三月日記    
2020年3月31日
 半藤一利構成 「日本の一番長い夏 」のDVDを見てから、もう7年が経った。

 昭和38年の夏、文芸春秋社主催で、昭和20年8月に政府の要職に就いていた者、戦争の最前線で命を賭して戦っていた者、特攻を志願した者、銃後の兵士だった者エトセトラ総計38人が集まった。そして、彼ら彼女らの肉声は私の耳を撃った。
 当時の書記官長・迫水久常によれば昭和20年7月26日に英・米・中の首脳がポツダムに集まり、いわゆるポツダム宣言(日本の無条件降伏勧告)が発せられた。それまで、佐藤尚武ソ連駐在大使を通してソ連を仲介とする和解工作を模索していた日本首脳にとってこれは寝耳に水。そしてこの情報は国民の誰一人にも知らされることがなかった。

 時の戦争指導者会議のメンバーは6人。
 米内、東郷、鈴木の三人が宣言受諾を主張したが、阿南、梅津、豊田つまり軍人側の3人が天皇制護持を目指し本土決戦を主張。会議は混乱に混乱を重ねた。

 8月14日の御前会議による昭和天皇の御聖断まで受諾はずるずるっと延びてしまい、その間に広島、長崎へ原爆が投下されたのである。

8月7日(だったかな?)、佐藤ソ連駐在大使は外相モロトフに呼び出され、宣戦布告書を手渡される。そして8月9日にソ連軍が満州へ侵攻してきたのである。ぼくはソ連国民をナターシャ以外誰も知らないが、国家としてのソ連はどうしようもないと思う。

いろんな発言のなかで印象に残ったもののひとつが、沖縄戦で白梅部隊にいた楠さんの証言。

 米軍の砲火攻勢が強まった昭和20年6月。彼女が所属していた部隊の長から「もうあかん。
 わしら帝国陸軍兵士は既に玉砕を心に決めたが、おまえら看護兵は家へ帰れ。生き残って結婚して立派な日本人を産んでくれ」と言われ、彼女は親友とふたりで部隊をあとにする。沖縄南部の地で米軍砲火をかいくぐりながら逃げ惑うふたりの前に陸軍兵士5人が突然現われる。

「兵隊さん、私たちを連れて行ってください」と懇願し、計7人は行動を共にするのだが、行く手に米軍部隊が現われた。5人は四散し、亜熱帯のジャングルに逃げ込む。しかし彼女らふたりは女の身なので、逃げ足が遅い。しかたなく手榴弾を手にして自決を図るのだが、起爆操作がうまくいかないちに米軍に捕まってしまう(正確には、捕虜となった)。

彼女たちが米軍トラックに乗せられようとしたその刹那、陸軍兵士5人が日本刀を抜いて切り込んできた。そして彼ら5人は彼女達の数メートル目の前で米軍火器により、頭を飛ばされ、胴体を分かたれ、全身血だるまとなって息絶える。

要するに5人の兵士は、拉致されようとする彼女らを救おうとして、身を粉にしたのだった。
2020年3月30日 月曜日
  明日で年度末だ。きょうの午前中は三国土木で打合せ。午後は、調子のおかしくなったパソコンの復旧に全力を投入していた。三時間以上を費やした。・・疲れた。
(よわひ)70を越した自分には長時間の専念の身が重い
2020年3月27日 金曜日
  毎日がすごく早く進んでいるように、かつ日々が激変しているように感じられる。
 いや、激変している。全世界が新型コロナウイルスで激変だ。
 
 中世ヨーロッパを席巻したペストによる死者は5000万人に上ったと、ものの本で読んだ記憶がある。まさかそうはならないだろうが、なったらそれこそ終末で、人類の英知が今の時点で感染を食い止めなければならない。
 ともかく、スポーツイベントの実施など論外だろう。我が阪神タイガースの藤浪晋太郎も感染が明らかになったことだし。
2020年3月26日 木曜日 沈丁花
 
 庭の沈丁花がきれいだ。一輪を花瓶に活けて、応接コーナーに置くことにした。
 師匠について生花修行にいそしんだ在りし日(30代の二ヶ月)を思い出す。
 花道は、活けられた花の容姿と花瓶の器量そして、置かれた空間の奥行が醸し出す。その意味では千利休の茶道精神と二重写しになってくる。
 
 秀吉にへつらわず潔く自刃した利休こそは、茶道を茶道たらしめた人なのだろう。
 ところで数年前に、三国町で開かれた茶会に出席したことがある。若く美しい女性が正座して茶をたてる後ろ姿をみるうち、着物にパンテイのラインがうすく映るのが気になった。利休の時代から450年の時が流れているとはいえ、やはりこの時だけは、腰巻着用といきたいものだ。
2020年3月25日 水曜日 宮城まり子ついに永眠
 
 
ということで、ここ二週間ばかり図書館通いに明け暮れていたのだが、そうしてもいられなくなってきた。
 
 気を引き締めるため、三国海岸へ車をとばした。
 
 真昼の日本海を背に、デジタルカメラで映像キャッチ。
 ・・・ 陽光はまぶしく、風はなく、よって波しぶきも見えず、水平線は一直線に伸びている。 水平線を超えていくと、大陸があるのだ。新型コロナウイルス発生地がそこにあるのだ。

 

そんなことを考えていると気が滅入る。そこで、蕪村の一句を呟いた。
       春の海  終日 のたりのたり哉  与謝野蕪村

020年3月24日火曜日
 
「<桜を愛でる会>を開こうよ」というメールが入ってきた。
 去年はレンゴーのグラウンドにビニールシートを敷いて開いたのだが、寒くてかなわんかったのを覚えている。
 
 今年は暖冬の影響で開花が早まるとのことだが、やっぱりわたしの事務所の応接コーナーで開きたい。花より団子というか、団子より酒で、酒と言えば焼酎で、酔えばすぐに横になって眠ってしまえる。いずれにしろ脇に女性が座って居れば、それだけで僕は幸せだ。
 願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ 西行

だけど、桜の前に梅の開花があるんじゃなかろうか。その前に桃の開花があるんじゃなかろうか。まあ、なんでもええわ。
 2020年3月23日 月曜日 舘高重
 
連休中にパソコンの中身を整理していたら、舘高重詩集の幾つかが出てきた。
 「舘高重を偲ぶ会」を中央公民館で開いてから、もう、五年程は経っただろう。
 なつかしい


舘高重詩集より
 運命
金を積んで
病が治るならば
苦面して積み上げてみると
昨日も母が泣いた
病んでいると
金より命がほしい
いつまでも死にたくないと
今日も母が泣いた

 春の花
声をそろえて
風に翻っている子供らは
まるで 花のように見える
雲に隠れた蝶々よ
子供は深紅の花だなあ


 
夕暮れ
朝から  木蓮が香っている
暖かいひざしが
静かに暮れてゆくのに 木蓮は まだ香っている
母上よ
私は蝶になりたい この夕暮れをとびまわりたい
郊外にて
アンテナの柱が
すくすくと立ち並んで
街は寂しい郊外を作っています
今日も郊外の陽だまりに座って
おだやかな気持でいれば
街のことが案じられます

 

何を書いても飯が食えない と
一昨年 親父に叱られた
なるほど うなづかれる
しかし おれだって人間だ
おれは
すてきな 針をもっている
今に見ろ
でかい 魚を釣ってみせるから

 菜種の花
砂煙をあげて
野道を歩いていると
とぼとぼ
とぼとぼ霞んだ山の下あたりまで
菜種の花々は
狐に化かされている
 
 夏のゆめ
白き手よ
女よ
傷つける夢よ
かってはわが心に
開きし花よ
小指かさねし
朝々の祈りも
はかなく消えて
夏の木蓮の夢よ
あゝひとり身のさびしさ

 萩の花
妻の名前は
萩子といった
だから
今年の萩よ
白萩の花よ
たいへんお前が
なつかしく見えてならない

 冬の指
火鉢にかざし
並べかえては眺めている
病に痩せた私の指 指
黒く堅く 働き疲れた母上の指 指を
思い合わせば
あゝもったいなし
勿体なし

 女の写真へ寄するの詩
女よ 夜の證明も暗く 数限りない幻想に酔いながら
いまごろは裏藪にひびく海鳴りの音を聞いているだろうね
昨日も今日も 透明な野山の景色にあきた僕は
お前の瞳をみつめていると しみじみ秋の深きを感ずる

 山百合
病を背負い
寝たきりの妻
痩せゆく頬は
ひかりもうすれ
ただかすかに息づくのみ
こんなに疲れない前に
もう少し看護したかった
病神は容赦なく
妻を縛ってしまった
こころもとないが
せめて妻の好きな山百合で
山の素朴な風情と清楚な匂で
病室を飾ってやろう

 カンナの花
お前が最後に寂しく微笑んでくれたのは
あの真っ赤なカンナの花を見たとき
「カンナはこんなに赤いの・・・・・」
地上の美しき花の見納めに
お前が残したその驚きは
いたくも私の耳に保たれている
カンナは今年初めて植えた花だが
こんなにまで嬉しい記憶の花だから
いつまでも私の胸に植え込んでいて
お前の微笑みを忘れないでいよう
 
 似顔を描く
泣くに泣かれぬ追憶
みどり木しげれる静かさのなか
今日もお前の似顔を描く
春よりの病み疲れに
顔紅の色あせて
あゝ 頬骨のかくもさびしき
いくどか涙に濡れしこの画ペン
ふたたび口にふくみて
たんねんにお前の似顔を描く

 病んでいると
病んでねていると
雨の降る日は雨が悲しい
晴れた青空の見える日には
歩きたくなって
涙で心がいっぱいになる
 
 エンドウの花
さやエンドウが食べたいと思い
遅ればせながら播きつけたら
母が丹念に培い
この頃 花をつけるようになった
全体がやわらかいきみどり
支柱にまきつくひげの可愛さ
花は白く小さいけれど
ぽつぽつと咲き出した嬉しさ
病める身なればこそ
梅雨晴れの真昼に
こんな花でも眺めていると
気持のいいものである
 
 雪晴
外はすっきりと明るい
雪晴である
風があるのか
杉の葉がゆれている
三年このかた 私は
冬の真中を寝てしまう
あちこちの窓をながめ
雪景色を眺め
ひねもす寝生活

 つれなき
死んださきのことを
誰だってわかるもんか
病んでいると
死ぬことを考えない
明日に苦しみが
わかるばかりだ

 冬夜
灯はうすれ
吹雪窓に
つのり
父母なく
青春を病みつくす
あわれ
花かれ
鳥なく
雪きたれど
死ぬをいよいよ
おそれ

 無題
病の苦しみもうすらぎ
晴れた日 心も軽くなると
しきりに父母を思い出します
その面影を少しも知らず
暖かい乳房の覚えもなく
ただ生みすてられた不幸な私は
暖かい父母の胸に
かえりたいと思います
苦しい病も治らなければ
極楽浄土の蓮のうてなの
母の住家に参りたいと思います
そこには父も一緒でしょうから
 
 かれくさに
 ほとけひとりの
 ひなたかな

 絶筆
小さいときから自分ひとりでほほえんでいた大きな理想も、今は何処えやらあとかたもなく、言い古された言葉ながら相変わらず生きています。熱さ寒さにつまづき一年の大半を寝込んでいる生活を続けて闘病四年も残り少なくなりました。
病んでいればことさら肉親のないのは悲惨なものです。私も時には常識的反逆を感ずることもあります。
無事に昭和六年を迎えることが出来ましたら、その日から自伝風な感想を書きたいと思っていますが、只今は安静を強いられている境遇で死線を越えたばかりです。
近くの山々まで雪が迫ってきました。この頃はただ雨の音、風の音にわびしい明け暮れを送っています。

 読後に心地よく酔ったところで、さて、焼酎を飲もか 

 

2020年03月14日 土曜日 庭の沈丁花が綺麗
 
朝起きて テレビつければアーアーアー きょうもウイルスあすもウイルス

 さて
 橘曙の「たのしみは」シリーズに
 たのしみは 人も訪ひこず 事もなく 心をいれて 書(ふみ)を見る時
 という歌があって、この心情が今の私にはよくわかる。

 2020年3月19日 木曜日 金津町坂ノ下八幡神社境内界隈
 

金津のまちうちで唯一江戸期の風景がそのままに残っている場所である。ここ北陸道の細呂木方面に向かって左手に位置するのが八幡神社。この金津宿を発つと次にみえてくるのが細呂木宿なので、昔は細呂木口と呼ばれていた。坂ノ下という地名の由来は北にみえるのが友平山で西坂を降りきった場所にあるから。坂ノ下なる地名がついたのは徳川幕藩体制成立の後である。なお江戸期、北金津には毎年7月に市がたち、坂の下も市は3日と12日だったと、ものの本には書いてある。
奥州平泉に落ちのびる源義経や越後に流された親鸞の通り道でもあった。

八幡神社


祭神は譽田別尊(ホンダワケノミコト15代応神天皇)および大日雲貴尊(オオヒルメムチノミコト)。由緒沿革。後小松天皇・應永元年(1394年)金津の地頭溝江氏が武運長久のため三州鳩の峰より勧請。その後、兵火にあい慶長年間(1596年頃)神殿再建。文化年間(1804年頃)拝殿再建。その後明治7年村社に加列。
八幡の語源は、①大分県の旧地名によるとする説、②誉田別尊の誕生を多数の「のぼり」を立てて祝う祭りによるとする説、③大陸の帰化人である秦氏が氏神としたからとする説などがある。奈良 時代は「ヤハタ」と呼ばれ、平安時代に入ってから「ハチマン」と呼ばれるようになった。この神社は武運長久のための神社である。

題目塔

建立は文政2年(1819年)
お題目は、日蓮宗で唱える「南無妙法蓮華経」

搭身 46×168cm・全高420cm
石材 笏谷石
銘 正面 南無妙法蓮華経   右面 日蓮大菩薩  五百五十年御遠忌 左面 天下泰平国家安全 裏面 文政ニ年巳丑歳五月吉辰 法□□年 広宣流布四海唱道 日行花押

名号塔

建立は天保12年(1841年)
名 号は菩薩の名「南無阿弥陀仏」
搭身 60×170cm・全高590cm
石材 笏谷石
銘 正面 南無阿弥陀佛  右面 光明遍照十万世界 念仏衆生摂取不捨  左面 天下泰平国家安全  裏面 天保十二年辛丑五月吉辰日 

青楼無縁塚」



建立は明治22年(1889年)3月。「姫川の 俤ゆかし 枯柳」(不老庵・寿山)と書いてある。姫川は勿論竹田川を指すが、青楼には妓楼の意味があり、すなわち金津宿にいた遊女たちの墓である。
無縁とは、稲作農耕体制から距離を置いているひとたちあるいははじきだされていたひとたちの謂だと思う。聖・山伏・巫女・鋳物師・木地師・上人・海民・山民・クグツ・遊女等である。青楼無 縁塚の無縁は、遊女を指す。
 安永2年(1773年)の記録には、旅篭60軒、揚屋20軒、遊女屋7軒、遊女61名とある。
○金津八日町箒はいらぬ 揚屋小女郎の裾ではく
○八日町通れば二階から招く 紅い鹿の子の振袖で
 という唄が当時の人々の口端にのぼっている。金津宿の遊郭が隆盛を誇ったことのあかし。
 金津が宿場町として栄えた理由のひとつに吉崎御坊の存在があげられるだろう。蓮如忌が始まったのは宝歴2年(1752年)。御影が4月23日の夕方吉崎に到着し、5月20まで、毎年とりおこなわれている。

坂ノ下地蔵



御堂はこの坂ノ下に住む中村の大工さんによって近年、建てかえられているが、地蔵そのものは寛政9年(1797年)7月吉日に建てられた。なお、寛政年間というと徳川幕府が江戸市中における男女の混浴を禁止したときである。
地蔵は仏の脇にたつ菩薩だが、とっても庶民的な存在でそれぞれの地蔵さんにあだ名のついているものが多い。それらの地蔵さんを異名地蔵という。(付記・参照)

観音堂



昭和23年の福井地震で倒壊。歴史を語る文書は残っていない。何時頃ひらかれたかを知る人もいない。ただ、研究家が、江戸前期と推定されるだけである。
木造の阿弥陀像を中心に33体の観音が揃っていて、地域の信仰者の法談や安らぎの場になっている。聖・如意・十一面・千手・馬頭・准祇等の諸観音は、坂ノ下区民の仏であると共に、旅人達の仏であった。もともとは八幡神社境内にあった。中に33体の観音像が安置されている。しかし、うち12体は修理のため、京都に出張中。昭和23年の福井地震で倒壊.。



越前観音巡り33番が決定したのは、延宝6年(1678年)。金津町内で札所になっているのは御簾尾の龍沢寺、金津小学校横の総持寺、宇根の宇根観音堂の3ケ所。なお、それから12年たった 元禄2年(1689年)8月10日に桃青・松尾芭蕉が金津に立ち寄っている。 

故山口喜三太氏 記

江戸時代、徒歩の旅は一日行程八里(32km)、女子供ならば六里(24km)程度であった。鉄道が利用されるようになると、百里(400km)の道程を座ったままで到達することができるようになった。その上、夜行列車も走るようになり、眠りながらの旅が可能になった。交通革命である。

北陸本線、長浜-敦賀間の開通が明治17年。
敦賀-森田間が明治29年。
翌30年(1897)に石川県小松まで延長。
「金津駅」は、この年開かれた。

北国道の宿場と北陸本線停車場とは、殆どが重なったが、宿場町としては、これを境に急速に寂れていった。金津町も例外ではない。
交通革命による産業の発展はあったとしても、宿場としての役割は幕を閉じた。加えて福井大震災に見舞われ、わずかに残っていた宿場時代の家並みさえも失われてしまった。
そんな中で、200m程の街道筋ではあるが、旧国道の面影を遺しているところがある。
金津町の西北端、「大字坂ノ下」の字佐戸ケ下・友平山・字外門前・西坂あたりの一区画で、「千束一里塚と「関の七曲り一里塚」とのほぼ中間、加越台地の入り口にあたる。

宿場口 坂ノ下

千束一里塚を出ると、字百舌鳥・金ノ丸の畑地が続いて「字友平山」に出る。松林の長い山道を歩いてきた旅人には、心の弾む下り坂である。
この辺りは郡内でも早くひらけた地域で、通称、稲荷山から向山にかけて、五世紀前期といわれる古墳群や古代住居跡・貝塚が確認されている。
金津宿は今庄・府中・福井に並んで、越前路の主要駅であった。
駅馬30頭が割り当てられ、安永年間(1770-)には宿問屋・旅篭屋が60余軒、揚屋20軒が立ち並んでいたというから、たいへんな賑わいであったのだろう。
友平山の裾へ下りたところが「大字坂ノ下」の北口、八幡神社の神域となる。
ここにきて漸く眺望がひらける。
天長(824-833)の頃の創建といわれる総持寺や、浄土真宗の明善寺・願泉寺の大屋根が間近に見え、その奥に八日町・十日町と旅篭屋や揚屋の屋根が続く。坂を下りて町中へ入る街道は直角に折れて、東西に流れる竹田川に沿って永い家並みが続く。本陣・脇本陣をもつ宿場独特の町並みである。
やれやれと宿場到着を実感するのは、この友平山の裾「坂ノ下」で、次の宿場、長崎・船橋辺りまで足を延ばす旅人も、ここに宿をとる旅人も、肌に風を入れ、名物茶屋で足を休める憩いの場であった。
一方、加賀・越中にむかって朝立ちをする下りの旅人にとっては、旅宿の名残りを惜しむ「見かえりの場」であり、山道にかかる「手向けの場」でもあった。
ここには八幡神社・観音堂・地藏堂・不動明王堂・お題目塔・名号塔が寄り添うように立ち並んでいる。
山路を超えてきた旅人は、観音菩薩や地藏尊に無事のよろこびを奉謝し、これから山路に向う行人は、山路の平安を祈って幣を手向けたにちがいない。
ここは又、芦原・三国への追分口でもあった。
三国は、九頭竜川・日野川・足羽川・竹田川流域の物質の集散地で、北前船によって全国と交易する越前随一の港であったから脇往還とはいえ重要な街道であった。八幡神社南側に百米ほどであるが昔のままの細道が残されている。
寛永年間に勧請された八幡神社以外の堂塔は江戸中期から末期にかけての建立で、旅の歴史では伊勢神宮への「おかげ参り」や「金毘羅参り」が盛んに行われた頃に当たる。地域の人びとの新鉱に根ざして造立されたのではあろうが、宗派を超えて寄りあっているのは、深い緑に覆われた友平山が、神や仏をまつるに最もふさわしい聖地であったのかも知れない。
 2020年3月17日 火曜日 卒業式
 どこかの学校が卒業式の練習に励んでいる風景がテレビ画面に入った。
 卒業式だから必ず校歌を歌う。
 幕張西高校の校歌に
 悲しみからだって 涙という宝石が生まれるというフレーズがあって、作者の宋左近はいかにもカッコイイので、校歌を歌う在校生は嬉しいだろうと、昔から思っていた。

 閑話休題
 今月末に、ある裁判の傍聴のため福井地裁へ数人で行く予定だったのだが、裁判が延期になったという連絡が入ってきた。これも新型コロナウイルスの影響だ。
 右を向いても左を見てもコロナコロナで、世の中真っ暗闇じゃございませんか。どこに男の夢がある。
2020年03月16日 月曜日
 昨日の午後は、坂ノ下八幡神社拝殿に居た。
 春の例祭が挙行されたためである。
 あいにくと雨が降っている。境内の拝殿へ向かう笏谷の踏み石が濡れていて、杖だけが頼りの障害者の僕は怖かった。

 今朝、外に出ると、車のフロントガラスにはうっすらと雪が積もっている。寒さをこらえて、煙草を買いにいかなくてはならない。
  
    奥底の しれぬ寒さや 冬の海   豊田屋哥

2020年3月18日 水曜日 火事
 昨日の昼、事務所で打合せをしている最中、消防車のサイレンが聞こえた。芦原温泉街で火事が起こったらしい。現場へいってみると煙モウモウで、強風のせいか、三件が焼けたとのこと。
 それにしても、芦原温泉は昨年、一昨年と出火があいついでいる。

 明けてきょうの午前中は、国民民主党の県連事務局が来訪。僕は会計監査の役を担っているので、粛々と帳面をチェックした。
 午後は、長谷川さんと一緒に、笹岡のゴミ捨てまで軽トラで二往復。・・疲れた。
2020年03月15日 日曜日 延期の可能性がでてきた東京オリンピック
 高杉良 著「東京に オリンピックを呼んだ男」
 この本を読んだのは七年前。
 主人公は、ロサンゼルス在住日系二世フレッド・和田勇。

 昭和24年8月つまり私が生後七ヶ月でまだヨチヨチ歩きもできない可愛い赤ちゃんだった頃に、日本水泳選手団が全米水泳選手権に出場するために渡米した。そして和田が日本選手団に、9日間の宿泊先としてサウス・バンネスの邸宅を無償で提供した。
選手権で日本チームは自由形六種目中五種目に優勝、九つの世界新記録を樹立した。特に古橋廣之進(注 この人が金津町に来た時、芦原温泉に招待したのが当時金津町職員だった吉村幸雄氏で、僕は彼から面白い話をいろいろ聞いた)の活躍はめざましく、全米マスコミは彼のことを「フジヤマのトビウオ」と呼んで賞賛した。
まだ米軍統治下だった日本本土からマッカーサー元帥による祝電も打電された。日本中が戦後の混乱期のなかで疲弊していた時に勇気と希望を与える出来事となったわけである。

さて
和田が単に戦後の米社会で順風漫歩に成功しただけの男だったとしたら、この物語の魅力は半減するのだが事実はそうではない。彼の一家は生地和歌山県で食い詰め戦前に米本土に移住した。そこでいろんな仕事に手をだし失敗し要するに七転び八起きの人生を繰り返しているうちに両親はなくなった。そしてその時に米国と祖国日本との間で太平洋戦争が勃発したのである。

彼は強制収用所入りを拒否し、仲間と共にユタ州キートリーに移り住む。日系人は軍需などの工業製品づくりに従事することができないので、荒地を腕一本で開墾し農産物を出荷して生計をつないだ。
周囲からは「中国人をいじめるジャップ、帰れ!」と嘲られた。
 米国籍をとってはいたものの、祖国が日本であるとの思いでアイデンテイテイのギャップに苦しんだことが、戦後になってから東京オリンピック招致に米国籍でありながら陰で活躍する伏線となったのは間違いない。
 このあたり、今回の東京オリンピック招致の顔となりながらも不祥事で辞職を余儀なくされた猪瀬某とは対照的だ

 2020年03月13日 金曜日 確定申告に勤しむ日々
 一週間ほど前に、ひなた工房社長の達川氏から、「ある理由で、是非、フェイスブッ
クを開いてほしい」と言われたが、自分の持っている携帯電話はガラ携帯だし、そもそもツイッターとかフェイスブックの効用も全然わからないし、関心もない。
 
 関心は、酒と煙草と大型活字本読書と初孫の顔を見ることとあとひとつしかないのである。
 しかし、盟友の頼みなので、仕方なく操作方法のわかる女性に来てもらって、やっと少しはわかった。
 昨晩、達川氏がやってきて、最後の詰めをやってもらったが、見ていて数か月前まで続けていたブログを思い出していた。
西暦20年03月12日 木曜日  無題
 
新型コロナウイルス対策の影響で、イベントのいろいろが中止あるいは延期に追い込まれているが、選抜高校野球甲子園大会も中止と発表された。プロスポーツと違って、生涯一度の経験であるだけに、選抜されていた高校生達には、無念さだけが残るだろう。
 

 今年予定されている最大イベントの東京オリンピックの場合は、世界中から選手並びに観客が集まるのだから、ウイルス感染の可能性への懸念も深刻で、延期の可能性も俎上に上がってきた。高1の時に東京オリンピックをテレビ観戦している私は、今回のオリンピックに対してそんなに関心はないけれども、若い世代にとっては重大な関心事となっていることだろう。

 比べてとても小さいイベントだけど、身内が関係しているヴァイオリンコンサートも延期となってしまった。
 下記参照


2020年3月11日 水曜日  数か月ぶりのブログ再開
 
 
 製図室に水槽を置いて、メダカとエビを飼っている。いずれも、今年の正月元旦に北潟湖で捕まえたもの。CADに疲れた時、水槽を眺めると、心が癒される。
 八匹のうち、一番可愛いメダカに憧れの女性と同じ名を付けた。