2015年04月

 2015/04/30 (木) 四月最終日

 昨晩はとんぼさんと一緒に芦原祭り会場を歩き、そのあとは御自宅でビール・清酒を堪能。

 歴史小説家として名をなしつつあるとんぼさんは、一面、「必殺料理人」である。
 彼の手作りの刺身をサカナに、「加賀の食文化と越前食文化のちがい」を聴いていたのだが、さしで聴くのは勿体ないと思った。私のGFたちと一緒に聴きたいと思った。

 

 2015/04/29 (水) きょうからゴールデンウイーク

 昨日は池田町の山奥にいた。
 

 古民家の解体現場で柱・梁の計測をしていたのだが一尺に近い角柱や一尺五寸径の丸太を見ていると素直に感動する。ながい年月、風雪に耐えて、住まう人たちを見つめ続けてきたのである。
 正午に郷土史家・印牧氏(性海寺住職)が来訪。長谷川氏が代表質問するというかたちで講話が進行した。聴力が少々衰えているとはいえ、93歳とは思えない驚くべき記憶力である。


 10人が集まって、私の事務所は包容力ぎりぎりであることを感じた。
 2015/04/28 (火) 熱々珈琲を飲みながら

 昨日の来訪者は三人。いずれもが選挙戦の結果をそれぞれに分析して帰っていった。

 この一週間、選挙のことしか頭になく、しかし、そのことをブログに書けば8年前と同じように「掲示板」が炎上するのではないかとの懸念があったので結局は無口人間になっていた。

 ということで
 きょうも元気で頑張ろう。そのためには、先ず、散髪に行かねばならない。


 2015/04/27 (月) あわら市長選結果

281票という聞いたことがないほどの僅差に驚いた。

 声の広場にも何件かの書き込みがあり、僕個人はNO556さんと同じ思いです。

 2015/04/26 (日) 無題

 昨日は久しぶりに加賀国のかぼちゃ村へ行った。蜊スパゲッテイを注文した。備え付けのナイフとフォークを使うのがスパゲッテイの正しい食べ方なのだが、僕には使えない。仕方なく、店員に頼んで箸を持ってきてもらった。
 美味しかった。

 2015/04/25 (土) もう週末か

 昨日の夜も個人演説会を二ヶ所で聴いていた。全身耳になって聴いていた。
 これで大下さんの演説会場へ三回、橋本さんの演説会場へ三回足を運んだことになる。これからの市政の舵取り役を決める大切な選挙だ。それぞれの立候補者の主張を聴き比べることによって、自分なりの判断ができる。

 

 2015/04/24 (金) もう週末か

 風邪を引いたのは何年振りだろう。
 一昨日の晩は、悪寒と咳で熟睡できず、昨日は建築現場での打合せを終えたのち、早々に自宅へ戻り、午後三時就寝。今朝の三時まで延々と眠り続けた。
 「白百合」さんへ
 「史跡」の柱というのはこれ(下の写真)のことでしょうか。
 これはあわら市文化財指定の柱ですが、十数年前つまり金津町時代に指定されました。指定にあたっては、当時の文化財保護委員長・故志田画伯を案内したことをきのうのことのように覚えています。指定対象は神社境内全域で、拝殿の絵馬や観音堂内部の33体観音などを是非みていただきたいと思います。


 この写真の絵も志田画伯の手になるものです。

 2015/04/23 (木) 市長選 後半戦に突入

 ここ数日、大下さんの講演会場へ橋本さんの講演会場へ、とんぼさんと一緒に出向き、ふたりの訴えをじっくりと聴いてきた。

 「声の広場」でのとんぼさんと、ほぼ同意見だ。とにかく両者の肉声に触れることで、「選挙公報」などではうかがい知れない違いがみえてくる。
 それはともかく
 壊れていたオープンカフェのフェンスがYさんの手によって復旧した。謝謝(シェーシェー)です。
 

 2015/04/22 (水) 陰気になると元気が出てくる

 昨日の午後、僕はあわら市内の山中(さんちゅう)にある竹林にたたずみ、頬を打つ風の匂いと、風が引き起こす竹枝どおしのこすれによる柔らかい音の世界に遊んでいた。「自然」の動きには一瞬の停滞もないことがよく分る。
 こういう世界を作った創造主=神に思いがはせる。

 個人的な体験からではあるが、数年前から僕は霊魂の存在を深く信じるようになって、勢い、視界に入ってくる草花や小動物や雲の流れのなかに魂魄を感じるようになってきた。

 脳内出血による後遺症として、脳の動きが現実直視型から妄想型へミスリードされるようになったと考えるのが、一番説得力のある説明だろうが、必ずしもそれだけではないだろう。半年間ほど他人の姿が骸骨にみえて仕方ない時期があったが、そのことによって、人間は生きていながら死んでいるという、つまり「半死半生」者が世界に住んでいると思うようになってきた。

 
 2015/04/21 (火) 無題 

 シベリア大紀行おろしや国酔夢譚(1985)・四時間十二分をユーチューブで夜通し観ていた。
 大黒屋光大夫が200年前に通った厳寒の地・シベリア大陸。彼の足跡を訪ねる旅の動画で、編集は井上靖、レポーターは椎名誠。作製は30年ほど前だろう。若いときの椎名が持っていた男の色気にまず驚いた。

 伊勢の国・白子の浦を出発した光大夫たち17人を乗せた船が暴風雨によって難破し、八ヶ月間の漂流ののちたどり着いたのがロシア帝国属領のアムチトカ島で、望郷の思いのなかで次々と死んでいった仲間たちのためにもと、女帝エカチェリーナ2世に帰国願いを出すために、ロシア帝国・西の果てのペテルブルグへ向かう。タイガを進む過酷さは想像を絶するものであった。

 光大夫たち二人が帰国するまでには9年半の歳月が必要だった。しかし、帰国できても、運の悪いことに、徳川幕藩体制は当時鎖国を継続中で、なおかつ政治の中枢は守旧派・松平定信に実権が移っていた。よって、光大夫は死ぬまでの30数年間を幽閉同然の身で過ごさなければならなかった。
 阿蘭陀(オランダ)とは別の世界を見分し書き留めた光大夫は、本来なら時代の寵児となっていたはずで、その意味で彼もまた、時代に翻弄されたひとだったと言える。というよりも、生きとし生きる人間は全て翻弄されているのだ。
 2015/04/20(月) 市長選挙

 今朝の福井新聞一面は、あわら市市長選挙立候補者二名を大々的に報じている。

 そのせいか、遠方の近方の知人たちから携帯電話あるいは携帯メールが入り、異口同音に「牧田はんも大変やなあ、二人ともよく知っているからなあ」と言う。実際のところ、全然大変じゃないのだが(笑)。

 2015/04/19 (日) 今日から市長選

 白百合さんへ
 「声の広場no545とんぼさん」の補足→坂ノ下八幡神社地図です。
 昨日の昼、午睡から覚めてテレビのスイッチを入れたら、映画・「おろしや国酔夢譚」をやっている。大黒屋光太夫役は勿論緒方拳だ。数週間前に原作を読んでいたので、本の中身を思い出しながら、映画を楽しんだ。

 終了後、思い立って図書館へ。「韃靼漂流記の(井上義太郎著)」を今開いている。三国商人たちによって残された漂流譚の研究書だが、先日、印牧先生(93歳)の口から韃靼漂流譚のことを熱く聞かされたことが、この本を開いた動機。どうも、僕は漂流の本が好きなようだ。


 2015/04/18 (土) もう週末か

 宮尾登美子の「寒椿」を読み終えた。句点が異常に少ない文体という印象が残ったが、それはともかく、一章「小奴の澄子」、二章「久千代の民江」、三章「花勇の貞子」、四章「染弥の貞子」の章から成るこの小説は高知の色町に身を沈めた四人の女の半生を描いた物語で、ここ金津も江戸時代には遊廓街を持つ地域として有名だったし、血筋の関係からも、興味深く読み終えることが出来た。

 参考までに
 青楼無縁塚


建立は明治22年(1889年)3月。「姫川の 俤ゆかし 枯柳」(不老庵・寿山)と書いてある。姫川は勿論竹田川を指すが、青楼には妓楼の意味があり、すなわち金津宿にいた遊女たちの墓である。
無縁とは、稲作農耕体制から距離を置いているひとたちあるいははじきだされていたひとたちの謂だと思う。聖・山伏・巫女・鋳物師・木地師・上人・海民・山民・クグツ・遊女等である。青楼無縁塚の無縁は、遊女を指す。
 安永2年(1773年)の記録には、旅篭60軒、揚屋20軒、遊女屋7軒、遊女61名とある。
○金津八日町箒はいらぬ 揚屋小女郎の裾ではく

○八日町通れば二階から招く 紅い鹿の子の振袖で
 という唄が当時の人々の口端にのぼっている。金津宿の遊郭が隆盛を誇ったことのあかし。


 2015/04/17 (金) 無題

  僕は、阪神タイガースが勝った翌日の新聞しか読まないので、サヨナラ負けを続けていたこの数日、新聞とは無縁だった。しかしながら、昨晩の久し振り的勝利を紙面で味わおうと開いた今朝の福井新聞・スポーツ面の大見出しは「巨人勝利」であって、つまらない。これから先がおもいやられる。
 おもいやられると言えばあわら市長選で、今回、「公開討論会」が実現しなかったことが残念でたまらない。残念でたまらないが、いずれにしろ、さあ、市長選だ。
 今日の午後は、あわら市役所の会議室にいた。


 県職員に対して、盟友・達川さんが、あわら市の未来を語り続けている。しゃべり始めたら止まらない男なのである。

 2015/04/16 (木) 昨日の一日

  午前中は、雨の降りしきる中、建築現場へ出かけ、打合せをこなす。帰途、スーパーマーケットに寄ってうどん玉を購入。事務所に戻ってからは、うどん定食調理作製に精を出す。食べ終わり、キリマンジャロ珈琲を飲んでいる時、ケータイにメールが着信していることに気が付いた。
 「・・訪ねたのですがお留守でした・・」と書いてある。女性(おなご)が来ることもあるのだから、メールチェックはその都度しなければならないと思った。

 午後一番に初老の男性が来訪。「こうやって話していると、牧田さんはすごく真面目なひとやねえ」と言う。
 何を持って真面目・不真面目を区分けするのか、もっと言うならば明るい・暗いを、美しい・醜いを区分けするのか皆目わからない僕は「自然にしゃべり自然にふるまっているだけです」と、答えた。
 今朝は、家の近くにある畑を掃除していた。空き缶を拾い紙屑を燃やし、畑はかなりすっきりした。僕が命を落とす前に、畑をきれいにしておきたい。

 

 2015/04/15 (水) どこかで早起き鳥が鳴いている

  昨晩の僕は、夢の中で、死んだ親父と会っていた。会話していた。場所は既に解体した旧住宅一階の食堂。無精ひげをはやし老人顔となった親父の顔からは安堵が感じられた。もともと口数の少ない親父だからむしろ心の会話だったが、それで僕は充分嬉しかった。夢から覚めた今(午前四時半)、今日一日後悔のないように生きようと思っている。


2015/04/14 (火) 寒さぶり返し

 宮尾登美子著「寒椿」を読み進めるうち、お町さんを思い出していた。
 それはともかく
 CADに邁進していた午後二時五分、NHKラジオ臨時ニュースが、「福井地裁が高浜原発三号機四号機の再稼働を認めない旨を仮処分決定」と、流した。当然だと、僕は思う。
 今朝一番の来訪者・Yさんは、「やっと夜明け前を読み終えたので、来月に馬篭の藤村記念館を訪ねる。既にホテルを予約した」と、言う。いいなあ、羨ましいなあ。僕が委員会の視察研修で記念館を訪れたのは、かれこれ7or8年前で、(文学館なるものに入ったのが生まれて初めてだったので余計そう思ったのかもしれないが)館の木の味わい、文献の充実度、係員の語りの面白さのどれをとってもあわら市・藤野厳九郎記念館とは段違いで、現に年間入場者数も桁が違うとのこと。
 ぼくはこの余りにも有名な夜明け前を読んでいなかったので、「よし、今度来る時までには必ず読んでおくぞ」と秘かに決意したのだが、寄る年波でいまだに読んでいない。でも映画(脚色・新藤兼人 青山半蔵・滝沢修)をDVDで観ているので、まあいいか。

2015/04/13 (月) 新しい週の始まり

 昨日は、投票所へ行った以外は閉じこもりを貫徹。
 今朝になって元気が出たので、午前五時半に建物測量のために三国を目指して事務所を出発。
 途中目に入った福井工大敷地の満開桜が見事で、車を停めてしばし見とれていた。


 世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし 在原業平  

 「私は桜が嫌いや、桜のせいで気持ちがいらだつ」・・くらいが直訳なのだろうが、もう少し想像力を伸ばすと、「私の大好きな桜よ。貴女は咲いたと思っているうちにすぐ散ってしまう。そんなぐらいやったら咲くなよ。そうすれば別れの悲しみを味わわなくてすむのに」・・くらいになるだろう。

2015/04/13 (月) 新しい週の始まり

 昨日は、投票所へ行った以外は閉じこもりを貫徹。
 今朝になって元気が出たので、午前五時半に建物測量のために三国を目指して事務所を出発。
 途中目に入った福井工大敷地の満開桜が見事で、車を停めてしばし見とれていた。


 世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし 在原業平  

 「私は桜が嫌いや、桜のせいで気持ちがいらだつ」・・くらいが直訳なのだろうが、もう少し想像力を伸ばすと、「私の大好きな桜よ。貴女は咲いたと思っているうちにすぐ散ってしまう。そんなぐらいやったら咲くなよ。そうすれば別れの悲しみを味わわなくてすむのに」・・くらいになるだろう。

2015/04/12 (日) 予定無しの日曜日

 昨晩、区民館に於いて「坂ノ下農地環境保全会定期総会」が開かれ
 

 僕は議長を任命されたので、認知症気味であるにも関らず頑張ってこなしました。
 それはともかく
 津本陽著「火焔浄土 顕如上人伝」を読み終えて頭の中がボオッとしている。この本は一言で言えば、戦国末期、全国平定を目指す織田信長軍団と、最大の難敵・浄土真宗本願寺派との壮絶な戦いを描いた記録で、信長の苛斂誅求には驚くばかりだ。荒木村重一族郎党皆殺しや越前府中での百姓一揆衆釜ゆで殺しの描写にはただただ反吐が出そうになった。
 400年以上前の人権意識が現代と全く違ったものであることは想像に難くないが、それにしても、その時代に私の先祖が戦いに参加していたか風聞を耳にしていたかは事実で、だとすれば私の胸中の記憶袋にDNAとして納められていることになる。
 欣求浄土は即ち現世否定なのだから、究極的には人類滅亡礼賛につながるのではないかと、素朴に思うのだが、現実的にはその後の元和偃武以降、人口は増え続けてきた。ということは、性愛の歴史がどのような状況下でも根強く存在し続けてきたことの証明ともなる。

 ものすごく不思議なことだ。


2015/04/11 (土) 木について

 昨日の朝は、新しくオープンした「いちひめこども園」にいた。某新聞記者から依頼されたことに関して、園長に相談していたのだが、帰り際、建物エントランスを彩る花々が目に付いた。

 園長は「こどもたちに対しては、花育・木育を目指しているのよ」と言う。僕はどちらかというと、樹木に興味がある。商売柄、木こりと話しをする機会が多かったが、例えば、20数年前、木こり・Aさんと話しをしていた時、こう言われた。
 「山へ木を伐りに行っても、私は電動のこぎりで伐ることはできません。必ず手動のこぎりを使います。のこぎりを引く時、木の泣き声が聞こえてくるんですよ。<いたーい、いたーい>と叫ぶんです。植物の命を奪うわけですから、断末魔を胸に刻むことが私の義務だと思うんです。汗を拭いたタオルを木の枝にかけることはできません。木が<おもーい、おもーい>と叫んで泣くんです」

2015/04/10 (金) もう週末か

 昨夕の来訪者から、「夜、まきちゃんの事務所を車で通りすぎる時、いつも電気が消えているので、ドアをノックしにくい」と言われた。 
 確かに、冬の間は寒いので6時頃の晩酌したあと、布団に入って寝てしまうのが定番だったが、これからは変わるだろう。
 ①プロ野球ナイター中継が始まった
 ②手話サークルが再開された の二つの理由によって、就寝時刻が遅くなってきた。せめて9時過ぎまでは、起きていよう。それが友人たちに対する礼儀だと思う。
 それはともかく
 「空海」178頁。
 ・・「唐に渡って何を学ぶつもりじゃ」
 帝が問いかけた。問われて答える。その限りにおいては、相手が帝だとしても、対等である。
 空海は顔を上げ、胸を張って答えた。
 「おれは長く陸奥国にいた。田村麻呂と阿弖流為の闘いを見守ってきた。和人(やまとびと)蝦夷(えみし)も同じ人だ。人は皆、仏の掌のなかで生きる兄弟。その兄弟がなぜ争い、殺し合うのか。和人は大和の神に祈り、蝦夷はアイヌシモリのカムイに祈る。神が異なれば、人が和解することもないだろう。だが、仏は神々を超えたものだ。天竺の神も、仏の世界では同胞(はらから)となる。蝦夷に仏の教えを広めれば、戦はなくなるはずだ。おれは阿弖流為に仏の教えを説いて投降を促した。田村麻呂も仏の教えによって、阿弖流為の助命嘆願を約束してくれた。このことによって、蝦夷の数百騎の兵たちがたちが、闘うことなく帰順した。だが、都の貴族たちは阿弖流為の命を奪おうとしている。約束を違えれば、蝦夷はまた反乱を起こすだろう」・・

 結局、阿弖流為は朝廷によって殺されてしまうのだが、ここで、僕は小浜市・明通寺の住職を思い出した。
 反原発の闘士として、福井県内では知らない人はいないだろうが、彼とは二度話したことがある。
 翻って、真言宗の明通寺は、坂上田村麻呂が阿弖流為鎮魂のために創建したとのことである。


2015/04/09 (木) 本日は手話サークル 

 一年ほど前にあるひとから頂いた杖が下の写真。
 

 「歩行障害で杖を使うのは恥ずかしい」との理由で、ながらく未使用だったのだけれども、「僕に限定して言えば、そもそも現世にいること自体が恥ずかしいのだから、そんなことはどうでもいいのではないか」という思いが強くなり、使用に踏み切りました。
 杖使用で新しい世界に入ったようなすがすがしい気分です。

 2015/04/08 (水) 無題

  「障子」(迎井夏樹)
 細い木を縦横の格子に組んで枠を取りつけその片側に白く薄い紙を貼った、この障子は畳とともに実に日本的なものです。外人が日本の建築は紙と木でできていると表現するのも、おそらく建具のイメージが強かったのでしょう。障子はまたきわめて抽象的です。
 だいたい日本人は紙を使うのがうまい民族です。光を通し風をさえぎり、軽く強く、しかもそのデザインのジオメトリックな美しさは、まったくすばらしいものだと思います。偉大な発明品というべきでしょう。しかし、私たちが一般に障子と呼んでいるのは明り障子のことで、昔はもっと広い範囲のものをそう呼んだということです。いま障子の源流をきわめようとすれば、それはおのずから住宅の歴史をひもとくことになるのですが、「障子」というテーマにしぼって生活文化の変化の跡をたどってみるのも、また興味深いものがあるでしょう。
 ずうっと昔、古い住まいは竪穴住居のような穴式の住まいで、そのつぎの時代には高床式が行なわれます。これはいわばワンルームシステム、未分化の時代です。家族構成が多くなり、生活様式が複雑化してくると、なにか区切りをつけなければならず、そこに仕切りの必要が生まれてきます。つまりプライバシーの発生、パテイションの起こりがあるのです。社会と家族の間、個人と個人との間、昼の生活と夜の生活との間、お客と家の者との間、とその障りはさまざまの形で現れます。障子の「障」という字は「さえぎるもの」「ふさぐもの」という意味ですが、厳密に障子の発生を求めるならば、仕切りの必要がすなわち、障子の起こりとみてさしつかえないでしょう。
 衝立・屏風あるいは襖とパテイションはさまざまの形式をとって、ある時は中国大陸の影響を受けて、ある時は独創的に用いられてくるのですが、当時の人々は壁以外の仕切りのすべてを総称して障子と呼んでいたのです。私たちはその一つ一つを眺めて見る時、それらが合理的であり、また美的センスについてとくにすぐれているのに驚嘆するのですが、なおその使われた時代を思い浮かべる時、いっそう興味尽きないものがあるのです。
 

 2015/04/07 (火) 無題

 僕は15年間ほど議員をやっていたが、議員になる前つまり建築設計稼業一途であった頃は、構造計算の仕事が多かった。それが、去年あたりから、時間をさく建築設計監理といったら、新築・改修に関わらず全て木造。
 日本は木の国だ。世界最古の木造建築物といえば法隆寺だし、なんというか、自分が自然の懐に戻っていくような安堵感を味わっている。

 ということで
 僕の目の前に「もののはじめ考(大阪建設業会編集)」という名の古ぼけた本がありますが、これが木造住宅に関する技術の発生過程を記録していて興味深い。

 例えば、「障子」(迎井夏樹)
 細い木を縦横の格子に組んで枠を取りつけその片側に白く薄い紙を貼った、この障子は畳とともに実に日本的なものです。外人が日本の建築は紙と木でできていると表現するのも、おそらく建具のイメージが強かったのでしょう。障子はまたきわめて抽象的です。
 だいたい日本人は紙を使うのがうまい民族です。光を通し風をさえぎり、軽く強く、しかもそのデザインのジオメトリックな美しさは、まったくすばらしいものだと思います。偉大な発明品というべきでしょう。しかし、私たちが一般に障子と呼んでいるのは明り障子のことで、昔はもっと広い範囲のものをそう呼んだということです。いま障子の源流をきわめようとすれば、それはおのずから住宅の歴史をひもとくことになるのですが、「障子」というテーマにしぼって生活文化の変化の跡をたどってみるのも、また興味深いものがあるでしょう。・・

 2015/04/06 (月) 新しい週の始まり

 ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ   紀友則

 昨日・一昨日の長雨で近在の桜が散り始めているという。今年も又花見をすることなく過去の花見を追憶することで終わりそうで、しかし、こういうふうにして心の旅路(たびじ)をたどることで、風流を味わえるのかもしれない。
 それはともかく
 空海という人は、名前だけしか知らなかったけれども、今、三田誠広著「空海」を読んでいて、ものすごい人だったことがよくわかる。以下小説の冒頭を紹介
 
「承和二年(西暦八三五年)、空海は六十二歳になった。
 すでに四年前の天長八年(八三一年)には死期を悟って大僧都の辞任を申し出ている。(よう)といた呼ばれる腫れ物が全身に広がっていた。辞任は許されず、その後も宮中の公式行事や高野山での万灯会の催しに加わり、さらに延暦寺で密教を講じ、東大寺で法華経を講じるなど、弟子の育成に献身した。この頃から、五穀を断ち始めた。
 徐々に空海の体力は衰えていった。弟子たちは心配して、老いた者ほど食事で体力を支えなければならぬと進言したが、空海は微笑を浮かべ、これが時の定めだと弟子たちを諭した。
 即身成仏。
 生きながら仏に近づいていき、やがて生身の肉体が(ダルマ)そのものに融合する。
 小乗と呼ばれる初期仏教は修行者がおのれを仏に近づけていくことを目標にしていた。これに対して新たに起こった大乗仏教は、すべての衆生(人々)に仏性(仏になる性質)があると説き、より多くの衆生を救うことを目指した。その長く苦しい試みを生涯にわたって続けるのが、菩薩行である。

 空海は菩薩(仏をめざして修行し同時に衆生を救う者)として生きたが、いま仏になろうとしている。生涯の終わりに至福の時が待ち受けているのだ。
 六十二歳(数え年)。還暦の翌年である。

 五穀を断つと体は骨と皮だけになってしぼんでいく。やがて枯れ木のように魂の抜けた体だけが残る。自ら命を絶つに等しい試みである。・・・」
 それはともかく
 今日、某大手新聞福井支局の女性記者から電話があった。「街を盛り上げようとしている人を紹介してください」と言う。男性記者だったら口数少なく受話器を置くのだが、女性記者の場合は違う。根が女好きだからもしれないが、僕は饒舌になってしゃべり続けた。

 

 2015/04/05 (日)

 本日は午前三時に起床し、事務所の整理整頓に熱中していたので、外出と言えば、うどんを食べに出かけただけ。疲れて夕刻にはベッドにもぐり込み、半分寝ながら本を読んでいる間に携帯電話が二件入り、「体が悪いのか?」と異口同音に言われた。

 このマイナーブログを読んで下さる方に心配をかけないためにも、毎日一行以上、書き込むべきだと思った。
 

 2015/04/04 (土) 体について

 県議選が始まった。福井県議の報酬は、記憶で言うのだが、確か80万円(月額)くらいで、それと同程度の政務調査費がつく(注 あわら市議は35万で政務調査費無し)。いい身分だから、今回はあわら地区で対立候補が出た。私は現職・新人の双方をよく知っているので、「おふたりさん、選挙運動頑張ってください。そして当選した暁には、高給に見合うべく不眠不休で働いてください。願わくば、あわら市の歴史の語り部となっていただきたい。くれぐれも兵庫県大泣き議員のような醜態を見せないでください」と、言うしかないだろう。
 それはともかく
 本日は主治医のところへ行って、先日の血液検査の結果数値を解説してもらった。「すべての数値が完璧にいいし、血圧もOKです」と言われ、なんとなく不思議な気分になった。

 脳内出血の後遺症で下半身マヒは進行しながらも、リハビリは一切せず煙草に関してはチェーンスモーカーであり続け、酒はジャンルを問わず飲み浸りなのでる。
 これは脳が異常になっているからだろうが、健康と不健康が体内に同居していると言わざるを得ない。いつ死んでもいいと思っている私の唯一の望みは、「知らんうちに死んでいた」だ。
 芭蕉いろいろ

 明けぼのや しら魚しろき  こと一寸

 名月や 座にうつくしき かおもなし

 野ざらしを 心に風の しむ身かな

 稲妻に さとらぬ人の 貴さよ

 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

 五月雨の 降りのこしてや 光堂

 石山の 石より白し 秋の風

 山路来て なにやらゆかし すみれ草

 此道や 行人なしに 秋の暮

 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

 塚も動け わが泣く声は 秋の風

 夏草や 兵どもが 夢の跡

 

 2015/04/03 (金) 饅頭を食いながら

 昨日の晩は、中央公民館に居た。新しく手話サークルがつくられ、県聾協幹部のYさん及び認定手話通訳者のTさんから御呼出しがかかった為であり、昨晩がその第一回目だった。YさんにしろTさんにしろ数年ぶりの再開で、四方山話がなつかしかった。

 Tさんはまだ若く、あわら市通訳界のホープと言えるのだが、「この前、福井県議会の手話通訳に行ったのだけれど、専門用語が多くむつかしくって、全然できなかったわ」と、私に云う。
 私は、「議会用語とか行政用語とかは、単に一般市民が耳馴れしていないからむつかしいと感じるだけの話であって、例えば一般質問などでも、知的なレベルのものではないんやから、慣れりゃすぐできるようになるよ」と、答えた。

 聾者に対する「聞く保障」がなされていない限り、行政や議会が差別の側に立っているというのは、理の当然である。
 それはともかく
 今日の私は、お袋の運転手として某スーパーへ行った行った(注 そこで超美人に話しかけられ、「ねえねえ牧田さん・・今回の県議選誰に入れたらいいの? ワタシ牧田さんの言うとおりに書くわ」と言われ、「自分の考えたとおりに書けばいいんじゃないか」と答えたのだが)以外は外に出ずひたすらCADに邁進している。
 そろそろ午後五時だ。時報とともに缶ビールを飲もう。
 

 2015/04/02 (木) 無題

 仕事は午前中で打ち切り、午後は選抜甲子園大会・敦賀気比VS東海大四をテレビ観戦。
 いい試合だった。

 敦賀市は盛り上がっているだろう。私は、近いうちに、お袋が生まれた気比の松原へ旅に出るつもりだ。その為には、愛車ケトラに幌をつけなくてはならない

そこで、今朝(けさ)、DIY店に幌フレームを探しに行った。¥20500-と高いがなんとかしたい。

 2015/04/01 (水) 朝からしとしと雨

 今日から四月。
 愛車・ケトラのモデルチェンジ作業に着手する。