17年01月日記

西暦 17年1月31日 火曜日 ネバー トウー レート

ひさしぶりに これを読んでください

 今年に入ってから会った人の殆どが70歳以上で、こういう生活が続くと、当たり前の話だが、自分が若く思えてくる。それどころか、自分が青二才でしかないことを感じさせられる。
 相手は「耳が遠くなった」「目がうとうなった」「体の節々が痛い」「物忘れがひどい」のオンパレードなので、自分の下肢マヒ障害が恥ずかしくなくなる。はやいおそいの差はあるとしても、ひとはなべて衰えていくのが自然の摂理であることを実感する。
  

西暦 17年1月30日 月曜日 無題

 昨日の午後は、ハートピア春江にいた。荒川洋治講演会のお知らせが来たためだが、なんというか・・・。
 会場に入った時すでに満員で、立ち見しかできなかったのは、下肢マヒの僕にはとてもつらく、何度か途中退出を考えたのだが、結局最後まで聞いていた。要するに、痛みをこらえてまで聞いて面白いかどうかということで、講演を聞くのも四回目ともなれば語り口が予想されてしまうという意味では面白くなかったが、知らない話がところどころにインプットされているという意味では面白かった。

 この人にはちょっとした縁がある。20年ほど前に三国町の成人式に、記念講演者として来たときに、社協から手話通訳を依頼された。
 町の名士の単なるワンパターン挨拶ならば、通訳に対する不安は全く無いのだが、饒舌詩人の通訳なので、不安が胸いっぱいにひろがる。そこで、予備知識習得のために成人式の10日ほどまえに、彼の家へ電話したところ、「なにをしゃべるかまだ考えていません」との答えが返ってきて、「さすが、詩人とは変人やなあ」と思ったものだ。
 当日、会場へ行ったら、記念講演横断幕は「寺山修司について」である。ぎょっとした。
 歌とか句は音韻が勝負であって、凡百通訳者の僕の手には負えない。いや、健聴者と聾者の言語世界を同一視できるはずがない。結果として、ぼくはずっと立ちん坊。
 だが、この講演の最中に異変が起こった。
 場内がざわめきはじめたのだ。確かに、寺山修司オタクも一割くらいは居るかもしれない。しかし殆どの二十歳にとって興味の埒外に違いない。僕など、二十歳の時は女にしか興味がなかった。
 ざわめきが頂点に達した時、顔の紅潮した彼は、「俺は帰る」と叫んで壇上を降り始めた。青くなった町職員が「荒川先生、壇上に戻ってください!」と引き止め講演は続いたのだが、あとの講演は陳腐なものであったような気がする。
 思うに
 あの時、帰った方がよかった。

西暦 17年1月29日 日曜日 ハムカツを食べながら

 大岡昇平の「野火」や森村誠一の「ミッドウエイ」などの戦争記録文学は世に知られているが、昨晩に古山高麗雄著「フーコン戦記」を読むまで、フーコンのことは全然知らなかった。

 軍の司令部が兵士達を屑のように扱い、飢えと疫病が充満する白骨街道にどうして送り込んだかを、既に70代に入ろうとする元従軍兵士・辰平の回想というかたちで描いているのだが、戦闘を大きくとりあげるでもなく心理の内面に深く切り込むのでもなく、戦時下をただ淡々と描いている。
 辰平は、戦争未亡人・文江と知り合ってから、将校達の書き残した記録を読み始め、自分がどこを逃げ迷ったのかを調べるのだが、調べつくしても、分るものは分る分からないものは分らない。

 「戦争の作戦は、軍の一番上の方で決めて下達されるだけで、命令が下れば、何万人もの人間が動き、死ぬものは死ぬのである。」

 「二度と戦争を起こさないために、戦争の悲惨を語り継ごう、などと言って、戦争を知らない若者たちに、戦場や空襲の話をしたり、それを印刷物にしている人たちがいる。あれも嘘であり、嘘ではない。だが、あれは、本当は平和のためではなく、大変な目に遭った自分の話を聞かせたいのが第一で、平和のため、というのは、名目である。」

  一貫して抑制の効いた描写であることで、ぼくは不思議な感動を覚えたし、フィリピン戦線を経験したぼくの親父がその体験を子供にすら語ることなく逝ってしまったことの意味が少しわかったような気がする。

西暦 17年1月28日 土曜日 進む妄想

 昨日の70代後半老人からの電話が「次回打合せの場にK氏は参加できない」と、言う。
 「なんで?」の問いに対する答えは「切れ痔なんや」だった。
 切れ痔→キレジ→ハイジ→アルプスの少女ハイジと、僕の脳内で連想が拡がる。

 50年ほど前の二年間、僕は、オーストリアの首都・ウイーンにいた。ハイデルベルグ音楽院で過ごした。モーツアルトの学理を極めたかったからだ。
 恩師の秘書の名はハイジ。登校下校時にアルプス山脈を眺めていた僕は、彼女を密かに「アルプスの少女ハイジ」と、呼んでいた。東洋系の神秘な男は、たちまち、ハイジをとりこにした。噂が徐々に広がり始めたので、僕とハイジは、逢瀬の場を、パリの凱旋門近くのシャンゼリゼ通りに限定した。オープンカフェで地場産ワインを飲み、セーヌ河畔を腕を組んで歩くのが定番となった。
 歩きながら口ずさむシャンソンは、イヴ・モンタンの「枯葉」やアダモの「雪は降る」が多かった。
 昨日は、西川憲弥氏(僕が金中PTA会長時代の校長先生)宅を訪れ、しばしの歓談。もう、80歳を過ぎていると思うのだが元気いっぱい。
 明日(29日)にハートピア春江で予定されている「荒川洋治講演会」の段取りで大忙しのもようだった。

西暦 17年1月27日 金曜日 無題
 
 きょうはCADで忙しいので十五年前に書いたブログを載せときます。 
 
01/10/20(土) 夕陽恋 



三国土木事務所での打合わせ終え、海岸に出た。
落ちる夕陽に染まる水平線からの風は冷たい。

パリで買ったダーバンのコートのえりをたててのくわえ煙草。憂愁の気分で岩畳にたたずむ私を横ぎろうとするひとつの影がある。
年の頃は42,3か。利休ねずみの鼻緒の草履、浅黄色の地に濃紺紋様の西陣、白いうなじ、島田髪の和服女性は、軽く私に会釈し去って行く。

遠ざかる彼女の細い背中は夕陽の逆光でシルエットと化した。
岩畳を散策する足取りおぼつかなく、不意の波しぶきよけようとした彼女の体が反転しよろけた。
かけつけ、「大丈夫ですか、奥さん」と声かける私に「おおきに、大丈夫どす。それにうち、今は奥さんあらしません」と彼女は言う。

うちとけ、肩並べつつ砂浜を歩いた。いつの間にかふたりの指はからみあっている。
彼女の胸の激しい鼓動が聞こえてくる。抱きしめ口づけを、と思わないでもなかったが議員なので我慢した。
別れた亭主のこと、今彼女にいいよっている幾人かの嫌な男たちのこと、そのうちのひとりが某市の議員だということ、にも関わらず自立し孤高に生きていこうとする思いききつつ、「この人にしろ私にしろ、美男美女の人生につきまとうのは、やはり悲しみと憂いなのか、それが宿命というものなのか」と私はココロでつぶやいた。

気がついたら辺りは既に闇だ。
それでは、と背をむけた私を「りりしいおかた・・・たくましいおかた。うち、貴男様のお名前まだ聞いてしません。今晩のお宿どこですの?教えてくださいな。うち、行ってもかましませんでしょ?ねえ、かましませんでしょ?」と彼女の涙声の懇願が追う。
私は「奥さん、いやもと奥さん。私は名のるほどのものではございません。貴女は私をいとしく思っているのかもしれないが、それは本当の私・裏の私を知らないからだ。どんな男でも、私よりましなのです。恋に恋してはならない。恋に恋したところでなにものも生まれはしない。貴女はいつの日か必ず真実の男性にめぐり合います。ここでさようならすることだけが、お互いを幸せにする道なのです」と答え、歩きはじめた。
背中見続けているであろう彼女の視線に耐えきれず、私はゆっくりと、しかし止まることなく歩き続けた・・・・。


こんなことを岩畳の上で夢想したのだが、こんなシチュエーション、52年のわしの人生に一度もなかったなあ。悔しいなあ。

西暦 17年1月26日 木曜日 きょうは快晴
 
 今朝は、あわら市公共建築物某物件についての指名競争入札があったが、勝てなかった。ま、それはどうでもいいのだが、入札のあとに、お町さんのペーパー版を副市長に渡してきた。こういう女傑の存在を少しでも多くの市民に知ってほしいからだ。
 「お町さん(牧田著概要版)」を久しぶりに読んで思い出したのが、二年ほど前に読んだ西木正明著「 夢顔さんによろしく」・・ 僕のメモには、こう書いてある。
 この本は、終戦時にA級戦犯に指定され服毒自殺した近衛文麿首相の長男・近衛文隆〔細川護熙の叔父にあたる〕を追ったドキュメンタリーだ。
満州で終戦を陸軍士官として迎え捕虜となり、シベリア抑留。各地の収容所を転々としたあと、ハバロフスク裁判で国際ブルジョアジー幇助という罪で26年の禁固刑を受ける。昭和30年の日ソ国交正常化交渉に際し、鳩山一郎首相の帰国要求や国内からの数十万人もの署名入りの嘆願書があったが、帰国が叶うことはなく、死去。彼の死は病死にしては不審な点が多く、西木は毒殺の可能性を強く示唆している。
 平成3年、「政治弾圧犠牲者の名誉回復に関する」ソ連法で無罪、名誉回復。平成4年、ロシア連邦軍最高検察は、近衞文隆の名誉回復を採択、平成9年、ロシア軍最高検察から名誉回復証明書を出した。

西暦 17年1月25日 水曜日 無題
 
 昨日は強い寒波のなか、外に出ずっぱりの仕事だったので、夕刻に事務所へ戻ってからの晩酌は、当然のことながら、ホットウイスキーとなった。飲むほどに一日の疲れが快いものとなってくる。
 本棚から司馬遼太郎著「箱根の坂」を取り出した。
 この本の主人公は、伊勢新九郎。後の北条早雲である。

 類まれな美貌に恵まれた千萱は、将軍義政の弟・義視の側女として奉公するべく再び京へと呼び戻される。京において千萱の世話をすることになったのは、義視の申次衆を務める義理の兄の新九郎であった。伊勢氏の一門とはいえ傍流の出身であり、三十を超えながら無位無官で所領もなく持ち家すら持たないこの義兄は、伊勢氏の惣領屋敷の一画の小屋に住んで家伝の鞍を作ることのみに精を出す、毒にも薬にもならぬ朴念仁つまり私のような男であった。
 というような上巻を読み終えた時点で夜が明けた。徹夜となったのである。これを持ってまだ体力があると思うべきなのか、眠る力が無くなったと思うべきなのかはわからない。

西暦 17年1月23日 月曜日 雪の中
 
 仕事なので仕方ないが、昨日は雪の中にいた。古民家の計測で場所は池田町。

 

22日 日曜日 無題
 
 昨夕に、元教育委員会部長の吉村氏が、日刊県民福井を持ってきた。
 「お町さん」のことが出ている。
 「お町さん」・・僕が一生懸命になって、本の概要をHdml化していたのは何年前だったろう。郷土いろいろからクリックしてください

長瀬正枝著・「お町さん」

この小説は現在(1986年11月現在)、カリフォルニア州サンデイエゴにあるアメリカ海軍太平洋艦隊の基地に勤務しているマサコ・デイーンが母・道官咲子の里方にあたる石川県加賀市の門出家に向かうところから始まる。そして著者・長瀬は「道官咲子碑」の前で彼女と初対面する。
 
 
 
 7月12日朝・牧田氏撮影


昭和20年8月15日の満州・・太平洋戦争が敗戦で終わった。敗戦で肩をすぼめて歩いている大勢の日本人の中で、ただ一人背筋をしゃんと伸ばし、会う人ごとに、「日本に帰るまで、がんばりましょう」と元気よく声をかけている姿。戦争が終わったというのに、地味な着物にモンペ姿、髪は満州では珍しい束髪であった。
その時、彼女は大きな唐草模様の風呂敷包みを背負っていた。
私(著者)の問いかけに、母は「怪我をしている兵隊さんたちの包帯を作る木綿の布を集めてるんですよ」と教えてくれた。
母から、その女性がお町さんだと聞かされ、意外だった。私の家の並びにある石川酒屋に以前から出入りしていた珍しい髪型のおばさんだったからである。

敗戦直後、お町さんはソ連兵が安東に進駐した際、恐ろしい風聞しかないソ連兵を歓迎し、接待した。
そのおかげで安東では、奉天、新京のように一般女性の被害が少ないと母たちは噂していた。小学生の私に全てが理解できた訳ではない。が、とてもいまわしく、恐ろしいことだと感じていた。そんな噂の主人公を以前から見知っていたことを誇らしく感じていた。

敗戦から一年。昭和21年秋、待ちに待った帰国列車の第一陣が安東駅を発車、日本人の顔が希望に輝いた。その時、「お町さんが銃殺されたらしい」。突如彼女についてはじめて暗い噂が安東の街を走った。

日本人を励まし、大勢の人を救いながら、なぜ銃殺されたのか。善いことをした人は幸せになる。と教えられてきた十一歳の私の胸に、疑問が残り、朝鮮の三十八度線を超え、意識の底で疑問がトゲとなって思い出された。


お町さんの碑が福井県金津町吉崎にある。それを知ったのは、彼女が銃殺されて三十年経っていた。

私が初めて碑の前に立ったのは、昭和五十年九月十五日。
マサコ・デイーンと私を結んでいるのは、全長八尺八寸の「道官咲子碑」である。道官咲子は、マサコ・デイーンの母。そして、私は道官咲子が持つもう一つの通称「お町さん」を十余年、いや、正確に言えば
四十年間意識の底のトゲの痛みで追い続けてきた。

墓碑の前でマサコは「何でも聞いてください。私は母が八路兵に連れ去られる時、そばにいて見てましたし・・。あまりにいろいろなことがありすぎましたから、何からお話すればいいのか・・」。

さて、著者はお町さんの取材を金津町吉崎にある「願慶寺」の住職の案内で顕彰碑に向かう。碑には昭和三十一年四月八日之建」と刻まれていた。

敗戦時、安東は北満から南下した開拓団の難民や瀋陽方面からきた避難民約八十万もの日本人がごった返し、その上人民政府の粛清工作が激しかったので身のおきどころもない多くの邦人は、途方にくれ道官さんをたよってきた。彼女は巧みに人民政府の目を逃れて食糧をあたえ、変装させて逃した人は数えきれないほどあったという。二十一年六月このことが人民政府にわかり、道官さんはスパイとして逮捕され、同年八月二日安東郊外の東炊子で銃殺刑となった。


著者が資料として見た彼女の戸籍謄本には、<福井県坂井郡芦原村井江葭第十九号参拾四番地、道官吉松養女「道官咲子」と入籍されている>と書いてあった。

石碑位置

著者・長瀬はこの時点から満州・安東で咲子と交流のあった邦人たちへの聞き取りを開始する。
彼らの目に写った咲子の実像は、相手が上流中流下流であることを問わず性を問わず、無限に強く無限に優しい女だったということである。一口で言えば女丈夫というところか。

敗戦直前、満州に入ってきたソ連兵は対ドイツ戦線で銃弾の雨をかいくぐってきた兵たちであった。加えて囚人兵グループであったから乱暴狼藉婦女暴行し放題という予断を邦人たちは持って戦々恐々としていた。

そのソ連兵たちと咲子は五分に渡り合った。確かに乱暴なソ連兵も沢山いたが、咲子は「人間みな同じ。戦争が人間を狂気にしてしまう」という信念を持っていたのだろう。
その信念は渡満するまでの咲子の辛苦的半生によってかたちづくられていたとぼく(牧田)は思う(若き日の咲子は芦原温泉の某旅館で働いていた)。

山の手の住宅に居たソ連兵の姿が見えなくなった頃から、安東に不穏な空気が漂いはじめる。共産党八路軍を支持するソ連軍の撤退を機会に、安東から八路軍を締め出し、そのあとに国民党国府軍を迎え入れるという国民党運動が活発になる。折も折、「国民党が支配する地域では帰国が始まった」との噂が流れる。

国民党熱は高まり、十月二十四日未明、日本人会がある協和会館の屋上で志を同じくする「愛国先鋒隊」の結成式が行われる。
その後いろいろあって愛国党先鋒隊と八路軍との戦闘が始まったが、この戦闘の結果、国民党系勢力は一層され、安東市は完全に共産党八路軍の政治下に移行し、国民党系公安局も八路軍に接収された。

安東の産業は殆ど停止。日本人が生活の糧を得る場はなくなった。ただ「安寧飯店」と「松月」が収入のある唯一の場所となった。
「安寧飯店」の営業を始めてからのお町さんの日課は、ひそかに門を叩く女性たちと会うこと。

吉崎・願慶寺の住職和田轟一氏の弟朝倉喜祐氏は「湯池子温泉から持って来た皿、茶碗を道端で売らしてもらって、日当を差し引いた残りで米を買って日満ホテルの地下にいる人や、鎮江山の方にあったお寺にいる難民に配りました。それもお町さんからだとは絶対に言わないでくれということでした」と言う。

通訳をしていた高松氏(広島在住)もその一人である。
「米を買って幾つかに分け、あちこちに運びました。どこへ持って行ったかと言われても覚えがないほどです。除隊兵の仲間から、どこの街のどの建物に難民がいるかを聞いて殆ど毎日順番に運びました。みんなもらっても誰からなんて聞かなかったし、聞かれてもお町さんの名前を出してはいかんということでした。どうしてでしょうかね」

なぜお町さんが名前を伏せたか、私には分かるような気がする。店は生きるために志願した女性たちで成り立っている。だが、彼女たちが肉体的、精神的な犠牲を払っていることに変わりはない。お町さんにしてもそれが、安東の被害をくい止める方法だと分かってはいても、それを、大義名分として掲げる気にはならなかった。多分、そのあたりに理由がありそうに思える。


話を戻そう。
昭和二十年十一月五日。安東の街角に今まで見たことのない「開放新聞」が貼られ、「共産党八路軍は安東に新政府を樹立した」という大見出しが人々の目をひく。
新政府樹立が公表されると、浅葱色の木綿の綿入れの冬服に、同じ色の帽子をかぶった八路兵の姿が見られるようになった。

新政府は自らの政策を着々と進めた。先ず「開放学校」の開校。ここで共産思想を学ばせ共産党員を養成し、共産社会を確立しようとした。教員は延安で直々に毛沢東から教育を受けた日本人。捕虜になった元日本兵が配属された。定員は二百名。その殆どが元日本兵で、その中には青年将校から見習士官まで含まれていたと噂された。

ここで除隊兵の説明をすると
敗戦後、日本からの命令は何もなされなかった。従って、正式な除隊命令はどこからも出されていない。(日本兵は進駐したソ連兵に武装解除をされたあとソ連に抑留された。その数四十万八千人「滿蒙終戦史より」)安東にいた殆どの旧日本兵は、ソ連軍の攻撃に遭って部隊を離れた者、ソ連に抑留されるところを逃げた者など脱走兵に等しい。除隊兵とは彼等が自ら名乗った名称である。

そして「清算運動」がはじまる。
「清算運動」とは、不当な手段で手に入れた財産を中国人の一般民衆に搬出すること。つまり、「日本人が持っているものは、偽満州国を侵略し現地人を酷使して得た財産で、資本主義が搾取した物だ。ただちに中国民衆に返還せよ」というのが根本理念だった。
官吏、警察、特務機関、憲兵、軍属、資本家の検挙が済むと一般民間人の逮捕がはじまる。
逮捕の人選に活躍したのは新省政府八路軍に協力するために中国人で組織された人民自衛軍の兵士たちだった。彼らは敗戦まで方々の会社、商社などの使用人で、比較的軽視された中国人たち。敗戦まで、日本人の横暴をまともにかぶる生活を送っていた。そんな中国人が人民自衛軍兵士の権威を持った。新省政府は、彼らの情報で動く。八路軍の取り調べ機関は、呂司令部、公安局、東カン(土ヘン+欠)子監獄の三箇所であった。

司令部は事情聴取の後、罪状によって銃殺刑を執行する。が、身代金を支払えば釈放になる場合もあった。公安局は取り調べが主で重罪の判定を下すと司令部か東カン(土ヘン+欠)子監獄に身柄が引き渡される。東カン(土ヘン+欠)子監獄は八路軍からは、共産思想を理解させる教育機関だと説明があった。だが、釈放されることは稀で、二度と姿を見ることができなかった人は何百人か、つかむことが困難である。後には「片道切符の東カン(土ヘン+欠)子監獄」と言われ、日本人には恐ろしい存在となる。
安東での逮捕者は二千五百名、そのうち、三百名が処刑と記録にある。

前述の「安寧飯店」
平服の中国人たちは客のいない頃を見計らったように現れ女性たちに酒を振る舞い、世間話をしながら後から入ってくる平服の中国人と背中合わせに座って、さりげなく言葉を交わす。
店に来る八路兵もやはり油断できない相手といえた。正規の共産党教育を受けた八路兵は酒とか女に手を出すような兵隊ではない。だから、店に出入りする八路兵は服装は同じでも自衛軍の兵士としか考えられなかった。

ソ連兵撤退のあと、安東に入ってきたのは国民党ではなく八路兵だっだ。昭和二十一年十二月中旬、渡辺蘭治安東省次長は八路軍により、鴨緑江岸で民衆裁判に伏され、戦犯として市中をひきまわされたうえ、銃剣で虐殺された。
「滿蒙終戦史」にこの項を書いた金沢辰夫は、渡辺省次長の遺体を八路軍と交渉して引き取ってきた一人だった。
「酷かった。膝、肩、額の貫通銃創、そのほか全身に銃弾のカスリ傷がありました。最初致命傷を与えない程度にしておいて、最後に背中から胸に刺し通された傷で命を落とされたのでしょう。とにかく、惨殺に近い処刑でした。」そう話す。

渡辺省次長が力を入れたのは、省次長としての任務の一つ、紅匪の討伐である。敗戦と同時に紅匪は毛沢東を主席とする共産党八路軍を編成、「封建主義打倒」「農民開放」をスローガンとして中国の大地を掌握してきた。彼等は貧困にあえぐ中国民衆を救うために、赤旗の下、信念にもとづいて行動した。
渡辺省次長もまた、日本の政策に従って、未開の地に文明の光をあてることに意義を感じそれを正したいと信じて任務を遂行したのだ。だが、日本は戦いに敗れ、国家の責めを負って八路軍に処刑された。まさに、血を血で賠う結果となる。

「民衆裁判」
この言葉が日本人たちの心を暗くする。
「民衆裁判」は各会社、各工場の職工組合の中国人が参加して行う。この裁判には通訳がつけられないのが常であった。
対象となる日本人が観衆の前に引き出される。何人かの中国人が、被告の経歴と罪状を声高らかに読み上げる。それに対する証人が幾人か民衆に向かって訴える「訴苦(スーク)」。長い長い糾弾が続き、聴衆が早くどちらかに決まってほしいと思いはじめる頃、裁判長とおぼしき人物が姿を現し、「死刑」か「釈放」かと民衆に問いかける。判決は二つのうちどちらか。執行猶予はない。
群衆のなかに、あらかじめ幾人かの指導者が紛れ込み、裁判長の呼びかけに≪殺!≫と叫ぶ。それにつられて≪殺!≫≪打殺!≫の声が湧き上がる。死刑を望むシュピレヒコールが会場を埋めつくすと、それが判決になる。
「民衆裁判」は、いわば群集心理を利用し、被告を死刑にする「死の裁判」ともいえる。刑場は錦江山の坂を下りた所の競馬場。六道溝側にある満鉄の敷地で、駅近くの線路脇の広場などがあてられていた。銃弾に倒れた官民有力者の中には、かって湯池子温泉旅館の客だった人も多勢いた。その頃戦犯と知人であることさえ、はばかられる時期で、国民党運動をしている人とつきあいがあるだけで連行される。そんな中でお町さんは店を営業していた。

お町さんと近しかった浜崎氏の話。
「そんな寒い夜でした。逮捕された人たちのことが話題になったのは。≪司令部や東カン(土ヘン+欠)子は寒いだろうね。防寒用のもの、差し入れできないだろうか、突然言い出しました。≪日本の警察ならあったけど八路軍に通用するかどうか・・・≫と言うと、≪やってみなくちゃわからないでしょ。ついでに面会も頼んでみるわ≫
お町さん、簡単に言うんですよ。僕は正直言って不安でした。逮捕される時理由がわからないまま連行される場合が殆どだし・・。浜崎専務とお町さんが日本人会でつながりのあったこともか分かってる。浜崎さんは八路から追われている。もし、差し入れに行った相手が国民党運動員だったりするとこっちの命取りになりかねないのでね。
だが、お町さんは、「あたしなら一応女だから引っぱられることはないでしょ。ソ連接待の実績もあるし、店をやってるから、その関係で頼まれたといえば、つながりをごまかすこともできるわよ。とにかく行ってみるわ。」と後へは引かない。お町さんは女だから大丈夫と思いこんでいるが、反動分子に性別はない。それに、八路の目を逃れ、さすらいの旅をしている人たちに宿を提供している。頼まれたら断ることができないお町さん。考えれば他にも禁止令を犯しているかもしれない。


「あたしは、差し入れに挑戦するからね。明日から準備にかかってよ」とお町さんは言う。

安寧飯店は、ソ連軍撤退後、客足がかなり減る。が、開店当初に取り決めた通りの線で営業を続け、運営資金に余裕がでると、米を買い、市内に点在する難民の所に配った。
けれども余裕がなくなり、殆どそのすべを見出しかねていた時に、「白米、餅、味噌、醤油等々、それも少なからぬ量を荷車で持ってきてくれたグループの引率者が、現在の映画俳優・芦田伸介。その縁で、お町さん石碑の除幕式には芦田伸介も出席している。

昭和二十一年に入ると八路軍による国民党排斥運動はエスカレートする。邦人たちは「八路に協力するなら国民党びいきの人の名前を言え」と迫られ助かりたい一心で適当に名前を言う。密告は横行し、いつ引っぱられるかわからない不安な雲が安東を覆い、日本人同士でも信用できなくなる。安東の人たちの口は重くなり、情報も失われていく。お町さんにしてみれば、日本人でありながら、難民の救済は何一つせず、八路軍の手先になっている日僑工作隊の手先になっている連中に協力する気にはなれなかったのだろう。

「滿蒙終戦史」の記録より
「国民党地下組織と協力する旧日本軍除隊兵の一団が日本人密集地区である安東市五番通りで、昭和二十一年一月十八日午後二時、中共軍(八路軍)の劉日僑工作班長を銃殺した。司令部は非常に憤慨して、報復措置として、五番通り在住の500家族、約二千名の即時立ち退きを強行に要求し、全員をひとまず協和会館に収容し、その後安東競馬場に移し、四日間監禁した。ちょうど酷寒期であったので、収容中の幼児の死亡者二十五名を出した。

目撃者の話では
日本人たちが連行されたあと、八路兵が住宅をくまなく捜索し、家具や家財を没収してトラックで運びさった。
それを待ち構えていた中国人が無人の家になだれこみ、残らず品物を持ち出したという。建物は、新政府に願い出た中国人に払い下げになった。

マサコ・デイーンが語る夜明けの急襲
「二階の戸を叩く音には余りきがつきませんでした。逃げることになっていた竹富さんもその暇がないくらいでしたから。私の部屋に男の人たちが上がりこんでくるとすぐ母が来てくれました。≪この子は私の娘です≫
母があたしの前に立つと、拳銃が母を囲みました。母は私に≪あんたは廊下に出なさい≫命令調で言いました。でも、拳銃をつきつけられている母を残して部屋を出るのも気がかりで、それに、急に起こされて、拳銃を見たものだから、動けなくて。
母は、びくともしていませんでした。ふだん着に着替えていましたし。いつもの通りでした。二回位言われて廊下に出ていきました。それでも、母が気になるので、部屋の外に立ってました。男の人たちが、竹富さんのことを母に尋ねてました。母は何も答えませんでした。そしたら、≪あの男の証人としてお前も一緒に来い!≫と言ってるのが聞こえました。
部屋を出る母を見送ろうと思ってついていこうとしたら、母が黙って、振り返ると、≪来てはいけない≫というふうに首を横にふりました。母の目がうるんでいるのを見て≪はっ≫としました。でも、母はすぐ帰ってくると信じてましたから。
ソ連兵が来た時だって、≪私のことは忘れてくれ≫と言われたけど、無事に帰ってきましたもの。
・・・
私のことより、他人の世話ばかりする母を見てきましたから、そんな母がそれっきりになるとは夢にも思いません。
だから、私、母に何も言わずに・・・。
ふすまを開けたら八路兵が待ってましてね。母は拳銃に囲まれ出て行きました。階段のあたりで、≪わたし、連れて行かれますからね。あとのことは頼みましたよ・・・。≫足音の中から大声が聞こえました。それが、母の声を聞いた最後。
・・・
その後、芦田伸介に連絡をとると、「お町さん、東カン(土ヘン+欠)子監獄に入れられたそうです」とのこと。

一緒に東カン(土ヘン+欠)子に連行されていた若い板前の証言
「実は女将さん(お町さんのこと)、多分、殺されたと思います。二、三日前です。僕が門のそばの馬小屋で掃除をしていたら、女将さんが門の方に歩いてきます。釈放になるんだなとうらやましくなりました。自分はいつ帰してもらえるのだろうと思って女将さんを見送っていたら・・・。門を出た所で、八路兵が両方から現れて女将さんの腕をつかみました。それで、持ってた風呂敷包みが地面に落ちました。兵隊は風呂敷包みはそのままにして、女将さんは門から左のほうに連れていかれました。
まっ直か、右なら、安東の方になるんですが・・・。
荷物を拾いに行きたかったのですが、門をほんの少々出たところなので、それもできずどうしようかと思っていたら、銃声が二発聞こえました」

それ以後お町さんの消息は安東の街から消える。彼女の場合も遺体は発見されていない。
お町さんこと道官咲子。享年四十三歳。
戒名「寂道院釈尼ショウ(女ヘン+少)咲」
朝倉喜祐氏が贈る。

お町さん、浜崎巌氏、両者とも、証言によると処刑されたのは、はからずも≪東カン(土ヘン+欠)子監獄裏付近。戦犯で銃殺された人たちでも遺体が払い下げられた例は幾つもある。しかし、二人とも、遺体は払い下げられなかったばかりか多くの人たちの探索にもかかわらず発見されなかった。二人は激戦地で戦死した兵士のように、遺体を残していない。お町さん、浜崎巌さんは、共に日本人のために働き、敗戦が残した戦争の処理に尽力し、その渦中で命を落とした。やはり太平洋戦争の犠牲者と私(著者)は見る。そして、二人は壮烈な戦死を遂げた戦友であったと。

著者について
長瀬正枝(ながせ・まさえ)
一九三四年四月満州大連に生まれる。
二年後安東市に転居。
一九四五年八月十五日安東小学校五年一学期で敗戦。
翌年十月二十三日朝鮮経由で引揚、博多港上陸。
大牟田私立白川小学校、私立不知火女子中学・高校、県立大牟田北高、熊本女子大学国文科卒。名古屋市立猪子中学校教諭。
同人雑誌「裸形」同人。
作品
NHKラジオドラマ「密告」「逃げ水」「風紋のさざめき」「ある日曼荼羅寺」「もやい船」「婚期」「「美しき漂い」NHKテレビ「中学生日記」
                             文責・牧田

西暦 17年1月21日 土曜日 左足を引きずりながら 
 
 図面仕事が一件落着して、また一件・・。
 
 人生は実にエンドレスだが、それは、きょう死のうが30年後に死のうが、永遠の中の一瞬であることに変わりがないということである。そういう日常の中でオアシスとなってくれているのが焼酎とウイスキーと本。最近は藤沢周平の再読に夢中で、「密謀(みつぼう)・下巻」も終わりに近づいている。

 きのうは、坂井市某議員から電話が入り、今年六月のあわら市議選の動向、今後の見通しについていろいろ質問された。二月くらいから六月まで、いろいろ騒がしくなりそうだ。
 三年半前に市議を辞めたことによって、私の世界は、他人との対話から自身との対話にうつり、以来寡黙が代名詞の男となっているのだが、この期間だけ路線変更。

 百寿苑がこの三月で閉鎖となるのに伴い、とんぼさん夫妻の新しい住宅が私の別宅に決まった。この点でもあわただしくなりそうだ。

西暦 17年1月19日 木曜日 無題 
 
 西木正明著「(しば)れる瞳」はスタルヒン物語りと言っていいだろう。正月に再読を終え、ますますその意を強くした。
 スタルヒンとは、戦前戦後を通じてプロ野球・巨人軍に在籍し、年間42勝という途方もない記録をうちたてたビクトル・スタルヒンその人である。

 沢村栄治らと並ぶプロ野球黎明期の大投手で、日本プロ野球史上初の通算300勝を達成した、初の外国生まれの選手でもある。
 ロシア革命の際、革命政府(共産主義政府)から迫害される。一家は革命軍に追われながら、国境を越えて日本の支配下にあった満州のハルビンまで逃げ延びた。1925年、日本に亡命。日本への入国に必要な大金をなんとか支払い、北海道の旭川市へ。日本では無国籍の「白系ロシア人」となる。

 昭和八年七月三十日。
 スタルヒン率いる旭川中学は、甲子園出場を懸けて、北大グラウンドで野付牛中学と対戦した。野付牛中学の四番打者兼投手は田原完次・・この物語りのもう一方の主人公である。スタルヒンの投球は冴えにさえ、6回まで三者凡退の完全試合ペース。一般観覧席から野次が飛び始めた。「おいスタ公!お前、ここをどこだと思っているんだ。露助はさっさとロシアに帰れ」
 7回表野付牛中の攻撃になった時、ひときわ大声の野次が割込んだ。「スタ公!親父が人を殺して監獄に入っているちゅうのに、よくでかいツラして人前に出られるな!」
 
 この年の一月二十三日夜、スタルヒンの父コンスタンチンは、自分が経営している喫茶店「バイカル」の店員、マリア・ストカノアを刺殺し、旭川署に自首した。当時スタルヒン一家は、旭川の三条八丁目に家を借り、道路に面した部分を店舗に改修して、「バイカル」というミルクホールを開いて生計をたてていたのである。
 翌日の新聞は、殺されたマリアと同じ白系ロシア人のデミトリ・ゴレザトコフとの仲を嫉妬したコンスタンチンの犯行と、大々的に書きたてていた。
 さて、試合にもどる。
 
 こういう汚い野次の波状攻撃で動揺したスタルヒンは、コントロールを失い三者連続でフォアボールを出してしまう。要するに満塁となったのだが、ここで登場したのが、四番田原完次。


 昨日は、某病院階段の一階から七階までを何度か昇り降りしてとても疲れた。でも、快い疲れである。 


西暦 17年1月18日 水曜日 きょうの私は、某大病院に居た 

 西木正明著「(しば)れる瞳」はスタルヒン物語りと言っていいだろう。正月に再読を終え、ますますその意を強くした。
 スタルヒンとは、戦前戦後を通じてプロ野球・巨人軍に在籍し、年間42勝という途方もない記録をうちたてたビクトル・スタルヒンその人である。

 沢村栄治らと並ぶプロ野球黎明期の大投手で、日本プロ野球史上初の通算300勝を達成した、初の外国生まれの選手でもある。
 ロシア革命の際、革命政府(共産主義政府)から迫害される。一家は革命軍に追われながら、国境を越えて日本の支配下にあった満州のハルビンまで逃げ延びた。1925年、日本に亡命。日本への入国に必要な大金をなんとか支払い、北海道の旭川市へ。日本では無国籍の「白系ロシア人」となる。

 昭和八年七月三十日。
 スタルヒン率いる旭川中学は、甲子園出場を懸けて、北大グラウンドで野付牛中学と対戦した。野付牛中学の四番打者兼投手は田原完次・・この物語りのもう一方の主人公である。スタルヒンの投球は冴えにさえ、6回まで三者凡退の完全試合ペース。一般観覧席から野次が飛び始めた。「おいスタ公!お前、ここをどこだと思っているんだ。露助はさっさとロシアに帰れ」
 7回表野付牛中の攻撃になった時、ひときわ大声の野次が割込んだ。「スタ公!親父が人を殺して監獄に入っているちゅうのに、よくでかいツラして人前に出られるな!」


西暦 17年1月17日 火曜日 無題

 22年前の朝に勃発した阪神淡路大震災。
 一ヵ月後に宝塚市在住の友人の依頼で現地へ行き、見るもの聞くことに様々を感じたが、今思うに、昭和23年6月勃発の福井大震災当時母親の胎内での揺れで感じた恐怖感が、見聞印象の底にあったような気がする。

 阪神淡路大震災以降も幾つかの巨大地震が勃発し、その都度、被災状況を調査した建築構造学者達の手によって建築基準法が改正されてきた。つまり過去の地震による被災建物の多くは、現在の基準法に照らし合わせれば、基準をクリアーしていなかったということになる。

 大局的に考えるならば、人間の自然科学的進歩など大自然の猛威の前ではまことに無力な存在でしかないということで、例えばキリスト教ではアダムとイブが赤い林檎を食べたことでエデンの園を追われたことをもって原罪としているが、ものの本に拠れば、赤い林檎は火を比喩し森の中の樹上生物だったヒト族が地上に降りて森の動植物を焼いて食べることで勢力を拡大してきたということらしい。

 生きるも死ぬもすべて神の思し召しということでは、キリスト教も仏教もイスラム教も同じだと言えはしまいか。
 と、硬直に思ってしまう自分のアタマは、先が短かくなってきている分だけ気も短くなっているのかもしれないが、それでも今年にかける小さな幾つかの夢はある。
 昨日に坂ノ下区長宅へ行った時、坂ノ下区関係の古文書を見せられた。同時にあわら市が観光ガイドのスポットとしている場所の羅列を市情報(インターネット)の画面で見せられたのだが、坂ノ下八幡神社界隈がすっぽりと抜け落ちている。これでは明らかに片手落ちである。ここを市民に少しでも知ってもらいたい。
 

西暦 17年1月16日 月曜日  無題

 三日前からこのブログがアップロードできなくなっていたのですが、今朝再度試みたらできた。私の操作手順が間違っていたとも思えない。機械もたまにはストライキをおこすのだろう。機械が可愛らしく見える。
 
 土曜日の午後に来訪した女性から、パソコンコーナーの位置取りについて指摘されたことがヒントとなって、昨日の日曜日はコーナーの新しいレイアウトに挑戦。よけいなもの、例えば読み終えた本、飾りの板やCDなどを全て処分した結果すっきりとなり、とても使いやすくなった。今年一年、頑張ろう。

 きょうは、懸案の事項が解決できるかどうか正念場の日だ。桶狭間に臨む信長のような心境です。

西暦 17年1月13日 金曜日  無題

 年が明けて二週間。今年6月のあわら市議選に向けての何人かの立候補予定者の挨拶の声が既に聞こえてきている。今週末で立候補予定者が出揃うだろう。
 市議を辞めて三年半、本会議での一般質問のほとんどを傍聴してきたが、前回の選挙での当選者が公約としたことの言質が見られない事例もあって当然失望した。

  選挙とは立候補者と有権者との契約締結であり、ここに嘘があるのはおかしい。勿論、立候補者が有権者一人ひとりと膝附合わせての意見交換はできないのだから公約は大雑把なものにならざるを得ないのだが、しかし信念という軸足にぶれがあってはならない。
 
 市民の市政に対する考え方はさまざまで、契約締結の相手は各々その一部だ。ということは、信念を実行しようとすれば嫌われもするということで、これを甘受しなくてはならない。人は好かれる分だけ嫌われもするわけで、みんなから好かれる人などいるはずがない。

 これは、68年間生きてきた私の現在の心境。
 隆慶一郎著「見知らぬ海へ」・・再読だ。
 
 縄田一男の解説の冒頭を紹介
 「吉原御免状」「影武者徳川家康」そして「捨て童子・ 松平忠輝」等、様々な大作、快作を置き土産に隆慶一郎氏が幽冥境を異にされてから、早くも一年の歳月が流れた。
 私自身、昨年の九月十九日に、ある雑誌の対談で隆氏にお目にかかり、その縁で「捨て童子・ 松平忠輝」の解説を頼まれはしたものの、それから二ヵ月も経たぬ十一月四日に隆氏は肝不全で急逝、引き受けた解説が追悼文になろうとは、夢にも思っていなかった。隆氏の生前に、戦国の風雲児前田慶次郎を描いた「一夢庵風流記」での柴田錬三郎賞受賞が決まっていたのが、せめてもの贐だったといえよう。
 隆氏の作品は、どれも皆、伝奇的なスタイルをとりつつも、史実との徹底的な対決によってはじめられる最新の歴史学・民俗学の成果を踏まえたもので、歴史を虚構化するのではなく、虚構によって歴史を捉え直すのだという確かな視座に貫かれていた。・・
西暦 17年1月11日 水曜日 無題

 昨晩は四人が集まってのデイスカッション。
 テーマの一つが市村敬二氏講演について
 この講演の特徴は、不肖・牧田孝男が司会をするということである。よって、たくさんの女性の来訪が予想されるが、席はちゃんと確保しておきますので、是非ご来訪ください。

 きのうきょうの来訪者が高級ワインor高級清酒など計三本を持ってきた。何故持ってくるのだろうか。三年半前までの議員時代ならばわからないこともない。贈賄気分が理由となるからだ。でも今の私は一介の市民なのだから上述の理由に説得力はない。
 なんでもいい・・感謝しつつどんどん飲むだけだ。

 某市議が民報あわらを持って来た。

西暦 17年1月9日 月曜日  きょうは祭日

 昨日の日曜日午後は坂ノ下区の通常総会。
 総会の途中に、今年のあわら市議選に立候補を予定している二人(一人は新人、ひとりは現職)が挨拶に訪れた。あいさつなので内容になんの新鮮味もないのは仕方ないとしても、これならば、議員定数の削減を推し進めなければならないと、思う。

 総会終了後は親睦会。
 痛飲しつつ、市議選あるいは2年後の市長選に関する真偽ないまぜの噂を楽しんだ。いわゆる床屋談義である。

 充分に酔っぱらって帰宅。
 布団に潜り込み、山本一力著「いかだ満月」を読み始めた。
 文政年間に活躍した義賊・鼠小僧治郎吉が捕縛処刑されたあとの、縁者の生活が克明に描かれている

西暦 17年1月8日 日曜日 

 永畑道子著「雙蝶」を読み終えた。
 25歳で自らの生を閉じた北村透谷の生涯を追った本である。

 ひとつの枝に(ふた)つの蝶。
  羽を収めてやすらへり。

 露の重荷に下垂るゝ、
  草は思ひに沈むめり。
 秋の無情に身を責むる、
  花は愁ひに色褪めぬ。 
 言はず語らぬ蝶ふたつ
  (ひと)しく起ちて舞ひ行けり。

 うしろを見れば野は(さび)し、
  前に向へば風(さむ)し。
 過ぎにし春は夢なれど
  迷ひ行衛は何処ぞや。

 同じ恨みの蝶ふたつ
 重げに見ゆる(よつ)(はね)

 雙び飛びてもひえわたる
  秋のつるぎの恐ろしや
 ()()も共にたゆたひて
  もと来し方へ(しお)れ行く。

 もとの一枝(ひとえ)をまたの宿、
 暫しと憩ふ蝶ふたつ

 夕告げわたる鐘の音に、
  おどろきて立つ蝶ふたつ
 こたびは別れて西ひがし
 振りかへりつゝ去りにけり。   透谷「雙蝶のわかれ」

西暦 17年1月7日 土曜日 

 日本海軍医総監高木兼寛は、、日清・日露の戦いで兵士の死亡が戦死以外に脚気によるものが多いことの原因を兵士の食事=白米至上主義にあることを実証し、海軍の食事をパンあるいは麦食並びに肉類の摂取へと変更し、脚気の根絶を実現した。  彼は軍部全体の食生活の改善を声高に訴えるのだが、陸軍は頑として耳を貸さなかった。
 明治国家の夜明けとともに、日本が軍隊の範を仰いだ相手はドイツであり、東京帝国大学医学部の教授陣はドイツに留学し、細菌学者コッホの薫陶を得て、学理主義者だらけとなっていた。
 そして、陸軍の医官のトップは森林太郎(後の森鴎外)であった。高木は果敢にも既に文豪としても名を成しつつあった森に喧嘩を挑み続けた。結果として高木は四面楚歌となる。

 高木兼寛とはいったいどういう人物だったのか。
 大工の子として生れながらも、士農工商の身分制度が撤廃された明治国家の治政において、彼は医学を志した。
 慶応年間の戊辰戦争で、20歳の彼は薩摩藩小銃九番隊付の医者として新政府軍に随行する。


西暦 17年1月6日 金曜日 続き 

 吉村昭著「白い航跡 下」のオビから・・
 「日清・日露の戦役の影の勝利者は誰か
 脚気の原因説を巡り、高木兼寛は陸軍医部を代表する森林太郎(鴎外)と宿命的な対決をする。それは学理を重視するドイツ医学を信奉する東京帝国大学医科大学及び陸軍首脳と、患者の治療を重んじ実証主義に徹するイギリス医学に則る海軍首脳との抜き差しならぬ対立でもあった。
 この対決は日清・日露を経て両者の死語初めて決着した。」


西暦 17年1月5日 木曜日 昨日会った男性が今年3人目 

 昨日は、今年初めての図書館詣で。
 吉村昭著「白い航跡 上下」の背表紙が目についた。四年ほど前に読んでいるが、余りにも面白かったので再挑戦することとした。

 吉村昭著「白い航跡 上」のオビから・・
 「ここに旋律すべき数字がある
 日清戦争時、陸軍では戦死・戦傷死者合計の三倍以上の兵が脚気で死亡した。
 日露戦争では陸軍軍人中戦死者47,000人、脚気患者211,600人、脚気死亡者27,800人。
 しかし海軍では両度とも脚気患者は殆ど皆無であった。
 日本海軍から脚気を撲滅した初代海軍医総監高木兼寛の、不屈の信念と人類愛に貫かれた明治初年の青春を描く。」


西暦 17年1月4日 水曜日 

 さあ、本日が仕事始めだ。
 松の内くらいはテレビでも見ていようかと思ったのだが、あまりにものバカ騒ぎに辟易して、見たのは駅伝だけ。
 時折向かうCAD画面で、心の安定を維持していた。
 虹屋外観ほぼ完成
 

西暦 17年1月3日 火曜日 無題

 正月を、ユーチューブ「映像の世紀1~7」TV観戦で過ごしている。
 第二次世界大戦での死者は6000万人で、その内訳として軍人が2000万人、民間人が4000万人とのこと。無差別殺戮の恐怖を人類にもたらした張本人=アドルフ・ヒトラーはナチスのポーランド侵攻の時点で覚せい剤常習者でありかつアルツハイマー患者であったとのTV解説を聞くにつけ、アーリア人による世界征服、障害者の殺戮、ユダヤ人・ロマ民族の皆殺しつまりアウシュビッツ、共産主義者の殲滅等々の野望が透けてみえてくる。いつも不思議に思うのは、なぜ日本がドイツ及びイタリアとの間に三国同盟を結んだのかということであり、軍部の独走をなぜ当時のトップ政治家がとめられなかったかということである。
 「映像の世紀」に現われる生き地獄の映像は時折目を伏せずには見ていられなかった。
 
 今朝、初めて年賀状に目を通した。ここ十数年間年賀状を書いたことのない私(全て妻の代筆)でも、もらうのは嬉しい。
 福井市在住の語り部氏からの賀状は
 「酒と女を愛する文学青年? 今年もよろしくお願いします。」と書いてあったが、これでは私がいかにも女好きと誤解されてしまう。ちょっと困る、と思った。

 舘家の現在の当主からの「高重詩集朗読会では大変お世話になりありがとうございました」の賀状には心がほっこりした。

西暦 17年1月2日 月曜日  仲代達矢

 作日は元旦で、来訪客は二名。彼らが帰ったあと、手土産の高級ワイン及びつまみの天婦羅で、仲代達矢主演・「果し合い」を観ていた。

 仲代が主演であることよりも、原作者が我が恋人・藤沢 周平であることによるテレビ観戦。余計なことだが、私には仲代に対する特別な思い入れがある。

 今から五十年前の学生時代。大学の薄暗がりの階段二階から三階を歩いていた私は二年先輩のO氏に突然呼び止められた。
 
 まじまじと私の顔を見つめる彼から、「君は仲代達矢そっくりだね」と、言われた。
 彼は絵師であり審美眼に狂いはない。
 私はドキッとした。
 私の顔は確かに秀麗だが、ただそれだけであり、仲代のような複雑な陰影を持ち合わせている自信は毛頭ない。
 「容貌で人が判断されるのは間違いのもと」が、座右の銘になった瞬間でもあった。
 
西暦 17年1月1日 日曜日  昨晩

 除夜の鐘が鳴り始めたころ、氷雨をついて坂ノ下八幡神社へ向かった。
 拝殿に座る神社会計の老人二人に玉串料を渡し即帰ろうと思ったのだが、「マアマア、清酒を飲んでけよ」と誘惑され拝殿に同座した。
 2017年の始まりと共に区民の顔が増え始めた。賽銭を箱に入れ二礼二拍手で参拝する相手が自分ということになり、これは初めての体験だった。
過去日記