田伊七 牧野源太郎 谷川代太郎 堂下金之助 坂●吉太郎 中山吉松

渡辺末吉 坂戸圭二郎 岡田幸太郎 ●●●● 永岡継太郎 兼定藤吉 

吉田太作 炭田種吉 大渕利三吉 三輪長蔵 野中茂右郎 丸井三五郎

米沢市蔵 栗山寅吉 中●与三五郎 角初五郎 坂本林● 米沢弥●郎

川林三吉 石田金之助 富久太郎 ●●●● 秋田弥三吉 野坂●●●

稲田●● 野沢大吉 稲田亀松

 

側面に 長谷川吉郎 中村與三吉 端藤吉 斉藤助七 他四名(判読不能)

反対側面に 建碑地所寄附者 林津根治郎 殿

●は判読不能

 

河川運送が衰退した後の仲仕について、仲仕組合が結成された経緯についてもそれを知る資料はない。だが諸般の事情を考えれば、仲仕組合の設立目的は鉄道荷役のみならず、政府が奨励した「陸運会社」設立にあり、その労働力を仲仕に求めたのは明らかである。その後の仲仕組合が「陸運会社」に移行したのか否か、それを知る資料はない。敢えてと云うなら明治、大正、昭和初期の運送事情から推測するしかない。

明治、大正時代の陸運は(ばん)()(馬に荷車を(ひか)せる)が主流だった。仲仕はその仕事に就いたのであろう。昭和に入り運送手段として自動車が導入されると、徐々に減少したが、輓馬運送は昭和二十年代中頃まで続いていた。あるいは彼らのなかに最後の仲仕がいたのかも知れない。

 

ともあれ「仲仕組創立総会之碑」の碑文と背景から北陸線開通、金津駅開業による交通運輸の変革を知ることができる。貴重な歴史遺産である。風化欠落した碑文を全文解読することは非常に困難な作業だが、可能であれば成し遂げたい。

 

               平成二十七年一月   長谷川 勲   記

 

 

 


  2015/02/03 (火) 昨夕

 手作りの暖簾を入手したので、応接コーナーの天井から垂らす作業を終え、
 
 一服していた時、電話が入った。

 相手は70歳前後の独居男性で、二時間を超える長時間電話となった。「携帯電話の電池が無くなったので、もう切る。息のつまる寒々とした世の中になったが、お互い、愛を信じて生きようぜ」で、受話器を置いてから、上の写真の行灯(あんどん)(40代女性からのプレゼント)を見つめながら彼の言葉を反芻していた。

 

  2015/02/02 (月) 無題

 昨日の寝覚めに先ず聞いたのは、「後藤さん殺害」というショッキングなニュースであり、私は午前中を、自衛隊出身者との話に費やした。
 これまで雑誌などで読んだ情報を大きく超えるものではなかったが、さすが自衛隊出身だけあって言葉には臨場感がある。

 安倍首相が進める「積極平和外交」が、対米軍事路線追随と「イスラム国」からみなされ敵視されるようになったのは、事実として間違いのないところだ。そして「テロリストに罪をを償わせる」という首相談話で、敵視はより強くなるだろう。
 「イスラム国」の前身・アルカイダはもともとが対ソ戦略の必要上、米CIAがつくったいわば鬼っこのようなものだ。その組織が9.11テロを起こすまでになる。やがて米はイラクに侵攻しフセインを殺害したが大量破壊兵器などはついに発見されなかった。フセイン体制の崩壊によって生じた権力の空白に、テロリストが入り込んでしまったというのが真相である。
 
 「イラクの聖戦アルカイダ」はフセイン政権時代の行政家や軍の解体で職を失った人たちを吸収していった。これが「イスラム国」の始まりで、アメリカのイラク侵攻がなかったら、「イスラム国」の誕生もなかった。、内戦下のイラク、シリアはぐちゃぐちゃで、そんなところへアメリカは大量の武器・弾薬を投入し、結果として「イスラム国」の軍事力強化に手を貸してしまった。
 米オバマ政権はもともとアフガニスタン、イラクへと米軍の海外展開を進めたブッシュ前政権を徹底批判し、「イラク戦争にけじめをつける」と宣言してホワイトハウスに入った。しかし、これが計画通り実行されると、米政府の国防予算が削られ軍産複合体の利権が崩れる。アメリカの経済はいまや戦争なしでは成り立たないようになっている。そして 安倍政権は、そんな米の戦争に集団的自衛権を使って加担しようとしているのだ。

 米とイスラエルの特殊な関係。米上院は14年、イスラエルがガザ攻撃を始めた時、全会一致でイスラエル支持決議を成立させた。決議には「ハマスのイスラエル攻撃はいわれのないもの」であり、「アメリカはイスラエルとその国民を守り、イスラエル国家の生存を保障する」とあった。イスラエルのガザ攻撃は国際法を踏みにじる行為であり、イスラム諸国はいうまでもなく、ヨーロッパ各地で大規模な抗議デモが起きている。パレスチナ人2000人以上が犠牲となり、500人余りの子どもが殺された。そんな虐殺行為が満場一致で支持されたのだ。この背景には、イスラエル・ロビーの活動があった。アメリカの議員の多くはイスラエル・ロビーから多額の政治献金を受け取っている。イスラエル・ロビーは米社会のあらゆる分野の重要な位置を押さえているため、彼らの活動を批判すると、選挙に当選することができなくなる。
 
 日本の首相は、この複雑な中東世界へ出かけて行って、「イスラム国」と敵対する国々への援助を約束した。こういったことを聞いていると、国際社会のなかでの日本の立ち位置が、根本から変わってしまったように思える。


 高戸甚右エ門著「インダスの流れ
 私がこの本を高戸氏からいただいて
数年が過ぎ、去年の6月に読んだ。

以下、冒頭を紹介
著者・発刊に際して
「私たちは、今恵まれた窮めて便利な生活をしている反面、おもいやりの心がすたれて、自分さえ良ければいい」という風潮がみなぎっているが、これは人間社会の貧困そのものではないだろうか。

戦後日本は立派な製品を安い価格で世界に売り出し、めざましい発展をとげているにもかかわらず、「国民そのものに欠陥がある」と米国ハーバード大学のエズラヴォーゲル教授が指摘された通り、日本的考えがどこでも通用するような錯覚が目立つのではないだろうか。毎年沢山の人が海外旅行すると聞くが、海外へ行くにはパスポートが必要でありこれには外務大臣が相手国に対して行路の安全を依頼する文面がついている。ところが日本人であるとの国家意識を持たず、そのような教育を受けず、国策を無視した言論が横行し外国のジャパンパッシングに同調するなど国益を考えない人々が大手を振って歩いている国から出ていくから冷や汗ものであり、一国の繁栄だけを願うものではなく、世界の平和と繁栄を願い、地球の保全と人類の進歩を考えるとき他国の事情を知り、理解することが大切である。
 どの民族にも歴史と伝統があり、風俗、習慣、言語が異なるも、それぞれその環境で英知を重ねて生活がなされているのである。

  海外での生活を通して今改めて「豊かさ」とは何なのかと考えさせられるのである。
 二カ年のパキスタンでの生活と歴史の歴史を書きとどめたのは、帰国した昭和三十五年(一九八八)の暮れである。その後、会社に勤務し昭和六三年(一九八八)定年退職しても農業の傍ら公務を持ち多忙のため原稿を死蔵していたが七五才を迎え老人の郷愁から整理をすることにした。
 日進月歩は世の常。すでに四〇年を経て、かってのパキスタンは印パ戦争のあと一九七二年一月東パキスタンはバングラデシュとして分離独立し
今日に至っている。パキスタンに於いても首都が「カラチ」から「イスラマバード」に移り、パキスタンも近代国家として繁栄、進歩をしていることであろう。
一九五九年「チッタゴン
(東パ)」からカルカッタに入り領事館で聞いた「ダライラマ亡命」のビッグニュースも昨日のことのように思われ、カルカッタのハウラー駅からブツダガヤ、アグラ、デリー、アムリツアー(インド領)、ラホール(4パキスタン領)への汽車の旅もなつかしい。
ボンベイ、マドラス、スリランカのコロンボやベラデニヤ等も、TVで報道を聞く度に現地での思い出が四〇年前にタイムスリップして、脳裏をかすめる昨今である。
  平成一二年三月



  2015/02/01 (日) 旅立ち

 きょうから再出発です。