金津町坂ノ下八幡神社境内界隈

 

金津のまちうちで唯一江戸期の風景がそのままに残っている場所である。ここ北陸道の細呂木方面に向かって左手に位置するのが八幡神社。この金津宿を発つと次にみえてくるのが細呂木宿なので、昔は細呂木口と呼ばれていた。坂ノ下という地名の由来は北にみえるのが友平山で西坂を降りきった場所にあるから。坂ノ下なる地名がついたのは徳川幕藩体制成立の後である。なお江戸期、北金津には毎年7月に市がたち、坂の下も市は3日と12日だったと、ものの本には書いてある。

奥州平泉に落ちのびる源義経や越後に流された親鸞の通り道でもあった。

八幡神社



祭神は譽田別尊(ホンダワケノミコト15代応神天皇)および大日雲貴尊(オオヒルメムチノミコト)。由緒沿革。後小松天皇・應永元年(1394年)金津の地頭溝江氏が武運長久のため三州鳩の峰より勧請。その後、兵火にあい慶長年間(
1596年頃)神殿再建。文化年間(1804年頃)拝殿再建。その後明治7年村社に加列。
八幡の語源は、①大分県の旧地名によるとする説、②誉田別尊の誕生を多数の「のぼり」を立てて祝う祭りによるとする説、③大陸の帰化人である秦氏が氏神としたからとする説などがある。奈良 時代は「ヤハタ」と呼ばれ、平安時代に入ってから「ハチマン」と呼ばれるようになった。この神社は武運長久のための神社である。

題目塔

建立は文政2年(
1819年)
お題目は、日蓮宗で唱える「南無妙法蓮華経」

搭身 46×168cm・全高420cm
石材 笏谷石
銘 正面 南無妙法蓮華経   右面 日蓮大菩薩  五百五十年御遠忌 左面 天下泰平国家安全 裏面 文政ニ年巳丑歳五月吉辰 法□□年 広宣流布四海唱道 日行花押

名号塔

建立は天保12年(1841年)
名 号は菩薩の名「南無阿弥陀仏」
搭身 60×170cm・全高590cm
石材 笏谷石
銘 正面 南無阿弥陀佛  右面 光明遍照十万世界 念仏衆生摂取不捨  左面 天下泰平国家安全  裏面 天保十二年辛丑五月吉辰日 

青楼無縁塚



建立は明治22年(1889年)3月。「姫川の 俤ゆかし 枯柳」(不老庵・寿山)と書いてある。姫川は勿論竹田川を指すが、青楼には妓楼の意味があり、すなわち金津宿にいた遊女たちの墓である。

無縁とは、稲作農耕体制から距離を置いているひとたちあるいははじきだされていたひとたちの謂だと思う。聖・山伏・巫女・鋳物師・木地師・上人・海民・山民・クグツ・遊女等である。青楼無 縁塚の無縁は、遊女を指す。
 安永2年(1773年)の記録には、旅篭60軒、揚屋20軒、遊女屋7軒、遊女61名とある。
○金津八日町箒はいらぬ 揚屋小女郎の裾ではく

○八日町通れば二階から招く 紅い鹿の子の振袖で
 という唄が当時の人々の口端にのぼっている。金津宿の遊郭が隆盛を誇ったことのあかし。
 金津が宿場町として栄えた理由のひとつに吉崎御坊の存在があげられるだろう。蓮如忌が始まったのは宝歴2年(1752年)。御影が4月23日の夕方吉崎に到着し、5月20まで、毎年とりおこなわれている。

坂ノ下地蔵



御堂はこの坂ノ下に住む中村の大工さんによって近年、建てかえられているが、地蔵そのものは寛政9年(1797年)7月吉日に建てられた。なお、寛政年間というと徳川幕府が江戸市中における男女の混浴を禁止したときである。

地蔵は仏の脇にたつ菩薩だが、とっても庶民的な存在でそれぞれの地蔵さんにあだ名のついているものが多い。それらの地蔵さんを異名地蔵という。(付記・参照)

観音堂



昭和23年の福井地震で倒壊。歴史を語る文書は残っていない。何時頃ひらかれたかを知る人もいない。ただ、研究家が、江戸前期と推定されるだけである。
木造の阿弥陀像を中心に33体の観音が揃っていて、地域の信仰者の法談や安らぎの場になっている。聖・如意・十一面・千手・馬頭・准祇等の諸観音は、坂ノ下区民の仏であると共に、旅人達の仏であった。もともとは八幡神社境内にあった。中に33体の観音像が安置されている。しかし、うち12体は修理のため、京都に出張中。昭和23年の福井地震で倒壊
.。



越前観音巡り33番が決定したのは、延宝6年(
1678年)。金津町内で札所になっているのは御簾尾の龍沢寺、金津小学校横の総持寺、宇根の宇根観音堂の3ケ所。なお、それから12年たった 元禄2年(1689年)8月10日に桃青・松尾芭蕉が金津に立ち寄っている。 

故山口喜三太氏 記


江戸時代、徒歩の旅は一日行程八里(32km)、女子供ならば六里(24km)程度であった。鉄道が利用されるようになると、百里(400km)の道程を座ったままで到達することができるようになった。その上、夜行列車も走るようになり、眠りながらの旅が可能になった。交通革命である。

北陸本線、長浜-敦賀間の開通が明治17年。
敦賀-森田間が明治29年。
翌30年(1897)に石川県小松まで延長。
「金津駅」は、この年開かれた。

北国道の宿場と北陸本線停車場とは、殆どが重なったが、宿場町としては、これを境に急速に寂れていった。金津町も例外ではない。
交通革命による産業の発展はあったとしても、宿場としての役割は幕を閉じた。加えて福井大震災に見舞われ、わずかに残っていた宿場時代の家並みさえも失われてしまった。
そんな中で、200m程の街道筋ではあるが、旧国道の面影を遺しているところがある。
金津町の西北端、「大字坂ノ下」の字佐戸ケ下・友平山・字外門前・西坂あたりの一区画で、「千束一里塚と「関の七曲り一里塚」とのほぼ中間、加越台地の入り口にあたる。

宿場口 坂ノ下

千束一里塚を出ると、字百舌鳥・金ノ丸の畑地が続いて「字友平山」に出る。松林の長い山道を歩いてきた旅人には、心の弾む下り坂である。
この辺りは郡内でも早くひらけた地域で、通称、稲荷山から向山にかけて、五世紀前期といわれる古墳群や古代住居跡・貝塚が確認されている。
金津宿は今庄・府中・福井に並んで、越前路の主要駅であった。
駅馬30頭が割り当てられ、安永年間(1770-)には宿問屋・旅篭屋が60余軒、揚屋20軒が立ち並んでいたというから、たいへんな賑わいであったのだろう。
友平山の裾へ下りたところが「大字坂ノ下」の北口、八幡神社の神域となる。
ここにきて漸く眺望がひらける。
天長(824-833)の頃の創建といわれる総持寺や、浄土真宗の明善寺・願泉寺の大屋根が間近に見え、その奥に八日町・十日町と旅篭屋や揚屋の屋根が続く。坂を下りて町中へ入る街道は直角に折れて、東西に流れる竹田川に沿って永い家並みが続く。本陣・脇本陣をもつ宿場独特の町並みである。
やれやれと宿場到着を実感するのは、この友平山の裾「坂ノ下」で、次の宿場、長崎・船橋辺りまで足を延ばす旅人も、ここに宿をとる旅人も、肌に風を入れ、名物茶屋で足を休める憩いの場であった。
一方、加賀・越中にむかって朝立ちをする下りの旅人にとっては、旅宿の名残りを惜しむ「見かえりの場」であり、山道にかかる「手向けの場」でもあった。
ここには八幡神社・観音堂・地藏堂・不動明王堂・お題目塔・名号塔が寄り添うように立ち並んでいる。
山路を超えてきた旅人は、観音菩薩や地藏尊に無事のよろこびを奉謝し、これから山路に向う行人は、山路の平安を祈って幣を手向けたにちがいない。
ここは又、芦原・三国への追分口でもあった。
三国は、九頭竜川・日野川・足羽川・竹田川流域の物質の集散地で、北前船によって全国と交易する越前随一の港であったから脇往還とはいえ重要な街道であった。八幡神社南側に百米ほどであるが昔のままの細道が残されている。
寛永年間に勧請された八幡神社以外の堂塔は江戸中期から末期にかけての建立で、旅の歴史では伊勢神宮への「おかげ参り」や「金毘羅参り」が盛んに行われた頃に当たる。地域の人びとの新鉱に根ざして造立されたのではあろうが、宗派を超えて寄りあっているのは、深い緑に覆われた友平山が、神や仏をまつるに最もふさわしい聖地であったのかも知れない。