2015年06月

2015/06/30 (火) 6月最終日
  
 今年の六月はあっという間だった。7月はもっとあっという間だろう。
 ということで、仕事の打ち合わせを終えて事務所の戻ったところに好紳士・Nくんが来た。右手に高級ワインを持っている。
 
 私は横文字が全然わからないのだが、イタリア産高給ワイン年代物であることだけはわかる。
 一人で飲むのは後ろめたい。又、六人スペシャルパーテイを開こう。
 ニュース速報・・あわら市議会新議長は坪田正武氏に決定!
 そういうわけで坪田氏にお祝いメールを送ったら
 「こんにちは、ありがとうございます、頑張ります。お祝いのメールは牧田が1番です!」との返信メールが入ってきた。その返信メールを、私は片野海岸・「うみぼうず」で読んでいた。

2015/06/29 (月) 昨晩の飲み会 
  
 SUNTORY RESERVE WHISKYも持ち込まれるという豪華絢爛な飲み会は午後7時に始まった。
 
 参加者は6名。
 酒と料理に舌鼓をうつことに夢中だった私は、みんながいつ帰ったのか全く覚えていない。こういう世界を桃源郷というのだろう。目が覚めたら6時だ。きょうもがんばろう。
 ということで
 今朝、建築現場測量をこなして自宅に帰ってきたら、自宅前でよぼよぼの爺さんがうろうろしている。そして「あんちゃん、便所を貸してくださらんか」と唐突に言う。
 近づいて顔を見合わせた時、爺さんから「あ!あんたは牧田じゃないか」と言われ、「あ!毛利先生じゃないですか」と私は反応した。よぼよぼ爺さんは、50年前に金中で美術教師だった毛利先生。
 便所からでてきた先生と四方山話をするなか、口には出せないが「ひょっとしたらきょうが見納めになるかもしれない」と思い、写真を撮らせていただいた。

 
 「わしは94歳や。警察から90歳を過ぎたら運転免許とりあげや」と言われ、仕方なく文具店まで画用紙を買いに歩いて来たんや。そのあいだに三回動けなくなったんや」と、先生は云う。
 私も芸術家のはしくれだからわかるのだが、この種の人間は美に殉じるためには死んでも構わないと思っている。
 

2015/06/28 (日) さあ 今晩は飲み会だ 
  昨日は、なんにも仕事をしなかった。

 午前中に芦原温泉某有名旅館女将が来訪。私の事務所へは女性も時折訪れるが、女将というのは彼女たちとは違った独特の雰囲気をもっている。白いうなじ、柔らかい笑い、和装による正しい姿勢、白足袋に包まれた足首が醸し出す妖艶エトセトラ。一時間半の談笑ののち、吟醸酒・黒龍を置いて帰っていった(謝謝(シェーシェー))。

 帰ったあとに、共産党某市議から、わしは入院しているとの電話が入った。「見舞いに行こうか」と言ったら、「たいしたことないし、すぐ退院するから来なくてもいい。それよか、六月議会で議長が交代するのでその議長選挙のため動きがいろいろあるんや」ということで具体的な話になった。議員在職時には、二年に一度ずつ立候補者からの強い依頼があったもので、現在の平穏な生活を考えると隔世の感がする。

 午後、阪神vsDeNA戦をテレビ観戦していたところにとんぼさん来訪。武田信玄を読み終えたばかりなので、戦国武将たちの闘い方についての講義をしてもらった。彼は、「今度黒龍を一緒に飲もう」と言いつつ帰って行った。
 再びテレビをつけると、三番バッター福留の大活躍で阪神タイガースの逆転勝利だ。これで五連勝・・私も頑張らなくてはならない。
 それはさておき
 今朝の私は、事務所壁にムシロを貼っていた。

 小学生低学年の頃、納屋にムシロを貼って、すみかごっこで近所のこども数人と遊んだのがなつかしかったからである。大人になって色の道に入るまでの私はとにかく純粋だった。あの日にかえりたい


 2015/06/27 (土) レイコーを飲みながら 
 新田次郎著「武田信玄」を読み終えて
 作者あとがき
 「山の巻」では武田信玄の西上の志を中心軸にして書き進めて行った。多くの史家は信玄の西上の野望を認めながらも、三方ケ原の合戦は西上目的の途上においてなされたものではなく、徳川家康に対する挑戦と同時に織田信長に対する牽制作戦だと見ているようである。私は三方ケ原の合戦は、西上作戦の途上で為されたものであり、信玄の病が重くなったので引き返したものだと思っている。
 上洛に生命を懸けた信玄の悲劇的な最期を書くときは、感情に押し流されようとする自分自身を押さえるのに苦労した。それを意識すると今度は筆が滞り勝ちになった。小説が、終りに近づいたころ、もし信玄がもう十年長生きしたら、天下はどう変っていたか書いてくれと云って来た人がいた。これほど無理な注文はない。いかなる力を以ってしても歴史を覆すことはできない。現在においてさえも、その死が惜しまれているところに存在価値があるのである。
 小説武田信玄は毎月三十枚ずつ。百回まで書き続けた。途中一回も休むことはなかった。この小説は百回目で終らせるつもりで初めっから取り掛かったのだが、まさか、百回できちんと片がつくとは思っていなかった。百カ月間は長かった。この小説を書き出して以来百カ月間は常に私の頭の中に武田信玄があった。これほど長期間の拘束を受けたものは他にはなかった。飽きもせず書き続けられたのは、私自身が武田信玄に惚れこんでいたからだろう。私は合理的なものの考え方をする人が好きである。武将の中で武田信玄はもっとも強くその合理性を発揮した人である。だが合理性だけでは天下はとれなかった。宿網の肺患には、彼の合理性を以ってしても勝てなかったのである。
 筆を擱くに当たってまず第一に感謝しなければならないのは百カ月連載の場を与えて下さった「歴史読本」である。そして、この小説を書くに当たって参考にした多くの文献の著者及びその出版社にお礼を申上げたい。また執筆中にいろいろと御援助を得た数え切れないほどの多くの方々に感謝する。
                   新田次郎
 それはともかく
 とんぼさんの「仲仕組合創立総会之碑」解読作業も大詰めにきています。
 とんぼさん自身が「声の広場」の流れを書いておられるので、転写しました

587.「金津の夜明け」をお読みください。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/24(水) 8:10
 多賀谷左近が話題になっており、知人からの問い合わせがあります。嬉しいというより戸惑いの気持ちの方がどちらかと言うと強いのです。多賀谷左近はすでに終わったことなのです。

 現在気にかかっているの書き上げたばかりの応募作品「吉品(よしのり)と須江」が審査員からどのように評価されるかであり、さらに「金津の夜明け」が最終段階に達し、碑文の解読を某漢文学者にお願いしているのですが、はたして応じてくれるのか、そのことなのです。
さらに「丸岡藩騒動記」を再開せねばなりません。というわけで後ろを振り返る余裕はないのです。

「金津の夜明け」は是非ともあわら市民、とりわけ旧金津町民には読んでいただきたいと願っています。北陸線金津駅開業には紆余曲折があり、鉄道官僚、軍部、経済人を巻き込んだ論争がありました。

 さらに鉄道開通で失業した仲仕たちが鉄道荷役、陸運労働の担い手として立ち上がる過程を「仲仕組創立紀念之碑」の碑文から読み取りました。

 背景としての国の鉄道政策、国内事情、対ロシア政策を説明しながら北陸線開業、金津駅開業の道のりを描いたつもりです。

 ぜひ一読くださるようお願いします。

 牧田さんが製本化することに意欲を示されています。ということで今後のことは彼に委ねます。

※ これまで「仲仕組創立総会之碑」としてきましたが、「仲任(仕)組創立紀(記)念之碑」と改めます。

586.意外な展開 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/21(日) 11:20
 NO580で述べたように、西脇呉石(明治12年・1879~昭和45年・1970)について調べてみました。呉石(静香)は勝山市の出身で、昭和の大書家と評価される人物です。彼の研究は勝山市で進められており「西脇呉石の世界」が勝山城博物館から出版されております。

 さっそく博物館に連絡を入れました。担当は学芸員のH氏でした。呉石の作品は明治40年以降のものは見られるのですが、それ以前のものは勝山市にもないそうです。

 ところが「三里浜植樹碑」は明治36年建立とあり、少なくても現在把握されているものの中では最も古くなります。

 碑文を拡大して読みますと、「従三位 侯爵松平康荘(やすたか)篆額 」の一行があります。康荘とは越前松平家18代当主、父は福井藩最後の藩主松平茂昭(もちあき)です。意外な大物の名前が登場しました。

 後学 勝山 西脇静香とありますから、後学のために勝山人、西脇静香が康荘公を手伝ったという意味でしょうか。(実質的な作者は静香)
24歳の青年静香の姿、それはそれで貴重な資料なのです。

 今データーを送る準備をしています。意外な展開に向いつつあります。

 さて「仲仕組創立総会之碑」は篆刻文字は誰の書か、無名時代の西脇静香の作品か?勝山博物館の鑑定を待ちます。

 

 

585. 三国史跡探訪完結。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/19(金) 6:51
 三国史跡探訪(1~5)完結しましたので、1から順番に並び変えました。興味のある方一読を・・・。

580.三国史跡探訪 1  「三里浜植樹記念之碑」 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/19(金) 6:48
 印牧邦雄先生から三国史跡探訪のお誘いがあり、御厚意に甘えて先生のお寺「性海寺」を訪れた。印牧先生と共に井上律夫氏(みくに史学研究会副会長)が出迎えられた。今日一日ご案内をしてくださるとのこと。

 性海寺の樹木、墓石、供養塔、庭園、所蔵文書など、伽藍を含めてお寺そのものが文化財で、それは後述するとして最初に訪れたのが森田本家。表札は森田三郎右衛門である。この名前は織田信長の越前侵攻記録にも登場します。宗家当主は代々三郎右衛門を襲名し、栄華は昭和20年の終戦まで続きました。表は普通の旧家ですが中に入ってびっくり、土間には幾層にも笏谷石が敷き詰められ、それが延々と、途中庭園を過ぎて九頭竜川河口に面した裏口まで続いているのです。森田家の当時の財力の片鱗を目の当たりにした思いでした。

 次が新保の春日神社。昭和29年の大合併により三国町に編入されるまで坂井郡新保村でした。村とはいえ廻船業で繁栄し、三国港とはライバル関係にあり、権益をめぐっての対立もありました。
※ 「まきさんの妄想日記」上段に「三国史跡(1)」があります。それをクリックすると史跡の写真が見れます。春日神社は1~3です。

 境内で意外なものを発見しました。「三里浜植樹記念之碑」です。碑文の作者が富田厚積(あつみ・・鷗波)書は西脇静(呉石)。建立日は明治36年と刻まれていました。

 あわら市の「仲士組創立総会之碑」(明治34年建立)で碑文作者鷗村を富田鷗波と推定したばかりの私にとって此処で彼と出会うとは・・・不思議な因縁としか言いようがありません。

「仲仕組・・」の篆刻作者は西脇呉石と考えたこともあったのですが、彼の生年は明治12年3月8日。とすれば22歳の作品となります。早熟の天才と称された静(呉石と号するのはもっと後)にしても、その年齢で世間に認められるかと疑問を抱いていました。

 しかしその二年後の厚積(鷗波)の碑文と静(呉石)の碑額が此処にあります。厚積の弟子が静であり、おそらく厚積の推薦によるものでしょう。とすれば「仲士組・・・」の書は静の可能性もあります。

 書体を呉石生誕の地勝山市に送り鑑定をお願いしょうかとも思っています。勝山市にとっても明治34年における呉石作品は貴重なはずで協力を得られるのではないかと考えているのですが。

 刻字は布川氏と印牧先生は言われました。碑の下にある名前を先生が発見されたのです。石碑の全貌が次第に明らかにされつつあります。

 尚、「仲仕組創立総会之碑」について印牧先生が見解を述べられています。これは最終回で紹介します。

 次回は三国を救った竹内松右衛門の記功碑。三国を救うために自らの命を絶った義民、これは三国仲士組が松右衛門の偉業を称えての建立。
 さらに竹内藤右衛門の墓と韃靼漂流者供養碑。歴代森田家当主の石廟と五輪の塔。いずれも性海寺の檀家。これらを含めて性海寺の歴史など三国の歴史と文化遺産を紹介します。

 さらに仏道探究者としての印牧先生の思いも紹介します。

 

581.三国史跡探訪 2 「竹内松右衛門記功碑」 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/19(金) 6:39
 桜谷公園(山王六丁目)は三国神社を登った所にあります。此処には富理姫宮(ふりひめのみや)の碑があります。三国と男大迹王(おほどのおう)とは密接な関係にあり、その母君である振媛命(ふりひめのみこと)を顕彰する碑です。

 三国は万葉集にも登場します。万葉集巻七に
 三国山 木末(こぬれ)に住まふ鼯鼠(むささび)の鳥待つが如吾待ち痩せむ。

訳)三国山の木末に住んでいるムササビが鳥を捕えようと待つように私はあなたを待ち焦がれて痩せてしまうでしょう。

 その句碑 万葉集三国山歌碑があります。

 しかしなんといっても圧巻は「竹内松右衛門記功碑」でしょう。
松右衛門は宝暦期の三国港の問丸(といまる。流通業者)でした。宝暦四年(一七五四)の秋、五穀不作で港民は飢餓に苦しみました。翌五年福井藩から蔵米を大阪へ積み出すように命じられたのです。そこでひそかに仲士組に依頼して土と籾殻をつめた俵を作らせ、これを三国湊から積み出してから故意に船を沈没させました。松右衛門はその罪を一身に負って自害して果てたのです。蔵米は港民に行き渡り飢餓から救われたと伝えられています。

 この記功碑は、明治十八年(一八八五)三国仲士組が松右衛門の功績を顕彰して建立したものです。ちなみに、竹内家菩提寺性海寺の墓地にある竹内浩三家墓地中に「宝暦五年五月十一日 実証義覚信士」と刻字のある墓が松右衛門の墓と伝えられています。(三国史跡(1)写真NO7竹内松右衛門の墓参照)

 上記文章は「三国港町の名所旧跡と文化遺産」(印牧邦夫先生著)から引用しました。

 素晴らしい石碑が幾つもありますが、それを抜きにしても公園は良く整備されており、九頭竜川河口、日本海を望める絶好の散策コースで訪れることをお奨めします。
 なお私たちは松右衛門さんの墓を拝見した後、末裔の人が経営するお店でお蕎麦をいただきました。これが又絶品でした。

 次回は森田家の石廟と五輪の塔、韃靼漂流民、竹内藤右衛門の墓、さらに性海寺の歴史、及び印牧先生の話を紹介します。

582.三国史跡探訪  3  性海寺(しょうかいじ) その1 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/19(金) 6:33
 性海寺の創建は延文元年(1356)。尾張の律僧(りっそう)宗信(そうしん)が宿浦篠谷(ささだに。現三国町宿)に一宇を建立、篠谷山性海寺と称しました。

 永徳元年(1381)、第二世空信(くうしん)は、千手寺六坊(せんじゅじろくぼう)及び竹内氏等の招聘により千手寺多門院跡(現在地)へ移転、真言宗に改宗したのです。

 戦国時代は朝倉氏代々の祈願寺として保護を受け、孝景、氏景より田地を寄進されています。河口庄の豪族で三国湊の代官を務めた芦原町縁の堀江一族も帰依しています。

 天文二十年(1551)七月二十一日、唐船が三国湊に来航。二十五日に入港、唐人の数百二十名、船頭は南山(ナンセン)といい副船頭は清山(シンセン)という者で、小谷六郎左衛門という者の家を宿所にした。近国遠地から僧俗男女みな外国の事を聞こうとして続々集まり賑わった。商人に赤いつむぎを海風にはためかせると、見物の人々まで港にあふれるほどまわりに集まった。昔より三国湊には唐船の入港やこの賑わいなどなく、まことに希なできごとであった。(朝倉始末記巻第二記述より)

 この後、一行は性海寺を訪れ、その際南山は漢詩を残しています。その末尾部分。

 興殫又愕旅船夢 性海寺中半夜鐘

(読)興(きょう)殫(つきて)又(また)愕(おどろく)旅船夢(りょせんのゆめ)
  性海寺中(しょうかいじちゅう)半夜鐘(はんやのかね)

 性海寺中の半夜鐘は篠谷山の晩鐘とも云われ、三国名所の一つに数えられていました。その音に南山らは感嘆したのでしょう。異国人を驚かせた半夜鐘は先の大戦での金属回収令により没収されたと住職である印牧先生は説明されました。重文級の文化財だけに残念です。

 江戸時代前期の寛文六年(一六六六)、福井藩第四代藩主松平光通(みつみち)公より朱印若干石を附与され(安堵及び寄進)、また葵紋の絵符を授与されるなどの優遇を受けるほどの名刹でした。

 天和二年(1682)京都仁和寺覚助法親王より御室御所の一院の兼帯(兼務)を命じられ厳浄院(げんじょういん)と称し、翌三年、篠谷山の山号を金剛寶山(こんごうほうざん)に改めました。皇室のご紋章菊花の使用が許され、山門の扉や屋根瓦等に使用されています。

 江戸後期の天保十年(1839)、滝谷寺と共に永代移転寺十ヶ寺の中に加えられ、住職交代の際は、智積院(ちしゃくいん)第一座の高僧を後任に迎えました。したがって性海寺の住職は世襲ではなく、出身地も全国に亘っています。

 また常法談林(じょうほうだんりん。学問、修行の道場)として新義(しんぎ。真言宗の教義)学徒研鑽の学林でもあったのです。江戸時代は越前、加賀の触頭(ふれがしら。寺院のまとめ役)を勤めるなど、当地では滝谷寺と並ぶ古刹です。
(三国港町の名所旧跡と文化遺産より紹介)

 性海寺を包む森は、性海寺叢林(そうりん)と称され常緑照葉樹林群です。樹種は樹齢数百年と推定されるタブの巨樹をはじめシイ、ヤブツバキなどで、これらの樹木で寺叢林が形成されています。こうした寺叢林がかもしだす静寂な寺域の中に、清水健次郎文学碑、女流俳人森田愛子の墓などが建立されています。
(性海寺の叢林)

 性海寺は歴史に包まれた寺です。墓碑に、樹木に歴史の痕跡が刻まれているのです。

583.三国史跡探訪 4  性海寺 その2 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/19(金) 6:23
 永徳元年(1381)、第二世空信のとき性海寺を現在地に招聘した門徒として竹内氏の名前があります。(NO582参照)それ以来、竹内氏は性海寺の有力門徒の一人でした。前回紹介した竹内松右衛門の墓は三国史跡NO1の写真NO7。

 
 さらに竹内藤右衛門の墓(NO8~12)。寛永二十一年(1644)、新保村の船頭竹内藤右衛門、藤蔵親子ら58名が三艘に分乗して交易のため松前へ出帆しましたが、強風のため韃靼国(中国東北部)へ漂流。藤右衛門ら43名が現地人(ツングース族)により殺害され、生存者15名が清朝役人により北京へ護送されました。(彼等は途中万里の長城を超えたのですが、長城越えの最初の日本人とされています)。一行は清朝の優遇を受け、後に朝鮮の首都京城(けいじょう。現ソウル)を経て帰国しました。生存者を代表して国田兵右衛門、宇野与三郎が幕府に召喚され取り調べを受けました。

 二人が当局者に清朝での見聞を語ったのが本になり「韃靼漂流記」の書名が付けられました。鎖国時代の貴重な外国見聞記です。内容を知りたい方はあわら市図書館に所蔵されているので、そちらで。

 藤右衛門の墓は菩提寺である性海寺墓地の東辺中央、故郷新保村を望む位置、少し離れた東辺に韃靼漂流者供養碑が建立されています。

 性海寺の大壇越(だいだんのつ。最大の庇護者の意)森田一族の墓所が時代別に三か所(前期、中期、後期)あります。(写真4~6)。

 前期(室町後期~江戸前期)の墓所は本堂背後の歴代住職の墓所に隣接して存在しています。笏谷石製の小型の石廟十三基からなり、内部に五輪塔を安置されています。各輪には蓮華座と月輪を配置し、その中に五輪種子が彫られた類希な五輪塔群で、史跡としての存在価値は極めて高いものです。

 中期(江戸時代前期末~明治前期)の墓所は前期墓所の東方、やや小高い所に位置する笏谷石製の五輪塔群です。正面が明治九年(1876)に没した森田家中興の祖、三郎右衛門の大五輪塔があり、その参道の両脇に七基、八基の歴代当主の五輪塔が並んでいます。

 後期(明治中期~昭和初期)の墓所は最奥部に位置します。正面中央が明治四十五年(1912)に没した三郎右衛門の墓で、左右両側に十八基が並ぶ。左方に女流俳人森田愛子と姉敏子の姉妹墓があり、毎年四月一日(愛子の命日)には愛子を慕う人か集います。

歴代住職の墓碑群にも圧倒されます。とりわけ異彩を放っているのは慶長四年(1599)在名の住職の五輪塔で、総高二メートルの大型の越前式五輪塔はこの時代の塔としては極めて珍しく、貴重な史跡といえます。

 上記のように性海寺には凝灰岩製(笏谷石)の石塔や石仏類が数多く残されており、笏谷石移出港の密教寺院らしく、竹内家、森田家を含めて、五輪塔、多宝塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう。仏塔の一形態)など種々様々な墓碑が存在する石造遺物の宝庫の寺院ともいえるのです。

「三国港町の名所旧跡と文化遺産」より引用。

 不遜な言い方ですが、墓碑群は(境内の叢林を含めて)歴史、文化遺産の集合体ともいえるのです。そうであってももちろん弔意を示さなければなりません。

 今回、私たちは拝観を許していただけました。貴重な史跡であるとともに、神聖な区域でもあります。何時でも誰でも拝観できるというわけではありません。事前の許可が必要であることは性海寺に限らず、どちらの寺院でも云えることです。

 最終回は印牧先生のお話。
 

584.三国史跡探訪 5  性海寺 その3「平成墓地」 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/18(木) 23:6
 性海寺墓碑を拝見した後、枯山水の庭園を望む書院で印牧先生のお話を伺いました。(常緑広葉樹の)自然林を活かした趣のある庭園です。先生は歴史への思いを述べられ、市内市外を問わず多くの人が史跡に接し郷土の歴史文化を理解することの大切さを述べられました。

 その後、性海寺の現在について触れられたのです。人口減少、流失は地域社会の存続に関わる問題ですが、寺院も同様に多くの問題を抱え込んでおります。とりわけ無縁墓が問題になっています。皮肉なことに歴史ある古刹ほど深刻なのです。

 印牧先生は無縁墓の増大に心を痛めておられました。たとえ誰にも顧みられない無縁墓であっても供養せねばと境内の一画に「無縁墓地」を建設されたのです。困難な事業でしたが先生の思いが多くの人を動かし完成しました。その墓地は「平成墓地」と名付けられ、供養されております。

 歴史家として先生は多くの著書を発表され郷土に多大な功績を残されていますが、それ以上に先生の魅力は人への優しさにあります。ご指導を受けていますが、日々その思いを強くしております。

 先生はあわら市の歴史にも興味をお持ちで(芦原町史は印牧先生が編纂されています)、「仲仕組創立総会之碑」についても拓本採集され、貴重な助言をいただいております。

 史跡探訪の後、仲仕組創立総会について意見を述べられました。最後の部分を紹介して「三国史跡探訪」の締めくくりとします。

「明治三十年(1897)北陸本線福井ー小松間が開通し、金津駅が完成すると、物流がこれまでの水運から陸運に転換した。この一大変革で仲仕たちの生活は深刻な影響を受け、失業の危機にさらされた。

 このような時に仲仕組が創立されたことは、仲仕たちにとって、まことに‘干天の慈雨’であった。この変革期に水陸の荷役に携わっていた金津の仲仕たちは、新たな物流組織をつくろうと組合を創立、列車に積み込む荷役作業を請け負うことになった。

 本碑に名を連ねた数多の氏名から、その恩恵に与ろうとした人たちがいかに多かったかが窺われる。これらの浄財を出し合い、土地の寄付を受け、仲仕組創立を顕彰するとともに、総会を開催し、喜びあったことを後世に伝えるべく石碑を建立したのである。

 本石碑について、建立後長い年月流れる間に、そしてまた余り人目に触れることのない場所にあったためか、町民に忘れ去られるか、見逃されて来たのは、まことに残念なことである。

 交通の要衛、金津の歴史を物語る貴重な歴史的記念物であるので、先人たちが本石碑建立した意図をくみとり、顕彰保護するべきと提言したい。  印牧邦夫

579.碑文作者は富田久稼(ひさか)。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/6(土) 23:36
 鷗村とは誰か?調べてみました。旧金津町の名士に鷗村を号とする人物は存在するか、県内に存在するか、いずれも存在しません。全国に広げれば森鷗村(1831~1907)がおります。栃木県出身の儒学者です。桜井鷗村(1872~1929)、愛媛県出身の教育家、実業家です。しかし彼等は福井県との接点がありません。

 手掛かりを求めて行き着いた資料が「越前人物志」(福田源三郎著 明治43年発行)でした。此の著書には継体大王から始まり、明治中期まで活躍した越前人が記載されています。政治、学問、文化、産業、医学などあらゆる分野を網羅しております。

 そのなかで漢学者部門を調べてみました。該当する人物が一人いました。富田久稼です。天保7年(1836)生まれ、福井藩士。漢学者、福井藩校明道館教授。明治5年(1872)、福井県初の新聞「撮要新聞」を発行、福井県ジャーナリストの先駆者。明治12年(1879)明新中学校校長。没年は明治40年(1907)、享年72歳。彼は鷗波(おうは)の号を用いておりました。

 彼は多くの碑文を手掛けております。さらに鷗波の弟子に西脇呉石(ごせき)という人物がおりますが、呉石は書家で県内石碑の碑首(篆刻文字)の多くが彼の作品です。金津総持寺にある阿部精の寿碑は呉石が書いております。この石碑建立発起人の中に永岡太助、岡田清六郎の名前がありますが、彼等は「仲仕組創立総会之碑」に設立員として名を連ねております。

 付け加えるならば、同時代に久稼(鷗波)に匹敵する漢学者は県内には存在しないのです。碑文から漢学に精通した人物、といえば富田久稼(鷗波)しか考えられないのです。

 先ほど印牧先生から電話を頂き「私も富田久稼だと思う」と言われました。先生も調べられたそうです。意見が一致しました。

 以上から鷗村は富田久稼であるとの結論に至りました

578.「仲仕組創立総会之碑」碑文作者は杉田鶉山ではなかった 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/6(土) 5:43
「仲仕組創立総会之碑」の碑文解読は順調に進んでおります。碑文の論旨はすでに解読しており細部解読が残されているのですが、正確を期するには専門家の力を借りなければなりません。

 この石碑は仲仕組に関するあわら市の文化財という意味合いだけではなく明治初期、主要地域に鉄道網が敷設されたことにより物流の主導権が海運から陸運に劇的にシフトし、それが地方にも及んだことが記録されているという意味で貴重な交通史の資料でもあります。

 序文
 鉄道が敷設されたことにより物流が一変し、遠隔地から数多の旅客、物資が流れ込み寂れた僻地は繁華の町に変化することは祥(慶すべきこと)也と述べられています。

 中段
 同志六十有余名を糾合し仲仕組を創設し貨物運送に従事、遠近の集荷業務にあたるとしています。此の地方の有力者はこの文明の利器(鉄道)を応用し殖産興業に励むことが国家報恩の倫(道)であるとも説いています。
さらに人民は国力向上のために勤労の精神を発揮し勤労に励むことが大切であると鼓舞しています。

 末文
 石碑建立の目的は仲仕組結成に参加した同志たちの姓名を刻み、後世に伝えると記されています。

 以上が現段階で解読した概略です。

 漢詩

 鑿山架水 鐡路完成 飛烟気笛 瞬開車輞
 欲路開明 運物●貨 ●●日栄 屹一片石

 (現段階での私的解釈)
 峻山に隧道を鑿(さく)し大河に橋架し 鉄道を完成させた
 煙を飛ばし汽笛を鳴らして   瞬時に車両が走る
 文化開明の路を欲し 物●貨を運び  
 日々栄えるを祈念し(?) 石碑を建立す

 明治三十四年夏七月   鷗村(おうそん) 小史

 今まで碑文の作者は杉田定一と想定していたのですが、映像で石碑を解析したところ作者号は鶉村ではなく鷗村と刻まれており、(印牧那雄先生指摘)別人と判明。あらためて鷗村を号とした人物の特定作業に入っています。

 歴史を明らかにするためには試行錯誤を繰り返さなければなりません。誤りであれば最初から出直します。その労を惜しむことは許されません。それゆえ完成したときの達成感はすべての苦労を忘れさせます。

 碑文解読作業はあわら市の貴重な歴史遺産を発掘し、歴史的価値を創造することになります。多くの方々に協力をお願いしながら「金津の夜明け・・・北陸線開業への道のり」を完成させます。

 

 2015/06/26 (金) もう週末か

 2000頁にも及ぶ「武田信玄」もあと25頁を残すのみとなった。このまま読み切ってしまいたいのだが、仕事の時間となったので、本を閉じなければならない。昼休みに読み終えることができるだろう。この10日間、ぼくは信玄になりきっている。「動かざること山の如し」なのである。

 今朝、ぼくは教育総務課へ行って、「金津の夜明け・・北陸線開業。金津駅開業への道のり」の製本化の為の相談をしていた。一人でも多くのあわら市民に知ってもらいたいのである。

 2015/06/25 (木) 昨日の一日 

 吉崎で建物調査をしていたら、背後から「まきちゃん、何してるんや」と声がかかった。振り向くと、声の主は山川知一郎議員で、「核廃絶にむけての国民大行進」の福井県スタート日だとのこと。
 
 歩けるならば行進に加わりたいと思ったが、もはや不可能だ。
 今朝の9時には、あわら市役所到達とのこと。
 ということで
 
 先ほど市役所から帰ってきました。
 ところで、今日は珍しく来訪者が朝の一人だけだった。そのNさんが昨晩は芦原温泉の旧金津町役場OB数人で飲んだのだが、その際、「とんぼさんというのは一体どういう人なんや」ということで話題が盛り上がったそうだ。
 しかり・・私が尊敬する男性あわら市民二人のうちの一人(注 女性(おなご)は何人かいる)であるとんぼさんのことを語る資格がぼくにはある。
 歴史に対する博覧強記ぶりは出色で・・声の広場を読めばわかります・・、そうでありながら自らを宣伝しようとは決してしない人。くらいついたテーマを追及するフットワークはすごい。プロの料理人だから当然といえば当然なのだが、昭和の料理を語らせたら、それは既に哲学である。
 かりにぼくがとんぼさんに勝るものがあるとすれば、女にもてることぐらいだろう(現にこのブログを書いている最中に芦原温泉某旅館女将(びじんおかみ)から電話が入ってきた)。

 2015/06/24 (水) 無題

 午前1時半に起床。久しぶりの早起きだ。昨晩6時開始のDeNAx巨人では巨人が中番までリードしていたので面白くなく、テレビを消してしまった。今朝の朝刊を開くとDeNAの見事な逆転勝ちだ。
 勝負をあきらめてはいけない。
 ということで
 本日もCADと現地測量でいそがしくなりそうだ。最近の僕は燃えている。

 2015/06/23 (火) 本日はCAD三昧

 昨日は、千客万来の一日だった。
 それはともかく
 この看板が出来上がりました。

 それはともかく
「金津の夜明け・・北陸線開業。金津駅開業への道のりが完成しました。ご覧ください。
                           とんぼ作品編集局
 それはともかく
 昨日Nさんが持ってきてくだった梅酒と琵琶酒が実にうまい。しばらくは「酒と薔薇(おなご)の日々」になりそうです。

 2015/06/22 (月) 本日はCAD三昧

 昨日の午後はあわら市文化会館に居た。
 「一筆啓上賞」の仕掛け人として有名な大廻氏の講演会が開かれたためである。
 
 何十年か前、ある劇団が、福井市文化会館で「アンネの日記」を上演した。その時、アンネ・フランク役を演じたのが僕の妹で相手役のナントカ・カントカを演じたのが大廻氏だったのを思い出ながら、講演を聞いていた。
 それはともかく
 新田次郎著「武田信玄」もいよいよ最終の「山の巻」に入った。
 信玄は配下となった岡部正綱に対して北条の水軍を武田方に寝返らせるための方策を問う。
 岡部は答える。
 「水軍衆の考え方は、われわれ土地にへばりついている者の考え方と著しく違っております。水軍衆の欲しいものは、土地や城ではなく、海でございます。彼等にはあの広々とした海が戦さの場であり、領土なのです。一応彼等は彼等の拠点に従っているように見えますけれど、事実はそうではなく、水軍衆にとって割のいい仕事があれば、どこの国の大将のところへでも手伝いに行きます。その大将が気にいらないなら、家族もろとも船に乗って行きたいところへ行くこともできます。つまり水軍衆は、われわれと違って、広い心を持っており、きわめてものごとを割切って考えております。海のことについては一切をまかせるという根本原則を守るかぎり、彼らは条件次第でどのようにでも動かすことができます。私の知るかぎりでは、伊勢湾には、大望を抱いている大小無数の水軍衆がおります。彼等でさえも、条件さえよければ招くことができるでしょう」


 2015/06/21 (日) 無題

 昨晩、会議を終え事務所にもどったところへ、某歯科医が来訪。話題は、安保法制化と戦後日本の流れのことになったと思う(思うと書くのは、既に僕は飲んでいたので、記憶がうすらぼんやりとしているからだ)。
 嬉しかったのは「今度、レミーマルタンの年代物を持ってくる」という彼の言葉だった。
 ところで
 今朝早く、僕は書道有段者O邸へ赴き、とんぼ作品編集局の揮毫を依頼したところ、梅酒を頂いた。今晩が楽しみだ。

 
 

 2015/06/20 (土) 忙しくなりそうな土曜日

 昨日の朝は5,6人のひとから「語ろう会」存続云々についての電話が矢継ぎ早にかかってきて心底疲れた。一人平均20分として、20X6=2時間だから脆弱体には答えるのが体力的に苦しいのだ。が、それよりも、理屈をなかなかしゃべれないのが直接の原因だと思う。勿論、脳内出血による後遺症故のものだが、仕方ない。

 空は青くて美しい、森に入って遠い昔の先祖を偲ぶ、日本海で耳にする潮騒で魂のカタルシスを感じる。私の余生は感じることだけの日々としたい。
 

 2015/06/19 (金) ケセラセラ
 
 僕は自己本位的な人間で、他人には興味が無い。だからなのか、嫌な人間は殆んどいないのだけれど、いったん信頼感を無くした人間に対しては、根深く恨む。いいか悪いかじゃなくて、そういう性格なので仕方ない。
 つまるところ、人生ケセラセラです。

 2015/06/18 (木) 無題
 事務所内禁煙を決めて二日が経過した。
 来訪者の多くが染みついた煙の臭いに顔をしかめるので、喫煙席をオープンカフェに限定することを決意したのである。もう24時間換気扇をつけっ放しにしているし、本日は消臭剤を買ってくるつもりだ。
 これで、来訪者を快い気分でもてなすことができると思うと、仕事にも身が入る。

 2015/06/17 (水) 無題
 
 昨日の来訪客は4人。
 最後は夜になってからの某男性で雨の訪問者。最近は夜に来る人が多くなってきて、対応も慣れた。
 それはともかく
 新田次郎著武田信玄も「火の巻」に入った。もう1020ページ読んだことになる。読んでばかりでは疲れるので「火の巻 あとがき」を書き写すことにした。

 「「歴史読本」に武田信玄を書き始めてから満六年経った。月に一度、三十枚の原稿を書いていても、枚数は積り積って二千枚を越し、信濃を平定した武田信玄は西上の野望を抱いて駿河に進攻した。このような長期連載になると、信玄の戦術、政略が年と共に変わって行くように、私の武田信玄に対する考え方も気付かないうちに少しずつ変り、筆風もまた変化して行くように思われる。
 「火の巻」でもっとも力を入れて書いたのは太郎義信の事件である。太郎義信が父信玄に逆心を抱いたが為に座敷牢に入れられ、ついには自害して果てたということは「甲陽軍鑑」に書いてある。品第十二には、永禄十年御自害候。病死とも申也。と書いてあり、品第丗三には、其年の春、三十の御歳、太郎義信公御自害也。と書いてある。同じ「甲陽軍鑑」でも、自害説の外に病死説を取上げているところを見ても、真相は伝えられていなかったに違いない。
 川中島の大会戦のときから信玄と義信とが仲違いをしていたとか、義信が飯富兵部と共に信玄を追放したなどということはおそらく俗説で、真相は信玄の駿河進攻作戦に対して義信が反対したから自害させられたという歴史家の見方が正しいのであろう。ただ自害したか病死したかは全く分らない。分らないところが小説になるのである。私が自害説を取らずに病死説を取ったのは、私の史観であって、ここで自害説を取れば、私の中の信玄像は根底からひっくりかえってしまうことになる。
 連載中、小説に出て来る人物の子孫と称する人からしばしば手紙を頂いた。多くは激励の手紙であったが、中には、先祖自慢の手紙があって、うちの先祖はもっと強かった、もっと偉かったのだから、そのように書き直せなどと云って来る人もいた。史実と小説を混同して、そんなことのあろう筈は絶対ないなどという抗議もあった。歴史小説を書いていると思わぬところに伏兵がいるものである。
                     昭和四十六年五月 新田次郎」

 2015/06/16 (火) 動けざること山のごとし
 
 武田信玄「林の巻」も終わりに近づき、川中島大会戦の前夜となってきた。甲軍(武田信玄)と越軍(長尾景虎)の軍略に大きな違いのあることが「林の巻」を読んでかなりわかったが、これは両大将が統治する地の気候風土の影響もあるけれども、それよりも、幼児から育成醸成されてきた人間観の違いによるものが大きい。

 むつかしいところはわからないが
 景虎が常に「義」を重んじ、「義」の遂行のためには、あらゆる自己犠牲をおしまない勇猛な武将であったのに対して、信玄は天下どりを目指していたにも関わらず小城での小競り合いを好まなかった。部下が可愛く部下の命をむやみに落とさせたくなかった。そのため現金外交をしばしばやった。つまりワイロで敵を籠絡したのである。これを現代のバカ政治家たちと同一視してはならない。
 ワイロでの出費と戦争での部下の命の喪失とを天秤にかけることができなかったのである。後方支援・兵たんは前線と一体化しているのだから、安陪内閣の憲法9条順守説明はいかにも粗雑。
 武田軍が「動かざること山の如し」と畏怖された理由のひとつがここにあるのだろう。

 冗談だけど
 敵は自分自身以外どこにもいないし身体機能上動かざるではないので「動けざること山の如し」と牧田軍を呼んで鼓舞したい。


 2015/06/15 (月) 新しい週の始まり

 今朝4時に起きたら、お袋の部屋からすすり泣きの声が聞こえる。ドアを開けると、美浜の親友が亡くなったのだという。葬式のためJR芦原温泉駅まで送っていくが、よぼよぼ婆さんのこと及び歩行困難な我が身のことを考えても、駅にエレベーターが設置されてよかった。
 酒・煙草以外になんの趣味もない僕に初めて趣味ができた。昨日の朝に訪れた某夫妻宅で教わった製本づくりだ。指先の緻密な動きを必要とする作業だが、それだけに奥行も深く、何よりも安上がりであることがいい。加えて、脳の後遺症から立ち直るきっかけになる可能性がある。
 ということを考えていた昼下がりに来訪した某共産党市議は、「まきちゃんも、時々、おんなしことを一生懸命語っているぞ」という。言われてみればそうかもしれない。老人性忘却力が順調に進んでいる証拠だろう。


 2015/06/13(土) 昨日の一日
 朝一番に「まきちゃん、今、事務所に居る?」との女性(おなご)からの電話で目が覚めた。「あんたは俺にとって所詮二番手、三番手の女性。それをわきまえているなら来てもいいぜ」と、僕は答えた。当然その女性は5分後に我が事務所に来て四方山話。

 昼一番であわら市庁舎会議場へ。市議会・一般質問を傍聴した。
 最後の質問者・山川知一郎さんの②市民参加のまちづくりを
 彼は、「仲仕組創立総会の碑」をJR芦原温泉駅前に移設すべきではないか、と市長に質問した。
 市長の答えは「私も碑の存在は知っている。市民あるいは鉄道で来訪の皆さんに知ってもらうという意味でのそういう意見も確かにあるが、一方で、碑は竹田川水運にちなむものであり、今の場所で整備するのが大切だとも思う」だった。

 聞いていて、「どっちになるにしろ、碑の存在が少しおおやけになったのはいいことだ」と、僕は思った。
 余談だが、一緒に傍聴していたとんぼさん(この碑の字面及び碑が成立する過程を詳細に追い続けてきた言わば仕掛け人)が、山川さんの質問が始まる前に「仕事があるので」と言って帰ってしまったのはちょっと残念。
 どうでもいいことだけど
 年寄りってのは、どうしてあんなに愚痴っぽいんだろう。脳内出血の後遺症で同世代と比較して相当愚痴っぽくなっているこの私が言うんだから間違いない。戦前世代、戦中世代、戦後世代(例えば私)、バブル世代、バブル崩壊後の世代で対人関係の背後にあるモラルは大きく変わっている。少なくとも昭和世代と平成世代を比較する時、同じ日本人か?と、とまどうことが再三だ。
 かってなだいなだが盛んに発言していたように、「世代間論争」をまきおこさないことには、日本人としてのアイデンテイテイ構築は夢のまた夢だ。


 2015/06/12 (金) 月さびよ 明智が妻の咄しせむ

 昨日、知人から「明智光秀ゆかりの若狭のお寺を訪ねよう」との電話を受けた時、瞬間的に思い出したのが、数年前に受けた、丸岡町長崎称念寺住職の講話に出てきた「月さびよ 明智が妻の咄しせむ 芭蕉」で、あるいは中島先生に連れられて行った東大味の明智邸跡及び明智神社だった。
 明智光秀の娘「たま」は越前で生まれている。

 以下、ウイキペデイアから抜粋。
 
・細川 ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢)あけち たま、永禄6年(1563年) - 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」。明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになった。

・本能寺の変
 天正10年(1582年)6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となる。忠興は天正12年(1584年)まで彼女を丹後国の味土野に隔離・幽閉する。この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた侍女達だった。
・珠の幽閉先とされる場所であるが、丹後味土野の山中に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実である。
・天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣すると、彼女は彼岸の時期である事を利用し、侍女数人に囲まれて身を隠しつつ教会に行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」
と述べている。珠はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので、洗礼は見合わされた。
 細川邸の人間たちは侍女の帰りが遅いことから珠が外出したことに気づき、教会まで迎えにやってきて、駕籠で珠を連れ帰った。教会は1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った。
・再び外出できる見込みは全くなかったので、珠は洗礼を受けないまま、侍女たちを通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいた。この期間にマリアをはじめとした侍女たちを教会に行かせて洗礼を受けさせている。
 ・しかし九州にいる秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャという洗礼名を受けた。
・それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったという。
・バテレン追放令が発布されていたこともあり、彼女は夫・忠興にも改宗したことを告げなかった。

・九州から帰ってきた忠興は5人の側室を持つと言い出すなど、ガラシャに対して辛く接するようになる。ガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。キリスト教では離婚は認められないこともあり、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説き、思いとどまるよう説得した。
・慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた。
・この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。
 彼女が詠んだ辞世として「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」
・ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。他にも、京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがある。

年賦 珠の略歴 備考
1563年 越前にて出生 細川京兆家の晴元・氏綱死去
1578年 長岡忠興と結婚
1579年 明智光秀、丹波平定
1580年 丹後・宮津城へ転居
1581年
1582年 味土野に幽閉 本能寺の変
1583年 幽閉状態
1584年 京・宮津へ転居
1585年 秀吉が関白就任
1586年 大坂に転居 天正大地震
1587年 大坂の教会を初訪問。受洗しガラシャと名乗る
(離婚を考えるが思い留まる)
バテレン追放令発布
1588年
1590年
1591年 秀次が関白就任、秀吉は太閤に
1592年 文禄の役
1593年 文禄の役
1595年 忠興に信仰を告白 秀次事件
1596年 慶長大地震・サン=フェリペ号事件
1597年 慶長の役開始・二十六聖人の殉教
1598年 秀吉死去・慶長の役終了
1599年
1600年 大坂・細川屋敷にて死去
(1601年)


 2015/06/11 (木) 無題

 昨晩のプロ野球、巨人vs日ハムも阪神vsソフトバンクも緊迫したいい試合で、チャンネルを交互に変えながら両試合を最後まで見続けた。
 結局、巨人が負け阪神が勝つという僕にとっては最良の結果となり、E気持ちで眠りにつくことができた。熟睡して今朝は3時半に起床。洗顔を終えてTVの前に座り、スポーツニュースが始まるのを待っている。

 話は変わるけど、明日のあわら市議会は一般質問の日です。
 

 2015/06/10 (水) 熱々珈琲を飲みながら

 思うところがあって、昨日の午後は、三国町の某住職と会った。しゃれた喫茶店で美味しい珈琲を飲みながら二時間半の対話。
 僕は、個人的な体験から霊魂の存在はわかるけれども、基本的には「死ねば死に切り」だと思っていてつまり浄土や冥界の存在を信じてはいない。しかし畏敬する「天の声」を想定しなければ、我々衆生はこんな世の中に生きていけないとも思う。
 ともあれ
 住職と個人的に会って話を聞くと、独自の視点から死生観を語ってくれて有意義だった。
 それはともかく
 きょうの午前中は、年老いたお袋の使い走りをしていた。明日は我が身だ。

 2015/06/09 (火) 思ったこと

 武田信玄「風の巻」を読み終えたが、どうやら僕の体内にこの戦国武将の気風が乗り移ったようだ。
 「人は城、人は垣、人は堀、なさけは味方、あだは敵」なのである。
 ・・・というようなことを考えていたところへの来訪客・Xさんから、「まきちゃんは、戦国武将で誰が一番すきや?」と問われた。僕は、「武田晴信(信玄)は、湖衣姫(こいひめ)・里美と愛する側室女性をふたり持ち、同時並行で狂おしく愛した。しかしこういうのがよくわからない。オンリーワンであってしかるべきだ」と答えた。
 それはともかく
 金中PTA時代の仲間が亡くなった。いろんなことが思い出される・・合掌。 

 2015/06/08 (月) 新しい週の始まり

 昨日の一日は、坂ノ下・八幡神社境内の清掃で始まった。
 
 いつも思うのだが、神社の清掃は即ちココロの清掃である。

 珈琲を飲みたくなって、某喫茶店へ行き、そのあと市外のファミリーレストランへ。僕は滅多に外食をしないので久しぶりだったが、たまにはこれも楽しい。付け加えれば、楽しいかどうかは同行者による。

 事務所に戻ってからTVで阪神vs日本ハムを見ていたが、阪神の快勝でなおかつ巨人がソフトバンクに完敗したので、神も見捨てたものではないなと思う。

 夕刻に某あわら市議が来訪。話題は今月の議長選のこととなった。

 夜は坂ノ下区民館において班長及び各団体代表連絡会議で、テーマは勿論「金津祭りへの対応」。
 9時前に事務所に戻ってから飲んだ高級薩摩焼酎が五臓六腑に沁み渡った。シアワセを感じる日もたまにはある。


 2015/06/07(日) 穴太(あのう)

 昨日午前中の来訪男性が右手に携えていたものは「薩摩焼酎」で
 
 途端に気分はハイになったのだが、それはともかく

 午後一番で僕は丸岡図書館へ行った。
 そこでは穴太積みについての講演会が開かれていた。
 穴太衆
・祖先は朝鮮系の渡来人か
・比良三系と琵琶湖にはさまれた大津市北郊地帯に築造された古墳
 6~7世紀初頭に渡来人が築造したとされる古墳は二千を超える
 花崗岩を使用し、野面石の乱積み構架法が横穴式石室に用いられた
・806年、最澄によって天台宗開宗
 平安時代に三山十六谷にわたり寺院拡大、三千の坊舎をもつ
 寺院、坊舎の石垣普請、墓石、五輪塔づくりに穴太の石工衆が動員された
・織田信長 石垣の頑固さを悟る。
 1571年、織田信長が比叡山焼打ちの際、石垣を崩せず堅固さを知ったといわれている
 1576年の安土城築城時に坂本の石工が動員されたといわれている

 
 
 石垣作事現場で、素人相手に講義しているのが、千数百年に渡って石を積み続けてきた穴太衆の流れをくむ石工の棟梁・粟田純司氏。
 それはともかく、「仲仕組創立総会之碑」に興味がありましたら、声の広場を是非クリックしてください。
 とんぼさんの執念はすごいです。



 2015/06/06 (土) 雨の朝に 

  山本兼一著「利休にたずねよ」を読んで

あめや長次郎
利休切腹の六年前
天正十三年(1585)十一月某日

京 堀川一条
 京の堀川は、細い流れである。
一条通に、ちいさな橋がかかっている。
王朝のころ、文章博士の葬列が、この橋をわたったとき、雷鳴とともに博士が生き返った・・。
そんな伝説から、橋は戻り橋とよばれている。冥界からこの世にもどってくる橋である。
その橋の東に、あめや長次郎は瓦を焼く釜場をひらいた。
「関白殿下が、新しく御殿を築かれる。ここで瓦を焼くがよい」
京奉行の前田玄以に命じられて、土地をもらったのである。
聚楽第と名付けられた御殿は、広大なうえ、とてつもなく豪華絢爛で、まわりには家来たちの屋敷が建ちならぶらしい。
すでに大勢の瓦師が集められているが、長次郎が焼くのは、屋根に飾る魔よけの飾り瓦である。
長次郎が鏝とヘラをにぎるとただの土くれが、たちまち命をもらった獅子となり、天に咆哮する。
虎のからだに龍の腹をした鬼龍子が、背をそびやかして悪鬼邪神をにらみつける。
「上様は玉の虎と、金の龍をご所望だ。お気に召せば、大枚のご褒美がいただけるぞ」
僧形の前田玄以が請けあった。
「かしこまった」
すぐに準備にかかった。
まずは、住む家を新しく建てさせ、弟子たちと移った。
そこに大きな窯を築いて、よい土を集めた。
池を掘り、足で土をこねる。
乾かし、釉薬をかけて焼く。
今日は、焼き上がった瓦の窯出しである。
「こんなもんや。ええできやないか」
弟子が窯から取りだしたばかりの赤い獅子のできばえに、長次郎は大いに満足した。
獅子は、太い尻尾を高々とかかげ、鬣を逆立てて牙を剥き、大きな目で、前方をにらみつけている。
長次郎が、あめやの屋号をつかって、夕焼けのごとき赤でも、玉のごとき碧でも、自在に色をつけられるからである。
明国からわたってきた父が、その調合法を知っていた。
しかし、父は、長次郎に製法を教えなかった。なんども失敗をくり返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。
なんども失敗を繰り返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。
長次郎の子も、窯場ではたらいているが、釉薬の調合法を教えるつもりはない。
・・一子相伝にあぐらをかいたら、人間甘えたになる。家はそこでおしまいや。
父祖伝来の秘伝に安住していては、人間は成長しない。代々の一人ひとりが、創業のきびしさを知るべきである・・。それが父の教えだった。
まだぬくもりの残る窯のなかから、弟子たちがつぎつぎと飾り瓦を運び出してくる。
いずれも高さ一尺ばかり。
できばえは文句なしにみごとである。
龍のつかむところに雲があり、虎のにらむところに魔物がいるようだ。
得意な獅子も焼いた。
造形もうまくいったが、赤い釉薬がことのほかいい。
冬ながら、空は晴れて明るい陽射しが満ちている。
その光を浴びて、獅子にかかった釉薬が銀色に反射した。
「いい色だ」
長次郎の背中で、太い声がひびいた。
ふり返ると、大柄な老人がのぞき込んでいた。
宗匠頭巾をかぶり、ゆったりした道服を着ている。真面目そうな顔の供をつれているところを見れば、怪しい者ではないらしい。
「なんや、あんた」
釜場には、まだ塀も柵もない。こんな見知らぬ人間が、かってに入ってくるようなら、すぐに塀で囲ったほうがいいと、長次郎はおもった。
「ああご挨拶があとになってしまいました。わたしは千宗易という茶の湯の数寄者。長次郎殿の飾り瓦を見ましてな。頼みがあってやってまいりました」
ていねいな物腰で、頭をさげている。
長次郎は、宗易の名を聞いたことがある。関白秀吉につかえる茶頭で、このあいだ内裏に上がって、利休という勅号を賜ったと評判の男だ。
「飾り瓦のことやったら、まずは、関白殿下がさきや。あんたも聚楽第に屋敷を建てるんやろうが、ほかにも大勢注文がある。順番を待ってもらわんとあかん」
権勢を笠に着てごり押しするような男なら追い返そうと思ったが、老人は腰が低い。
「いや、瓦のことではない。茶碗を焼いてもらおうと思ってたずねてきたのです」
長次郎はすぐに首をふった。
「いや、あなたに頼みたいと思ってやってきた。話を聞いてもらえませんか」
話は穏やかだが、宗易という老人は、粘りのつよい話し方をした。
・・人間そのものは粘っこいのや。
長次郎はそう感じながらも、宗易のたたずまいに惹かれた。
・・この爺さん、なんや得体が知れん。
ただそこに立っているだけなのに、釜場の空気がひき締まるような、不思議な重みがある。
・・よほどの数寄者にちがいない。
長次郎の直観が、そうささやいている。
「窯出しが終わったら、お話をうかがいましょ。それで、よろしいか」
「けっこうです。おや、あの虎は、とくにできがいい。天にむかって吠えている」
いま弟子が窯から出してきたばかりの虎は、ずらっとならんでいるなかでも、いちばんよいできである。
長次郎は、宗易の目利きのするどさに驚いた。

 この本は24の章で成り立っている。
・死を賜る 利休
・おごりをきわめ 秀吉
・知るも知らぬも 細川忠興
・大徳寺破却 古渓宋陳
・ひょうげもの也 古田織部
・木守 徳川家康
・狂言の袴 石田光成
・鳥籠の水入れ ヴァリニャーノ
・うたかた 利休
・ことしかぎりの 宗恩
・こうらいの関白 利休
・野菊 秀吉
・西ヲ東ト 山上宗二
・三毒の焔 古渓宋陳
・北野大茶会 利休
・ふすべ茶の湯 秀吉
・黄金の茶室 利休
・白い手 あめや長次郎
・待つ 千宗易
・名物狩り 織田信長
・もう一人の女 たえ
・紹鴎の招き 武野紹鴎
・恋 千与四郎
・夢のあとさき 宗恩

 たとえば

・野菊 秀吉
利休切腹の前年
天正十八年(1590)九月二十三日 朝
京 聚楽第 四畳半
「・・利休が膝をにじって、床の前にすすんだ。
・・さてあやつめ、どうするか
秀吉が障子窓のすきまに顔をつけた。
利休の背中にも、肩にも、手のうごきにも、逡巡はない。
・・なにも迷わぬのか。
なんのためらいもなく両手をのばした利休は、左手を天目台にそえて、右手で野菊をすうっとひきだし、床の畳に置いた。
天目茶碗を手に点前座にもどると、水指の前に茶碗と茶人、茶碗をならべ、一礼ののち、よどみなく点前に取りかかった。
茶を点てている利休は、見栄も衒いも欲得もなく、ただ一服の茶を点てることに、心底ひたりきっているようである。
といって、どこかに気張ったようすが見られるわけではない。あくまで自然体でいるのが、よけい小憎らしい。
床畳に残された野菊の花は、遠浦帰帆の図を背にして、洞庭湖の岸辺でゆれているように見える。
秀吉は、途端に機嫌が悪くなった。
むかむかと腹が立つ。
それでも、最後のしまつはどうするのかと、そのまま見ていた。
三人の客が茶を飲み終え、官兵衛が鴨肩衝の拝見を所望した。
客が茶人を見ているあいだに、利休は水指から天目茶碗まで洞庫にかたづけた。
拝見の終わった鴨肩衝を、仕覆に入れ、利休は膝をにじって床前に進んだ。
置いてあった野菊の花を取り、床の勝手のほうの隅に寄せかけた。
鴨肩衝を床に置くと、利休はまた点前座にもどった。
床の隅に置かれた野菊の花は、すこし涸れて見える。
・・負けた。
秀吉は、利休を笑ってやろうとした自分のたくらみが、野菊の花と同じように涸れてしまったのを感じた。なんのことはない。むしろ、笑われているのは自分であった。・・」

 たとえば
・西ヲ東ト 山上宗二
利休切腹の前年
天正十八年(1590)四月十一日 朝
箱根 湯本 平雲寺
・・山上宗二に秀吉が問う。
「おまえが茶の湯者というなら、身ひとつでここにまいっても、なにか道具を持って来たであろうな」
「むろんにございます」
宗二は懐から、仕覆を取り出してひろげた。なかは、端の反った井戸茶碗である。すこし赤みがかかった黄土色が、侘びていながら艶やかな印象をかもしている。
秀吉が、その茶碗を手に取って眺めた。黙って見つめている。
やがて、薄いくちびるを開いた。
「つまらぬ茶碗じゃな」
乱暴に置いたので、茶碗が畳を転がった。
「なにをなさいます」
宗二はあわてて手をのばし、茶碗をつかんだ。
「さような下卑た茶碗、わしは好かぬ。そうだ。割ってから金で接がせよう。おもしろい茶碗になるぞ」
「くだらん」
宗二が吐きすてるようにいった。
「こらッ」
利休は大声で宗二を叱った。
「こともあろうに、関白殿下に向かって、なんというご無礼。さがれ、とっととさがれ」
立ち上がった利休が、宗二の襟首をつかんだ。そのまま茶道口に引きずった。
「待て」
冷やかにひびいたのは、秀吉の声だ。
「下がることは相成らん。庭に引きずり出せ。おい、こいつを庭に連れ出して、耳と鼻を削げ」
秀吉の大声が響きわたると、たちまち武者たちがあらわれて、宗二を庭に引きずり降ろした。
「お許しください。お許しください。どうか、お許しください」
平伏したのは、利休であった。
「お師匠さま。いかに天下人といえど、わが茶の好みを愚弄されて、謝る必要はありますまい。この宗二、そこまで人に阿らぬ。やるならやれ。みごとに散って見せよう」
立ち上がると、すぐに取り押さえられた。秀吉の命令そのままに、耳を削がれ、鼻を削がれた。血にまみれた宗二は、呻きもせず、秀吉をにらみつけていた。痛みなど感じなかった。怒りと口惜しさがないまぜになって滾っている。
「お許しください。憐れな命ひとつ、お慈悲にてお許しください」
利休が、地に頭をすりつけて秀吉に懇願した。
宗二は意地でも謝るつもりはない。秀吉としばらくにらみ合った。
「首を刎ねよ」
秀吉がつぶやくと、宗二の頭上で白刃がひるがえった。・・ 



 2015/06/05 (金) もう週末か

議員を辞めてからこの二年間、旅館へ行ったり多人数での宴会に出たりということが絶えてない。せいぜいが6,7人での宴席を当事務所の応接ゾーンで持つくらいで、普段は一人宴席。
 思うに、宴席の効用は気分を和らげての語り合いにあるのだから、一人宴席が自分のしゃべりを自分が聞くという一番充実した時間帯であるような気がする。
 それはともかく
 僕の事務所への来訪者は御存じなのだが、事務所はノレンの館と化していて、うち一枚は「風林火山」の銘が入っている。そこで昨日に図書館へ行った折、新田次郎著・武田信玄「風の巻」「林の巻」「火の巻」「山の巻」を借りてきた。
 昨日の午後、僕は芦原温泉・某旅館の広いロビーに女将といた。
 仲士組合創立総会の碑 碑文最後にある「鶉村 小史」が鶉山のことではないかとの、とんぼさんの指摘を聞いて、鶉山に縁のある女将から話を伺っていたのだが、これを書いている最中にとんぼさんから電話が入り「碑文の解読について印牧先生と一緒に写真を見ていて、鶉山ではなく鷗村ということが解かった」と言われた。
 参考までに。

 2015/06/04 (木) 宇宙のかなたへ思いは馳せる

 昨晩は二人の中年男性来訪客と共に、明社定期総会に関する打合せ会議。9時を過ぎるとイリイリしてくる。はやくアルコールを飲みたくて仕方ないのだ。客人帰宅後、早速、焼酎独飲瞑想的桃源郷に入り込んだ。
 それにしても、このところ大変に忙しい。
 年たけて また越ゆべしと思ひきや 
        命なりけり 小夜の中山
  西行
 を思い出す。

 2015/06/03 (水) 本日はCAD三昧

 6月の明社定期総会の記念講演の依頼が目的だったのだが、大廻さんは「古式特技法 穴太流石積講演会」のことを盛んにしゃべっていた。

 それはさておき
 今年の「一筆啓上賞」公募のテーマは「うた」だとのこと。
 

 どうでもいいことだが、昔から「心は体のどこにあるんだろう」と思い悩み続けてきた僕には、「体にひびき 体にしみる」のほうがしっくりくる。
 ところで
 本日の福井新聞20面に、「金津中部工業団地連絡協議会」の<あわら市を音楽のあふれる街へ事業>が、あわら「おもてなし補助金」交付3団体のうちのひとつに交付決定と出ている。よかったですね。
 それはともかく
 仲仕組合創立総会之碑を囲んでいた樹木が伐採され、碑の全貌が顕わになった。
 
 今、長谷川さんが、解読作業にいそしみ、ここまで進んだ。

 2015/06/02 (火) 無題

 今朝は、一筆啓上賞の仕掛け人として有名な大廻政成さんと会っていた。
 

2015/06/01 (月) 指中の板碑

 昨日の午後は、生涯学習館において「あわら市指中の板碑」についての解説があった。解説者は千々和到氏。
  氏は
 「・・・板碑解読について私の私案は
 1行目 右志者為〇〇法界
 2行目 平等利益益之故也
 3行目 〇安二
 4行目 念仏一結衆敬白
 もっとも重要なことは、この板碑が背景に「一結衆」の存在を明らかにしているいわゆる「結衆板碑」であること。
 福井県には、重要な中世以来の石材供給地があることが知られている。一つは笏谷石であり、もう一つは日引石である。笏谷石は、戦前から石造物研究者の間で知られていたが、日引石は、比較的近年になって、よく知られるようになった。この石材は若狭の高浜町で切り出される石で、長崎の大石一久氏らによって、中世において、九州の長崎や対馬にまで分布した石材だったことが明らかになった。その研究の専門誌「日引」という学術雑誌まで刊行されている。
 一方、笏谷石は日本海を東へ、青森県や北海道の松前まで運ばれている。笏谷石は、一乗谷で信仰の中核を占めたとされる天台宗真盛派の教線に乗って、陸路でも京都、滋賀、伊勢へと運ばれ珍重された。美しい、青い色が好まれたのだろう。中世に広く流通したいずれの石もが、福井県産である、ということが興味深い。・・・」
 等々としゃべっていた。