16年03月日記
16年3月31日 木曜日 三月最終日 昨日の午後、 邦光史郎の「虹を創る男」は、経営の神様と呼ばれた松下幸之助の義弟でナショナルグループ・ナンバー2として波乱の生涯を送った井植蔵男の物語。557ページの長編で本自体が重く、ベッドに寝転んで読むと、すぐに両手首が痛くなってくる。そこで、机の前に正座しウイスキーを飲みながら読むことにした。 僕は、昔から経営イコール所詮金儲けとみなしており、その関係の人物論を手にとったことはないのだが、読みだすとなかなか面白くてとまらない。何であれ、組織はリーダーの考え方、人物としての器量が鍵を握っていることがよくわかる。ナショナルグループの場合、慎重居士の松下幸之助と豪放磊落の井植蔵男の両者がうまく絡み合って相乗効果を生み出したのだろう。 |
6年3月30日 水曜日 思い出したこと 今年のプロ野球が阪神タイガースの3連勝といういい滑り出しで始まり、巨人4連勝がいまのところ気に入らないけれども、今度やってくる直接対決でこの両チームの優劣は逆転するものと思われる。 白鳳の千秋楽相撲の取り口を見て唖然とし、半ば予想していたとはいえ琴奨菊の というわけで、昨日の午後6時ごろに油ゲつまみに清酒飲みつつ本を読んでいたら、ドアがノックされて、女性が入ってきた。「お願いがあるの。今度、孫の入学式があるので牧田さん宅の駐車場に車を一台置かせてください」と言う。 「ああ、もう四月なのか・・」とうなずきつつ、議員時代を思い出した。 議員一同は毎年入学式に招待され、校長の式辞や来賓の祝辞あるいは入学生の決意の言葉を、一心に聴いていた。ところが私の場合、その最中にバイブに設定した携帯電話が振動するのであった。 事前に渡されたスケヂュール表を読むふりを携帯メールを開けると、「牧田さん、わたし、保護者席の前から三列目向って左隅に座っています。こちらを見てくださらない?」と、入っているのだ。問題はそういうメールが複数だったことだ。 |
16年3月29日 火曜日 無題 伊井の金津中部工業団地へ所用で行った。 竹田川河畔の桜並木が芽吹いている。もうしばらくすると、一斉に開花するだろう。 楽しみだ。 |
16年3月28日 月曜日 昨日の一日
昨日の朝は、「横山古墳群を歩こう会」に有志6人が集まって、侃々諤々の議論が交わされた。大変に有名な古墳群ではあるけれども、整備されているわけではなく急峻な山道をひたすら歩き続けるという計画だ。 集まった6人のうち飛びぬけて若いのが私なのだけれども、身体が一番脆弱でもある私が歩きに加われるはずもなく、せいぜいが しかし、そういう私でも、計画に誘ってくださったのは嬉しいしありがたい。 この詳細について、とんぼさんが「声の広場」で書いています。↓ 名前:とんぼ 日付:2016/3/28(月) 15:53 男大迹王(をほどのおおきみ。継体天皇)の母振媛(ふりひめ)は坂井郡高向(たかむく。現高椋)の生まれである。しかし父の三尾氏の本貫(ほんがん。本籍)はこれまで近江国高嶋郡とされてきた。 豪族の姓(かばね)は在郷の地名と深いつながりがある。三尾という地名は福井県内には見当たらず、近江国高嶋郡三尾郷(みおのさと)に見られる。さらに此の地には三尾神社があり、三尾氏の長(おさ)・彦主人王(ひこうしのおう)の別業(べつぎょう。別荘)とされる館跡も三尾郷に存在したと伝えられてきた。このことから、三尾一族は近江国高嶋郡を地盤とする豪族とされてきたのである。 近年、この定説が覆された。三尾という地名が古代、坂井郡に存在したのである。天平5年(733)の「山背国愛宕郡某郷計帳」(やましろのくにあたごぐんぼうごうけいちょう)には越前国坂井郡水尾郷(みずおごう)の記載がある。水尾は三尾とされている。 さらに『延喜式』(905年)の北陸道の駅名のなかに三尾駅が記載されているのだ。坂井郡内には水尾、三尾の地名が確かに存在していた。三尾駅は越前の最北駅とあるから金津・芦原・三国のいずれかに存在したのであろ。男大迹王の父母はどちらも坂井郡の豪族の可能性が高い。 継体天皇が血統的には現皇室の祖とされている。わが故郷は発祥の地なのである。 男大迹王と三尾堅楲(みおのかたひ)の娘・倭媛(やまとひめ)の間に生まれたのが椀子王(まろこのおう)である。その椀子王を始祖としたのが三国一族だった。 三尾氏は坂井、足羽、丹生の三か国にまたがる豪族であったことから三国氏と改姓した。三国の地名は三国氏が語源である。 天武天皇の天武13年(684)に新しい身分制度を作りだすために、「八色の姓」(やくさのかばね)が制定された。真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみを)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の姓が制定された。 これら八つの姓は中央豪族に与えられ、地方豪族との身分格差を明らかにしたのである。なかでも真人・朝臣・宿禰は天皇一族とされ、真人はその筆頭とされた。 三国氏は真人の称号を与えられ三国真人となった。三国真人一族は坂井郡で勢力を誇ったが、藤原氏(後に越前斎藤氏)の越前進出に伴い、対立するようになる。 永祚(えいそ)元年(989)7月、藤原貞正、斎藤為延(ためのぶ)によって三国行正(ゆきまさ)が京都東山粟田口で暗殺された。以後三国氏は歴史の表舞台から消え去り、斎藤氏が台頭するのである。 横山古墳群には、氏祖・椀子王から続く、一族に関わる古墳も見られる。松岡、丸岡、金津、芦原、三国の古墳、とりわけ松岡~丸岡~金津の連続する古墳群は国内的にも圧倒的な数を誇る。(横山古墳群だけでも大小合わせて3百基以上あるとされている) 古代坂井郡で勢力を有した豪族たちの墳墓である。 他地域の古墳群は史蹟に指定され、古墳公園として整備されているものもあるが、横山古墳群はそうはなっていない。多くは雑林、竹林、藪のなかにある。公園として整備されることの是非はともかく、調査する必要があると有志が集まった。 故郷の古代史に光を当てる意味もある。 5月上旬に第一回の調査を実施。現状の写真を含めて、報告書を牧田氏のホームページで発表したい。 追伸 印牧先生の「あわらの歴史と文化」は4月中に発刊予定。あわら市の古代史もわかりやすく解説されています。 私の「新釈堀江一族 第一部」も4月上旬には上梓予定。とんぼ作品集に記載します。 午後になって、今年の参院選に出馬する人がやってきた。あわら市議を辞め、民主党からさよならした私にとって、自民党公明党以外の全てを応援したいというのが今の気分だが、酒断ちしたにも関わらず日々酩酊状態で妄想と付き合っている私は、「愛のある生活がいかに大切か」と、自分のことばかりしゃべっていた。でも別れ際に「楽しい話ありがとうございました」と、言われたので、少しは役に立ったのかもしれない。 深夜のCAD作業の合間にうどんを作って食べた。これで五回連続だ。すなわち、昨晩→昨夜の晩飯→昨日の昼飯→昨日の朝飯→一昨日の深夜での五回連続だ。自分が凝る性格であることがよくわかる。 |
16年3月27日 日曜日 無題 「世界は敵討に満ちている。個人的な動機も宗教や国家間のそれも変わりはしないだろう」が、吉村昭著「 著者あとがき 「一年ほど前までは敵討について小説に書くなどとは思いもしなかった。歴史上重要な意味を持つ事柄のみを歴史小説として書いてきた私は、個人と個人の問題である敵討には全く関心がなかった。 それなのに、なぜこの単行本に収められた二つの小説を書いたかというと、いずれも歴史と深い係り合いがあるからである。 私は、少し前「夜明けの雷鳴」という長編小説を書いたが、主人公は、幕末の将軍徳川慶喜の弟昭武に随行してフランスにおもむいた高松凌雲という幕府の医官であった。その一行に国の情勢が急迫した日本から勘定奉行の栗本鋤雲がパリにやってきて加わり、凌雲たちとともに幕府が崩壊後、日本にもどった。 私は、鋤雲の末裔の方にお会いするなどして、かれが書き残したものを読み漁った。その中に思いもかけぬ事柄が書かれているのに驚き、さらに史家の森洗三氏もそれを記述しているのを知った。 思いもかけぬこととは、ここに私が書いた敵討が老中水野忠邦の手足となって働いた鳥居躍蔵が深く関与したもので、この敵討を書くことで鳥居とかれをかこむ多くのことが浮き彫りにされているのである。つまりこの敵討が単なる個人と個人の刃傷事件ではなく、その背後に幕末の抗争、それによる社会情勢の変遷があるのを知ったのである。このことについては、石山滋夫氏が「評伝高島秋帆」でもふれられていて、私より以前にそれに気づいていたことを知った。 私は調査に入り、日本近世史の研究者である大石慎三郎氏を通じて史家の武智利博氏から伊予松山藩関係の多くの史料を提供していただいた。また、東大資料編纂所の宮地正人、保坂和子両氏の御協力をいただき「敵討」を書きあげることができたのである。 この敵討の現場は森鴎外の書いた「護持院原の敵討」と全く同じ地である。しかし、鴎外の書いた敵討は天保六年(一八三五)のことで、私が採り上げた敵討は十一年後である。偶然だが、混同なさらぬようお願いする。 明治時代に入り江戸時代美風ともされた敵討が、西欧に準じた法治国家としてどのように位置づけられたか。 さまざまな議論が交わされたが、結局殺人罪として敵討禁止令の交付をみた。 私が「最後の仇討」として書いた敵討は、その後におこったもので大きな反響を呼んだが、当時の日本人の意識の中には依然として江戸時代の敵討に対する考え方が尾を引いていて、私がこの小説を書いたのは、明治という新しい時代を迎えた日本人の複雑な心情を描きたかったからである。 当然、裁判記録が残っているものと思っていたが残念ながら戦火で焼失したとのことで落胆した。しかし、秋月在住の三浦末雄氏が諸記録を収集整理して「物語秋月史」としてまとめられているのを御子息の三浦良一氏から教えていただき、良一氏を訪れてコピーさせていただいた。 これを基礎資料に他の資料もあさって書くことができたが、この事件は最後の仇討として当時の新聞記事となったので、題名もその名称のままとした。 吉村 昭
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