16年01月日記

 2016年1月31日  昨日の一日
  昨日の土曜日は、図書館詣でから始まった。
 私は、著者や題名を予め全く決めずに図書館へ行く。開架棚に並んだ背表紙がコビを売るその売り方に魅かれて本を決めるのであって、比喩的に言うならば、遊郭で立格子の向こうから送ってくる笑いの淫乱さの度合いに応じて相方の遊女を決めるという行為にほかならない。
 当然、あたりはずれがある。通常7冊借りてくるのだが、戦績は平均して5勝2敗。初めの15ページを読んで、読み続けるか止めるかを決める。私の本職はあくまでも建築設計なので、ウダウダしているわけにはいかないのだ。
 一人一殺の血盟団ではないが、一日一冊を目指しているので、それなりに苦労する。
 図書館を出てから、DIY店へ行った。台所用の組立棚と、サントリーレッドウイスキーを購入。これで午前の部が終わった。

 午後一番に、サントリーレッドちびりちびりでやや酩酊しながら棚板組み立てを開始した。一時間強で作業を終えて一服・・。NHKテレビを点けたら、パラリンピックに向けての日本車いすラグビーチームを特集している。見ていて、私は30年前を思い出した。
 私は、鯖江市内の体育館で、できたばかりの車いすバスケットボールチームの練習を見ながら、監督と話しをしていた。監督の両腕は付け根から失われていた。いわゆるサリドマイド奇形というやつだ。
 自分が生まれた時、父は殺せと母に命令ししかし母は懇願して生かす道を選んだ。結果として、自分は座敷牢で育てられた・・、と言う。
 ナチス・ヒトラーが制定した「断種法」はなかったにせよ、それに近い雰囲気が日本社会にあったのかもしれない。

 そういうことを考えていた時、ドアがノックされ某あわら市議が入ってきた。三月議会を前に市民全世帯にむけて、自分の主張チラシを配布するとのこと。いいことだ。これをするのは彼くらいのものだろう。
 
 夕刻になって二人の女性から、「お誕生日おめでとう」の携帯コールが入ってきた。女性とは言っても女性を意識させない女性で、ひとりは60歳のおばはんひとりは妹だ。もてまくった40歳50歳代に比して隔世の感がある。ま、これが人生だ。

 閑話休題
 昨晩、「刑事コロンボ」を見ながらうつらうつらしている私の事務所に、花束をかかえながら「お誕生日おめでとう」の言葉と共に、妻が入ってきた。

 「奥さん、ありがとう。愛してるよ(恋してるかどうかは知らないが)」と、私は感激の心地で答えた。
 

 2016年1月30日 もう週末か
  本日は、午前0時に目が覚めた。熱々の「カプチーノ」を飲みながら、鏡を見つつの自己流散髪を終えてから、「夜明けまで6時間ある。何をして時間をつぶそうか。CADか、確定申告の準備か、ネットサーフインか」と思案したのだが、結局は時間を読書に費やし、万城目学著「鹿男あおによし」を読み終えたのだがあまり面白くなく、これはその前に読んだ群ようこの「負けない私」を面白く読めたことによる反動故かもしれない。
 
 2016年1月29日 無題
  私は、明日満67歳になります。
 何故こんなことをブログに書くのか。勿論、「おめでとう」と言ってほしいからではなくて、「60歳代も終半にさしかかってきたなあ」という強い感慨があるからで、個人的なレベルでは、60歳代の自分は10歳代終半から20歳代前半に比肩するくらい、心の中で暴風雨にさらされていました。
 脳内出血で倒れたことや幽体離脱を体験したことにもその影響があるのでしょうが、日常生活の感受がもはや妄想なのではないかという懸念を抑えることができません。それはいくらでも例証できるし、付け加えれば、このブログのタイトルを「妄想日記」に変えた理由もそこにあります。
 
 

2016年1月28日
  昨日の朝、妻が飛び込んできて、「道路向かい側の自宅物置の水道管が壊れて水が吹き出している」と、焦って言う。図面締切まで四時間しかなくこちらも焦ったが、妻の言葉を優先しなくてはならないので、工具箱を持って現場へ行った。
 なるほど、官が破裂して、吹き出し量がすごい。メーターの元栓を閉めようと思ったのだが、あいにく、前夜の降雪で、メーターボックスがどこにあるのかわからない。おおよその見当をつけてから、スコップでボックスを探し出し、ドライバーで元栓を閉めた。

 雪国人間の自分でさえ、こういうトラブルにつきあわなくてはならない。
 ましてや、九州四国といった温暖地域では、今回の降雪によるトラブルは多かっただろう。
 

 2016年1月27日 今は白い山しか見えないが 
 
 死ねる薬を前にして つくつくぼうし

 ふるさとの言葉のなかにすわる

 けふもいちにち 風をあるいてきた

 うしろ姿のしぐれてゆくか

 ひとり住んで捨てる物なし

 分け入っても分け入っても青い山

             山頭火

 

 2016年1月26日 無題 
  
 昨晩の8時頃だったかな?
 「刑事コロンボ」を見終わり寝てしまった僕は、空腹で寝ざめ、「なにかあまりものがないかな」と、本宅の台所へ行った。そこにはお袋がいて、「さっき、女のひとが菓子折りを持ってきたよ」と、言う。
 その言葉で、昨日のブログを思い出し、恐縮した。
 
 続けてお袋は「若くて、とても美しい人だったよ」と、言う。
 「ならば無理をしてでも、何故、俺を起こさなかったのか。惜しかった・・」の思いで、僕はとたんに不機嫌になった。
  図面の変更をたびたび依頼されるので、最近の僕は、二台のパソコンを駆使してCADにいそしんでいる。左目で変更画面をにらみ右目で変更前画面をにらみながらマウスを動かすと、作業効率が大変にはかどる(ような気がする)のである。おかげで、今場所の大相撲をほとんど見ることができなかったのだが、変身した琴奨菊が、見事に幕内優勝をなしとげた。
  気になったのは、終盤に入ってからの琴奨菊フイーバーが度を越しているように思えたことだ。コメンテーターは琴奨菊ひとりにしぼって「日本人力士10年ぶりの優勝なるか?」の繰り返し。
 なんともはや、モンゴル人横綱連中がかわいそうで、彼らも又相撲という「日本の国技」に真摯にとりくんでいるのである。度を越したフイーバーは、彼らに対して失礼にあたるような気がする。

 2016年1月25日 一日一善
  雪が太郎を眠らせ次郎を眠らせている昨晩、友人のSくんがやってきた。
 新しいマグカップに熱々珈琲を入れて応接しながらの四方山話で、僕が昭和時代の話をすると、「まきちゃん、過去を回想しても仕方ない。今からが大切なんや」と、言う。「雪が解けたら、旅に出ようよ」と、言う。
 「うーん、旅もいいなあ。大型レンタカーで5、6人(勿論男女混合)の旅をするのもいいなあ。車窓に映る春の息吹を感じながら、サントリーオールドを飲み続けてぐでんぐでんになるのもいいなあ」と、僕は思った。
 今朝は4時に起きて、暗闇のなかで雪かきを開始した。昨晩の降雪量は30cm強だが、軽いので雪かきが比較的楽だ。
 そうこうしているうち、ひとりの若い女性(推定年齢20代前半)が目に入った。困ったような顔をしている。
 近づいて「お嬢さん・・どうなさいましたか?」と聞く僕に、「私の勤務する医院の駐車場が雪に埋もれていて駐車できないのです」との答えが返ってきた。
 「ドンマイです。私の駐車場に車を置いて構いませんよ」と、僕は優しく微笑みで答えた。
 一日一善だ。きょうはいいことがあるかもしれない。

 2016年1月24日 本日は図面締切日
 本日は、宜野湾市長選挙 の日。志村氏の当選を祈る。
 いまから40数年前の学生時代に、僕は二人の沖縄人先輩から、大和人(ヤマトンチュウ)沖縄人(ウチナンチュウ)に対する差別の歴史・苛斂誅求の歴史をいろいろ教えていただいた。彼ら二人はいつも穏やかで立居振舞にも気品があった。
 その後40数年間生きてきたが、そういう人格者と、自分自身以外には誰ともめぐり合っていない。  

2016年1月23日 仏道修行の日々 
 昨日の国会中継での甘利大臣演説の冒頭での週刊文春に載った自身の不祥事に関する言及には笑ってしまった。
 「記憶をはっきりさせるため、一週間ほどの余裕をください」に、与野党を問わず失笑が多かったはずだ。
  今日の午後、僕は三国町にある某寺院の墓所にいた。巨大な樹が目の前に立っていて、相当な年輪を感じさせる。
 不思議な樹だ。胴の中央がえぐれていて、そこに光がさしこんでいる。写真でわかるように、胴が傾斜しているので、えぐれた部分が墓群を見守る眼のように思えてくる。僕はひそかに翁の樹と名付けた。
 
 自分が異界にいるような気がして、それが心地よい。

2016年1月22日 早朝仏道修行の日々
 仕事の忙しさがようやく峠を越し、焦る日々に終止符が打たれ、心に安定が戻った。
 その間、世間の耳目は大型バス転落事故の報道に集まり、亡くなった学生の親たちの(怒り・悲しみを通り越したような)無念のTV映像に複雑なものを僕は感じる。
 未来を奪われた学生たちに哀悼の意を感じるのは無論なのだが、しかし彼ら彼女らの肉体及び肉体に潜むあらゆる感情も消滅してしまった。しかし、生きている親たちは、失った子を思い嘆くことでしか生きていけない。無明長夜となる。
 誰もが潜在的にはそういう可能性を秘めているわけで、生きるってことは悲しいことだと、つくづく思う。
 夕刻、所用をこなして事務所に戻った。一服してから、エクセルで工事日報を作製。疲れたのでまたまた一服しつつ「焼酎・とどろきだるま」のふたを開ける。
 美味い・・五臓六腑にしみわたる。
 わたしの好きな三つとは、酒と煙草と女性だが、女性一般が好きという在原業平タイプではなく、特定の女性を思うことに幸せを感じるのである。根がまじめなのだろう。 


2016年1月21日 無題
 用事があって、今朝の五時には立正佼成会あわら支部にいたのだが、昨晩の降雪量が思いのほか少なく、スムーズに支部へ行くことができた。
一服しながら、数年前に亡くなった朝倉先生のことを思い出し、10年ほど前のメモを開いた。

 ・・初めてお会いした時、「ふつうの人ではないな」とは思ったが、この本を読み進めるうち、「このような波乱の過去があったのか」と驚いた。
けれどもよく考えてみると、ふつうの平穏な一生を終えたようにみえる人にも それぞれに波乱の過去があるはずなのである。ただ、本を出せるほどの文筆力があるかないかだけの話だ。そういう意味で、世の中は不公平だと思う

朝倉喜祐著「知られざる抑留八年の記」を読み終えたが、涙を抑えることのできない部分が所々にあり、著者あとがきをここに添えておきます。

 戦後八年の抑留記は、昭和二十八年四月帰国した際、中京軍後方病院の雑役として、中国内戦、中華人民共和国の建国、ついでその後、満州各地を転々と移動して歩いた町々で見たこと、聞いたこと、体験したことを、記憶のうすれぬままに書き綴ったものである。
 筆をとってみると、当時の生々しい苦難の日々の生活が、日がたつに従って美化され、しかも拙文ときているので、他界寸前に戦後史の一資料として図書館へ寄贈しようと思い、残していた。
ところが昨年の暮れ、ひょっとしたことから近藤さんの目につき、戦後満州での日本人の足跡の一片として、第一集だけでも活字にしてみたらと勧められその気になった。
見方、考え方の雑な私のことゆえ、当時のことを表面的に、しかも主観的にとらえている点も多くあろうし、誤りもあると思う。その点は御容赦いただきたい。
 また、お世話になった方々の記述については実名を使わせていただいたこともあわせてお許し願いたい。
 尚、この第一集の出版にあたって、力をおかしくださった大阪の近藤正旦氏、千葉の谷口泰子さんに心からお礼申しあげてあとがきとする。
                 平成四年初春
                 福井県坂井郡金津町吉崎 筆者 朝倉喜祐
                                     
・・要するに昭和20年8月15日の終戦勅諭を察知した関東軍上層部はいち早く家族を内地に返し 自らも内地へ逃げる。そして帝国陸軍軍人たちへの解散命令は発せられないままだった。つまり彼等は除隊兵となってしまったのである。これが終戦一週間前にスターリンにより宣戦布告された結果の大量シベリア抑留へとつながるのであるが、シベリア抑留とまでいかなくても、朝倉氏やお町さんなどの孤軍奮闘が四面楚歌の家族たちを助ける力となる。
「知られざる抑留八年の記」とお町さんを読み比べてみると、朝倉氏と女侠客・お町さんあるいは芦田伸介との連携は終戦後に濃密になったようで、日頃温厚な朝倉先生に接していてこのような過去があったとは、ついぞ知らなかった。「知らなかったのが残念」とは思ったが、地獄絵図は人に語れないのが人間の真実でもあろうし、かつ、死期が近づくにつれ文章に書き残したい思ってくるのも人間の真実であろう。

 付記
 特にあわら市職員に知ってほしいのですが、お町さん(道官咲子)は、今、教育委員会にいる道官氏の先祖です。

後編
こうして私は故郷吉崎の地に戻った。その後、先輩友人、寺の門徒衆の温かい力添えで福井県で教職につくことができた。昭和三十一年、新聞の満州よりの引揚ニュースをみて、私たちの仲介毛利夫妻が帰国されることを知った。本名大塚有章氏(山口県出身)で共産党員 昭和七年の大森銀行襲撃事件の首謀者で、網走カンゴクで刑を終えて満州映画に勤務されていた。帰国を知って思想の相違は問題外、私たちの仲介でお世話になった方だったので舞鶴まで 出迎えにいき、?山でのお礼と帰国の喜びを申し上げた。その時、立命館大の総長をしておられた末川博氏がきておられたと思う。その後も上阪するとお宅へお伺いしたが、夫妻は常に笑顔でむかえ、幸せに暮らしていることを喜んでくださった。大塚夫妻は、私たちとの話合いの中で、河上肇博士が義弟であり、末川博博士が義兄であり、難波大助が従兄弟であることも、現在なさっている活動についても何一つ語ったことがなかった。
ただ「未完の旅路」(三一書房出版)・大塚有章著を送本していただいて、はじめて主義に生き抜いた仲介夫妻の生きざまを知ることができ、頭がさがる思いがしたものだった。
私は、昭和五十三年、県教育功労者としての表彰を受け、昭和五十五年定年退職した。
思えば昭和二十年八月の終戦満州国の崩壊で、一度は死を覚悟した身でありながらこの年まで、私をとりまく方々の友情に支えられて、何とか生きさせていただいた事をつくづく有難いと思うこの頃である。抑留八年間、共に働き、共に苦しみ、共に励ましあい、共に祖国の土を踏むまではなんとしても生き抜いていこうと誓いあった友の内、その望みを果たせず大陸に骨を埋めた仲間の霊に対し、心より冥福を祈りこの文をとじる事とする。

   今宵また 追憶の旅や 夢枕  喜祐   

2016年1月20日 忙しくなりそうな本日
 昨日の午前10時に、元金津町助役Eさんの車の助手席に乗って、坂井市三国町の三国社会福祉会館の大ホールへ。印牧先生の講演「三国港史話ー富豪の興亡ー」を聴くためだ。
 
 富豪として「森田家」「三国家」「内田家」が挙げられたが、30年近く前に森田家の次男宅を設計した僕は、森田家の光と影を特に興味を持って聴いていた。
 講演終了後は、印牧先生以下6人で町内の蕎麦屋へ行き、おろし蕎麦を堪能して午後一時半に散会。
 金津へ戻る時は猛吹雪で前がほとんど見えない。事務所に入って暖をとり、一服しながらテレビを点けたら、全国ニュースが「あわら市で大型バスが田んぼに横転!」と報じている。
 そういえば、救急車のサイレン音が聞こえていた。
 

2016年1月19日 無題
  軽井沢町でのスキーツアーバス事故の原因が、「業界の構造的な問題」との指摘が各方面から出ている。

 思うに、国が決めたバス運行費29万円を19万円で受注したことで運行状況にさまざまなしわよせが生じたのだろうが、例えば、僕の専門の建築設計でも、建築物の構造種類、面積などによって設計の標準額が定められているが民間契約の場合、勿論、それを大きく下回る額で契約されているのが実態だ。結果として杭データーの改ざんなどが、今、表面化しているが、バスの場合は、事故が、即、乗員の死に結び付くのだ。

 バス輸送は目的地までの使用道路の選択肢も多岐にわたりつまり複雑なのだから、国営にはできないとしても、受注競争にさらされないようなシステムを考えなければならないのではないか。
 でないと、「もう二度とおこしてはならない」の大合唱が繰り返されるだけになるだろう。
 
 

2016年1月18日 予兆
 
 阪神・淡路大震災発生から21年目となった昨日、僕は、予兆ということについて考えていた。震災発生の数十日後、既に中古住宅購入を仮契約していた友人に住宅の破損状況の調査を依頼されて神戸に行った折り、阪急電車のなかで、「発生の前夜、六甲山脈の上空に青い光が鮮烈に走ったのよ」という女子高校生二人の会話をたまたま横で聞いていたが、会話する高校生のまなこも声もはっきり覚えている。

 それから十数年して、僕は、脳内出血で倒れ、且つ幽体離脱も経験したが、その一週間前と二週間前の二度、予兆を経験した。

 大災害と個人的経験を単純にイコールというわけにはいかないだろうが、それでも、命にかかわるものごとには、予兆がついてまわるのではないかと、思う。

 ・・とまあ、こんなこと書いているうちに、三国土木事務所による建築現場完成検査の時刻が迫ってきた。久しぶりに、スーツを着て髭をそって髪をととのえて、凛とした気持ちで出かけよう。
 ということで検査を終えて事務所に戻り、「一件落着や。しばらく、本でも読もか」と、開いた本が、清水義範著「朦朧戦記」で、老人ホームに居住するじいさんばあさんがドタバタ動く小説だが、第二部に入って、俄然、話のスケールが大きくなる。

 

2016年1月17日 無題
 立花隆著「21世紀 知の挑戦」を読み終えた。博覧強記人間の書いたこの文章は、次の章で成り立っている。
Ⅰ20世紀 知の爆発
 サイエンスが人類を変えた
 バイオ研究最前線をゆく
 残された世紀の謎
Ⅱ21世紀 知の挑戦
 DNA革命はここまで来た
 ガンを制圧せよ
 天才マウスからスーパー人間へ
 21世紀 若者たちへのメッセージ

 バイオだのDNAだのどこかで聞いたことがある言葉くらいの予備知識しかないぼくにとって、文脈を正確に理解したとはとても言い難いが、素人相手を意識した文章にしたのだろう、よくわからないままに読み進めることができた。

2016年1月16日 もう週末か
 境界壁をなくしてから、三人の来訪者があったが、いずれも「開放的になった」と、ほめてくれる。自分自身が「とても使いやすくなった」と思っているから、二重のヨロコビといえるだろう。
 
 昨日夕刻の来訪者も、その言葉が切り出しだったが、そのあとの雰囲気がちょっと暗くなってしまった。「歳をとると、しゃべりが気弱になって、人間関係ですぐ後悔する。うじうじする」と、言う。
 僕は態度でうなづいてはいたのだが、心では反発していた。
 「若い頃は体の傷はすぐ癒えるが心の傷は治りにくい。歳をとると心の傷はすぐ癒えるが体の傷は治りにくいのだ」と、椎名誠「モンパの木の下で」 に書いているが、これは全く真実で、相手がどう思うかで逡巡することはほとんどなくなった。
 明日から、天気が荒れ模様になるそうだが、本日は快晴。今朝は、快晴のなか、北潟湖を見通す工事現場にいた。湖の麓の田んぼでは、春の田植えに備えて暗渠工事の真っ最中だ。思えば、ほんの三カ月前にそこで落穂拾いを目にしていたのである。

 夕日が傾き
 村から日差しが消える時、
 村から村へ暗がりを訴へる
 やさしい鐘の響きが傳はってゆく。

 また一つ、あの丘の上の鐘だけが
 いつまでも黙ってゐる。 
 だがそれは揺れ始める。
 ああ、私のキルヒベルクの鐘が鳴ってゐる。
              小山清「落穂拾ひ・聖アンデルセン」

2016年1月15日 工事現場から戻って
 
 東京裁判が「勝者の裁き」であることは否定しないが、大東亜戦争はそもそも近代日本が選択した「武装された攘夷戦争」であって、それゆえその戦争が「侵略」とうけとられるのは、当時にしてすでに当然であったのに、日本人がそれを認識できなかったのが「日本の失敗」なのだ。日本は精神的鎖国状態に縛られたままだったのだ。 日本が国際ルールのもとでの繁栄と自由を選択した以上は、そのルールのなかでの充実だけが日本の政治なのである
                                               松本健一
 それはともかく
 今朝は、事務所の改修に汗を流していた。
 昨日までの事務所は、設計コーナーと応接コーナーに境界壁を設けて、仕事と遊びを判然とさせていた。しかし、最近は、飲み会時に集まる人数が増えて、どうにも困っていた。解決策は一つしかない。境界壁をなくすことである。仕事と遊びの華麗なる融合だ。
 仕事と遊びを混然一体とさせることだ。
 

2016年1月14日 ただいま午前四時
 
 俵万智、立松和平の共著「新・おくのほそ道」を読んでいて、「今年は紀行元年にしよう」と、思った。
 
 行春や 鳥啼魚の 目は泪
 あらたうと 青葉若葉の 日の光
 啄木も 庵はやぶらず 夏木立
 田一枚 植て立去る 柳かな
 五月雨の 降のこしてや 五月堂
 月清し 遊行のもてる 砂の上
                  芭蕉
 

2016年1月13日 高山彦九郎
 

 吉村昭著「彦九朗山河」の彦九朗とは寛政期の儒者・高山彦九朗の諸国見聞記。

 後の世に林子平などと並んで寛政の三奇人のひとりと謳われる高山彦九朗は上州で農民の子として生まれるも、先祖が新田義貞の家来であったことによって勤皇の思い極めて強く、儒学者を志し勉学に励み有名になっていった。
 当時は通信手段が発達していなかったので、より深く研鑽するために諸国を旅した。そして、意気投合した男と酒を酌み交わし、藩の政治経済を語り合い続けた。
 寛政の前は天明。天明といえば何と言っても「天明の大飢饉」で、東北列藩の飢饉に対する対応はまことにだらしなく、一人の餓死者も出さなかった上杉鷹山の米沢藩と松平定信の白河藩を除いて、他は無茶苦茶だった。
 無茶苦茶とはどういうことかというと、徳川開府以来百数十年を経て、武士階級はすっかりサラリーマン化して、己の利権つまり御身大切だけの守旧派だらけになってしまった。当然、領民の生活を担保すべき「予期せぬ大災害に対する米の備蓄」などの防災対策は皆無だった。
 例えば南部藩のある村では家の米びつが空になると、領民は山中深く分け入り、野生の山芋を探し椎の実を探す。領民の頭にあるものは、食い物のことだけである。地中のものあるいは木の実などがなくなると次に馬牛を殺して食べる。
 明治以前だから獣類は勿論御法度で、食べれば獣になると信じられていたが、生きるためにはそんなこと言ってられない。
 幽鬼のようにさまよい地べたに横たわり、一人ひとりと死んでいく。身体の弱い者から死んでいく。死者は土中に埋葬される。土中が死体だらけで埋葬できなくなると、死体は近辺の川に流される。
 生き残った住民は川の上流から流れてくる死体を引き上げ、小刀で死肉を削り取って食う。更には埋葬した家族の死体を掘り起こして食う。食うことによって命をつないだ者もやがて死ぬ。
 まさに中世絵巻・餓鬼道の世界で、土地の人からそれらの話を繰り返し聞かされた彦九朗の武士階級に対する憤怒は頂点に達するのである。
 世の中を武断政治から文治政治に変えなければと、高山彦九朗は朝廷と連携しながら王政復古運動を水面下で画策し、諸国の儒学者達にその思想を説いてまわるのだが、幕府・松平定信の危険人物・高山彦九朗への追求の手は厳しく、諸国を歩く彦九朗は常に幕府隠密に後をつけられる。
 「頼るは薩摩藩だけだ」と思った彦九朗は、日本のなかの独立国とも言うべき薩摩に潜入するのだが、彦九朗を敵視する勢力が思いのほか多く、失意のうちに薩摩を後にする。それにしても九州各藩はお上の叱責を恐れ、「はやくここから立ち去ってくだされ」と、彦九朗を追い出す。
 流浪の民となった彦九朗は、久留米・赤碕で自刃する。かけつけた医者から、「なぜそのようなことを」問われた彦九朗は、「狂気也」と答えて静かに目を閉じる。

 2016年1月12日 相変わらず雑煮の毎日
 昨日は旗日だったので、仕事は全くせずに、打ち合わせ会議をのぞいて、あとは村上春樹の「東京奇譚集」を読んでいた。
 奇譚集のなかの45~79ページが「ハナレイ・ベイ」。
 ・・サチの息子は十九歳のときに、ハナレイ(ベイ)で大きな鮫に襲われて死んだ。正確に言えば、食い殺されたわけではない。一人で沖に出てサーフィンをしているときに、鮫に右足をを食いちぎられ、そのショックで溺れ死んだのだ。だから正式な死因は溺死ということになっている。サーフボードもほとんどまっ二つに食いちぎられていた。鮫が人を好んで食べることはない。人間の肉の味はどちらかといえば鮫の嗜好にはあわないのだ。一口齧っても、だいたいの場合がっかりしてそのまま立ち去ってしまう。だから鮫に襲われても、パニックにさえ陥らなければ、片腕や片足を失うだけで生還するケースは多い。ただ彼女の息子はあまりにも驚いて、それでおそらくは心臓発作のようなものを起こし、水を大量に飲んで溺死してしまったわけだ。・・がプロローグで、サチの回顧というかたちで、小説は進行する。
 久しぶりにこの人の小説を読んだが、やっぱり、文章が上手い、というかリズムに乗っているような気がする。悲しい主題がその基調音によって淡々として語られることでカタルシスに導かれていくのだと、私は思う。
 それはともかく
 今朝、愛車「ケトラ」の普通タイヤをスノウタイヤに交換した。
 雪降らば 車使わず 歩くべしと、思っていたのだが、どうも、そういうわけにもいかない。
 現に、今晩は、通夜のために、福井市まで行かねばならない。
 思案したあげく、交換して安心した。安心が一番です。

 2016年1月11日 昨日の日曜日 
 昨日の午前中は、福井市二の宮の某居酒屋に、7人が祝い事で集まっていた。
 午後一時半に坂ノ下区民館へ行かなければならない私は、それ故、0%ビールを飲んでいたのだが、久しぶりに飲んでみると、0%ビールの味も向上していて、ナカナカなものである。料理は特に鰈のから揚げが美味く、隣席の義兄との会話は昭和の世相を中心にはずんだ。

 12時半過ぎに中座して、一路、区民館を目指した。縦貫道路を愛車「ケトラ」で走るさなか、0%ビールの飲みすぎのせいで、おしっこがしたくて我慢できなくなり、脇の農道にそれてした。幹線道路をビュンビュン走る車群からは見えない死角を探してしたのだが、勿論、パーフェクトではない。子供連れの車のなかでは、「ああいう大人になってはいかんよ」との会話が発生したのかもしれないが、それはそれで、反面教師の役割を果たしたと言える。
 
 区民館では、初寄り総会が始まった。議事進行の途中に、例によってSあわら市議が酒を持って現れ、「今年もよろしく」と挨拶した。今年の挨拶では、カラス退治のことを中心とした話をしていた。(自分のことを棚に上げて言うのだが)冗長の嫌いはあるものの、例年よりは簡潔でよかった。

 総会終了のあとは、親睦会。今度は正真正銘のビールと熱燗だ。私たちの座は年寄りばかりなので、体の痛みと介護の話が中心となっていた。
 ということで
 本日の朝、文房具屋へプリンターインクを買いに行ったら、入口ドアが閉まっている。そこで、今日が「成人の日」という名の旗日であることを初めて知った。
 46年前に、私も、中央公民館で開催された成人式に出席した。いや、出席したというのは正確ではない。式次第で、町長や議長や教育長が、あーたらこーたらと言うのを聞くのが嫌で、公民館の外に(たむろ)していた。
 式が終わってから、公民館の会場に入った。狙いは、勿論、新成人にふるまわれる善哉。
 冬の日の善哉は、冷たくていい味だった。
 
 

 2016年1月10日 本日は初寄総会
 パソコンが復旧したのもつかの間で、昨日の未明にまたもや動かなくなってしまった。パソコン自体はともかく、一昨日昨日にわたり苦労して取り込んだCADデーターを取り出せないのが非常に痛い。二日間の労働がむだになってしまったのである。
 中古パソコン使用には大きなリスクのあることがよく分かった。これからは投資をおしまずに新品購入としよう。

 ということで、昨日の朝はデーター再入力に四苦八苦していた。午前10時に再入力終了。
 一服休憩ということで、金津創作の森にある、喫茶「ことのは」へ。美味しい珈琲を堪能した。
 ・・冬の喫茶店には薪ストーブがよく似合う。

 2016年1月9日 昭和歌謡を聴きながら
 
 昨日の朝、建築現場へ行った帰りに、細呂木の天爵大臣切通しの道へ寄った。
 
 この季節、例年ならば、雪化粧しているはずである。切り立った崖に一輪の寒椿の花が咲いているはずである。暖冬の影響で、それを見ることのできなかったことが残念だ。

 2016年1月8日 無題
 昨日に市役所職員S氏からパソコン扱いの基礎知識の講義を受けて、本日の午前二時半に二つのパソコン(仕事用及び遊び用)を完全に復旧させることができた。
 ということで、昨日のブログの続きですが
 ・・エロ写真を見たのは中学一年のときだった。近所に住むシラコウが、母親のタンスの奥にあったという七枚一組のゴム紐でとめたエロ写真を持ってきた。わーいやらしい。人間はこんなことをするのか、子どもに秘密でこんな行為をしているのかよ。エエッ、恥ずかしい。ゴキブリよりも劣る、こんな気持ちの悪い写真は捨てちまおうよ、まてまて、捨てる前にもう一度だけ見よう。ケッ、やだやだ、エロですよ、だけど俺もやってみたいな、と思った。この世に男女交合というイヤラシイ行為があると知ってからは、生きるヨロコビがわいてきた。・・と続いていくのであった。


 2016年1月7日 無題
 嵐山光三郎著「年をとったら驚いた!」を読み終えた。
 正月明けくらいゲラゲラ笑って過ごしたいからと思って選んだ本だが、序章からしてこうである。
 ・・
 年をとる、という行為は、年という真珠の玉を手に入れることである。誕生日がくるたびに、宝物ひとつをとる。小学生のときはお年玉を手に入れ、高校の夏休みには鉱山で水品を盗掘し、水辺に浮いている星をつまんで食べちゃった。ココロザシ高き強盗ならば銀行地下大金庫より金塊をとる。貧しい女たらしならば富豪の令嬢をめとって不幸だった青春時代の仇をとる。たわわに実る隣家の柿の実をとり、葡萄酒の葡萄をもぎとり、出前で特上寿司をとって食う。とれるものはなんでもとってきた。
 小学生はみんな年をとるのが大好きで、一年生になれば二年生にあこがれ、六年生になれば早く中学生になりたいと思った。しかし、その一年間はとてつも長く感じられた。中学三年生までがギム教育で、ギムとして学習させられることは大の苦手なのに、やってみると被虐的快感があり、恥ずかしながら生涯でもっとも読書に耽溺したのは中学生時代であった。本を読んだら頭がよくなるわけではなく、もとより先天性アンポンタン症だったので妄想によって自我が豆のツルのようにヒョロヒョロとのびていった。早く高校生になりたかった。
 年をとると、背は伸びるし、人間関係の知識もふえるし、世間という化け物がうすぼんやりと見えてくる。

 2016年1月6日 無題
 締め切りに追われてとうとう徹夜してしまった。徹夜なんて何年振りのことだろう。朝一番で書類を依頼主のところに持っていき、帰宅したら、しばらくの間、朝寝の時間を確保しよう。
 

 2016年1月4日 牛乳を飲みながら
 
 正月休みも、残すところあと一日となった。今、読みかけの本にけりをつけなければならない。  本とは今年一月発行の「桑港特急」(山本一力著)
 山本の本と言えば、江戸期を時代背景とした人情ものしか読んでこなかったし、というよりも書いてこなかったのだろうと思うのだけれど、一転してしてこの本は、時代背景が尊王攘夷のイデオロギーに京都が支配され始める幕末の日本で、アメリカで言えば大西洋及び太平洋のクジラを捕りまくっていた捕鯨船団が鳴りを潜め、代わって、ゴールドラッシュの熱が猛威を奮い始めた頃に太平洋をまたいで青春を生きた丈二・子温兄弟の物語だ。
 557ページのうち146ページを残すのみとなったが、私にとって、この本に出合えただけで、平成二十八年の松の内を過ごした価値は十分にある。
 ということで、この本を午前中に読み切ってしまおうと思っていた矢先、某建設業者から、「平面図と立面図を大至急書いてほしい」という強要的電話が入ってきて、「俺の辞書に休息という言葉はないのだ」と、思った。
 

 2016年1月3日 昨日
 昨日の午前中は、ひとり、里山を歩いていた。当然のことだが、冬の里山の樹木のうちの落葉樹はすべて葉が落ちている。そして、その枯れ枝のかなりが地表に落ちている。目的は、地表に落ちている枯れ枝のうち見目(みめ)の良いものを拾ってくることだった。午後は、拾ってきた枯れ枝の腐った皮をはぎ、ペーパーサンダーで磨いていた。みがくほどに気品が出てくる。枯れ枝が神の依代(よりしろ)に思えてくる。
 私はその枯枝大権現(かれえだだいごんげん)を部屋の中に立てて、二礼二拍手一拝した。窓外から聞こえる鳥の声が、神の慈愛の啓示のように思えた。

 2016年1月2日 約束の冬
 大晦日から元日にかけて開いていた宮本輝著「約束の冬」を読み終えた。
 著者あとがきを紹介

 この「約束の冬」は、平成十二年十月一日から一年余にわたって産経新聞朝刊で連載した小説である。
 「約束の冬」を書き始める少し前くらいから、私は日本という国の民度がひどく低下していると感じる幾つかの具体的な事例に遭遇することがあった。民度の低下とは、言い換えれば「おとなの幼稚化」ということになるかもしれない。
 受けた教育とか社会的立場とか、その人が関わっている仕事の種類や質といったものとは次元を異にする領域において、日本のおとなたちは確実に幼稚化している。
 現代の若者たちはいかなる人間を規範として成長していけばいいのか・・・。
 
 私は小説家なので、小説のなかでそれを考えて、小説として具現化していかねばならない・・・。 そこで私は「約束の冬」に、このような人たちが自分の近くにいてくれればいいなと思える人物だけをばらまいて、あとは彼たち彼女たちが勝手に何等かのドラマを織りなしていくであろうという目論見で筆を進めた。

 しかし「約束の冬」を書き始めるとき、強く私のなかにあったのは、冬が来る直前に、自分が吐き出したか細い糸を使って空高く飛ぼうとする蜘蛛の子の懸命な営みの姿だった。
 私はその光景を何年か前にテレビのある番組で観たのだ。胸を衝かれる思いで、その蜘蛛の子を見つめたことを忘れることができない。
 おそらくこの蜘蛛の子たちに幸運な飛翔をもたらす大自然の慈愛に似た何物かを、現代のおとなたちは学んではこなかったのだ・・・。私は自分自身への戒めも含めてそう思った。
 だから「約束の冬」の真の主人公は、生涯に一度だけ空を飛ぼうとする蜘蛛の子たちと、微風と、冬の始まりのある日の暖かな陽光と、それによって生じる上昇気流であるかもしれない。
 新聞連載中は、産経新聞大阪本社学芸部の萩原靖史氏と岡崎秀俊氏のお世話になり、単行本化に際しては文藝春秋の寺田英視氏と村上和宏氏に労をおかけした。
 併せて感謝の意を記させていただく。
 なお、作中に幾度か登場する「雪迎え そは病む君にかかりけり」という句は、私の友人の志村竜二氏の作であることも併記させていただく。
               平成十五年四月十日       宮本輝

 2016年1月1日 新年の誓い
 初日の出の瞬間を撮ろうと、竹田川金津大橋で待ち構えていたのだが、

 あいにくの天候で無理だった。

 新年の誓い
 ①事務所応接室を清潔に保つ。
 ②午後9時までは必ず起きている。
 ③リハビリに励む。
 ④笑顔を意識する。
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 ①については、妻が「おとうさんの部屋へはいつもお客さんが来るんやからその人たちを不快にさせないように」と、常々言うもんだから。
 ②については、最近は夜の来訪者がちょくちょくあるもんだから。
 ③については、結果がどうであれ努力することが大事だ、と思ったから。
 ④については、「陰鬱な顔は相手を不快にさせる」と、気づいたから。
 それはともかく
舘高重特集(月刊フェニックスです。