用事があって、今朝の五時には立正佼成会あわら支部にいたのだが、昨晩の降雪量が思いのほか少なく、スムーズに支部へ行くことができた。
一服しながら、数年前に亡くなった朝倉先生のことを思い出し、10年ほど前のメモを開いた。
・・初めてお会いした時、「ふつうの人ではないな」とは思ったが、この本を読み進めるうち、「このような波乱の過去があったのか」と驚いた。
けれどもよく考えてみると、ふつうの平穏な一生を終えたようにみえる人にも それぞれに波乱の過去があるはずなのである。ただ、本を出せるほどの文筆力があるかないかだけの話だ。そういう意味で、世の中は不公平だと思う
朝倉喜祐著「知られざる抑留八年の記」を読み終えたが、涙を抑えることのできない部分が所々にあり、著者あとがきをここに添えておきます。
戦後八年の抑留記は、昭和二十八年四月帰国した際、中京軍後方病院の雑役として、中国内戦、中華人民共和国の建国、ついでその後、満州各地を転々と移動して歩いた町々で見たこと、聞いたこと、体験したことを、記憶のうすれぬままに書き綴ったものである。
筆をとってみると、当時の生々しい苦難の日々の生活が、日がたつに従って美化され、しかも拙文ときているので、他界寸前に戦後史の一資料として図書館へ寄贈しようと思い、残していた。
ところが昨年の暮れ、ひょっとしたことから近藤さんの目につき、戦後満州での日本人の足跡の一片として、第一集だけでも活字にしてみたらと勧められその気になった。
見方、考え方の雑な私のことゆえ、当時のことを表面的に、しかも主観的にとらえている点も多くあろうし、誤りもあると思う。その点は御容赦いただきたい。
また、お世話になった方々の記述については実名を使わせていただいたこともあわせてお許し願いたい。
尚、この第一集の出版にあたって、力をおかしくださった大阪の近藤正旦氏、千葉の谷口泰子さんに心からお礼申しあげてあとがきとする。
平成四年初春
福井県坂井郡金津町吉崎 筆者 朝倉喜祐
・・要するに昭和20年8月15日の終戦勅諭を察知した関東軍上層部はいち早く家族を内地に返し 自らも内地へ逃げる。そして帝国陸軍軍人たちへの解散命令は発せられないままだった。つまり彼等は除隊兵となってしまったのである。これが終戦一週間前にスターリンにより宣戦布告された結果の大量シベリア抑留へとつながるのであるが、シベリア抑留とまでいかなくても、朝倉氏やお町さんなどの孤軍奮闘が四面楚歌の家族たちを助ける力となる。
「知られざる抑留八年の記」と
お町さんを読み比べてみると、朝倉氏と女侠客・お町さんあるいは芦田伸介との連携は終戦後に濃密になったようで、日頃温厚な朝倉先生に接していてこのような過去があったとは、ついぞ知らなかった。「知らなかったのが残念」とは思ったが、地獄絵図は人に語れないのが人間の真実でもあろうし、かつ、死期が近づくにつれ文章に書き残したい思ってくるのも人間の真実であろう。
付記
特にあわら市職員に知ってほしいのですが、お町さん(道官咲子)は、今、教育委員会にいる道官氏の先祖です。
後編
こうして私は故郷吉崎の地に戻った。その後、先輩友人、寺の門徒衆の温かい力添えで福井県で教職につくことができた。昭和三十一年、新聞の満州よりの引揚ニュースをみて、私たちの仲介毛利夫妻が帰国されることを知った。本名大塚有章氏(山口県出身)で共産党員 昭和七年の大森銀行襲撃事件の首謀者で、網走カンゴクで刑を終えて満州映画に勤務されていた。帰国を知って思想の相違は問題外、私たちの仲介でお世話になった方だったので舞鶴まで 出迎えにいき、?山でのお礼と帰国の喜びを申し上げた。その時、立命館大の総長をしておられた末川博氏がきておられたと思う。その後も上阪するとお宅へお伺いしたが、夫妻は常に笑顔でむかえ、幸せに暮らしていることを喜んでくださった。大塚夫妻は、私たちとの話合いの中で、河上肇博士が義弟であり、末川博博士が義兄であり、難波大助が従兄弟であることも、現在なさっている活動についても何一つ語ったことがなかった。
ただ「未完の旅路」(三一書房出版)・大塚有章著を送本していただいて、はじめて主義に生き抜いた仲介夫妻の生きざまを知ることができ、頭がさがる思いがしたものだった。
私は、昭和五十三年、県教育功労者としての表彰を受け、昭和五十五年定年退職した。
思えば昭和二十年八月の終戦満州国の崩壊で、一度は死を覚悟した身でありながらこの年まで、私をとりまく方々の友情に支えられて、何とか生きさせていただいた事をつくづく有難いと思うこの頃である。抑留八年間、共に働き、共に苦しみ、共に励ましあい、共に祖国の土を踏むまではなんとしても生き抜いていこうと誓いあった友の内、その望みを果たせず大陸に骨を埋めた仲間の霊に対し、心より冥福を祈りこの文をとじる事とする。
今宵また 追憶の旅や 夢枕 喜祐